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title: "出曜經 · 13 道品"
description: "出曜经是姚秦时期著名译经师竺佛念所译的佛教经典，属于早期汉传佛教重要文献之一。该经主要阐述佛陀的教法，内容涵盖修行方法、因果业报、戒律规范等核心教义，具有鲜明的实践指导意义。竺佛念作为五世纪初重要译经家，其译文准确流畅，对佛教在中国的传播影响深远。出曜经不仅反映了早期佛教思想体系，也为研究中国佛教发展史提供了珍贵资料，在汉传佛教经典中占有重要地位，是了解原始佛教教义的重要参考典籍之一。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmczndjkg1mttjj04h7t195tf"
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### 出曜經道品第十三

> 『出曜経』道品 第十三

八直最正道， 四諦為法迹，是道名無為， 以錠滅愛冥。

> 八つの正しい道が最もすぐれた道であり、 四諦は法の歩みです。 この道は無為と呼ばれ、 心の灯で愛の闇を滅ぼします。

八直最正道者，云何名為正直？四諦。為義處為四？為緣果為四？以聚故為四？若義故為四者，是謂三也。記苦則無習、記習則無苦，是謂一盡二道三苦。緣果為四者，是謂五。由苦有緣、亦緣有果，道亦如是，盡諦為五。若以聚為四者，是謂八。先從欲界斷苦，後色界、無色界為二，乃至道亦如是。立此義已復有說者，從緣果義名為五。苦者亦由緣亦由果，盡名苦迹有迹貪迹慳迹也。有難者道亦有緣有果，盡名苦迹，亦名有迹亦名慳迹。何以故此中不立二諦？答曰：「制彼論故亦有因緣也，於彼苦習興二論，亦無苦亦無習，欲制此二論，故有苦有習。道者有緣有果，則生一論言無道也，欲制此一論故有道，是故說有四諦非五諦。」更有說者，以聚故立此論言有八。答曰：「以聚義一相，欲界苦、色無色界苦盡集聚已，欲界行緣、色無色行緣盡集已，興出生相；欲界行盡，色無色行盡，盡集已，名休息相；欲界行對、色無色行對盡集已，名出要相。」是故說，名為四諦。如慧所觀者，知有累無累念知出要，是故說，四諦為法迹。是道名無為者，安隱泥洹滅盡無為盡捨諸苦，是故說，是道名無為。以錠滅愛冥者，愛有亦有三，欲有、色有、無色有，彼牢固愛縛著愛，主生亂想多諸苦惱，由何而斷？答曰：「賢聖八道永斷不生。」是故說，以錠滅愛冥。

> 八直最正道とは何か。何を正直と呼ぶのか。それは四諦である。意味の上から四つとするのか、縁と果から四つとするのか、集まりによって四つとするのか。もし意味の上から四つとするなら、それは三つとなる。苦を記せば集はなく、集を記せば苦はない。これが一に尽、二に道、三に苦である。縁と果から四つとするなら、それは五つとなる。苦には縁があり、また縁には果がある。道も同じである。滅諦を加えて五つとなる。もし集まりによって四つとするなら、それは八つとなる。まず欲界から苦を断ち、後に色界・無色界を二つとする。道についても同じである。この意味を立てた上で、さらにこう説く者がある。縁と果の意味から五つとする。苦は縁によってもあり果によってもある。滅は苦の跡・有の跡・貪の跡・慳の跡と名づける。難じる者があって言う。道にもまた縁があり果があり、滅は苦の跡と名づけ、また有の跡とも慳の跡とも名づける。なぜここで二諦を立てないのか。答えて言う。「あの論を制するために、また因縁もある。あの苦と集について二つの論が起こり、苦もなく集もないとする。この二つの論を制するために、苦があり集があるとする。道には縁があり果があり、すると一つの論が生じて道はないと言う。この一つの論を制するために道がある。それゆえ四諦を説いて五諦とはしない。」さらに説く者があり、集まりによってこの論を立てて八つと言う。答えて言う。「集まりの意味は一つの相である。欲界の苦、色界・無色界の苦をことごとく集め終われば、欲界の行の縁、色界・無色界の行の縁をことごとく集め終われば、出生の相が起こる。欲界の行の尽き、色界・無色界の行の尽きを、ことごとく集め終われば、休息の相と名づける。欲界の行の対、色界・無色界の行の対をことごとく集め終われば、出要の相と名づける。」それゆえ説いて、四諦と名づける。慧が観るところのもののように、累があるか累がないかを知り、出要を念じて知る。それゆえ説いて、四諦は法の跡である。この道を無為と名づけるのは、安隠なる泥洹、滅尽無為にして、すべての苦を尽く捨てるからである。それゆえ説いて、この道を無為と名づける。灯をもって愛の冥を滅するとは、愛には有がまた三つある。欲有・色有・無色有である。かの牢固なる愛、縛著の愛は、乱想を生じ主となり、多くの苦悩がある。何によって断ずるのか。答えて言う。「賢聖の八道によって永く断じて生じない。」それゆえ説いて、灯をもって愛の冥を滅すると。

