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title: "佛本行集經 · 38 耶輸陀因緣品"
description: "佛本行集經是隋代高僧闍那崛多翻譯的一部重要佛教經典，屬於佛陀傳記類文獻。該經詳細記載了釋迦牟尼佛從誕生、出家、成道到涅槃的完整生平事蹟，內容涵蓋佛陀前世因緣、降生王宮、四門出遊、捨棄王位、苦行悟道、初轉法輪等重要事蹟。闍那崛多作為隋代著名譯經師，其譯本語言流暢，保存了印度佛教原始風貌。此經在漢傳佛教中具有重要地位，是研究佛陀生平及早期佛教思想的重要典籍，為後世佛教史傳文學的發展奠定了基礎，對佛教修行者理解佛陀教法具有指導意義。"
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## 佛本行集經卷第三十四

> 『仏本行集経』 巻第三十四

隋天竺三藏闍那崛多譯

> 隋の天竺三蔵僧侶、闍那崛多訳

### 轉妙法輪品下

> 転妙法輪の章（下）

「爾時世尊作是思惟：『往昔諸佛、多陀阿伽度、阿羅呵、三藐三佛陀，在何方所轉於無上微妙法輪？於時，世尊發是心已，其地即時自然涌出，異於餘方。』

> その時、世尊（仏陀）はこう考えられました。 「昔の仏陀たち、如来（タターガタ）、阿羅漢（アラハン）、正等覚者（サンミャクサンブッダ）は、いったいどの方角で、この上なく優れた教えの車輪を回されたのだろうか？」 そう思われた瞬間、その地が自ら湧き上がり、他の場所とは違う様子を示しました。

「爾時，世尊復如是念：『往昔諸佛、多陀阿伽度、阿羅呵、三藐三佛陀，云何而轉無上法輪？為當坐轉，為當臥轉？』於時，世尊發是心已，彼地方所，即現五百師子高座。世尊見此五百座已，即發敬心，以敬過去諸世尊故，三匝圍繞三高座已，至第四座，即上其上，加趺而坐，譬如師子無所怖畏無所驚動。時憍陳如五比丘等，即白佛言：『希有世尊！即今悉有如許佛來同說法也，云何乃有若干高座？』爾時，佛告五比丘言：『汝諸比丘！今應當知！此賢劫中，有五百佛，出現於世，三佛已過入般涅槃，我今第四，出現於世。餘者當來續復興顯。』

> その時、世尊はこう思われた。 「かつての諸仏、如来、応供、正遍知たちは、どのようにして最上の法輪を転じられたのだろうか。座ったままで転じられたのか、それとも横になったままで転じられたのか。」 世尊がこのように心に念じられたところ、その場所に五百の獅子座が現れた。世尊はこれらの五百の座をご覧になり、過去の諸世尊への敬意から、まず三つの高座の周りを三度巡礼してから、第四の座に上がり、その上に結跏趺坐された。その様子は、獅子が何の恐怖もなく、動じることなく座るかのようであった。 その時、憍陳如ら五人の比丘が仏に申し上げた。 「まれなることです、世尊。今、大勢の如来が同時に説法をなさっているかのように、これほど多くの高座があるのはなぜでしょうか。」 そこで、世尊は五比丘にこう告げられた。 「比丘たちよ、知るがよい。この賢劫には五百の仏が世に現れる。そのうち三仏はすでに世を過ぎ、般涅槃に入った。私は今、第四番目として世に現れたのである。残る仏たちも、やがて続々と世に現れるであろう。」

「爾時，世尊復如是念：『過去諸佛、多陀阿伽度、阿羅訶、三藐三佛陀，為轉金輪，為轉銀輪，轉頗梨輪，轉琉璃輪？為當轉於赤真珠輪，轉馬瑙輪，轉硨𤦲輪，轉虎珀輪，轉珊瑚輪，轉七寶輪，為轉木輪？』

> そのとき、世尊はこうお考えになった。 「過去の諸仏、すなわち如来（タターガタ）、阿羅漢、正等覚者（サンマーサンブッダ）は、どのような輪を回されたのだろうか。金の輪か、銀の輪か、水晶の輪か、瑠璃の輪か。あるいは、赤い真珠の輪、瑪瑙の輪、蛤の殻の輪、琥珀の輪、珊瑚の輪、七宝の輪、または木の輪を回されたのか。」

「爾時，世尊如是念時，於心內發自智見，知過去諸佛、多陀阿伽度、阿羅呵、三藐三佛陀，依四聖諦，次第三轉十二種相因緣，而轉無上法輪。而世間中，無有沙門及婆羅門，或天或魔，或梵世界，無一眾生能作如是自在無畏轉法輪者。

> その時、世尊はこのようにお考えになり、心の内に自らの智慧と洞察を生じさせ、過去の諸仏、すなわち如来・阿羅漢・正等覚者が、四つの聖なる真理に基づいて、三転・十二相の因縁の順序に従って、無上の法輪を回転させたことを知られました。 そして、この世のうち、沙門や婆羅門、あるいは天や魔、または梵天の世界においても、このように自在で恐れることなく法輪を回転させることのできる者は、一人として存在しないのでした。

「爾時，世尊箕宿月初十五日內，十二日昃過半人影，當如是時，名毘闍耶隋言難勝，北面而坐，合於鬼宿及房宿時，轉於無上清淨法輪。一切世間，所有沙門，及婆羅門天魔梵等，無有能轉如是法輪，以房宿日轉輪，無礙說法，依世故以此日。

