---
title: "出曜經 · 3 愛品"
description: "出曜经是姚秦时期著名译经师竺佛念所译的佛教经典，属于早期汉传佛教重要文献之一。该经主要阐述佛陀的教法，内容涵盖修行方法、因果业报、戒律规范等核心教义，具有鲜明的实践指导意义。竺佛念作为五世纪初重要译经家，其译文准确流畅，对佛教在中国的传播影响深远。出曜经不仅反映了早期佛教思想体系，也为研究中国佛教发展史提供了珍贵资料，在汉传佛教经典中占有重要地位，是了解原始佛教教义的重要参考典籍之一。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmczndifh1mgzjj044gi4wzbj"
---

## 出曜經卷第五

> 『出曜経』第五巻

姚秦涼州沙門竺佛念譯

> 姚秦涼州沙門竺仏念訳

### 愛品第三

> 愛の章 第三

夫人無止觀， 多欲觀清淨，倍增生愛著， 縛結遂固深。

> 欲望の多い人が、清らかなものだけを見ようとすると、 かえって愛着が倍に膨らみ、 心の束縛はますます深く固まってしまう。

夫人無止觀者，如有人不善觀，染著身心纏裹不解，於其中間不能思惟善法，是故說曰，夫人無止觀，不得至于道。多欲觀清淨者，或有眾生，染著於欲不染著於結，或有染著於結不染著於欲，或有亦染著於欲亦染著於結，或有不染著於結亦不染著於欲。云何眾生染著於欲不染著於結？於是有人，初習於欲，後更不犯，是謂染著於欲不染著於結。或復有人數數習結而不去離，是謂習結不習欲。云何亦習結亦習欲？或有眾生數數習欲亦習結，是謂習欲亦習結。云何亦不習欲亦不習結？或有眾生，恩愛意斷不著世累，亦不專意數數習近。或復有人從頭至足，觀身萬物，計齒白淨手爪殊妙髮紺青色，於中起想不能捨離，遂增愛根，縛結轉復堅固，為諸結所縛。今當引喻，智者以譬喻自解。猶如有人，而被二繫：一者革索，二者龍鬚索。將至火邊，以火炙之，革索便急、龍鬚索緩；若將入水，革索便緩、龍鬚索急。未斷欲眾生亦復如是，為二縛所繫。云何為二縛？一者愛縛，二者見結。或時眾生思惟不淨觀，愛結便緩、見結便急。有時眾生思惟安般守意，見結便緩、愛結便急。是故說縛結遂固深。

> 止観を欠いた人は、不善な観察をする者のように、身心に染まり執着して絡み合い、解けなくなります。その間に善い法を思惟することができません。それゆえに説かれました、「止観を欠いた人は、道に到達できない」と。 欲望が多くても観が清浄な者について。ある衆生は欲望に染まっても結に染まらず、ある衆生は結に染まっても欲望に染まらず、ある衆生は欲望にも結にも染まり、ある衆生は結にも欲望にも染まらない。 どのような衆生が欲望に染まっても結に染まらないのか。ここに人がいて、初めは欲望を習っても、後にはさらに犯さない。これが欲望に染まっても結に染まらないということです。 あるいはまた、繰り返し結を習って離れない人がいる。これが結を習って欲望を習わないということです。 どのように欲望も結も習うのか。ある衆生は繰り返し欲望を習い、また結も習う。これが欲望も結も習うということです。 どのように欲望も結も習わないのか。ある衆生は、恩愛の心を断ち、世の煩いにとらわれず、また専心に繰り返し近づくこともない。 あるいはまた、頭から足まで身体の万物を観察し、歯の白く清らかなこと、手の爪の見事なこと、髪の紺青色を数え、そこに想いを起こして捨て離れることができず、ついに愛の根を増やし、結縛はますます堅固になり、諸々の結に縛られます。 ここで譬えを引いて、智者は譬えによって自ら理解します。ちょうど人が二つの縄で縛られているようなものです。一つは革の縄、二つは龍の鬚の縄。火のそばに連れて行き火で炙ると、革の縄は急に縮まり、龍の鬚の縄は緩みます。水に入れると、革の縄は緩み、龍の鬚の縄は急に縮まります。欲望を断たない衆生もまた同じで、二つの縛りに縛られています。 二つの縛りとは何か。一つは愛の縛り、二つは見の結です。ある時、衆生が不浄観を思惟すると、愛の結は緩み、見の結は急になります。ある時、衆生が安般守意を思惟すると、見の結は緩み、愛の結は急になります。それゆえに説かれました、縛と結はますます固く深くなると。

若有樂止觀， 專意念不淨，愛此便得除， 如是消滅結。

> もし楽しみのために止観を続け、ひたすら不浄を心に念じるならば、 この愛着はすぐに取り除かれ、こうして煩悩の結び目は消え去ります。

若有樂止觀者，若使有人樂捨觀不善、思惟善觀，恒常親近修學，不離繫念，在前修行不淨念，自校計前所意著髮毛爪齒，從頭至足皆是我所，後復思惟穢污不淨，三十六物無可貪者，一一分別，尋得不淨觀。身觀身意止，內外意法也。愛此便得除者，以慧證盡證而除去愛。思惟不淨者，便能去愛著，亦不能縛著，永棄諸結，更不習近，是故說曰，如是消滅結也。

