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title: "出曜經 · 1"
description: "出曜经是姚秦时期著名译经师竺佛念所译的佛教经典，属于早期汉传佛教重要文献之一。该经主要阐述佛陀的教法，内容涵盖修行方法、因果业报、戒律规范等核心教义，具有鲜明的实践指导意义。竺佛念作为五世纪初重要译经家，其译文准确流畅，对佛教在中国的传播影响深远。出曜经不仅反映了早期佛教思想体系，也为研究中国佛教发展史提供了珍贵资料，在汉传佛教经典中占有重要地位，是了解原始佛教教义的重要参考典籍之一。"
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### 放逸品第五之初

> 放逸品 第五の初め

本性不自造， 情知不自為，不慮邪徑路， 愚者念力求。

> 本性は自らつくるものではなく、 心の働きも自ら為すものではない。 邪（よこしま）な道を思うこともないのに、 愚かな者はただ力だけで求め続ける。

本性不自造者，所應造者不造，所不應造者反更造，為人所譏，或隨人語不自任己，由此致亂習放逸行，是故說曰，本性不自造。情知不自為者，目自見事於己有損，毀敗正業牽致冥室，是故說曰，情知不自為。不慮邪徑路者，不可以思慮而獲財產，晝夜憂念身不行者，所願不果無所成辦，是故說曰，不慮邪徑路也。愚者念力求者，愚者所行少於智慮無有慧明，不能有所割斷無有方便，處俗無俗義、處道無道義，是故說曰，愚者念力求也。

> 本性から自ら造らない者は、造るべきものも造らず、造るべきでないものをかえって造る。人はこれを讥り、あるいは人の言葉に従って自分を信じない。これによって乱れを招き、放逸な行いに慣れてしまう。だからこう説く、「本性自ら造らず」と。情を知りて自らのためにせざる者は、自らの目で事を見て、自分に損ありと知る。正業を毀り敗り、冥き室に引きずり込まれる。だからこう説く、「情知りて自らのためにせず」と。邪径の路を慮らずというは、思慮によって財産を得ることはできない。昼も夜も憂い念じて身に行ぜざる者は、願うところ果たされず、成し遂げることもない。だからこう説く、「邪径の路を慮らず」と。愚かなる者は念じて力を求むというは、愚者の行いは智慮に劣り、慧の明りもなく、断ずることもできず、方便もない。世に在りては世の義なく、道に在りては道の義なし。だからこう説く、「愚かなる者は念じて力を求む」と。

如車行道， 捨平大塗， 從邪徑敗，生折軸憂。

> 平らな大通りを捨てて、邪（よこしま）な小道に入り込み、車軸を折る心配を生むようなものだ。

如車行道者，昔有眾人與十賈客相隨採寶歸家，時有一人乘車載寶，無價明月雜寶無數，車重頓躓失伴在後，進不見伴，退畏盜賊，便隨邪徑御車涉路，行未經里數車墜深㵎軸折轂敗。又在曠野無人之處，椎胸喚呼怨訴無處，對車啼哭無方自致，不求方計道為遠近，復不修治朽車。爾時世尊以天眼觀清淨無瑕穢，見彼失伴之人，在於曠野轂破軸折對車啼哭。爾時世尊知彼眾生應得度脫，即遣化人詣彼曠野，在虛空中結加趺坐。厄人仰見人坐空中，即向求願：「我今在厄難之中，願見救拔得至安隱方處。」爾時化人即以神力，接彼財產及彼人身，忽然便在祇洹門外。爾時世尊告諸比丘：「應受化人今在門外，汝等導引將詣世尊所。」比丘受教即將入覲，其人見佛心開意解求為沙門，即得為道，聞微妙法，解身無我萬有皆虛，世間皆苦唯道是真，此大法中無復熱惱，所有財寶盡施三尊，是我宿福遭遇福田，水火災異不能傷害，心倍歡喜善心生焉。爾時世尊漸說妙法，所謂論者，施論戒論生天之論，欲不淨想，漏為穢行，無數方便勸進修學，在大眾中而說此偈：