> その時、世尊はヴィシャーカー月の満月の日、十五日の太陽が西に傾き、人影が正午の半分ほどになる時刻に、毘闍耶（※「毘闍耶」とは、サンスクリット語で「難勝」、すなわち「打ち負かし難いもの」という意味です）と名付けられた場所で、北を向いて座りました。その日は鬼宿（ぎしゅく）と房宿（ぼうしゅく）が重なる時であり、そこで世尊は、清らかでこの上ない真理の教え（法輪）を説き始められました。この世のすべての修行者やバラモン、神々や悪魔、梵天など、誰一人として、このような法輪を説き回すことはできません。房宿の日に、何の妨げもなく説法が行われたのは、世間の習慣に従ってこの日が選ばれたからです。

「爾時，世尊告五比丘如是言音，所謂如來有此言音，善能教授，善能慰喻，能教不缺，能教恭敬，不曲不諂，不麗不麤，不綺不朴，柔順調和。善能作業，不緩不急，無有妨礙，真正微妙，善巧分明，流靡甘美，悅可眾情，無濁無垢，不可毀壞。無與等者，離染清淨，久來常捨，不失不乏，無結無縛，解脫光潔，不貧不吃，亦不軟弱。能為一切眾生生樂，能與一切眾生身體而作潤澤，能發一切諸眾生心，能斷慾心，斷瞋恚心，斷愚癡心，能攝諸魔，能破諸罪，悉能降伏一切外道。

> その時、世尊は五人の比丘に向かって、こう語りかけました。如来の言葉は、善く教え、善く慰め、欠けることなく、敬虔さを促し、曲がらず、へつらわず、華美でなく、粗野でなく、飾り立てず、素朴であり、柔和で調和しています。良く働き、緩まず、急がず、妨げがなく、真実で微細、巧みに分明し、流れるように甘美で、人々の心を喜ばせ、濁りも汚れもなく、壊されることがありません。比べるものなく、汚れを離れ清らかで、久しく執着を捨て、欠けず、疲れず、束縛なく、解脱して光り輝き、貧しくなく、渇くこともなく、柔弱でもありません。すべての生きとし生けるものに安らぎをもたらし、彼らの身体を潤し、心を奮い立たせ、欲の心を断ち、怒りの心を断ち、愚かさの心を断ち、諸々の魔を制し、諸々の罪を破り、あらゆる外道を降伏させるのです。

「世尊音響，善能教他，猶如鼓聲，猶如梵聲，猶如迦羅嚬伽鳥聲。如帝釋聲，如海波聲，如地動聲，崑崙震聲，孔雀鳥聲，拘翅羅聲，命命鳥聲。如鴈王聲，猶如鶴聲，猶如師子猛獸王聲，猶如箜篌琵琶、五絃箏笛等聲，聞者能令一切歡喜。教誨分明，意喜樂聞，微妙甚深，無處乏少，能令眾生造諸善根，聞者不空。字體分炳，文句顯了，義業幽邃，法藏真實，合時合節，合三摩耶，不過時授，知諸根情，順於法句，以諸種種布施莊嚴，持戒清淨，忍辱含受，精進勇猛，諸禪寂定，奮迅神通，智慧分別，世間善惡，慈成就樂，悲無勞勌，喜歡捨離。建立三乘，紹三寶種，分別三聚，淨三脫門，實語訓誨，智人所歎，聖所可意，無量無邊，猶如虛空，遍至一切，諸相具足。

> 世尊の教えの響きは、他者を巧みに導くことができます。 それは太鼓の音のようであり、梵天の声のようであり、迦羅頻伽（カラビンカ）という鳥の声のようです。 帝釈天の声のようであり、海の波音のようであり、大地が震動する音のようであり、崑崙山が鳴り響く音のようです。 孔雀の声のようであり、拘翅羅（クシラ）という鳥の声のようであり、命命鳥（メイメイチョウ）の声のようです。 雁（ガン）の王の声のようであり、鶴の声のようであり、獅子という猛獣の王の声のようです。 また、箜篌（クゴ）や琵琶、五弦（ゴゲン）、筝（ソウ）、笛（テキ）などの音のようです。 聴く者を皆、喜びに満ち溢れさせます。 教えは明瞭で、心は喜んで聞くことを楽しみ、その内容は微妙で非常に深く、どこにも乏しいところはありません。 衆生に様々な善い根を植え付けさせ、これを聞く者は虚しく終わることがありません。 文字の形は明らかで、文句ははっきりと示され、その意味するところは奥深く、法の宝庫は真実です。 時に適い、節に適い、三摩耶（サマヤ）に適っており、時機を過ぎて授けることはありません。 諸々の根機（こんき）の状態を知り、法の句に順い、様々な布施によって荘厳し、持戒は清らかであり、忍辱（にんにく）は耐え忍び、精進は勇ましく、諸々の禅定（ぜんじょう）は寂静、奮迅（ふんじん）の神通、智慧（ちえ）による分別、世間の善悪、慈悲による楽の成就、倦むことのない悲み、歓喜する捨離（しゃり）。 三乗（さんじょう）を建立し、三宝の種を継承し、三聚（さんじゅ）を分別し、三解脱門（さんげだつもん）を清らかにし、真実の言葉によって訓誨（くんかい）し、智者が嘆賞し、聖者が意にかなうものであり、無量無辺で虚空の如く、全てに遍く至り、あらゆる相を具足しています。

「世尊如是聲音，告諸五比丘言：『汝諸比丘！出家之人，恒常須捨世間二事。何等為二？一受欲樂，凡有行動，依於聚落，凡夫所歎，此須棄捨。第二捨者，自身所困，受苦之處，非聖所歎，不得自利，不得利他，此法須捨。』而說偈言：

