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title: "出曜經 · 6 念品"
description: "出曜经是姚秦时期著名译经师竺佛念所译的佛教经典，属于早期汉传佛教重要文献之一。该经主要阐述佛陀的教法，内容涵盖修行方法、因果业报、戒律规范等核心教义，具有鲜明的实践指导意义。竺佛念作为五世纪初重要译经家，其译文准确流畅，对佛教在中国的传播影响深远。出曜经不仅反映了早期佛教思想体系，也为研究中国佛教发展史提供了珍贵资料，在汉传佛教经典中占有重要地位，是了解原始佛教教义的重要参考典籍之一。"
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## 出曜經卷第八

> 『出曜経』巻第八

姚秦涼州沙門竺佛念譯

> 姚秦涼州沙門竺仏念訳

### 念品第六

> 念品第六

念喜生憂， 念喜生畏， 無所念喜，何憂何畏？

> 喜びに執着すれば憂いが生まれ、 喜びに執着すれば恐れが生まれる。 喜びに執着しなければ、 何を憂い、何を恐れることがあるだろうか。

昔佛在舍衛國祇樹給孤獨園。時，有外道梵志素少子息，唯有一子卒便命終，晝夜追憶不能飲食，脫衣露形在塜啼哭，恒憶亡兒行來進止處所。是時梵志出舍衛城到祇洹精舍，至世尊所共相問訊在一面坐。是時世尊告梵志曰：「汝今梵志諸根不定心意倒錯，有何事故乃至於是？」梵志白佛：「唯有一子捨我命終，不能逐亡苟存而已，諸根豈能得定意不倒錯耶？少小養育冀望得力，今便捨我無常，心意懊惱不能去懷。自死已來晝夜追憶不離食息，脫衣露形在塚啼哭，恒憶行來進止處所。」世尊告曰：「如是梵志！如汝所言，皆由恩愛生愁憂苦惱。」梵志白佛：「不如瞿曇所說，世人恩愛皆生歡樂。」時彼梵志聞佛所說亦不然可，即從坐起儼頭而去。道經戲村，見有二人對坐博戲，梵志見已便興斯念：「夫人處世高才智慧，博古攬今敷於幽奧，無有出此博戲之人。我今可以瞿曇所說向彼二人宣耶？」時梵志即向二人說瞿曇所說言教，時彼戲人謂梵志曰：「如是如是如汝所言，恩愛合會皆生歡樂。」梵志心自生念：「我之所念與彼不異。」即從坐起歡喜踊躍涉道而去。如是展轉聞波斯匿王，時波斯匿王語末利夫人曰：「卿頗聞瞿曇沙門所說，恩愛合會皆生愁憂苦惱耶？」夫人白王：「如王所說，恩愛合會皆生愁憂苦惱。」王告夫人：「汝是瞿曇弟子，瞿曇是汝師，豈得不說恩愛合會生愁憂苦惱耶？末利當知！恩愛合會皆生歡樂，喜情內發共相娛樂，何以故說生愁憂苦惱耶？」是時夫人前白言：「願聽微言，以自陳啟，若見聽者敢有所宣。」王報夫人：「恣汝所說。」夫人白王：「云何大王！頗念婆耆利王女不耶？復念流離大將軍不？復念禹翅剎利夫人不？」王告夫人：「我甚愛念婆耆王女、流離大將軍、禹翅剎利夫人，不去心懷斯須頃。」夫人白王言：「云何大王！斯諸人等設當變易各就後世，當有愁憂苦惱不耶？」王告夫人：「彼等諸人變易遷轉，甚懷憂愁痛切叵言。」夫人白言：「王念愛我不？」王報夫人：「甚愛於卿。」夫人白言：「設我遷轉變易不住者，王復當愁憂不？」王告夫人：「甚懷愁憂，不去食息心意倒錯，或成狂病。」「云何大王！頗念迦尸拘薩羅國界人民不？」王報夫人：「甚愛敬念。所以然者，如我今日五樂自娛，皆由拘薩羅國界人民得此歡樂。」「云何大王！若使拘薩羅國界人民變易遷轉，當生愁憂苦惱不耶？」王告夫人：「若無彼人民則無我身，那得不生愁憂苦惱乎？」「如今大王以自證明，恩愛離苦、怨憎會苦。如來所說，正謂此義耳。」時波斯匿王心開意悟，即勅夫人：「自今已後，我為瞿曇弟子，瞿曇為我師。」「我今末利，遙歸命瞿曇沙門歸命法歸命比丘僧，盡我形壽不復殺生。」是故說曰，念喜生憂，念喜生畏；無所念喜，何憂何畏？念喜生畏者，人得疾患，瞻養病者恒生憂畏恐病不差，或欲至他方、或為王使、或入海採寶，家人畏懼恐行不全濟，家人諫諭：「家有餘財足畢命生活，何為遠涉艱難採致貴貨？設汝去者兩頭俱衰，或行安住衰、或行衰住安。」是故說曰，念喜生畏也。無所念喜，何憂何畏者，云何？設無所念喜，能除欲愛。何以故？以其欲界憂根堅固掘根甚難，是故說曰，無所念喜何憂何畏。有憂則有畏，無憂何有畏耶？憂盡則畏盡，五滅十八滅，此之謂也。念喜生憂、念喜生畏，念喜已離，遂捨狂惑。昔佛在舍衛國祇樹給孤獨園。時有梵志大種稻田，唯有一子在田守衛，時天大雹雨，傷殺稻子并殺其兒。時彼梵志心懷苦惱馳走城市，倮形露跣不避豪賤，展轉以次到祇桓精舍。然彼梵志應得受化，如來玄鑒知應得度，即化祇洹門外盡為稻田，復作化人如梵志子。梵志見已意即開悟，稻田我子今故存在，橫自勞苦在外馳走。心意還定不復狂惑，往至世尊所，頭面禮足在一面坐。是時如來見彼坐定，諸佛世尊常所說法，苦習盡道四諦真如，盡為彼梵志一一說之，逆順三昧空無相願一一分別，使彼梵志曤然大悟，諸塵垢盡得法眼淨。彼已得法成法，無虛妄法、無狐疑法，自處如來眾無所畏法，即從座起禮如來足：「自今已始受三自歸，歸命佛歸命法歸命比丘僧，盡形壽不復殺生。」是故說曰，念喜已離便捨狂惑。心意還正皆由佛力，不遇佛者則不成辦。