慧離諸淵， 如風却雲， 已滅思想，是為慧見。

> 智慧はすべての深いとらわれから離れ、 風が雲を吹き払うようであり、 想いの働きがすでに静まったとき、 それが智慧による見解です。

慧離諸淵者，非圖一類淵有若干，或言風塵或言深水，塵者污人身體老少不別，令人目視不明衣裳垢坋，上弊日月使無精光，妨人遠視真偽不別。時，龍王慈愍愍世愚惑，欲使離此諸難，便降涼風細雨，掩塵滅霧曤然大明。是故說，慧離諸淵，如風却雲也。彼執行人專精一意滅內塵想。想者有三：欲想、恚想、癡想。此三想者亦不為塵主生亂念，敗壞智慧不至究竟，遮智慧目不覩四諦，垢染法身使不清明；能制此意不興諸想，是故說，已滅思想，是為慧見。

> 智慧が諸々の深い淵から離れているとは、一つの種類の淵だけを指すのではありません。淵にはいくつかあり、あるものは風の塵と言い、あるものは深い水と言います。塵とは人の体を汚し、老いも若きも区別せず、人の目を曇らせて物がよく見えなくし、衣服を汚します。また日月を覆い隠してその光を失わせ、遠くを見ることを妨げ、真と偽の区別をできなくさせます。そこで龍王は世の愚かな人々を慈しみ哀れみ、このような災いから離れさせようと、涼しい風と細やかな雨を降らせ、塵を覆い霧を消して、はっきりと大きく明るくしました。それゆえ「智慧は諸々の淵を離れる、風が雲を払うがごとし」と説かれるのです。その修行者は一つに心を集中し、内なる塵の思いを滅ぼします。思いには三つあります。欲の思い、怒りの思い、愚かな思いです。これら三つの思いはまた塵となって乱れた心を生じさせ、智慧を損なって究竟に至らせず、智慧の目を遮って四諦を見ることができなくし、法身を汚して清らかで明らかでなくさせます。この心を制して諸々の思いを起こさないようにできる、それゆえ「すでに思想を滅ぼした、これが智慧の見るということである」と説かれるのです。

智為世長， 惔樂無為， 智受正教，生老死盡。

> 智慧は世の導き手となり、静けさの中で無為の喜びに親しみ、智慧によって正しい教えを受け、生・老・死が尽きる。

智為世長者，為最為上為微為妙，亦名三義。云何為三？一為事義，二為見義，三為緣義。亦名眼義、首義、道義、覺義、賢聖出要義。以此普照諸法，猶如外物有所照明。外物者，日月星宿衣服宮殿，名入一界、入一入、入一陰、入一道。入一界，色界也；入一入，色入也；入一陰者，色陰也；入一道者，現在道也。以此智慧光明，照十八界十二入五陰，當來過去現在世以智慧普有所照，多所饒益多所成就。是故說，智為世長也。惔樂無為者，乘此智慧遠離生死，善能分別不懷猶豫，亦復分別四諦不懷狐疑，是故說，惔樂無為也。知受正教，生老死盡者，所以受苦者由其有生，若無生者何有苦哉？猶如培的眾箭競射，是身如是眾苦染著，是故說，智受正教，生老死盡也。