> 世尊はこうした声で、五人の比丘たちに告げられた。 「比丘たちよ、出家した者は、常にこの世の二つのことを捨て去らねばならない。 その二つとは何か。 第一に、欲望の楽しみにふけること。これは俗世の集落に依存した凡人の行いであり、賢者が褒めるものではない。この行いは捨て去るべきである。 第二に、自分自身を苦しめ、悩ませる行い。これは聖者が褒めることではなく、自分を利することも他者を利することもない。この行いもまた捨て去るべきである。」 そして、次の偈を説かれた。

「『自身損處速棄捐， 諸根境界悉須捨，若能捨此二種法， 即得甘露正真道。』

> 「自分のための執着はすぐに捨て去りなさい。 感覚の対象すべてを手放しなさい。 この二つのものを捨てることができれば、 甘露のような清らかな真理の道を得られるのです。」

「爾時，佛告諸比丘言：『汝等當知！我如是捨彼二邊已，說有中路，我自證知，為開眼故，為作智故，為寂定故，為諸通故，為覺了故，為沙門故，為涅槃故，而得成就。汝等比丘！若欲得知出有中路，如我所證，為開眼故，為生智故，為寂定故，乃至涅槃八正聖道，所謂正見、正分別、正語、正業、正命、正精進、正念、正定。汝等比丘！此是中路，我已證知，為開眼故，為生智故，為寂定故，為發諸通，為覺了故，為沙門故，為涅槃故，當得成就。』而說偈言：

> その時、仏は比丘たちに告げられた。 「あなたがたは知りなさい。私はこのように両極端を捨て去り、中道を説く。私は自らそれを悟り、眼を開くため、智慧を生むため、静寂を得るため、神通を得るため、覚りを得るため、沙門の道を成就するため、涅槃に至るために、この道を成就したのだ。 比丘たちよ、もしあなたがたが、この中道を求め知ろうとするなら、私が証得したところの、眼を開き、智慧を生み、静寂をもたらし、ついには涅槃へと至る八つの正しい聖なる道――すなわち、正見、正分別、正語、正業、正命、正精進、正念、正定――こそがその道である。 比丘たちよ、これこそが中道である。私はこれを自ら証得し、眼を開くため、智慧を生むため、静寂を得るため、諸々の神通を発するため、覚りのため、沙門の道のため、涅槃のために、成就したのである。」 そして、次のように偈を説かれた。

「『如是八種正路因， 除滅死生恐怖盡，既得除滅諸業已， 永更不受一切生。』

> 「この八つの正しい道という因によって、 死と生の恐怖はすべて除かれ、滅ぼされます。 すでにすべての業が除かれ去ったなら、 二度と再び生を受けることは決してありません。」

「爾時，佛告諸比丘言：『汝等比丘！至心諦聽！有四聖諦。何等為四？謂苦聖諦，苦集聖諦，苦滅聖諦，得道聖諦，如此名為四種聖諦。

> その時、仏は比丘たちに告げられました。「比丘たちよ、心を静めてよく聞きなさい。四つの聖なる真理がある。どのような四つか？苦しみの聖なる真理、苦しみの集まる原因の聖なる真理、苦しみが消え去る聖なる真理、苦しみを消す道の聖なる真理、これらを四つの聖なる真理と名付ける。」

「『諸比丘！何等相名為苦聖諦？所謂生苦、老苦、病苦、死憂悲苦、愛別離苦、怨憎會苦、求不得苦。此諸苦故，名苦聖諦。

> 「比丘たちよ、何を苦聖諦というのか。それは、生まれることの苦しみ、老いることの苦しみ、病の苦しみ、死の苦しみ、愛する者と別れる苦しみ、憎む者と会う苦しみ、求めるものが得られない苦しみである。これらの苦しみがあるから、苦聖諦と呼ぶのである。」

「『諸比丘！何等名為苦集聖諦？所謂此愛數數動心，發思慾事，處處思想，是則名為苦集聖諦。

> 「比丘たちよ、苦の集まりという聖なる真理とは何か。それは、繰り返し心を動かし、執着の思いを引き起こし、あらゆる場所で思いをめぐらす、この「渇愛」のことである。これを苦の集まりという聖なる真理と名付ける。」

「『諸比丘！何等名為苦滅聖諦？所謂彼愛遠離棄捨，悉除滅盡不留餘殘，心及心想一切寂定，是則名為苦滅聖諦。

> 「比丘たちよ、苦の滅びという尊い真理とは何か。それは、あの渇愛から遠く離れ、捨て去り、残すことなくすべてを消し尽くし、心と心のはたらきがすべて静かに落ち着くこと、これを苦の滅びという尊い真理と名づける。

「『諸比丘！何等名為得道聖諦？逮得於此八正聖路，所謂正見、正分別、正語、正業、正命、正精進、正念、正定，此名滅苦得道聖諦。

> 比丘たちよ、では「苦しみを滅する聖なる道の真理」とは何か。それは、この聖なる八つの正しい道を実践することである。すなわち、正しい見解、正しい分別、正しい言葉、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい気づき、正しい心の統一（正定）である。これを、苦しみを滅する聖なる道の真理と名付ける。

「『此苦聖諦，我往昔來，不從他聞，於諸法中，自生眼智，生意、生明、生誓願、生智慧。此苦聖諦，須如是知。乃至未聞諸法之中，生眼智慧，彼苦聖諦已照知竟梵本再疊，今略取要。