> 昔、仏は舎衛国の祇樹給孤独園におられました。そのとき、一人の外道の梵志がいました。その人はもともと子宝に恵まれず、ただ一人の子がいたのですが、その子が急に亡くなってしまいました。昼も夜も亡き子を思い出しては、飲食もできず、衣を脱ぎ捨てて裸のまま墓の前で泣き叫び、いつも亡き子の歩き方や立ち居振る舞い、いた場所などを思い続けていました。 あるとき、その梵志は舎衛城を出て祇桓精舎に至り、世尊のもとへ参りました。互いに挨拶を交わして片側に座りました。そこで世尊が梵志に告げました。「梵志よ、あなたは今、諸根が定まらず、心が乱れている。いったい何があって、そこまでになってしまったのか。」 梵志が仏に申し上げました。「ただ一人の子が私を捨てて亡くなりました。亡き子を追いかけることもできず、ただ生きながらえているだけです。どうして諸根が定まり、心が乱れずにいられましょうか。幼い頃から育て、頼りになることを願ってきましたが、今、無常に捨てられてしまいました。心の懊悩は去ることがありません。亡くなってからというもの、昼も夜も思い出さないときはなく、食事のときも休むときも離れません。衣を脱ぎ捨て裸のまま墓の前で泣き叫び、いつもその歩き方や立ち居振る舞い、いた場所を思い続けています。」 世尊が告げました。「そのとおりだ、梵志よ。あなたの言うとおり、すべては恩愛から愁憂と苦悩が生まれるのだ。」 梵志が仏に申し上げました。「瞿曇のおっしゃることは違います。世間の人々は、恩愛はみな歓楽を生むと言っています。」 そのとき、その梵志は仏の説かれたことを聞いても、そのとおりだとは認めず、すぐに座から立ち上がり、頭を振って去っていきました。道中、戯村を通りかかると、二人の者が向かい合って博打をしているのを見ました。梵志はこれを見て、こんな思いを起こしました。「世間で高い才能と智慧を持ち、古今のことを広く学び、深遠な道理を説く者といえば、この博打をする者たちに勝る者はない。ここで瞿曇の説いたことをあの二人に話してみようか。」 そこで梵志はすぐに二人に瞿曇の説いた教えを話しました。するとその博打の者たちは梵志に言いました。「そのとおりだ、そのとおりだ、あなたの言うとおりだ。恩愛が合会することは、みな歓楽を生むのだ。」 梵志は心の中で思いました。「私の思いは彼らと同じだ。」すぐに座から立ち上がり、喜び踊りながら道を去っていきました。 こうして次々に伝わって、波斯匿王の耳に入りました。そこで波斯匿王は末利夫人に言いました。「あなたは瞿曇沙門が、恩愛が合会することはみな愁憂苦悩を生むと説いたのを聞いたことがあるか。」 夫人が王に申し上げました。「王のおっしゃるとおり、恩愛が合会することはみな愁憂苦悩を生みます。」 王は夫人に告げました。「あなたは瞿曇の弟子であり、瞿曇はあなたの師である。どうして恩愛が合会することは愁憂苦悩を生むと言わないことがあろうか。末利よ、知るがよい。恩愛が合会することはみな歓楽を生み、喜びの情が内から発して互いに楽しみ合うのだ。どうして愁憂苦悩を生むと言うのか。」 そこで夫人が王の前に申し上げました。「どうか私のつたない言葉をお聞きください。自分から申し上げたいことがあります。お聞きいただければ、あえて申し上げましょう。」 王は夫人に答えました。「思うままに話すがよい。」 夫人が王に申し上げました。「いかがでしょうか、大王。婆耆利王女をお思いではありませんか。また流離大将軍をお思いではありませんか。また禹翅刹利夫人をお思いではありませんか。」 王は夫人に告げました。「私は婆耆王女、流離大将軍、禹翅刹利夫人をたいそう愛しく思い、心から離れることは片時もありません。」 夫人が王に申し上げました。「いかがでしょうか、大王。これらの人々がもし変わって、それぞれ後世に赴いたならば、愁憂苦悩はあるでしょうか。」 王は夫人に告げました。「それらの人々が変わって移りゆくならば、たいそうな憂いと痛切な悲しみで、言葉にできないほどだ。」 夫人が申し上げました。「王は私を愛しくお思いでしょうか。」 王は夫人に答えました。「あなたをたいそう愛している。」 夫人が申し上げました。「もし私が移り変わってとどまらなくなったならば、王はまた愁憂されるでしょうか。」 王は夫人に告げました。「たいそうな愁憂で、食事も休みも忘れ、心は乱れ、あるいは狂病になるだろう。」 「いかがでしょうか、大王。迦尸拘薩羅国の人々をお思いではありませんか。」 王は夫人に答えました。「たいそう愛しく敬い思っている。なぜなら、私が今日、五欲の楽しみにふけっているのは、すべて迦尸拘薩羅国の人々のおかげでこの歓楽を得ているからだ。」 「いかがでしょうか、大王。もし迦尸拘薩羅国の人々が移り変わったならば、愁憂苦悩は生まれるでしょうか。」 王は夫人に告げました。「もしその人々がいなければ、私の身もない。どうして愁憂苦悩が生まれないことがあろうか。」 「今、大王は自ら証明なさいました。恩愛の離れる苦しみ、怨憎の会う苦しみです。如来のお説きになったことは、まさにこの意味なのです。」 そのとき、波斯匿王は心が開け、意が悟り、すぐに夫人に命じました。「今より後、私は瞿曇の弟子となり、瞿曇は私の師となる。」 「私は今、末利として、遥かに瞿曇沙門に帰命し、法に帰命し、比丘僧に帰命します。形寿尽きるまで、もう殺生はしません。」 それゆえに説くのです。喜びを念うれば憂いが生まれ、喜びを念うれば畏れが生まれる。喜びを念うことがなければ、何の憂いがあり何の畏れがあろうか。 喜びを念うれば畏れが生まれるとは、人が病にかかれば、看病する者はいつも憂い畏れ、病が癒えないのではないかと恐れる。あるいは他方へ行こうとし、あるいは王の使いとなり、あるいは海に入って宝を採ろうとすれば、家族は畏れ恐れ、行きて無事に帰らないのではないかと恐れる。家族は諫めて言う。「家に残りの財があって命を全うして暮らすに足るのに、なぜ遠く艱難を冒して貴い品を採ってくるのか。もし汝が行けば、両方ともに衰える。行けば安住が衰えるか、行けば衰えて住が安らかであるかだ。」それゆえに説くのです。喜びを念うれば畏れが生まれると。 喜びを念うことがなければ、何の憂いがあり何の畏れがあろうかとは、どういうことか。もし喜びを念うことがなければ、欲愛を除くことができる。なぜなら、欲界の憂根は堅固で、その根を掘り出すことははなはだ難しいからである。それゆえに説くのです。喜びを念うことがなければ何の憂いがあり何の畏れがあろうかと。憂いがあれば畏れがある。憂いがなければ何の畏れがあろうか。憂いが尽きれば畏れも尽きる。五が滅し十八が滅するとは、このことである。 喜びを念うれば憂いが生まれ、喜びを念うれば畏れが生まれる。喜びを念うことをすでに離れれば、ついに狂惑を捨てる。 昔、仏は舎衛国の祇樹給孤独園におられました。そのとき、一人の梵志が大きな種もみの田んぼを持っていました。ただ一人の子が田んぼを守っていましたが、そのとき天から大きな雹が降り、稲を傷つけ殺し、その子も殺してしまいました。そのとき、その梵志は心に苦悩を抱き、町を駆け回り、裸のままはだしで、身分の高い低いも構わず、次々に伝わって祇桓精舎に至りました。 しかし、その梵志は教化を受けるべき者でした。如来は深い洞察で、救われるべき者と知り、すぐに祇桓の門外をすべて田んぼに変え、また梵志の子のような化人を作りました。梵志はこれを見て、すぐに心が開け悟りました。「田んぼもわが子も今なお存在している。むやみに自ら苦労して外を駆け回っていたのだ。」心は落ち着きを取り戻し、もはや狂惑することなく、世尊のもとへ行き、頭面を礼して片側に座りました。 そのとき、如来は彼が座って落ち着いたのを見て、諸仏世尊が常に説かれる法、苦・習・尽・道の四諦の真如を、ことごとくその梵志のために一つ一つ説きました。逆順の三昧、空・無相・願を一つ一つ分別し、その梵志をして豁然と大悟させ、諸々の塵垢が尽きて法眼が清らかになりました。彼はすでに法を得、法を成じ、虚妄の法なく、狐疑の法なく、自ら如来の衆に処して畏れるところのない法を得ました。すぐに座から立ち上がり、如来の足を礼して言いました。「今より始め、三自帰を受けます。仏に帰命し、法に帰命し、比丘僧に帰命します。形寿尽きるまで、もう殺生はしません。」 それゆえに説くのです。喜びを念うことをすでに離れれば、ついに狂惑を捨てると。心が正しく戻るのは、すべて仏の力によるものである。仏に出会わなければ、成し遂げることはできない。

夫人懷愁憂， 世苦無數端，斯由念恩愛， 無念則無畏。

> 奥さんは悲しみに暮れているけれど、 この世の苦しみは数えきれないほどある。 それは愛しい人を思う心から生まれる。 何も執着しなければ、恐れることはない。

夫人懷愁憂者，眾生之類晝夜愁憂相對號哭，或時失性遂致狂惑，皆由恩愛戀慕所致，是故說曰，夫人懷愁憂也。世苦無數端者，衣不蓋形食不充口，顏色萎黃身體垢坌，五親分離廢諸伎術，皆由恩愛致此災患。人在世間遇諸苦惱，亦由恩愛不能捨離，是故說曰，世苦無數端也。斯由念恩愛者，生死久長苦本難尋，愚者處中不自覺知，人相戀慕非徒一類，或念父母兄弟宗親知識，死者生者於中興念，追號啼哭，是故說曰，斯由念恩愛也。無念則無畏者，人去想念無所戀慕則無愁憂苦惱。有家憂家有財憂財，有車乘鞍馬則憂車乘鞍馬，無車乘鞍馬則無所戀。無想念者，何者是？所謂欲愛盡人永斷無餘。何者斷欲愛人？所謂徑取阿那含不由二道，是謂斷欲愛人，無有想念永處究竟不還欲界，凡夫愛未盡，雖獲五通不離三有，若失神足恚怒隆盛，彈指之頃還墮惡趣，方當經歷劫數乃還復身。是故說曰，無念則無畏也。

> 夫人が愁いや憂いを抱くのは、生きとし生けるものたちが昼も夜も愁い憂い、互いに泣き叫び、あるいは正気を失い、ついには狂乱してしまうのも、すべては恩愛への恋慕がもたらすものです。だからこう説くのです、「夫人が愁いや憂いを抱くとは」と。 世の苦しみに果てがないとは、着る物も体を覆えず、食べ物も口を満たさず、顔色は萎えて黄色くなり、体は汚れにまみれ、五つの親族は離れ離れになり、あらゆる技芸を捨ててしまう——これらすべては恩愛がもたらす災いです。人が世間でさまざまな苦悩に遭うのも、恩愛を捨て去ることができないからです。だからこう説くのです、「世の苦しみに果てがないとは」と。 これらはみな恩愛を思うことによるとは、生死の長きにわたる苦しみの根本は探し求めても見つけがたく、愚かな者はその中にありながら自ら気づくことがありません。人が互いに恋い慕う相手は決して一種類ではなく、あるいは父母や兄弟、一族の者、知人を思い、死者も生者もその中で思いを巡らせ、追いすがって泣き叫びます。だからこう説くのです、「これらはみな恩愛を思うことによるとは」と。 思いがなければ畏れもないとは、人が想念を去り、恋い慕うものが何もなければ、愁いも憂いも苦悩もありません。家があれば家を憂い、財があれば財を憂い、車や鞍馬があれば車や鞍馬を憂い、車や鞍馬がなければ恋い慕うこともありません。 想念がない者とは、誰のことか。いわゆる欲愛を尽くした者、永遠に断ち切って余りがない者です。欲愛を断った者とは、誰のことか。いわゆる直ちに阿那含の位を取る者で、二つの道によらない者、これを欲愛を断った者といいます。想念がなく、永遠に究竟の境地にあって、欲界に還らないのです。凡夫は愛がまだ尽きず、たとえ五通を得ても三有を離れることができず、もし神通力を失えば怒りが盛んになり、指を弾くほどの間に悪趣に堕ち、まさに劫を経てようやく再び身を得るのです。だからこう説くのです、「思いがなければ畏れもないとは」と。

