---
title: "出曜經 · 10 行品"
description: "出曜经是姚秦时期著名译经师竺佛念所译的佛教经典，属于早期汉传佛教重要文献之一。该经主要阐述佛陀的教法，内容涵盖修行方法、因果业报、戒律规范等核心教义，具有鲜明的实践指导意义。竺佛念作为五世纪初重要译经家，其译文准确流畅，对佛教在中国的传播影响深远。出曜经不仅反映了早期佛教思想体系，也为研究中国佛教发展史提供了珍贵资料，在汉传佛教经典中占有重要地位，是了解原始佛教教义的重要参考典籍之一。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmczndjab1mqdjj04fg3i4ch1"
---

## 出曜經卷第十一

> 『出曜経』巻第十一

姚秦涼州沙門竺佛念譯

> 姚秦涼州沙門竺仏念訳

### 誹謗品第九之餘

> 誹謗品第九の続き

若猗內藏， 依賢聖活， 愚者墮惡，猶願邪見。

> 心の内に隠し事を抱え、 聖なる者たちの教えに従って生きるならば、 愚かな者は悪道に堕ちるとしても、 なお邪な見方にすがりつくことはない。

昔佛在舍衛國祇樹給孤獨園，時與數千萬眾前後圍繞而為說法。有異比丘即從坐起，偏露右臂叉手合掌前白佛言：「如來莫說休息泥洹，如來出要賢聖妙法，如來於現法中閑靜無為而自娛樂。」爾時世尊告諸比丘：「汝等觀此愚人，自墜惡趣永滅形壽。不但今日呵制如來，乃往久遠無數世時，於毘波尸如來所，亦復呵制使不說法。不但呵制毘波尸如來，乃復呵制尸棄如來使不說法，次復呵制毘舍毘如來，次復呵制拘樓如來，復次呵制拘那含牟尼佛，次復呵制迦葉如來。我今第七如來、至真、等正覺出現於世，復來呵制使不說法。如此愚人，端心正意不呵制如來者，即應此座上坐，諸塵垢盡得法眼淨。」是時，世尊在大眾中，說此偈曰：

> 昔、仏は舎衛国の祇樹給孤独園におられ、そのとき数千万の大衆に前後を囲まれて説法しておられた。そこに一人の比丘が座から立ち上がり、右肩を露わにし、合掌して仏に申し上げた。「如来よ、どうか休息の涅槃をお説きにならないでください。如来の出要たる賢聖の妙法を、如来が現世において静かで無為に自ら楽しんでおられることをお説きください。」 そのとき、世尊は比丘たちに告げられた。「あなたがたはこの愚か者を見なさい。自ら悪趣に堕ち、形寿を永遠に滅ぼしている。今日だけで如来を叱って制したのではない。はるか久遠の無数の世において、毘波尸如来のもとでもまた叱って制し、説法させなかった。毘波尸如来を叱っただけでなく、また尸棄如来を叱って制し、説法させなかった。次に毘舎毘如来を叱って制し、次に拘楼如来を叱って制し、また次に拘那含牟尼仏を叱って制し、次に迦葉如来を叱って制した。私が今、第七の如来・至真・等正覚として世に出現しているが、また来て叱って制し、説法させないでいる。この愚か者が、もし心を正し、意志を正して如来を叱って制することがなければ、まさにこの座に坐り、もろもろの塵垢が尽きて法眼が清らかになるであろう。」 そのとき、世尊は大衆の中で、この偈を説かれた。

「以失今良會， 更立誓願求，終不見聖諦， 況欲見究竟？

> 大切なこの機会を失ってしまえば、 あらためて誓いを立てて求めたとしても、 聖なる真理に出会うことはついにできないでしょう。 ましてや、究極の真理を見ることはなおさらです。

「比丘當知！此愚癡凡夫之人，於賢聖道撿自喪形命，離於佛法聖眾。」若猗內藏者，如來深法之藏無所染著，其事有三：一者三界緣對結使永盡無餘亦名阿羅漢。二者不復生滅更無萌兆趣生熟藏。三者於天人世興致供養悉能消化，使前施者受福無窮。是故說曰，若猗內藏也。依賢聖活者，賢聖有二：一者善根成就名曰賢聖，二者無漏成就名曰賢聖。如此賢聖不猗邪見而求活，乃依深法妙智而求活也。是故說曰，依賢聖活也。愚者墮惡者，猶如彼比丘呵制如來使不說法。「休息泥洹、如來出要、賢聖妙法，如來於現法中但當閑靜無為而自娛樂，何為與大眾說法？」如此比類，愚不識真自招禍惡，願樂湯火以為屋室，此人不當與坐起言語。是故說曰，愚者墮惡也。猶願邪見者，懷猶豫見習顛倒久與邊見相應，如彼契經所說：「佛告長者：『夫邪見之人自犯身行如所說，犯口所行如所說，犯意所行如所說，興意想念流馳萬端，盡興邪見不可親近，消滅善本增益惡種。所以然者？長者當知！邪見為病迷於正法，猶伊叉桓子、帝多羅子、尸婆犁子種散於地，隨時長養漸得水潤，火溫風動地持，後得長大，食之極苦麤澁穢臭不可食噉。』」邪見之人亦復如是，自犯身行口行意行，是故說曰，猶願邪見也。

