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title: "出曜經 · 8 學品"
description: "出曜经是姚秦时期著名译经师竺佛念所译的佛教经典，属于早期汉传佛教重要文献之一。该经主要阐述佛陀的教法，内容涵盖修行方法、因果业报、戒律规范等核心教义，具有鲜明的实践指导意义。竺佛念作为五世纪初重要译经家，其译文准确流畅，对佛教在中国的传播影响深远。出曜经不仅反映了早期佛教思想体系，也为研究中国佛教发展史提供了珍贵资料，在汉传佛教经典中占有重要地位，是了解原始佛教教义的重要参考典籍之一。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmczndj521mowjj04c07wlczn"
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## 出曜經卷第十

> 『出曜経』巻第十

姚秦涼州沙門竺佛念譯

> 姚秦涼州沙門竺仏念訳

### 學品第八

> 学びの章　第八

護身惡行， 自正身行， 護身惡者，修身善行。

> 悪い行いから身を守り、自ら身の行いを正し、 身を守って悪を行う者となり、身に善い行いを修めなさい。

護身惡行者，何以故說身惡行？自知內過、知他人過故名惡行，惡已充具顏色變異，或以手拳相加毀壞形體，此惡眾事今世後世不獲安隱，或墮餓鬼畜生中形貌醜陋；若生人中才不及人。有異梵志為犬所嚙，梵志恚怒身心熾盛，要治惡犬使不暴虐。父母告曰：「梵志！猶犬嚙婆羅門，婆羅門復可嚙犬不也？」梵志報父母：「要當治犬使不縱毒。」父母告子：「不隨我教，恣汝所為。」是時，梵志捉犬反縛以杖捶打。打時有二非義：草索傷犬足，復令失糞。此眾生類亦復如是，諍小致大以用害身。諸佛世尊大慈加被，訓誨眾生令不諍訟，然眾生類不從其教，瞋恚所纏，復生二非義，為眾苦所縛，當復經歷地獄餓鬼畜生之惱，雖得為人形貌醜陋，如是眾惱不可稱記，是故世尊說護身惡行。護身惡行已，獲何功德？答曰：「獲二功德名譽善本。云何為二？若處在天宮受福自然，七寶殿堂懸處虛空，若生人中顏貌端正，見者歡喜皆來歸仰，在大眾中為數千萬眾所見尊奉，如月獨明眾星迴附。」是故說曰，護身惡行。自正身行者，得何功德？有何名譽？答曰：「於現世中亦得名譽，若使身滅命終亦得名譽。」云何於現身中而得名譽？若於今身進止行來，為數千萬眾所見供養；若身壞命終，生善處天上。自正身行復有何功德？答曰：「𣧑弊邪魅暴惡鬼神不能得便，怨讐伺捕不能得捉。」於是頌曰：

> 護身悪行とは何か。なぜ身悪行と言うのか。自分の内の過ちを知り、他人の過ちを知るので悪行という。悪がすでに満ちれば顔色が変わり、あるいは手や拳で打ち合い形体を壊す。この悪の多くの事は現世でも後世でも安らぎを得ず、あるいは餓鬼・畜生の中に堕ちて姿形が醜く、もし人の中に生まれても才能が人に及ばない。 ある梵志が犬に噛まれた。梵志は怒り、身心が燃え盛り、悪犬を懲らしめて暴れさせないようにしようとした。父母が言った。「梵志よ、犬が婆羅門を噛むように、婆羅門がまた犬を噛み返せるのか。」梵志は父母に答えた。「必ず犬を懲らしめて毒を放たせないようにします。」父母は子に言った。「私の教えに従わないなら、思うままにせよ。」その時、梵志は犬を捕らえて逆さに縛り、杖で打ち叩いた。打つ時に二つの不合理があった。草の縄が犬の足を傷つけ、また糞を漏らさせた。この衆生もまた同じで、小さな諍いが大きくなって身を害する。諸仏世尊は大慈をもって加護し、衆生を教え導いて諍いをやめさせるが、衆生はその教えに従わず、瞋恚に纏われ、また二つの不合理を生じ、多くの苦に縛られ、さらに地獄・餓鬼・畜生の悩みを経る。たとえ人となっても姿形は醜く、このような多くの悩みは数え尽くせない。それゆえ世尊は護身悪行を説かれた。 護身悪行を守れば、どんな功徳を得るか。答えていう。「二つの功徳、すなわち名誉と善本を得る。何が二つか。もし天宮にあれば自然の福を受け、七宝の殿堂が虚空に懸かる。もし人の中に生まれれば顔貌端正で、見る者は喜び皆帰依し、大衆の中にあって数千万の衆に見られ尊ばれ、月が独り明るく衆星が回り従うようである。」それゆえ説いていう、護身悪行と。 自ら身行を正す者は、どんな功徳を得るか。どんな名誉があるか。答えていう。「現世でも名誉を得、身が滅し命終しても名誉を得る。」どうして現身で名誉を得るか。もし今の身で進退行来し、数千万の衆に見られ供養される。もし身が壊れ命終すれば、善処である天上に生まれる。自ら身行を正す者はまたどんな功徳があるか。答えていう。「凶悪な邪魅や暴悪の鬼神は便を得ることができず、怨讐が伺い捕らえようとしても捕らえることができない。」そこで頌にいう。