> 昔、ある人が車で道を行く途中、大勢の人々と十人の商人が一緒に寶を採りに家へ帰っていました。その時、一人の人が車に寶を載せていましたが、無價の明月や雜多な寶が數えきれないほどありました。車は重く、つまずいて仲間にはぐれて後ろに取り殘されました。進めば仲間は見えず、退けば盜賊を恐れ、邪な小道に車を進めて道を行きましたが、數里も行かないうちに車は深い谷に落ち、軸が折れ轂が破れてしまいました。さらに人里離れた荒野で、胸を叩いて叫び、訴えるところもなく、車に向かって泣き、どうすることもできず、道の遠近を尋ねることもなく、また朽ちた車を直すこともありませんでした。その時、世尊は天眼で清らかで瑕穢のないものをご覧になり、その仲間を見失った人が荒野で轂が破れ軸が折れた車に向かって泣いているのをご覧になりました。世尊はその眾生が度脫を受けるべきことを知り、すぐに化人を遣わしてその荒野へ行かせ、虛空の中に結跏趺坐させました。困っている人は仰ぎ見て人が空中に座っているのを見ると、すぐに願いを立てました。「私は今、厄難の中にいます。どうか救い出され、安隱な方處に至ることができますように。」その時、化人は神通力でその財産とその人自身を受け取り、忽然として祇洹門の外にいました。世尊は諸の比丘に告げました。「度化されるべき人が今、門の外にいる。汝たちは導いて世尊の所へ連れて行きなさい。」比丘たちは教えを受けてすぐに連れて參內しました。その人は佛を見て心が開け意が解け、沙門となることを求め、すぐに道を得ました。微妙な法を聞き、身は無我であり萬有は皆虛しいと解し、世間は皆苦であり唯だ道のみが眞であると知り、この大法の中ではもはや熱惱はなく、所有の財寶はすべて三尊に施し、これは私の宿福が福田に遭ったのであり、水火の災異も害することはできないと、心は倍歡喜し善心が生まれました。その時、世尊は漸く妙法を說きました。いわゆる論じられたのは、施論・戒論・生天の論、欲は不淨の想い、漏は穢行であるとして、無數の方便で修行を勸め進め、大眾の中でこの偈を說かれました。

「如車行道， 捨平大塗， 從邪徑敗，生折軸憂。」

> 「車が道を行くのに、平らな大通りを捨てて、邪（よこしま）な小道に入れば、壊れて車軸を折る憂いにあうようなものだ。」

時彼比丘聞佛說偈，內自思惟：「今日世尊獨為我說法不為餘人。所以然者，如偈所云，盡為我身所涉勤苦，如來悉知。」倍興恭敬於佛法眾，心開意解，得須陀洹果、斯陀含果、阿那含果、阿羅漢果，六通清徹，所願者果，已離三有不處生死。時彼眾中復有眾生，執意不固欲犯禁戒，習愛欲行違遠威儀，不隨正真之道。爾時世尊知彼眾生心中所念，欲使大眾忘憂除患，去彼惡心安處無為，重與大眾而說此偈：

> その時、その比丘は仏の説かれた偈を聞き、心の中でこう思いました。「今日、世尊はただ私一人のために法を説かれ、他の人のためではないのだ。なぜなら、偈に述べられているように、私の身が経験してきた苦しみのすべてを、如来はご存じなのだから。」そして仏・法・僧に対する恭敬の心をいっそう強め、心が開けて理解し、須陀洹果・斯陀含果・阿那含果・阿羅漢果を得て、六通は清らかに澄み渡り、願っていた果を得て、すでに三有を離れ、生死の世界にとどまることがなくなりました。その時、その集まりの中にはまた、別の衆生たちがいて、意思が堅固でなく戒を破ろうと欲し、愛欲の行いに慣れて威儀に背き、正しい真実の道に従いませんでした。その時、世尊はそれらの衆生の心に思い描いていることをご存じになり、大衆の憂いを忘れさせ悩みを取り除き、その悪しき心を捨てて無為の安らぎに住まわせようとして、改めて大衆のためにこの偈を説かれました。

