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title: "出曜經 · 2"
description: "出曜经是姚秦时期著名译经师竺佛念所译的佛教经典，属于早期汉传佛教重要文献之一。该经主要阐述佛陀的教法，内容涵盖修行方法、因果业报、戒律规范等核心教义，具有鲜明的实践指导意义。竺佛念作为五世纪初重要译经家，其译文准确流畅，对佛教在中国的传播影响深远。出曜经不仅反映了早期佛教思想体系，也为研究中国佛教发展史提供了珍贵资料，在汉传佛教经典中占有重要地位，是了解原始佛教教义的重要参考典籍之一。"
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## 出曜經卷第十五

> 『出曜経』巻第十五

姚秦涼州沙門竺佛念譯

> 姚秦涼州沙門竺仏念訳

### 利養品下

> 利養品 下

「芭蕉以實死， 竹蘆實亦然，駏驉坐妊死， 士以貪自喪。」

> 芭蕉は実を結んで枯れ、竹や蘆も同じように実を結んで枯れる。駏驉は妊娠によって死に、人は貪りによって自らを滅ぼす。

芭蕉以實死者，皮皮相裹葉葉相連，欲求其實終不可得，彼樹常宜，根生一芽樹便輒死，竹蘆實亦然。是故說，芭蕉以實死。竹蘆實亦然也。士以貪自喪者，所謂士者。勇猛大將能却外敵內姦不起，如此之比乃名大將，然彼大將思慮不出眾人之表，貪入深陣不能自出於中自喪。或復有人。內實怯弱外現勇悍，設遭戰鬪之日見敵便懼，賞賜之際思在上首。調達比丘亦復如是，受人信施日噉五百釜食自稱勇悍，能與結使眾敵共戰反招禍患，是故說，士以貪自喪也。駏驉坐妊死者，猶如駏驉欲深，固情交通自致其禍，既自喪身復殺其子，不能自安安能安人？調達比丘由此利養身壞命終入阿鼻地獄，所謂自陷於罪。云何亦陷他人？使阿闍世太子所施財貨不可稱計，然不致果報不獲其福，是謂亦陷他人。二罪交集故致喪身，是故說，駏驉坐妊死。

> 芭蕉は実を結ぶと枯れてしまう。皮が皮を包み、葉が葉と連なっていて、その実を求めてもついに得ることはできない。あの木はふだんはよく育つが、根から一つの芽が生えると、木はすぐに枯れてしまう。竹や葦も実を結べば同じである。だから「芭蕉は実によって死ぬ」と言うのである。竹や葦も実を結べば同じだというのは、そういうことだ。 人が貪りによって自らを滅ぼすとはどういうことか。ここでいう「士」とは、勇猛な大将軍で、外敵を退け、内なる奸(よこしま)が起こらないようにできる者のことである。このような者だけを大将と呼ぶ。しかしその大将が、思慮が人並みを超えることもなく、貪りが深い陣の中に入り込み、そこから自分で抜け出せずに自滅してしまうことがある。 またある者は、内心は実に臆病で弱いのに、外には勇ましく荒々しい姿を見せる。いざ戦いの日になれば敵を見て恐れおののき、恩賞をいただく段になれば自分が一番先にと望む。調達(提婆達多)比丘もまた同じである。人々の信と施しを受け、日に五百釜もの食べ物を食べながら、自分は勇ましく強いと言い、結使(煩悩)という多くの敵と戦えると称しながら、かえって災いを招いてしまった。だから「士は貪りによって自らを滅ぼす」と言うのである。 駏驉(けく)が孕(はら)むために死ぬとはどういうことか。駏驉は欲が深く、情のままに交わり、自ら災いを招く。自分の身を滅ぼすだけでなく、その子まで殺してしまう。自分すら安らかにできないのに、どうして人を安らかにできようか。調達比丘は、この利養(利益の施し)によって身を滅ぼし、命終ののち阿鼻地獄に堕ちた。これが「自ら罪に陥る」ということである。 では、どうして他人までも陥れるのか。阿闍世太子に施させた財貨は、数えきれないほどであった。しかしそれは果報に至らず、福を得ることもなかった。これが「他人までも陥れる」ということである。二つの罪が重なり合ったために身を滅ぼすこととなった。だから「駏驉は孕むために死ぬ」と言うのである。

如是貪無利， 當知從癡生，愚為此害賢， 首領分在地。

> 貪りは利益をもたらさないと、こう知るべきです。 それは愚かさから生じます。 愚かな者はこれによって賢者を害し、 その頭は地に落ちることになるのです。

如是貪無利者，調達比丘，學致神足為已招禍，設不得神足者，其罪蓋不足言，既貪利養不至究竟，是故說，如是貪無利也。當知從癡生者，皆是凡夫人志不堅固，或從正入邪不自覺知，設得信施快自喜慶，不慮後緣當受其報，是故說，當知從癡生也。愚為此害賢者，諸善之法皆是賢人所習，非是愚者所學，是故說，愚為此害賢也。首領分乎地者，謂調達比丘，通出入息起不淨想，乃至頂法亦復如是，以其神通貪著利養自陷乎罪，是故說，首領分乎地。

