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title: "出曜經 · 7 戒品"
description: "出曜经是姚秦时期著名译经师竺佛念所译的佛教经典，属于早期汉传佛教重要文献之一。该经主要阐述佛陀的教法，内容涵盖修行方法、因果业报、戒律规范等核心教义，具有鲜明的实践指导意义。竺佛念作为五世纪初重要译经家，其译文准确流畅，对佛教在中国的传播影响深远。出曜经不仅反映了早期佛教思想体系，也为研究中国佛教发展史提供了珍贵资料，在汉传佛教经典中占有重要地位，是了解原始佛教教义的重要参考典籍之一。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmczndj021mmxjj04a2llwct0"
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## 出曜經卷第九

> 『出曜経』巻第九

姚秦涼州沙門竺佛念譯

> 姚秦涼州沙門竺仏念訳

### 戒品第七

> 戒の章 第七

慧人護戒， 福致三寶， 名聞得利，後上天樂。

> 智慧ある人は戒を守り、 その功徳は三宝に届き、 名声と利益を得て、 のちに天の楽しみを受ける。

昔佛在舍衛國祇樹給孤獨園。爾時世尊告諸比丘：「慧人欲求三法者，常當護於禁戒。云何為三法？一謂善者稱之慎以法律。二者設得利養無能遏絕。三者身壞命終上生天上。是謂持戒之人行此三法，終受其福。」爾時世尊在大眾中而說此偈：

> 昔、仏は舎衛国の祇樹給孤独園におられました。そのとき、世尊は比丘たちに告げました。「智慧ある人が三つの法を求めるならば、常に戒めを守るべきです。三つの法とは何か。一つには、善き者たちが称賛し、法に従って慎重に行動すること。二つには、たとえ利益や供養を得ても、それを妨げられることがないこと。三つには、身体が壊れ命が終わった後、天上に生まれること。これが戒を守る人の行う三つの法であり、ついにはその福を受けるのです。」そのとき、世尊は大衆の中でこの偈を説かれました。

「慧人護戒， 福致三寶， 名聞得利，後上天樂。 常見法處， 護戒為明，得成真見， 輩中吉祥。 持戒者安，令身無惱， 夜臥恬惔， 寤則常歡。」

> 智慧ある人は戒を守り、 その功徳は三宝に至り、 名声と利益を得て、 のちには天上の楽しみを受ける。 常に法の教えに出会い、 戒を守ることは明かりとなり、 真実の見解を成就し、 人々の中にあって吉祥となる。 戒を守る者は安らかで、 身体に悩みがなく、 夜は静かに眠り、 目覚めればいつも喜びに満ちている。

爾時眾會聞佛所說，歡喜奉行。

> そのとき、集まった人々は仏の説かれた教えを聞き、喜んで実践しました。

戒終老安， 戒善安止， 慧為人寶，福盜不取。

> 戒めを守る人は老いても安らかです。 戒めを守る人は善に安らかにとどまります。 智慧は人の宝であり、 福は盗むことができません。

戒終老安者，持戒之人雖復年耆老朽，天龍神祇常隨護助，阿須倫、迦留羅、真陀羅、摩休勒、人與非人，鳩槃荼、匹奢遮、羅殺鬼，如此等類常護長老持戒之人，晝夜禁衛如影隨形，是故說曰，戒終老安也。戒善安止者，若有眾生信向如來信根成就，信有二業：一無狐疑信，二有根本信。在諸眾中，若沙門梵志婆羅門眾、梵眾魔眾，不能使持戒之人迴心就惡，為天人所供養，是故說曰，戒善安止也。慧為人寶者，慧者，亦名為光，亦名為明，亦名為炬，亦名為錠，亦名為眼，亦名為日，亦名為月，亦名為大火聚，亦名諸法之暉曜，猶如世人多財珍寶乃得居里，慧人寶者亦復如是，功德慧明二事具者乃名為人寶，是故說曰，慧為人寶也。福盜不取，猶如《雜阿含》契經說：「有天至如來所而問斯義：『何物火不燒？何物風不飄？何物風不動？何物水不漬？何物地不敗？何物王盜賊暴雷所不損？何物在庫藏不守不耗損？』爾時世尊告彼天曰：『福火不燒，福風不動，福水不漬，福地不敗，福王賊不劫，暴雷無所害，福致諸庫藏，不守亦不損。』」爾時諸天聞佛所說歡喜踊躍，復以此偈讚頌如來：

> 戒はついに老いても安らかであるとは、戒を守る人はたとえ年老いて衰えても、天・龍・神々が常に付き従い護り助けるということです。阿須倫、迦留羅、真陀羅、摩休勒、人と非人、鳩槃荼、匹奢遮、羅殺鬼など、このような類が常に長老で戒を守る人を護り、昼も夜も警護することは影が形に従うかのようです。それゆえ「戒はついに老いても安らかである」と説かれるのです。 戒は善く安らかに止まるとは、もし衆生が如来を信じ向かい、信の根が成就すれば、信には二つの働きがあります。一つは疑いのない信、二つは根本となる信です。もろもろの集まりの中にあって、沙門・梵志・婆羅門の衆、梵の衆・魔の衆であっても、戒を守る人の心を悪に向かわせることはできず、天や人から供養されます。それゆえ「戒は善く安らかに止まる」と説かれるのです。 慧は人の宝であるとは、慧はまた光とも呼ばれ、明とも呼ばれ、炬とも呼ばれ、錠とも呼ばれ、眼とも呼ばれ、日とも呼ばれ、月とも呼ばれ、大火聚とも呼ばれ、諸法の輝きとも呼ばれます。ちょうど世の人が多くの財や宝物を持ってはじめて村里に住めるように、慧ある人の宝もまた同じです。功德と慧明の二つが備わってはじめて人宝と呼ばれます。それゆえ「慧は人の宝である」と説かれるのです。 福は盗まれないとは、ちょうど『雑阿含』の経典に説かれるとおりです。「ある天が如来のもとに来て、この意味を問いました。『何が火に焼かれないのか。何が風に飄われないのか。何が風に動かされないのか。何が水に浸されないのか。何が地に壊されないのか。何が王や盗賊や激しい雷に損なわれないのか。何が庫蔵にあって守らなくても減らないのか。』そのとき世尊はかの天に告げられました。『福は火に焼かれず、福は風に動かされず、福は水に浸されず、福は地に壊されず、福は王や盗賊に奪われず、激しい雷も害することができない。福はもろもろの庫蔵に至り、守らなくても損なわれない。』」そのとき諸天は仏の説かれたことを聞いて歓喜踊躍し、さらにこの偈で如来を讃嘆しました。