「怨讎彌滿世， 欲求得其捉，種惡還自加， 猶蛇反自毒。」

> 恨みや敵が世に満ちていても、 それを捕まえようと求めるならば、 悪を蒔いた種は自らに返ってきて、 蛇が自分自身を噛んで毒に倒れるようなものだ。

形為苦本心為禍首，是故世尊說曰，自正身行也。護身惡者何以故說？惡行所趣非真，如所說。惡財惡子惡服惡處惡土此皆名惡。或緣知親作惡，或緣非知親作惡，是故如來說護身惡者也。修身善行者，善行有二業，如所說。善財善子善服善處善土，身修善行，於佛法聖眾父母尊長，盡行恭敬無他越逸，是故世尊說修身善行也。

> 身体の行いは苦しみの根本であり、心が災いのもとです。ですから世尊は「自ら身の行いを正しなさい」と説かれたのです。身の悪い行いを護ることを、なぜ説かれるのでしょうか。悪い行いの向かう先は真実ではなく、説かれたとおりです。悪い財、悪い子、悪い服、悪い場所、悪い国土、これらはみな悪と呼ばれます。あるいは知り合いや親しい人が悪を行う縁となったり、あるいは知らない人が悪を行う縁となったりします。ですから如来は身の悪い行いを護ることを説かれたのです。身に善い行いを修めるとは、善い行いには二つの業があり、説かれたとおりです。善い財、善い子、善い服、善い場所、善い国土、身に善い行いを修め、仏法僧や父母、尊い長者に対して、つねに恭敬の行いを尽くし、ほかに越え逸れることはありません。ですから世尊は身に善い行いを修めることを説かれたのです。

護口惡行， 自正口行， 護口惡者，修口善行。

> 口の悪い行いを慎み、自ら口の行いを正し、口の悪い行いを守り、口の善い行いを修めなさい。

護口惡行者，何以故說？自知內過、知他人過，故名曰惡行，若已瞋恚發口罵詈虛生過咎，使數千萬眾皆生惡念，而不自覺亦復不知，後受惡報咸共懷瞋恚，彼罵者後入地獄餓鬼畜生受苦無量。若生人中多被誹謗言不信用。能守護口者，自致福報，亦生天上快樂自然，若生為人不被麤言。是故說曰，護口惡行也。自正口行者，為得何等功德？答曰：「為數千萬眾所見歎譽，傳相告語，此人良謹與行相應，言不麤獷，不求彼短不譏彼失，口齒端嚴言不強吃。」是故說曰，自正口行也。護口惡者者，其義有二：或當賢聖默然，或當法說義說。夫欲出言先當自理，言致敗身非獨一人，若吐麤言為人所疾，進止行來無人敬待。是故說曰，護口惡者也。修口善行者，諸修善行之人心懷仁慈，吐言柔軟不傷人意，為眾多人所見愛念，是故說曰，修口善行也。

> 口の悪行を護るとは、どういう意味でしょうか。自分の過ちを知り、他人の過ちを知ることを、悪行といいます。もし怒りによって口を開き、罵りの言葉を発して無実の罪過を生み、何千万もの人々に悪念を起こさせても、自分では気づかず、また知ることもなく、後に悪報を受けて皆ともに怒りを抱きます。その罵った者は後に地獄・餓鬼・畜生に堕ちて、無量の苦しみを受けます。もし人として生まれても、多く誹謗され、その言葉は信用されません。口を護ることができる者は、自ら福報を得て、また天上に生まれて自然の楽しみを受け、もし人として生まれても、粗い言葉を受けません。それゆえに説きます、「口の悪行を護る」と。自ら口の行いを正すとは、どのような功徳を得るのでしょうか。答えていいます。「何千万もの人々に称賛され、伝え聞いて語り合い、この人は善良で慎み深く、行いと相応し、言葉は粗くなく、人の短所を求めず、人の過失を責めず、口元は端正で、言葉は吃りません。」それゆえに説きます、「自ら口の行いを正す」と。口の悪行を護るとは、その意味に二つあります。あるいは賢聖として黙然とし、あるいは法を説き義を説くことです。そもそも言葉を発しようとするなら、まず自らを整えるべきです。言葉は身を滅ぼすことがあり、それは一人だけではありません。もし粗い言葉を吐けば人に憎まれ、進退行動するにも誰も敬ってくれません。それゆえに説きます、「口の悪行を護る」と。口の善行を修めるとは、もろもろの善行を修める人は心に仁慈を抱き、言葉は柔らかく人の心を傷つけず、多くの人に愛され念われます。それゆえに説きます、「口の善行を修める」と。