> 智慧は世の長者であり、最もすぐれ、最も高く、きわめて微細で、きわめて妙なるものです。また三つの意味とも呼ばれます。三つとは何か。第一は事の意味、第二は見の意味、第三は縁の意味です。また眼の意味、首の意味、道の意味、覚の意味、賢聖の出要の意味とも呼ばれます。この智慧によってすべての法を普く照らすことは、ちょうど外の物を照らし出すようなものです。外の物とは、日月・星宿・衣服・宮殿であり、一界に入り、一入に入り、一陰に入り、一道に入るといいます。一界に入るとは、色界のことです。一入に入るとは、色入のことです。一陰に入るとは、色陰のことです。一道に入るとは、現在の道のことです。この智慧の光明によって、十八界・十二入・五陰を照らし、未来・過去・現在の世を智慧をもって普く照らし、多くの利益を与え、多くのことを成し遂げます。それゆえ「智は世の長なり」と説かれるのです。惔楽無為とは、この智慧に乗じて生死を遠く離れ、よく分別してためらいを抱かず、また四諦を分別しても狐疑を抱かないことです。それゆえ「惔楽無為なり」と説かれるのです。正教を受けて知り、生老死が尽きるとは、苦を受けるのは生があるからであり、もし生がなければどうして苦がありましょうか。ちょうど的をねらって多くの矢が競って射るように、この身はこのように多くの苦に染め著けられています。それゆえ「智は正教を受け、生老死は尽きる」と説かれるのです。

道為八直妙， 聖諦四句上，無欲法之最， 明眼二足尊。

> 道は八つの正道が最もすぐれ、聖なる真理は四つの教えが最もすぐれています。 欲望のないことが法の中で最もすぐれており、明らかな目を持つ二足の尊き方であられます。

道為八直妙者，外道異學意欲習道，斷穀絕糧以為淨行，或臥灰糞不著文飾，或露形倮跣形體不覆，或臥棘刺枕石漱流，或編髮為衣，或觀樹葉習算呪術，或事水火日月星辰，或投高山或入深水，謂為成道。世尊說曰：「此非真道非至要處，非善知識所習；此道非妙，非賢聖所習。如此眾道，賢聖八品道為最為上。」是故說，道為八直妙也。聖諦四句上者，猶眾多外道異學皆修妄諦，在閑靜處日夜苦行，或事山鳥禿梟鵄鵂，或事獐鹿鷄狗蛇蚖，謂為真實得至滅度無為無作，得至泥洹至解脫門永離憂惱。世尊說曰：「此非真道非至要處，真實諦者四諦是也，得至無為滅盡之處。」是故說，聖諦四句上也。無欲法之最者，如契經所說，三事最第一也，一為佛二為法三為眾。所謂法者，有為法無為法，愛盡無欲滅盡泥洹，真實法者最尊最上無能過者，是故說，無欲法之最也。明眼二足尊者，諸有眾生，無足二足四足及眾多足，有色無色有想無想，乃至非想非無想，如來於中最尊最上無能過者，是故說，明眼二足尊也。