「善哉世最勝， 為現世光明，我等修善行， 得受諸天福。」

> 「すばらしいですね、世の中で最もすぐれたお方よ。 あなたはこの世に光を現してくださいました。 私たちは善い行いを積み、 天の福を受けることができます。」

是時，諸天復重以頌問曰：

> そのとき、天の者たちは再び詩を唱えて尋ねました。

「何終為善？ 何善安止？ 何為人寶？何盜不取？」

> 何をもって善の終わりとするのか。 何が善を安らかに保つのか。 何が人の宝となるのか。 何が盗まれないのか。

世尊以頌報曰：

> 世尊は詩を以てお答えになった。

「戒終老安， 戒善安止， 慧為人寶，福盜不取。」

> 戒めを守る人は、老いても心安らかです。 戒めを守る人は、善き行いに安らかに留まります。 智慧は人の宝であり、 その福徳は盗人が奪うことはできません。

時彼天人聞佛所說，戢在心懷，即從坐起繞佛三匝，忽然不現還於天上。

> そのとき、その天人たちは仏の説かれた教えを聞き、心に深く刻んで、すぐに座から立ち上がり、仏の周りを三度回ってから、忽然と姿を消して天の世界へ戻っていきました。

修戒布施， 作福為福， 從是適彼，常到安處。

> 戒を守り、布施を行い、功徳を積むことは、福を生み、そこからかの安らかな場所へと至ります。

修戒布施者，施有二事，若持戒牢固兼行布施，於天世間自然受善報，若施持戒之人多獲果報。是故說曰，持戒布施也。作福為福者，或復有人持戒完具，不廣多聞，所獲功德蓋不足言；若復有人持戒完具，加復大智、多聞、惠施，彼者獲福無量。是故說曰，作福為福也。從是適彼者，從今世至後世，心常歡悅心無悔悋，是故說曰，從是適彼。常到安處者，冀望具足，自然歡樂心意悅豫，自知戒具布施清淨，必受功報不墮邪部，晝夜歡喜不懷熱惱，施持戒人及多聞者亦復如是，是故說曰，常到安處。

> 戒を修め布施を行う者について、布施には二つの意味があります。もし戒を堅く守りながら布施も行えば、天の世界で自然に良い報いを受けます。また、戒を守る人に布施すれば、多くの果報を得られます。だから「持戒布施」と言うのです。 福を作り福となるとは、ある人は戒を完全に守っていても、広く多く聞くことがなければ、得られる功徳は語るに足りません。しかし、戒を完全に守り、さらに大きな智慧と多くの聞法と惜しみない施しを加えたなら、その人は無量の福を得ます。だから「作福為福」と言うのです。 ここから彼処へ至るとは、今生から来世へと、心は常に喜びに満ち、悔いることも惜しむこともありません。だから「従是適彼」と言うのです。 常に安らかな処に至るとは、望みが満たされ、自然に歓喜し心は喜びに満ち、自ら戒が備わり布施が清らかであると知り、必ず功徳の報いを受けて邪な部類に堕ちず、昼も夜も喜びに浸り熱悩を抱くことがありません。戒を守る人や多く聞く人に施す者もまた同じです。だから「常到安処」と言うのです。

比丘立戒， 守攝諸根， 食知自節，寤意令應。

> 戒めを守る修行者は、諸々の感覚をしっかりと制し、食事の量をわきまえ、目覚めている間も心を正しく整えます。

比丘立戒者，執志堅固不可沮壞，不為色聲香味細滑法所牽，是故說曰，比丘立戒也。守攝諸根者，具足眼根耳鼻舌身根意根，皆悉具足無所缺漏，意不錯亂亦無他念，盡隨諸根修其妙行，是故說曰，守攝諸根也。食知自節者，量腹而食，亦不畜積亦不貪餮。尊者曇摩難提說曰：「多食致患苦，少食氣力衰，處中而食者，如稱無高下。」尊者僧迦羅剎造立《修行經》亦作是說：「猶如多捕眾鳥藏在大器，隨時瞻視養食以時，毛尾既長隨時剪落，選其肥者日用供厨。中有一鳥內自思惟：『若我食多肥則致死，若餓不食復致喪身。宜自料量，少食損膚衣毛悅澤，當從籠出。』如其所念即便少食，衣毛悅澤便從其願。」彼修行人亦復如是，內自校計，如我多食便自瞢瞢不得修道，不獲思惟善法，諸惡法日夜滋甚，貪欲瞋恚愚癡皆由多食，不獲至竟。佛契經說多食之人有五苦患。云何為五？一者大便數，二者小便數，三者饒睡眠，四者身重不堪修業，五者多患食不消化。多食之人有此五苦，自墜苦際不至究竟，是故佛說食知自節也。悟意令應者，晝夜警悟係意在禪，若睡欲至，時當舒一脚垂於床下，若睡纏綿不解，當垂兩脚到於床下，若睡重當經行，經行睡重者以水灑面，若復不解，仰觀星宿以寤其志，初夜中夜後夜令無懈怠。是故說曰，寤意令應。