是故不生念， 念者是惡累，彼則無諸縛， 無念無不念。

> だから、思いを生じさせてはいけない。思いは煩わしい重荷となる。 思いがなければ、束縛もない。思いもなく、思わないこともない。

是故不生念者，人生世間，由念生恩愛、由念變易，諸有愁憂苦惱皆緣念而生，是故說曰，不生念也。念者是惡累，云何？猶世有狂夫身抱困病，以其病故，或殺五生或殺百生以救病者謂蒙瘳降，不知病者受罪無數。或有病人殺生祠祀亦望救命，正使病人藏置百重鐵籠裏者，於一重間盡安衛守共相括證，不聽司命來錄死者。此事不然。皆由恩愛致此災變。或復有人知親別久，遠來歸家念彼人故，殺害蟲獸不可稱計共相慶賀，以積殃禍之根。是故說曰，念者是惡累也。彼則無諸縛者，所謂縛者，羈靽人神不至無為，如契經所說，夫人染著愛心未盡者，有緣有因所趣生處，或彼終生此，有因有緣繫所繫、縛所縛、結所結。猶如智人及智弟子，若能作華鬘，先作長繩為本，因上織華鬘，以花為緣得成華鬘。愛心未盡者亦復如是，有緣有因所趣生處彼終生此，有緣有因得果證之人，不復經此諸縛之難。是故說曰，彼則無諸縛。無念無不念者，以離惱熱念，而無恩愛、無為，樂遊戲第一義，是故說曰，無念無不念。

> ですから、「念を生じない」というのです。人がこの世に生きるのは、念によって恩愛が生まれ、念によって変化するからです。あらゆる憂いや苦しみは、すべて念を縁として生じます。ですから、「念を生じない」と説かれるのです。 念とは、悪しき煩いのことです。なぜでしょうか。たとえば、世に狂った人がいて、自分の病のために、五つの生き物を殺し、あるいは百の生き物を殺して、その病を救おうとし、これで快方に向かうと思っていますが、病む者が無数の罪を受けることを知りません。あるいは、病人が生き物を殺して神を祀り、命が助かることを望む者もいます。たとえ病人を百重の鉄の籠に閉じ込め、一重ごとに見張りを置いて互いに監視させ、死神が死者の名を書きに来るのを許さないとしても、そんなことはうまくいきません。すべては恩愛がこの災いを招くのです。 また、ある人が親しい者と長く別れていて、遠くから家に帰ってきたとき、その人を思うあまり、数えきれないほどの虫や獣を殺して、ともに喜び祝うことがあります。これが災いの根を積むことになるのです。ですから、「念とは悪しき煩いである」と説かれるのです。 「彼にはもはや束縛がない」とは、束縛とは人を縛りつけて心を自由に至らせないもののことです。経典に説かれているように、愛する心を尽くせない者は、縁があり原因があって生まれるところへと向かい、あるいはここで命を終えてあちらに生まれます。縁があり原因があって、繫がれ、縛られ、結ばれるのです。 ちょうど、賢い人や賢い弟子が花輪を作るとき、まず長いひもを土台にして、その上に花を織り込んで花輪を完成させるように、愛する心を尽くせない者も同じです。縁があり原因があって生まれるところへと向かい、ここで命を終えてあちらに生まれます。しかし、悟りを得た人は、もはやこのような束縛の難儀を経ることはありません。ですから、「彼にはもはや束縛がない」と説かれるのです。 「念もなく、念なきもなく」とは、悩みの熱い念から離れ、恩愛もなく、為すことなく、楽しみに遊ぶこと、これが第一の真理です。ですから、「念もなく、念なきもなく」と説かれるのです。

念為求方便， 非義未設權，權慧致大義， 自致第一尊。

> 思いは方便を求めるためにあり、 真理そのものではなく、まだ仮の教えが説かれていない。 仮の教えと智慧が大きな真理へと導き、 自ずから第一の尊い境地に至る。

念為求方便者，欲得修習無上智慧，分別深義無有欺詐，已成此慧終已無亂，是故說曰，念為求方便也。非義未設權者，云何？非義與此深義亦不相應，令人墮惡不興善根，為諸智人所見嗤笑。若能改已往失者，令作將來福也，便為天人所嘆譽，權得消咎舋於當時，殖善本於來世，是故說曰，非義未設權也。權慧致大義者，云何？與善知識從事，教人正見不順邪業，亦復不習外道異術，承受其義，所謂義者，無漏慧義禪義觀義，是故說曰，權慧致大義也。自致第一尊者，諸佛世尊奉持禁戒，不放逸人執心牢固不入邪聚，恒以禁戒訓誨眾生常求三業，是故說曰，自致第一尊也。

> 「念」とは、修行の方便を求める者であり、無上の智慧を修め習わんと欲し、深い意義を分別して欺きのないものとし、すでにこの慧を成し終えて乱れのないものである。だからこそ説いて「念は方便を求めるためなり」という。 「意義にかなわぬ方便をまだ設けぬ者」とは、どういうことか。意義にかなわぬものは、この深い意義とも相応せず、人を悪道に堕して善根を起こさせず、多くの智者に見て嗤われるものとなる。もし過去の過ちを改めることができれば、未来の福を作すこととなり、天と人に讃嘆され、当座の咎を消し、来世に善本を植えることとなる。だからこそ説いて「意義にかなわぬ方便をまだ設けぬなり」という。 「方便の慧は大いなる意義をもたらす」とは、どういうことか。善き知識と共に事に従い、人に正しい見解を教えて邪業に従わせず、また外道の異なる術を習わない。その意義を受け持つ。いわゆる「意義」とは、漏れなき慧の意義、禅の意義、観の意義である。だからこそ説いて「方便の慧は大いなる意義をもたらすなり」という。 「自ら第一の尊に至る」とは、諸仏世尊は禁戒を奉じ持ち、放逸ならぬ人は心を堅固に執りて邪なる集まりに入らず、常に禁戒をもって衆生を訓え誨い、常に三業を求める。だからこそ説いて「自ら第一の尊に至るなり」という。

莫與愛念會， 亦莫不念俱，愛念不見苦， 不念愛憂慼，於中生愁慼， 消滅人根原。

> 愛する念いと出会うな。 また、念いのないことにもとらわれるな。 愛する念いは、会えなければ苦しみとなる。 念いがなければ、愛する憂いも悲しみもない。 そこから愁いと悲しみが生まれ、 人の根を消し尽くす。

莫與愛念會者，昔有二人共相愛敬不能相離，行則俱進食則同甘。中共離別各在異處，後復追憶思共相見，屢遣信喚欲得同處。「卿若不來益吾愁矣。」此人怨家與彼人親親，彼其來喚寧可共赴其命耶？遂便從命相與共往，別久相見內懷歡喜，見彼怨家情憤不悅，在其隱處親親義言：「奚復與我怨家遊止同行，我不喜見。」得此言說，愛著偏多便共俱還，其後思想復遣信喚，如是再三，復語親親：「何故與彼人遊處耶？」其人報曰：「愛至待厚退忘來言。」即復報曰：「思見所歡復見惡緣，我今何為乃爾戀著親親，兩不相適耶？」即便捐家妻息出家學道。復有一人唯有一子，為羅剎鬼所持，晝夜憂念不能捨離。時羅剎鬼全舉小兒詣鬼住處經十餘日，彼人不見其子，晝夜憂念死而復穌。羅剎鬼復將兒還，父見兒喜不能自勝，終日抱弄視無厭足，若見羅剎復懷愁憂衣毛為竪。復經十日，羅剎鬼復將小兒還詣鬼國，父後追憶不離食息，如是數反遂成憂疾。其父思惟：「人生憂惱其苦萬端，我今宜可捨家為道。」即便出家得在道次。爾時世尊欲度彼人等，示現權慧安處無為，在大眾中而說此偈：