> もし止観を楽しむ人があれば、観不善を捨てて善観を思惟することを楽しみ、常に親しく修行に励み学び続け、繫念を離さず、前に不浄念を修行し、自ら髪・毛・爪・歯を検討し、頭から足まで皆わが身であると観じ、その後さらに穢れ汚れた不浄を思惟し、三十六の要素のうち貪るべきものは何もないと一つ一つ分別し、やがて不浄観を得るのです。身をもって身を観ずる意止は、内外の意法です。これを愛することができれば除かれるというのは、慧によって尽く証し証して愛を除くということです。不浄を思惟する者は、愛着を去ることができ、縛られることもなく、永く諸の結を捨て、再び近づくことはありません。それゆえに説いて言うのです、このように結を消滅するのだと。

以欲網自弊， 以愛蓋自覆，自恣縛於獄， 如魚入於獄，為老死所伺， 若犢求母乳。

> 欲の網に自らを縛られ、愛の覆いに自らを覆われて、 心のままに獄に縛られる。魚が網に入るように、 老と死に狙われている。子牛が母の乳を求めるように。

以欲網自弊者，網者覆弊人目損智不明，不能出要至無為道，網者不能專意思惟校計，以無明自覆弊。以愛蓋自覆者，以愛自纏裹求出無期，猶如剛火灰覆不現，無智之士，以脚蹈踐燒足乃覺。愛所覆蓋亦復如是，猶如刀劍仰向，無目之士，以手把持即自被傷。諸眾生類亦復如是，以愛結自覆，不觀善不善法，緣是興起憂悲苦惱，輪轉生死不離五道，是故說曰，以愛蓋自覆也。自恣縛於獄者，諸有自恣不順正教，為愛縛所縛；不自恣者，便離於縛。如魚入於獄者，猶如魚獵執羅網捕魚，以入羅網無有出期。此眾生類亦復如是，捨於善法，習於穢濁，不要之道，如來說法，時會眾生大眾之中，有如魚入於獄求出無有期。此眾生類亦復如是，為愛結所纏，不能得至泥洹無為之道，時彼獵人聞佛說頌，各自驚愕：「如來說法，不為餘人正為我等。」各自悔責，改所修習更不為惡，是故說曰，猶魚入於獄。諸佛常所說法，接有緣眾生不唐舉義，猶如醫師，審病根原，而後授藥。是時師瞻知病輕重，相顏視色然後授藥，當授藥時，不增不減處中瞻視。所以然者，恐病不除。諸佛世尊為人說法亦復如是，觀察眾人心意所趣，知病輕重然後說法，使得開解，心無減少要處中說，除諸結使。觀眾生心，須一偈者便說一偈，須五句者與說五句，須一句半者與說一句半。爾時世尊觀察獵者意故，說斯偈，其中自恣放逸意者，便與說此，為老死所伺，如犢求母乳也，猶如新生犢子，其心終不離母。此眾生類亦復如是，為老死所追，如影隨形。若利根眾生善察分別，便得離此眾患苦惱，增益善本；若鈍根眾生不作此觀，則無所成。是故說曰，為老死所伺，如犢求母乳。

> 欲望の網に自らを覆われている者について。網は人の目を覆い隠し、智慧を損ない、明らかにしない。真理を出て無為の道に至ることができない。網にかかった者は、心を専一にして思惟し考察することができない。無明によって自らを覆い隠しているからである。 愛という蓋に自ら覆われている者について。愛に自ら纏わりつかれ、解脱を求めるのに期限がない。まるで熱い火を灰が覆って見えなくしているようなもので、智慧のない人は足で踏みつけて焼けてからようやく気づく。愛に覆われているのもまた同じである。まるで刀剣を上に向けて立てておき、目の見えない人が手で握って自ら傷つくようなものである。すべての衆生もまた同じである。愛の結縛に自ら覆われ、善法と不善法を観察せず、そのために憂い・悲しみ・苦しみが起こり、生死を輪転して五道を離れることができない。それゆえに説くのである、「愛という蓋に自ら覆われている」と。 「自恣に獄に縛られる」について。自恣にして正しい教えに従わない者は、愛の縛りに縛られる。自恣にしない者は、縛りから離れることができる。「魚が獄に入るようだ」について。まるで魚を捕る者が網を張って魚を捕らえると、網に入った魚は出る時期がないようなものである。この衆生もまた同じである。善法を捨て、穢れた濁った行いを習い、要らない道を歩む。如来が説法なさる時、集会の大衆の中に、魚が獄に入って出ようとしても期限がないような者がいる。この衆生もまた同じである。愛の結縛に纏わりつかれ、泥洹の無為の道に至ることができない。 その時、猟師たちは仏の説かれた詩を聞いて、それぞれ驚きおののいた。「如来の説法は、他の人のためではなく、まさに私たちのためであったのだ。」それぞれ悔い改め、自らを責め、修めていた行いを改めて、再び悪を行わなかった。それゆえに説くのである、「魚が獄に入るようだ」と。 諸仏が常に説かれる法は、縁ある衆生を救うのであって、意味もなく言葉を発することはない。まるで医師が病の根源をよく見極めてから薬を与えるようなものである。その時、師は病の軽重をよく見て、顔色や表情をうかがい、それから薬を与える。薬を与える時には、増やしも減らしもせず、中道を見て与える。なぜそうするのか。病が除かれないことを恐れるからである。諸仏世尊が人のために説法なさるのもまた同じである。衆生の心の赴くところを観察し、病の軽重を知ってから説法し、理解を開かせ、心に減ることも増えることもなく、要となる中道を説いて、もろもろの結使を除く。衆生の心を観て、一偈を必要とする者には一偈を説き、五句を必要とする者には五句を説き、一句半を必要とする者には一句半を説く。 その時、世尊は猟師たちの心を観察なさったので、この詩を説かれた。その中で自恣放逸な心の者には、次のように説かれた。「老死に伺われている、まるで子牛が母の乳を求めるように」と。まるで生まれたばかりの子牛が、その心から母を離れることがないようなものである。この衆生もまた同じである。老死に追われること、まるで影が形に従うかのようである。もし利根の衆生がよく観察し分別すれば、これらのもろもろの患い苦悩を離れることができ、善根を増やす。もし鈍根の衆生がこの観察を行わなければ、何も成し遂げることはできない。それゆえに説くのである、「老死に伺われている、まるで子牛が母の乳を求めるように」と。