> 比丘が戒を立てるとは、志を固く持ち、誰にも崩すことができず、色・声・香・味・触・法に引きずられないことです。だから「比丘は戒を立てる」と言うのです。諸根を守り摂めるとは、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根をすべて備え、欠けるところがなく、心が乱れず他の思いもなく、すべての感覚器官に従って立派な行いを修めることです。だから「諸根を守り摂める」と言うのです。食事に節度を知るとは、腹の量に合わせて食べ、蓄えもせず貪り食いもしないことです。尊者曇摩難提はこう説きました。「多く食べれば苦しみを招き、少なく食べれば気力が衰える。ほどよく食べる者は、秤が上下しないように中道を行く。」尊者僧迦羅刹が作った『修行経』にもこうあります。「多くの鳥を捕らえて大きな器に閉じ込め、時々見守りながら決まった時に餌を与え、羽根や尾が伸びれば切り、肥えた鳥を選んで料理に使う。その中に一羽の鳥がこう思った。『たくさん食べれば肥えて死んでしまう。かといって食べなければ飢えて死んでしまう。自分でよく考えて、少しだけ食べて体を引き締め、羽を美しくすれば、籠から出られるだろう。』思ったとおりに少しだけ食べ、羽が美しくなると願いどおり籠から出られた。」修行者も同じです。自分をよく見つめて、たくさん食べればぼんやりして修行ができず、善い法を思惟できず、悪い法が日夜ますます増え、貪欲・怒り・愚かさはすべて多く食べることから生じ、ついには悟りに至れません。仏の経典には、多く食べる人には五つの苦しみがあると説かれています。何が五つか。一つには大便が多くなること、二つには小便が多くなること、三つにはよく眠ること、四つには体が重く修行に耐えないこと、五つには食べ物が消化せず病みやすいことです。多く食べる人にはこの五つの苦しみがあり、自ら苦しみに落ちて究竟に至りません。だから仏は「食事に節度を知れ」と説かれたのです。目覚めた心で臨むとは、昼も夜も気を引き締めて心を禅に置くことです。眠気が来たら、片足を床から垂らし、眠気が解けなければ両足を床から垂らし、それでも眠気が重ければ経行し、経行しても眠気が重ければ水を顔にかけ、それでも解けなければ星を仰いで心を目覚めさせ、初夜・中夜・後夜に怠ることのないようにすることです。だから「目覚めた心で臨め」と言うのです。

意常覺悟， 晝夜力學， 漏盡意解，可致泥洹。

> いつも心を目覚めさせ、昼も夜も努力して学び続ければ、迷いの煩悩は尽きて心が解き放たれ、悟りの境地に至ることができるのです。

意常覺寤者，身口意常得覺寤，婬怒癡至尋能除斷，不遇煩惱所遊安隱，是故說曰，意常覺寤。晝夜力學，晝習夜亦爾，夜習晝亦爾，初夜中夜後夜亦復如是，持心專一無他異念，唯從於道思惟心所念法，是故說曰，晝夜力學。漏盡意解者，意勇剛強乃能盡漏，持心懈慢者，不能盡漏、不能精勤於行，是故退轉墮於凡夫部。然彼行人晝夜精勤如救頭然，持心勇捍不慮嶮難，志崇斷結滅漏為先，是故說曰，漏盡意解也。可致泥洹者，眾行已辦，世患諸惱永不復生，求入泥洹大化諸結，縛著染污人者隱而不起，趣泥洹境無有罣礙，捨現在業入泥洹境，是故說曰，可致泥洹也。

> 意は常に覚めているとは、身と口と意が常に覚醒しており、貪りと怒りと愚かさをすぐに断ち除くことができ、煩悩に出会うことなく安らかに過ごせるということです。だからこう説かれます、「意は常に覚めている」と。 昼も夜も力を尽くして学ぶとは、昼に学び夜もまた同じように、夜に学び昼もまた同じように、初夜も中夜も後夜も同じであるということです。心を一つのことに保ち、他の考えを挟まず、ただ道に従って心に思う法を思惟します。だからこう説かれます、「昼も夜も力を尽くして学ぶ」と。 漏が尽きて意が解けるとは、意が勇敢で強くなってこそ漏を尽くすことができるということです。心を緩めて怠る者は漏を尽くすことができず、行に精を出すこともできません。だから後退して凡夫の側に堕ちてしまいます。しかし修行する者は昼も夜も精を出し、頭に火がついた時のように急いで、心を勇ましく保ち、険しさを恐れず、結を断ち漏を滅ぼすことを何よりの志とします。だからこう説かれます、「漏が尽きて意が解ける」と。 泥洹に至ることができるとは、あらゆる行がすでに成し遂げられ、世の患いや悩みが二度と生じず、泥洹に入ってすべての結を大いに変え、人を縛り染め汚すものは隠れて起こらず、泥洹の境に向かって妨げがなく、現在の業を捨てて泥洹の境に入るということです。だからこう説かれます、「泥洹に至ることができる」と。

慧者立禁戒， 專心習其智，比丘無熱惱， 可果盡苦際。

> 智慧ある人は戒めを守り、心を集中してその智慧を学びます。 修行者は煩悩の熱に悩まされることなく、苦しみの終わりに到達できるのです。

慧者立禁戒者，戒不移動，善住牢固亦不可移，慧者除去愚闇，終不處在愚惑之中，猶如猛將身被重鎧，手無劍者則不能剋定強敵，有劍無鎧者亦復不能降彼強敵。若使猛將身被重鎧手執利劍，前後固嶮與賊共戰，必有所辦則無狐疑。修行之人亦復如是，身被戒鎧心無慧劍者，則不能壞結使原首，正使有慧身無戒鎧，則不能壞其結使。若彼猛將身被戒鎧心執慧劍，前後固嶮與結使共戰，必能果辦。是故說曰，慧者立禁戒也。專心習智者，以慧鍊心尋究諸垢，猶如鑛鐵數入百鍊之爐，柔可為剛偽可為真，猶如大海日夜沸動，濁滓下沈變成寶珍。人亦如是，晝夜役心不止便獲果證。是故說曰，專心習智也。比丘無熱惱者，雖復天地融爛，形處其中終不熱惱無所傷損。何以故？比丘立根得力，志不退還所願必果。比丘者，壞諸結使永盡無餘，身被袈裟手執應器，到時詣家正慚愧顏，獲施無麤細，願及滅度，故曰比丘。是故說曰，比丘無熱惱也。可果盡苦際者，盡其苦原永滅無餘，更不復涉歷苦難，從是苦滅功福日滋，是故說曰，可果盡苦際。