> 貪りが利益をもたらさないとは、調達比丘が神通力を得ようとして、かえって災いを招いたことである。もし神通力を得なければ、その罪は語るに及ばないほどであったろう。貪り求めた利養がついに究竟に至らなかったので、「貪りは利益をもたらさない」と説くのである。痴から生じるものは皆、凡夫の志が堅固でなく、あるいは正から邪に入りながら自ら気づかないことを知るべきである。もし信施を得て快く自ら喜び祝っても、後の報いを思わないので、「痴から生じることを知るべきである」と説くのである。愚かさがために賢者を損なうとは、諸々の善き法は皆、賢人が修めるところであり、愚者が学ぶところではない。ゆえに「愚かさは賢者を損なう」と説くのである。首領が地に分かれるとは、調達比丘が出入の息を通じて不浄の想を起こし、さらに頂法に至るまでまた同様であったことをいう。その神通をもって利養に貪着し、自ら罪に陥ったので、「首領が地に分かれる」と説くのである。

愚人貪利養， 求望名譽稱，在家自興嫉， 常求他供養。

> 愚かな人は利益や供養を貪り、名声や称賛を求めてやまない。 在家の者は嫉妬の心を起こし、いつも他人からの供養ばかりを求める。

愚人貪利養者，不能明鑑善法，內自興嫉外望供養，欲使四部眾隨時致敬，是故說，愚人貪利養。求望名譽稱者，晝夜伺捕國王大臣一億居士，猗豪力勢貪求名稱，觀察前意隨形應適，趣欲悅彼以獲利養，或時在眾虛談萬端欲現己智，獨望尊貴餘者處卑，內懷悕望衣被飯食床臥具病瘦醫藥，餘者不得利養。調達比丘所誦經典，六萬象載不勝，十二年中恒處巖藪空閑山間，持戒牢固如護吉祥瓶，以其貪著利養故，所造功德盡為恚火所燒，是故說，求望名譽稱也。在家自興嫉者，或有在家居士，家累自隨每興忌妬，吾今不欲見持行清淨之人，設有梵行清淨人來至我家者，不經日夜暫息便進，各還本居，復重生念，設欲住者恒乏利養，是故說，在家自興妬也。常求他供養者，彼習行人復作是念：「我今名在道檢，行出人表，當令蜎飛有形之類日來供養，衣服飲食床臥具病瘦醫藥，使令餘者不得其養。設見餘人興致利養者，橫生妬嫉如失寶藏，是故說，常求他供養也。」

> 愚かな人が利益や供養を貪るのは、善き法を正しく見極めることができないからです。内心に嫉妬を抱き、外には供養を望み、四部の衆が常に自分を敬うようにさせたいと願います。だから「愚かな人は利益や供養を貪る」と説かれたのです。 名誉や称賛を求める者は、昼も夜も国王や大臣、一億の居士たちを狙い、権力や勢力に頼って名を貪り求めます。相手の気持ちをうかがい、その姿に合わせて機嫌をとり、喜ばせることで利益や供養を得ようとします。あるいは大勢の中でさまざまな話を並べ立てて自分の知恵を見せびらかし、自分だけが尊ばれ、他の者は低い地位にあればよいと望みます。心の内には衣服・食事・寝具・病の薬が欲しいと願い、他の者には利益や供養が届かないようにと願います。 調達という比丘が誦していた経典は、六万頭の象に載せても運びきれないほどでした。彼は十二年の間、いつも岩窟や人里離れた静かな山の中にいて、戒を吉祥の瓶を守るように堅く保っていました。しかし利益や供養に貪着したために、積んだ功德はすべて怒りの火に焼き尽くされてしまいました。だから「名誉や称賛を求める」と説かれたのです。 在家の者が自ら嫉妬を起こすとは、あるいは在家の居士が、家族を抱えながらいつも妬みの心を起こし、「私は今、清らかな行いをする人を見たくない。もし清浄な梵行の人がわが家に来ても、一日も一夜も休ませずすぐ追い返し、それぞれ自分の家に帰らせてしまおう。またもし留まろうとするなら、いつも供養に乏しくさせてやろう」と思うことです。だから「在家の者は自ら妬む」と説かれたのです。 常に他人からの供養を求める者とは、修行する人がさらにこう思うことです。「私は今、道を修める者の列に名を連ね、人々の模範となる行いをしている。羽ある虫や形あるものすべてが、日ごとに私を供養に来るべきだ。衣服・飲食・寝具・病の薬を捧げ、他の者にはその供養が届かないようにさせよう。」もし他の者が供養を受けるのを見れば、宝の蔵を失ったかのようにむやみに妬み嫉む。だから「常に他人の供養を求める」と説かれたのです。