> 愛する人と別れなければならない苦しみについて。 昔、二人の者が互いに深く愛し合い、離れることができませんでした。歩くときは共に進み、食べるときは同じものを味わいました。しかし、途中で別れ、それぞれ異なる場所に暮らすことになりました。その後、互いに思い出しては会いたいと願い、たびたび使いを送って呼び寄せ、同じ場所で暮らしたいと望みました。「あなたが来てくれなければ、私の悲しみはさらに深まります」と。 この人の敵が、相手方の親しい者と親しくしていました。相手方が呼びに来たとき、どうして命じられるままに共に行くことがありましょうか。しかし結局、命に従って共に向かいました。久しぶりに会って、心の中では喜びましたが、あの敵の姿を見ては、心に怒りを抱いて不機嫌になりました。敵は陰で親しい者にこう言いました。「どうしてまた私の敵と一緒に遊び、共に行動するのか。私はそれを見るのが嫌だ」と。 この言葉を聞いて、愛着の心がさらに強くなり、共に帰ってしまいました。その後も思いは続き、また使いを送って呼び寄せました。こうして何度も繰り返し、再び親しい者に言いました。「なぜあの人と一緒にいるのか」と。その人は答えました。「愛が深く厚ければ、去った後の言葉など忘れてしまうものだ」と。 そこでまた返しました。「会いたい人に会えば、また悪い縁に遭う。私は今、なぜこのように親しい者に恋い焦がれ、互いにうまくいかないのだろうか」と。そこで家も妻子も捨てて出家し、道を学びました。 また別に一人の者がいました。ただ一人の子がいて、その子が羅刹鬼に捕らえられました。昼も夜も憂い悲しみ、捨て去ることができませんでした。あるとき羅刹鬼は幼い子をすっかり連れて鬼の住処へ行き、十日余りが過ぎました。その人は子に会えず、昼も夜も憂い悲しみ、死んではまた蘇るほどの思いでした。 羅刹鬼が再び子を連れて戻ると、父は子を見て喜びを抑えきれず、一日中抱いてあやし、いくら見ても飽きることがありませんでした。しかし羅刹鬼を見れば、また愁いと憂いを抱き、衣の毛が逆立つほどでした。 さらに十日が過ぎ、羅刹鬼はまた幼い子を連れて鬼の国へ帰りました。父はその後も思い続け、食事も息も休まることなく、こうして何度も繰り返すうちに、ついに憂いの病となってしまいました。 その父は考えました。「人の生の憂いと悩みは、その苦しみが万通りもある。私は今こそ家を捨てて道に入るべきだ」と。そこで出家し、道を歩む者となりました。 そのとき、世尊はこれらの人々を導こうと、巧みな智慧を示して、あるがままの安らぎの境地に導き、大衆の中でこの偈を説かれました。

「莫與愛念會， 亦莫不念俱，愛念不見苦， 不念愛憂慼，於中生愁慼， 消滅人根原。」

> 愛する念いと出会うなかれ、 また念わぬことも共になかるべし。 愛念あれば苦を見ず、 念わぬことは愛に憂い悲しむ。 そこから愁い悲しみが生まれ、 人の根元を消し滅ぼす。

世尊說曰：「恩愛猶尚不可戀慕，況非恩愛而可親近？」時二比丘內自思惟：「如來所訓正為我等，宜自謹慎修無上梵行。」晝則經行夜則坐禪，未經旬日即獲道跡，身能飛行眼能徹視，六通清徹無所罣礙。於如來佛法為有反復，咄嗟恩愛不可恃怙，諸結使盡得羅漢果，善哉福報如影追形，福業冥報如油津衣，身自衰喪罪福不朽。

> 世尊はおっしゃいました。「恩愛でさえ恋い慕ってはならないのだから、ましてや恩愛でないものが親しむに値するだろうか。」そのとき、二人の比丘は心の中でこう思いました。「如来の教えはまさに私たちのためのものだ。謹んで無上の梵行を修めよう。」昼は経行し、夜は坐禅して、十日も経たないうちに道の跡を得ました。身は飛ぶことができ、目は見通すことができ、六通は清らかに澄み渡り、何の妨げもありませんでした。如来の仏法に対して報いる心を持ち、ああ、恩愛は頼りになるものではないと知り、すべての煩悩を尽くして阿羅漢果を得ました。なんと素晴らしいことでしょう、福の報いは影が形を追うように、福の業のひそかな報いは油が衣にしみ込むように、身は衰え滅びても罪と福は朽ちることがありません。

愛念就後世， 朋友知親多，長夜愁憂思， 念離甚為苦。

> 愛する人を思えばこそ、来世のことも気にかかる。 友として親しく付き合う人も多ければ、 夜もすがら思い悩み、悲しみに暮れる。 別れを思うことは、本当に苦しい。

愛念就後世者，父母兄弟姊妹中表，及諸知識男女大小，從今世至後世流轉不停，是故說曰，愛念就後世，朋友知親多也。長夜憂思啼泣號哭，蓬頭亂髮搥胸懊惱，是故說曰，長夜愁憂思。念離甚為苦者，恩愛已離，或在他方、或復命終，所求不得所念不從，是故說曰，念離甚為苦。

> 愛する者と後世でまた出会うとしても、父母や兄弟、姉妹、いとこ、そして多くの知人、男女や年齢を問わず、この世から後世へと流転は止まらない。だからこう説くのである、愛する者とは後世でもつながる、友や親しい者は多いのだと。長い夜のように憂い思いつづけ、泣き叫び、髪を乱し、胸を打ち懊悩する。だからこう説くのである、長い夜のように愁い憂えると。愛する者と別れることは、まことに苦しい、と。愛着する者とすでに別れ、あるいは遠く離れ、あるいは命を終える。求めても得られず、思ってもかなわない。だからこう説くのである、愛する者と別れることはまことに苦しい、と。

念色善色容， 天身而別住，極樂而害至， 為死王所錄。

> 美しい姿かたちをしたものも、天の身で別に住むものも、 極楽にいても、やがて害が訪れ、死の王に捕らえられる。

念色善色容者，昔佛在舍衛國祇樹給孤獨園。爾時世尊告諸比丘：「上空界有天名歡樂，過差展轉共集作倡伎樂終日無厭，由其歡樂過故，從彼命終今生此間。比丘當知，復有天名曰喜笑，展轉共集舉聲大笑終日無厭，以其笑過差故，從彼命終來生此間。」是故說曰，念色善色容也。天身而別住者，晝夜戲笑不計無常對至，謂為受天之福無有窮已，極樂而害至，作倡伎樂舉聲大喚，皆是害本皆當捐棄，壽非久保便為死王所攝，隨形料簡科量罪福分別善惡，重罪付鑊湯輕付鬲子，平正如水齊量如概。是故說曰，為死王所攝也。

> 色や容姿の善さを念じる者について。昔、仏は舎衛国の祇樹給孤独園におられました。そのとき世尊は比丘たちに告げられました。「上方の空の世界に、歓楽という名の天があります。次々と集まっては歌や踊りにふけり、一日中飽きることがありません。その歓楽が度を超しているため、その命を終えて今ここに生まれてきたのです。比丘たちよ、知りなさい。また喜笑という名の天があります。次々と集まっては声をあげて大笑いし、一日中飽きることがありません。その笑いが度を超しているため、その命を終えてここに生まれてきたのです。」それゆえに、「色や容姿の善さを念じる」と説かれたのです。天の身でありながら別に住む者たちは、昼も夜も戯れ笑い、無常が訪れることを考えもしません。天の福は尽きることがないと思い込み、極楽にいながら灾いがやって来ます。歌や踊り、声をあげての大騒ぎは、みな灾いの根本であり、みな捨て去るべきものです。寿命は長く保てず、やがて死の王に捕らえられます。それぞれの形に応じて罪福を量り、善悪を分け、重い罪は大釜の湯に、軽い罪は小さな鍋に託されます。水のように平らかに、ますのように等しく量られるのです。それゆえに、「死の王に捕らえられる」と説かれたのです。

若人處晝夜， 消滅念愛色，自掘深根本， 不越死徑路。

> 昼夜を通じて、愛着や欲望の思いを消し去る人は、自ら深く根を掘り起こし、死の道を越えることはない。

若人處晝夜者，專精一意斷欲界欲愛永盡無餘，晝則勤精夜則諷誦，是故說曰，若人處晝夜也。消滅念愛色者，已滅已盡度有至無，無復恚怒，是故說曰，消滅念愛色也。自掘深根本者，或時掘念根、或掘愛根、或掘戀慕宗親縛著之根，著勇猛服執智慧钁，掘三毒根永使不生，是故說曰，自掘深根本也。不越死徑路者，愛著田業財寶七珍皆為死徑，心意戀著初不捨離亦是死徑，當求方便超越死路至不死處，是故說曰，不越死徑路也。