> 「比丘よ、知るべきである！この愚かな凡夫は、聖なる道から自ら外れて命を失い、仏法と聖なる僧団から離れてしまうのだ。」 内に真実を保つ者について言えば、如来の深い法の蔵は、何ものにも汚され執着されることがない。それには三つの意味がある。第一に、三界の縁と結使が永遠に尽きて余りがなく、これを阿羅漢とも呼ぶ。第二に、もはや生滅することなく、生まれ変わる兆しもなく、生や熟の蔵に趣くこともない。第三に、天や人の世で供養を捧げられれば、それをすべて消化して、施しを与えた者が限りない福を受けるようにする。こうしたわけで、「内に真実を保つ」と説くのである。 聖なる者に依って生きるとは、聖なる者には二種類ある。第一に、善根を成就した者を聖なる者と呼び、第二に、煩悩の漏れなく成就した者を聖なる者と呼ぶ。このような聖なる者は、邪見に頼って生きるのではなく、深い法とすぐれた智慧に依って生きるのである。こうしたわけで、「聖なる者に依って生きる」と説くのである。 愚かな者が悪に堕ちるとは、ちょうどあの比丘が如来を非難して、法を説かせまいとしたようなものである。「涅槃の休息、如来の出離の教え、聖なる妙法――如来はこの現実の中でただ静かに無為に過ごして自ら楽しんでいればよいではないか。なぜ大衆のために法を説くのか」と。このような類の者は、愚かで真実を知らず、自ら災いと悪を招く。あたかも湯と火を願い求めて家とすることのようなもので、このような者とは共に座ったり語ったりするべきではない。こうしたわけで、「愚かな者が悪に堕ちる」と説くのである。 なお邪見を願い求める者とは、ためらいの見を抱き、顛倒した心を繰り返し、長く辺見に相応してきた者である。あの経典に説かれているとおりである。「仏は長者に告げた。『邪見の人は、説かれるままに自ら身の行いを犯し、説かれるままに口の行いを犯し、説かれるままに意の行いを犯す。思いと願いを起こして万端に流れ走り、ことごとく邪見を興して近づくべきでなく、善の根本を消し悪の種を増やす。なぜそうなのか。長者よ、知るべきである。邪見は病であり、正しい法を迷わせる。ちょうど伊叉桓子、帝多羅子、尸婆犁子の種を地面にまき散らし、時に応じて育て、しだいに水を得て潤い、火に温められ風に動かされ地に支えられ、後に成長して、それを食べればきわめて苦く粗く渋く、穢く臭くて食べられないようなものである。』」邪見の者もまた同じである。自ら身の行い、口の行い、意の行いを犯すのである。こうしたわけで、「なお邪見を願い求める」と説くのである。

竹蘆生節， 還害其軀， 吐言當善，不演惡教。

> 竹は節を作り、かえって自分の身を傷つける。言葉を発するときは善くあれ、悪しき教えを説いてはならない。

竹蘆生節者，竹蘆生節麤而且長，若遇暴風倚互相撐各入其節，節自枯朽更不復生。彼比丘所說亦復如是，自招其罪不為他人，是故說曰，竹蘆生節，還害其軀也。吐言當善者，言當慈仁哀愍一切，是故說曰，吐言當善也。不演惡教者，有吐言教不善之法後趣惡道，人身猶尚可行，言辯通達時乃有耳。是故說曰，不演惡教也。

> 竹や葦は節を作ると、その節は粗くて長く、暴風に遭うと互いに寄りかかり支え合ってそれぞれの節に入り込み、節は自然に枯れ朽ちて二度と生えなくなる。あの比丘の説くところもまた同じで、自ら罪を招くのであって他人のせいではない。だからこう説くのだ、「竹や葦は節を作れば、かえってその身を損なう」と。言葉を吐くときは善くあれとは、言葉は慈悲深くすべてを哀れみ愍れむべきであるということ。だからこう説くのだ、「言葉を吐くときは善くあれ」と。悪しき教えを説くなとは、不善の法を説き教えて後に悪道に向かう者がいる。人身はなお修行することができるが、言葉が弁明に通じるのは時にかなってこそあるのだ。だからこう説くのだ、「悪しき教えを説くな」と。

從善得解脫， 為惡不得解，善解者為賢， 是為脫惡惱，賢聖解不然， 如彼愚得解。

> 善い行いから解脱が得られ、悪い行いでは解き放たれない。 善く解き放たれた人は賢者であり、これによって悪の悩みから脱する。 賢聖の解脱はそうではなく、愚か者が得る解脱とは異なる。

從善得解脫者，夫至解脫無為之處，言當用善，巧言善語者，為人所敬，所至到方多所饒益，是故說曰，從善得解脫也。為惡不得解者，常懷愁憂心意煩惱恒懷恐懼，是故說，為惡不得解也。善解者為賢者，言解脫未必是解脫，或能被繫王者所拘，所謂解脫者心身俱解脫，是故說，善解者為賢。是為脫惡惱者，縛有二緣，今身易後身，今身者桁械考掠及諸五毒之痛，復被結使縛流轉五趣，於中能自拔濟乃為善解，是故說，解脫惡惱也。賢聖解不然者，賢聖有二業：一者善本成就，二者無漏成就。彼賢聖人所吐言教不自傷損，後無苦惱，是故說賢聖解不然也。如彼愚得解者，愚人習行好著邪道不隨正路，以自牽往趣三惡道，是故說如彼愚得解也。

