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title: "佛本行集經 · 26 問阿羅邏品"
description: "佛本行集經是隋代高僧闍那崛多翻譯的一部重要佛教經典，屬於佛陀傳記類文獻。該經詳細記載了釋迦牟尼佛從誕生、出家、成道到涅槃的完整生平事蹟，內容涵蓋佛陀前世因緣、降生王宮、四門出遊、捨棄王位、苦行悟道、初轉法輪等重要事蹟。闍那崛多作為隋代著名譯經師，其譯本語言流暢，保存了印度佛教原始風貌。此經在漢傳佛教中具有重要地位，是研究佛陀生平及早期佛教思想的重要典籍，為後世佛教史傳文學的發展奠定了基礎，對佛教修行者理解佛陀教法具有指導意義。"
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## 佛本行集經卷第二十一

> 佛本行集経 巻第二十一

隋天竺三藏闍那崛多譯

> 隋の天竺三蔵僧侶、闍那崛多訳

### 王使往還品下

> 王の使いの往還の章（下）

「『時，淨飯王復如是言：「我智慧子！汝今雖於諸親族邊無愛戀心，但取我意，還來向家，勿令我今為於汝故，憂愁懊惱，取於命終。善子！凡人行法行者，皆於一切諸眾生邊生慈悲心，如是乃得名為法行，豈但獨自身入深山，始名法行？所以者何？我昔曾聞，往古已來，或有諸人，在自己家，不脫瓔珞種種嚴身，長養鬚髮，具足功德，求解脫故，在於家內，亦能得於解脫之法。凡是修習解脫行法，唯須智慧及以精進，如此即是解脫正因。汝今違我而入山者，如此乃是避於五欲驚畏之法。然其彼等諸人在家，以諸瓔珞莊嚴自身，得解脫者，今當為汝，略而說之。昔有仁者，名曰隨常，仁者力金剛，仁者多有，仁者流行，仁者大富，仁者邊天，又復有於毘提訶國王，名能生耶耶底王隋言行行，仁者淨仙，又羅摩王隋言作喜，有如是等無量無邊在家諸王，悉得解脫。汝今須知，在於家中求解脫法，亦能令得，未必出家。是故汝可速來還家，滿二種願：一汝得受五欲之樂；二令我心常得歡喜。凡世間人，受王位者，若令心得如願功能，是名真王。我今能為汝滿此願，王位難捨，我為汝故，此難捨事能捨與汝灌於汝頂。汝若建立如是因緣，則我歡喜，便即辭退，捨世出家，入山求道。」』而說偈言：

> 「その時、浄飯王は再びこう言われた。「わが智慧の子よ。おまえは今、親族たちに対して愛情の心を持たないかもしれないが、どうか私の思いを汲み取って、家に帰ってきておくれ。私がおまえのために憂い悲しみ、心を悩ませて命を終えることがないように。善い子よ、人は皆、修行をする者はすべての生きとし生けるものに対して慈悲の心を起こすもの。そうして初めて『法の修行』と呼ばれるのだ。ただ一人で深山に入ることだけが『法の修行』というわけではない。なぜなら、私は昔から聞いてきた。遠い昔から、ある人々は自分の家にいながら、様々な装飾品を身につけず、髪や髭を伸ばしたままで、完全な功徳を備え、解脱を求めて家の中で修行し、解脱の法を得ることができたのだ。およそ解脱の修行法を修めるには、ただ智慧と精進が必要なだけ。これこそが解脱の正しい因縁である。おまえが私に逆らって山に入るのは、これは五欲の恐れから逃れるための方法に過ぎない。しかし、それらの人々が家にいて、装飾品で身を飾りながら解脱を得た話を、今からおまえのために簡単に話してあげよう。昔、仁者があり、名を随常といった。仁者、力金剛。仁者、多有。仁者、流行。仁者、大富。仁者、辺天。また毘提訶国の王、能生という者がいた。耶耶底王（注：行行という意味）、仁者、浄仙。また羅摩王（注：喜を作すという意味）もいた。このように無量無辺の在家の王たちが、みな解脱を得たのだ。おまえは知るべきだ。家の中で解脱の法を求めることも、解脱を得ることができる。必ずしも出家する必要はない。だから、おまえはすぐに家に帰ってきて、二つの願いを満たしなさい。一つは、おまえが五欲の楽しみを受けること。もう一つは、私の心が常に喜びに満たされること。世間の人々で王位を受ける者は、もし心のままに願いを叶える力を持つなら、それを真の王と呼ぶ。私は今、おまえのためにこの願いを満たすことができる。王位は手放し難いものだが、おまえのために、この手放し難いものをおまえに譲り、おまえの頭に灌頂しよう。おまえがこのような因縁を立てるならば、私は喜び、すぐに辞して世を捨て、出家して山に入って道を求めるだろう。」そして偈を唱えて言った。

「『王位親密實難捐， 今悉割斷持付汝，見汝堪治世間故， 我生歡喜即入山。』

> 「王としての位は親しくとも、実に手放し難いもの。しかし今、そのすべてを断ち切ってお前に委ねよう。</row><row>お前が世の中を治めるにふさわしいと見たからこそ、私は喜びとともに入山するのだ。」</row>

「爾時，大臣并及國師婆羅門等，宣淨飯王如是口勅所說之偈，悉具委曲諮菩薩已，復更別以三種事意，諫菩薩言：『大智聖子！此是聖子父王淨飯，流淚嗚咽，向我等勅酸切之語。是故聖子！今聞父王如是苦勅，堪應供養恭敬父勅，不得違逆。聖子父王，今以沒溺大深苦河，無人能拔出於智岸，唯有聖子，能作救護，堪拔彼苦。猶如墮於最極深水，唯大船師乃能拔出。如是如是，聖子父王，今以沒深大苦惱海，更無有人能拔出者，唯聖子耳。又復聖子，小嬰孩時，增長養育，唯憍曇彌，兼其復是聖子姨母，莫令孤寡，使其命終。今為憶念於聖子故，受大苦惱，譬如牸牛失犢子故，悲喚而鳴。如是如是，彼憍曇彌，以眼不見於聖子故，悲苦嗚咽，常恒啼哭，是故聖子，不應捨離。復以往昔養育之恩，猶如彼牛愛戀其子，并及宮內婦女眷屬，亦然受苦。又迦毘羅城內，一切釋種男女人民大小，為愛聖子心煎迫故，被苦惱火之所燒然。是故聖子！今可還家見於彼等，譬如大地被焚燒時，在上諸天，降大甘雨，滅彼燋熱苦劇之火。』

