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title: "出曜經 · 5 放逸品"
description: "出曜经是姚秦时期著名译经师竺佛念所译的佛教经典，属于早期汉传佛教重要文献之一。该经主要阐述佛陀的教法，内容涵盖修行方法、因果业报、戒律规范等核心教义，具有鲜明的实践指导意义。竺佛念作为五世纪初重要译经家，其译文准确流畅，对佛教在中国的传播影响深远。出曜经不仅反映了早期佛教思想体系，也为研究中国佛教发展史提供了珍贵资料，在汉传佛教经典中占有重要地位，是了解原始佛教教义的重要参考典籍之一。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmczndiko1miljj04gmu6h716"
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## 出曜經卷第六

> <note>出曜経　巻第六</note>

姚秦涼州沙門竺佛念譯

> 姚秦涼州沙門竺仏念訳

### 無放逸品第四下

> 無放逸品 第四の下

正念常興起， 行淨惡易滅，自制以法壽， 不犯善名增。

> 正念を常に起こし、 行いが清らかなら悪は自然に滅び、 法によって自らを制する者は長寿を得て、 戒めを守る者は善き評判を増す。

正念常興起者，或有行人興起想念，所欲為事則不成辦。尊者童子辯說曰：「意念施設事，心悔則不辦，識猛專一念，何願而不得？」彼修行人亦復如是，心但念善身不行者不至彼岸，是故說曰，正念常興起也。行淨惡易滅者，身行清淨口行清淨意行清淨。何者不淨者？四顛倒是，無常謂有常是一顛倒，苦謂曰樂是二倒，不淨謂淨是三倒，無我謂我是四倒，與此四倒不相應者是謂為淨，是故說曰，行淨惡易滅。諸結使盡身體清涼而無熱惱，亦名為惡滅。自制以法壽者，所以言制者，制身口意，以法養壽非為非法，以法求壽非為非法，是故說曰，自制以法壽也。不犯善名增者，名稱聞於八表，德量徹于十方，其有聞者莫不篤信承受其教者，是故說曰，不犯善名增也。

> 正念を常に起こす人は、ある修行者が思いを起こしても、望むことが成就しないことがあります。尊者童子辯はこう説きました。「思いで事を計画しても、心に悔いがあれば成就しない。意識を猛く一つに集中すれば、どんな願いも得られないことはない。」修行者も同じです。心に善を思うだけで身に行わなければ彼岸に至りません。だから「正念を常に起こせ」と説くのです。行いを清らかにすれば悪は滅びやすい、とは身の行い清らかに、口の行い清らかに、意の行い清らかにすることです。何が清らかでないかというと、四顛倒です。無常を常とすることは第一の顛倒、苦を楽とすることは第二の顛倒、不浄を浄とすることは第三の顛倒、無我を我とすることは第四の顛倒です。この四顛倒と相容れないものが清らかであるといえます。だから「行いを清らかにすれば悪は滅びやすい」と説くのです。すべての煩悩が尽き、身体が清涼で熱悩がなければ、これを悪が滅びたともいいます。自らを法で制して寿を保つ、とは、制するとは身と口と意を制すること、法によって寿を養い非法によってではない、法によって寿を求めて非法によってではない、だから「自らを法で制して寿を保て」と説くのです。犯さなければ善き名は増す、とは、名声が八方に聞こえ、徳の量が十方に及ぶことです。それを聞く者はみな深く信じその教えを受けます。だから「犯さなければ善き名は増す」と説くのです。

專意莫放逸， 習意能仁戒，終無愁憂苦， 亂念得休息。

> 心を集中して、決して気を緩めてはいけません。 心を訓練し、仏陀の戒めを実践すれば、 ついには悲しみや苦しみはなくなり、 乱れた思いは静まって安らぎを得られます。

專意莫放逸者，夫欲習行意極熾盛者，於禁法中復有缺漏。昔佛世尊弟子二十億耳比丘自說教誡曰：「諸佛世尊弟子之中，勇猛精進者吾為上首，然我於無漏法中心未解脫。若我先祖父母，財業居產不可稱計，我今學道而不剋獲，宜還歸家捨三法衣，修於俗法五樂自娛廣施貧乏，修戒精進何為自苦不果我願。」爾時世尊以天耳徹聽清淨無有瑕穢，聞彼二十億耳比丘欲得還家修白衣行，即從祇洹沒至億耳比丘所，問比丘曰：「云何二十億耳！汝發此念又自陳說：『諸佛世尊弟子之中，勇猛精進吾為上首，然我於無漏法中心未解脫。然我先祖父母，財業居產不可稱計，我今學道而不剋獲，宜還歸家捨三法服，修於俗法五樂自娛廣施貧乏，修戒精進何為自苦乃至於斯？』汝審有是語乎？」對曰：「如是世尊！」佛告二十億耳比丘曰：「我今問汝內法之義，一一報吾。云何二十億耳！汝本在家時善調琴，琴與歌和、歌與琴和，聲響一類乃成其曲不乎？」對曰：「爾也。世尊！」「云何二十億耳！若琴絃急緩者，為成曲不乎？」對曰：「不也。世尊！」「云何二十億耳！若琴絃不急不緩，為成曲不乎？」對曰：「如是。世尊！」世尊告曰：「修行比丘勇猛精進便生慢怠，若懈怠不精懃者復生懶惰，是故汝今亦莫極精懃亦莫懈怠，處中行道乃成其果，有漏心便得解脫。」爾時世尊說此語已，便從座起而去。爾時尊者二十億耳在閑靜處專念思惟自感懇惻，所以族姓子剃除鬚髮著三法衣，出家學道修無上法，盡有漏成無漏，於無餘泥洹得阿羅漢。是故說曰，專意不放逸也。習意能仁戒者，能仁者諸世尊，所謂戒者，二百五十戒。威儀內禁、諸佛訓誨一句一義，盡為禁律盡為戒，當習是捨是、當離是就是，是故說習意能仁戒。終無愁憂苦者，夫修行人內心懈怠不修無上道法，深著世累不離於俗，故生愁憂。復次，違法失禁，亦生愁憂。復次，行人受他信施貪餮無厭，亦不諷誦坐禪定意，不修念道德，亦不教化佐助眾事，如此之人便生愁憂。何者無愁憂？所謂五根得力於禪法無所缺損，便得越次至無為境，入無憂堂寂然快樂，是故說曰，終無愁憂苦也。亂念得休息者，所謂休息，永滅不起，亦無生滅著斷，諸有熱惱陰持入病吟而不起，由善習定乃至無憂之室專念不亂，恒有善念與善因緣，是故說曰，亂念得休息也。