護意惡行， 自正意行， 護意惡者，修意善行。

> 心の悪い行いを防ぎ、みずから心の行いを正し、心の悪を防いで、心の善い行いを修める。

護意惡行者，於意三行最為上首，意一念頃能使城郭村落盡為丘野。如契經所說：「『云何居士！汝頗聞有流沙空野、隨沙門空野、閑靜空野不？』長者白佛：『聞有流沙曠野、隨沙門空野、閑靜空野。』佛告居士：『云何居士！誰造此流沙空野、隨沙門空野？』長者白佛：『皆由神仙意念惡故，呪術所作，有此流沙空野、隨沙門空野。』」如《修行經》說：「十九人執修正行，唯有一人不應在閑靜之處，以其口業心惡，持行之人不許此人在曠野間。即告彼人曰：『汝心懷惡所念不善，宜在人間誦習經典佐助眾事，役心亂意應成道果。汝設在空之中欲求空意，意方念亂恒生不善，自致滅亡不至善道。』」不護意者，隨意所種，入地獄餓鬼畜生中。設得為人，輒墮卑賤，為人所疾見則不歡。能護意者，若生天上，封受自然，金床玉机七寶殿堂，若生為人，人所愛敬。是故說曰，護意惡行也。自正意行者，意所馳念難禁難制，由意生念能使成事，身危妙行退轉垂辦之證，轉為凡夫，是故說曰，自正意行也。護意惡者，息意寂然不生想著，修意正行斂意專一，是故說曰，護意惡也。修意善行者，意念善行、身修正法、口宣其教，二事由意乃至無為，是故說曰，意修善行也。

> 悪い心の行いを守ることについて。心の三つの行いの中で、心が最も重要です。心が一念の間に働けば、城や村をすべて荒野に変えてしまうほどです。経典にこう説かれています。 「居士よ、あなたは流沙の荒野、修行者の荒野、静かな荒野があると聞いたことがありますか。」 長者が仏に申し上げました。「はい、流沙の荒野、修行者の荒野、静かな荒野があると聞いております。」 仏は居士に告げられました。「居士よ、誰がこの流沙の荒野や修行者の荒野を作ったのですか。」 長者が仏に申し上げました。「それはすべて、仙人たちが悪い心を抱き、呪術を行ったために、この流沙の荒野や修行者の荒野ができたのです。」 『修行経』にはこう説かれています。「十九人が正しい修行を実践していたが、ただ一人だけ静かな場所にふさわしくない者がいた。その者は口の行いと心が悪かったので、修行者たちはこの者を荒野に置くことを許さなかった。そこでその者に告げた。『あなたは心に悪を抱き、不善を思っている。人々の間で経典を誦し学び、他の仕事を手伝うのがよい。心を尽くして乱れた思いを整えれば、道の果てを得られるだろう。もしあなたが空のもとで空の心を求めようとしても、心はかえって乱れ、常に不善を生じ、自ら滅亡を招き、善き道に至ることはない。』」 心を守らない者は、心のままに種をまき、地獄・餓鬼・畜生の中に落ちます。たとえ人間に生まれても、すぐに卑しい身となり、人に嫌われ、会えば喜ばれません。心を守れる者は、天上に生まれれば自然のままに封じられ、金の床、玉の机、七宝の殿堂を受け、人間に生まれれば、人に愛され敬われます。それゆえに説きます。心の悪い行いを守るのだ、と。 自ら心の行いを正すとは、心が馳せる思いは禁じ難く制し難いが、心から思いが生じて事を成し遂げることができ、身が危うくなり、妙なる行いが退転して成就しかけた証を失い、凡夫に戻ってしまう。それゆえに説きます。自ら心の行いを正すのだ、と。 心の悪を守るとは、心を静めて寂然とし、想いを生じさせず、心の正しい行いを修め、心を収めて専一にする。それゆえに説きます。心の悪を守るのだ、と。 心の善い行いを修めるとは、心に善い行いを念じ、身に正しい法を修め、口にその教えを宣べる。この二つのことは心によるものであり、さらには無為にまで至る。それゆえに説きます。心に善い行いを修めるのだ、と。

身棄惡行， 及口惡行， 意棄惡行，及諸穢惡。

> 身体の悪い行いを捨て、口の悪い行いを捨て、心の悪い行いを捨て、すべての汚れた悪を捨てる。

身棄惡行者，捨身惡行永滅無餘，是故說曰，棄身惡行也。及口惡行者，口所宣說不陳惡法，亦莫布現惡事，是故說曰，及口惡行也。意棄惡行者，意不念諸不善法，不生害心於眾生類，是故說曰，意棄惡行也。及諸穢惡者，諸外不善法與意并者，既不自利又不利人，盡當求滅不令使生，是故說曰，及諸穢惡也。

> 身の悪い行いを捨てるとは、身の悪い行いを捨てて、永遠に滅び尽きて残るところがないようにすることです。それゆえに「身の悪行を捨てる」と説くのです。また口の悪い行いとは、口で語ることが悪い法を述べず、また悪い事柄を広く示さないことです。それゆえに「および口の悪行」と説くのです。意の悪い行いを捨てるとは、心に諸々の不善の法を念じず、生きとし生けるものに対して害する心を生じないことです。それゆえに「意の悪行を捨てる」と説くのです。また諸々の穢れた悪とは、諸々の外部の不善の法が意とともにあるものをいい、すでに自らを利せず、また他人をも利せず、すべて滅ぼし尽くして生じさせないように求めるべきです。それゆえに「および諸々の穢れた悪」と説くのです。

