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title: "出曜經 · 4 無放逸品"
description: "出曜经是姚秦时期著名译经师竺佛念所译的佛教经典，属于早期汉传佛教重要文献之一。该经主要阐述佛陀的教法，内容涵盖修行方法、因果业报、戒律规范等核心教义，具有鲜明的实践指导意义。竺佛念作为五世纪初重要译经家，其译文准确流畅，对佛教在中国的传播影响深远。出曜经不仅反映了早期佛教思想体系，也为研究中国佛教发展史提供了珍贵资料，在汉传佛教经典中占有重要地位，是了解原始佛教教义的重要参考典籍之一。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmczndifh1mh0jj04cqthmbv9"
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### 無放逸品第四上

> 無放逸品 第四の上

戒為甘露道， 放逸為死徑，不貪則不死， 失道為自喪。

> 戒めを守ることは甘露の道、 気ままに生きることは死への道。 貪りを離れれば不死に至り、 道を失えば自ら滅びを招く。

戒為甘露道者，不放逸人雖死亦不為死。昔一比丘行滿德充，六時行道無毫釐減失，初夜中夜後夜精懃汲汲斯須不惓。如是經久，胸滿結氣得心痛患，眾醫療治竟不除差便忽命終。有一優婆塞聰明高才無事不知，到比丘僧中而說此偈，學禪修定者，雖身變敗壞，寧敗就後世，不敗令存在。何以故爾？不學禪定者，自既不染神復不度人。何以故不自染神？受他信施，衣被飯食床臥具病瘦醫藥，不能消化畢其施恩，命終之後當復報償。不能濟彼者，兼使檀越主人不得果報，不能顯揚，佛法雖存日損日耗，大法隱沒外道熾盛。如此之類喪法原首，是故說曰，戒為甘露道，放逸為死徑。復重說曰，放逸為死徑者，放逸之人多諸𠎝咎，種今世後世不善根栽。尊者馬師亦作是說：「智者捨放逸，猶如捐毒藥，放逸多𠎝咎，今世亦後世。」智者返其原，尋究放逸本，咄嗟放逸，如鼠溺酥瓶。昔有長者家持酥高樓上，覆蓋不固鼠入酥瓶，晝夜飡噉不出瓶口，身體遂長。酥既盡澌，鼠滿瓶裏，狀似酥色。有人至長者家欲得買酥，是時長者尋樓上取酥持著火上，鼠在瓶裏頭在於下身體在上，便於瓶中命終，便於瓶中復化為酥。賣與買人，得酥量取升斗，骨沈在下，髑髏脚骨各自離解。長者見已內自思惟：「吾取酥時瓶口無覆，必有鼠入噉食此酥。即住瓶裏不肯出外，酥盡鼠死事必爾耳。」長者復念放逸多𠎝，其事如是。道俗不異，俗不異者，其事云何？慳貪不施、不持禁戒、不修八關齋法，歲三月六恒不奉持，雖處於世無益於道，死就後世，神受殃痛墮惡趣八不閑處，受諸苦惱不可稱計，此是俗之放逸眾惱如是。云何道之放逸？於是學道之人，外猗法服內懷姦宄，亦復不修習經典承事受正教，不念禪定思惟戒律，唐勞其功不獲其報，於現身中不獲果證，於後世方更積行，是故說放逸為死徑也。不貪則不死者，雖死亦不言死。何以故？不放逸人，遷神生天受福無量，延壽無敗心猛不惑，亦不中夭無失命之憂，是故說曰，不貪則不死。失道為自喪者，習放逸行，不慮前後中間之惡，不習善壽如聖賢壽，述非自是不從人諫，謂已所行真正餘者不真，不以智慧以自營命，是故說曰，失道為自喪也。