「離法如是， 從非法增， 愚守至死，亦有折患。」

> 法を離れることはこのようであり、非法からは増えていく。愚か者は死ぬまで守り、また損なわれる悩みもある。

是時，世尊重告大眾：「猶彼商人捨平大塗而就邪徑，道路頓躓折軸之憂。今此眾中異心眾生亦復如是，欲離正法習增非法，愚人守死墮入惡趣。云何諸比丘！在如來前而復面欺？審爾不乎？若當老死對至無所恃怙，號天啼哭無益神識，淚如江河投于四海，不能制神不趣惡道。我今出現為諸眾生除諸苦惱。夫人貪欲燒身滅族，今世後世所往不安。汝等比丘！彼當犯戒於現法中不獲度世，恒沙諸佛所不能療。」諸比丘聞佛所說，肅然毛豎心懷戰慄內自悔責。佛知其心應得受化，漸與說法去諸塵勞得法眼淨，以次得證須陀洹果、斯陀含果、阿那含果、阿羅漢果，六通清徹，不處三有永離八難。爾時大眾聞佛所說，歡喜作禮而去。

> そのとき、世尊は改めて大衆に告げられた。「ちょうどあの商人たちが平らかな大道を捨てて邪(よこしま)な小道に入り、道に蹴つまずき車軸を折る憂いにあうようなものである。今この集まりの中の、心の異なった衆生もまた同じである。正しい法(ダルマ)から離れようとしてかえって非法を増し、愚かな者は死を守って悪趣に堕ちる。どうか比丘たちよ、如来の前でなお面と向かって欺くとは何事か。まことにそうではないか。老いと死が対(むか)い来たるとき、頼るものとてなく、天を呼び泣き叫んでも神識(たましい)の助けにはならない。涙が江河のように四海に注がれても、神(たましい)を制して悪道に向かわせないことはできない。私が今この世に現れたのは、もろもろの衆生の苦悩を除くためである。そもそも人の貪欲は身を焼き一族を滅ぼし、この世でも後の世でも行く先々で安らかではない。おまえたち比丘たちよ、その者は戒を犯し、現(げん)の法においても世を渡ることは得られず、恒沙(ごうじゃ)の諸仏もなお癒すことができない。」比丘たちは仏の説かれたことを聞き、粛然として毛が逆立ち、心に戦慄(せんりつ)を抱き、内心みずから悔い責めた。仏はその心が教化を受けるにふさわしいと知り、次第に法を説いてもろもろの塵労(じんろう)を除き、法眼(ほうげん)清浄を得させ、順に須陀洹果(しゅだおんか)、斯陀含果(しだごんか)、阿那含果(あなごんか)、阿羅漢果(あらかんか)を証し、六神通(ろくじんつう)清らかに徹し、三有(さんう)に住せず永く八難を離れた。そのとき大衆は仏の説かれたことを聞き、よろこび礼をして去った。

行亦應正， 非事莫豫， 邪徑增垢，諸漏興盛， 漏已熾盛， 除邪漏盡。

> 行いもまた正しくあるべきです。 なすべきでないことに手を出してはなりません。 邪(よこしま)な道は汚(けが)れを増やし、 煩悩(ぼんのう)はますます盛んになります。 煩悩がすでに燃えさかっているなら、 邪(よこしま)な煩悩を取り除き、尽(つ)き果てさせなさい。