> 善から解脱を得るとは、そもそも解脱の無為の境地に至るには、善を用いるべきだということです。巧みな言葉、善い言葉を使う人は、人から敬われ、行く先々で多くの利益をもたらします。それゆえ「善から解脱を得る」と説くのです。 悪を行えば解脱を得られないとは、常に憂いに沈み、心は煩悩に悩まされ、いつも恐れを抱くということです。それゆえ「悪を行えば解脱を得られない」と説くのです。 善く解する者は賢者であるとは、解脱と言っても必ずしも真の解脱とは限らず、王者に捕らえられることもあるからです。ここでいう解脱とは、心も体もともに解き放たれることをいいます。それゆえ「善く解する者は賢者である」と説くのです。 これが悪と煩悩から脱することであるとは、束縛には二つの原因があります。今の身と後の身です。今の身とは、手足を縛られ打ちたたかれる苦しみや、さまざまな五毒の痛みを受けることです。さらに煩悩の結に縛られて五つの世界を巡り続けます。その中で自ら抜け出せることこそ、善き解脱なのです。それゆえ「悪と煩悩から脱する」と説くのです。 賢聖の解脱はそうではないとは、賢聖には二つの行いがあります。一つは善き根本を成就すること、二つは煩悩のない悟りを成就することです。その賢聖の人が語る言葉は、自らを傷つけることがなく、後に苦しみがありません。それゆえ「賢聖の解脱はそうではない」と説くのです。 あの愚か者が解脱を得るようなものとは、愚かな人は悪い道に執着して正しい道に従わず、自らを引っ張って三つの悪しき世界へと向かってしまいます。それゆえ「あの愚か者が解脱を得るようなもの」と説くのです。

比丘挹損意， 不躁言得忠，義說如法說， 是言柔軟甘。

> 修行者は心を落ち着け、軽率に語らず、忠実で、道理にかなった法の教えを説く。その言葉は柔らかく、甘美である。

比丘挹損意者，比丘護口意，自能收攝，語不煩重，若處道俗，處中而說不嬈彼此，是故說曰，比丘挹損意也。不躁言得忠者，少言多中不離佛語，世俗煩閙意恒遠離，是故說曰，不躁言得忠也。義說如法說者，具足而說，句身味身無所缺漏，是故說曰，義說如法說也。是言柔軟甘，出無量義解悅人意，所說無厭足，如天甘露善心無怒，亦不選擇彼豪族種、此卑家種，平等而說無增減心，是故說曰，是言柔軟甘也。

> 比丘が自分の心を慎むとは、比丘が言葉と心を守り、自らをしっかりと制御し、言葉がくどくならず、在家の人々の中でも出家者の間でも、偏らずに説いて互いを煩わせないことです。それゆえに「比丘は心を慎む」と説かれます。騒がず言葉に真心がこもるとは、言葉は少なくともよく的を射て仏の教えから離れず、世俗の騒がしさから心は常に遠ざかっていることです。それゆえに「騒がず言葉に真心がこもる」と説かれます。道理にかなって説き、法のままに説くとは、不足なく説き、文の形も意味の内容も欠けるところがないことです。それゆえに「道理にかなって説き、法のままに説く」と説かれます。その言葉は柔らかく甘く、限りない意味を生み出して人の心を喜ばせ、その説くところに飽きることがなく、天の甘露のようであり、善い心で怒りがなく、あの高貴な家柄とかこの卑しい家柄とかを選び分けず、平等に説いて心に増減がありません。それゆえに「その言葉は柔らかく甘い」と説かれます。

善說賢聖教， 法說如法二，念說如念三， 諦說如諦四。

> 善き教えを説き、 聖なる教えを法のままに説く、 念を念のままに説き、 真理を真理のままに説く。

善說賢聖教者，賢聖出教必有所由，接度眾生無不有濟，是故說賢聖教也。法說如法二者，賢聖教中正法所居、非法所居。何以故？說法之時，廣布賢聖道長益善根，說非法時，增益不善根善法有損。善說賢聖教，第一句；法說如法說，是故說法說如法二也。念說如念三者，出言柔和為人所愛念，出言麤獷為人所憎惡，欲為人所念者當自念其善，雖處畜生，聞其惡言皆懷愁慼。昔有二人各畜力牛，一人自誇欲得與彼牛捔力，若不如者，要金錢五百，試牛並耕一牛力實勝之。其牛主罵曰：「弊牛努力。」牛聞其罵，即便臥地，輸金錢五百枚。復至後日主責牛曰：「名汝為快牛，乃使我失錢，令我慚愧。」牛報其主曰：「更可試之，當盡我力，當還倍得彼錢。」即復更耕，如牛所言倍得彼錢。畜生尚識善惡之言，況人當不識善惡言乎？是故說，念說如念三也。諦說如諦四者，好學之士畏懼生死五道患難，既損耗不益前人，如斯之類塞泥洹路開地獄門，如來欲現真妙之義，諦說如諦四也。

> 善く賢聖の教えを説くとは、賢聖が教えを説き出されるには必ず理由があり、衆生を救い渡すのに済わないものはない。それゆえ賢聖の教えを説くのである。法説は如法、すなわち二つとは、賢聖の教えの中で正法が住するところであり、非法の住するところでもある。なぜか。法を説く時には、賢聖の道を広く布き、善根を長く益す。非法を説く時には、不善の根を増し益し、善法を損なうからである。善く賢聖の教えを説くとは第一の句である。法説は如法説であり、それゆえ法説は如法の二つを説くのである。念説は如念、すなわち三つとは、言葉を柔らかく出す人は人に愛念され、言葉を荒々しく出す人は人に憎まれる。人に念われたいと思う者は、自らその善を念ずべきである。畜生の身にあっても、悪い言葉を聞けばみな愁い悲しむ。昔、二人がそれぞれ力牛を飼っていた。一人が自慢して、あの牛と力を比べたいと言い、もし負けたら金銭五百を賭けようと言った。試しに牛を並べて耕させると、一方の牛の力が実際に勝っていた。その牛の主は「役立たずの牛め、力め」と罵った。牛はその罵りを聞くと、たちまち地に臥してしまい、金銭五百枚を失った。また後の日、主が牛を責めて言った。「お前を俊足の牛と名付けたのに、私に金を失わせ、私を恥ずかしめおった。」牛はその主に答えた。「もう一度試してみてください。私の力を尽くします。きっとあの金を倍にして取り返します。」そこでまた耕し、牛の言ったとおりに倍の金を得た。畜生でさえ善悪の言葉をわきまえる。まして人は善悪の言葉をわきまえないことがあろうか。それゆえ念説は如念の三つを説くのである。諦説は如諦、すなわち四つとは、学問を好む士が生死五道の患難を畏れ、すでに損耗して前人を益さず、このような類は涅槃の道を塞ぎ地獄の門を開く。如来は真の妙なる義を現さんと欲し、諦説は如諦の四つを説くのである。

