---
title: "法華義疏 · 22 囑累品"
description: "法華義疏由隋代高僧吉藏大师撰述。吉藏是汉传佛教三论宗的实际创始人，其思想承袭龙树中观学说。该疏乃针对《妙法莲华经》的权威注疏，以二谛、中道思想阐释一乘真实、会三归一的深义，并破斥诸家异解。此疏体系严密、义理深邃，集中体现了三论宗的判教思想和解经特色，是研究《法华经》及隋代佛教思想的重要文献，对后世天台宗等宗派亦产生深远影响，在佛教哲学史上具有崇高地位。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmczkswkb0nzjjj04ubvzzdcs"
---

### 囑累品第二十二

> 嘱累品 第二十二

自上已來明稱歎流通，今次辨付屬流通。

> これまで、智慧第一の舎利弗の称賛を明らかにし、教えの流布について説いてきました。ここからは、仏の教えを託し、後世に伝える「付属流通」について明らかにします。

問：

> お尋ねします。

小乘辨佛永入無餘不復化物，可須付囑；此經明法身常存有感斯應，何故明付囑耶？

> 小乗の教えでは、仏は永遠に無余涅槃に入り、再び人を教化することはないと説きます。そのため、教えを託すことが意味を持つのです。しかし、この経典は、法身が永遠に存在し、感応すれば必ず応えると明かしています。それならば、なぜ「付嘱（教えを託すこと）」を説くのでしょうか。

答：

> お答えします。

有三因緣：一者、時眾聞佛慇懃付囑則重法情深各欲宣持。二、付諸菩薩即令其自行化他。三者、眾生於菩薩有重緣，故令其弘法化物。

> 三つの理由があります。第一に、仏が熱心に付嘱されたことを聞いた人々は、教えを重んじる心が深くなり、各々が宣説し受持したいと願うからです。第二に、菩薩たちに付嘱することで、彼ら自身が修行し、他者を教化するように導くためです。第三に、衆生は菩薩と深い縁があるため、その菩薩に法を広め、人々を教化させるためです。

亦開二別：一者、此品正明付囑；第二、〈藥王〉已下，奉命宣通。所言「囑累」者，囑謂付囑，累謂憑累。但囑累有二：一、以法付人，謂以大乘妙法付諸菩薩。二、以人付人，以二世眾生付囑四依菩薩，如《金剛波若論》以根未熟菩薩付囑根熟菩薩。今具此二也。《智度論》云「《波若》非祕密法，付囑聲聞；《法華》是祕密法，付囑菩薩」。《論》自釋云「《波若》未明羅漢作佛，但明菩薩作佛，其言易解，故聲聞能通，宜付囑聲聞；《法華》明阿羅漢成佛，於昔教為甚深，聲聞未解，故付囑菩薩」。

> また、ここで二つの区分を設ける。第一に、この品は正しく付嘱を明らかにするものである。第二に、〈薬王〉以降は、命を受けて教えを広く伝えることを述べる。ここで言う「嘱累（しょくるい）」とは、「嘱」は「付嘱」を意味し、「累」は「憑累（たのむこと）」を意味する。ただし、嘱累には二つの種類がある。第一に、法を人に付嘱すること、すなわち大乗の妙法を諸菩薩に託すことである。第二に、人を人に付嘱すること、すなわち未来二世の衆生を四依の菩薩に託すことであり、これは『金剛般若論』において、根の未熟な菩薩を根の熟した菩薩に付嘱すると説かれているのと同じである。今、この経ではこの二つを共に備えている。『大智度論』には、「般若経は秘密の法ではないので声聞に付嘱し、法華経は秘密の法であるので菩薩に付嘱する」とある。同論は自ら解釈して、「般若経は阿羅漢が仏となることを明かさず、ただ菩薩が仏となることを明かすのみであり、その言葉は理解しやすいので、声聞も通じることができ、よって声聞に付嘱するのが適切である。法華経は阿羅漢が成仏することを明かし、従来の教えにとっては非常に深いものであり、声聞には理解できないので、菩薩に付嘱する」と述べている。

品開為三：初、佛付囑；二、菩薩受付；三、明說經事竟。三文各二。初文二者：第一、摩頂付屬。而言「現大神力」者，有人言：即是前品七種神力。今謂不爾。釋迦以數尺之手一時遍摩千世界塵數菩薩頂，神力之大亦莫其如斯也。「而作是言」者，前現大神力謂意業付囑，以手摩頂謂身業付囑，今明口業也。「難得菩提」者，歎菩提難得，欲令物尊重法也。此經明二權二實，今總言菩提者即一正觀，正觀縱任自在故名為乘，即初分經；能長短適化名為壽量，謂後分經也。今總言菩提即攝二分。「所以者何」下，第二、釋囑累意，即是示宣通之方。宣通之方凡有三種：一者、令上學諸佛；二者、令下知根性；三者、具此二義，法無不弘、人無不益，為報佛恩。如來內有三德：一、有大慈悲常欲拔苦與樂。二、無諸慳悋不藏惜法寶，此二即是佛功德業也。「亦無所畏」者，第三句，明智慧業。內具此三德，外與眾生三種智慧。佛之智慧照有慧也，如來智慧照空慧也，自然智慧空有二種任運能知，即無功用慧也。此之三慧，攝慧義盡。此經雖明二權二實，意在攝入佛慧，故偏說之。「汝等亦應隨學」者，上明內有三德、外與三慧，今勸菩薩學之。「勿生慳悋」者，慳有五種：一、住處慳；二、家慳；三、施慳；四、稱歎慳；五、法慳。法慳有七過：一、世世常盲；二、生生愚癡；三、常在怨家中生；四、失聖胎；五、三世佛怨；六、善人遠離；七、無惡不造。有此重過故偏誡之。