意如放逸者， 猶如摩樓樹，在在處處遊， 如猨遊求菓。

> 心が放逸でいる人は、 まるでマルー樹のように、 あちこちをさまよい歩き、 猿が木から木へと果実を求めて遊ぶように。

意如放逸者，若剎利長者居士、比丘比丘尼優婆塞優婆夷，少壯處中長老，未至於道者，意增於放逸，增愛欲根，如摩樓樹初生，為葛藤所纏，長便枯死。愛欲之意亦如是，使諸眾生根本燋盡，是故說曰，猶如摩樓樹。在在處處遊者，地獄餓鬼畜生流轉五趣猶如坏輪，是故說曰，在在處處遊。如猨遊求菓者，猶如獼猴求諸菓蓏，從樹至樹，從林至林，是故說曰，如猨遊求菓。

> 怠ける心を持つ者は、王族や長者、在家の信者、比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷であれ、若者でも中年でも年配でも、まだ道に至っていない者は、怠ける心が増し、愛欲の根が増える。それはまるでモール樹が芽生えたばかりのときに葛に巻きつかれ、成長すると枯れてしまうようなものだ。愛欲の心も同じであり、あらゆる生き物の根本を焼き尽くす。だからこう説かれる、「モール樹のように」と。あちこちをさまよう者は、地獄・餓鬼・畜生の五つの世界を車輪のように巡る。だからこう説かれる、「あちこちをさまよう」と。猿が果実を求めるように、猿がさまざまな果物を求めて木から木へ、林から林へと移る。だからこう説かれる、「猿が果実を求めてさまようように」と。

夫從愛潤澤， 思想為滋蔓，愛欲深無底， 老死是用增。

> 愛に心を潤されると、 思いはどんどん広がっていきます。 愛欲は底なしに深く、 そのために老いと死は増えていくのです。

夫從愛潤澤者，此愛流溢，如泉出水漏，諸色聲香味細滑法，憶本所造五樂自娛，是故說曰，夫從愛潤澤。夫為潤澤，酥麻膏油不為潤澤，如此所潤，可以灰土澡盡除去膏油。愛欲潤澤者，唯有諸佛世尊出現於世，以智慧刀乃能割斷，是故說曰，愛為潤澤。思想為滋蔓者，火之熾熱不過於思想，火所燒瘡可以藥療，思想火被燒不可療治。若有殺父殺母、不與取婬逸，作眾罪過，諸佛世尊所不能療治，是故說曰，思想為滋蔓。老死是用增者，生有分身憂，老有四百四病痛，死有刀風惱，是故說曰，老死是用增。

> 愛に潤されている者は、この愛が溢れ流れ、泉から水が湧き出るように漏れ出る。色・声・香・味・触・法を、かつて楽しんだ五欲の記憶で自らを慰める。だからこう説く、「愛に潤されている者は」と。世間の潤いは、酥や麻や膏や油であっても、真の潤いにはならない。そのような潤いは灰や土で洗い清め、膏油を除き去ることができる。しかし愛欲の潤いは、諸仏世尊が世に現れて、智慧の刀でしか断ち切ることができない。だからこう説く、「愛は潤いとなる」と。思いが蔓のように広がるとは、火の熱さも思いの炎には及ばないということ。火に焼かれた傷は薬で治せるが、思いの火に焼かれたものは治すことができない。父を殺し母を殺し、盗みをなし、淫らな行いをなし、多くの罪を犯す者を、諸仏世尊も治すことはできない。だからこう説く、「思いは蔓となる」と。老と死がますます増すとは、生には分かれる苦しみがあり、老には四百四の病の痛みがあり、死には刀風の悩みがある。だからこう説く、「老と死はますます増す」と。

眾生愛纏裹， 猶兔在於罝，為結使所纏， 數數受苦惱。

> 生きとし生けるものは愛にとらわれ、 まるで罠にかかった兎のようだ。 煩悩に縛られているため、 何度も何度も苦しみに遭う。

眾生愛纏裹者，愛恒在前導，流轉生死不得出三界。猶兔在於罝者，猶如兔在罝網，馳走東西無有出要。此眾生類亦復如是，為愛迷惑流轉生死，周旋五道沈溺四流。為結使所纏者，此眾生類，為愛繫所纏，不能離生死，愚者受苦，愚者心口意行皆非真正不別善惡，受於地獄餓鬼畜生形，是故說曰，數數受苦惱也。