> 智慧ある人は戒を守り、戒は揺らがず、しっかりと保たれて動くことはない。智慧ある人は愚かさの闇を取り除き、決して迷いの中にとどまることはない。たとえば猛将が重い鎧を身につけていても、手に剣がなければ強い敵に打ち勝つことはできない。剣があっても鎧がなければ、やはり敵を降すことはできない。もし猛将が重い鎧を身につけ、手に鋭い剣を執って、前後を固めて敵と戦えば、必ず成し遂げて疑いはない。修行する人も同じである。戒の鎧を身につけていても、心に智慧の剣がなければ、煩悩の根本を断つことはできない。たとえ智慧があっても、身に戒の鎧がなければ、煩悩を断つことはできない。もし猛将が戒の鎧を身につけ、心に智慧の剣を執って、固く煩悩と戦えば、必ず成就する。だからこそ説くのである、智慧ある人は戒を守る、と。 心を集中して智慧を習うとは、智慧によって心を鍛え、もろもろの汚れを追究することである。ちょうど鉱石の鉄を何度も鍛錬の炉に入れると、柔らかいものが硬いものになり、偽ものが真ものになるようなものだ。また大海が日夜沸き動き、濁ったかすが沈んで宝となるようなものである。人も同じである。昼夜を問わず心を励み続ければ、やがて悟りの証しを得る。だからこそ説くのである、心を集中して智慧を習う、と。 比丘は熱悩なしとは、たとえ天地が溶け崩れようとも、その身をそこに置いても熱悩することなく、傷つくこともない。なぜか。比丘は根を確立し力を得て、志は退くことなく、願いは必ず成就するからである。比丘とは、もろもろの煩悩を壊し、永遠に尽きることのない者である。身に袈裟をまとい、手に鉢を持ち、時が来れば家々を訪ね、ただ惭愧の心をもって施しを受ける。粗いもの細かいものを問わず、その施しは滅度に至る。だから比丘という。だからこそ説くのである、比丘は熱悩なし、と。 苦の際を尽くすことができるとは、苦の根源を尽くして永遠に滅し、さらに苦難を経験することはない。ここから苦が滅し、功徳と福が日々に増していく。だからこそ説くのである、苦の際を尽くすことができる、と。

以戒降心， 守意正定， 內學止觀，無忘正智。

> 戒めによって心を落ち着け、心を守って正しい定めに住し、内に止観を学び、正しい智慧を忘れないこと。

以戒降心者，常係心不失，亦不遊蕩縱逸，是故說曰，以戒降心也。守意正定者，定有三品，或善不善無記，護善定者，不使不善定得伺其便，恒念思惟：「吾今已獲正定，要究竟原本，何緣使不善定錯亂其間？」是故說曰，守護正定也。內學止觀者，常念係心念明，除去闇冥為示炬錠，觀察愛根推尋癡本，止而不生，是故說曰，內學止觀。無忘正智者，智之所照無往不在，心念智隨，如兩牛共一軛，猶如漏盡通役形輕重，以身持心以心持身，身心已應所適無礙石壁皆過，斯為鍊心入微鍊微入身，心念形隨無所觸礙。是故說曰，無忘正智也。

> 戒によって心を制するとは、常に心をしっかりと保ち、失うことなく、さまよい放逸になることもないということです。だから「戒によって心を制する」と言うのです。心を守り正定を保つとは、定には三つの種類があり、善・不善・無記があります。善なる定を守り、不善なる定に付け込まれないようにして、常に思いめぐらします。「私は今すでに正定を得た。必ずその本質を究めねばならない。どうして不善なる定にその間を乱させることがあろうか」と。だから「守護正定」と言うのです。内に止観を学ぶとは、常に心を明るい念に結びつけ、暗闇を取り除いて灯明を示し、愛の根を観察し愚かさの本を尋ね求め、止めて生じさせないということです。だから「内学止観」と言うのです。正智を忘れないとは、智の照らすところに行き届かない場所はなく、心の念に智が随い、二頭の牛が一つの軛を共にするように、また漏尽通が体の軽重を思いのままにすることのように、身をもって心を保ち心をもって身を保ち、身心がすでに応じ合ってどこへ行くにも妨げがなく、石壁をも通り抜けるのです。これが心を練って微に入り、微を練って身に入り、心の念に形が随い何ものにも触れ妨げられないということです。だから「無忘正智」と言うのです。

蠲除諸垢， 盡慢勿生， 終身求法，勿暫離聖。

> 心の汚れをすっかり洗い流し、慢心を起こさず、生涯を通して法を求め、聖なる道から片ときも離れてはならない。

蠲除諸垢者，意中諸垢縛使縛著，諸受陰入已盡已滅，無復莖節枝葉，是故說曰，蠲除諸垢。盡慢勿生者，憍慢增上慢執意持心，制慢使滅，陰種結種二迹俱滅，是故說曰，盡慢勿生也。終身求法者，夫言身者，皆是形器之數，結亦名身，陰身聚身養生之業，亦名為身，象馬車步四色兵眾，亦名為身。身中甚者莫過結身，能壞結身求正法者是謂離縛，不處有為不念七處三觀，真佛弟子與堅信堅法相應，能壞結聚，是故說曰，終身求法也。勿暫離聖者，常念從賢聖紹繼宗徒，心所喜樂。賢聖所居，其事有三智：諸結使盡一智也，有餘泥洹界二智也，無餘泥洹界三智也。是故說曰，勿暫離聖也。