> 道は八つの正道こそがすぐれている、と説かれるのは、なぜでしょうか。外道や異なる学派の人々は、道を修行しようとして、穀物を断ち食事を絶つことを清らかな行いとし、あるいは灰や糞の上に横たわり飾りを身につけず、あるいは裸で裸足のまま体を覆わず、あるいは棘の上に横たわり石を枕にし流れで口をすすぐ者もいれば、髪を編んで衣とする者、木の葉を観じて占いや呪術を習う者、火や水、日月星辰に仕える者、高い山に身を投げたり深い水に入ったりする者もいて、これを道を成し遂げることだと言っています。しかし世尊はこう説かれました。「これは真の道ではなく、肝心なところでもなく、善き師の行うところではない。この道はすぐれたものではなく、賢聖の行うところではない。このような多くの道の中で、賢聖の八つの道が最もすぐれ、最も上である。」それゆえ「道は八つの正道こそがすぐれている」と説かれるのです。 聖なる真理の四つの項目が最もすぐれている、と説かれるのは、なぜでしょうか。多くの外道や異なる学派はみな誤った真理を修行し、静かな場所で日夜苦行に励み、あるいは山の鳥や禿梟・鵄鵂に仕え、あるいは獐鹿・鶏狗・蛇蚖に仕えて、これを真実として滅度・無為・無作に至り、泥洹に至り、解脱の門に至って永遠に憂いや悩みを離れるのだと言っています。しかし世尊はこう説かれました。「これは真の道ではなく、肝心なところでもない。真実の真理とは四諦のことである。これによって無為の滅尽の境地に至るのである。」それゆえ「聖なる真理の四つの項目が最もすぐれている」と説かれるのです。 欲望のない法が最もすぐれている、と説かれるのは、契経に説かれるとおり、三つのものが最も第一であるからです。一つは仏、二つは法、三つは僧です。いわゆる法には、有為の法と無為の法があり、愛が尽きて欲望がなくなり滅尽した泥洹、これが真実の法であり、最も尊く最もすぐれており、これに勝るものはありません。それゆえ「欲望のない法が最もすぐれている」と説かれるのです。 明らかな眼を持つ二足の者の中で最も尊い、と説かれるのは、すべての生きとし生けるもののうち、足のないもの、二本足のもの、四本足のもの、多くの足を持つもの、色あるもの色なきもの、想あるもの想なきもの、さらには非想非無想に至るまで、如来はその中で最も尊く最もすぐれており、これに勝るものはありません。それゆえ「明らかな眼を持つ二足の者の中で最も尊い」と説かれるのです。

一切行無常， 如慧所觀見，若能覺此苦， 行道淨其迹。

> すべてのものは移り変わり、とどまることがありません。 それは智慧をもって見れば、よくわかることです。 この苦しみに気づくことができたなら、 道を歩み、心を清めていくことができるでしょう。

一切行無常者，變易不停不可恃怙，猶電過目琢石見火焰現已滅，是故說，一切行無常也。如慧所觀見者，知之穢漏非真非實，為磨滅法皆歸滅盡，是故說，如慧所觀見者。若能覺此苦者，厭患此苦意不願樂，念求解脫永欲捨離，是故說，若能覺此苦也。行道淨其迹者，常念修持無上正道，見諦所斷能淨其迹，是故說，行道淨其迹也。

> 一切の行は無常であり、変わり続けて止まることがなく、頼りにすることはできません。まるで稲妻が目を過ぎるように、また石を琢いて火の炎が現れてはすぐに消えるようなものです。だからこそ「一切の行は無常である」と言うのです。智慧によって観察する者が知るように、煩悩や漏れは真実ではなく、磨滅する法であり、すべては滅び尽きるものです。だからこそ「智慧によって観察する者のように」と言うのです。もしこの苦しみに気づくことができれば、この苦しみを厭い、心に願い楽しむことなく、解脱を求めることを念じ、永遠に捨て離れようと欲するでしょう。だからこそ「もしこの苦しみに気づくことができれば」と言うのです。道を行きその跡を清める者は、常に無上の正しい道を修め保ち、真理を見て断たれたものはその跡を清めることができます。だからこそ「道を行きその跡を清める」と言うのです。

一切眾行苦， 如慧之所見，若能覺此苦， 行道淨其迹。

> すべての行いは苦しみであると、 智慧ある者が見るように、 この苦しみに気づくことができれば、 道を歩み、その跡を清めることができる。

一切眾行苦者，從欲界上至有頂，斯是苦際，若在欲界求離苦難，若在色界數變易苦，若在無色界受行為苦。是故世尊說：「生死熾然一切為苦，流轉五趣不免其苦，誰當樂此眾苦之中？」是故說，一切眾行苦也。如慧之所見者，夫博學之士探古知今，三世通達如掌觀珠皆悉分明，是故說，如慧之所見。若能覺此苦者，以知此苦欲得遠離，意常厭患不與同處，是故說，若能覺此苦也。行道淨其迹者，唯有賢聖道能淨苦迹，是故說，行道淨其迹也。