行亦應正者，一切眾善德本善法者，是謂行也。眾法要藏，晝夜親近遂至無為。然彼群類捨正就邪，不應行者便行、應行者而捨離之，方更翫習不善之法，已習非法離於善道，與地獄相近，是故說曰，行亦應正也。非事莫豫者，非事者，放逸貪婬習於不要之行，是故說曰，非事莫豫也。邪徑增垢者，意習邪業心如猨猴捨一捉一，心如流河意不真實不住於善法，如頭落髮華無從住，是故說曰，邪徑增垢也。諸漏興盛者，猶如蘆葦竹聚，亦如谿谷河㵎水流盈溢，意不專一心恒放蕩漏諸塵勞，是故說曰，諸漏興盛也。漏已熾盛者，前漏後漏有何差別？報曰，不修善法意恒漏失日夜滋甚，不專其念放逸自娛諸漏更興，是故說曰，漏已熾盛也。除邪漏盡，永求遠離不與同處，諸佛恒沙過去不住，放逸眾生被繫不解，明者觀此行已，知為失道之本，復當思惟求獲善法，欲自敬者先當敬法，是故說曰，除邪漏盡。

> 行いもまた正しくあるべきです。すべての善い行いと善い教えの根本となる善い法、これを行いといいます。さまざまな教えの要点を昼も夜も親しみ学び続ければ、やがて無為の境地に至ります。しかし人々は正しい道を捨てて邪な道に走り、行うべきでないことを行い、行うべきことを捨て去り、かえって不善の法を玩び習ってしまいます。すでに非法を習い善い道から離れてしまえば、地獄に近づくことになります。だからこそ「行いもまた正しくあるべきだ」と説くのです。なすべきでないことに心を向けてはなりません。なすべきでないこととは、放逸と貪欲と淫らな行いにとどまることです。だからこそ「なすべきでないことに心を向けてはならない」と説くのです。邪な道は汚れを増やします。心が邪な行いを習えば、猿が一つのものを捨てては一つをつかむように落ち着かず、流れる川のように心は真実でなく、善い法にとどまることができません。頭から抜け落ちた髪や花がとどまらないのと同じです。だからこそ「邪な道は汚れを増やす」と説くのです。さまざまな煩悩が盛んになります。葦や竹が群がり生えるように、また谷や川の水が溢れ流れるように、心が一つのことに集中せず、いつも放逸に流れて煩悩の塵を漏らし続けます。だからこそ「さまざまな煩悩が盛んになる」と説くのです。煩悩がすでに燃え盛るとは、前の煩悩と後の煩悩にどんな違いがあるのでしょうか。答えていいます、善い法を修めなければ心は常に煩悩を漏らし、昼も夜もますますひどくなり、念を集中せず放逸にふけって、煩悩がさらにつぎつぎと起こります。だからこそ「煩悩がすでに燃え盛る」と説くのです。邪な煩悩を取り除き尽くし、永遠に遠く離れることを求め、ともに住まないようにします。恒河の砂の数ほどの過去の諸仏も放逸なままではとどまってくださらず、放逸な众生は縛られて解けることがありません。賢明な人はこの行いを観て、これが道を失う根本だと知り、さらに善い法を得ようと思い求めます。自分を敬おうとする者は、まず法を敬うべきです。だからこそ「邪な煩悩を取り除き尽くす」と説くのです。

諸有猗權慧， 常念於身患，非事亦不為， 應為而不捨，有念思智慧， 永無有諸漏。

> 権巧の智慧に頼る人々は、 常に身体の患いを心に留め、 なすべきでないことは行わず、 なすべきことは捨てず、 智慧を思い巡らすならば、 永遠に煩悩の漏れはなくなる。

