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title: "洛陽伽藍記 · 永明寺"
description: "洛阳伽蓝记是北魏时期杨衒之撰写的一部佛教地理志著作，成书于东魏武定五年（547年）。该书以洛阳佛寺兴衰为线索，详细记载了北魏都城洛阳的佛教寺院布局、建筑规模及历史变迁，反映了北魏佛教鼎盛时期的宗教文化面貌。作者杨衒之通过实地考察，记录了四十余座著名伽蓝的沿革、形制与典故，兼具史料价值和文学价值。作为中国现存最早的寺院志专书，它不仅为研究北朝佛教史、建筑史和社会史提供了珍贵资料，更成为后世了解中原佛教艺术与都市规划的重要文献，在佛教典籍中具有独特地位。"
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永明寺。宣武皇帝所立也。在大覺寺東。時佛法經像盛於洛陽。異國沙門咸來輻輳。負錫持經。適茲藥土。世宗故立此寺以憩之。房廡連亘一千餘間。庭列脩竹。簷拂高松。奇花異草。駢闐堦砌。百國沙門三千餘人。西域遠者乃至大秦國。盡天地之西垂。績紡百姓野居。邑屋相望。衣服車馬。擬儀中國。南中有歌營國。去京師甚遠。風土隔絕。世不與中國交通。雖二漢及魏亦未曾至也。今始有沙門焉子善提拔陀。自云北行一月日。至勾稚國。北行十一日至孫典國。從孫典國北行三十日至扶南國。方五千里。南夷之國最為強大。民戶殷多。出明珠金玉及水精珍異。饒檳榔。從扶南國北行一月至林邑國。出林邑入蕭衍國。拔陀至楊州歲餘。隨楊州比丘法融。來至京師。沙門問其南方風俗。拔陀云。古有奴調國。乘四輪馬為車。斯調國出火浣布。以樹皮為之。其樹入火不燃。凡南方諸國。皆因城廓而居。多饒珍麗。民俗淳善。質直好義。亦與西國大秦安息身毒諸國交通往來。或三方四方浮浪乘風。百日便至。率奉佛教。好生惡殺。寺西有宜牛里。里內有陳留王景皓侍中安定公胡元吉等二宅。景皓者河內刺史陳留莊王祚之子。立性虛豁。少有大度。愛人好事。待物無遺。夙善玄言道家之業。遂捨半宅安置佛徒。演唱大乘數部並進。京師大德超光𣆴榮四法師三藏胡沙門菩提流支等咸預其席。諸方伎術之士莫不歸赴。時有奉朝請孟仲暉者。武城人也。父賓金城太守。暉志性聰明。學兼釋氏。四諦之義窮其旨歸。恒來造第與沙門論議。時號為玄宗先生。暉遂造人中夾貯像一軀。相好端嚴。希世所有。置皓前廳須臾彌寶坐。永安二年中。此像每夜行遶其坐。四面脚跡隱地成文。於是士庶異之。咸來觀矚。由是發心者亦復無量。永熙三年秋。忽然自去。莫知所之。其年冬而京師遷鄴。武定五年暉為洛州開府長史。重加採訪。寥無影迹。出閶闔門城外七里。長分橋。中朝時。以穀水浚急注於城下多壞民家。立石橋以限之。長則分流入洛。故名曰長分橋。或云。晉河間王在長安。遣張方征長沙王。營軍於此。因為張方橋也。未知孰是。今民間訛語。號為張夫人橋。朝士送迎多在此處。長分橋西有千金堰。計其水利日益千金。因以為名。昔都水使者陳勰所造。令備夫一千歲恒修之。

> 永明寺は、宣武皇帝が建てられた寺院である。大覚寺の東に位置する。当時、仏法や経典、仏像は洛陽で大いに栄えており、異国の僧侶たちも皆、ここに集まってきた。錫杖を担ぎ、経典を携えて、この地にやって来たのである。宣武皇帝はこの寺を建てて、彼らを休息させた。建物は続いて一千余りの房があった。庭には細い竹が並び、軒には高い松がかかっていた。珍しい花や草が、階段や庭にびっしりと咲き並んでいた。百か国の僧侶、三千余人がいた。西域の遠い者ともなると、大秦国にまで至った。それは天地の西の果てである。