> 一つのことに心を集中して、決して怠けてはならない。 修行の意欲が非常に高ぶっている人は、戒律の中でかえって抜け落ちるものがある。昔、仏世尊の弟子である二十億耳比丘が、自らこう教えを述べた。「諸仏世尊の弟子の中で、勇猛に精進する者といえば、私が第一である。しかし、私はまだ煩悩のない法において、心が解脱できていない。私の先祖や父母は、財産や家産が数えきれないほどあった。ところが、私が今、道を学んでも成果が得られない。いっそ家に帰り、三つの法衣を捨てて、俗人の法を修め、五つの欲楽を楽しみ、貧しい人々に広く施しをしよう。戒を修め精進するとは何のためか。こんなに苦しんでも、私の願いは果たされないではないか。」 そのとき、世尊は天耳をもって、清らかで汚れのない耳で、はっきりと聞いていた。二十億耳比丘が家に帰り、在家者の行いを修めようとしているのを聞いて、ただちに祇園精舎から姿を消し、億耳比丘のもとへ行き、比丘に尋ねられた。「どうか、二十億耳よ。お前はこのような思いを起こし、こう言ったのか。『諸仏世尊の弟子の中で、勇猛に精進する者といえば私が第一である。しかし、私はまだ煩悩のない法において、心が解脱できていない。私の先祖や父母は、財産や家産が数えきれないほどあった。ところが、私が今、道を学んでも成果が得られない。いっそ家に帰り、三つの法衣を捨てて、俗人の法を修め、五つの欲楽を楽しみ、貧しい人々に広く施しをしよう。戒を修め精進するとは何のためか。なぜここまで苦しまねばならないのか』と。お前は本当にそのように言ったのか。」 億耳は答えた。「はい、そのとおりです、世尊。」 仏は二十億耳比丘に告げられた。「今、私はお前に内なる法の意味を尋ねる。一つ一つ私に答えなさい。どうか、二十億耳よ。お前がもともと在家にいたとき、琴をよく調えたであろう。琴と歌が調和し、歌と琴が調和して、一つの音の響きとなって初めて曲が成るか。」 答えた。「はい、そのとおりです、世尊。」 「どうか、二十億耳よ。もし琴の絃が強すぎたり緩すぎたりしたら、曲は成るか。」 答えた。「いいえ、世尊。」 「どうか、二十億耳よ。もし琴の絃が強くも緩くもなければ、曲は成るか。」 答えた。「はい、そのとおりです、世尊。」 世尊は告げられた。「修行する比丘が勇猛に精進すると、かえって慢心や怠りが生じる。もし懈怠で精進しなければ、さらに怠惰が生じる。だからお前は今、あまりに精進しすぎてもいけないし、怠けてもいけない。中道を行じてこそ、その果を得ることができ、煩悩のある心は解脱できるのである。」 そのとき世尊はこの言葉を説き終えると、座から立ち上がって去られた。 そのとき、尊者二十億耳は静かな場所で、ひたすら思いを集中して考え、自ら深く感慨した。なぜなら、良家の子が髭や髪を剃り、三つの法衣を着けて出家し、道を学び、無上の法を修め、すべての煩悩を尽くして煩悩のないものとなり、余りを残さない涅槃において阿羅漢を得たからである。それゆえに説かれる。「一つのことに心を集中し、怠らない」と。 「心を訓練して、能仁の戒を守る」とは、能仁とは諸世尊のことである。戒とは、二百五十戒である。威儀の内なる禁律、諸仏の教えの一句一義は、すべて禁律であり、すべて戒である。これを学び、これを捨て、これを離れ、これに近づくべきである。それゆえに説かれる。「心を訓練して、能仁の戒を守る」と。 「ついに愁いや憂いの苦しみがない」とは、修行する人が心の内で懈怠し、無上の道法を修めず、深く世間の累いに執着して俗を離れないならば、愁いや憂いが生じる。さらに、法に背き禁を失うならば、また愁いや憂いが生じる。さらに、修行する人が他人の信施を受けながら、貪り食らって飽くことを知らず、読誦もせず、座禅して心を定めることもせず、道徳を念じ修めることもせず、また教化して他の人を助けることもなければ、このような人には愁いや憂いが生じる。 では、愁いや憂いがないとは何か。五根が力を持ち、禅の法において欠けるところがなく、そのまま次を越えて無為の境地に至り、無憂の堂に入り、寂然として楽しむことである。それゆえに説かれる。「ついに愁いや憂いの苦しみがない」と。 「乱れた思いが休息する」とは、休息とは、永遠に滅して起こらず、また生滅や断常に執着することもない。すべての熱悩や五陰・五取蘊の病は、もはや起こらない。善く定を修めたことにより、無憂の室に至り、思いを集中して乱れず、常に善い思いと善い因縁がある。それゆえに説かれる。「乱れた思いが休息する」と。