身修善行， 口善亦爾， 意修善行，無欲盡漏。

> 体で善い行いをし、口でも善い言葉を語り、心で善い思いを修めれば、欲望は消え去り、煩悩も尽きる。

身修善行者，身不造惡行。身行有三：不殺生，不盜，不婬妷，修此三業正其身行，供養佛法及眾僧，掃灑補治故壞塔寺，是故說曰，身修善行也。口善亦爾者，口有四過，不妄語、不麤言、不鬪亂彼此、不綺語，讚歎說佛功德，歎法及比丘僧，承事父母師友長者，是故說曰，口善亦爾也。意修善行者，意有三過，不生嫉妬、恚、癡邪見，但生眾善功德，不隨倒見墮邪部界，是故說曰，意修善行也。無欲盡漏者，無欲之人無量曠大無限之用。盡漏者，諸陰蓋持入不復興起。是故說曰，無欲盡漏也。

> 身に善行を修めるとは、身体で悪い行いをしないことです。身体の行いには三つあります。生き物を殺さないこと、盗まないこと、みだらな行いをしないことです。この三つの業を修めて身体の行いを正し、仏と法と僧に供養し、壊れた塔や寺を掃除し修理します。それゆえ「身に善行を修める」と言うのです。 口の善も同じであるとは、口には四つの過ちがあります。嘘をつかないこと、乱暴な言葉を言わないこと、人と人の間を裂くようなことを言わないこと、飾り立てた無益な言葉を言わないことです。そして仏の功德を讃歎し、法と比丘僧を讃歎し、父母や師、友、年長者に仕えます。それゆえ「口の善も同じである」と言うのです。 意に善行を修めるとは、意には三つの過ちがあります。嫉妬と怒りと愚かさの邪見を生じさせず、ただ多くの善い功德を生じ、倒れた見解に従って邪な世界に堕ちないようにします。それゆえ「意に善行を修める」と言うのです。 欲がなく漏が尽きたとは、欲のない人には量り知れない広大で限りない働きがあります。漏が尽きたとは、もろもろの陰・蓋・持・入がもはや起こらないということです。それゆえ「欲がなく漏が尽きた」と言うのです。

身修善行， 口意亦爾， 於今後世，永生善處。

> 身体で善い行いをし、言葉と心も同じようにすれば、この世でも後の世でも、いつまでも善いところに生まれられます。

身修善行者，問曰：「上己身修善行，有何不及復更重演？」報曰：「如來所化受教若干，或有欲廣聞其義，或有欲略說旨要，略旨要者粗舉五陰苦形，欲廣聞其義者，一一斷別身口意行，各隨次第以其事類證而解之。復有欲聞廣說略說，是故如來廣演此偈。如所說身修善行者，是謂廣說，口意亦爾者，是謂略說。如來觀前眾生意之所樂，便演其義令得受化，亦使受化人所願充滿。」凡諸善行饒益眾生多所成就，是故說曰，身修善行，口意亦爾。於今世至後世，長夜受樂食福無窮，永生善處。受福有二：俗福、無漏福。是故說曰，永生善處也。

> 身体で善行を積む人について、こう問う者がいた。「すでに自分で善行を積んでいるのに、なぜさらに繰り返し説く必要があるのか」と。これに答えて言う。「如来が教化する相手はさまざまで、ある者はその意味を広く聞きたいと望み、ある者は要点だけを簡潔に聞きたいと望む。要点を簡潔に聞きたい者には、五陰の苦しみの姿を大まかに示す。広く意味を聞きたい者には、身と口と意の行いを一つ一つ区別して、それぞれの順序に従って、その事柄に即して証しを示しながら解き明かす。また、広く説くことを聞きたい者も簡潔に説くことを聞きたい者もいる。それゆえ如来はこの偈を広く説かれたのである。説かれたところによれば、身体で善行を積むとは広く説くことであり、口と意も同様であるとは簡潔に説くことである。如来は目の前の衆生の心が何を喜ぶかを観て、その意味を説き、教化を受けさせ、また教化を受けた者の願いを満たされる。」 およそすべての善行は、多くの衆生を利益し、多くのことを成就させる。それゆえに説いて、「身体で善行を積み、口と意も同様である」と言う。現世から来世に至るまで、長く楽を受け、福を食み、尽きることがなく、永遠に善きところに生まれる。受ける福には二つある。世俗の福と、無漏の福である。それゆえに説いて、「永遠に善きところに生まれる」と言うのである。