是以言語者， 必使己無患，亦不剋眾人， 是為能善言。

> 言葉を話すときは、 自分が傷つかず、 相手をも傷つけない。 それが、上手な話し方です。

是以言語者，言先自惟不自剋伐，使今世後世必無苦患，若今身為惡犯王者法，或財產田業沒入於宮，或為盜賊劫掠，居業日耗所願必乖。若至後身，死入地獄畜生餓鬼，地獄五毒不可堪忍，畜生芻蒿負重為役，餓鬼飢饉形𮜭極苦。若欲吐言當念謹慎，使今世後世永無苦患，為無數眾生見輒愛念，死生天上受福自然，是故說曰，是以言語者，必使己無患也。亦不剋眾人者，或有狂夫妄讒良善，使彼興恚以致喪身。言說真誠不譏彼短則無所剋，是故說曰，亦不剋眾人也。是為能善言者，人修善行言必有驗，或說泥洹趣要正路，順從佛教種天之福，是故說，是為能善言也。

> 言葉を用いる者は、まず自らをよく考え、自分を責めることなく、現世でも来世でも必ず苦しみの患いがないようにすべきです。もし現世で悪を行い王の法を犯せば、財産や田畑を宮に没収されたり、盗賊に奪われたりして、暮らしは日々に衰え、願いは必ず思い通りにならなくなります。来世に至れば、死んで地獄・畜生・餓鬼に落ちます。地獄の五つの苦しみは耐え難く、畜生は草を負って重い荷を運ばされ、餓鬼は飢えに苦しみ、その姿はやせ細って極めて苦しいのです。もし言葉を発しようとするなら、よく慎み深く心がけて、現世でも来世でも永遠に苦しみの患いがなく、無数の人々から見るたびに愛され慕われ、死後は天上に生まれて自然に福を受けるようにすべきです。それゆえにこう説かれました。「言葉を用いる者は、必ず自分に患いのないようにする」と。また、人々を責めることなく、ある者は狂った者のように善き人を偽って讒し、相手に怒りを起こさせて身を滅ぼさせることがあります。真実を語り、相手の欠点を責めなければ、何も責めることにはなりません。それゆえにこう説かれました。「また人々を責めることなく」と。これがよく言葉を語れる者です。人が善行を修めれば、その言葉には必ず効果があります。あるいは涅槃への正しい道を説き、仏の教えに従って天の福を種えるのです。それゆえにこう説かれました。「これがよく言葉を語れる者である」と。

言使投意可， 亦令得歡喜，不使至惡意， 出言眾悉可。

> 言葉を投げかけるときは、相手の心にかなうようにし、喜ばせるようにしよう。決して悪意に満ちた言葉を口にしてはならない。語る言葉はすべて、みんなに受け入れられるものにしよう。

言使投意可者，人之處世當習方俗，或相顏而出語，或聽彼進趣而後報，恒適彼人意良宜得所，或現威怒怯怕時人，或現羸弱伏從於人，將護其意令彼得所。是故說曰，言使投意可也。亦令得歡喜者，出言向人必使有益，前人聞者倍用歡喜，不被罵詈來彼罵辱，是故說曰，亦令得歡喜也。不使至惡意者，不施怨於人造不善行，亦不種地獄餓鬼畜生之行。造惡業者，當受三報，是故說曰，不使至惡意也。出言眾悉可者，與人從事恒當謙恭卑下，正使言論得勝，當自鄙不如，是故說曰，出言眾悉可也。

> 人と接するときは、その土地の習慣に従い、相手の顔色を見てから語りかけたり、相手の様子をうかがってから返事をするなど、常に相手の気持ちに合うようにふるまうのがよい。あるときは威厳や怒りを示して人を恐れさせ、あるときは弱々しく見せて人に従う。相手の心をいたわり、心地よくさせるのである。だから「言葉は相手の心にかなうように」と説くのである。 また、人を喜ばせるとは、人に向かって語るときは必ずためになることを話し、聞いた人はいっそう喜び、罵られたり辱められたりすることがないようにすることである。だから「また喜ばせる」と説くのである。 悪い心に至らせないとは、人に恨みを抱かせたり不善な行いをさせたりせず、地獄・餓鬼・畜生の行いの種をまかないことである。悪い業を作る者は三つの報いを受ける。だから「悪い心に至らせない」と説くのである。 言葉がすべての人に受け入れられるとは、人と関わるときは常に謙虚でへりくだり、たとえ議論に勝っても自分を劣った者として卑下することである。だから「言葉がすべての人に受け入れられる」と説くのである。