> 人が昼も夜も、ただ一筋に心を集中して、欲の世界への欲望と愛着をすっかり断ち尽くすならば、昼は勤めて励み、夜は経を唱える。それゆえに「人が昼も夜も」と説かれるのです。 念と愛と色への執着を消し滅ぼすとは、すでに滅ぼし尽くして、有ることを超え無きに至り、もはや怒りもないということです。それゆえに「念と愛と色への執着を消し滅ぼす」と説かれるのです。 自ら深い根本を掘るとは、あるときは念の根を掘り、あるときは愛の根を掘り、あるときは恋い慕う親族への執着の根を掘るということです。勇猛の衣をまとい、智慧のくわを手にして、三つの毒の根を掘り、永遠に生じないようにする。それゆえに「自ら深い根本を掘る」と説かれるのです。 死の道を越えないとは、愛着する田畑や事業、財宝や七つの宝はみな死への道であり、心が恋い執着して決して離れないこともまた死への道です。方便を求めて死の道を越え、不死の境地に至るべきです。それゆえに「死の道を越えない」と説かれるのです。

不善像善色， 愛色言非愛，苦謂為樂色， 放逸之所使。

> 悪を善いことのように見せかけ、 愛しいものを愛しくないと言い、 苦しみを楽しみだと決めつける―― それは怠け心に操られているからです。

不善像善色者，善者意所貪樂，終日翫習而不捨離，為人稱譏，如此眾善除捨遠離，為智者所譏、為智者所棄、為智者所責，是故說曰、不善像善色也。云何愛色言非愛？愛者無欺無詐，令人憂惱所欲不果遂生愛戀，是故說曰，愛色言非愛。云何苦謂為樂色？樂者身中諸根寂靜不亂，志性安和不興亂想，亦能使人生眾苦惱，先歡而後憂，是故說曰，苦謂為樂想。放逸所使者，放逸之人心不常定，與諸五親共相娛樂，生欣怒心放意自恣，是故說曰，放逸之所使也。

> 不善を善い色のように見せるものは、善いものだと心が貪り楽しみ、一日中玩び習って捨て離れず、人に称賛されたり嘲笑われたりする。このように多くの善を除き捨て遠ざけることは、智者に譏られ、智者に棄てられ、智者に責められる。だから説いて「不善は善い色のようだ」と言うのである。どうして愛すべき色を愛すべきでないと言うのか。愛とは欺きも詐りもなく、人を憂い悩ませ、欲する所が果たされなければ愛恋を生じる。だから説いて「愛すべき色を愛すべきでないと言う」のである。どうして苦を楽の色と言うのか。楽とは身の中の諸根が寂静にして乱れず、志性が安和で乱想を起こさず、また人に多くの苦悩を生じさせる。先に歓び、後に憂える。だから説いて「苦を楽の想いと言う」のである。放逸に使われる者とは、放逸の人は心が常に定まらず、五親と共に相娯楽し、欣怒の心を生じて放意自恣する。だから説いて「放逸に使われる者」と言うのである。

夫欲自念者， 不與惡共居，此則難獲得， 樂為惡根本。

> 自分を省みようとする人は、 悪とともに暮らしてはならない。 これは得がたいことだが、 楽しみは悪の根本である。

夫欲自念者，若人欲自愛身當先愛彼，不由此愛傷害生命，是故說曰，夫欲自念身也。云何不與惡人共居？世間多諸畏懼，與惡從事遂積重罪，不與惡共居者，身口意常清淨，是故說曰，不與惡共居也。此則難獲得者，不修善本不教一切眾生立於根門，亦復不能廣化未悟，是故說曰，此則難獲得也。樂為惡根本者，夫行惡人終無有樂，心在殺害修不善本，是故說曰，樂為惡根本也。

> 自分を大切に思う人は、まず他人を大切にすべきです。この愛によって命を傷つけることがあってはなりません。だから「自分を大切に思う人は」と説かれたのです。 悪人と共に暮らさないとはどういうことでしょうか。世の中には多くの恐れがあり、悪と行動を共にすればやがて重い罪を積み重ねることになります。悪人と共に暮らさなければ、身と口と心はいつも清らかです。だから「悪人と共に暮らさない」と説かれたのです。 これは得がたいことであるとは、善の根本を修めず、すべての衆生を導いて修行の道に立たせることもなく、まだ悟っていない人々を広く教え導くこともできないということです。だから「これは得がたいことである」と説かれたのです。 悪の根本を楽しむとは、悪を行う人に楽しみは決してありません。心は殺害にあり、不善の根本を修めているのです。だから「悪の根本を楽しむ」と説かれたのです。

夫欲自念者， 善宜自守護，猶如防邊城， 深塹固乃牢，失三離三者， 智者宜自悟。

> 自分自身をよく見つめようとする人は、みずからを大切に守るべきです。 それはまるで、国境の城を守るかのように。深い堀をめぐらせて、しっかりと堅固にするのです。 三つのものを失い、三つのものから離れること——賢い人なら、みずからそれに気づくべきです。

夫欲自念者，猶如邊城常當守護，自防護身亦復如是，或畏外寇來入境內，復恐自下私竊叛逆，復畏內人與外情通。內心城者亦當如是，常當三事防護，恐外結使賊來入境內，復畏心所念法與外塵同。內不思惟挍計塵勞，心城危險難賞難護多諸恐畏，守護堅牢無有恐懼。心城亦如是，守護牢固無有恐懼。是故說曰，夫欲自念者也，善宜自守護，猶如防邊城，深塹固乃牢，失三離三者，智者宜自悟也。

> 自分の心を守ろうとする人は、辺境の城をいつも守るように、自分自身を守らなければなりません。外から敵が攻め込んでくることを恐れ、また内部の者がひそかに裏切ることを恐れ、さらに内部の者が外と通じることを恐れます。心という城も同じです。常に三つのことをもって守り、外からの煩悩の賊が心に入り込むことを恐れ、また心に思うことが外の対象と一致してしまうことを恐れます。心の中で煩悩をあれこれと考えなければ、心の城は危険で守りにくく、多くの恐れがありますが、堅固に守れば恐れがなくなります。心の城もまた同じで、しっかり守れば恐れがなくなります。それゆえにこう説かれました。自分の心を守ろうとする者は、よく自らを守り、辺境の城を守るように、深い堀で固めて堅牢にし、三つを失い三つを離れたなら、賢い人は自ら悟るべきである、と。

夫欲自念者， 藏而使牢固，猶如防邊城， 內外悉牢固。

> 自分の心をよく見つめようとする人は、それをしっかりと守り、堅固に保つべきです。それはまるで国境の城を守るかのように、内も外もすべて堅く守るのです。

昔佛在舍衛國祇樹給孤獨園。是時世尊告諸比丘：「若邊境郭七業成就，四食充實，易護易滿，外寇欲來攻者終不能得，除其內人與外通也。云何邊境七業成就？於是邊境鹿角外防牢固不可移動，是謂邊城初業成就，外寇不能得壞。復次邊城掘塹深廣修飾極妙，是謂邊城二業成就，外寇不能得壞也。復次邊城造其却敵以俟戰鬪，是謂邊城成就三業，外寇不能得壞。復次邊城戰具備足，弓弩機關飛輪水道、融鐵雷石戈矛利矟、內備退道，是謂邊城成就四業者外寇不能得壞。復次邊城四面安四種軍，象軍馬軍車軍步軍，除其內人與外通者，是謂邊城成就五業，外寇不能得壞。復次邊城瞻守門戶，持時曉夜解知號令即別善惡，識者聽入不識者不聽入，是謂邊城成就六業，外寇不能得壞。復次邊城高峻內外剗治，除其內人與外通者，是謂邊城成就七業，外寇不能得壞。云何邊城裏四食充滿，外寇不能得攻？復次邊城饒薪多水，除其內人與外通者，是謂成就初食，外寇不能得其便。復次邊城豐饒穀米庫藏充滿，除其內人與外通者，是謂邊城成就二食，外寇不能得便。復次邊城饒稻麥豆，除其內人與外通者，是謂邊城成就三食，外寇不能得其便。復次邊城饒諸熟食，油酥脂膏魚脯乾肉，是謂邊城成就四食。」佛說此偈，內外牢固，姦宄寇賊不得其便。是故說曰，猶如邊城內外牢固，常當專意，內無色想除外色，外無色想除內色，內外無色想除內外色也。