慈仁不殺， 常能攝身， 是處不死，所適無患。

> いつくしみ深く、生き物を殺さず、いつも身を慎む人。そのような人は死の恐れがなく、どこへ行っても災いに出会いません。

慈仁不殺者，終不殺害觸惱生類，不劫略他財，不婬犯他妻。所謂仁者，得履賢聖善法，是故說曰，慈仁不殺也。常能攝身者，晝夜謹慎以身御行如護吉祥瓶，寧自喪身分受刑斬，不託形命造不善行。昔有旃陀利家生七男，六兄得須陀洹道，小者故處凡夫，母人旃陀利得阿那含道，兄弟七人盡受五戒為佛弟子。彼國常儀方俗舊法，旃陀利法要當行殺，國中設有男女殺盜婬妷及餘重罪，盡使旃陀利殺之。時國主召彼大兒：「今有應死之徒，汝行殺之。」其人即向王拜求哀自陳：「願大王弘恕，身受五戒為佛弟子，不敢行殺，守身謹慎不念邪非，寧自殺身不以犯戒殺害蟻子。」時王奮赫天威瞋恚隆盛，告其人曰：「卿為國民我為國主，不從吾教方更信佛浮說。」尋勅傍臣速將此人詣市殺之。其人復白王曰：「身是王民心是我資，恣王所欲殺便殺之。」即將詣市而梟其首，王問傍臣：「向應死人更有誰存？」臣報王曰：「餘有彊弟六人。」王勅左右隨次召來復勅殺人。其人報曰：「身受五戒為佛弟子，不敢行殺。」王瞋怒盛復取殺之。如是盡喚兄弟六人，皆言受戒不敢行殺，王瞋恚盛盡使殺之。次復召小弟母子俱來，王見母來倍復瞋恚。「前殺六子母不送行，今召小子何故便來？」母白王曰：「願聽微言以自宣理。前六子者盡得須陀洹道，正使大王取彼六人碎身如塵者，終不興惡如毛髮。今此小者處在凡夫，身雖修善，未蒙道法潤身，是故我念子未得道，或能失意畏王教令，自惜形命毀戒行殺，故送來耳。彼當毀戒隨王教令，不仁行殺，身壞命終入泰山地獄，憐愍子故是以送來。」王復問母：「前死六子盡得須陀洹道耶？」答曰：「盡得。」王復問母：「母身為得何道？」母答曰：「得阿那含道。」王聞斯語自投于地，諸臣扶起以水灑之，久乃醒寤稱怨自責：「我為自造無量罪根，放心建意殺六須陀洹。」身意煩惱坐不安席，即自嚴辦香油酥薪，取六死屍而耶旬之，起六偷婆興敬供養，日三懺悔意願滅罪漸漸微薄。復出財貨給彼老母，至於齋日數數懺悔，冀得罪薄免於地獄。是故說曰，常能攝身也。須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢，守護禁戒無所缺減，凡夫人雖守護戒，心如飄風不能恒定，是故說曰，常能攝身。是處不死者，得果之人，捨男子身還得男子身，捨賢聖身還得賢聖身，終不懷憂畏地獄餓鬼畜生，阿那含身即彼天上不還世間，阿羅漢永無愁惱，諸累已盡入無為境惔然寂滅。是故說曰，是處不死也。所適無患者，於彼無為境終無煩惱，亦無愁憂苦患，亦無死亡戀慕，是故說曰，所適無患也。

> 慈しみ深く、殺さない人は、決して生き物を殺したり傷つけたり悩ませたりせず、他人の財産を奪わず、他人の妻を犯しません。いわゆる仁ある人は、賢聖の善き法を踏み行うことができます。それゆえ「慈しみ深く、殺さない」と説かれるのです。 常に身を守るとは、昼も夜も慎み深く、身をもって行いを制し、吉祥の瓶を守るようにすることです。たとえ自らの身を失い刑罰を受けようとも、命を頼りに不善の行いをすることはありません。 昔、旃陀利の家に七人の男が生まれました。六人の兄は須陀洹の道を得て、末の弟はまだ凡夫のままでした。母である旃陀利の女は阿那含の道を得ており、兄弟七人ともに五戒を受けて仏の弟子となっていました。その国の慣わしでは、旃陀利の法として必ず殺しを行わなければなりませんでした。国中で男女が殺し・盗み・婬行やその他の重い罪を犯すと、すべて旃陀利に殺させるのでした。 あるとき国の王が長男を召して、「今、死に値する者がいる。お前が行って殺せ」と言いました。その人は王に礼拝して哀れみを求め、自ら申し上げました。「どうか大王、広くお許しください。私は五戒を受けて仏の弟子となりました。殺しを行うことはできません。身を慎み、邪なことを思いません。たとえ自ら命を断とうとも、戒を破って蟻一匹を殺すことはいたしません。」 王は天の威を奮い、怒りを盛んにして告げました。「お前は国民、私は国王だ。私の教えに従わず、かえって仏の空言を信じるのか。」すぐに側の臣に命じて、この者を市場に連れて行き殺させようとしました。その人は再び王に申し上げました。「この身は王の民、この心は我が支え。王の望むままに、殺すなら殺してください。」そこで市場に連れて行かれ首をはねられました。 王は側の臣に問いました。「先ほどの死に値する者、ほかに誰が残っているか。」臣は答えました。「強壮な弟が六人残っております。」王は左右に命じて順に召し寄せ、また殺すよう命じました。その人は答えました。「五戒を受けて仏の弟子です。殺しを行うことはできません。」王は怒りをさらに盛んにして、また殺させました。こうして六人の兄弟をすべて呼び、皆が戒を受けているので殺せないと言うと、王は怒りを盛んにして皆殺させました。 次に末の弟と母をともに召しました。王は母が来るのを見て、いっそう怒りを強めました。「先に六人の子を殺したとき、母は見送らなかった。今、末の子を召したのになぜ来たのか。」母は王に申し上げました。「どうか私の言葉をお聞きください。先の六人の子は皆、須陀洹の道を得ておりました。たとえ大王がその六人を粉々に砕いても、毛髪ほどの悪も起こすことはありません。しかしこの末の子は凡夫の境地にあり、身は善を修めていても、まだ道法の潤いを身に受けていません。それゆえ、子がまだ道を得ていないので、もしかすると心を失い、王の命令を恐れて、自らの命を惜しみ戒を破って殺しを行うかもしれないと思い、連れて参りました。もし戒を破って王の命令に従い、仁ならぬ殺しを行えば、身が壊れ命が終わった後、泰山地獄に堕ちます。子を哀れむゆえに連れて来たのです。」 王はまた母に問いました。「先に死んだ六人の子は皆、須陀洹の道を得ていたのか。」母は答えました。「皆、得ておりました。」王はまた母に問いました。「母自身は何の道を得ているのか。」母は答えました。「阿那含の道を得ております。」王はこの言葉を聞くと、自ら地に投げ倒れました。臣たちが抱え起こし、水をかけると、しばらくして目を覚まし、恨み嘆き自ら責めました。「私は自ら無量の罪の根を造った。心のままに六人の須陀洹を殺してしまった。」身心は煩悩に苛まれ、席に安んじることができませんでした。すぐに香油・酥・薪を用意して六人の死体を火葬し、六つの塔を建てて敬い供養しました。日に三度懺悔し、罪を滅ぼそうと願ううちに、しだいに罪は薄れていきました。さらに財物を出してかの老母に与え、斎日ごとにたびたび懺悔し、罪が薄れて地獄を免れることを願いました。それゆえ「常に身を守る」と説かれるのです。 須陀洹・斯陀含・阿那含・阿羅漢は、戒を守護して欠けるところがありません。凡夫は戒を守っていても、心は風に漂うようで定まることがありません。それゆえ「常に身を守る」と説かれるのです。 「ここに不死あり」とは、果を得た人は、男子の身を捨ててまた男子の身を得、賢聖の身を捨ててまた賢聖の身を得て、決して地獄・餓鬼・畜生を憂い恐れることがありません。阿那含はその天上の身で世間に戻ることはなく、阿羅漢は永遠に愁い悩みがなく、諸々の煩いが尽きて無為の境地に入り、静かに寂滅します。それゆえ「ここに不死あり」と説かれるのです。 「赴くところ悩みなし」とは、かの無為の境地には、ついに煩悩もなく、また愁い憂い苦しみの患いもなく、また死を悲しみ慕うこともありません。それゆえ「赴くところ悩みなし」と説かれるのです。