至誠甘露說， 說法無有上，諦說義如法， 是為立道根。

至誠甘露說者，與人說法當修諸功德，如來法者，甚深微妙善住安隱，一切行無常、一切法無我，泥洹為滅盡，能意御亂，與人說法不懷懈怠，是故說曰，至誠甘露說也。說法無有上者，出言真正輒有所度，趣道之要由是通達，是故說曰，說法無有上也。諦說義如法者，如念真實本際清淨，亦不顛倒不懷虛詐，如法者名句身句味句，真如法性亦不變易，是故說曰，諦說義如法也。是為立道根者，無漏善法永離塵垢，至解脫門逮無礙道，是為立道根也。

說如佛言者， 是吉得滅度，為能斷苦際， 是謂言中上。

說如佛言者，說四意止究生死原係念專意，或說意斷精進不懈，或說神足兼逮定，或說根義於中逮慧根，或說力義成就於力，或說覺意令達覺法，或說八直道分別八道，亦復說若干眾法名身句身味身。如來或說八十千諸度，使眾生類乘此度而度彼岸，是故說曰，說如佛言者。是吉得泥洹者，永寂之處吉無不利，脫眾苦患離諸結使，亦復脫於生老病死憂慼難禍，是故說曰，是吉得泥洹也。為能斷苦際者，所謂苦者五盛陰身，牽致冥室不覩慧明。苦有八相，生苦、老苦、病苦、死苦、怨憎會苦、愛別離苦、所求不得苦，取要言之，五盛陰苦。阿僧祇眾生涉歷苦塗至永寂處，如今眾生履行妙觀，越苦境界至無為岸者，皆由佛恩。是故說曰，為能斷苦際也。是謂言中上者，所出言教無能過上，亦非二乘所能逮及，曠濟無量亦無邊福，是故說曰，是謂言中上也。

### 出曜經行品第十

一法過去， 謂妄語人，不免後世， 無惡不更。

昔佛在舍衛國祇樹給孤獨園。爾時世尊像如經行，漸漸以次至羅云房中，時羅云遙見世尊，即從坐起，更拂拭坐具清淨水。世尊至房偏踞羅云床，取清淨水洗手足，留少殘水告羅云曰：「汝見留此水不？」「唯然已見。」佛告羅云：「沙門執行亦復如是，不知慚愧無有恥辱。羅云當知！設有比丘，如此行者，無惡不更無痛不遭，猶此惡垢水不可淨用。」爾時世尊躬自寫水於地，告羅云曰：「汝見吾寫水在地不乎？」「唯然已見。」「其有至誠執意妄語，不知慚愧無有恥辱，如此之行無惡不涉。」爾時世尊手執水器覆地，語羅云曰：「汝見我覆此器不？」「唯然已見。」「若有至誠執意妄語人，不知慚愧無有羞辱，如此之類無惡不涉。」爾時世尊告羅云曰：「汝今當作是學，彈指戲笑之間不得妄語，況至誠妄語乎？如是羅云！當作是學。」是故說曰，一法過去，謂妄語人。二百五十戒威儀內禁七法所說，犯一法者則受其𠍴，是故說曰，一法過去，謂妄語人也。不免後世者，已捨後世功勳善本，夫人妄語眾人證知，況言重作罪，涉歷艱苦無不周遍，是故說曰，不免後世，無惡不更。

寧噉燒鐵， 吞飲洋銅，不以無戒， 食人信施。

寧噉燒鐵者，猶如鐵丸猛火燒赤，取而吞之，燒脣燒舌燒咽燒腹下過，雖有此苦自致死亡，不緣此入地獄餓鬼畜生受苦無量，是故說曰，寧噉燒鐵，吞飲洋銅也。不以無戒，食人信施者，不持戒人，外荷法服內懷姦詭，信無實行自大憍人，少有所知誇世自譽，受人信施謂宜應爾，不慮後世萬毒加形。見諸持梵行人興輕蔑心，死輒墮惡，身口意不具，亦不修威儀禮節，出入行來違失禁限；見人得養生嫉妬心，死輒受困無罪不受。是故說曰，不以無戒，食人信施也。

若人畏苦， 亦不樂苦，勿造惡行， 念尋變悔。

若人畏苦者，己身畏苦不得施苦於人，施苦於人者後受其報。是身如地，隨其所種各獲其果，眾生之類亦復如是，隨其種罪後受其報，人心不同猶如形像，罪苦追身無有脫者。是故說曰，若人畏苦，亦不樂苦也。勿造惡行者，不得為惡加被一切，夫人自利乃得利人，不能自益安得益人？若處閙中若在閑靜，若大若小，可見不可見，當遠離於惡如避劫燒，是故說曰，勿造惡行，念尋變悔也。