> 「この苦しみという聖なる真理について、私はかつて誰かから聞いたわけではありません。しかし、あらゆる教えの中において、自ら智慧の目が生まれ、理解が生まれ、明らかな智慧が生まれ、誓いが生まれ、悟りの智慧が生まれました。この苦しみという聖なる真理は、このように知るべきものです。そのようにして、これまで聞いたことのない教えの中にあっても、智慧の目をもって、この苦しみという聖なる真理を完全に明らかに知り尽くしたのです。」

「『如是苦集聖諦，不從他聞，於諸法中，生眼及智，彼苦集法悉須滅之。如是乃至，苦集聖諦，已滅盡訖。

> 「この苦しみの原因という聖なる真理は、他の誰から聞くことなく、様々な教えの中で、洞察と智慧が生まれた。その苦しみの原因となるものはすべて、滅ぼさなければならない。こうして、苦しみの原因という聖なる真理は、ついに完全に滅び尽くされたのである。」

「『如是苦滅聖諦，不從他聞，於諸法中，生眼及智。彼苦滅諦今應須證。如是乃至生智慧已，苦滅聖諦，得證知盡。

> 「これが苦の滅尽という聖なる真理である」と、他から教えられることなく、諸々の法において、眼と智慧が生じた。その苦の滅尽という真理は、今まさに証悟すべきものである。こうして智慧が生じるに至って、苦の滅尽という聖なる真理は、証悟し尽くされたと知られる。

「『如是苦集滅已得道聖諦，不從他聞，於諸法中，生眼及智。彼苦集滅，知得道證，乃至生智慧，還彼苦滅，得道證竟已上四章並皆疊道。

> 「このように苦しみの集まりを滅ぼして、道という聖なる真理を体得した。他者から聞くことなく、諸々の道理の中に、真実を見る目と智慧が生じた。その苦しみの集まりを滅ぼし、道を悟る証を得た。やがて智慧も生じ、その苦しみの滅びに還り、道を得る証を終えた。<note>以上の四章は、いずれも道の教えを繰り返し述べている。</note>」

「『諸比丘！乃至我此四種聖諦，如是三轉十二因緣，如實未證，我未證得阿耨多羅三藐三菩提，未可得言我覺了也。

> 「比丘たちよ、この四つの聖なる真理について、三回の転倒と十二の因縁をありのままに証得せずしては、私は阿耨多羅三藐三菩提（最高の完全なる悟り）を証得したとは言えず、『私は覚った』とも言えなかったのである。

「『諸比丘！我以此四聖諦三種轉如實十二相證，然後始得阿耨多羅三藐三菩提，如是可言我覺了也。

> 「比丘たちよ、この四つの聖なる真理を、三つの段階と十二の形で如実に証得して、私ははじめて無上正等覚を成就したのです。こうして初めて、私は悟りを開いたと言えるのです。」

「『諸比丘！我於爾時，生智生見，不散亂心，正得解脫。諸比丘！此我最後生，更不受有也。』

> 「比丘たちよ、そのとき、わたしは智慧と見解を生じ、心を散乱させることなく、正しく解脱を得ました。比丘たちよ、これがわたしの最後の生です。もはや再び生存を受けることはありません。」

「佛說如是法相之時，長老憍陳如，即於彼坐，遠塵離垢，除諸纏縛，淨諸煩惱。於諸法中，得淨眼智，所有集法，一切皆滅。知法滅已，如實證知。譬如淨衣，無有垢穢，無有黑縷，隨所染處，而受其色。如是如是，彼憍陳如，即於坐處，諸垢皆除，煩惱盡滅，得法眼淨，如實而知。是時彼會六萬天子，遠塵離垢，亦於諸法，得淨眼智。

> 仏がこの法の相を説かれたとき、長老のカウンディニヤはその場で、塵を遠く離れ、汚れを離れ、あらゆる束縛を除き、煩悩を清めました。すべての諸法において、清らかな智慧の眼を得て、すべての集まる法はことごとく滅しました。法の滅することを知り、あるがままに悟りました。ちょうど清らかな衣に、汚れや穢れがなく、黒い糸もなく、染めるところに応じてその色を受けるようなものです。全く同じように、カウンディニヤはその坐った場所で、諸々の汚れをすべて除き、煩悩がことごとく滅し、法の清らかな眼を得て、あるがままに知りました。そのとき、その法会にいた六万の天子たちもまた、塵を遠く離れ、汚れを離れ、諸法において清らかな智慧の眼を得ました。

「爾時，世尊作師子吼，說是偈言：

> その時、世尊は獅子吼（力強い説法）を発して、次の偈を唱えられました。

「『不可言說法甚深， 真如寂靜無名字，最勝憍陳如先證， 我所求道得不空。』

> 「言葉では言い表せない教えは限りなく深く、 真実の世界は静かで、名前さえもない。 最も優れた修行者・カウンディニヤが自ら証し、 私の求める道は決して無駄にはならない。」

「而有偈說：

> そして、次のような偈（うた）で説かれています。

「『如是甚深法說時， 最勝世尊慈悲行，憍陳如得淨法眼， 復有諸天億萬千。』

> 「この深遠なる真理を説かれたとき、 最も尊き世尊は慈しみの行を示され、 お釈迦さまの説法を聞いたコンダンニャは清らかな法の眼を得、 さらに数え切れないほどの天の人々もまた同じく悟りを得たのです。」

「爾時，所有地居諸天，聞世尊說如是法相，一時大唱，作如是言：『仁者各知！今日婆伽婆、多陀阿伽度、阿羅呵、三藐三佛陀，在波羅㮈鹿野苑中，往昔諸仙所居住處，轉於無上微妙法輪。若有沙門、若婆羅門、若梵若魔，實不能轉如是法輪。』而說偈言：