不殺為仁， 常能慎言， 是處不死，所適無患。

> 命を奪わないことが思いやりであり、 いつも言葉を慎むことができるなら、 その人は死の世界にとどまらず、 どこへ行っても災いを受けることはありません。

不殺為仁者，終不信讒毀之人於中起害心，是故說曰，不殺為仁也。常能慎言者，若被罵詈麤言惡語，計皆空寂音響無形，猶如賢聖終無恚怒。設有所為，斯皆權化非實恚怒，或意內自念不發於口，設發於口尋懷慚愧。是故說曰，常能慎言，是處不死，所適無患也。

> 殺さない人は仁者であり、讒言や中傷する人に決して心を動かされず、害そうとする心を起こしません。だから「殺さないことが仁である」と説くのです。いつも言葉を慎む人は、罵られたり粗い悪い言葉を浴びせられても、それらはすべて空しく静かで、音の響きに形はないと見ます。賢者や聖人のように、決して怒りの心を起こしません。たとえ何か行動することがあっても、それはすべて方便であり、本当の怒りではありません。あるいは心の中で思うだけで口に出さず、たとえ口に出してもすぐに惭愧の心を抱きます。だから「いつも言葉を慎み、この境地にいれば死ぬことはなく、どこへ行っても災いがない」と説くのです。

不殺為仁， 常能慎意， 是處不死，所適無患。

> 命を奪わないことは思いやりです。いつも心を慎んでいれば、死の危険はなく、どこへ行っても災いを免れます。

得向之人，設遭百千苦惱，身墮迴波深淵，若墮火坑熾焰之中，終不懷懼令心變易，晝夜調心不令越逸，猶如得勝怨讎死而加毒，得向之人心除結使猶怨不盡。復重思惟：「彼修行人觀心成敗五陰所趣，移有漏心至無漏境，無常苦空無我，已獲無漏守護不失。何以故？彼修行人每自思惟：『從永劫以來染著生死，流轉刀劍世中，恒修此意造罪無端，為意役使如人使奴僕。我今已勝調伏心識，今重守護使不越逸。』」是故說曰，不殺為仁，常能慎意，是處不死，所適無患。

> 真理を求める人は、たとえ百千の苦しみに遭い、身を激しい波の深淵に落としても、あるいは燃えさかる火の穴の中に堕ちても、決して恐れを抱いて心を変えることはありません。昼も夜も心を整え、逸脱させないようにします。それはちょうど、仇敵に勝った者が、死に至らしめてもなお毒を加えるようなものです。真理を求める人は、心の束縛を取り除きますが、それは仇敵を完全に滅ぼし尽くさないのと同じです。 さらにこう思い巡らします。「あの修行者は、心の成否と五陰の行く先を観察し、煩悩に汚れた心を清らかな境地へと移します。無常・苦・空・無我を悟り、すでに清らかな境地を得て、それを守り失わないようにします。なぜでしょうか。あの修行者はいつもこう思うのです。『永遠の昔から生死に染まり執着し、刀剣の世界を流転してきました。いつもこの心を修め、際限なく罪を作り、心に使われること、人が奴隷を使うかのようでした。私は今すでに心を調え伏せました。今こそ改めて守り、逸脱させないようにしよう』と。」 こういうわけで、「殺さぬは仁なり、常に心を慎むことができれば、ここに死はなく、行く先に災いもない」と説かれたのです。