> 戒は甘露の道である。不放逸の人は、たとえ死んでも死んだことにはならない。昔、一人の比丘がいて、行いは円満で徳は充実し、六時に行道して少しの欠けもなく、初夜・中夜・後夜も精勤して怠ることがなかった。こうして長い年月が過ぎたが、胸に気が満ちて結ぼれ、心痛の病を得た。多くの医者が治療したがついに治らず、そのまま急に命を終えた。一人の優婆塞がいて、聡明で才に優れ、知らないことはなかった。比丘僧の中に来てこの偈を説いた。禅を学び定を修める者は、たとえ身体が変わり壊れても、むしろ壊れて後世に赴くがよい、壊れて存在し続けることはない。なぜか。禅定を学ばない者は、自らも神を染めず、人をも度しないからである。なぜ自ら神を染めないのか。他人の信施を受けて、衣被・飯食・床臥具・病痩の医薬を消化できず、その施恩を果たせない。命終の後には再び報償しなければならない。彼を救えない者は、檀越の主人にも果報を得させることができない。仏法を顕揚できなければ、仏法は存在していても日に日に損なわれ耗られ、大法は隠没し外道は盛んになる。このような類は法の根源を失う。それゆえ説く、戒は甘露の道、放逸は死の径である、と。さらに重ねて説く、放逸は死の径であるとは、放逸の人は多くの罪咎があり、今世と後世の不善の根を植えるからである。尊者馬師もまたこのように説いた。「智者は放逸を捨てる、それは毒薬を捨てるようなもの。放逸は多くの罪咎を生む、今世にも後世にも。」智者はその源に返り、放逸の本を尋ね究める。ああ、放逸は、鼠が酥瓶に溺れるようなものだ。昔、長者の家で酥を高楼の上に置いていたが、覆いが固くなかったため鼠が酥瓶に入り、昼夜食べ続けて瓶の口から出ず、身体はついに大きくなった。酥がすっかり尽きてしまい、鼠は瓶の中に満ち、その姿は酥の色のようであった。ある人が長者の家に来て酥を買おうとした。そのとき長者は楼の上に行き酥を取って火の上に置いた。鼠は瓶の中にいて頭は下に身体は上にあり、そのまま瓶の中で命を終え、そのまま瓶の中で再び酥に変わった。買う人に売り、酥を量って升斗で取ると、骨は下に沈み、髑髏や脚の骨はそれぞれ離れ解けた。長者は見て心の中で思った。「私が酥を取ったとき、瓶の口に覆いがなかった。きっと鼠が入ってこの酥を食べたのだ。そのまま瓶の中にいて出ようとせず、酥が尽きて鼠が死んだのはきっとこのことだ。」長者はまた思った。放逸は多くの罪咎がある、その事はこのようである。道も俗も異ならない。俗が異ならないとはどういうことか。慳貪で施さず、戒を持たず、八関斎の法を修めず、年に三箇月・六日には常に奉持せず、世にあっても道に益なく、死んで後世に赴き、神は殃い痛みを受け悪趣の八不閑処に堕ち、もろもろの苦悩を受けること称計できない。これが俗の放逸の多くの悩みである。道の放逸とはどういうことか。ここに学道の人は、外には法服をまとっていても内には姦悪を抱き、また経典を修習し正教を受け持つことなく、禅定を念じ戒律を思惟せず、いたずらに功を労してその報いを得ず、現身において果証を得ず、後世においてさらに積行することになる。それゆえ放逸は死の径であると説くのである。不貪ならば死なないとは、たとえ死んでも死んだと言わない。なぜか。不放逸の人は、神が遷って天に生まれ無量の福を受け、寿命を延ばし衰えることなく心は猛く惑わず、また中夭することもなく命を失う憂いもない。それゆえ説く、不貪ならば死なない、と。道を失うのは自らを喪うことであるとは、放逸の行を習い、前後中間の悪を慮らず、善寿を習わず聖賢の寿のようにならず、非を述べて自ら是とし人の諫めに従わず、自分の行こそ真正で他は真でないとし、智慧によって自らの命を営まない。それゆえ説く、道を失うのは自らを喪うことである、と。