諸有猗權慧者，諸佛世尊常所說法，適前人說不唐舉事，或隱事而說不顯其名，或與剎利婆羅門長者居士、比丘比丘尼優婆塞優婆夷，又時顯名而說、又時隱名而說。然此一偈隱顯不定，是故如來說法不指事而說，統為一切故說此偈。或為教授比丘比丘尼、沙彌沙彌尼、優婆塞優婆夷，意常勇猛不懷怯弱不捨本誓，意常勸勵不及道者，是故說曰，諸有猗權慧也。常念於身患者，如佛經所說，諸有念身者即名不死，諸有念身自致甘露，不念身者犯於甘露，思惟身本一一分別者，則致甘露所願必果，有念身者廣說如契經。尊者曇摩尸梨亦作是說，夫人一生中，不壞眾想念，彼人得善利，多所饒益處。世無眾患由念身想故，在山有山想、在家有家念，不離身念者，是謂無上之人，若行若坐不離其念，是故說曰，常念於身患。非事亦不為者，夫人意正所向皆達，所非法事亦不隨順，不應親近亦不親近，不應廣布者亦不廣布，復不向人演說非法，常念捨離不與同俱，是故說曰，非事亦不為也。應為不捨者，常順時節不失明教，前後中間初不違失，是故說曰，應為而不捨者也。有念思智慧者，諸有形類專其一意，思惟智慧以智斷結，猶如田家子左手執草右手刈除，智慧之士亦復如是，執念堅固心不移易，智能分別慧能割斷，識物別真謂之智，暢演玄鑒是謂慧，是故說曰，有念思智慧也。永無有諸漏者，智慧所照明，是時諸結皆悉消滅，已盡已除拔其根本，更無生死，是故說曰，永無有諸漏也。

> 権威や知恵に頼る人々について、諸仏世尊が常に説かれる法は、目の前の人に応じて説かれ、無駄に語られることはありません。ある時は隠して名を明かさずに説き、ある時は王族・バラモン・長者・居士、あるいは比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷に対して、名を明かして説くこともあれば、名を隠して説くこともあります。しかしこの一偈は隠したり顕したりが定まっていないため、如来は法を説くのに特定の事柄を指して説かず、すべての人のためにこの偈を説かれるのです。あるいは比丘・比丘尼・沙弥・沙弥尼・優婆塞・優婆夷を教え導くためであり、その心は常に勇猛で怯むことなく、本の誓いを捨てず、道に達していない者を常に励まし促すため、こう説かれます。「権威や知恵に頼る人々」と。 常に身を念じることについて。仏経に説かれるとおり、身を念じる者は不死を得ると言われ、身を念じる者は自ら甘露に至り、身を念じない者は甘露に背きます。身の根本を一つ一つ思惟し分別する者は、甘露を得て願いが必ず成就します。身を念じることについては契経に詳しく説かれています。尊者曇摩尸梨もこう説いています。「人は一生のうちで、さまざまな想いを壊さなければ、その人は善き利益を得て、多くの益ある場所を得る」と。世に多くの患いがないのは身を念じる想いによるもので、山にいれば山の想いがあり、家にいれば家の念があり、身の念から離れない者は、これこそ無上の人と呼ばれます。歩くときも座るときもその念から離れない、それゆえ「常に身の患いを念じる」と説かれるのです。 なすべきでないことは行わないとは、人の心が正しく向かうところにはすべて到達し、法に反する事柄には従わず、近づくべきでないものには近づかず、広めるべきでないものは広めず、また人に対して非法を説くこともなく、常に捨て離れることを念じて共に行動しない、それゆえ「なすべきでないことは行わない」と説かれるのです。 なすべきことは捨てないとは、常に時節に従い、正しい教えを失わず、前・後・中間において初めから違えることがない、それゆえ「なすべきことは捨てない」と説かれるのです。 念と智慧を思うとは、すべての形あるものは一つの意を専らにし、智慧を思惟して智慧によって煩悩の結びを断ちます。ちょうど農家の子が左手で草を握り右手で刈り取るように、智慧ある人もまた同じです。念を堅固に持ち心が移り変わらず、智は分別し慧は断ち切ります。物事を見分けて真を知るのを智と呼び、深い洞察を暢かに演べるのを慧と呼ぶ、それゆえ「念と智慧を思う」と説かれるのです。 永遠に諸の漏れがないとは、智慧が照らし出すところ、その時すべての結びはことごとく消滅し、すでに尽きすでに除かれ根本が抜かれて、もはや生死はない、それゆえ「永遠に諸の漏れがない」と説かれるのです。