> その時、大臣たちと国師バラモンらは、浄飯王がおおせられた偈を、細大漏らさずすべて菩薩に伝え申し上げた。そしてさらに、三つの異なる思いをもって、菩薩を諫めて言った。 「大いなる智恵の聖子よ。これは聖子の父王、浄飯王が、泪を流し声を詰まらせながら、私たちにおおせられた、痛ましいほどの切なる言葉でございます。それゆえ聖子よ。今、父王のこの苦しいお言葉を聞かれたなら、父王の勅命を敬い尊び、それに仕えるのが相応しく、決して背くことなどあってはなりませぬ。 聖子の父王は、今まさに深い苦しみの大河に溺れておられます。誰一人として、その方を智恵の岸へと引き上げることのできる者はおりませぬ。ただ聖子おひとりだけが、救いとなり、その苦しみを抜き取ることがおできになるのです。ちょうど、最も深い水に堕ちた者を、すぐれた船長だけが救い出せるように。まさにその通り、聖子の父王は、今、大きな苦しみの海に沈んでおられ、他に誰も救い出せる者はいません。ただ聖子おひとりだけです。 また、聖子が幼い赤子であられた時、育て養われたのは、ただ憍曇彌だけでございます。そして彼女は聖子の母君の妹君でもあられます。どうか、その方を孤児のように取り残し、命を終えさせることのないように。 今、彼女は聖子のことを想い慕うあまり、大きな苦しみを受けられています。たとえば、乳牛が子牛を失って、悲しみに叫び鳴くように。まさにその通り、憍曇彌は聖子の姿を見ることができず、悲しみのあまり声を詰まらせ、絶え間なく泣き暮らしておられます。それゆえ聖子よ。どうか彼女を見捨てられませぬように。昔からの育ての恩もあり、彼女はまさにわが子を愛する牛のようなものです。 また、宮殿の中の婦女たちや眷属たちも、同じように苦しんでおります。さらに迦毘羅衛の都の中の、すべての釈迦の種族の人々、男女、老いも若きも、聖子を慕う心に胸を焦がされ、苦しみの炎に焼かれています。 それゆえ聖子よ。今こそ家に帰り、彼らの姿を見られませ。たとえば、大地が燃え盛るとき、天の上の諸々の神々が、大いなる甘い雨を降らせて、苦しい焦熱の炎を消し止めるように。」

「爾時，菩薩聞父王使如是語已，少時思惟，以調身心口喘氣已，報使人言：『我亦久知，人父向子皆有愛心，我知我父淨飯大王，向於我邊極大憐念憶戀著心。我今但以怖畏世間生老病死，自身見沒，豈能救沈？欲求度脫，故捨離彼諸眷屬耳。誰復樂捨此之親愛，可不欲得恒相見也？若世間中無愛別離，誰不樂世？雖復久住共諸親聚，會當別離，是故我今捨於一切所愛親族及以父母，志求菩提。若汝所言，因愛我故，致令父王生大苦惱。我聞此言，實不戀著如是恩愛。所以者何？譬如有人，於睡眠中，夢見親愛聚集合會，覺還別離，若是凡人，不解方便，心生苦惱，此是無識愚癡眾生。若有智人，能自思念，親愛合會，猶如路行，道上結伴，相與共行，隨逐近遠，到所至處，各散還本。以是事故，親愛眷屬，聚集有離，何須愁惱？又前世時，曾為眷屬，捨已來此；此處眷屬，捨至後世；後世捨已，復至後世；如是展轉，更互相捨，此諸眷屬，愛戀之心，從何處來？去至何處？凡世間人，從初受胎，至一切處，如是念念剎那時間，悉皆有於死命鬼逐。如此何者？是時非時。今乃語我：「我子即今非是入山求道之時。」何況在家受五欲時？若當問我時非時者，今當略之。所以者何？彼死命鬼，於一切時，攝諸眾生，無不攝時，是故我今欲求離彼生老病死，以如是故，無時非時。』

> 爾の時、菩薩は父王の使がこのように語ったのを聞いて、しばし思いを巡らせ、身・口・意の動きを整え、呼吸を落ち着けてから、その使いに告げた。「私もまた、久しく知っていたことだ。父母が子に向ける愛の心を。我が父・浄飯王が、私に対して限りない愛情と深い慕情を抱いておられることは、よく分かっている。しかし私は、この世の生・老・病・死を恐れている。自分自身がすでに沈みゆく者であるのに、どうして他人を救い出せるだろうか。私は解脱を求めるがゆえに、あえて愛する家族のもとを離れたのだ。誰が進んでこの親しい絆を手放したいと思うだろうか。いつも顔を合わせていたいと思わない者などいるだろうか。もしこの世に愛する者との別れがなければ、誰がこの世を楽しもうとしないだろうか。たとえ長く親族と共に暮らしても、いずれは別れが来る。だからこそ私は、愛する家族や父母をすべて捨てて、悟りを求めているのだ。あなたの言うように、私を愛するがゆえに父王が大きな苦しみを抱いておられるという。その言葉を聞いても、私はそのような恩愛に執着することはない。なぜなら、たとえば人が眠りの中で愛する者と集い合う夢を見て、目覚めればまた別れとなる。もし凡夫であれば、その道理を知らずに心に苦しみを生じる。それは無知で愚かな衆生の姿だ。もし知恵ある人であれば、自ら思いを致すだろう。愛する者との出会いは、あたかも旅の道中で、道連れに出会い、共に歩み、進むにつれて、それぞれが目的の地に着けば、各々が元の場所へと帰っていくようなものだと。そのようなわけで、愛する親族との集いもまた、必ず別れを伴うものだ。何を憂い苦しむ必要があろうか。また前世においては、共に親族であった者たちも、その身を捨ててここに生まれ変わってきた。この世での親族も、この身を捨てて後世へと去り、後世でその身を捨てた後は、また次の後世へと至る。このようにして次々と、互いに捨て合い、移り変わっていく。これらの親族に対する愛執の心は、いったいどこから来て、どこへ去っていくのか。世の中の人は、初めて母胎に宿った時から、至る所で、その一瞬一瞬の刹那の間に、死の鬼に追われている。それならば、いったい何が『時』であり、何が『時ではない』のか。今さら私に『今は山に入って道を求める時ではない』と言うのか。ましてや在家のまま五欲を楽しんでいる時に、そんなことが言えるだろうか。もし私に『時』と『時でない』ことを問うならば、今ここで簡潔に答えよう。それはなぜか。あの死の鬼は、いかなる時であっても、すべての衆生を捕らえ、捕らえぬ時はないからだ。それゆえ私は、生・老・病・死から離れようと願っている。そのようなわけで、私にとって『時ではない』ということはないのだ。」