慧智守道勝， 終不為放逸，不貪致歡喜， 從是得道樂。

> 智慧を持ち、道を守ることは勝れている。 決して怠けることなく、 貪りの心を離れれば喜びが訪れ、 そこから道の楽しみを得る。

慧智守道勝者，於諸功德最勝最上，智者自修身，無復缺漏，善能分別諸趣諸道，智者聰明，無有愚惑，常為天人所見歎譽，增益諸佛正法不斷，是故說曰，慧智守道勝也。終不為放逸者，已離於放逸更不造故，心悅意歡，於諸善法心無厭足，是故說曰，終不為放逸也。不貪致歡喜，從是得道樂者，賢聖道者無放逸行，習本因緣盡，不復樂生處在三有，是故說曰，從是得道樂。

> 智慧をもって道を守る者はすぐれており、あらゆる功德の中で最もすぐれ、最も高い。智慧ある者は自らを修め、もはや欠けたところがなく、よくもろもろの趣や道を見分ける。智慧ある者は聡明で、愚かさに惑わされることがなく、常に天や人から称賛され、諸仏の正法を増し広めて絶やさない。それゆえに説くのである、智慧をもって道を守る者はすぐれている、と。決して放逸な者とはならない。すでに放逸から離れ、再び造ることがないので、心は喜び、あらゆる善法に心が飽きることがない。それゆえに説くのである、決して放逸な者とはならない、と。貪ることなく喜びを得て、ここから道の楽しみを得る。賢聖の道とは放逸の行のないことであり、もとの因縁を尽くし、もはや三有の生處を楽しむことがない。それゆえに説くのである、ここから道の楽しみを得る、と。

常當惟念道， 自強守正行，健者得度世， 吉祥無有上。

> いつも道を心に思い、自ら努めて正しい行いを守りなさい。 健やかな人は世を渡り終え、この上ない吉祥を得ます。

常當惟念道者，夫坐禪者從朝至夜、從夜至朝，係念在前心無錯誤，從初至後、從後至初，思惟惡露此人身中不淨之觀，是故說曰，常當惟念道也。自強守正行者，意常勇猛心不中悔越度生死，未獲者獲、未得者得、未得證者疾令得證，是故說曰，自強守正行。健者得度世者，所謂諸佛世尊及佛弟子，堅住正法心難沮壞，除諸惡法不淨之行，漸近泥洹永寂安隱，是故說曰，健者得度世也。吉祥無有上者，如來所化吉無不利所行吉祥，皆悉降伏外道異學，一切生死謂不吉祥憂惱萬端，如輪行轍初無停息。過是上者，更無有法出此法者，是故說曰，吉祥無有上也。

> 常に道を念じるべきである。座禅する者は朝から夜まで、夜から朝まで、心を前に集中して誤りなく、初めから終わりまで、終わりから初めまで、この身体の中の不浄を観察する。だから「常に道を念じるべきである」と説くのである。自ら努めて正しい行いを守る者とは、心は常に勇猛で、途中で悔いることなく生死を越え渡る。まだ得ていないものは得、まだ証していないものは速やかに証する。だから「自ら努めて正しい行いを守る」と説くのである。健やかな者は世を渡ることができるとは、諸仏世尊と仏の弟子たちが堅く正法に住み、心は妨げられることが難しく、諸々の悪法と不浄の行いを除き、しだいに涅槃へと近づき永遠の寂静と安穏を得ることである。だから「健やかな者は世を渡ることができる」と説くのである。吉祥に勝るものはないとは、如来の教えにより吉にして不利なく、行うところ皆吉祥であり、すべての外道や異学を降伏する。一切の生死は不吉祥であり、憂い悩みが万端にあって、車輪が轍をゆくように止まることかない。これ以上のものはなく、この法を超える法はない。だから「吉祥に勝るものはない」と説くのである。