慎身為勇悍， 慎口悍亦然，慎意為勇悍， 一切結亦然，此處名不死， 所適無憂患。

> 身体を慎むことが勇ましさであり、言葉を慎むこともまた勇ましさです。 心を慎むことも勇ましさであり、すべての束縛からもまた勇ましさが生まれます。 ここが不死の境地と呼ばれ、どこへ行こうとも憂いや悩みはありません。

夫言勇悍者，博古攬今高才明德技術備具，與智相應捨諸惡法，身所修行不處貪欲，是故說曰，慎身為勇悍也。慎口悍亦然者，口所吐言先笑後語不傷人意，是故說曰，慎口悍亦然也。慎意為勇悍者，意已柔調不興惡念，是故說曰，慎意為勇悍也。一切結亦然者，問曰：「身口意行三事已辦，有何缺漏而云一切結亦然耶？」答曰：「如所說應來往進止縫作補綻，應為而不為，此皆身所應行闕而不行。彼修行人能具此諸行。」是故說曰，慎身為勇行。口行有餘者，應隨賢聖教律，而不為不習男音女音，彼此音皆悉不習，是謂口餘行。何謂意有餘行更造有緣受生之分？此是意餘行，彼執行人能見此諸行，身口意餘行盡能具足，是故說一切結亦然也。此處名不死者，滅盡泥洹無終無始，無來無往無生滅著斷，是故說此處名不死也。所適無憂患者，所以言有憂者，由衣被飲食床臥具病瘦醫藥、奴婢僕使象馬車乘國財妻息，皆生憂患，無此則無患，是故說所適無憂患也。

> 勇ましく強いと言われる人は、古今のことを広く学び、すぐれた才能と明らかな徳を持ち、技術を備え、智慧にかなって、もろもろの悪い法を捨て、身に行うところは貪欲に留まらない。だから「身を慎むことが勇ましさである」と説くのです。口を慎むこともまた勇ましさであるとは、口から出す言葉がまず笑いを含み、のちに語る言葉が人の心を傷つけないことです。だから「口を慎むこともまた勇ましさである」と説くのです。意を慎むことが勇ましさであるとは、意がすでに柔らかく調えられて、悪い思いを起こさないことです。だから「意を慎むことが勇ましさである」と説くのです。すべての結もまた同じであるとは、問いには「身と口と意の三つの行いがすでに成し遂げられたのに、どんな欠けたところがあって、すべての結もまた同じと言うのか」とあります。答えには「説かれるとおり、行き来し進み止まり、縫ったり繕ったりするべきときに、なすべきことをなさない、これらはみな身がなすべき行いでありながら欠けて行われない。修行する人はこれらのもろもろの行いを備えることができる」とあります。だから「身を慎むことは勇ましい行いである」と説くのです。口の行いに余りがあるとは、賢聖の教えと律に従いながら、男の声や女の声を習わず、どちらの声もすべて習わない、これを口の余りの行いと言います。何が意の余りの行いであり、さらに有の縁を造って生を受ける分なのか、これが意の余りの行いです。修行する人はこれらのもろもろの行いを見て、身と口と意の余りの行いをことごとく具足できる。だから「すべての結もまた同じ」と説くのです。ここを不死と名づけるとは、滅し尽くした泥洹であり、終わりも始まりもなく、来ることも行くこともなく、生も滅もなく、断も常もない。だから「ここを不死と名づける」と説くのです。行くところに憂い患いがないとは、憂いがあるというのは、衣や食事や寝床や病の薬、奴婢や僕や使う者、象や馬や車、国の財や妻や子、みな憂い患いを生じるということであり、これらがなければ患いはない。だから「行くところに憂い患いがない」と説くのです。

護身為善哉， 護口善亦然，護意為善哉， 護一切亦然，比丘護一切， 能盡苦原際。

> 身を守ることは善いことです。口を守ることも同じく善いことです。 心を守ることは善いことです。すべてを守ることも同じく善いことです。 比丘がすべてを守るとき、苦しみの根本を終わらせることができます。

護身為善哉者，能一意守護身，諸天世人稱歎其德，天龍鬼神八部之眾盡歎其德，晝夜祐助勸成究竟，是故說護身為善哉也。護口善亦然者，若有習非弊惡之業，或被罵詈為人所毀，執心護口終不還報，諸天世人皆共稱善，是故說護口善亦然也。護意為善哉者，若人杖捶割截形體復被罵詈，彼執行人持心潔淨不興恚怒，諸天世人皆稱其善，是故說護意為善哉也。護一切亦然者，於身口意外諸餘行謹慎攝護，是故說護一切亦然也。比丘護一切者，執行比丘護身意及餘外行，威儀禮節悉皆備具，是故說比丘護一切也。能盡苦原際者，以具此行豈當趣惡道耶？盡斷地獄畜生餓鬼道，人中苦人中痛能悉斷之，是故說能盡苦原際。