不親卑漏法， 不與放逸會，不種邪見根， 不於世長惡。

> 卑しい漏（煩悩）の法に親しまず、 放逸な者と交わらず、 邪見の根を植えず、 世の中で悪を育てない。

不親卑漏法者，卑漏法者何者是？一切諸結、一切諸惡行、一切邪見、一切顛倒。若有眾生親近如斯法者便具眾惡，是故智者不當親近，亦莫與從事，亦莫與談對言語，亦莫與坐起行步，常當遠離如避火災，是故說曰，不親卑漏法。不與放逸會者，夫放逸人所修行業動生患禍，以惡知識為徒侶，以十惡法以為援助，實非親欵，像如朋友，佯涕墮淚謀圖其罪，辭為甘美內如劍戟。如此放逸之人，常當遠離不與從事，先甘後苦聖人不習，是故說曰，不與放逸會。不種邪見根者，夫邪見之為病其事萬端，如契經所說，無今世後世，亦無父母，世無羅漢等得道者，捨佛真言隨俗美辭，造立詩頌虛稱詐逸。行不合已捨本就末，離實居詐所習顛倒，云佛世尊、辟支佛、阿羅漢、阿那含、斯陀含、須陀洹非真非有，謗毀六度稱言非行，如斯之比最為邪見。何以故爾？謂真非真謂不真是真。佛在世時神口說曰：「愚癡之人，不應受者而受，反見誹謗云何言非？自陷於淵，復墮他於深淵中，諸天世人不致其敬。若習外道異學符書呪術鎮壓、求覓良日役使鬼神幻現奇術，如此輩事皆為邪術，有目之士不當修習也。」佛譬喻說，猶有人須蛇食噉，處處求索之乃剋蛇，以手捉尾，蛇反螫手，毒遍身體忽便無常，皆由其人不巧捉蛇故以喪其命。今此愚人亦復如是，以非為真以真為非，是故說曰，不種邪見根也。不於世長惡者，所謂世者有三。云何為三？一者眾生世，二者陰世，三者三界世。眾生世者，一足二足四足乃至眾多足，有色無色、有想無想、亦非想非不想，是謂眾生世。陰世者，欲界色界五盛陰，無色界四陰，是謂陰世。三界世者，三千大千至無邊界，復從一起數至三千大千世界，是謂三界世。若有眾生習邪見者，便長於世生諸穢惡，長地獄世餓鬼世畜生世；不種邪見根者，不與此三世從事。是故說曰，不於世長惡也。

> 卑しい漏（煩悩）の法に親しんではならない。卑しい漏の法とは何か。すべての結（煩悩の束縛）、すべての悪行、すべての邪見、すべての顛倒（ものごとを逆さまに見ること）である。もし生きとし生けるものがこのような法に近づくならば、あらゆる悪をそなえることになる。だからこそ、智慧ある者は近づいてはならず、ともに事を行じてもならず、ともに語り合ってもならず、ともに座り立ったり歩いたりしてもならず、常に火災を避けるように遠ざからなければならない。それゆえにこう説くのである、「卑しい漏の法に親しんではならない」と。 放逸な者と交わってはならない。放逸な人が行う行いは、動けば災いを生む。悪い友を仲間とし、十の悪法を助けとし、実は親しい間柄でもなく、友人のように装い、涙を流してその罪をたくらみ、言葉は甘美だが内は剣戟のようである。このような放逸な人を、常に遠ざけ、ともに事を行じてはならない。先に甘く後に苦いものは聖人は学ばない。それゆえにこう説くのである、「放逸な者と交わってはならない」と。 邪見の根を植えてはならない。邪見という病は、そのありようは千差万別である。経典に説かれるとおり、「今世も後世もない、父母もない、世に羅漢など道を得た者もない」と。仏の真の言葉を捨てて、世俗の美辞に従い、詩頌を造り、虚しく詐りを称し、行いは己に合わず本を捨てて末に就き、実を離れて詐りに住し、習い慣れた顛倒にとらわれ、「仏世尊、辟支仏、阿羅漢、阿那含、斯陀含、須陀洹は真ではなく有でもない」と言い、六度を謗り毀して「行ではない」と称する。このような類こそが最も邪見である。なぜそうなのか。真でないものを真と言い、真でないものを真であると言うからである。仏が在世のとき、神の口から説かれた、「愚かな者は、受けるべきでないものを受けて、かえって誹謗して、どうして「そうではない」と言えるのか。自ら淵に陥り、また他人を深い淵に堕とす。諸天と世人は敬いを致さない。もし外道や異学の符書や呪術、鎮圧、吉日を求めること、鬼神を使役すること、幻を現す奇術などを習うならば、このようなものはすべて邪術であり、目ある者は修習してはならない」と。 仏は譬喩を説かれた。たとえば、ある人が蛇を捕まえて食べようとし、あちこち探し求めてついに蛇を捕まえたが、手で尾をつかむと、蛇がかえって手を噛み、毒が全身に及び、たちまち死んでしまった。すべてその人が蛇の捕まえ方を知らなかったために命を失ったのである。今この愚かな人もまた同じである。真でないものを真とし、真を真でないとする。それゆえにこう説くのである、「邪見の根を植えてはならない」と。 世に悪を長じてはならない。いわゆる世には三つある。何が三つか。一つは衆生世、二つは陰世、三つは三界世である。衆生世とは、一足、二足、四足、さらには多くの足のもの、有色、無色、有想、無想、また非想非非想までである。これが衆生世である。陰世とは、欲界と色界の五盛陰、無色界の四陰である。これが陰世である。三界世とは、三千大千世界から無辺の境まで、また一から数えて三千大千世界に至るまでである。これが三界世である。もし生きとし生けるものが邪見を習うならば、世に悪を長じ、もろもろの穢れた悪を生じ、地獄世、餓鬼世、畜生世を長じる。邪見の根を植えない者は、この三世と事をともにしない。それゆえにこう説くのである、「世に悪を長じてはならない」と。

正見增上道， 世俗智所察，更於百千生， 終不墮惡道。

> 正しい見解は道を高め、 世の中の知恵によって見きわめられ、 さらに百千の生を経ても、 ついに悪道に堕ちることはない。

正見增上道者，諸有分別邪見根原永捨離之，正使前人化作佛形其人前立，演說顛倒謂為正法，持心堅固終不承受。何以故爾？以其正見難沮壞故，正使弊魔波旬及諸幻士，化若干變來恐善男子，不能移動其心，倍修正見意不移易，此是世俗正見非第一義，是故說曰，正見增上道，世俗智所察也。於百千生者，如佛所說，吾未曾見行正見人，於百千生墮惡趣者，吾未聞也。所生之處賢聖相遇，亦不墮地獄餓鬼畜生中。是故說曰，於百千生終不墮惡道。