所謂持法者， 不必多誦習，若少有所聞， 具足法身行，是謂持法人， 以法自將養。

> 法を保つ者とは、必ずしも多く唱え学ぶことではない。 少しでも聞いたことがあれば、法の身の行いを十分に備える。 これこそ法を保つ者であり、法によって自らを養うのである。

所謂持法者，爾時佛告尊者大迦葉：「汝今迦葉！當詣大眾教誨後學，分別演說深法之義。所以然者，汝所教誨則我教訓，汝演法味則我演法味。」是時迦葉白世尊言：「如今新學比丘難可覺悟，今日晨旦有二比丘與共競諍，一人論無，是目連弟子；一人善說，是阿難弟子。此二人者各執所見共相是非，我等二人當共捔義，誰有勝負義理多少。」是時，世尊勅一比丘：「速喚論無比丘目連弟子，善說比丘阿難弟子，將至如來所。」比丘聞佛教已，即時喚二比丘，將詣世尊所，頭面禮足在一面坐。是時世尊告二比丘：「卿等云何曾聞如來吐此言教，在大眾中與人捔義諍於勝負。見此不耶？」比丘對曰：「不也。世尊！」「汝等愚人！何為大法諍於勝如？」爾時世尊在大眾中而說斯頌，所謂持法者，不必多誦習，若少有所聞，具足法身行，是謂持法人，以法自將養也。若有利根眾生誦一句義思惟分別，盡諸有漏越次取證，得其道果永無愛欲能盡諸結，未獲求方便使獲，未得果證求方便令得果證，如此之人乃名多聞也，名曰持法。以法次法證法向法，一一思惟如法教誡無所違缺，是謂持法，不必多誦習也，雖少所聞，具足法身。

> そこで仏は、尊者・大迦葉にこう告げられた。「迦葉よ、あなたは今、大衆のもとへ行き、後から学ぶ者たちを教え導き、深い法の意味を詳しく説き示しなさい。なぜなら、あなたの教えはすなわち私の教えであり、あなたが説く法の味わいはすなわち私が説く法の味わいだからです。」 すると迦葉は世尊に申し上げた。「今、新しく学び始めた比丘たちは悟りを得るのが難しいようです。今日の朝、二人の比丘が互いに言い争いました。一人は『無』を論じる者で、目連の弟子です。一人は巧みに説く者で、阿難の弟子です。この二人はそれぞれ自分の見解に執着して互いに是非を争い、『われわれ二人で議論して、どちらが勝ち、どちらが負けるか、どちらの理が勝っているかを見極めよう』と言っています。」 そこで世尊は一人の比丘に命じられた。「急いで、論争している目連の弟子と、巧みに説く阿難の弟子を呼び、如来のもとへ連れて来なさい。」 比丘は仏の教えを聞くと、すぐに二人の比丘を呼び、世尊のもとへ連れて行った。二人は頭を地につけて礼拝し、一方の側に座った。 そこで世尊は二人の比丘に告げられた。「あなたたちは、如来がこのような教えを口にし、大衆の中で人と議論して勝ち負けを争うのを、かつて聞いたことがあるか。見たことがあるか。」 比丘たちは答えた。「いいえ、世尊。」 「愚かな者たちよ。なぜ大法について勝ち負けを争うのか。」 そこで世尊は大衆の中でこの詩を説かれた。 法を保つ者とは、必ずしも多くを誦し習う者ではない。たとえ少ししか聞かなくても、法身の行いを具足しているなら、それが法を保つ者であり、法によって自らを養う者である。 もし利根の众生が一句の意味を誦し、よく思惟し分別して、すべての有漏を尽くし、次を越えて証を得て、その道果を得れば、永遠に愛欲がなく、すべての結縛を尽くすことができる。まだ得ていないものは方便を求めて得させ、まだ果証を得ていないものは方便を求めて果証を得させる。このような人こそ、よく聞く者と呼ばれ、法を保つ者と名づけられる。 法に従い、次に法に従い、法を証し、法に向かって、一つ一つ思惟し、法のままに教え誡められて違反や欠落がない。これが法を保つ者であり、必ずしも多くを誦し習う者ではない。たとえ少ししか聞かなくても、法身を具足しているのである。