「菩薩復言：『若當我父，喚子但來，我必與子灌頂王位。我父必有大弘願心，如是難事易能與我，可惜於道令我不修。但我不欲受此王位，親愛繫縛非解脫道。譬如患人不思美食，云何智人貪是世樂？其無智想愚癡之身，大有苦惱故，乃能受此王位耳。既居王位，放逸自在，耽荒酒色不能捨離，譬如金屋猛火熾然，譬如美漿和諸毒藥，譬如花沼而有蛟龍。如是如是，王位快樂，意所娛樂，諸患隨逐，不覺不知。以是因緣，我今不樂，亦非是法。』而說偈言：

> 菩薩はまた言われた。「もし私の父が『子よ、ただ来なさい。必ずお前に灌頂の王位を授けよう』と言われても、父にはきっと大きな広大な誓願の心があるので、そのような難しいことも容易に私に与えてくださるでしょう。しかし、それならば道を捨てて修行しないのは惜しいことです。私はその王位を受けたいとは思いません。親しい愛着の絆は解脱の道ではないからです。たとえば病人が美味しい食物を望まないように、どうして智ある人がこの世の楽しみを貪るでしょうか。智のない愚かな身には多くの苦悩があるので、それゆえにこの王位を受けられるのです。王位に就けば、放逸で自在であり、酒と色に耽って捨て離れることができません。たとえば金の家に猛火が燃え盛るようなもの、たとえば美しい飲み物に毒薬が混ぜられているようなもの、たとえば花の池に竜がいるようなものです。このように、王位の楽しみは心を楽しませるものですが、さまざまな患いが付きまとって、気づかず知らないのです。このような因縁により、私は今、それを楽しむことはありません。それは正しい法でもありません。」そして次の偈を説かれた。

「『譬如金屋火熾盛， 如食甘美毒藥和，如滿池花有蛟龍， 王位受樂後大苦。』

> 「たとえば、金の家が火で激しく燃え盛るようなもの、 美味しい食べ物に毒が混ぜられているようなもの、 花いっぱいの池に竜が潜むようなもの、 王位の楽しみも後には大きな苦しみとなるのです。」

「爾時菩薩說是偈已，復作是言：『以如是故，往昔諸王得王位已，年少之時治化受樂，後至老年厭離五欲，棄捨宮殿便入山林。凡人寧當在於山林，食草活命，不居宮殿受五欲樂，如養黑蛇，後受其殃。初受樂時，不知患害，後時瞋發，遂便螫人。寧捨居家，入於山林，莫捨山林，還入家居。何以故？為於先聖所譏嫌故。我今既得生於善家，應修善法，莫如癡人行不善法，自縱恣心。既剃鬚髮，著袈裟衣，止住山林，修道學問。而彼於後，捨袈裟衣，不懷慚愧，是名無羞愚癡之人。或為貪故，或為瞋故，或為癡故，或為畏他，如是反退。我今不羨天帝釋宮，況復還欲入自己宅？譬如有人已得美食，食訖已後，吐變此食棄之於地，復欲還喫，可得以不？如是如是，若人捨彼五欲出家，或為諸緣，還欲入家，亦復如是。譬如有人已離火宅，還欲入來。如是如是，已見俗患，捨白衣形，入山修道，迴還亦爾。』而說偈言：

> このように菩薩が偈を説き終えて、さらにこう言われました。 「このようなわけで、昔の諸王は王位を得た後、若い間は世を治めて楽しみを味わいましたが、年を取ってからは五欲を厭い離れ、宮殿を捨てて山に入りました。人はむしろ山の中で草を食んで命をつなぐべきであって、宮殿に住んで五欲の楽しみを受けるべきではありません。それは黒い蛇を飼うようなもので、後になってその災いを受けるのです。最初に楽しみを受ける時には、その害に気づきませんが、後になって怒りが発すると、すぐに人を噛みます。 むしろ家を捨てて山に入るべきであって、山を捨てて家に帰るべきではありません。なぜなら、それは先聖たちに非難される行為だからです。私は今、善い家に生まれることができました。善い法を修めるべきであって、愚かな人のように不善の法を行い、自分の心を放縦にしてはなりません。 すでに髪や鬚を剃り、袈裟を着て、山に留まって修道し学問しているのに、その後に袈裟を捨てて、慚愧の心も持たない。これを恥を知らない愚かな人というのです。あるいは貪りのために、あるいは怒りのために、あるいは愚かさのために、あるいは他者を恐れるために、このように退転するのです。 私は今、天帝釈の宮殿をも羨ましく思いません。ましてや自分の家に戻ることなどありえましょうか。例えば、人が美しい食べ物を得て、食べ終わった後に、それを吐き出して地面に捨てたとしましょう。それを再び食べたいと思うことがありえましょうか。まさにその通りです。人がその五欲を捨てて出家したのに、何らかの縁によって再び家に帰りたいと思うのも、同じことです。 例えば、人がすでに火の家を離れたのに、また戻って入ろうとするようなものです。まさにその通り、すでに俗世の患いを見て、白衣の姿を捨て、山に入って修道した者が、また家に戻るのも同じことです。」 そして、この偈を説かれました。