至誠為惡， 已作當作，不免於苦， 欲避何益？

至誠為惡者，或復有人已作當作方作，已作過去、方作現在、當作未來，三世作惡不知苦至，是故說，至誠為惡，已作當作也。不免於苦者，眾生之類心好為惡，不知後罪報至，若於現身犯王者禁，隨罪輕重料簡決斷，此內法禁亦復如是，習惡不自覺，縱情弛意，是故說，不免於惡，欲避何益也。死王閻羅遣獄卒阿傍，迎罪人魂神，身被五繫，將至閻羅王所。王問罪人：「汝頗見第一天使不耶？」對曰：「不見。」王問罪人：「云何男子！汝生在人間時，經過村落城郭郡縣，見諸男女父母懷抱，未能離大小便，父母推燥處濕，沐浴澡洗澥浣衣裳，汝為見不？」對曰：「已見。」王告罪人曰：「汝何不作是慮？於現法中見善惡報，當自謹慎，淨身口意修諸善法。」罪人報曰：「處在人間放意自恣愚不識真，本我所造今受其報。」王告罪人：「如卿來語，卿本自造，今當受報，使放逸人知禁制難犯。汝所作罪業，非父母為，亦非兄弟五親沙門婆羅門所造。」爾時閻羅王以此第一天使教誡，次復第二天使教誡之。「汝頗見第二天使不耶？」對曰：「不見。」王問罪人：「云何男子！汝在人間經過村落郡縣城邑，見諸男女疾病困篤，坐床褥上或坐或臥？」罪人報曰：「已見。」「云何男子！汝何不作是念：『於現在法中其罪如此，當自謹慎，淨身口意修諸善法。』」罪人報曰：「處在人間放逸自恣愚不識真，本我所造今受其殃。」王告罪人：「如卿所說，卿本自造今當受報，使放逸人知制難犯。汝所作罪，非父母為，亦非兄弟五親沙門婆羅門所造，亦非諸天世人教卿所作。」爾時王以此第二天使教誡已，次與第三天使重教誡之。「汝頗見第三天使不耶？」對曰：「不見。」王問罪人：「云何男子！汝在人間經過村落城郭郡縣，見諸老人柱杖呻吟行步脊僂頭白齒落，飲食苦竭命在旦夕。汝為見不？」罪人對曰：「唯然見之。」王問罪人：「云何男子！汝何不作是念：『於現法中其事如此，當自謹慎，淨身口意修諸善法。』」罪人報曰：「處在人間放逸自恣愚不識真，本我所造今受其殃。」王告罪人：「如卿所說，卿本自造今當受報，使放逸人知禁制難犯。汝所作罪，非父母為，亦非兄弟五親沙門婆羅門所造，亦非諸天世人教卿使作。」時閻羅王以此第三天使教誡已，次以第四天使重教誡之。「汝頗見第四天使不？」對曰：「不見。」王問罪人：「云何男子？汝在人間經過城郭郡縣村落，見諸男女有終亡者，或死經一日二日乃至七日，身體膖脹膿血流出，或為烏鵲虎狼所見噉食。汝見不耶？」罪人報曰：「唯然見之。」「云何男子！汝何不作是念：『於現法中其事如此，當自謹慎，淨身口意修諸善法。』」罪人報曰：「處在人間放逸自恣愚不識真，本我所造今受其殃。」王告罪人：「如卿所說，卿本自造今當受報，使放逸人知禁制難犯。汝所作罪，亦非父母兄弟五親沙門婆羅門所造，亦非諸天世人教卿使作。」時閻羅王以此第四天使教誡已，次以第五天使重教誡之。「汝頗見第五天使不？」對曰：「不見。」王問罪人：「云何男子！汝在人間經過城郭郡縣村落，見諸男子偷盜作賊，為王所縛，或截手截脚，或截耳截鼻，或生剝其皮，或拔頭筋，或以鋸鋸頸，或以長橛刺臗從口出，或融銅灌身，或支節解其形，或倒懸於樹經於七日以箭射殺，或生革絡頭反縛野地上棄之曠野，或開腹抽腸以草充之。汝為見不？」對曰：「唯然見之。」「云何男子！汝何不作是念：『於現法中其事如此，當自謹慎，淨身口意修諸善法。』」罪人報曰：「處在人間放逸自恣愚不識真，本我所造今受其報。」王告罪人：「如卿所說，卿本自造今當受報，使放逸人知禁制難犯。汝所作罪，亦非父母兄弟五親沙門婆羅門所造，亦非諸天世人教卿使作。」時閻羅王以此第五天使教誡已，即以罪人付獄卒，將詣鑊湯所，隨罪輕重使入百三十六鑊湯，經歷劫數受苦難量。是故說曰，欲避何益也。

非空非海中， 非入山石間，莫能於此處， 避免宿惡殃。

昔佛在釋翅瘦迦惟羅越國尼鳩類園中。爾時流離王集四種兵，欲往攻伐舍夷國，將諸營從退父王位自立為王。有一惡臣名曰耶利，白流離王：「王本為王子時，至舍夷外家舍，到佛精舍，為釋子所毀辱。時王見勅：『若我為王便啟此事。』今時已到，兵馬興盛。」即勅嚴駕欲往報怨。佛知其意，先至道側坐枯樹下，時流離王躬率兵馬往伐舍夷國，道遇如來，即前禮覲前白世尊：「此間多諸好樹枝葉繁茂，何以捨之坐枯樹下？」佛告王曰：「五親蔭厚不可捨離，昔此樹茂枝葉熾盛，曾經過此得樹蔭力。」王尋退還，還詣兵眾告語上下：「我等宜還不應前進。所以然者？如來今日為彼五親，必佐神力不可攻伐。」臣佐白王：「如來豈能恒坐樹下乎？」如來見流離王去後，知此宿緣不可得避，以宿命智觀其所由，觀諸釋種必當受苦。即從坐而去，還至比丘僧中在眾而坐。時，大目連見如來憐愍五親如有憂悒，往到佛所前白佛言：「今流離王攻舍夷國，念其中人當遭辛苦，欲以方便救接彼國。一者舉舍夷國著虛空中，二者舉舍夷國著大海中，三者舉舍夷國著須彌山腹裏。四者舉舍夷國人著此地下他方世界。令流離王不知其處。」佛告目連：「知卿雖有此智德神足無量，安隱舍夷國人耳，何能安處宿對人耶？」於是目連禮已便退。爾時世尊與諸大眾，敷演其義，欲使正法久存於世，示現宿對永不可避。大眾聞其所說悵然悲泣，愍流離王當報宿緣，在於大眾而說頌曰：