> 愛にまとわりつかれる者たちは、愛が常に先導し、生死を流転して三界を出ることができません。ちょうど兎が網にかかったように、兎が網の中にいて、東西に走り回っても逃れ出る道がないようなものです。この衆生もまた同じです。愛に惑わされて生死を流転し、五道を巡り、四流に沈んでいます。煩悩に縛られた者たち、この衆生は愛の絆に縛られて、生死から離れることができません。愚かな者は苦しみを受けます。愚かな者は心と口と意の行いがみな真実でなく、善悪も区別できず、地獄・餓鬼・畜生の姿を受けるのです。だからこう説きます、繰り返し繰り返し苦悩を受けるのだと。

眾生為愛使， 染著三有中，方便求解脫， 須權乃得出。

> 生きとし生けるものは愛に縛られ、三つの世界に心を染めている。 巧みな方法で解脱を求めれば、まず方便を用いてこそ抜け出せる。

眾生為愛使者，為使所使，為結所結，為縛所縛，是故說曰，眾生為愛所使。染著三有者，欲有、色有、無色有，是故說曰，染著三有中。方便求解脫者，云何求方便？欲使、有使、無明使、見使，如此眾生染著諸使，云何得免生死苦惱？猶如兩牛共一軛，有人隨後捶，豈得不挽重。此眾生類亦復如是，以四流為重，安處四軛，豈得免生老死病也？須權乃得出者，以求方便與父母兄弟宗親和同，無常對至，各自離別，是故說曰，為生老病死所逼，須權乃得出。諸有眾生欲愛未盡，恒有生老病死追在於後。欲愛已盡者，無復生老病死，是故說曰，生老病死須權乃得出。

> 生きとし生けるものは愛に使われ、煩悩に使われ、結縛に結ばれ、縛りに縛られている。だからこそ、「生きとし生けるものは愛に使われる」と言うのです。三つの存在の世界に染まり執着しているとは、欲の世界、色の世界、無色の世界のことです。だからこそ、「三つの存在の世界に染まり執着している」と言うのです。 解脱を求めるための方法を方便として求めるとは、どのように求めるのでしょうか。欲の煩悩、存在の煩悩、無明の煩悩、見の煩悩——このような煩悩に生きとし生けるものが染まり執着しているなら、どうして生と死の苦しみから逃れることができるでしょうか。ちょうど二頭の牛が一つの軛を共にし、後ろから人が鞭を打つとき、重い荷を引かずにいられるでしょうか。この生きとし生けるものも同じです。四つの流れを重荷とし、四つの軛に据えられているのに、どうして生・老・死・病から逃れられるでしょうか。 方便によってようやく抜け出せるとは、方便を求めて父母や兄弟、親族と和合していても、無常が訪れればそれぞれ別れ離ればなれになります。だからこそ、「生・老・病・死に迫られ、方便によってようやく抜け出る」と言うのです。生きとし生けるものに欲の愛が尽きていない限り、常に生・老・病・死が後を追っています。欲の愛がすでに尽きた者は、もはや生・老・病・死はありません。だからこそ、「生・老・病・死は方便によってようやく抜け出る」と言うのです。

若能滅彼愛， 三有無復愛，比丘已離愛， 寂滅歸泥洹。

> 愛を滅することができれば、三つの世界に再び愛はなくなる。 比丘はすでに愛を離れ、静かに滅して涅槃へと帰る。

若能滅彼愛者，愛之為病眾苦湊集，諸天世人所見歎譽，是故說曰，若能滅彼愛。三有無復愛者，已除愛、已除熱、已除眾惱、已除去愁憂。三有者，欲有、色有、無色有。是故說曰，三有無復愛。比丘已離愛者，諸有愛所纏所裹所持，比丘破諸結使是名為比丘，著弊衣持鉢亦名為比丘，是故說曰，比丘已離愛。寂滅歸泥洹，亦無是意處，是不受是都無想著，是故歸泥洹，亦無結使影，亦無更生影，是故說曰，寂滅歸泥洹。

> 愛を滅することができれば、愛という病は多くの苦しみを集め寄せるものであり、天や人々に見て讃えられる。だからこそ説くのである、能く彼の愛を滅すればと。三有に愛はもはやない。すでに愛を除き、すでに熱を除き、すでに多くの悩みを除き、すでに愁い憂いを除いた。三有とは、欲有、色有、無色有である。だからこそ説くのである、三有に愛はもはやないと。比丘はすでに愛を離れた。もろもろの有の愛に纏われ包まれ保たれることを、比丘はもろもろの結使を破る。これを比丘となす。弊衣を著け鉢を持つ者もまた比丘となす。だからこそ説くのである、比丘はすでに愛を離れたと。寂滅して泥洹に帰る。またそのような意の処もない。これを受けず、すべてに想いを著すことがない。だからこそ泥洹に帰るのである。また結使の影もなく、また更生の影もない。だからこそ説くのである、寂滅して泥洹に帰ると。

以為愛忍苦， 貪欲著世間，憂患日夜長， 莚如蔓草生。

> 愛に執着して苦しみに耐えても、 貪りの心でこの世にしがみつけば、 悩みや悲しみは日夜ふくらみ、 蔓草のように伸び広がっていく。

以為愛忍苦者，諸有心趣不能去離，多諸患害，無處不染著，是故說曰，以為愛忍苦。貪欲著世間者，難捨難離懷抱不忘。世間者，五陰亦名世間，受盛亦名世間，是故說曰，貪欲著世間。憂患日夜長者，常有憂患、有熱惱、有疾痛。今引譬喻，智者以譬喻自解。莚如蔓草日，莚如蔓草生。