> 昔、仏は舎衛国の祇樹給孤独園におられた。そのとき世尊は比丘たちに告げられた。 「辺境の城に七つの条件が整い、四つの食糧が満ちていれば、守りやすく満たしやすく、外敵が攻めて来ても決して攻め落とすことはできない。ただし、内部の者が外と通じる場合は除く。 辺境の城に七つの条件が整うとはどういうことか。まず、辺境の城は鹿角の外防が堅固で動かすことができない。これが辺城の第一の条件が整ったことであり、外敵はこれを破ることができない。 次に、辺城は堀を深く広く掘り、見事に整えている。これが辺城の第二の条件が整ったことであり、外敵はこれを破ることができない。 次に、辺城は敵を防ぐための設備を造り、戦いに備えている。これが辺城の第三の条件が整ったことであり、外敵はこれを破ることができない。 次に、辺城は戦具が十分に備わり、弓弩やからくり、飛輪や水路、溶けた鉄や雷石、戈や矛、鋭い槍、そして内部に退却路が備わっている。これが辺城の第四の条件が整ったことであり、外敵はこれを破ることができない。 次に、辺城は四面に四種の軍を配置している。象軍・馬軍・車軍・歩軍である。ただし、内部の者が外と通じる場合は除く。これが辺城の第五の条件が整ったことであり、外敵はこれを破ることができない。 次に、辺城は門を守り、昼夜を通して時を定め、号令を理解して善悪を正しく見分ける。分かる者は通し、分からない者は通さない。これが辺城の第六の条件が整ったことであり、外敵はこれを破ることができない。 次に、辺城は高く険しく、内外を整え清めている。ただし、内部の者が外と通じる場合は除く。これが辺城の第七の条件が整ったことであり、外敵はこれを破ることができない。 辺城の中に四つの食糧が満ちていれば、外敵は攻め落とすことができないとはどういうことか。 次に、辺城は薪が豊かで水が多い。ただし、内部の者が外と通じる場合は除く。これが第一の食糧が整ったことであり、外敵はつけ込むことができない。 次に、辺城は穀米が豊かに実り、蔵が満ちている。ただし、内部の者が外と通じる場合は除く。これが辺城の第二の食糧が整ったことであり、外敵はつけ込むことができない。 次に、辺城は稲・麦・豆が豊かである。ただし、内部の者が外と通じる場合は除く。これが辺城の第三の食糧が整ったことであり、外敵はつけ込むことができない。 次に、辺城はさまざまな調理済みの食べ物に恵まれている。油・酥・脂膏・魚の干物・干し肉などである。これが辺城の第四の食糧が整ったことである。」 仏はこの偈を説かれた。内外が堅固であれば、悪人や盗賊はつけ込むことができない。それゆえにこう説かれる。ちょうど辺境の城が内外ともに堅固であるように、常に心を集中し、内に色想なくして外の色を除き、外に色想なくして内の色を除き、内外に色想なくして内外の色を除くのである。

當自防護， 時不再遇， 時過生憂，墜墮地獄。

> 自らを守りなさい。この機会は二度と訪れません。時が過ぎれば憂いが生じ、地獄に堕ちてしまいます。

當自防護者，執心不亂諸根寂定，目見生死災害熾然，修諸善法，知泥洹城清涼無為，防護穢濁心垢之惱，是故說曰，當自防護。時不再遇者，於億千萬劫乃遇一良時，雖復遭遇，或前或後或生中國，與賢聖相遇，諸根不缺，宿種功德，遭值佛世，汝等宿緣堪任斷結越次取證，盡諸有漏成無漏行。是故說曰，時不再遇。時過生憂者，從無數劫積善所致乃遇良時，良時已過悔無所及，有八事中間不得向王有所陳啟。云何為八？王遭喪難不得有所陳啟，王身遇熱患不得有所陳啟，王飢未食不得有所陳啟，王入深宮不得有所陳啟，王或入庫藏或侵他境不得有所陳啟，王或與鼎臣共議不得有所陳啟，有人發舉陰謀之事不得有所陳啟，王獨坐靜默意有所規不得有所陳啟。俗間八事有所禁忌不得自宣。今此內法亦復如是，在八無閑不得興發善心。云何為八？或遭喪難親族死亡，不得興發善心。在八地獄十六鬲子，刀山劍樹火車爐炭受諸苦惱身爛心焦，於其中間不容善心念道。或在餓鬼，腹如泰山縱廣數十由延，咽如細鍼長數十丈一寸千鬲，爾時意荒心念飲食，於其中間不容善心念道。若生六天，一男服飾百億莊嚴，食以甘露，玉女圍繞，視東忘西視右忘左，如數疾輪無有端緒，於其中間不容善心念道。若生邊地夷狄之中，無佛法眾，不聞三法之音，語不真正心無篤信，生在邪見或生長壽天，於其中間不容善心念道。或生中國，手脚不具六情不完，或聾盲瘖瘂，於其中間不容善心念道。或生佛後五無間處，於其中間不容善心念道。若佛興出於世，其人在邪見家，不信三寶，與顛倒相應，於其中間不容善心念道。是謂八不閑處，善不與惡俱、惡不與善俱。佛告比丘：「如我今出現於世，如來、至真、等正覺，十號具足敷演道義，上中下善，志趣滅度，度未度者。」是故說曰，時過生憂，墮地獄中。

> 自分を守りなさい。心をしっかり保ち、乱れることなく、諸々の感覚を静かに落ち着け、生死の災いが激しく燃え盛るのを目の当たりにして、さまざまな善い行いを修め、涅槃の城が清涼で、なすことのない安らぎであることを知り、汚れ濁った心の垢の悩みから身を守るのです。だからこう説かれます、「自分を守りなさい」と。 時は二度めぐってこないとは、億千万劫もの長い間を経て、ようやく一度めぐってくる良い時を得ることです。たとえその時にめぐり逢っても、あるいは前だったり後だったり、あるいは文明の中心地に生まれ、賢い聖人と出逢い、諸々の感覚に欠けるところがなく、過去に積んだ功德があり、仏の世に巡り逢うことがあります。あなた方は過去の縁によって、煩悩の結びを断ち、順序を飛び越えて悟りを得て、すべての漏れを尽くして漏れのない行いを成し遂げるにふさわしいのです。だからこう説かれます、「時は二度めぐってこない」と。 時が過ぎてから憂えるとは、数えきれない劫の間、善を積んだ結果として、ようやく良い時に巡り逢うことです。良い時がすでに過ぎ去れば、悔やんでも及ばないのです。王に八つの事があって、その間は申し述べることができません。八つとは何か。王が喪の難に遭えば、申し述べることができません。王の身が熱い病にかかれば、申し述べることができません。王が飢えてまだ食事をしていなければ、申し述べることができません。王が奥深い宮殿に入れば、申し述べることができません。王が蔵に入ったり、他の領地に攻め入ったりすれば、申し述べることができません。王が重臣たちと相談していれば、申し述べることができません。陰謀の事が持ち上がっていれば、申し述べることができません。王がひとり静かに座して心に思うことがあれば、申し述べることができません。世間の八つの事には忌むべきことがあって、自ら述べることができないのです。 この内なる法もまた同じです。八つの暇のないところにあっては、善い心を起こすことができません。八つとは何か。あるいは喪の難に遭い、親族が亡くなれば、善い心を起こすことができません。八つの地獄、十六の鬲子にあっては、刀の山、剣の樹、火の車、炉の炭でさまざまな苦悩を受け、身は爛れ心は焦げ、その間には善い心で道を念じる余地がありません。あるいは餓鬼にあっては、腹は泰山のようで、縦横数十由延もあり、喉は細い針のようで長さ数十丈、一寸に千の鬲があり、その時は心は乱れ、心に飲食を念じ、その間には善い心で道を念じる余地がありません。あるいは六天に生まれれば、一人の男に百億の装飾がまとわれ、甘露を食し、玉女に囲まれ、東を見ては西を忘れ、右を見ては左を忘れ、速い車輪を数えるように端緒がなく、その間には善い心で道を念じる余地がありません。あるいは辺地の夷狄の中に生まれれば、仏法僧がなく、三つの法の音を聞かず、言葉は正しくなく心に厚い信仰がなく、邪見に生まれるか、あるいは長寿天に生まれ、その間には善い心で道を念じる余地がありません。あるいは文明の中心地に生まれても、手足が整わず六つの感覚が完全でなく、あるいは耳が聞こえず目が見えず声が出せず、その間には善い心で道を念じる余地がありません。あるいは仏の後、五無間の処に生まれ、その間には善い心で道を念じる余地がありません。もし仏が世に出現されても、その人が邪見の家にあって三宝を信じず、顛倒と相応していれば、その間には善い心で道を念じる余地がありません。これが八つの暇のない処であり、善は悪とともにせず、悪は善とともにしないのです。 仏は比丘たちに告げられました。「私が今、この世に出現するように、如来、至真、等正覚は、十の称号を具え、道の義を広く説き、上中下の善を示し、志は滅度に向かい、まだ度されない者を度するのである。」だからこう説かれます、「時が過ぎてから憂え、地獄に堕ちる」と。

遍於諸方求， 念心中間察，頗有斯等類， 不愛己愛彼，以己喻彼命， 是故不害人。

> あちこちを尋ね求め、 心の内をよく見つめてみても、 自分の身を愛するよりも他人を愛する者など、 どこにもいないではないか。 だからこそ、自分を基準にして他人の命を思いやり、 人を傷つけてはならない。

遍於諸方求者，心念十方，何等眾生不畏死不懷恐懼？復有何等眾生不念樂不患苦？復有何等眾生具一切眾行而自娛樂？是故說曰，遍於諸方求也。念心中間察者，心常憶念行業之本，行業有二種：一者淨觀，二者不淨觀。智者淨觀，不智者不淨觀。是故說曰，念心中間察也。云何頗有斯等類者？若大若小若好若醜各自有性，彼彼自相念，如念己身無異，是故說曰，頗有斯等類也。不愛己愛彼者，人之受形四大俱等，命根一類無有高下，彼命此命俱終變易，是故說曰，不愛己愛彼也。以己喻彼命，是故不害人也。