護口意清淨， 身終不為惡，能淨此三者， 便逮神仙道。

護口意清淨者，於三毀敗中，壽敗劫敗結敗，此名三敗。釋迦文佛出現於世，在濁世中人壽百歲，翼從弟子不守護口過多犯禁律，聖人在世猶尚毀戒，況千載末能存戒律耶？佛契經說：「後千歲末正法欲沒盡時，有七穢行顯布於世。云何為七？若有人百歲持戒，彈指之頃為惡知識所壞。二者久行慈心，彈指之頃為瞋恚所壞。三者薄賤威儀不隨其教。四者互相是非諍於勝負。五者在國城村落，鬪亂彼此傳東至西。六者貪著利養遂致疫病。七者從凡夫至羅漢，皆被毀辱而取滅度。」所以致誹謗者，皆由不護口故。尊者滿足阿羅漢說曰：「恒訓化餓鬼。」往詣餓鬼界，見一餓鬼形狀醜陋，見者毛竪莫不畏懼，身出熾焰如大火聚，口出蛆蟲膿血流溢，臭氣遠徹不可親近。或口吐焰火長數十丈，或耳鼻眼身體支節放諸火焰長數十丈，脣口垂倒像如野猪，身體縱廣一由旬，手自抓摑舉聲號哭馳走東西。時尊滿足問餓鬼曰：「汝宿作何罪咎，今受此苦？」餓鬼報曰：「吾曩昔在世時，出家作沙門，戀著房舍慳貪不捨，身持威儀出言臭惡。若見持戒精進比丘輒復罵辱，或戾口弄，或偏眼視，或戾是作非，或戾非作是。自恃豪族謂為不死，造諸無量不善之本，寧以利刀自割其舌，如是從劫離劫甘心受苦，不以一日之中誹謗精進比丘。尊若還閻浮利地者，以我形狀可戒勅諸比丘，善護口過勿妄出言，設見梵行持戒比丘者，念宣其德。自受餓鬼形以來，經數百歲數千歲數萬歲數千百萬歲受如此苦惱，我却後命終當入地獄中。」是時，餓鬼說此語已，舉聲號哭自投于地，如泰山崩天飜地覆。斯由口過故使然矣，能守護口過者受福無窮。迦葉如來出現於世，敷演法教教化已周，於無餘泥洹界而般泥洹。泥洹後時有三藏比丘名曰黃顏，眾僧告勅：「一切雜使不命卿涉，但與諸後學說諸妙法。」時三藏比丘內心輕蔑不免僧命，便與後學敷演經義，喚受義曰：「速前象頭。」次喚第二者，復曰馬頭，復次駱駝頭，復次驢頭，復次猪頭，次喚羊頭、羯羝頭，次喚師子頭，次喚虎頭，次喚禽頭，次喚熊頭，如是喚眾獸之類不可稱數。三藏黃顏口出如此無量惡言，雖授經義不免其罪，身壞命終入地獄中，經歷數千萬劫受苦無量。餘罪未畢從地獄出，生大海中受水性形，一身百頭形體極大，異類見之皆悉馳走。爾時世尊見眾多比丘互相是非不慎口過，或吐言麁󰎣以致忿怒，或所說似戲發起舊怨，或以智陵人彼人不信伏受，或說種類所出卑賤用作嫌隙。爾時世尊知諸比丘彼此者多恐後墮罪，即以神足接諸比丘，詣於大海見彼受罪獸一身百頭，欲使諸比丘改往修來。問彼罪蟲曰：「汝是黃顏不耶？」蟲即報言：「實是。」如是至三，報曰：「實是。」時諸比丘即前長跪白世尊曰：「我等未曾聞此，為因何義頻問此獸審是黃顏耶？唯願世尊敷演其義，令未悟者使得開解。」如來三達無不觀察，過去當來現在事皆悉解明，其有難詰如來義者，隨時發遣永除疑網。爾時世尊與諸比丘說曩昔本緣：「昔古久遠無數世時人壽二萬歲，爾時有佛出世，名曰迦葉如來、至真、等正覺，十號具足，敷演法教曠濟無涯，教化已周，於無餘泥洹界而般泥洹。泥洹後時有三藏比丘名曰黃顏，眾僧告勅：『一切雜使不命卿涉，與諸後學說微妙法。』時三藏比丘內心自大，輕蔑於人不免僧命，便與後學敷演經義。喚諸受義人名目眾獸之類，雖授經義猶不免罪，身壞命終入地獄中，經歷數千萬劫受苦無量，餘罪未畢從地獄出，生彼大海，受水性形一身百頭。是故比丘當精勤護口，出言柔和勿吐麁語。汝觀此獸由其惡言故便致此罪。」時諸比丘聞佛教誡，又見彼獸形苦如茲，道心遂固，悔本所習心念口言形之大患，能攝口心者終無惡聲流布於外。是故說曰，護口意清淨也。身終不為惡者，若身行惡，為諸佛世尊所不稱記，若生地獄餓鬼畜生中受苦難計。設身修善立諸德本，為諸佛世尊所見歎譽，若生天上封受自然，若盡苦際，於無餘泥洹界而般泥洹。是故說曰，身終不為惡也。能淨此三者，身行口行意行，此三業淨為獲何果？答曰：「為天龍鬼神八部之眾所見尊奉，便為得至滅盡泥洹，不為凡夫所共牽連，逮得仙人道。」所謂仙人者，諸佛世尊是也，所演言教一言片辭，上中下義盡趣於道。是故說曰，能淨此三者，便逮仙人道。