> 垢（よごれ）をすっかり取り除くとは、心の中にあるさまざまな煩悩の束縛や執着をなくすことです。すでにすべての受・陰・入が尽きて滅び、茎も節も枝も葉も残っていないので、「垢をすっかり取り除く」と言うのです。 慢（おごり）を尽くして、新たに生じさせてはならないとは、慢心や増上慢をしっかりと制して、慢の煩悩を滅ぼし、陰の種・結の種という二つの痕跡をともに滅ぼすことです。だから「慢を尽くして、新たに生じさせてはならない」と言うのです。 一生を通じて法を求めるとは、そもそも「身」というものは、すべて形ある器の集まりを指します。結もまた身と呼ばれ、陰身・聚身・養生の業もまた身と呼ばれます。象・馬・車・歩の四種の兵士の集団もまた身と呼ばれます。身の中で最も重大なものは結身に勝るものはありません。結身を壊して正しい法を求める人を、束縛を離れた者と言います。有為の世界にとどまらず、七処三観を念じない、真の仏弟子であり、堅信・堅法と相応して、結の集まりを壊すことができるのです。だから「一生を通じて法を求める」と言うのです。 しばらくも聖者から離れてはならないとは、常に賢聖にしたがって教えの流れを受け継ぎ、心に喜び楽しむことを念じることです。賢聖が住むところには、三つの智慧があります。すべての結使が尽きるのが第一の智慧、有余涅槃の世界が第二の智慧、無余涅槃の世界が第三の智慧です。だから「しばらくも聖者から離れてはならない」と言うのです。

戒定慧解， 是當善惟， 都已離垢，無禍除有。

> 戒と定と慧を理解すること、それはよくよく思い巡らすべきものです。すでに汚れを離れ、災いもなく、執着も除かれています。

戒定慧解者，彼修行人，戒品定品慧品三業具足以自纓絡，摧結使聚何往不壞。猶如國王財富人盛才技過人，便能安恤國民，外寇不加。今此行人亦復如是，三業具足，壞結使寇亦無疑難，戒為立志，定撿亂心，慧斷結使，是故說曰，戒定慧解也。是當善惟者，思惟三品晝夜履行初不遠離，是故說曰，是當善惟也。都已離垢者，所弘究竟，知生死苦，於中拔濟，極淨無瑕亦無諸垢，是故說曰，都已離垢也。無禍除有者，已離苦惱鼎沸之患，盡諸三有更不受胎，如實知之，是故說曰，無禍除有也。

> 戒・定・慧を理解する者、すなわち修行する人は、戒と定と慧の三つの修行を身につけて自らを飾る。煩悩の束縛を打ち砕き、どこへ行っても壊れない。ちょうど国王が財産に富み、人々も多く、才能や技術が人にすぐれていると、国民を安んじて思いやり、外敵も侵入できないようなものである。この修行者もまた同じである。三つの修行が備われば、煩悩という敵を破るのも疑いない。戒は志を立て、定は乱れた心を整え、慧は煩悩を断ち切る。だから「戒定慧解」と説くのである。よく思惟すべきとは、三つの修行を昼も夜も行い、少しも離れないことである。だから「よく思惟すべき」と説くのである。すでに垢を離れたとは、その行いが究竟に達し、生死の苦しみを知り、そこから抜け出して救い、きわめて清らかで傷がなく、汚れもないことである。だから「すでに垢を離れた」と説くのである。禍いなく有を除くとは、すでに苦悩の煮えたぎる患いを離れ、三有をことごとく尽くして再び胎を受けることがなく、ありのままに知ることである。だから「禍いなく有を除く」と説くのである。

著解則度， 餘不復生， 越諸魔界，如日清明。

> 悟りを開けば迷いの世界を渡り終え、もう生まれ変わることはありません。あらゆる魔の領域を超え、晴れた日の太陽のように清らかです。

著解則度者，行有六品，欲界色界無色界結聚縛垢，欲界所出癡慢愚惑以自纏絡，是故說曰，著解則度也。餘不復生者，彼修行人思惟觀察如實知之，即求方便求滅彼結，生死已盡更不受胎，梵行已立所作已辦，是故說曰，餘不復生也。越諸魔界者，六天以下皆是魔界，多諸苦惱閉塞道心，不令人至無為之處。閻浮利內有異類眾生，名曰摩佉，晝則隱藏處在生熟藏間墮魔部界，是謂欲界為魔所害多諸患禍。賢聖之人越於邪境，是故說曰，越諸魔界。如日清明者，猶如日明無有五蔽。云何為五蔽？一者雲，二者烟，三者塵，四者霧，五者阿須倫手。無此五患者即日月清明。修行比丘亦復如是，離五陰蓋。云何為五蓋？一者貪欲蓋，二者瞋恚蓋，三者睡眠蓋，四者調戲蓋，五者疑蓋。修行比丘離此五蓋者，即得清明內外通達如紫磨金，是故說曰，如日清明。