> あらゆる方角に求める者とは、心に十方を念じて、どのような衆生が死を恐れず怖れを抱かないのか、またどのような衆生が楽しみを念じず苦しみを患えずにいられるのか、またどのような衆生がすべての行を備えて自ら楽しむのか、と考えることです。それゆえ「あらゆる方角に求める」と説くのです。 心の中で観察するとは、心つねに行いのもとを思い起こすことです。行いには二種類あります。一つは清らかな観察、二つは清らかでない観察です。賢い人は清らかに観察し、愚かな人は清らかでなく観察します。それゆえ「心の中で観察する」と説くのです。 どうしてこのような類の者がいるでしょうか。大きい者も小さい者も、美しい者も醜い者も、それぞれに性質があり、それぞれが互いに思いやり、自分の身を思うのと同じです。それゆえ「このような類の者がいるだろうか」と説くのです。 自分を愛さず他人を愛するとは、人が形を受けるとき四大は等しく、命の根は同じ類で高下はなく、あの命もこの命もともにやがて変わりゆくものです。それゆえ「自分を愛さず他人を愛する」と説くのです。 自分を基準にして他人の命を思いやる、それゆえ人を害さないのです。

一切皆懼死， 莫不畏杖痛，恕己可為譬， 勿殺勿行杖。

> すべての生き物は死を恐れ、杖の痛みを怖がります。 自分に置き換えて考えれば、殺してはならず、杖で打ってもいけません。

一切皆懼死者，五道眾生迴轉四流，皆畏楚毒自護已命。世尊說曰：「若欲護己者，不當行楚毒。」世間狂夫橫行罪業，或以刀杖共相傷害，戲笑為惡號哭受痛，懷毒陰謀禍及門族，是故智者絕禍於未生，資福於無形。是故說曰，一切皆懼死，莫不畏杖痛，恕己可為譬，勿殺勿行杖。夫行殺者，生輒短命，是故汝等當避於殺也。

> すべてのものは死を恐れています。五つの世界を巡る生きとし生けるものは、みな苦しみを畏れ、自らの命を守ろうとしています。世尊はこう説かれました。「もし自分を守りたいと思うなら、他人を苦しめてはならない。」世間の愚かな者は罪を重ね、刀や杖で互いに傷つけ合います。ふざけて悪を行い、泣き叫んで苦しみを受けるのです。悪意を抱いて陰でたくらめば、その災いは一族にまで及ぶのです。ですから、知恵ある者は災いが起こる前に断ち、形に見えないうちに福を積みます。そこでこう説かれます。すべてのものは死を恐れ、杖で打たれる痛みを畏れないものはいない。自分に置き換えて考え、殺してはならず、杖を振るってもならない。殺しを行う者は、生まれればすぐに短命となります。ですから、あなたがたは殺すことを避けなさい。

譬人久行， 從遠吉還， 親厚並安，歸來喜歡。

> たとえば、人が長く旅をして、 遠くから無事に帰ってきたとき、 親しい人々がみな無事で、 帰ってきたことを喜ぶようなものです。

昔佛在舍衛國祇樹給孤獨園。時舍衛城裏有人名曰鍾磬，宗族五親不可稱限，己身貧匱乏諸財產，衣不覆形食不充口，五親相見皆低頭而過。鍾磬自念：「吾宿少福生不遇時，自知貧困五親離薄，出則為人所笑，入則為妻兒所責，寧出此國造他方土，死活由天安知餘事，正使處他國土，寧彼死亡不在此求活。」時彼鍾磬即出國界適他邦域，賣庸客作勤力生活，憶本窮悴為五親所薄，晝夜勤勤不暇食息，漸漸積財無數，金銀珍寶車𤦲馬瑙、珊瑚虎珀駱駝驢騾，及以車輿載致珍寶歸還本國。諸五親聞鍾磬多獲珍寶還來歸家，盡出迎逆。與家別久亂髮鬢長，衣裳垢坌步負錢財，五親不識而問曰：「鍾磬今為所在？」鍾磬報曰：「乃在於後，斯須自到。」五親留待，復問後人：「鍾磬所在？」後人報曰：「鍾磬最在前。」如是經久不見鍾磬。鍾磬但言在後，後人復言在前，遂欲至家不識鍾磬。時諸五親捉鍾磬奴指示鍾磬，五親得與相見。「與卿別久各不相識，人存形變乃至於斯。今我五親故來迎卿，何為面欺故言在後？」鍾磬報曰：「我非鍾磬，後車載寶貨乃是鍾磬。曩昔貧悴，為諸五親所見輕忽，對面相見低頭而過。汝今何為求於鍾磬？」五親報曰：「我等接遇卿者，今日何由得致此財？」雖爾五親不多如本不及盡，往城外共相問訊，沐浴澡洗，更著新衣入城歸家。至明清旦辭五親：「違遠如來日久，欲往禮覲問訊。」諸親報曰：「我等亦欲隨從。」是時五親相將共至世尊所，頭面禮足在一面坐。爾時世尊見眾坐已定，便說斯偈：「譬人久行，從遠吉還，親厚共安，歸來喜歡。」爾時鍾磬及諸五親，歡喜踊躍善心生焉，即起長跪請佛及僧至家設供。如來默然受請。明日時到著衣持鉢，比丘僧眾前後圍繞，往造磬家各各次坐。鍾磬手自斟酌行甘饌飲食，食訖行水，更取小坐在如來前，而受呪願。如來說偈：

> むかし、仏は舎衛国の祇樹給孤独園におられた。そのころ舎衛城に鍾磬という人がいた。一族の五親は数えきれないほど多かったが、彼自身は貧しくて財産もなく、着物は体を覆うこともできず、食べ物は口を満たすこともできなかった。五親たちは彼に会っても、みなうつむいて通り過ぎるだけだった。鍾磬は思った。「私は前世で福が少なく、生まれる時代にも恵まれなかった。自分の貧しさを知り、五親からも疎まれ薄く扱われている。外に出れば人に笑われ、家に帰れば妻や子に責められる。いっそこの国を出て他の土地へ行こう。生き死には天に任せ、ほかのことはどうなるか分からない。たとえ他の国で死んでも、ここで生き延びることを求めるよりましだ。」そこで鍾磬は国境を出て他国へ行き、雇われて労働し、力を尽くして暮らした。もとの貧しさを思い、五親に薄く扱われたことを思うと、昼も夜も勤勉に働き、食事や休息の暇もなかった。少しずつ財を積んで数えきれないほどになり、金銀や珍宝、車や宝石、馬瑙、珊瑚、琥珀、ラクダ、ロバ、ラバ、さらには車に珍宝を載せて本国へ帰ってきた。五親たちは鍾磬が多くの珍宝を得て家に帰ってきたと聞くと、みな出て迎えた。家を離れて久しく、髪は乱れもみあげは伸び、着物は汚れて、歩いて財を背負っていたので、五親は彼と分からずに尋ねた。「鍾磬は今どこにいるのか。」鍾磬は答えた。「後ろにいます。すぐに自分で来ますよ。」五親は留まって待ち、また後から来る人に尋ねた。「鍾磬はどこか。」後から来た人は答えた。「鍾磬は一番先にいます。」こうして長いこと経っても鍾磬に会えなかった。鍾磬はただ後ろにいると言い、後の人はまた前にと言うので、家に着こうとしても鍾磬が分からない。そこで五親たちは鍾磬の奴隷をつかまえて鍾磬を示させ、五親はやっと会うことができた。「あなたと別れて久しく、互いに分からなくなってしまった。人の姿は変わるものだと、ここまでとは。私たち五親がわざわざ迎えに来たのに、なぜ顔を欺いて後ろにいると言うのか。」鍾磬は答えた。「私は鍾磬ではない。後ろの車に宝貨を載せているのが鍾磬だ。昔は貧しく、五親たちに見下され軽んじられ、顔を合わせてもうつむいて通り過ぎられた。お前たちは今なぜ鍾磬を求めるのか。」五親は答えた。「私たちがあなたに会っていたなら、今日どうしてこの財を得ることができただろうか。」そうではあっても、五親はもとのように多くはなく、すべては及ばなかった。城外に出て互いに挨拶し、沐浴して体を洗い、新たな衣に着替えて城に入り家に帰った。明くる日の朝、五親に別れを告げた。「如来にお会いして久しい。礼拝し問讯したいと思います。」親たちは答えた。「私たちも従いたい。」そこで五親は連れ立って世尊のもとへ行き、頭を地につけて礼し、一方に座った。そのとき世尊は皆が座り終えたのを見て、この偈を説かれた。「たとえば人が久しく旅をし、遠くから無事に帰り、親しく厚い者たちとともに安らぎ、帰り来て喜ぶようなものだ。」そのとき鍾磬と五親たちは、歓喜踊躍し善心が生じ、すぐに立ち上がり長跪して仏と僧を請い、家に招いて供養しようとした。如来は黙って請いを受けられた。明くる日、時が至ると衣を着け鉢を持ち、比丘僧たちに前後を囲まれ、鍾磬の家へ赴き、それぞれ順に座った。鍾磬は自ら手で酌み、甘い飲食を施し、食が終わると水を差し、さらに小さな座を取って如来の前に座し、呪願を受けた。如来は偈を説かれた。