「『如人捨於火宅走， 後時忽復更迴還，既見俗患離出家， 從林反歸亦如是。』

> 「人が火宅を捨てて走り出ても、 　後になってふと再び戻ってくることがあるように、 　俗世の苦しみを見て出家した者が、 　林から再び戻ってしまうのも、また同じことである。」

「爾時菩薩說此偈已，告二使言：『汝等前稱父王所說，往昔諸王在家修法得解脫者，此事不然。何以故？此之二事，因緣相乖，甚大懸遠。所以者何？求解脫人，其心寂定，微妙之處，乃得居停。若在宮中，五欲情蕩，出外治民，須行鞭捶瞋責罪罰，於是心中，求解脫者，無有是處。若人意樂無為寂靜，彼則不貪世間王位，設在位時，應須捨離；若樂王位，其人心意，不能寂靜。若樂寂定，復貪世務，此二相乖，天地懸遠，譬如水火不得共居。如是如是，求解脫法，復著五欲，終無是處。是故我今決定知彼往昔諸王，捨王位已然後乃得寂定之法。若居王位教化之時，其智未成，且學用心治理民耳，不必專求解脫之法。其事雖然，彼等諸王，各隨其意，或求解脫，或受五欲；我今不然，不學彼等，亦復不曾發如此心。我今已斷住家欲鏁，得於解脫，不復貪著世間五欲，豈得還家？』

> この時、菩薩はこの偈を説き終えて、二人の使者に告げられた。「あなたがたは先ほど、父王がおっしゃったことを述べた。昔の諸王は在家のままで修行して解脱を得たと。しかし、その考えは正しくない。なぜなら、この二つのことは互いに相容れず、その隔たりははるかに大きいからである。どういうことか。解脱を求める者は、その心が静まり、微細な境地に留まるのである。しかし宮中にいれば五欲に心が揺れ動き、外に出て民を治めるには、鞭や罰を用いなければならない。そのような心の状態で解脱を求めることは、決してありえないことである。もし人が無為の寂静を喜ぶなら、その人は世間の王位を貪らない。たとえ王位にあったとしても、それを捨て去るべきである。もし王位を楽しむなら、その人の心は寂静でありえない。寂静を楽しみながら、また世務を貪るということは、この二つは相反し、天と地のように遠く隔たっている。たとえば、水と火が一緒に住めないようなものである。まさにそのように、解脱の法を求めながら、なお五欲に執着するということは、決してありえないことである。それゆえ、私は今、はっきりと知った。昔の諸王は、王位を捨てて後に、寂静の法を得たのである。もし王位にあり教化している時には、その智慧はまだ完成されておらず、ただ心を用いて民を治めることを学んでいたにすぎず、必ずしも解脱の法を専ら求めていたわけではない。事はそのようであるが、それらの諸王は、それぞれ自分の意に従って、ある者は解脱を求め、ある者は五欲を受けた。しかし、私はそうではない。彼らのようには学ばないし、そのような心を起こしたこともない。私はすでに在家の欲望の鎖を断ち切り、解脱を得て、もはや世間の五欲に執着しない。どうして家に帰ることができようか。」

「時，二使人聞於菩薩如是等說無染著言，專正決定至真之語，更復詳共白菩薩言：『大聖王子！今者誓願，求無上法，此是真實，非無道理。但如此行，今未是時。所以者何？聖子父王，今受如是憂愁苦惱，是故聖子！違背此心，非是正法。』而說偈言：

> その時、二人の遣わされた者が、菩薩のこのような執着のない清らかな言葉、正しく真実に定まった至言を聞いて、さらに詳しく共に菩薩に申し上げた。「大聖なる王子よ。ただ今、誓いを立てて無上の法を求められるのは、これは真実であり、道理のないことではありません。しかしながら、このような行いは、今は時ではありません。なぜならば、聖子の父王は、今このような憂い苦しみを受けておられるからです。それゆえ、聖子よ。この心に背くことは、正しい法ではないのです。」そして、偈を説いて言った。

「『今求法藏實是利， 雖有正理未合時，父王愁毒切割心， 孝德既乖是何道？』

> 「今、法を求める蔵は実に利益ありと言えども、正しい理があっても時に合わぬことあり。父王の憂いと苦しみは心を切り裂くばかり、孝の徳に背くとは、これいかなる道ぞ。」

「爾時二使說此偈已，重白聖子，作如是言：『大聖王子！如我所見，此意非是細觀法行，於世財利及以五欲，非巧方便。所以者何？聖子今者未曾見因，云何求果？現得果報，而便捨背，方求未來。大聖王子！凡是世間一切書典，各各皆自有於悉檀，或有人言：「有未來世。」或有人言：「無未來世。」然此義中，人多有疑。是故聖子！以得果報現在且受，若無來世，何須精勤求彼解脫？

> その時、二人の使者はこの偈を唱え終えると、改めて太子にこう申し上げた。「尊き王子よ。私たちが思うに、このお考えは細やかな法の観察とは言えません。世の中の財産や利益、そして五欲に対して、うまく対処する方法ではありません。なぜなら、尊き王子はまだ原因を見ておられないのに、どうして結果を求められるのでしょう。今得られる報いを目の前にして捨て去り、未来のものを求めておられるのです。尊き王子よ。世の中のいかなる書物にも、それぞれ独自の教えがあります。ある人は『未来はある』と言い、ある人は『未来はない』と言います。しかしこの問題については、多くの人が疑いを抱いています。それゆえ、尊き王子よ。今得られる報いをまず受け取りなさい。もし来世がないのであれば、苦労して解脱を求める必要などないではありませんか。」