> すべての行いは苦であるとは、欲望の世界から最上の世界に至るまで、これが苦の極みです。欲望の世界にあっては苦しみから離れることを求め、色の世界にあっては絶えず移り変わる苦しみを受け、色もない世界にあっては行いそのものが苦しみとなります。だからこそ世尊は説かれました。「生死は激しく燃え盛り、すべてが苦である。五つの世界を巡り流転して、その苦しみを免れることはできない。誰がこの多くの苦しみの中で楽しむことができようか。」こうして、すべての行いは苦であると説かれたのです。智慧によって見るとは、博学の士が古きを尋ね今を知り、三世を掌中の珠を見るようにすべて明らかに見通すことです。だからこそ、智慧によって見るように説かれたのです。もしこの苦しみに気づくことができれば、この苦しみを知って遠く離れようと願い、心は常に厭い患い、それと同じ場所にとどまることはありません。だからこそ、もしこの苦しみに気づくことができればと説かれたのです。道を行じてその足跡を浄めるとは、ただ賢聖の道だけが苦しみの足跡を浄めることができるのです。だからこそ、道を行じてその足跡を浄めると説かれたのです。

一切眾行空， 如慧之所見，若能覺此苦， 行道淨其迹。

一切眾行空者，眾行轉變，不可恃怙亦不常住，生生即滅流逝不停，苦空無我，空性自爾亦非不爾，是故說，一切眾行空也。如慧之所見者，猶如大士觀彼淨水，自見其形皆悉分明。彼修行人亦復如是，觀諸眾行，起者滅者無所罣礙，是故說，如慧之所見也。若能覺此苦者，從初積行乃至成道，其間涉苦不自覺知，為苦所惑不至究竟。如吾今日成得人身，遭遇佛世賢聖相值，長夜染著五盛陰身，今乃自覺知為非真，如我今日觀此五盛陰眾苦集湊，是故說，若能覺此苦也。行道淨其迹者，以苦未知智而滅其跡，至竟清淨而無瑕穢，盡苦原本令得清淨，是故說，行道淨其迹也。

一切行無我， 如慧之所見，若能覺此苦， 行道淨其迹。

一切行無我者，無欲無作故一切法無我，以不堅固故一切法無我，不自由故一切法無我，是故說，一切行無我。如慧之所見者，慧之所鑒照察，三十七道品之法，猶如有人照於明鏡，悉自見形無所罣礙。此亦如是，以慧觀察皆悉分明，是故說，如慧之所見也。若能覺此苦者，彼修行人長夜之中，為此五盛陰身所見侵欺，計是我有、我是彼所；以實觀之，便生厭患能離解脫。是故說，若能覺此苦也。行道淨其迹者，住十五心以見諦道斷無常苦空無我永盡無餘，以其四行由苦而生，苦諦所錄，苦未知智斷，是故說，行道淨其迹。

吾已說道， 愛箭為射， 宜以自勗，受如來言。

吾已說道者，或有眾生懈怠慢惰，自相謂言：「若使如來神力自在者，何能不使我等早成道果？又復不能躬自執道內我形中。」猶如契經所說，有異梵志來至世尊所，而問斯義說偈曰：