> 正しい見方が道を高めるとは、あらゆる邪(よこしま)な見方の根本を永遠に捨て去ることです。たとえ目の前にいる人が仏の姿に変わって、逆さまな教えを正しい法だと言い立てても、心をしっかり保った人は決してそれを受け入れません。なぜでしょうか。正しい見方は打ち負かすことが難しいからです。たとえ悪魔や魔の軍勢、幻術使いがさまざまに姿を変えて善き人を脅かしても、その心を動かすことはできず、ますます正しい見方を修めて心は揺らぎません。ただし、これは世俗的な正しい見方であり、最も高い真理ではありません。ですからこう説かれます、「正しい見方は道を高める、世俗の智慧によって見極められるものである」と。百千の生においても、仏が説かれたように、正しい見方を実践する人が百千の生で悪い世界に堕ちるのを、私は見たことがありません。どこに生まれても賢者や聖人に出会い、地獄・餓鬼・畜生に堕ちることもありません。ですからこう説かれます、「百千の生においても、ついに悪道に堕ちることはない」と。

修習放逸人， 愚人所狎習，定則不放逸， 如財主守藏。

> 修行をおろそかにする人を、 愚か者は親しむけれど、 定（じょう）を保つ人はおろそかにしない、 まるで財産家が宝を守るように。

修習放逸人者，執意迷固不順正理，謂己所行是、彼所行非，親近翫習周而復始，如獲重寶不能捨離，是故說曰，修習放逸人也。愚人所狎習者，猶如愚憃小兒，亦不別真偽白黑，所不應捉者便捉，何者是火毒蛇也？定則無放逸者，禪定攝思內外清徹，經七大七、禪睡、禪毱、法杖，撿心坐禪，隨時進趣，不失禪法。云何名定？所謂定者，意不退還日進不却，三七二十一日寂然無想。大七者，七七四十九日，於中精勤意不錯亂，便得禪定。意亂失次，復從一始至七大七。禪睡者，以珂著頭上，以繩屬耳，睡則自寤。禪策者，禪師手執禪策伺，於睡者以毱往擊，得策轉擊餘者，用自覺寤。法杖，復以杖寤於餘者，展轉相寤求於禪定。是故說曰，定則無放逸也。如財主守藏者，彼守藏者，彼禪定比丘守護不捨，設有錯亂尋攝其心。彼守藏主亦復如是，尋時瞻候伺察庫藏，七珍雜寶、眾物牛羊、僕財奴婢、金銀珍寶、車𤦲馬瑙之屬、真珠虎珀，尋時瞻候不使漏失。是故說曰，如財主守藏也。

> 放逸にふける人を修行させる者は、意志が頑固で迷いにとらわれ、正しい道理に従わない。自分が行っていることは正しく、他人が行っていることは間違っていると考える。親しく交わり慣れ親しんで、ぐるぐると繰り返し、大切な宝を得たように手放せない。だからこう説くのである、放逸にふける人を修行させる者である、と。 愚かな人がなじみ習うのは、愚かで幼い子どものようなものである。真偽も白黒も区別できない。つかんではならないものをつかんでしまう。何が火であり毒蛇であるのか。定には放逸がない。禅定は思いを内に収め、内外ともに清らかに澄み渡る。経七大七、禅睡、禅毱、法杖によって、心を引き締めて坐禅し、時に応じて進み、禅の法を失わない。 どうして定というのか。定とは、心が退かず日に日に進んで後退せず、三七二十一日のあいだ、静かに想いがなくなることである。大七とは、七七四十九日のことで、そのあいだ精進に努め心が乱れなければ、禅定を得る。心が乱れて順序を失えば、また一から七大七をやり直す。 禅睡とは、珂を頭の上に置き、縄を耳につないでおく。眠れば自然に目が覚める。禅策とは、禅師が手に禅策を持って見張り、眠っている者に毱を投げて打つ。打たれた者は策を取って他の者を打ち、自ら目を覚ます。法杖とは、また杖で他の者を目覚めさせる。次々と互いに目覚めさせて禅定を求める。だからこう説くのである、定には放逸がない、と。 財の主が蔵を守る者のように、その蔵を守る者は、禅定の比丘が守り捨てないのと同じである。もし乱れがあれば、すぐにその心を収める。蔵を守る主もまた同じである。常に気を配って庫蔵を見張り、七つの珍宝、さまざまな物、牛や羊、召使いや奴隷、金銀や珍宝、車渠や瑪瑙の類、真珠や琥珀を、常に見張って失わせない。だからこう説くのである、財の主が蔵を守る者のように、と。

修習放逸人，愚人所狎習，定則無放逸，便能盡有漏。便能盡有漏者，彼修行人內自思惟：「有漏之病多諸𠎝咎，漏諸結使布在三處，欲界色界無色界，我緣此𠎝縛著生死，實見欺誑不至究竟，我今方宜要當捐棄。現者使盡未來未生，亦不造新，復不習故。」是故說曰，便能盡有漏也。

> 修行を怠ける人、愚か者が慣れ親しむ人であっても、定（精神の安定）を保てば怠ることがなくなり、煩悩の漏れをすべて断ち尽くすことができる。 煩悩の漏れをすべて断ち尽くすとは、その修行者が心の内でこう考えることである——「煩悩という病には多くの過ちがある。煩悩の結縛は三つの領域に広がっている。すなわち欲界・色界・無色界である。私はこの過ちによって生死に縛られ、実のないものに欺かれ、究竟に至ることができない。今こそ捨て去るべきである。現に生じている煩悩は断ち尽くし、未来にまだ生じていない煩悩は新たに作らず、また過去の習慣にも従わない」と。それゆえに「煩悩の漏れをすべて断ち尽くすことができる」と説くのである。

莫貪莫好爭，亦莫嗜欲樂，思念不放逸，可以獲大安。莫貪莫好爭者，不習放逸亦不與俱，見有習者心不好樂，復勸進人使離放逸亦不親近，是故說曰，莫貪莫好爭也。亦莫嗜欲樂，外道異學歎說欲樂，異學自說欲為鮮淨清淨無瑕，當共食欲使諸根充足，習欲無罪，以穢法為淨。所以然者？有形之人非欲不生者，無欲者豈有我乎？如來說曰：「此非真義，當共毀呰，何復歎譽？所以然者，為欲謂母主生欲樂。」是故說曰，亦莫嗜欲樂也。思念不放逸，可以獲大安，盡脫出諸結使，恬然歡樂，國王大臣長者居士，積財巨億恣心自娛謂為受樂無窮，此習非安之法，當時甘心後必受苦，求出無期實為嶮危。一切諸使永盡無餘者，是為乃獲大安者。不可移動，更不涉歷四境之難，以三達六通，雖有神足不能移安使至危嶮。是故說曰，可以獲大安也。