「『復有人言：「決定世間，有善有惡，未來世受。」以是義故，精勤修行，求解脫道，是名為癡。若使諸根，決定破壞，親愛別離，怨憎聚會，境界相合，自然捨離，生老病死，何假須作勤劬方便？當知此義無有實也。又在胎時，手足胸背，腹肚髮爪，諸節支脈，自然而成。或復有人，得成身已，還復破壞，或有人言：「既破壞已，還自然成。」故先典中，有如是語：「棘針頭尖，是誰磨造？鳥獸色雜，是誰畫之？此義自然，無人所作，亦復不可欲得即成，世間諸物，不得隨心即使迴轉。」而有偈說：

> また、こう言う人もいます。「この世には確かに善悪があり、未来の世でその報いを受ける」と。その考えによって、熱心に修行し、解脱の道を求めることは、実は愚かである。もし諸々の感覚器官が必ず壊れ、親しい者とは別れ、憎む者とは会い、外界の対象と触れ合っても、自然に離れていくのであれば、生・老・病・死もまた避けられないのだから、どうしてわざわざ努力や工夫を積む必要があるのか。この考えは実際には何の根拠もないと知るべきである。また、胎内にいるとき、手や足、胸や背、腹や肚、髪や爪、関節や血管は、すべて自然にできあがる。あるいは、人が身体を得た後に、それがまた壊れることもある。こう言う人もいる。「壊れたなら、それもまた自然に元通りになる」と。だから、昔の教典にはこうある。「棘の針のような先端は、誰が磨いて作ったのか。鳥や獣の色がさまざまなのは、誰が描いたのか。これはすべて自然のことであり、誰かが作ったわけではない。また、望めばすぐに実現するものでもない。世の中の物事は、心のままに変えられるものではない」と。その偈にこうある。

「『棘刺頭尖是誰磨？ 鳥獸雜色復誰畫？各隨其業展轉變， 世間無有造作人。

> 「棘の刺の先が尖っているのは誰が研いだのか？　鳥や獣の様々な色は誰が描いたのか？</row><row>それぞれが自らの業に従って変化し続ける、　この世に作り手はいないのだ。」</row>

「『復有人言：「世間作者，一切皆由自在天作，若自然者，人亦何須勤劬作業？可不是因流轉自來，及其去時，還是彼因流轉自去。」

> また、こう言う人もいます。「この世の中のすべては、自在天が造ったものだ。もし自然にそうなるのなら、人はなぜ苦労して努力する必要があるのか。因によって流転してくるのでもなく、去るときも、その因によって流転して去っていくのではないか。」

「『復有人言：「以分別故，則我相生，故受於有，有盡亦然；若受有時，不假勤求，自然而受；若有盡時，自然而盡，亦不假滅。」

> 「また、ある人はこう言うでしょう。『分別があるから、自己というイメージが生まれ、それによって存在（有）を受け取る。存在が尽きる時も同じである。もし存在を受け取る時があれば、特別な努力をしなくても自然に受け取るものであり、もし存在が尽きる時があれば、それも自然に尽きるのであって、わざわざ滅ぼそうとする必要はない』と。」

「『復有人言：「世間欲受人身之時，其父不負他人之債，則便得生，生天生仙，一切悉然。若此三處，不負債者，此人不用勤劬，而求自然，而得彼處解脫如是。」次第諸經典中，各各悉檀自說如是，各得解脫。其有智人，精勤欲求勝處之時，必損其心。是故我知聖子，若欲求解脫者，依理依法，應如是求解脫之路，如古書典悉檀所說。若如是者，必定當得，無有疑也。聖子慈父淨飯大王，為聖子故，受愛心苦，當得除愈。聖子今者還宮之時，意中若見宮殿，患厭此事，亦復不須思惟。何以故？昔諸王仙，棄捨家已，至山林中，後還迴向自家宮中。言彼王者各有名號。所謂菴婆梨沙王隋言虛空箭，捨離家已，在山林中，諸臣百官，開諫曉喻，左右前後，圍遶而還。其羅摩王隋言能喜，既見大地，被諸惡人之所毀敗，各各相奪，迭相殺害，心不忍看，從山出來，如法擁護。又復往昔毘耶離城，有一大王，名徒盧摩隋言樹，亦從山林下來本國，護持世間。往昔又有一梵仙王，名娑枳居岐反梨低隋言離言，又羅枳提婆王隋言喜天，達摩耶舍王隋言法稱，諸如是等梵仙諸王，無量無邊，各捨山林，還來本宮，綏撫大地。是故聖子！聞此往昔諸王本事，今若還宮，無有患苦。』而說偈言：

> 「また、ある人はこう言うでしょう。『世間で人間として生を受ける時、その父が他人に借金をしていなければ、そのまま生まれることができます。天に生まれ、仙人となるのも、すべて同じです。もしこの三つの場所で借金の負い目がなければ、この人は苦労せずに、自然とそこでの解脱を得られるでしょう。』このように、経典のあちこちで、それぞれの見解がそれぞれにこう説き、それぞれに解脱を得ると言います。しかし、智慧ある人は、優れた境地を求めて精進しようとする時、必ず心を苦しめます。だから私はこう思うのです。聖子よ、もし解脱を求めるなら、道理に従い、法に従って、古い典籍や経典が説くように、解脱への道を求めるべきです。そうすれば、必ず得られるはずで、疑いの余地はありません。聖子の慈愛深い父である浄飯大王は、聖子のために愛する心で苦しんでおられますが、その苦しみはきっと癒やされるでしょう。聖子が今、宮殿に戻られる時、心の中で宮殿を見てうんざりされるかもしれませんが、それもまた考える必要はありません。なぜなら、昔の王や仙人たちは、家を捨てて山林に入った後、また自分の宮殿に戻ってきたからです。その王たちにはそれぞれ名前があります。いわゆる菴婆梨沙王（虚空箭）は、家を捨てて山林にいた時、臣下や百官が諫め、左右前後から囲んで連れ戻しました。羅摩王（能喜）は、大地が悪人たちに荒らされ、互いに奪い合い、殺し合うのを見て、心に堪えず、山から出てきて、法に従って人々を守りました。また、昔、毘耶離の都に、徒盧摩王（樹）という大王がいましたが、彼も山林から国に下りてきて、世の中を護りました。また昔、梵仙王の娑枳梨低（離言）や、羅枳提婆王（喜天）、達摩耶舍王（法称）など、このような梵仙の王たちは、数え切れないほどおり、それぞれ山林を捨てて、自分の宮殿に戻り、大地を慰め護りました。だから、聖子よ、この昔の王たちの物語を聞いたなら、今、宮殿に戻っても、何の苦しみもありません。」そして、偈を唱えて言いました。