放逸如自禁，能却之為賢，已昇智慧堂，去危而即安，明智觀於愚，譬如山與地，是故捨憍慢，智者習明慧。是故捨憍慢者，有目之士觀放逸行非真非有不可恃怙，是故說曰，當念捨放逸。所謂智者，不由他受，應對無外不稟受他相色即覺，是謂為智。意性捷疾觸事能報，內雖博學外現諮受，是故說曰，智者習明慧。昔尊者大目揵連躬自度二弟子初出家學道，一者從澥浣家出，二者從鐵作家出。時，大目揵連漸教二人曰：「先告鐵師當習此禪法，善念思惟不淨惡露觀。」次告浣衣者曰：「汝今習安般守意。」此二人等晝夜精懃，所願不果，經十二年不能得之。時，尊者舍利弗知彼二人所願不獲，語目連曰：「汝訓弟子不以正行，訓當用法乃訓放逸，汝今未了應時法行。此浣衣出家者，當以說不淨觀，所以然者，其人意淨意潔來久，若當聞說不淨觀者，心即解脫無所罣礙。復當與彼鐵作比丘者，教訓以安般守意，所以然者，其人恒習手執韛囊了氣多少，然後心意乃得悟覺。」時，目揵連隨舍利弗語訓二弟子，即得開悟。是故說曰，放逸如自禁，能却之為賢。已昇智慧堂，去危而即安者，諸賢聖得昇此堂者，觀諸凡夫行人如野草木，以大慈心廣潤無外，猶如人間豪族堂舍，庶民所羨。諸賢聖等亦復如是，昇賢聖堂，觀諸眾生所習非真，憂念眾生未脫其苦習著放逸，或於智慧放逸者，心在於禪意習於禪，隨師教誡不違其訓，是謂智慧放逸也。方知不習禪者無由得度，是故說曰，已昇智慧堂，去危而即安。明智觀於愚，譬如山與地，猶如有人登高山上，遍觀下人無不照見，下人觀上而無所覩。愚者與賢亦復如是，愚心迷固不能解了，要由賢聖乃得開悟。

> 放逸を自ら禁じることは、よくこれを退けることができるならば賢いことである。すでに智慧の堂に昇り、危険を去って安らぎに就く。明智なる者は愚かな者を観ること、ちょうど山と地のようである。だからこそ驕り高ぶる心を捨てよ、智者は明るい慧を学ぶのである。だからこそ驕り高ぶる心を捨てるというのは、目のある者が放逸な行いを観て、それは真実ではなく、有るものでもなく、頼りにできるものではないと知るからである。だからこう説くのである、放逸を捨てることを念じよ、と。いわゆる智者とは、他人から教えられて悟るのではなく、外からの教えを待たずに、相手の顔色や様子を見ただけで即座に悟る、これを智という。心の働きがすばやく、事に触れれば即座に応える。内には博く学んでいながら、外には教えを請う姿を見せる。だからこう説くのである、智者は明るい慧を学ぶ、と。 むかし、尊者大目揵連が自ら二人の弟子を導いて初めて出家させ、道を学ばせた。一人は洗濯屋の家から出家し、もう一人は鍛冶屋の家から出家した。そこで大目揵連はしだいに二人を教えて言った。「まず鍛冶師には、この禅の法を修めよ、善く不浄の悪露の観を念じ思惟せよ」と告げた。次に洗濯屋には「あなたは今、安般守意を修めよ」と告げた。この二人は昼夜精進に努めたが、願いは成就せず、十二年を経ても得ることができなかった。そのとき尊者舎利弗は、あの二人の願いが成就していないことを知り、目連に言った。「あなたは弟子を正しい行いで教えていない。教えるには法を用いるべきなのに、かえって放逸に教えている。あなたは今、時機に応じた法の行いを理解していない。この洗濯屋の出家者には、不浄観を説くべきである。なぜなら、その人は心が清らかで潔白なこと久しいから、もし不浄観を聞けば、心はただちに解脫して妨げるものがなくなるであろう。またあの鍛冶屋の比丘には、安般守意を教えるべきである。なぜなら、その人は常に手にふいごを執って空気の多少を知り尽くしているから、それによって心が悟りを得るのである。」そこで目揵連は舎利弗の言葉に従って二人の弟子を教え導くと、ただちに開悟を得た。だからこう説くのである、放逸は自ら禁じるがごとく、よくこれを退けることができるならば賢い、と。 すでに智慧の堂に昇り、危険を去って安らぎに就くとは、もろもろの賢聖がこの堂に昇った者は、もろもろの凡夫の行いを見ること、野の草木のようであり、大いなる慈しみの心で広く潤して外なく、ちょうど人の世の豪族の堂舎が庶民の羨むところであるようなものである。もろもろの賢聖もまた同じである。賢聖の堂に昇り、もろもろの衆生が習い行うことは真実でないと観て、衆生がまだその苦を脱せず、放逸に執着していることを憂え念じる。あるいは智慧において放逸な者とは、心が禅にあり、意が禅を習い、師の教えに従ってその訓えに背かない、これを智慧の放逸という。そこで初めて、禅を修めない者は度られる道がないと知る。だからこう説くのである、すでに智慧の堂に昇り、危険を去って安らぎに就く、と。 明智なる者は愚かな者を観ること、ちょうど山と地のようであるとは、たとえば人が高い山に登り、遍く下の人々を観て照らし見ないものはないが、下の者が上を観ても何も見ることができないようなものである。愚かな者と賢者もまた同じである。愚かな心は迷い固まって理解することができない。必ず賢聖によってこそ開悟を得るのである。