> その時、この地に住むすべての天々が、世尊がこのような法の相を説かれるのを聞いて、一斉に声高らかにこう言いました。「皆さま、知ってください。本日、世尊・如来・応供・正遍知は、バラナシの鹿野苑、昔々の仙人たちが住んでいた場所において、この上なく微細で優れた法の輪を回転させられました。いかなる修行者も、バラモンも、天の神々も、魔王さえも、このような法の輪を回転させることは本当にできないのです。」そして、次のような偈を唱えました。

「『善哉世尊真如見， 為眾轉甘露法輪，持戒禪定輻輞釭， 慚愧精進軸鐧轂。甚深無異正真說， 建立是輪三界尊，今在波羅㮈城邊， 鹿野苑中如是轉。』

> 「素晴らしいお方です、世尊よ。真実（真如）を見つめ、 人々のために甘露の教えの車輪を回してくださいました。 戒律と禅定が車輪の輻（や）と辋（わ）となり、 慚愧（はじいる心）と精進が車軸や轂（こしき）となりました。 極めて深く、迷いのない真実の教えを説き、 三界の尊たる仏が、この教えの車輪を確立されました。 今、バラナシのほとり、鹿野苑（ろくやおん）において、 このようにして法輪（ほうりん）を転じられたのです。」

「爾時，彼處地居諸天唱是聲已，其聲上徹四天王天，四王聞已復傳唱聲，其聲中作如是言說：『今日世尊、多陀阿伽度、阿羅呵、三藐三佛陀，在波羅㮈鹿野苑中，轉於無上微妙法輪。一切世間，若有沙門及婆羅門，若梵若魔，實無有人能然轉者。』

> その時、地に住む天部の神々がこの言葉を唱えると、その声は四天王天にまで届きました。四天王はこれを聞くと、さらに声を伝え広めました。その声はこう告げました。 「今日、世尊・多陀阿伽度・阿羅呵・三藐三佛陀が、バラナシの鹿野苑において、この上なく深い教えの輪（法輪）を回し始められました。この世のすべての者たち――修行者や僧侶、神々や魔王たちの中で――だれ一人として、この教えの輪を自ら回すことのできる者はいません。」

「四天王天作是聲時忉利天聞，忉利天王如是作聲夜摩天聞，夜摩作聲兜率天聞，兜率作聲化樂天聞，化樂作聲他化天聞他化作聲，梵天王聞。時梵天王即作是言：『今日世尊、多陀阿伽度、阿羅呵、三藐三佛陀，在波羅㮈鹿野苑中，轉於無上微妙法輪。一切世間，若有沙門，及婆羅門、一切魔梵，實不能轉。』如是次第，經一念頃時上諸天，各各相告，其聲遍滿，如是乃至大梵天所。

> 四天王天がその声を発すると、忉利天がそれを聞く。忉利天の王がこう声を発すると、夜摩天が聞く。夜摩天が声を発すると、兜率天が聞く。兜率天が声を発すると、化楽天が聞く。化楽天が声を発すると、他化天が聞く。他化天が声を発すると、梵天王が聞く。 その時、梵天王がこう言った。「今日、世尊、多陀阿伽度、阿羅呵、三藐三佛陀が、波羅奈国の鹿野苑において、この上なく微妙な法の輪を転じられた。この世のいかなる沙門もバラモンも、すべての魔や梵天も、決してこれを転じることはできない。」こうして次第に、一瞬のうちに諸天たちが互いに告げ合い、その声は遍く満ちわたり、ついには大梵天の所にまで届いたのである。

「爾時，娑婆世界之主大梵天王，既聞聲已，復發如是梵音唱言：『今日世尊、佛、婆伽婆、多陀阿伽度、阿羅呵、三藐三佛陀，在波羅㮈鹿野苑中，轉於無上微妙法輪。一切世間，若有沙門，若婆羅門、天人魔梵，實無有人能作如是如法轉者。』如是次第，至有頂天。

> この時、この娑婆世界の主である大梵天王は、その声を聞いて、再びこのような梵音を発して唱えました。 「今日、世尊・仏・婆伽婆・多陀阿伽度・阿羅呵・三藐三仏陀が、波羅奈の鹿野苑において、無上の微妙な法輪を回転させられました。一切の世間において、沙門や婆羅門、天・人・魔・梵のいずれにも、このように真実の法に従って説くことができる者は、確かに誰もいません。」 このようにして順に、有頂天に至るまでに広まりました。

「爾時世尊當轉法輪，是時天人魔梵沙門，及婆羅門，一切世間，大光普照。其鐵圍山，大鐵圍山，其兩山間，幽冥黑暗，所有眾生，受極重苦；而此日月，如是光明，如是大德，如是神通，如是威力，如是自在，而於彼處，不能照耀、不能令光；佛威神故，彼處普照、其中眾生，得光明故，各各相見，各各相知，各相謂言：『此處亦復有眾生也已上兩句梵本再稱。』

> 爾の時、世尊が法輪を転じようとされた。その時、天、人、魔、梵天、沙門、婆羅門など、一切の世間に大いなる光が普く照らされた。その鉄囲山、大鉄囲山、その二つの山の間は、深く暗黒で、そこにいる衆生は極めて重い苦しみを受けている。しかるに、これらの日月は、これほどの光明、これほどの功徳、これほどの神通、これほどの威力、これほどの自在さを持ちながら、その場所を照らすことができず、光をもたらすことができない。しかし、仏の威力のおかげで、その場所が普く照らされ、その中の衆生は光明を得て、互いに見え合い、互いに知り合い、互いに言い合った。「ここにもまた、衆生がいるのだ。」