> 愛に耐えることで苦しみを受ける人は、心ある世界から離れることができず、多くの災いを抱え、どこにいても染まってしまう。だからこう説く、「愛に耐えることで苦しむ」と。貪欲が世間に執着するとは、捨て難く離れ難く、抱きしめて忘れられないことである。世間とは五陰のことであり、また受盛のことも世間と呼ぶ。だからこう説く、「貪欲は世間に執着する」と。憂いと悩みは日夜に長ずるとは、常に憂いと悩みがあり、熱悩があり、病の痛みがあるということである。ここで譬えを引く。賢者は譬えによって自ら解する。蔓草が日に日に延びるように、蔓草のように生い茂る。

人為恩愛惑， 不能捨情欲，如是憂愛多， 潺潺盈于池。

> 人は情愛に惑わされて、情欲を捨てられない。 そのために憂いと愛が尽きず、池に水が満ちるように溢れていく。

人為恩愛惑者，恩愛牢固永劫不朽，戢在心識不能捨懷，以此恩愛不能越次取證，一往不還，不可制持，亦不可滅，是故說曰，人為恩愛惑。如是憂愛多者，由此恩愛增諸苦惱入骨徹髓，猶如流水流入於池，亦如蓮花池水不著。此亦如是，恩愛纏結深固心懷，以解脫水洗其愛心，亦復不著，是故說曰，潺潺盈于池也。

> 人を恩愛に惑わされる者とは、恩愛の絆が固く結ばれて永遠に朽ちず、心の奥に刻まれて手放せないということです。この恩愛のために段階を飛ばして悟りを得ることができず、一度進めば戻れず、制御することも滅ぼすこともできません。だから「人は恩愛に惑わされる」と言うのです。 このように憂いと愛執の多い者は、この恩愛によってさまざまな苦しみが増し、骨にまで染み髄にまで徹します。それはちょうど流れる水が池に注ぎ込むようなものですが、また蓮の花は池の水に染まらずにいます。これも同じです。恩愛が絡みついて心の奥深く固く結ばれていても、解脱の水でその愛の心を洗い流せば、また染まることはありません。だから「潺潺として池に満ちる」と言うのです。

諸賢我今說， 眾會咸共聽。共拔愛根本， 如擇取細新，以拔愛根本， 無憂何有懼？

> 皆さん、今からお話しします。集まった皆さん、どうか一緒に聞いてください。 愛の根本をともに抜き去りましょう。細く新しいものを選び取るように。 愛の根本を抜き去れば、憂いもなく、何を恐れることがあるでしょうか。

諸賢我今說者，我者如來，一切智、三達六通、眾相具足，分別諸法。諸賢者，大眾之名，成就賢聖諸法，所行眾法仁賢過於三界，所為皆辦，是故說曰，諸賢我今說。眾會咸共聽者，眾會者，剎利婆羅門、比丘比丘尼優婆塞優婆夷，盡集一處思惟法本，志所趣向皆得其願，是故說曰，眾會咸共聽。共拔愛根本者，何者是無明？是如所說，諸向此五趣，從今世至後世，無明為根本，皆由貪欲生。更有說者，前有癡心後愛染著。是故說曰，拔愛根本者。如選擇細新者，所以稱說擇細新者，有二因緣：一者除病，二者販賣。思惟選擇好者便取，病者得愈，販者得利，彼修行者亦復如是，愛根深固須慧分別，應行眾生尋得受化，便成就大事，已拔愛根便得阿羅漢。是故說曰，如擇細新者。已拔愛根本者，所謂愛根本，根本是無明，枝葉餘結使，故曰愛本也。無憂何有懼者，有憂當有懼，無憂何有懼？憂者欲界，非色無色界。何以故憂欲界，非色無色界耶？答曰：「以其彼界性無憂故。」所以生憂者，有父有母、國城妻子、僕從奴僮、田宅財穀，此諸居業皆亦為憂。永無此者終無有憂，是故說曰，拔愛根本。