> 理解して解脱する者は、修行には六つの段階があり、欲界・色界・無色界の煩悩の束縛と汚れ、欲界から生じる愚かさ・慢心・迷いによって自らを縛られている。それゆえ「理解して解脱する」と説くのです。もう再び生まれることはない者とは、その修行者がよく観察し、ありのままに知って、ただちに方便を求め、それらの束縛を滅ぼそうと努めることです。生死はすでに尽き、再び胎を受けることはなく、清らかな行はすでに確立し、なすべきことはすでに成し遂げられた。それゆえ「もう再び生まれることはない」と説くのです。もろもろの魔の領域を越えるとは、六天以下のすべては魔の領域であり、多くの苦悩があって道心を閉ざし、人を無為の境地に至らせないのです。閻浮利の中には異なる種類の衆生があり、名を摩佉といい、昼は隠れて生蔵と熟蔵の間にあり、魔の部界に堕ちています。これが欲界が魔に害され、多くの災いがあるということです。賢聖の人は邪な境を越えています。それゆえ「もろもろの魔の領域を越える」と説くのです。日の清明なるがごとしとは、ちょうど日の光に五つの遮るものがないようなものです。五つの遮るものとは何か。一つには雲、二つには煙、三つには塵、四つには霧、五つには阿須倫の手です。この五つの障害がなければ、日月は清明です。修行する比丘もまた同じで、五つの陰蓋を離れています。五つの蓋とは何か。一つには貪欲の蓋、二つには瞋恚の蓋、三つには睡眠の蓋、四つには調戯の蓋、五つには疑いの蓋です。修行する比丘がこの五つの蓋を離れるならば、たちまち清明を得て、内外が通達し、紫磨金のようになります。それゆえ「日の清明なるがごとし」と説くのです。

狂惑自恣， 比丘外避， 戒定慧行，求滿勿離。

> 迷い惑わされて自分勝手に振る舞うことなく、比丘は外の誘惑を避け、戒と定と慧の修行を、成就するまで怠らず続けなさい。

狂惑自恣者，愚惑凡夫所行卒暴，猶如猨猴捨一取一，心如疾風馳念萬端，是故說曰，狂惑自恣也。比丘外避者，持行如水、忍恕如地，所謂比丘不猗豪族，能自制情，閉塞六門，乃謂比丘，是故說曰，比丘外避。戒定慧行者，戒品定品慧品晝夜精勤不興放逸，欲度巨海當乘大舫，欲趣滅度當須戒定慧行，損不善法增益善法，違此正教不順法律者，則於佛法聖眾便有相累。是故說曰，戒定慧行，求滿勿離也。

> 狂惑のままに自らを放任する者とは、愚かな凡夫が行う軽率な振る舞いのことである。それはちょうど猿が一つの枝を離れてはまた別の枝をつかむように、心は激しい風のように万端に思いが走る。だから「狂惑のままに自らを放任する」と言うのである。 比丘が外を避けるとは、行いを水のように保ち、忍耐を大地のようにすることである。いわゆる比丘とは、権力ある家に頼らず、自らの感情を制し、六つの門を閉ざす者をいう。だから「比丘は外を避ける」と言うのである。 戒・定・慧の修行とは、戒の分野・定の分野・慧の分野において、昼も夜も精進して怠らないことである。大きな海を渡ろうとするなら大きな船に乗るべきであり、滅度に向かおうとするなら戒・定・慧の修行を必要とする。不善の法を減らし、善の法を増やすのである。この正しい教えに背き、法の規則に従わない者は、仏法と聖なる集まりに対して妨げを生じることになる。だから「戒・定・慧の修行を、求めて満たし、離れてはならない」と言うのである。

既不自恣， 又不想念， 是故捨慢，如是不生。

> 自分勝手にふるまうこともなく、また執着して思い続けることもない。だからこそ、慢心を捨てることができ、このようにして生まれることはないのです。

既不自恣者，不馳於色聲香味細滑法，是故說曰，既不自恣也。又不想念者，心所念法於其中間唯修定意，亦不想念色聲香味細滑法，是故說曰，又不想念也。是故捨慢者，內思止觀制去意亂，恒入定意，不得布現憍慢色聲香味細滑法，是故說曰捨慢也。如是不生者，猶如彼不在色聲香味細滑法，心所念法亦復如是，心之所念猶如天雨、如車翻棄穀，心所念惡復多於彼，是故說曰，如是不生也。

智者學牢固， 於諸禁戒律，直趣泥洹路， 速得至滅度。

智者學牢固者，承佛教誡，受師訓誨去邪就正，心常堅固不為弊心沮壞，是故說曰，智者學牢固也。於諸禁戒律者，隨時行道守護禁戒，智者所修非愚者所行，是故說曰，於諸禁戒律也。直趣泥洹路者，永息無為亦無終始寂滅無生，是故說曰，直趣泥洹路也。速得至滅度者，中間無礙，猶河暴溢盡趣於海，是故說曰，速得至滅度。

華香不逆風， 芙蓉栴檀香，德香逆風熏， 德人遍聞香。

昔佛在羅閱祇迦蘭陀竹園所。爾時尊者大迦葉在耆闍崛山中，然大迦葉生長豪族，身體柔軟食則甘細不曾麤󰎣，意所開化多愍貧窮，至貧家乞得食麤惡，食便生疾，內風變動遂成暴下。是時世尊告大目連：「汝今隨我問諸疾人。」對曰：「如是。」世尊即將目連詣耆闍崛山，時大迦葉獨坐閑房，無有瞻病之人，如來即往詣大迦葉窟。迦葉見佛欲從坐起，爾時世尊告大迦葉曰：「汝今抱患但坐勿起，吾自有坐具自隨。」爾時世尊知而問迦葉曰：「汝今獨空房無有瞻視病者，云何能樂此空山中？」時釋提桓因在迦葉後立，時大迦葉白世尊曰，而說此偈：

「捨天王位， 為德不惓， 心懷歡喜，拘翼瞻視。」

爾時世尊告釋提桓因而說此偈：

「天身性清淨， 香熏以自塗，云何降神意， 瞻視臭穢身？」

爾時釋提桓因叉手合掌而白佛言，重說此偈：

「最勝今當知， 戒香無等倫，我今嗅功德， 不計醜陋形。

「然今世尊！天上諸香增熾結本長益塵勞，賢聖戒香斷諸結使，閉塞禍門不漏諸欲。然今世尊！如此凡香流轉生死涉歷劫數，不能令人永入寂靜，賢聖戒香億千百劫時時乃有。」爾時世尊微察釋提桓因而說此偈：