「『如是名稱諸王等， 各捨婇女入山林，後並棄山還本宮， 聖子今迴有何過。』

> 「このように名高い多くの王たちも、 それぞれ婇女（さいじょ）を捨てて山に入り、 後に山を棄てて還って宮殿に帰った。 聖子（しょうし）が今、還って来られたことに、何の過ちがあろうか。」

「爾時，菩薩聞彼二使如是語已，告彼大臣并及國師婆羅門言：『有無之義，疑與不疑，我自知耳。但此二義，所有真理，隱之與顯，我忍受之。其傳聞者，既無因緣，何由可信？若有智人，應不依他虛說而行，猶如盲人，欲行道路，既無導者，不見真實，云何得行？心自不決，若善非善，彼盲癡人，假令淨法心見不淨，以無智故。我今寧發精進之心，而雖未得，甘從果報長受苦惱，實不忍在五欲淤泥迷沒沈溺，為於諸聖之所譏訶，暫受快樂。又汝等言，往昔已來，虛空箭王，及能作喜，並從山林，還入家者。彼等諸王，我不取於解脫法中用為證明。何以故？彼等諸王，以其所學，盡神通故，別更無有苦行之法，是故彼等迴反還宮。汝等今者莫作是心，我當立誓，假使日月墮落於地，此雪山王移離本所，我若未得正法之寶，貪世事故，以凡夫身還入本宮，無有是處。我今寧入熾盛猛炎大熱火坑，不得自利而還入宮，無有是處。』

> その時、菩薩は二人の使者の言葉を聞いて、大臣と国師のバラモンにこう告げた。 「有るとか無いとか、疑うとか疑わないとか、そのようなことは、私自身がよく分かっている。ただ、この二つの考え方に含まれる真理については、隠されようが明らかにされようが、私はそれを受け入れる。噂話には根拠がなく、どうして信じることができようか。もし智ある人ならば、他人の根拠のない言葉に従って行動はすまい。ちょうど盲人が道を行こうとしても、手引きがなく、真実を見ることができなければ、どうして進めるだろうか。心が定まらず、善いのか善くないのかも分からない、そのような盲いた愚かな人は、たとえ清らかな法を見ても、智慧がないためにそれを清らかでないと見てしまうのだ。 私は今こそ、精進の心を起こそう。たとえ悟りを得られなくても、その果報として長い苦しみを受けることを甘んじて受け入れよう。それよりも、五欲の泥沼に迷い込んで沈み、聖者たちに嘲られるような、つかの間の楽しみを味わうことは、本当に忍べない。 また、あなたがたは言う。昔、虚空箭王や能作喜王などが、山林から宮殿に戻ったではないかと。しかし、そのような王たちを、私は解脱の教えの証拠としては採用しない。なぜなら、彼らは学んだ神通力を使い果たしてしまい、他に苦行の方法がなかったために、宮殿に戻ったのだ。 あなたがたは、そんな考えを持ってはならない。私は誓う。たとえ太陽と月が地に落ち、この雪山王が元の場所から動かされようとも、もし私が真理という宝を得ないで、世俗のことに心を奪われ、凡夫の身のままで宮殿に戻るようなことは、決してないであろう。私はむしろ、燃え盛る大火の中に飛び込もう。自分の利益も得ずに宮殿に戻るなど、あってはならないことだ。」

「爾時菩薩作是誓已，從座而起，捨棄此林，背彼二人，獨自而行。時彼二使，聞於菩薩如是言已，復見決定捨諸親族，發如是願，知必不迴，舉身自撲，從地而起，流淚滿面，大聲而哭，隨菩薩行，欲近菩薩。是時菩薩，威德甚大，彼等二人，不能得逼，猶如日光，耀彼等目，不能覩見菩薩之身。

> その時、菩薩はこの誓いを立て終えると、座から立ち上がり、この林を捨てて、あの二人の者たちに背を向け、独りで歩み去られました。その二人の使いは、菩薩のこの言葉を聞き、さらに親族をすべて捨て去るという決意を見て、必ずや戻らないであろうと知り、全身を地に打ちつけ、起き上がると、涙で顔をいっぱいにし、大声で泣きながら、菩薩の後を追って近づこうとしました。しかし、その時、菩薩の威徳は非常に大きく、あの二人の者たちは近づくことができませんでした。あたかも日光が彼らの目を照らして、菩薩の姿を見ることができないのと同じでありました。

「爾時，使人復更重諮菩薩是言：『唯願聖子！莫作如是剛䩕志意，願定我等戀慕之心，我等愛心既未除斷，不忍棄捨聖子而去。』彼等二人，愛菩薩故，兼復重意向淨飯王，以是因緣，隨菩薩後東西而行，或住或看，或行或走。時彼二人，更復別教四人，隱身隨菩薩後，左右而行。『汝等人輩！莫離聖子，看至何處。』如是教已，時彼二人，心中愁毒，受大苦惱，啼哭叫喚，各相問言：『我等今者云何至城，見大王面？大王心情，為聖子故，大受苦惱，我等此言，云何得奏？若至王邊，復作何語，能解王心？』而有偈說：