そこでは、紡績に従事する民が野に住み、家々が連なり、衣服や車馬は中国の風習に倣っていた。南方には歌営国という国があった。京師から非常に遠く、風土も隔絶していて、世々中国とは交流がなかった。漢の二朝や魏の時代にも、中国に来たことはなかった。今になって初めて僧侶が来たのである。その僧侶は子善提拔陀と名乗った。彼の話によると、北へ一ヶ月歩いて勾稚国に至り、北へ十一日歩いて孫典国に至り、孫典国から北へ三十日歩いて扶南国に至ったという。扶南国は周囲五千里で、南方の国々の中で最も強大であった。人口は多く、真珠や金・玉、水晶などの珍しいものを産出し、檳榔（ビンロウ）も豊富にあった。扶南国から北へ一ヶ月歩いて林邑国に至った。林邑国から出て蕭衍国に入った。抜陀は楊州に一年余り滞在し、楊州の比丘・法融に従って京師に来たのである。僧侶たちが南方の風俗を尋ねると、抜陀は言った。昔、奴調国という国があり、四輪の馬車を使っていた。斯調国は火浣布（火に強い布）を産出し、それは樹皮で作られていた。その樹は火に入っても燃えなかった。およそ南方の諸国は、皆城郭を築いて住んでおり、珍しい美しいものが多かった。民俗は純朴で善良、質実で正義を好んだ。また西方の国々、大秦、安息、身毒などの諸国とも交流があり、往来していた。あるいは三方、四方から風に乗って海を渡り、百日で到着することもあった。皆仏教を信奉し、生を好み殺生を嫌った。 寺の西には宜牛里という里があった。里の中には陳留王景皓と侍中・安定公胡元吉らの二つの邸宅があった。景皓は河内刺史・陳留荘王祚の子である。性格はおおらかで、若い頃から度量が大きく、人を愛し善行を好み、人や物に対して取り残すことがなかった。若い頃から玄言や道家の学問をよくしており、ついに家の半分を捧げて仏教徒を安置した。大乗の教えを講演し、数部の経典を並行して進めた。京師の大徳である超光、𣆴栄の二人の法師や、三蔵の胡沙門・菩提流支らも皆その席に参加した。各方面の技芸に優れた者たちも、皆そこに集まった。 当時、奉朝請の孟仲暉という者がいた。武城の人である。父は賓といい、金城太守であった。仲暉は聡明で、仏教の学問も修めていた。四諦の義理を究めていた。常に邸宅を訪れて僧侶と議論した。当時、玄宗先生と呼ばれた。仲暉はついに人型の夾貯像一体を作った。相好は端厳で、世に稀なものであった。これを景皓の前の広間に置くと、たちまち宝座を満たした。永安二年、この像は毎夜、その座の周りを歩き回った。四方の足跡が地面に残って模様となった。そこで士人や庶民はこれを不思議に思い、皆来て見物した。これによって発心する者もまた無量であった。永熙三年の秋、忽然として自ら去り、誰もその行方を知らなかった。その年の冬、京師は鄴に遷都した。武定五年、仲暉は洛州開府長史となり、改めて調査したが、まったく影も形もなかった。 閶闔門の城外七里のところに長分橋がある。中朝の時代、穀水が急流で城下に注ぎ込み、民家を多く壊したため、石橋を立てて水を制限した。長い時は分流して洛に流れ込んだ。そこで長分橋と名付けた。あるいは、晋の河間王が長安にいたとき、張方を派遣して長沙王を征討させ、この地に軍を営んだ。そのため張方橋と呼ばれたという。どちらが正しいかはわからない。今は民間で訛って、張夫人橋と呼ばれている。朝廷の士人たちは送迎の際に多くこの場所で行った。 長分橋の西には千金堰がある。その水利を計算すると、一日に千金の価値があるため、この名がついた。昔、都水使者の陳勰が造ったものである。毎年千人を常備して、恒に修理させていた。

## 洛陽城西伽藍記卷第四