雖多誦習義， 放逸不從正，如牧數他牛， 不獲沙門正。

> たとえ多くの教えを唱え学んでも、 気ままに過ごして正しい道に従わなければ、 他人の牛を数える牧者のように、 悟りの境地を得ることはできない。

雖多誦習義者，昔佛在舍衛國祇樹給孤獨園，有異比丘從遠方來至世尊所，頭面禮足在一面坐。爾時比丘須臾退坐前白佛言：「我聞多聞比丘，齊幾名多聞比丘？如來說多聞比丘，限齊至幾許，名為多聞比丘？」佛告比丘：「吾前後所說不可稱記，一者契經，直文而說義味深邃。二者誦，比次言語不失本文。三者記，諸四部眾七佛七世族姓出生及大般泥洹，復十六倮形梵志十四人取般泥洹，二人不取，彌勒、阿耆是也。四者偈，偈散在諸經，義味深廣義豐理弘。五者因緣，緣是故說是，不緣是故不說是。六者出曜，所謂出曜者從無常至梵志，採眾經之要藏，演說布現以訓將來，故名出曜。七者成事，所以言成者，如持律人記律所犯，故名成事。八者現法，所以言現者，記現在事，目覩耳聞故名現也。九者生經，所以言生經者，如孛鹿母前身，所更一生數生至百千生，故名生經。十名方等，方等者前略後廣，無事不包，故名方等。十一名曰未曾有法，若尊者阿難以未曾有法歎如來德。十二者義經，所以言義者，契經義偈義一一通達無復滯礙。多聞比丘齊此而止。復次比丘！若族姓子信心篤信，受四句義！諷誦通利法法成就，次法向法以法證法，一一思惟如法教誡無所違闕，比丘齊是名曰多聞。雖復多誦包識眾經，不順其法如其教誡，違法自用者於法有損，不名多聞。」如來引喻告諸比丘曰：「昔有一人多牧群牛，捨己群牛數他群牛以為己用，己所有牛，或遇惡獸或失草野，日有損耗不自覺知，便為眾人所見嗤笑：『世之愚惑莫甚於卿，認他群牛以為己有。』多聞比丘亦復如是，自不隨順正法言教，能勸進他行四事供養，衣被飲食床臥之具病瘦醫藥，復勸進人奉戒修福，行善得報習罪受殃，此多聞比丘不隨沙門禁律，為諸梵行所見嗤笑。皆共重集至比丘所，呵止諫曰：『汝為多聞，古今分明演析幽奧，不能自正安能正人？犯沙門律違法越教，雖爾，人生一世誰不志亂？世誰無過？諸天神仙皆聞有愆，唯有智士百慮千失猶是上行。』」爾時梵行說此偈曰：