發行不放逸，約己自調心，慧能作錠明，不反入冥淵。發行不放逸者，發行用心不惓，雖復發行意怯弱者不為發行，但有勇猛所願必果，是故說曰發行。不放逸者，心雖精懃猶有放逸，不能成辦無上道果，是故說曰，不放逸也。約己自調心者，約己者，戒具清淨，調心者，執意不亂終無邪念。是故說曰，約己自調心。慧能作錠明者，處在彈指之間成辦四事。云何四事？除去無明，燒五陰形，然生脂膏，永滅愛本。猶如慧明彈指之頃，成此四事亦復如是，成辦四事除去無明，燒五陰形，然生脂膏，永滅愛本。賢聖道明亦復如是，彈指之頃成辦四事，除去無明，然生脂膏，永滅愛本，燒五陰形。不為愚者所屈，以其成就賢聖道明故，以有道明，眾邪外道，不能傾動其心，是故說曰，不反入冥淵也。

> 怠けることなく実践に励み、自らを慎んで心を調えよ。慧によって灯明をともせば、再び暗い淵に落ちることはない。 「怠けることなく実践に励み」とは、実践に励む心が倦むことのないことをいう。たとえ実践しようとしても、意気地のない者は実践しない。ただ勇敢に願いを起こす者だけが必ずその実を結ぶ。それゆえ「実践に励み」という。 「怠けることなく」とは、たとえ心が真剣に勤めていても、なお怠けの心があっては、無上の悟りの実を成し遂げられない。それゆえ「怠けることなく」という。 「自らを慎んで心を調えよ」とは、自らを慎むとは、戒を清らかに保つことである。心を調えるとは、意志をしっかりと保ち、心が乱れず、ついに邪な念を起こさないことである。それゆえ「自らを慎んで心を調えよ」という。 「慧によって灯明をともせば」とは、指を弾くほどの短い間に四つのことを成し遂げることをいう。四つとは何か。無明を除き去り、五陰の形を焼き、脂膏を燃やし、愛の根本を永遠に滅ぼすことである。それはちょうど、慧の明かりが指を弾くほどの間にこの四つのことを成し遂げるようなものである。賢聖の道の明かりもまた同じである。指を弾くほどの間に四つのことを成し遂げる。すなわち無明を除き去り、脂膏を燃やし、愛の根本を永遠に滅ぼし、五陰の形を焼くのである。 愚かな者に屈することはない。賢聖の道の明かりを成就しているからである。この道の明かりがあるがゆえに、さまざまな邪な教えや外道は、その心を揺り動かすことができない。それゆえ「再び暗い淵に落ちることはない」という。

## 出曜經卷第五

> 『出曜経』第五巻