> 貪らず、争いを好まず、欲の楽しみに溺れず、思いを怠ることなく保てば、大きな安らぎを得ることができます。 貪らず争いを好まないとは、怠惰な生活をせず、そうした人と一緒にいないということです。怠ける人を見ても心から喜ばず、さらに他の人を励まして怠惰から離れさせ、親しくすることもありません。だから「貪らず、争いを好まない」と説くのです。 また欲の楽しみに溺れないとは、外道や異なる学問の人々が欲の楽しみを褒めたたえ、欲は清らかで汚れがないと自ら説き、共に欲を求めて諸感覚を満たすべきだと言い、欲を行うことに罪はないとして、汚れたものを清らかだとすることを指します。なぜでしょうか。形ある者は欲がなければ生まれないのに、欲のない者に私などあるはずがない、というのです。しかし如来はこう説かれました。「これは真の意味ではない。共に非難すべきであって、どうして褒めたたえることがあろうか。なぜなら、欲は母となり主となって欲の楽しみを生むからである。」だから「欲の楽しみに溺れない」と説くのです。 思いを怠ることなく保てば大きな安らぎを得るとは、すべての束縛から完全に脱け出し、静かに喜び楽しむということです。国王や大臣、長者や居士たちは、巨万の財を積んで心のままに楽しみ、これを尽きることのない喜びだと思っていますが、これは安らぎの法ではありません。その時は満足しても、後には必ず苦しみを受け、逃れる時期もないのです。実に危険なことです。すべての煩悩が永遠に尽きて余りがないならば、これこそ大きな安らぎを得たということです。動かされることはなく、もはや四つの境の難に遭うこともありません。三つの智慧と六つの神通によって、たとえ神足があっても、この安らぎを動かして危険なところへ至らせることはできません。だから「大きな安らぎを得ることができる」と説くのです。

不為時自恣， 能制漏得盡，自恣魔得便， 如師子搏鹿。

> 時が来ても自恣を行わなければ、煩悩を制して尽くすことはできない。 自恣を怠れば魔に付け込まれ、獅子が鹿を捕らえるようにやられてしまう。

昔佛在舍衛國祇樹給孤獨園。爾時世尊告諸比丘：「未得盡有漏，莫有所恃。」此偈亦說不為時自恣，長養四大如虺同居。汝今比丘當念精勤求離牢獄，何緣放逸永失道栽？死經無數苦多樂少，云何於中復興塵勞？生死熾然無迴避處，云何於中仍興放逸？是故說曰，不為時自恣。能制漏得盡者，汝等雖得須陀洹果、斯陀含果，諸漏未盡欲愛未澌，雖不入地獄畜生餓鬼，欲未盡者未可有所恃怙，猶有大畏存在。何者？魔是也。弊魔波旬晝夜伺察人短，世間放逸，心懷踊躍追逐人後使人退轉。是故說曰，自恣魔得便。如師子搏鹿，猶鹿母初乳，兒小逐母東西，戀其子不能遠逝。時師子獸王審知鹿母不能離子，時往搏撮，鹿母子俱喪。所以然者，以其鹿母戀其子故，師子得便。欲未盡者亦復如是，聞此切教生厭患，觀諸法如幻如化，在閑靜之處靜寂思惟志不移易，欲愛心盡無復塵染，欲愛盡得阿那含道，即復前進亦不中悔，共相率勵精究苦原，盡諸縛著逮漏盡通得阿羅漢。是故說曰，不為時自恣，能制漏得盡，自恣魔得便，如師子搏鹿也。

> 昔、仏は舎衛国の祇樹給孤獨園におられました。そのとき、世尊は比丘たちに告げられました。「煩悩を完全に滅ぼしていないのに、油断してはならない」と。この偈はまた、時が来ていないのに自分を甘やかし、四大を養い育てて毒蛇と共に住むようなものだと説いています。あなたがた比丘は今、怠ることなく努め励んで牢獄から離れることを求めなさい。どうして放逸にふけり、永遠に道を失ってよいでしょうか。死は数え切れないほどの苦しみを経て、楽しみは少ないのです。どうしてその中でさらに煩悩を起こすでしょうか。生死は燃え盛り、逃げる場所もありません。どうしてその中でなお放逸にふけるでしょうか。だから説かれています、「時が来ていないのに自分を甘やかしてはならない」と。 煩悩を制して滅ぼし尽くすことができる者とは、あなたがたがたとえ須陀洹果や斯陀含果を得ても、すべての煩悩が尽きず、欲への愛がまだ消えていないならば、地獄・畜生・餓鬼には堕ちないとしても、欲が尽きていない者は頼りにしてはならないのです。まだ大きな恐れが残っています。何かというと、魔です。悪魔波旬は昼も夜も人の隙をうかがい、世間の者が放逸にふけると、心躍らせて人の後を追い、人を退転させます。だから説かれています、「自分を甘やかすと魔に付け込まれる」と。 獅子が鹿を捕らえるようなものです。鹿の母が乳を与え始めたばかりで、子鹿が小さく母を追ってあちこち行き、母は子を恋しく思って遠くへ行けません。そのとき獅子の獣王は、鹿の母が子から離れられないと確かに知って、やって来て捕らえ、鹿の母も子も共に命を失います。そうなるのは、鹿の母が子を恋しく思うがゆえに、獅子に付け込まれるからです。欲が尽きていない者もまた同じです。この切実な教えを聞いて厭い離れる心を起こし、すべての法を幻のごとく化のごとくに観じ、静かな場所で静かに思い巡らし、志を変えることなく、欲への愛の心が尽きて煩悩の汚れがなくなれば、欲愛が尽きて阿那含の道を得ます。そのままさらに前進し、途中で悔いることなく、互いに励まし合って苦しみの根源を究め尽くし、すべての束縛を断ち、煩悩尽滅の神通を得て阿羅漢になります。だから説かれています、「時が来ていないのに自分を甘やかしてはならない、煩悩を制して滅ぼし尽くすことができる。自分を甘やかすと魔に付け込まれる、獅子が鹿を捕らえるように」と。