> 諸賢よ、私が今説くのは、私とは如来のことである。一切智、三達六通、衆相を具え、諸法を分別される。諸賢とは、大衆の名であり、賢聖の諸法を成就し、行うところの衆法は仁賢にして三界を超え、なすべきことは皆成し遂げられている。それゆえに説いて言う、「諸賢よ、私が今説く」と。衆会は皆ともに聴くとは、衆会とは、刹利・婆羅門・比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷であり、みな一処に集まり法の本を思惟し、志すところの趣向は皆その願いを得ている。それゆえに説いて言う、「衆会は皆ともに聴く」と。ともに愛の根本を抜くとは、何が無明かと言えば、それは説かれるとおりである。諸々の者がこの五趣に向かい、今世から後世に至るまで、無明を根本とし、皆貪欲によって生じる。さらに説く者もあり、前には痴心があり、後には愛に染まって執着する。それゆえに説いて言う、「愛の根本を抜く」と。細く新しいものを選び取るようにとは、細く新しいものを選び取ると称する所以には二つの因縁がある。一つには病を除くため、二つには売買のためである。思惟して選択し良いものを選べば、病人は癒え、売る者は利益を得る。かの修行者もまた同じである。愛の根は深く固く、慧によって分別することを要し、衆生は行ずべきところに従い尋ねて教化を受け、まさしく大事を成就し、すでに愛の根を抜いて阿羅漢を得る。それゆえに説いて言う、「細く新しいものを選び取るように」と。すでに愛の根本を抜くとは、いわゆる愛の根本とは、根本は無明であり、枝葉は残りの結使である。ゆえに愛の本と言う。憂いなくんば何の懼れかあらんとは、憂いがあれば懼れがある、憂いがなければ何の懼れがあろうか。憂いとは欲界であり、色界・無色界ではない。なぜ憂いは欲界であり、色界・無色界ではないのか。答えていう、「かの界の性には憂いがないからである」と。憂いを生じる所以は、父あり母あり、国城・妻子・僕従・奴僮・田宅・財穀があり、これらの諸々の居業もまた皆憂いとなる。永遠にこれがない者はついに憂いがない。それゆえに説いて言う、「愛の根本を抜く」と。

有愛以有死， 為致親屬多，涉憂之長塗， 愛苦常墮厄。

> 愛があるから死があり、 それによって親族が多くなる。 憂いの長い道を歩み、 愛の苦しみに常に災いへと落ちていく。

為道行者， 不與俗會， 先誅愛本，無所殖根， 勿如刈葦， 令心復生。

> 道を歩む人は、世俗の人々と交わらず、まず愛着の根本を断ち切る。何も根を植え付けず、葦を刈るように心が再び生じることのないようにしなさい。

有愛以有死者，猶如未斷欲眾生，眾結使具足，愛在其中，說曰：「凡此眾生貪求無厭，皆由愛心。」求三有者，亦是愛心，意所貪著妻息財貨，皆由愛心，是故說曰，有愛以有死，為致親屬多。涉憂之長塗者，前過不可尋，此諸眾生，流轉迴趣五道生死，地獄餓鬼畜生死此生彼，緣此四大身愛結所纏，是故說曰，涉憂之長塗。愛苦常墮厄，數數處胎受形無量，處生熟藏間，屎尿所染污，臭穢不淨數數入胎，亦無厭足亦無慚愧，是故說曰，當以巧便修其道。會不與俗會，數數者，生生不息來往不已，於此生在彼沒，此生者此現身分，彼生者彼異趣也，此生者此人身，彼生者彼五道也，是故說曰，先誅愛本，無所殖根。恒處五道生處，五道復有輕重，有福便輕、無福便重，雖有輕重莫若於道。無為道中都無輕重，無生滅著斷，設不求道染污穢者，如刈蘆葦及刈䓸草，生生不息。

> 愛があるから死があるのは、まるで欲を断ち切れない衆生が、すべての煩悩を備え、その中に愛があるようなものです。だからこう説かれます。「これらの衆生が際限なく貪り求めるのは、すべて愛の心によるものだ」と。三つの生存を求めるのも、また愛の心です。心に貪り執着する妻や子、財産や宝物、それらすべてが愛の心によるものです。だからこう説かれます。「愛があるから死があり、親族が多くなる」と。 憂いの長い道を歩む者は、過ぎ去った過去をたどることはできません。これらの衆生は五道の生死を巡り続け、地獄・餓鬼・畜生として、ここで生まれあちらで死に、あちらで生まれここで死にます。この四大の身は愛の結縛に絡め取られています。だからこう説かれます。「憂いの長い道を歩む」と。 愛は苦しみであり、常に災いに堕ちます。何度も何度も胎に宿り、無量の形を受けて生まれます。生蔵と熟蔵の間で、屎尿に汚され、臭く穢れた不浄の中に何度も胎に入りながら、満足することもなく、恥じることもありません。だからこう説かれます。「巧みな方便をもって道を修めよ」と。 俗と交わることはありません。「数数」とは、生まれては尽きることなく、行き来してやまないということです。ここで生まれればあちらで死に、ここで生まれるとはこの現身のことであり、あちらで生まれるとはあちらの別の世界のことです。ここで生まれるとはこの人身のことであり、あちらで生まれるとはあの五道のことです。だからこう説かれます。「まず愛の根本を断ち、根を植えるところをなくせ」と。 常に五道の生処にあり、五道にはまた軽重があります。福があれば軽く、福がなければ重いのです。しかし軽重はあっても、道には及びません。無為の道の中には軽も重もなく、生も滅も執着も断絶もありません。もし道を求めず、汚れに染まるならば、葦や蘆を刈り、草を刈るように、生まれては尽きることがありません。

無欲無所畏， 恬惔無憂患，欲除使結解， 是為長出淵。

> 欲がなければ恐れるものもなく、 心は静かで悩みもない。 欲望を断ち切れば束縛から解き放たれ、 これこそが深い淵を越える道である。

無欲無所畏者，聖人已離於欲，無畏無憂，志性恬靜，是故說曰，無欲無所畏。恬惔無憂患者，已離諸欲永盡無餘，若有眾生不能離愛，猶河趣海晝夜不息，是故說曰，恬惔無憂患。以能盡愛，名滅體盡，無復根本，欲除使結解。是為長出淵，不復處有累，亦不作行非作不行，是故說曰，長出於淵。