> その時、使いの者たちは再び菩薩にこう申し上げた。「どうか聖子よ、そのような固い決意をなさらないでください。どうか私たちの慕い慕う心をお定めください。私たちの愛の心はまだ断ち切れておりません。聖子をお捨てて去ることは忍びません。」彼ら二人は、菩薩を愛するゆえに、また心を込めて浄飯王のもとへ向かおうとした。その因縁によって、菩薩の後ろに従い、東西に行き、あるいは立ち止まり、あるいは眺め、あるいは歩き、あるいは走った。その時、二人はさらに別の四人に教えて、姿を隠して菩薩の後ろに従い、左右に行かせた。「あなたがたは聖子から離れてはならない。どこまで行かれるか見届けなさい。」このように教えた後、二人は心の中で憂いに苦しみ、大きな苦しみを受け、泣き叫び、互いに言い合った。「私たちは今、どうやって城に至り、王のお顔を拝見できるだろうか。王のお心は、聖子のために大きな苦しみを受けていらっしゃる。私たちのこの言葉を、どうしてお伝えできるだろうか。もし王のもとに至ったなら、どのような言葉で王のお心を解くことができるだろうか。」ここに偈がある。

「『彼等二使知聖子， 決定不還至自宮，別遣四人逐後行， 自迴見王云何說。』

### 佛本行集經問阿羅邏品第二十六上

「爾時，菩薩捨其父王大臣使人，并及國師婆羅門時，兩俱流淚，既分別已漸漸前行，安庠而向毘舍離城。未至彼城，於其中路，有一仙人，修道之所，名阿羅邏，姓迦藍氏。時彼仙人，有一弟子，遙見菩薩，向已而來，見已生大希有之心，從生未曾覩見斯事。見已速疾走向其師所坐之處，至已向彼諸同學等摩那婆邊，大聲唱喚彼等姓名，各各自言仁者跋伽婆！仁者彌多羅摩！仁者設摩！諸如是類摩那婆等，皆悉告言：『汝等今者可各喜歡，心應捨離祭祀之法，今此處所有遠方客大德仁來，應須迎接。然此仁者，已能厭離諸結煩惱，欲求最上至真解脫，即是釋主淨飯王子！諸相端嚴，猶如金柱，身光明曜，巍巍堂堂，脩臂下垂，手過于膝，足趺下蹈，千輻之輪，行步安庠，如牛王視，圓光威德，猶如日輪，身若黃金，衣袈裟服。我等福利，最上之尊，漸漸自來，向我等邊。我等今者應須辦具，隨力所有供養承事，勿令虧少，恭敬尊重，頂戴奉迎。』爾時，彼摩那婆即以偈頌歎菩薩言：

「『安庠善巧能行步， 顧盻猶若大牛王，眾相滿足莊嚴身， 一切諸毛皆上靡，足下圓輪具千輻， 眉間宛轉妙白毫，脩臂洪直自在垂， 此是人中大師子。』

「爾時，彼摩那婆口說此偈歎菩薩已，重告彼諸摩那婆言：『汝等一切諸摩那婆可共相隨，向於師所，諮白此事。』是時彼諸摩那婆等，即便相隨，往詣其師阿羅邏邊，到已委具諮白於師如前等事，言語既訖。

「爾時，菩薩安庠而行，忽然來至阿羅邏邊。其阿羅邏仙人，遙見菩薩，近來見已，不覺大聲告言：『善來聖子！』菩薩前至阿羅邏所，二人對面，相共問訊：『少病少惱，安隱已不？』相慰問訖，其阿羅邏請菩薩坐草鋪之上。而有偈說：

「『二人相見大喜歡， 各各問訊少病惱，相對語言時未幾， 清淨草座即便鋪。』

「爾時，菩薩坐草鋪已，其阿羅邏諦心觀察菩薩之身，上下觀已，生大歡喜希有之事，即對菩薩，以美音辭，往來談說，稱讚菩薩，作如是言：『仁者瞿曇！我久承聞，仁者丈夫！能捨王位，踰城出家，割絕親愛染穢羅網。譬如大象斷牢鐵鏁，或䩕皮繩頓絕之後，自在走出，隨心所行。如是如是，仁者今日，乃能猛心，捨宮入山，於一切處，知足少欲，大有智慧。仁者瞿曇！既得如是希有之事，世間富貴，果報功能，得已能棄，剃落山林，此實難辦。往昔諸王，雖得王位果報具足，備受五欲，至年老時，喚於世子，付囑王位，灌頂為王，於後方捨宮內而出，至於山林，行求於道。彼不為難，亦非希有。如我所見，仁今年少，不受五欲，捨是富貴功德之事，能辦是心，來此求道，既得如是不可思議大聖王位，最勝境界，正盛年時，能斂心意，不著諸欲，志求解脫，不被縛著，不為諸根境界所染，能知有中一切諸患，不被諸有之所纏繞。何以故？往昔有王，名曰頂生，彼王已得統四天下，猶不知足，騰上至彼三十三天，得於帝釋半座而坐，以其內心不知足故，五欲境界便即失盡，墮落於地。

「『復有一王，名那睺沙，亦得王領於四天下，還復上至三十三天，治化諸天，猶尚不足，亦失王位，墮落於地。諸如是類，羅摩王、陀盧呼彌王、阿沙羅吒迦王等，又多有諸轉輪聖王，以得王位不知足故，皆失境界，富貴王位悉皆滅盡。世間無人得境界已，心知足者，猶如大火得薪熾盛。』其阿羅邏作是語已，菩薩報言：『仁者大仙！我見世間如是相已，復覩一切，猶如芭蕉，心內不牢，後還破壞。以得境界，恐不知足，不求自利，厭離欲事。我知是已，尋求正路，處處遊行，猶如有人行於曠野，失伴迷路，心惑諸方，不得導師，以求導故，處處遊行，今我亦然。』