「善哉天帝因， 今意甚希有，能於放逸中， 攝意修德本。」

爾時世尊因此法本，處在大眾而說此頌：

「華香不逆風， 芙蓉旃檀香，德香逆風熏， 德人遍聞香。」

夫世間諸華香，盡順風香不逆風香；戒德之香亦逆風香亦順風香。世間華香齊熏欲界不熏色界，或直熏一方不熏三方；持戒之香香徹十方。華香逼近乃別；持戒之香上徹一究竟天。是故說曰，華香不逆風，德人遍聞香。

旃檀多香， 青蓮芳華， 雖謂是真，不如戒香。

旃檀多香者，諸世所說，沈水、木榓、旃檀、都良，此是根香。華香者，青蓮、芙蓉、瞻蔔、須乾提末、須乾提華，至解脫華、純日精華、分陀利華，如是眾華數十百種，於持戒香，百倍千倍萬倍巨億萬倍不可以譬喻為比，非心所思非意所度。今此眾香隨人一世現身娛樂，不能隨人至於後世；持戒之香現世蒙祐，於百千劫未曾唐捐。是故說曰，雖謂是真，不如戒香也。

華香氣微， 不可謂真， 持戒之香，到天殊勝。

華香氣微者，旃檀木榓中國所貴邊土所無；戒德之香，上熏過諸天，下徹十方，彌滿世界無不聞者。是故說曰，華香氣微，不可謂真。持戒之香，到天殊勝者，忉利諸天縱情放意所念自由，猶尚歎譽持戒之人，修善得福為惡墮罪，諸在戒品定品慧品解脫見慧品度知見品，可敬可貴為無上道。何以故？如此之人，為人導師牽示正路，開人愚冥令見慧明。是故說曰，持戒之香，到天殊勝。

戒具成就， 定意度脫， 魔迷失道，魔不知道。

戒具成就者，四部之眾，比丘比丘尼優婆塞優婆夷，斯戒具清淨無有毫釐缺漏，魔王雖有豪勢，統領欲界於中獨尊，然不能知四部之眾所獲果證，亦復不知從何道果得盡漏結。是時弊魔口與心語：「此諸黑服之士，剃髮露臂偏袒右肩，修禪習定，或有進至離我濁境，或有往還不由我教，或有永滅不知神識所處，或有捨壽知識所趣。」是故說曰，魔迷於道，魔不知道。

此道為究竟， 此道無有上，向得能究原， 禪定是縛魔。

此道為究竟者，安隱無為快樂無窮，趣向一道至泥洹門，是故說曰，此道為究竟也。此道無有上者，於此道更無有上，諸天龍鬼敬心承事興致供養。尊者舍利弗有一沙彌，名曰純頭，長年八歲得六神通，飛騰虛空至阿耨泉。有五通梵志名曰須拔，亦至彼泉。時彼耨泉守泉青衣鬼，驅逐五通梵志，瓦石打擲不使逼近神泉，純頭沙彌乘虛空至，彼青衣神鬼數百之眾皆前迎逆，或前收攝衣者，或持淨水洗手足者，或以淨巾拂拭首面者，或以香湯沐浴身體者。須拔梵志放聲說曰：「我今以得五通，神德無量，力能移山、住流，迴轉天地猶掌迴珠。自學道以來百二十餘年，勞形苦體形神疲極。或事五明，四處然火日光上照，或臥灰糞，或臥荊棘，嶮難之中無道不學。然更驅逐不得至泉。然此黑衣小兒，年在七八未離乳哺，身體穢臭故存，然更待敬過重迎逆承事。用何等故？」時青衣鬼語梵志曰：「今此學士形年雖小，行過三界，得賢聖八品道；汝今無是，故不興敬。」有一婆羅門名曰閱叉，興立一寺亦名閱叉，恒供給酥油供寺然燈。時有遠方婆羅門來至閱叉寺中，又聞閱叉梵志高才明德，偏信佛法建立神廟，與共相見共相問訊。時有一沙彌復來迎，取油酥供寺然燈，眾多梵志語閱叉婆羅門曰：「汝審向色衣人禮耶？」言語未訖沙彌已至，即復禮之。眾多梵志語此梵志曰：「汝出四姓才藝過人，天文地理無不觀練，神呪感靈無事不剋。今此色衣之人，出眾多姓種非真正，何為違本法而向恭禮？又卿梵志執行清淨，自修內藏、圖讖、秘記，行道成福何願不剋，文字章印無不周悉，佛行寡鮮有何可貴？捨本取末是我所疾。蓋聞沙門寒賤巧詐繁滋，幻惑世人所行短促，齊榮一身不能延致梵福，正使相見正可擎拳而已，何為五體投地恭敬作禮耶？我等親見甚怪所以，況先學大人豈能恕卿此罪耶？」閱叉報眾多婆羅門曰：「諸人靜默，聽我所說妙偈之頌：

「『賢聖德難量， 八直無上道，是為沙門梵， 如來口所宣。覩此形雖小， 以果賢聖道，是故今自歸， 梵志何為嗤？』」

是故說曰，此道無有上也。向得能究原者，須陀洹、斯陀含能斷欲界縛諸纏陰入，是故說曰：「向得能盡原也。」禪定是縛魔者，入定坐禪之人，樂處閑靜志崇一意，計出入息執意牢固，能斷魔縛反縛於魔，入定之人能使役鬼神如意即至。佛契經亦說：「我於天上人間遍觀察之，縛中牢者不過魔縛，然為漏盡羅漢所見摧辱，於當來變更不受生。是故比丘當作是學，當求方便斷魔牢縛。」