「非空非海中， 非入山石間，莫能於是處， 避免宿惡殃。」眾生有苦惱， 不得免老死，唯有仁智者， 不念人非惡。

眾生有苦惱者，若見他人非法之事，覺寤比丘專念五法，然後興發人意。云何為五？一者謂為前人契經不流利，二者戒不成就，三者定意不具，四者愚無𭶑慧，五者諸漏不盡。是故說曰，眾生有苦惱，不得免老死也。唯有仁智者，欲止彼人當自謹慎，己自為穢復止他者，為人所譏嗤其所為。是故智者終已遠離，縛中牢者莫若緣對，縛處在泥犁，無有繫縛者，隨罪輕重各受其報。是故說曰：唯有仁智者，不念人非惡也。

妄證求賂， 行己不正， 怨譖良人，以枉治士， 罪縛斯人， 自投在坑。

妄證求賂者，或有眾生不自量己，內不思惟，恒求人短，見非則喜、見善不從，所行眾事以邪為正，是故說曰，妄證求賂，行己不正也。怨譖良人者，或有良善之人，意在貪學，衣不蓋形食不充口，為愚者所輕，障塞其德不使顯現，緣是致咎，復當經歷百三十六地獄，從一地獄至一地獄，其中受苦不可稱計。以融銅為食，以釜湯為室，以膿血為盛饌，以髓腦為脂澤。畢彼罪已來入畜生，受形若干志趣不同，或高或下，食以芻草擔負重載，皆由先世抵突所致。若生餓鬼，以空氣充腹以鍼刺腹，內氣泄出尋還滿腹，猶如羅縠觀空表裏悉現。是故說，怨譖良人，以枉治士也。罪縛斯人者，行對追身如影隨形，奔趣五道涉苦無量，所至到處不離四縛五結，設處為人恒在牢獄繫閉，身被考掠求死不得，是故說曰：罪縛斯人，自投于坑也。

夫士為行， 好之與惡， 各自為身，終不敗亡。

夫士為行者，一切有形眾生之類，心念口言身口意行，是故說，夫士為行也。好之與惡者，或善不善，若好若醜，若苦若樂，或苦痛樂痛，斯名善惡皆由行興，是故說，好之與惡也。各自為身者，人為善惡，若苦若樂若好若醜，盡當受報無免之者，善生天上惡入地獄，是故說，各自為身。終不敗亡也，夫善惡之行猶形影相追，受對由行終不毀敗，正使天焦地融須彌崩頹海水枯涸、日月墮地星宿凋落，善惡之報終不毀敗。於是頌曰：

「動轉屈申， 影常親附， 或起或住，不離其形。 不但影隨， 形亦隨影，猶行善惡， 終不相離。 是故說終，不敗亡也。」

好取之士， 自以為可， 沒取彼者，人亦滅亡。

好取之士者，夫人自善其身，不當念彼長短，亦莫譏別，擇地取要。若詭欺於人虛妄不實，於百千生沒彼生此恒為人欺，展轉受報不離縛著，隨本作行今受其報。如種果樹，苦得苦果甜得甜果。善惡之報亦復如是，善受天福惡報地獄。是故說曰，好取之士，自以為可，沒彼取者，人亦沒亡也。

作惡不起， 如兵所截， 牽往不覺，己墮惡道， 後受苦報， 乃知前習。

作惡不起者，愚人思慮不與善俱，晝夜興想殺盜婬妷犯十惡行，是故說，作惡不起也。如兵所截，終不還變有迴顧心。何以故爾？愚人自作是念：「檀越施主素自貧匱，慳嫉之人反更富貴。」是以愚者見此譏變，執意遂堅心不開悟。是故說曰，作惡不起，如兵所截也。牽往不覺，己墮惡道者，不知現世後世所作善惡諸不善行，不慮後當無有覆護，是故說曰，牽往不覺，己墮惡道也。後受苦報，乃知前習者，昔有居士戒勅家人以雉為食，先持雉肉著釜中，然後方覓火煮之，不覺蛇墮釜中。居士食法，要當問師，師曰：「此不可食。」不從師教遂便食之。經宿蛇毒內發，方更問師，師曰：「不從我命，知當如何？」爾時醫師向彼而說頌曰：

「貪味遂食毒， 不從吾往言，為毒之所困， 後乃自覺悟。」

爾時世尊告眾會人：「當為是離是，夫人為惡死入地獄，修行善者受彼天福。然此眾生者有來久，不計無常遷變之事，不受如來真實至教，謂惡為善、以是為非。」爾時世尊便說此偈：

「愚心不開悟， 習惡不從吾，受苦地獄痛， 後乃憶真教。」

後受苦報，乃知前習者，地獄燒炙痛，餓鬼飢饉苦，畜生常重苦，是故說曰，後受苦報，乃知前習也。

兇人行虐， 沈漸數數， 快欲為之，罪報自然。

昔佛在舍衛國祇樹給孤獨園。爾時拘薩羅國波斯匿王，在閑堂空室自生想念：「何等眾生不自念己？」時王復重思惟：「諸有身口意念惡顛倒者，是謂斯人不自念己。云何眾生而自念己？若有眾生身口意行清淨，是謂斯人為自念己。」爾時王波斯匿即從閑堂靜室起，即嚴駕羽寶車將諸營從至世尊所，到已頭面禮足在一面坐，須臾退坐前白佛言：「向在閑堂靜室自生心念：『何等眾生自念己？何等眾生不自念己？』時我，世尊！復重思念：『諸有身口意念惡顛倒者，是謂斯人不自念己。云何眾生而自念己？若有眾生身口意行清淨，是謂斯人為自念己。』」爾時世尊告波斯匿曰：「如是！如王所言。諸有身口意行不清淨者，其人則不自念己。若有身口意清淨者，則為自念己。所以然者？大王當知，諸有不自念己，為自減損、興不善法。諸有身口意行清淨者，則自為己。所以然者？以其人修清淨行故。」爾時尊者馬聲便說斯偈：