放逸有四事， 好犯他人婦，危嶮非福利， 毀三婬妷四。

> 怠けることには四つの過ちがあります。 他人の妻を犯すことを好み、 危険で利益のない道に踏み込み、 三つの戒めを破り、四つの欲望にふけるのです。

放逸有四事者，著欲之人所遊居處，心常悅習畜以寶用；明者觀察以為穢漏不獲其德，臥則不安好喜罵詈。地獄為四事，好犯他婦者，眾惡不可計，今身亦後身，現世為人所見憎嫉。云何現身為人所憎？所以為人所憎者，或為王法所拘，或為夫主所捉，或閉在牢獄，榜笞萬端拷掠荼毒其惱無數，身壞命終生劍樹地獄中。罪人在獄，見劍樹上有端正婦女，顏貌殊特像如天女，時諸罪人見彼女端正無雙，心歡意樂欲與情通，相率上劍樹枝下垂，刺壞身體毒痛難計，欲至不至；諸端正女忽然在地，罪人遙見諸女在地，復懷歡喜復緣樹下，劍枝逆刺，破碎身體肉盡骨存，高聲喚呼求死不得，罪苦未畢復還生肉，皆由貪婬致此苦毒，如此經歷數千億萬歲，受此毒痛亦不命終，要盡罪。貪婬人獄其事如是。若復貪婬之人墮畜生中，或有時節婬起，或無時節婬起，婬有時節，眾生輩雖犯於婬不犯他妻，婬意偏少不大慇懃。婬起或無時節眾生者，在人間時婬意偏多犯他婦女，今為畜生欲意甚多，以是之故婬無時節。生在畜生受罪如是。貪婬眾生墮餓鬼中，為婬妷故共相征伐，乃至阿須倫與諸天共爭皆由貪婬。犯他妻婦生餓鬼中受罪如此。貪婬之人生人中者，己婦妻女姦婬無度，遊蕩自恣不可禁止。若復強犯越法婬妷，或尊或卑不避親疎，雖得為人亦無男根，或有兩形或無形者，或有一形亦不成就。如此婬妷之類，皆由犯婬無高下故。貪婬之人若生為天，遭五災疫瑞應之變，己天王女與他娛樂，天子見已內懷憂慼如被火然，我身猶婬玉女離索，心意熾然生不善念，於彼命終生地獄中。斯由不福利行生五道中，隨形受苦其罪不同。是故說曰，危嶮非福利也。毀三婬妷四者，是時婬妷之人恒懷懼心，知犯婬罪重沒命不改，具三口意罵詈惡言，或婬妷之人先不與女人相識，往便犯之為女人所罵，或與女人相識先有言語，夫主見者夫主所罵。是故說曰，毀辱罵詈三。地獄四也，入地獄中役使罪人其事非一，是故說曰，地獄為四也。

> 放逸な人には四つのことがあります。欲望に執着する人は、いつも心楽しく慣れ親しみ、宝を使い込んで蓄えます。賢明な人は観察して、これを穢れ漏れと考え、その徳を得られないと見ます。横になっても安らかでなく、怒鳴り罵ることを好みます。 地獄には四つのことがあります。他人の妻を犯すことを好む者は、悪が数えきれません。現世でも来世でも、この世で人から憎まれ妬まれます。どうして現世で人から憎まれるのでしょうか。人から憎まれる理由は、あるいは王の法に捕らえられ、あるいは夫に捕らえられ、あるいは牢獄に閉じ込められ、様々に打ち叩かれ拷問され苦しめられ、その悩みは数えきれません。身が壊れ命が終わると、剣樹地獄に生まれます。 罪人が獄中で、剣樹の上に端正な女性を見ます。顔かたちは殊に優れ、天女のような姿です。その時罪人たちはその女が端正で比類ないのを見て、心は歓喜し情を通じたいと欲し、相率いて剣樹に登ります。枝が垂れ下がり、身体を刺し壊し、毒の痛みは計り知れません。至ろうとして至れません。端正な女たちは忽然として地上にいます。罪人が遠くから女たちが地上にいるのを見て、また歓喜を抱き、また樹の下に縁ります。剣の枝が逆に刺し、身体を砕き、肉は尽きて骨だけが残ります。高声で呼び叫び、死を求めても得られません。罪の苦しみがまだ終わらず、また肉が生じます。すべて貪りと淫欲によってこの苦毒を招きます。このように数千億万年を経て、この毒の痛みを受けても命は終わらず、罪が尽きるまです。貪淫の人が地獄に入ることはこの通りです。 もしまた貪淫の人が畜生に堕ちると、あるものは時節があって淫欲が起こり、あるものは時節がなくて淫欲が起こります。淫欲に時節があるものは、生きとし生けるものの仲間で、淫を犯しても他人の妻を犯さず、淫の心が偏に少なく、それほど盛んではありません。淫欲が時節なく起こる生きとし生けるものは、人の間にある時、淫の心が偏に多く、他人の妻女を犯し、今は畜生となり欲の心が非常に多く、そのために淫に時節がありません。畜生に生まれて罪を受けることはこの通りです。 貪淫の生きとし生けるものは餓鬼に堕ち、淫欲のために互いに征伐し、さらには阿須倫と諸天が共に争うのも皆、貪淫のためです。他人の妻を犯す者は餓鬼に生まれ、このように罪を受けます。貪淫の人は人の中に生まれると、自分の妻や娘でさえ淫欲に度がなく、遊びふけり自恣で禁じられません。またもし強いて法を越えて淫を行い、あるいは尊い者あるいは卑しい者、親疎を避けなければ、人となっても男根がなく、あるいは両形、あるいは無形の者、あるいは一形でも成就しません。このような淫の類は、皆、淫を犯すことに高下がないためです。 貪淫の人がもし天に生まれると、五つの災いの疫病や瑞応の変に遭います。自分の天王の女が他人と楽しむのを、天子が見て内に憂い悲しみ、火に焼かれるようです。我が身はなお淫らな玉女に離れ去られ、心は燃え上がり不善の念を生じ、そこで命終して地獄に生まれます。これは福徳を利さない行いによって五道の中に生まれ、形に随って苦を受け、その罪は同じでないためです。それゆえに説いて言います、危険は福徳ではないと。 三つの淫を毀り辱める四つとは、この時淫を行う人は常に恐れの心を抱き、淫の罪を犯すことが重いと知り、命を改めず、三つの口意を具して悪言を罵ります。あるいは淫の人が先に女と知り合わず、赴いてすぐ犯し、女に罵られ、あるいは女と知り合い先に言葉があり、夫が見れば夫に罵られます。それゆえに説いて言います、毀辱罵詈の三つと。地獄は四つ目です。地獄に入ると罪人を使役することは一つではありません。それゆえに説いて言います、地獄が四つであると。