「我觀天世人， 梵志行清淨，今我重自歸， 解我狐疑滯。」

此為何義？說曰，彼梵志者受性頑鈍懈怠慢惰，欲使瞿曇沙門與我說道早成其果，使我體中結使速得滅盡。世尊說偈報曰：

「吾不解脫卿， 淨行世梵志，欲求極妙道， 如是得度流。」

此為何義？報曰，梵志已欲求道不假他得，若假他得者，我坐樹王下，則能滅一切眾生心意結使，亦以大慈加被眾生。梵志當知，不究病根錯投其藥，欲蒙祐者其義不然也。此亦如是，己不修道，望彼果報除己結使，此義不然。猶如梵志，良師達鑑審病根原，隨病所生而投其藥，便得瘳愈終無錯謬。此亦如是，以賢聖道觀病根原而投其藥，身中結使永得除盡。或有比丘內自思惟：「如來出現於世，大慈大悲廣被眾生，何須勞苦躬自行道，為結使所逼不能得度？若使如來普慈一切，自當為我演說道教，何故不獨與我除去結使？」爾時世尊知彼心中所念，是故說，吾已說道也。愛箭為射者，我先覺知，後與人說。猶如醫師，先學方略審病根原，毫釐不失然後投藥。此亦如是，先成道果，知己結使永盡無餘，然後與人說結使病一一分別，乃投道藥永無塵曀，以無上利箭射彼結使。是故說，愛箭為射也。宜以自勗者，演道之人為人說道，直趣一向不隨邪曲者，成道則易得受果證。如來世尊亦復如是，與人說道，道者無形無為無作安隱滅盡泥洹。出言如教亦無虛妄，猶如父愛子，隨時瞻養推燥去濕，復以甘饌飲食食彼諸子；諸子放逸不從父教，貪著五欲不從正教。如來世尊亦復如是，廣與眾生演甘露法，復以善權方便重說微妙法；眾生不肯承受。是故說，宜以自勗，受如來言也。

> これはどういう意味でしょうか。答えていうには、梵志よ、すでに道を求める心があるなら、他人の力を借りて得る必要はありません。もし他人の力で得られるのなら、私が菩提樹の下に座ったとき、すべての衆生の心の結使を滅ぼし、また大きな慈しみで衆生を覆うことができるはずです。梵志よ、知っておきなさい。病の根源を究めずに誤って薬を与えれば、加護を得ようとしてもその意味は成り立ちません。これも同じです。自分で道を修めずに、他人の果報によって自分の結使が除かれると望むのは、道理に合いません。ちょうど梵志よ、優れた師が鑑識をもって病の根源を詳しく見極め、病の起こるところに応じて薬を与えれば、たちまち癒えて少しの誤りもないのと同じです。これも同じです。賢聖の道をもって病の根源を観察して薬を与えれば、身の中の結使は永遠に除き尽くされます。あるいは比丘が心の中でこう思うかもしれません。「如来が世に出現され、大きな慈しみと悲しみで広く衆生を覆っておられるのに、なぜわざわざ苦労して自ら道を修行しなければならないのか。結使に逼られて度ることができないではないか。もし如来がすべてを普く慈しむなら、自ら私のために道を説いてくださるはずだ。なぜ私だけのために結使を除いてくださらないのか」と。そのとき世尊はその心に思っていることをご存知になり、それゆえに説かれたのです。私はすでに道を説いたのだと。愛の矢に射られる者について、私はまず自ら悟り、その後で人に説きました。ちょうど医師が、まず方術を学び病の根源を詳しく見極め、毫釐も失わずにそれから薬を与えるのと同じです。これも同じです。まず道果を成し遂げ、自分の結使が永遠に尽きて余りないことを知り、その後で人に結使という病を一つ一つ分別して説き、そして道の薬を与えれば、永遠に塵も曇りもありません。無上の鋭い矢でその結使を射るのです。それゆえに説きます。愛の矢に射られる者であると。自ら励むべきですとは、道を説く人が人のために道を説き、ただ一つの方向へまっすぐ進み邪曲に従わないなら、道を成し遂げることはやすく果証を受けることができるということです。如来世尊もまた同じです。人のために道を説き、その道とは形もなく為すこともなく作ることもなく、安隠にして滅尽の泥洹です。言葉を発すれば教えのとおりで虚妄もありません。ちょうど父が子を愛し、時に応じて養い、乾いたところを押し湿ったところを除き、また甘い食べ物や飲み物をその子らに与えるようなものです。しかし子らは放逸で父の教えに従わず、五欲に貪着して正しい教えに従いません。如来世尊もまた同じです。広く衆生のために甘露の法を説き、また善巧方便をもって重ねて微妙な法を説きます。しかし衆生は受け入れようとしません。それゆえに説きます。自ら励み、如来の言葉を受けるべきであると。

## 出曜經卷第十三