「夫人習惡者， 不慮後世緣，為惡自受殃， 殃身永不滅。」

是故說曰，兇人行虐，沈漸數數。快欲為之，罪報自然者，所生之處受其惡報，生地獄中榜笞無量，餓鬼中愚惑為苦，生畜生中償罪為苦，若生人中行缺為苦。是故說曰，快欲為之，罪報自然也。

凡人為惡， 不能自覺， 愚癡快意，後受欝毒。

凡人為惡，不能自覺者，凡夫愚人恒懷愚惑，恣情為惡不能改更，亦不知後受其報，猶如有人行過山嶮，兩邊嶮峻閉眼而過，不知身危或致命終。此凡夫人亦復如是，生盲無智，亦不知後當受報，是故說曰，凡人為惡，不能自覺也。愚癡快意，後受欝毒者，有智之士明眼視瞻，猶如一趣之道有大火坑，行人經過先不諳道，明者指授語行人曰：「中道有大火坑不得經過，卿等可於此息意，勿復前行。」諸人意勇不信其語，各共進前皆墮火坑，受痛甚苦號天喚呼悔亦無及，自相謂言：「智人所勅不從其教，今受苦痛知當訴誰？」此眾生顛倒亦復如是，一向趣人道為智人所訶止：「道多艱難有欝毒痛，卿等設欲前進，必遇此患不免其難。」是故說曰，愚癡快意，後受欝毒也。

夫人行惡， 還自熾然， 啼泣流面，後受其報。

夫人行惡者，純惡不善不念不喜，是故說夫人行惡也。還自熾然者，若人懷變悔心，知有愁憂之惱，晝夜憂思以致煩熱，是故說曰，夫人行惡，還自熾然也。啼泣流面者，晝夜悲泣，蓬頭亂髮舉聲悲泣，是故說，啼泣流面也。後受其報者，酸苦無量不可愛樂，兼有愁憂苦惱艱難無數憂慮百千，是故說，後受其報也。

吉人行德， 相隨積增， 甘心為之，福應自然。

吉人行德者，猶如有人行應得至，為天人所恭敬，歎譽其德，稱揚善名，四遠皆聞，無數諸人皆來供養，是故說，吉人行德也。相隨積增者，晝夜喜慶無有憂愁，心意歡悅無有煩熱，是故說，相隨積增也。甘心為之，福應自然者，若生天身福應自然，宮室百億五色玄黃快樂無極，若生人間，五樂自娛作倡伎樂以自歡悅，心意怡然不興亂想，是故說，甘心為之，福應自然。

戲笑為惡， 已作身行， 號泣受報，隨行罪至。

戲笑為惡者，善惡之行皆有輕重，身口意造非獨一類，或依己身戲笑為惡，觸嬈眾生不安其所，或以瓦石刀器共相傷害，或合會彼此由致鬪訟，猶如世人好喜鬪羊鬪雞、鬪駝鬪牛鬪人鬪象。或以罵詈來往，見以歡喜不能自勝，若其壽終啼哭受苦。是故說，戲笑為惡，已作身行，號泣受報，隨行罪至也。

惡不即時， 如𤛓牛乳， 罪在陰伺，如灰覆火。

惡不即時者，夫人造行報不即應。昔有異國生即應草，若以彼草著乳中者，即成為酪不移時節，是故說曰，惡不即時，如𤛓牛乳也。若不爾者，其義云何？答曰：「愚者被燒，然後乃悟。」罪在陰伺，如灰覆火者，猶若以灰覆火，人不覺，足往蹈之，漸漸熱徹乃知燒足。此眾生類亦復如是，當行惡時甘心悅豫，若壽終後身墮惡道五毒加治，乃自覺悟方知罪至。是故說，罪在陰伺，如灰覆火也。

惡不即時， 如彼利劍， 不慮後世，當受其報。

惡不即時者，或有眾生習其惡本，壽經百年自恃年壽謂為無罪，自相謂言：「人之為惡皆謂有罪，我躬行之方便延壽。」諸有屠兒獵師自興誹謗，謂沙門瞿曇行不真實，好行妄語虛辭萬端，教勅弟子言：「諸有殺生傷害人物者，身壞命終，當入地獄畜生餓鬼受苦無量。」是故世尊躬說偈曰：

「惡為惡所纏， 為惡不自覺，至惡知惡至， 受惡惡根原。」

時彼屠兒聞佛所說猶不改更，是故說曰：「惡不即時，如彼利劍，不慮後世，當受其報。」報對卒至乃知為惡，復當經歷地獄餓鬼畜生，是故說，不慮後世，當受其報也。

如鐵生垢， 反食其身， 惡生於心，還自壞形。

如鐵生垢者，猶如淨鐵及明淨鏡，瑩治淨潔無有塵垢，然其人藏隱不牢，或在土中或在濕地，便生重垢，觸便碎散不任本用。猶如利刀人所愛敬，恒自防備不離其身，中便忘誤安置不牢，便生塵垢本鐵不存，追惟此刀乃無有價，一朝壞敗不可任用，是故說，如鐵生垢，反食其身也。彼修行人亦復如是，為貪欲所覆閉，不慮後世殃舋眾惱，與惡知識從事，不以善為友，緣是故殃自毀其根，不修梵行，婬妷不淨，已自招患而受其報。是故說曰，惡生於心，還自害形也。

## 出曜經卷第十一