「好行福者， 從此到彼， 自受福祚，如親來喜。 起從聖教， 禁制不善，近道見愛， 離道莫親。 近與不近，所往者異， 近道昇天， 不近墮獄。」

> 善い行いを積む人は、ここからあの世へ行き、自らその福の報いを受ける。まるで親しい人が来て喜ぶように。聖なる教えに従って立ち、不善を慎み、道に近づけば愛され、道から離れれば親しんではならない。近づくか近づかないかで、行き着く先は異なる。道に近づけば天に昇り、近づかなければ地獄に堕ちる。

爾時鍾磬及諸五親，聞佛所說心開意悟，即於坐上得盡信之法。

> そのとき、鐘磬と五人の親族たちは、仏の説法を聞いて心が開け、悟りを得て、その場で完全な信の法を体得しました。

樂法戒成就， 誠信樂而習，能自勅身者， 為人所愛敬。

> 法を喜び戒を守る人は、誠実な信をもって学び続け、 自らを律することができるなら、人から愛され敬われるでしょう。

樂法戒成就者，眾生之類習於法教修諸善法。戒成就者，云何？若有眾生奉持禁戒無毫釐失，持此戒福，復生梵天受福無窮，此則缺戒不奉禁律。何以故？由其摸貿天福故。若復有人奉持禁戒毫釐不失，持禁戒福不求生天為梵身帝釋，不求作魔王，不求作轉輪王典四天下，我今持戒之福求於無上等正覺，是謂名為戒成就。是故說曰，樂法戒成就也。誠信樂而習者，執信堅固常樂修習，心不恐懼亦無亂念，一一篤信所行真實，常處有記不處無記，出言至誠不說彼此，是故說曰，誠信樂而習。云何能自勅身？夫行善者自為己身，以物惠施自受其福，奉持禁戒捨放逸意，求於濟神，為後世作橋梁，論經說義廣採異同亦為己身，是故說曰，能自勅身也。為人所愛敬者，執行之人所遊方域，為人所敬、歎說其德。福由人弘，名稱外被，是故說曰，為人所愛敬也。

> 法を楽しみ戒を成就するとは、生きとし生けるものが法の教えに親しみ、さまざまな善い行いを修めることです。戒を成就するとはどういうことでしょうか。もしある人が戒めを守り、少しも違えることなく、その戒を守る功徳によって再び梵天に生まれて尽きることのない福を受けるなら、それはかえって戒を欠き、戒律を守らないことになります。なぜでしょうか。天の福を欲しがっているからです。もしまたある人が戒めを守り、少しも違えることなく、その戒を守る功徳によって天に生まれようとも思わず、梵天や帝釈天になろうとも思わず、魔王になろうとも思わず、四天下を治める転輪王になろうとも思わず、ただこの戒を守る功徳によって無上の正しい悟りを求めるとするなら、これこそを戒成就と呼ぶのです。それゆえに「法を楽しみ戒を成就する」と説かれるのです。 誠の信を喜んで修めるとは、信の心を堅く保ち、常に喜んで修め習い、心に恐れもなく乱れた思いもなく、一つ一つを篤く信じてその行いは真実であり、常に記される側にあって記されない側にはおらず、言葉を発すれば誠に至り、あれこれと二心を言わないことです。それゆえに「誠の信を喜んで修める」と説かれるのです。 どのようにして自らを励ますことができるでしょうか。善い行いをする人は、まず自らのために、物を施せば自らその福を受け、戒めを守って放逸な心を捨て、心を救うことを求め、後の世のための橋となるのです。経を論じ義を説き、広く異なる説を採るのもまた自らのためです。それゆえに「自らを励ますことができる」と説かれるのです。 人に愛され敬われるとは、行いを実行する人は、訪れるところの人々から敬われ、その徳を讃えられるということです。福は人によって広まり、名声は外に届きます。それゆえに「人に愛され敬われる」と説かれるのです。

為人所愛敬， 皆由己所造，現世得稱譽， 後生於天上。

> 人から愛され敬われるのは、 すべて自分の行いによるものです。 この世でほめられ、 後の世には天に生まれます。

為人所愛敬者，人之行全則名顯，外來為數千萬人所見尊奉，言從語用為人摽首，斯由積行無虧損故，是故說曰，為人所愛敬。皆由己所造者，人修善行求免厄難，受人信施衣被󰕖食床臥具病瘦醫藥，則不損耗於禁律法，內有真誠外能消化，是故說曰，皆由己所造也。現世所稱譽者，為天人所歎，德可敬可貴，所遊之方無所罣礙，是故說曰，現世所稱譽也。後生於天上者，身壞命終生善處天上，七寶殿堂受福自然，是故說曰，後生於天上。

> 人に愛され敬われるのは、人の行いが完全であれば名が広く知られ、外から数千万人に尊ばれ慕われ、その言葉は従われ、人々の模範となる。これは積み重ねた行いに欠けがなかったからである。だから「人に愛され敬われる」と説く。すべては自分が造ったものごとによる、とは、人が善行を修めて災難を免れようとし、人から信じ施される衣・食・臥具・病の薬を、戒律の法を損なうことなく受け、内に真実の誠があって外によく消化する。だから「すべては自分が造ったものによる」と説く。現世で誉められるとは、天と人に讃えられ、その徳は敬うべき尊ぶべきもので、赴くところに妨げがない。だから「現世で誉められる」と説く。後に天上に生まれるとは、身が壊れ命が終わって善き処である天上に生まれ、七宝の殿堂で自然に福を受ける。だから「後に天上に生まれる」と説く。

教習使稟受， 制止非法行，善者之所念， 惡者當遠離。

> 教えを受けて守る者は、正しくない行いを止め、 善い人が心に抱くことを思い、悪いことは遠ざけるべきです。

教習使稟受者，在於法功德中教授正法，隨彼所須而演其教，是故說曰，教習使稟受。制止非法行者，非法行者，人所憎惡多興亂念，眾惡之原，令人墮地獄餓鬼畜生，是故說曰，制止非法行也。善者之所念者，修善之人善德具足，終不使人至於惡道，是故說曰，善者之所念也。惡者當遠離者，惡知識者即是惡也，行不至要動與惡俱，心中所念以惡為首，是故說曰，惡者當遠離也。

> 教えを習い、教えを受ける人は、法の功徳の中で正しい法を教えられ、その人の必要に応じて教えを説かれる。だからこう言うのです。「教えを習い、教えを受けよ」と。 非法の行いを止めよとは、非法を行う者は人から憎まれ嫌われ、多くの乱れた心を起こす。あらゆる悪の根源であり、人を地獄・餓鬼・畜生に堕とす。だからこう言うのです。「非法の行いを止めよ」と。 善き人の心に念じることとは、善を修める人は善い徳を備え、決して人を悪道に至らせない。だからこう言うのです。「善き人の心に念じること」と。 悪しき者からは遠ざかれとは、悪い友こそが悪である。行いは要を至らず、常に悪と共にあり、心に念じることは悪を第一とする。だからこう言うのです。「悪しき者からは遠ざかれ」と。

善與不善者， 此二俱不別，不善生地獄， 善者生天上。

> 善い行いも悪い行いも、この二つは分けて考えなければならない。 悪い行いをすれば地獄に生まれ、善い行いをすれば天に生まれる。

善與不善者，各自別異：一者妙，二者非妙；一者定，二者亂；一趣善道，二趣惡道；一得善譽，二致誹謗。是故說曰，善與不善也。此二俱不別者，從此人間終亦從行地死，從此造業而致來變，是故說曰，此二俱不別也。不善生地獄者，惡知識人修不善行，己所施為亦欲使人同己，是故說曰，不善生地獄也。善者生天上者，所謂四雙八輩十二賢士，修善本、遊虛無，不樂世煩，是故說曰，善者生天上也。

> 善と不善は、それぞれ異なっています。一方はすぐれたもの、他方はすぐれていないもの。一方は定まった心、他方は乱れた心。一方は善い道へ向かい、他方は悪い道へ向かいます。一方は善い評判を得、他方は誹謗を招きます。だから「善と不善」と言うのです。 この二つがともに区別されないとは、この人は人間界で命を終え、行いのままに死に、ここでの行いによって次の変化を招くということです。だから「この二つはともに区別されない」と言うのです。 不善な者が地獄に生まれるとは、悪い友に従う人が不善な行いをなし、自分の行いを他人にも同じようにさせようとするからです。だから「不善な者は地獄に生まれる」と言うのです。 善い者が天に生まれるとは、いわゆる四双八輩・十二賢士が善の根本を修め、空寂を遊行し、世の煩わしさを楽しみとしないからです。だから「善い者は天に生まれる」と言うのです。

## 出曜經卷第八

> 『出曜経』巻第八