> たとえ多く誦習しても、その意味を理解していなければ——。 昔、仏は舎衛国の祇樹給孤獨園におられた。遠方から一人の比丘が世尊のもとにやって来て、頭を地につけて足を礼拝し、片わきに座った。しばらくしてその比丘は座から進み出て、仏にこう申し上げた。 「私は『多聞の比丘』という言葉を聞きました。どのような基準で多聞の比丘というのでしょうか。如来が説かれる多聞の比丘とは、どこまでを限りとして多聞の比丘というのですか。」 仏は比丘に告げられた。 「私が前後に説いたものは、数えきれないほどある。第一に契経——これは直かに文で説き、その意味するところは深遠である。第二に誦——言葉の順序を正しく保ち、本文を失わない。第三に記——四部の衆、七仏七世の族姓の出生、および大般泥洹、さらに十六の裸形梵志のうち十四人が般泥洹を取り、二人は取らなかった、弥勒と阿耆である。第四に偈——偈は諸経に散在し、意味は深く広く、義は豊かで道理は大きい。第五に因縁——これがあるゆえにこれを説き、これがないゆえにこれを説かない。第六に出曜——出曜とは、無常から梵志に至るまで、多くの経の要となる宝を集め、演説し示して未来の者を教え導く。ゆえに出曜という。第七に成事——成というのは、持律の人が戒律の犯したところを記すようなものである。ゆえに成事という。第八に現法——現というのは、現在の事を記し、目で見、耳で聞いたものをいう。ゆえに現という。第九に生経——生経とは、孛鹿母が前の身において、一生、数生、百千生と経てきたことを説くようなものである。ゆえに生経という。第十に方等——方等とは、初めは略し後に広く説き、包まないことがない。ゆえに方等という。第十一に未曾有法——尊者阿難が未曾有の法をもって如来の徳を讃えたようなものである。第十二に義経——義というのは、契経の義も偈の義も一つ一つ通達して、もはや滞りがないことである。多聞の比丘とは、ここまでを限りとする。 さらに比丘よ、もし族姓の子が信心に篤く信じて、四句の義を受け、これを誦し通利し、法ごとに成就し、次には法に随い、法に向かい、法をもって法を証し、一つ一つ思惟して、法の教えのままに違えるところがなければ、比丘はこれをもって多聞という。たとえ多くの経を誦し包み知っていても、その法に従わず、その教えのままに行わず、法に違って自用にふるまう者は、法を損なう。多聞とは名づけない。」 如来はたとえを引いて、諸の比丘に告げられた。 「昔、一人の者が多くの牛の群れを牧していた。自分の群れを捨てて他人の群れを数え、自分のものとした。自分の所有の牛は、あるいは悪獣に遭い、あるいは草野を失い、日々に損耗していくのに、自分では気づかなかった。そこで人々から嗤われた。『世の愚かさに、お前ほど甚だしいものはない。他人の牛の群れを自分のものと認めている。』多聞の比丘もまた同じである。自ら正法の言葉の教えに随順せず、他人には四事の供養——衣被・飲食・床臥の具・病の者の医薬——を行じるよう勧め、また人に戒を奉じ福を修め、善を行えば報いを得、罪を習えば災いを受けると勧める。このような多聞の比丘は、沙門の禁律に随わず、梵行の人々から嗤われる。彼らはみな共に重ねて比丘のもとに集まり、呵して諫めて言う。『お前は多聞であり、古今に明らかで、深い奥義を演べ析いている。それなのに自分を正せないで、どうして人を正せようか。沙門の律を犯し、法に違え教えを越えている。とはいえ、人の世に生きて、誰が心乱れぬことがあろう。世に誰か過ちのない者があろう。諸天も神仙もみな過ちがあると聞く。ただ智ある人だけが、百の慮り千の失いをしても、なお上を行くのである。』」 そのとき、梵行の者がこの偈を説いた。

「雖多誦習義， 放逸不從正，如牧數他牛， 不獲沙門正。」

> たとえ多くの教えを唱え学んでも、 気ままに過ごして正しく行わなければ、 牛飼いが他人の牛を数えるように、 悟りの道を得ることはできない。

爾時多聞比丘素自聰鑒，猶如新衣易染為色。時多聞比丘改往修來潔心淨意，諸漏已盡得阿羅漢果，六通清徹存亡自由，所願成就。

> そのとき、多聞（たもん）の比丘はもともと聡明であり、新しい衣が色に染まりやすいようなものであった。多聞の比丘は過去を改めて修行に励み、心を清らかにし、すべての煩悩（ぼんのう）を滅ぼして阿羅漢（あらかん）の悟りを得た。六つの神通力を完全に備え、生と死を自在にし、その願いはすべて成就した。

## 出曜經卷第六

> <note>出曜経　巻第六</note>