不福利墮惡， 畏而畏樂寡，王法重罪加， 制意離他妻。

> 他人の妻を奪うと、災いを招いて悪道に堕ちます。 それを畏れるあまり、怯えて楽しみも少なくなります。 国の法によって重い罪を科せられ、 自ら心を制して他人の妻から離れなさい。

不福利墮惡者，所趣惡道，餓鬼畜生地獄道，受苦無量。畏而畏樂寡者，今出其事。昔阿育王弟善容，出城遊獵入深山中，見諸梵志裸形暴露以求神仙，勞神苦體望獲梵福，服食樹葉，其精進意勇猛者，日服一葉，劣軟弱日服七葉，或有服六五四三二一。食七葉者服七合水，六者六合，五合三二一亦復如是。若不得水七過吸風，六者六吸五者五吸，四三二一亦復如是。其中梵志或臥荊棘刺或臥灰土，或臥石上或臥於杵。王弟善容問梵志曰：「汝等在此行道，何患最盛？」梵志報曰：「王子當知！在此行道更無餘患，唯有群鹿至此兩兩合同，我等欲意即時熾盛不能禁制。」王子聞已尋生惡念：「此等梵志勞形苦體日曝火炙，命根危嶮如有如無，猶尚婬欲不悉除盡；沙門釋種子服食甘美，在好床坐著好衣裳者，香華自熏，豈得無婬妷意乎？」阿育王聞弟論議，即懷憂慼：「吾有一弟與福同俱，云何反更生邪見心？我當方宜除其惡念，備受其報罪我不少。」即入宮裏勅諸伎從，各自莊嚴至善容王子所共相娛樂，豫勅大臣：「吾有所圖，若我勅卿殺善容王子者，卿便諫我：『須待七日隨王殺之。』」時諸侍女即往娛樂未經時頃，王躬自往語弟王子：「何為將吾伎女妻妾恣意自娛？」奮赫威怒以輪擲空，召諸大臣即告之曰：「卿等知不？吾未衰老，亦無外寇強敵來侵境者，吾亦曾聞古昔諸賢有此諺言：『夫人有福四海歸伏，福盡德薄肘腋叛離。』如我目察未有斯變，然我弟善容誘吾伎女妻妾，縱情自恣事露如是，復有我乎？汝等將詣市殺之。」諸臣諫曰：「唯願大王！聽微臣言。王今唯有此一弟，又少子息無繼嗣者，願聽七日奉順王命。」時王默然聽臣所諫，王復寬恩勅語諸臣：「今聽王子著吾服飾，天冠威容如吾不異，內吾宮裏作倡伎樂共娛樂之。」復勅一臣：「自今日始著鎧持仗手拔利劍，往語善容王子曰：『王子知不？期七日終正爾當到，努力開割五樂自娛，今不自恣，死後用悔無益。』」一日適過，臣復往語：「餘有六日。」如是次第乃至一日，臣往白言：「王子當知六日已過，唯明一日當就於死，努力恣情五樂自娛。」至七日到王遣使喚：「云何王子？七日之中意志自由快樂不乎？」弟報王曰：「大王當知！不見不聞。」王問弟曰：「著吾服飾入吾宮殿，眾伎自娛食以甘美，何以面欺不見不聞？」弟白王曰：「應死之人，雖未命絕與死無異，豈當有情著於五樂、遊意服飾間耶？」王告弟曰：「咄愚所啟汝今一身憂慮百端，一身斷滅不容食息，況沙門釋種子憂念三世？一身死壞復受一身，億百千世身身有苦，追憶彼惱心意熾然。或復自憶入地獄中受苦無量，雖出為人與他走使，或生貧家衣食窮乏。念此辛酸故出家為道，求於無為度世之要，設不精勤當復更歷劫數之難。」是時王子前白王言：「今聞王教乃得開悟，生老病死實可厭患，愁憂苦惱流轉不息，唯願大王見聽為道，謹慎善修梵行。」王告弟曰：「宜知是時。」即辭王出家得為沙門，奉師教誡晝夜不息，次獲證得須陀洹果、阿羅漢果，六通清徹無所罣礙。是故說曰，畏而畏樂寡也。王法重罪加者，時彼貪婬之人恒行穢濁，王法所加，所有財產盡沒於官，髠笞榜拷毒痛無量，或閉在牢獄經年不出，加以五繫鞭杖日加，瘡痍膿血臭穢難近，蠅蟲噆螫避無處所，臥大小便求死不得，斯由婬妷不淨之行，死入地獄求出甚難。