「爾時，世界土地所有一切樹木，百卉藥草，悉皆順時，隨其種類大小，各各自生莖葉花果，生已花自然來雨於佛上，為供養故。其虛空中清淨，無有塵霧烟霞，暫起輕雲，降微細雨，以灑於地，雨水清涼，具八功德。雨已還晴，復起微風，涼冷調適，四方皆淨，顯現分明，無有塵翳。上界虛空諸天聚集，作天音樂，唱天妙歌，雨天種種曼陀羅花，并及摩訶曼陀羅花。又雨諸天細妙之衣，雨天金銀琉璃所作七寶蓮花，復雨無量優鉢羅花、波頭摩花、拘物頭花、分陀利花，下如來上；復雨無量種種雜香末香塗香，散如來上，散已復散。如來坐處，四面周匝方一由旬，其種種花悉皆遍滿，間無空缺。復此大地，六種震動，動、遍動、等遍動，震、遍震、等遍震，涌、遍涌、等遍涌，吼、遍吼、等遍吼，覺、遍覺、等遍覺，一切眾生一向悉皆受大快樂。於彼時中，無一眾生有慾惱者、瞋恚惱者、愚癡惱者、我慢惱者、貢高惱者，不驚不怖，無一眾生造作諸罪。若患眾生，即得除差；飢渴眾生，即得飽滿；酒醉眾生，即得醒悟；顛狂眾生，皆得本心。盲者得視，聾者得聽；若有六根不完具者，悉得具足；貧凍倮露諸眾生等，皆得富饒；羸瘦眾生，皆得肥滿；繫閉眾生，皆得解脫；枷鏁杻械諸眾生等，自然得出；地獄眾生，即得滅惱；六畜眾生，無有驚怖；餓鬼眾生，飢渴得定。如是因緣，其憍陳如，得名證智。

> その時、世界中のすべての樹木や草花、薬草は、それぞれの季節に従い、種類や大きさに応じて、自ら茎や葉や花や実を生じました。花が咲くと、自然に花が仏の上に降り注ぎ、供養となりました。虚空は清らかで、塵や霧、霞はなく、たちまち薄い雲が現れて細かな雨を降らせ、地を潤しました。その雨水は清らかで冷たく、八つの功徳を備えていました。雨が上がるとすぐに晴れ、さらに涼やかな微風が吹き、四方はすべて清らかになり、はっきりと現れて、塵の翳りはありませんでした。 上の虚空には、諸々の天人が集まり、天の音楽を奏で、天の妙なる歌を歌い、天の様々な曼陀羅花や大曼陀羅花を降らせました。また、天の細やかな衣や、金、銀、瑠璃で作られた七宝の蓮華を降らせ、無量の優鉢羅花、波頭摩花、拘物頭花、分陀利花を如来の上に降らせました。さらに、無量の様々な香、抹香、塗香を如来の上に降らせては、また降らせました。 如来の座所の周囲、一由旬の四方には、それらの様々な花が満ち溢れ、隙間なく敷き詰められました。また、この大地は六種に震動しました。動じ、遍く動じ、等しく遍く動じ、震え、遍く震え、等しく遍く震え、湧き、遍く湧き、等しく遍く湧き、吼え、遍く吼え、等しく遍く吼え、覚め、遍く覚め、等しく遍く覚えました。すべての衆生は、一様に大きな安楽を受けました。 その時、欲望に煩わされる者、怒りに煩わされる者、愚かさに煩わされる者、我慢に煩わされる者、高ぶりに煩わされる者は一人もおらず、驚きや怖れもなく、罪を犯す者もいませんでした。病に苦しむ者は、すぐに治りました。飢えや渇きに苦しむ者は、満たされました。酒に酔った者は、醒めました。気が狂っていた者は、正気を取り戻しました。目の見えなかった者は見えるようになり、耳の聞こえなかった者は聞こえるようになりました。六根が完全でなかった者は、すべて完全になりました。貧しく凍え、裸でいた者たちは、皆、豊かになりました。痩せ衰えていた者は、肥え満ちました。閉じ込められていた者は、解き放たれました。枷や鎖、手錠、足枷をはめられていた者たちは、自然に外れました。地獄の衆生は、たちまち苦しみが消えました。畜生の衆生は、驚き怖れることがなくなりました。餓鬼の衆生は、飢えと渇きが治まりました。 このような因縁によって、憍陳如は、証智を得たと名付けられました。

「爾時，長老憍陳如身如實得見一切諸法，如實得知一切諸法，如實得證一切諸法，如實得度煩惱險路，度煩惱磧，度無疑處，心中決定無有滯礙，已得無畏，不從他學。時憍陳如，知彼法行，從坐而起，頂禮佛足，胡跪合掌，而白佛言：『善哉！世尊！我入佛法，世尊度我，以為沙門，與具足戒，願作比丘。』

> その時、長老カウンディニヤは、自らの身をもって、一切の諸法をありのままに見、ありのままに知り、ありのままに悟り、煩悩という危険な道を乗り越え、煩悩の砂漠を渡り、疑いのない境地に至った。彼の心は決然として滞ることがなく、すでに無畏（おそれのない境地）を得て、他者から学ぶ必要もなかった。その時、カウンディニヤはその法の実践を理解し、座から立ち上がり、仏の足に頭を触れて礼拝し、ひざまずいて両手を合わせ、仏に向かってこう申し上げた。「素晴らしきかな、世尊よ。私は仏法に入りました。世尊は私を導き、沙門となし、具足戒をお授けください。比丘となることを望みます。」