諸天世人民， 依愛而住止，愛往眾結隨， 時流亦不停，時過復生憂， 入獄乃自覺。

諸天世人民者，何以故說天及人民乎？以其為愛所使，若生為天，玉女營從共相娛樂，視東忘西；若生為人多所染著，養妻育子心不捨離；若入地獄受諸苦惱無復愛心；餓鬼畜生雖有愛心，微少不足言。諸天及人愛心最多，是故說曰，諸天及人民。依愛而住止者，眾生之類依愛住染污，與愛共俱，是故說曰，依愛而住止。愛往眾結隨者，猶如有人渡江河海，導正從亦正。愛亦如是，趣三惡道眾結亦隨，是故說曰，愛往眾結隨。時流不停者，一時中間生處人中，處在中國平正之土得種善本，無有山河石壁，饒出珍奇異物，得信堅固，於佛法眾有反復心，慈愍一切殖眾德本，諸佛出生皆與此國，雖處中國亦是過去不得久住，是故說曰，時流亦不停。時過復生憂者，邊地佛後在八無閑處，追本尋末，自恥不及於中，便生愁憂苦惱，椎胸喚呼念過去事，是故說曰，時過復生憂。入獄乃自覺，咄嗟老苦！我等在世間時，聞諸學道之人修善得福，為惡入獄，習愛心者殖三界病，沙門亦說，奉持五戒修行十善，得生天上人中。我等愚癡不從教誡，今反入獄受諸苦惱，刀山劍樹火車鑪炭，皆由愛心種此諸根。是故說曰，入獄乃自覺。

緣愛流不住， 陰根欲網覆，枝葉增飢渴， 愛苦數數增。

緣愛流不住者，為緣何等？緣者，地獄餓鬼人及諸天緣愛，未來有陰持入諸愛，亦緣境界出法所由，是故說曰緣也。愛流者，猶如駛河流逝于海，此愛流者亦復如是，漏出諸色聲香味細滑法，是故說曰愛流也。不住者，猶如穀種子，入地即變易，隨時溉灌萌芽得長。愛穀種子亦復如是，遍滿人身隨氣迴轉增諸不善根，不住三界流轉四生奔趣五道，是故說不住也。陰根者，五盛陰身，是謂五盛陰深固難動，如說陰根癡刺苦無常苦空無我亦復如是，是故說陰根也。欲者，有二事欲，上至空際下遍十方境界，地獄餓鬼畜生緣欲不斷，故曰欲也。網覆者，猶如世人以羅網捕鳥，以罝弶捕鹿，以深穽捕虎，其有鳥獸遭此難者無有出期。此眾生類亦復如是，以欲網所覆，不見善惡，意常甘樂妙色香味細滑法，為愛所纏不能去離，其有眾生墮於愛網者，必敗正道不至究竟，是故說愛網覆也。猶如葛藤纏樹至末，遍則樹枯。愛亦如是，遍滿人身從頭至足，無空缺處，猶如人墮廁，盡污人身體。有智之士欲濟彼命，遍觀其人頗有淨處挽而出之，彼無淨處可挽出之。然此人身，愛心遍滿不可療治，是故說曰，枝葉增愛也。飢渴者，世人飢渴，可以水漿以濟其命，或食草根菓蓏，或以消息服氣，或以藥草神呪，可得延壽。此愛心飢渴者，飲四海水，猶不漬愛一尺之地，是故說愛渴而難濟也。愛苦者，愛未除盡，數數增多，長諸苦原，是故說曰，愛苦數數增。

伐樹不盡根， 雖伐猶復生；伐愛不盡本， 數數復生苦。

昔佛在舍衛國祇樹給孤獨園。時，有守園人瞻守官園，當園中間生一毒樹，諸有男女入園遊觀停息此樹下者，或頭痛欲裂，或腰脊疼痛，或即於樹下便命終者。時，守園人知為毒樹，復見眾人遭諸苦難，即施𨨞柯，柯長一丈餘，遙斫毒樹，未經旬日即生如故。然彼毒樹枝葉團足樹中之妙，眾人見者，無不歡喜。其中眾生，不知忌諱未遭此難，共往奔彼自蔭其身，影未移間復遭苦戹。時，守園人復於異日以𨨞往斫，樹生如故，倍復殊妙，如是數斫生生如舊。彼守園人宗族五親妻息僕使，貪樂樹蔭盡取命終。其人單孑一己，晝夜愁憂，號悲而行，路遇智者，自陳酸苦其痛萬端。是時智者告園人曰：「此眾苦惱，卿自為耳。夫欲止流，莫若高堰；欲伐樹者，當盡根原。卿所施功，但種生栽，何言伐樹？汝今速往掘出根本。」其人意迷復慮死至：「設我往彼掘出樹根，定死無疑。若我死後，官當更立守此園者，我族正爾滅盡無餘，亦無繼嗣續我後者，宜自逃走出家學道。」至舍衛國祇洹精舍，詣諸道人得作沙門。然彼園人昔種善福根栽，垂熟應入律行。是時，世尊還顧視彼比丘，在大眾中而說此偈：