> 善行に報いられず悪に堕ちる者は、悪道に赴く。餓鬼・畜生・地獄の道で、無量の苦しみを受ける。恐れながらも楽しみの少ない者に、今その実例を示そう。昔、阿育王の弟で善容という者がいた。城を出て狩りをし、深い山に入ったとき、多くの梵志たちが裸で体をさらし、神仙を求めて修行していた。精神を労し体を苦しめ、梵福を得ようと望み、木の葉を食べていた。その精進の激しい者は一日に一葉を食べ、劣った軟弱者は一日に七葉を食べた。あるいは六・五・四・三・二・一葉を食べる者もいた。七葉を食べる者は七合の水を飲み、六葉の者は六合、五・三・二・一もまた同様であった。水が得られなければ七度風を吸い、六の者は六吸、五の者は五吸、四・三・二・一もまた同様であった。その中の梵志たちは、あるいは茨の棘の上に臥し、あるいは灰や土の上に臥し、あるいは石の上に臥し、あるいは杵の上に臥した。王の弟・善容は梵志たちに問うた。「あなた方はここで修行しているが、何が最も大きな悩みか。」梵志は答えた。「王子よ、ご存知ください。ここで修行していて他に悩みはありません。ただ群れの鹿がここに来てつがいで交わるので、我々の欲心がたちまち燃え盛り、禁じることができないのです。」王子はこれを聞いて、すぐに悪い考えを生じた。「これらの梵志は体を労し苦しめ、日晒し火に炙られ、命は危うく有るか無いかのようでありながら、なお淫欲を除き尽くせない。まして沙門釈種の子らは甘く美味なものを食べ、良い床に座り良い衣を着て、香華に自ら薫じられている。どうして淫欲の心がないことがあろうか。」阿育王は弟の議論を聞いて、すぐに憂い悲しんだ。「私には一人の弟がいて福を共にしているのに、どうしてかえって邪見の心を起こしたのか。私はなんとかしてその悪念を除かねばならない。その報いを受ければ私の罪は少なくない。」すぐに宮中に入り、諸々の伎楽の者たちに命じて、それぞれ装いを整えさせ、善容王子のもとへ行き共に楽しませた。あらかじめ大臣に命じた。「私に計略がある。もし私が卿に善容王子を殺せと命じたら、卿は私に諫めて『七日をお待ちください。王の命に従って殺しましょう』と言え。」時に侍女たちがすぐに楽しませに行き、しばらくも経たないうちに、王自らが弟の王子のもとへ行き語った。「なぜ私の伎女や妻妾を連れて勝手に楽しんでいるのか。」威怒を奮い、輪を空に投げ、諸大臣を召して告げた。「卿たちは知っているか。私はまだ老いておらず、外から強敵が侵してくることもない。私はまた昔の賢者たちがこのような諺を言ったのを聞いたことがある。『人に福があれば四海が帰伏するが、福が尽き徳が薄ければ側近が叛き離れる。』私が目で見たところ、まだそのような変事はない。しかし私の弟・善容は私の伎女や妻妾を誘い、情をほしいままにしてこのように事が露見した。まして私に及ぶことがあろうか。汝らは彼を市場に連れて行き殺せ。」諸臣は諫めて言った。「どうか大王、微臣の言をお聞きください。王は今、ただこの一人の弟しかおらず、また子息が少なく後継ぎがありません。どうか七日間、王の命に従うことをお許しください。」時に王は黙って臣の諫めを聞き入れた。王はまた寛大な恩を施し、諸臣に命じて言った。「今、王子に私の服飾を着けさせ、天冠威容を私と異ならないようにし、私の宮中に入れて伎楽を催し共に楽しませよ。」また一臣に命じた。「今日から鎧を着け武器を持ち、手に利剣を抜いて、善容王子のもとへ行きこう言え。『王子よ、ご存知か。七日の期限が終わればまさにその時が来る。努力して五欲を開き割き自ら楽しめ。今自らほしいままにしなければ、死後に悔いても益はない。』」一日が過ぎると、臣はまた行って言った。「残り六日。」このように順に一日まで至り、臣は行って告げた。「王子よ、ご存知ください。六日が過ぎ、残り明日一日で死に赴きます。努力して五欲の情をほしいままにし自ら楽しめ。」七日が来ると、王は使者を遣わして呼んだ。「どうか王子よ、七日のうちに心は自由で楽しかったか。」弟は王に答えた。「大王よ、ご存知ください。見えず聞こえず。」王は弟に問うた。「私の服飾を着け私の宮殿に入り、多くの伎楽で自ら楽しみ甘美なものを食べたのに、なぜ面と向かって騙して見えず聞こえずと言うのか。」弟は王に答えた。「死ぬべき人は、まだ命が絶えていなくても死と異なりません。どうして心があって五欲に執着し、服飾の間を遊びの心でいることがありましょうか。」王は弟に告げた。「ああ愚かなるかな、汝の言うところ。汝は今、一身で百端の憂慮を抱え、一身が断滅すれば食息も許されない。まして沙門釈種の子らは三世を憂念する。一身が死んで壊れればまた一身を受け、億百千世にわたり身ごとに苦しみがあり、かの悩みを追憶すれば心は燃え盛る。あるいはまた自ら地獄に入って無量の苦しみを受けたことを思い出す。人として出ても他人に使われ走り、あるいは貧しい家に生まれ衣食に窮する。この辛酸を思うゆえに出家して道をなし、無為の度世の要を求める。もし精勤しなければ、また劫数の難を経ることになろう。」この時、王子は前に王に告げた。「今、王の教えを聞いてようやく開悟しました。生老病死は実に厭うべきものです。愁憂苦悩は流転して息みません。どうか大王、私が道をなすことをお聞き届けください。謹んで善く梵行を修めます。」王は弟に告げた。「まさにその時を知るがよい。」すぐに王に辞し出家して沙門となった。師の教誡を奉じ昼夜怠らず、次に須陀洹果・阿羅漢果を証得し、六通清徹にして罣礙するところがなかった。それゆえに説いて言う、恐れながらも楽しみの少ない者であると。王法が重罪を加えるとは、時にかの貪淫の人は常に穢濁の行をなし、王法によって罰せられ、全ての財産を官に没収され、髠刑・笞刑・榜拷を受け毒痛は無量であり、あるいは牢獄に閉じ込められ年を経ても出られず、さらに五つの縛めを加えられ鞭杖が日ごとに加わり、瘡痍や膿血は臭穢で近づき難く、蝿や虫が刺し食い逃れる場所もなく、大小便の中で臥し死を求めても得られない。これは淫欲不浄の行によるものであり、死んで地獄に入れば出ることは非常に難しい。