> この章は三つに分けられます。第一に仏の付嘱、第二に菩薩が付嘱を受けること、第三に経典の説法が終わったことを明かすことです。この三つの文はそれぞれさらに二つに分かれます。最初の文の二つとは、第一に頭を撫でて付嘱することです。「大神力を現す」と言うのは、ある人は言います「これは前の品の七種の神力である」と。今、私はそうではないと考えます。釈迦は数十センチの手で、一時に千世界の塵の数ほどの菩薩の頭を撫でました。その神力の大きさはこれに及ぶものはありません。「そして言葉を発して言う」とは、前に大神力を現すことは意業による付嘱であり、手で頭を撫でることは身業による付嘱であり、今ここで口業を明かすのです。「菩提を得難し」とは、菩提を得ることが難しいことを嘆き、人々に法を尊重させようとするものです。この経典は二つの権と二つの実を明かしますが、今、総じて菩提と言うのは一つの正しい観察です。正しい観察は自由自在であることから乗（乗り物）と名付けられ、これが前半の経典です。長短に応じて教化できることを寿量と名付け、これが後半の経典です。今、総じて菩提と言うのは、この二つの部分を含んでいます。「その理由は何か」以下の第二の部分は、付嘱の意味を解釈したものであり、つまり教えを広める方法を示しています。教えを広める方法には三種類あります。第一に、諸仏に学ぶこと。第二に、众生の性質を知ること。第三に、この二つの意味を備えれば、法は弘まらないことはなく、人は利益を得ないことはなく、仏の恩に報いることができるということです。如来には内に三つの徳があります。第一に、大いなる慈悲があり、常に苦しみを取り除き喜びを与えたいと願うこと。第二に、惜しみけちることがなく、宝物である法を隠し持たないこと。この二つは仏の功徳の業です。「また何も恐れない」という第三の句は、智慧の業を明かします。内にこの三つの徳を備え、外で众生に三種類の智慧を与えます。仏の智慧は「有」を照らす智慧です。如来の智慧は「空」を照らす智慧です。自然の智慧は、空と有の二つを自然に知ることができる智慧であり、すなわち無功用の智慧です。この三つの智慧で、智慧の意味はすべて尽くされます。この経典は二つの権と二つの実を明かしますが、その意図は仏の智慧に導き入れることにあり、そのため特にこれを説いています。「あなたがたもまた随って学ぶべきである」とは、上で内に三つの徳があり、外で三つの智慧を与えることを明かし、今、菩薩にそれを学ぶよう勧めているのです。「惜しみけちってはならない」とは、けちには五種類あります。第一に、住処に対するけち。第二に、家に対するけち。第三に、施しに対するけち。第四に、称賛に対するけち。第五に、法に対するけちです。法に対するけちには七つの過ちがあります。第一に、生まれ変わるたびに常に盲目であること。第二に、生まれるたびに愚かであること。第三に、常に怨みのある家に生まれること。第四に、聖なる胎を失うこと。第五に、三世の仏の怨みとなること。第六に、善人から遠ざけられること。第七に、悪を造らないことがないことです。このような重大な過ちがあるため、特に戒めているのです。

「於未來世」下，第二、勸下知根性。凡有二句：一者、明有大心人宜授以實說；二者、若有眾生不信一乘當為說三乘教。「汝等若能」下，第三、若能上學佛二德、下知兩機，則通法利人，謂報佛恩也。

> 「未来の世において」という部分の下、第二に、衆生の根性を知るよう勧める。全体で二つの句がある。一つは、大乗の心を持つ人には、真実の教えを授けるべきであると明かす。二つ目は、もし一乗（唯一の教え）を信じない衆生がいるなら、三乗（三つの教え）を説くべきであるということ。「汝等（なんじたち）もし能（よ）く」という部分の下、第三に、もしも上の仏の二徳を学び、下の二つの機根（衆生の性質）を知ることができれば、それは法を広め人を利する者であり、仏の恩に報いることとなる。

問：

> お尋ねします。

文云「若有眾生不信受者，即於如來餘深妙法中為說」，然小乘三藏非是深妙，大法即是大乘，云何別有餘深妙耶？

答：

方等有二：一者、大乘；二者、一乘。餘法即是大乘。

問：

何故信大乘不信一乘耶？

答：

有二種人信大乘不信一乘：一者、是小乘信《大品》等，以《大品》等雖是大乘，未廢小乘，故小乘信大乘自是菩薩法，信小乘是聲聞法。二者、新學菩薩亦信《大品》，云《大品》明菩薩法，為說《大品》等，是我等所行，非二乘所行也。

問：

小乘人既不信一乘，何故信《大品》等大乘？

答：

《大品》等密令捨小、密令信大，如前〈信解品〉中密大乘有自他兩教也。亦為新學菩薩說《大品》，令密信一、密捨三也。

「時諸菩薩」下，第二，菩薩受付。亦開兩別：第一、一稱受付。「諸菩薩」下，第二、三過順旨。一一文中皆具三業受付：初、內心歡喜；二、身業恭敬；三、口業順從。「爾時釋迦」下，第三、明說經事畢。亦開二別：一、釋迦令諸佛各還所在；二、大眾欣慶。

問：

何故令分身各還本土，多寶獨稱還可如故耶？

答：

一多之疑易斷故令分身散席，常滅之惑難破故多寶獨停。「如故」者，直令閉塔，未遣還土也。次、大眾歡喜，如文。

問：

何故歡喜？

答：

從經初至〈囑累品〉明佛所乘法、能乘人究竟，故大眾歡喜。下〈藥王品〉乃明菩薩所乘法、能乘之人，故〈囑累品〉在中間也。