「爾時，佛告憍陳如言：『善來比丘！入我法中，行於梵行，盡苦邊故。』是時長老憍陳如，身即便出家，成具足戒；餘四比丘，各說法要，隨機教授。而彼眾中，有三比丘，乞食他行，唯二比丘，稟受教誨；其後三人，既將食來，合有六人，相共坐食。彼等已得如來說法教化承受，當是之時，次一長老，跋提梨迦隋言小賢，其次長老名婆沙波隋言起氣，是等二人，即於坐中，遠塵離垢，盡諸結惑，淨煩惱界，於諸法中，得法眼淨，所有結惑，一切皆盡，識無常法，如實證知。譬如淨衣，無有黑縷，無有脂膩，隨所欲染，正受其色。如是如是，而彼長老跋提梨迦，并及長老婆沙波等，在於彼坐，遠塵離垢，得淨法眼，略說乃至，即成出家，得具足戒。

> その時、仏は憍陳如に告げられた。「善来、比丘よ。我が法の中に入り、清らかな行いを修して、苦しみの果てを尽くしなさい。」 このとき、長老の憍陳如はすぐに出家し、具足戒を成就した。残りの四人の比丘も、それぞれ法の要を説き、機に応じて教えを授けた。 その中で、三人の比丘は托鉢のために別の場所へ行き、ただ二人の比丘だけが教えを受けていた。その後、三人が食物を持ち帰り、合わせて六人となり、共に座って食事をした。 彼らはすでに如来から法を説かれ、教えを受けていた。その時、まず一人の長老、跋提梨迦（隋の言葉で「小賢」という）、次に長老の婆沙波（隋の言葉で「起気」という）、この二人がその座の中で、塵を離れ汚れを去り、すべての煩悩を尽くし、煩悩の境界を清めて、諸々の法において清らかな法の眼を得た。すべての煩悩は尽き、無常の法をありのままに証知した。 ちょうど、清らかな衣に黒い糸も脂の汚れもなく、望むままの色に染まるように、それと全く同じように、長老の跋提梨迦と婆沙波は、その座において、塵を離れ汚れを去り、清らかな法の眼を得た。簡潔に言えば、彼らはただちに出家し、具足戒を得たのである。

「如是次第，彼後來人所乞食者，如法教化，如法攝受。世尊如法示現之時，彼之長老摩訶那摩隋言大名，并及長老阿奢踰時隋言調馬，即於彼坐，遠塵離垢，於諸法中，得淨法眼。如是如是，長老大名、長老調馬，即於彼坐，盡煩惱垢，如實證知。彼等自見得諸法相，度法相已，無復疑心，到無畏地，不從他聞。於佛法中，得知證已，從坐而起，頂禮佛足，在於佛前，胡跪合掌，而白佛言：『唯願世尊！聽我出家，與我具戒。』

> そのようにして、後に食を乞うた者たちも、その教えのままに導かれ、その教えのままに受け入れられた。 世尊がそのように教えを示されたとき、長老マハーナーマ（隋でいう大名）と長老アーシュヴァユージャ（隋でいう調馬）は、その場で塵と垢を離れ、諸々の法の中で清らかな法の眼を得た。 まさにそのように、長老大名と長老調馬は、その場で煩悩の垢を尽くし、如実に証知した。彼らは自ら諸々の法の相を見、法の相を超えたことによって、もはや疑いの心なく、畏れのない境地に至り、他から聞くことなく、仏法の中に証を得て悟った。 そして、座から立ち上がり、仏の足に頂礼し、仏の前にひざまずいて合掌し、こう申し上げた。 「どうか世尊よ、私どもが出家することをお許しください。また、具足戒をお授けください。」

「爾時，佛告二比丘言：『汝等比丘！善來入我自說法中，行於梵行，正盡苦邊。』時二長老，即成出家，得具足戒。而有偈說：

「『小賢起氣憍陳如， 摩訶那摩及調馬，彼等初證知見此， 如來甘露鼓法門。』

「爾時，世尊即告彼等五比丘言：『汝諸比丘！我日夜恒行正念故，正行行已，得於無上正真解脫，具足證知。汝等比丘！應當學我作如是念，行於正行，汝等亦當得此無上正真解脫，當證知耳。』

「爾時，魔王波旬往詣佛世尊所，到佛所已，即以偈頌，而白佛言：

「『瞿曇以慾愛自纏， 一切天慾及人慾，今既入此大纏縛， 我決不放汝沙門。』

「爾時，世尊思惟知是魔波旬說，世尊如是思惟知已，即還以偈答波旬言：

「『我以久脫諸愛纏， 天慾人慾悉並離，大縛我既得出訖， 況復汝先被我降。』

「爾時，魔王波旬聞佛說此偈已默然而住，如是思惟：『沙門瞿曇！知我意行。沙門釋子！見我心情』。即懷悵怏，苦惱不樂，於彼地方，沒身不現。

「爾時，世尊復更重告五比丘言：『汝等比丘！若知諸色是無我者，是色則不作惱壞相，當不受苦，應如是見，應如是知。如是有色，以色無我，是故一切色能生惱，色能生苦。雖生苦惱，亦不可得色之定性。色既不定，亦不可願色如是有，亦不可道願如是無。其色既然，受想行識，亦復如是。

「『汝等比丘！當知於識亦無有我，識若有我，此識應當不作於惱，不作於苦，以識體無不可得故。云何乃得作如是有？亦不可道願如是無。以識無我，是故識能作惱作苦，以識本無，即不可願識如是有、如是不有。』