說法雖微少， 一意專聽受，此名護法人， 除去婬怒癡，眾結永盡者， 故名為沙門。

說法雖微少者，少而有要，義味相應。昔有二比丘在深山中學，一人多聞，一人寡淺。時少聞者持戒完具，所誦經文唯有一句，日日諷誦更不求受。時虛空神及山林神日日稱善，「願樂欲聞道人所說。」時彼多聞比丘，以已所知眾妙之義甚深經句高聲諷誦，山林諸神默然不對，亦不唱善。時多聞比丘，尋懷恚怒語彼山神：「今此晚學比丘，所學淺薄唯誦一句，天便稱善哉！我今多聞義理甚深，採拾眾經言詞妙語，與汝誦習，然諸天神亦不應對亦不稱善。」天神報曰：「比丘不自責，方復責我。此少聞比丘言與行相應，汝今比丘雖誦三藏，行與經違。佛所演《出曜》，亦有此偈：

「『說法雖微少， 一意專聽受，此名護法人， 除去婬怒癡。』

「此比丘與法相應，雖未盡婬怒癡方便令盡。汝雖多聞，晝夜習婬怒癡，貪著色聲香味細滑法。此少聞比丘晝夜禪思念不分散，是故恒與稱善。汝雖多聞意不專一，是故不稱善。」時彼比丘聞諸天語，即懷慚愧自恥所作。「山神由尚見我穢行，況神通得道而不觀見耶？我今自改思惟妙智，不復興念著婬怒癡。」如其所行言行相應，諸天日日稱善無量。夫人履行隨朋友誘，於善法得具足成就。爾時比丘執行精勤，得世俗妙法，不淨、安般念、四意止，煖法、頂法、忍法、世間第一法，以次得證須陀洹果、斯陀含果、阿那含果、阿羅漢果。比丘得道已報謝諸天：「遭蒙勸誘拔濯清淵，我今得道盡蒙神祇之力，多所饒益多所成就。」復重與諸天說法，心開意解得法眼淨。是故說曰，說法雖微少。

不放而得稱， 放逸致毀謗，不逸摩竭人， 緣淨得生天。

過去久遠無數世時，有佛出世名曰迦葉至真等正覺，在世教化，所度有緣眾生已訖，於無餘泥洹界而般泥洹。爾時眾生四部之眾耶旬舍利，起七寶塔興敬供養。復經數世，塔遂凋壞無補治者。是時義合邑眾九萬二千人，時瓶沙王最為上首，瓶沙王告諸大眾：「汝等各自勸勵共造福德，佛世難遇人身難得，雖得為人，或墮邊地生邪見家，我等何為貪著世俗歡樂？不如開意修治朽故塔寺。」諸人靡從受王教令，即共修治朽故塔寺，復共發願：「我等諸人心齊意同共治此寺，設有毫釐福德者，不墮三塗八難之中，便生天上人中同處不異。復聞將來有佛出現名釋迦文，彼初說法，使我大眾最初得度，以王為首。」是時九萬二千人，隨其世壽各各命終，盡生天上處忉利天宮。復經數世，閻浮利內有佛出世，名釋迦文至真等正覺，十號具足，三十二相、八十種好，紫磨金色圓光七尺，語聲八種如羯毘鳥音。是時九萬二千天，受天福已各各命終生摩竭國界。瓶沙王長年八歲，係嗣王後，以法治化無有阿曲，修治正法，恩慈下及不害生命，分檀布施周窮濟戹，遠行經過暫停息者盡供給之。是時儒童菩薩，捨八萬婇女捐王重位，夜非人時捨國求道，自剃頭髮復脫寶衣，所乘白馬盡付車匿還國白王：「生死苦惱憂勞無數，子今學道要求果證，若成所願還當度王。」是時，菩薩轉復前進，道逢獵師著其法服狀如沙門，菩薩問獵者：「所著法服名為何等？」獵師報曰：「此名袈裟，被著遊獵，群鹿見已謂為學道之人，皆來敬附各無恐懼，我等以次取殺用自存命。」菩薩聞此倍興悲慈：

「夫人依四等， 拔濟眾生類，袈裟如來服， 除穢而造穢。

「我今有此著身天衣極細軟好，可共博貿。」獵師報曰：「王子生長深宮，身體軟細，不更寒苦，恐壞王子身。」菩薩報曰：「但貿無苦，此是古聖賢人幖式。」獵師報曰：「王子寶衣價直無數，今此袈裟無所任施，何為苟欲博貿？」菩薩報曰：「意欲所須不計貴賤。」獵師報曰：「此衣垢穢膿血臭處不敢博貿。」菩薩報曰：「臭之與香開意見與，自當浣濯。」獵師即脫衣貿菩薩寶衣。是時，菩薩著法衣，手執藕華葉，入羅閱城乞食。爾時數千萬眾普集一處，逢見菩薩舉手讚歎，或言：「善來！」或言：「日月。」或有叉手自歸命者，或相問訊，為是天耶？梵耶？釋提桓因耶？眾人所圍不容乞求，尋執華葉還至城外徑至東山，人眾追逐前後相次。時瓶沙王在高樓上，遙見人眾追逐菩薩，即問左右：「此諸人眾皆奔趣山，為有何故？」有一大臣審識菩薩，即白王曰：「此是釋種子，辭家出學遊蕩在外，或能謀圖國事，當往誅殺。」瓶沙聞已告彼臣曰：「護卿種族勿吐此言，正使釋子紹王位者作轉輪聖王，我等便為臣佐，若使出家學道自致佛者，我等願為上首弟子，最初說法先在其例。」是瓶沙王車載飲食種種甘饌，往就山中與菩薩相見，尋前禮足，自稱姓字：「摩竭國界瓶沙王者我身是也。」菩薩報曰：「我先識矣，何須致敬？」瓶沙王啟曰：「今獻微貢，供食之餘願見納受，以示微心。」菩薩默然受食。食訖行清淨水，王前白言：「若使王子成無上道者，當見先度永離世苦。」時瓶沙王禮足取別，菩薩進路到阿蘭所。阿蘭諸弟子等，遙見菩薩來即白其師：「今有一人端正殊特徑趣師門，必求為弟子也。」時阿蘭即告弟子而說此頌。

## 出曜經卷第九