「伐樹不盡根， 雖伐猶復生；伐愛不盡本， 數數復生苦。」

時彼比丘聞說斯偈，便自追本自所經歷，即自心悟，內自剋責，思惟四大穢漏之患，念彼毒樹數數往伐生生不息。今四大身與彼無異，愛根深固不伐根者，枝流不斷，便當就於生老病死，沒彼生此沒此生彼，如是流轉永無休息。猶如毒樹自伐其根復害眾人，此愛結使亦復如是，自毀其命，復能外損智慧之性。爾時比丘，反覆重疊觀此五陰，從頭至足無一可貪，即於座上，得須陀洹果，斯陀含、阿那含、阿羅漢果，六通清徹。在大眾中，心自感激，三自稱善：「快哉！大道不距微細，今蒙聖恩，得盡諸漏。」即從座起，繞佛三匝，還復本座，現十八變，於無餘泥洹界而取泥洹。

猶如自造箭， 還自傷其身；內箭亦如是， 愛箭傷眾生。

昔佛在摩竭國甘梨園中城北石室窟中。有眾多獵師，入山遊獵，廣施羅網，殺鹿無數，復還上山。時有一鹿，墮彼弶中，大聲喚呼，獵師聞已，各各馳奔，自還墮弶，傷害人民不可稱數。雖復不死被瘡極重，痛不可言，各相扶持劣得到舍，求諸膏藥以傅其瘡。室家五親各迎屍喪，歸還耶旬之。其中被瘡眾生，自知瘡差，厭患遊獵，宿緣應度種諸善本，便自捨家學道作沙門。爾時世尊，與無央數百千眾生，前後圍繞而為說法。爾時世尊，為彼眾生，欲拔其根，修立功德示現教誡，永離生死，常處福堂，於大眾中而說此偈：

「猶如自造箭， 還自傷其身，內箭亦如是， 愛箭傷眾生。」

時彼獵者，雖為沙門不自覺知，如來今日證明我等定為獵師，內自慚愧，自省本過，在閑靜處思惟止觀，係意不亂。所以族姓子，剃除鬚髮著三法衣，出家學道修無上梵行，自身作證而自娛樂，生死已盡，梵行已立，所作已辦，更不復受生死，如實知之。爾時諸比丘，皆得阿羅漢，六通清徹，無所罣礙，是故說此偈：

「能覺知是者， 愛苦共生有，無欲無有想， 比丘專念度。」

能覺知是者，愛者眾病之首，猶如城郭，聚集人民憑地自怙。云何愛眾病之首？如佛所說：「泥梨受苦其數難量，皆由愛所造。」凡在地獄受諸苦惱，皆由愛病。諸殺生者，亦由愛致；不與取婬妷妄語，十不善行亦復如是，皆由愛心造斯諸惡。十惡已具死入地獄，十三火炙燒炙其身。云何為十三？有二火山當前向身入腹穿脊過，又二火山從背後來入脊從腹出，又二火山從左脇入右脇出，又二火山從右脇入左脇出，又二火山從下入上出，又二火山從上入下出，第十三火山何者？是自身所造，渴愛者是也。十二火山其痛可忍，自身所造渴愛火山者，不可療治。如佛契經：「獄卒阿傍問諸罪人：『汝等為從何來？』罪人報曰：『我等飢困，亦不自知為從何來？』爾時獄卒，即以熱鐵丸，強令使食。獄卒斯須復問罪人：『汝等為從何來？』『我等甚渴，亦不自知為從何來？』爾時獄卒，偃臥罪人，洋銅灌口燒口咽喉皆悉下過。」取要言之，地獄苦痛憂惱萬端，受畜生形眾苦無數。云何為畜生受苦？如佛契經所說：「於是比丘！生畜生者，多諸苦惱。比丘當知，若有眾生墮畜生者，生冥長冥於冥無常，此等何者？是所謂入地蟄蟲，是皆由前身貪樂愛欲，身口意行惡身壞命終，死為地中蟄蟲，是謂冥生冥長於冥命終，是謂比丘！畜生甚苦甚痛難忍。或有眾生，緣四大生緣四大長緣四大終，此何者是？所謂疱生是，皆由前身貪著愛味故，身口意惡，身壞命終生疱蟲中，緣四大生緣四大長緣四大命終，是謂比丘！畜生甚苦甚痛難忍。比丘當知，復有眾生生畜生中，聞人大小便臭氣馳走奔向，我等食是飲是。此等何者？是所謂雞狗猪豚驢野狐烏鳥等是也。比丘當知，餓鬼甚苦。云何餓鬼苦？或有餓鬼食噉鬚髮或食身毛，或食指爪齒身垢薄膜至厚皮，至革筋骨心脾腎肝膽、大小腸胃、屎腦髓淚汗涕唾、膿血脂膩膽尿。如此眾類，餓鬼所食。受此眾苦，皆由前身貪著愛味慳貪獨食，設施人食呪詛罵詈：『汝等噉我食，如食膿血大小便亦復如是。』後為餓鬼食此眾穢。復有餓鬼本為人時，獨食無恥，初不施人一粒之米，若見人施者抑遮使止，後為餓鬼經歷久遠，耳曾不聞飲食之名，況得食乎？此餓鬼苦不可具宣。」此三惡趣受苦無量，斯由前身愛心堅固種此諸苦，是故佛說愛者眾病之首也。愛苦共生有者，無欲無有想，欲已去離，永盡無餘，已吐已捨，無有熱惱眾患之本，是故說曰，無欲無有想。比丘專念度者，比丘專意初不錯亂，離邊至無邊，從此彼岸入泥洹境，清無熱惱，一切戀愛心寂然不起，是故說曰，比丘專念度也。