「爾時菩薩作是語已，時，阿羅邏更復諮白於菩薩言：『仁者瞿曇！我久見於大士心相，仁於解脫，堪作大器。』

「爾時，眾中有一摩那婆，是阿羅邏仙人弟子，合掌白師，歎於菩薩作如是言：『希有此人，不可思議，能辦此心。往昔諸王，年少之時，坐於宮內，當受五欲，於後得年頭白老時，各喚太子，付囑王位，灌頂為王，於後捨家，而入山林，行行修道，而得王仙。此者不然，盛年少壯，正是快意受五欲時，少病少惱，氣力充足，頭髮烏黑，身體柔軟，勇猛具足，無所乏少。父王年老，不貪王位，厭離世間，不貪果報，而能出家，入山求道。』

「時阿羅邏白菩薩言：『仁者發心，欲求何事？欲辦何道？乃能發心，來於此處。』菩薩報言：『尊者大師！我以見此世間眾生，以為生老病死纏縛，不能自出，今發如是精勤之心。』時阿羅邏復作是言：『仁者瞿曇！乃能生於如是慧眼，發如是想，此義真實。所以者何？』而說偈言：

「『一切法勝唯有行， 清淨寂定不過心，染著恩愛最怨家， 諸有恐怖是老死。』

「爾時阿藍說是語已，而彼眾有一摩那婆，是阿羅邏仙人弟子，白菩薩言：『仁者今捨親愛眷屬，背而來此，有何心意？』菩薩報言：『世界所有集聚合會，決有別離。我知如是，故發此意，欲求至真。』

「時阿羅邏仙人重更白菩薩言：『仁者今已得於解脫。所以者何？眾生所沒，此泥難渡，世間所縛，此牢強繩，仁者已能獨辦此心，我當說此解脫法門。所謂愛心，仁須遠離，言愛心者，是世間中大惡蛟龍，於心水內，居止停住，失一切利。以如是故，我今觀知世間之人，非是正行，其能取於正行之法，唯有智人，遠離愛染，應須發心，斷見有相，作於無相。』

「菩薩答言：『大仙尊者！我受是語，如尊所言。』阿羅邏仙復問菩薩：『仁云何受？』菩薩報言：『世間之人，以作相縛。其相縛者，凡是父母，生子養育，為立家故，養育兒息，有能增長成就我家，以是緣故，父母養子；若無因緣，自許眷屬，猶不親近，況復他人？凡親近人，貪求利故，而昵於人，終無處覓。』阿羅邏仙復更讚言：『善哉仁者！仁今已知世間諸法，瞿曇沙門！乃爾明證一切諸智。』

「時，彼眾有一摩那婆，亦是羅邏仙人弟子，白菩薩言：『仁者瞿曇！仁今已得是最上樂。何以故？能漸離於一切愛相，即得世間諸無惱法。所以者何？我見世間，少有人能不怜婦兒，不求財物，不舉兩手，哭於世間。多見有人，以不少欲，不知厭足，愛惜資財，常起貪心，染著世利，家家盡皆舉手大哭。』而說偈言：

「『世間罕見知足人， 少欲無求不受苦，所有哭泣恩愛者， 多是貪著聚資財。』

「時阿羅邏白菩薩言：『希有仁者瞿曇！如是廣大智慧，是故仁今辦是勇猛，制伏諸根，不令增長於諸欲染，勿為所牽。』是時菩薩，問於尊者阿羅邏言：『大仙尊者！諸根何故如是不定？欲降伏者，方便云何？唯願尊者！為我解說。』其阿羅邏仙人報言：『沙門大士！凡人在世，欲厭離生，我今當為大士略說方便之相。大士諦聽。』而有偈說：

「『大尊仙人阿羅邏， 發遣菩薩神智心，於自己論悉檀中， 分別要略而宣說。』

「『瞿曇大士！凡欲除於諸根體相，及根境界，應須如是思量分別。何以故？是諸根等，一切境界，既分別知，悉須捐捨。乃至諸根境界之內，有諸愛染，彼愛所染，即能令著。以此著故，則令眾生沈沒世間，不能得出諸凡夫人，受於貪愛繫縛等苦，一切皆由境界故，得如是等事。大士當知！何因緣爾？』而說偈言：

「『山羊被殺因作聲， 飛蛾投燈由火色，水魚懸鉤為吞餌， 世人趣死以境牽。』

「爾時，菩薩聞此偈已，復更問言：『尊者今說調伏諸根方便相貌，共因緣生，體性虛空，誑惑無實，猶如火坑，猶如夢幻，如草上露。我今心想，以如是知。』

「時，阿羅邏仙人復問菩薩大士：『仁何故言，諸境界內，無利益想？』菩薩報言：『凡人欲依諸境界住受果報者，猶如有人造立屋舍，欲蔽日光，或避風雨。如人以渴故求於水，又如人飢故求覓食，如人垢穢欲洗浴身，如人露形求衣覆體，如人困乏故求乘騎，欲得除寒故求於暖，欲得除熱故求於涼，欲去疲勞故坐床鋪。如是等事，諸所求者，皆為以苦來逼身故，所以推求。如似病人，為患重故，方覓良醫。世間之人，一切悉皆如是悕望。』

「時，阿羅邏讚言：『瞿曇！希有此心。大德！云何於世間中，能作如是速疾，即生無常之想？希有希有！能見真實。大德利根，聰敏易悟，若能如是明了見者，是名真見；若異見者，是名誑惑。如仁所言，為飢求食，避藏風雨，以此寒熱暫易奪故，世間人心即生樂想。』又復歎言：『仁者瞿曇！真是法橋，任持大器，我雖傳聞，先觀弟子，堪受法不？若能堪受，然後為說種種諸論。如我所見，仁者今日，則不復然，俯仰云為，深得進止，不假須觀，如我論中，有真實義，盡為仁說。』

「爾時，菩薩聞阿羅邏仙如是語已，生大歡喜，而重問言：『尊者大仙！今日未知我之孝心，忽為我作如是妙說，我知是相，雖未即益，今已得利。所以者何？譬如有人，欲見於色，而得光明，如人遠行須得善導，如度彼岸須得船師，尊者今日顯示我心，亦復如是。唯願尊者！更為我說尊者所知，云何度脫生老病死？』

## 佛本行集經卷第二十一