「復告比丘：『於汝意云何？識為當常？為當無常？』時諸比丘即白佛言：『世尊！此識無常。』佛復問言：『識既無常，為苦為樂？』諸比丘言：『世尊！此識是苦。』佛復告言：『識既是苦、無常、破壞，非是正法，非是常住。若能如是見於識者，乃可能作如是思惟：「彼是於我，或我是彼，或我見我是於我耶？」』諸比丘言：『不也世尊。』

「佛告諸比丘：『汝等當知！所有諸色，或過去色，現在未來，若內若外，若麤若細，若上若下，若近若遠，一切不可作如是念：「彼是於我，我是於彼。」如是如是，如實正智，應須如是。所有一切受想行識，過去未來，現在內外。麤細上下，遠近諸識，不作是念：「我是於彼，彼是於我，或我是我。」如是如是，如實正見，當如是知。』

「佛告諸比丘：『汝等當知！若有多聞聲聞之人，能作如是思惟見者，當厭離色受想行識；既厭離已，一切不樂；既心不樂，而得解脫；既得解脫，當生是智，我生已盡，梵行已立，所作已辦，不受後有，我如是知。』

「爾時，世尊說是法已，時五比丘於有為中，諸漏滅盡，心得解脫。當於是時，此世間有六阿羅漢，一是世尊，五是比丘。而於後時，如來授記：『汝等比丘！若知我初轉於法輪說法之時，不違我教，最第一者，謂五仙首，其憍陳如比丘是也。』」

時，諸比丘聞是語已，即白佛言：「希有世尊！其憍陳如長老比丘，作何善根？以是因緣，如來初轉無上法輪，其能不違。」作是語已。

爾時，佛告諸比丘言：「汝等比丘！至心諦聽。我念往昔，還在此處波羅捺城，有一瓦師。是時彼有一辟支佛，身體帶患，欲治病故，入於聚落。夏將欲至，其辟支佛，為治病故，詣瓦師邊，既到彼已，語瓦師言：『仁者瓦師！汝若不辭，我寄汝家一夏安坐，乃至治病，將息差故。』時彼瓦師，以清淨心，白辟支佛，作如是言：『善哉大仙！此語不違，隨意而住。我當稱力，給奉大仙，四事供養。』時彼瓦師，為辟支佛，去家不遠，作一房屋，與彼令坐，安施臥具，蠅拂燈脂。時辟支佛，即於彼夜，入火三昧。時彼瓦師，見大火光，作是思惟：『何故此燈如是熾明而久不滅？莫彼草屋被火所燒？』

「爾時，瓦師安徐輕足，至草菴所，密私伺看，見辟支佛，結加而坐，如大火聚，熾然放光，其身儼然不被燒爇。瓦師見已，速疾却看，急走而還，後日信心倍生希有。而彼尊者辟支佛，住彼瓦師家，如是寂靜，經停一夏，安居將養，而彼瓦師所須四事，悉皆供奉而供養之。復將醫師，遣為治病，須藥療者，悉皆與之，而不能得彼辟支佛身病損差。彼辟支佛，既因身病，遂便命終。

「爾時，瓦師見彼尊者辟支佛身入般涅槃，見已悵怏，憂愁不樂，啼哭流淚，嗚呼稱冤。是時無量無邊人民，聞彼瓦師哭泣聲已，詣彼借問言：『汝瓦師！何故如是嗚呼而哭？』時彼瓦師，向彼人輩，說辟支佛神通因緣：『此之仙人，如是精進，如是持戒，常行妙法，我將醫師，來為療治，不能得差。』

「爾時，別有諸辟支佛，唯少一人，不滿五百，將栴檀木，以神通飛從空而來，闍維於彼辟支佛身訖，而慰勞彼瓦師言：『仁者瓦師！汝心應生歡喜踴躍遍滿於體。何以故？汝既供養此仙人身，汝此功德，汝當來世大得善利。汝見我等神通已不？』瓦師言：『見。』

「爾時，彼等諸辟支佛復語瓦師，作如是言：『如今我等所作神通，此之仙人神通亦然，於我等邊，此最老大。』時彼瓦師即問彼等辟支佛言：『尊者今居在何處所？』諸辟支佛報瓦師言：『去於此處，有一聚落，名王舍城，去城不遠，有一山名諸仙居山，我等居在彼處而住。』

「爾時，瓦師即白彼等辟支佛言：『善來諸仙！受我家食，訖隨意去。』

「爾時，彼等諸辟支佛一切皆受彼之飯食，食訖已後語瓦師言：『於當來世，有佛出現，汝於彼邊，發心乞願，藉此功德清淨之心。』聞已即白彼諸仙聖辟支佛言：『尊諸仙輩！前我門師，最老最大，願我亦然，於未來世，當得值遇釋迦如來，教法之中得出家者，願我老大成最上座。』彼等仙言：『願汝此誓決成就也。』

「爾時，彼等諸辟支佛與於瓦師此誓願已，即從彼處，飛空而去。瓦師既見辟支佛等飛騰虛空，神通而行，以清淨心，觀彼等行，合十指掌，頂禮彼等。爾時瓦師，見彼尊者辟支佛身入般涅槃，收其舍利，而起於塔，莊嚴彼塔，著好相輪，輪內懸鈴，繒綵幡幢，將諸香花，燒香末香塗香，而以供養。發誓願言：『藉此善根，於當來世，願值於彼釋迦如來，彼所說法，願我證知，我於彼邊願成最大最老聲聞。』汝等比丘當知！爾時彼瓦師者，今此長老大憍陳如比丘是也。其憍陳如，往昔供養彼辟支佛，以是善根因緣力故，今於我邊，最初說法而得證知。我復授記，於諸僧內最初知法，不違我心，於先出家，謂憍陳如比丘是也。」