勿猗此養， 為家捨罪， 此非至意，用用何益？

勿猗此養者，彼執行之人勇猛精進，少欲知足志趣牢固，常樂閑靜思惟惡露不淨之觀，其間思惟善念：「夫人處世貪著利養者，自增慢惰漸墜于罪。」是故說，勿猗此養也。為家捨罪者，或在國王長者一億居士、比丘比丘尼沙彌沙彌尼，不令諸人知我在某處家，論說神德戒行備具，是故說，為家捨罪也。此非至意者，捐棄惡緣修無量定，設遭遇惡違本誓願，所行事業不自為己，是故說，此非至意也。用用何益者，亦復自隱不令人知，我持戒精進修阿練行，一坐一起復不使知，漏盡意解勇猛強記，辯才捷疾智慧無量，不欲聞人稱譽己德。是故說，用用何益也。

愚為愚計想， 欲慢日用增，異哉夫利養， 泥洹趣不同。

愚為愚計想者，愚人計想念念興惡，但求他養己行不均，在眾人中獨尊獨貴興致禮敬，願令餘者卑賤，是故說，愚為愚計想也。欲慢日用增者，夫中直之人厭患利養，戒聞施惠眾德具足，解脫知見無觀不入，功德已具堪任受養，福度前人已能消化復能濟彼，是謂續如來種紹繼賢聖。是故說，欲慢日用增也。異哉夫利養者，非法之義興利養者，日損日減非至要處，捨正就危者，當知非賢聖道教，是故說，異哉夫利養也。泥洹趣不同者，至泥洹終其道不同，先學俗中妙法，次習賢聖道法，以次得須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢，是故說，泥洹趣不同也。

能諦知是者， 比丘真佛子，不樂著利養， 閑居却亂意。

能諦知是者，彼修行人知人利養至為難消，身有瑕隙受彼重施，猶彼朽車輪軸不牢，載以重載必壞敗車，定矣不疑。此亦如是，以無戒身受人恩施，必自墜墮惡趣。是故說，能諦知是也。比丘真佛子者，過去諸佛弟子翼從成就此德，當來諸佛世尊弟子亦當成就此德。云何名為佛弟子耶？答曰：「四也。須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢。」如斯四部弟子，一向承佛教誡，正使外邪眾惡化作若干形像，來試四種弟子者，終不能得其便也。所以然者，以其真實諦故。凡夫下劣，不得稱為弟子者何？答曰：「所以不稱者，以彼人心猶豫不定故，或時承受佛教，或時著外道異學，如斯之類，不得稱為佛弟子。」此賢聖弟子信根牢固，一向承受佛教敬奉三寶，此乃得名佛弟子也。或有說者，於如來所得無疑信根，是故說比丘真佛子也。不樂著利養者，何以故？皆由如來言無二故。如佛契經所說，告諸比丘：「利養甜美，內人惡趣，不得至道，能離此者可成果證。」問曰：「已得阿羅漢果，有何不具而復修道？」答曰：「根門未具分別故，於退轉法當求方便至不退根，不退根人當求方便進至念法人所，念法人復當求方便至護法人所，護法根人當求方便至定住根人所，定住根人當求方便至無礙根人所。」如是漸進功德之業，猶如不動牢固之行，自致無願、無相、空定。是故說，不樂著利養也。閑居却亂意者，常當五閑淨法：一為喜，喜已所得。二為安，安止眾生。三為自守，守行不失。四為念，念定不亂。五為待，待善去惡。所謂欲界者眾亂之原，善求巧便勤求解脫，願不生欲界，是故說，閑居却亂意也。

夫欲安命， 息心自省， 不知計數，衣被飲食。

夫欲安命者，安命有二事：一為身命，二智慧命。有身命則有慧命，設無身命何有慧命？如是，行人常當自護將育慧命。是故說，夫欲安命也。息心自省者云何？息心而自省己，所謂省己者，戒聞施惠是為妙法，若在第一義，便逮須陀洹果、斯陀含果、阿那含果、阿羅漢果。是故說，息心自省也。不知計數者，昔有一比丘往至世尊所，頭面禮足叉手白佛言：「唯然世尊！聽諸比丘露其形體，人間遊化與世殊異，豈不快耶？」佛告比丘：「咄愚所白，不入聖律違於道教，倮形露體者，外道異學尼乾子法，非我賢聖法律所應之行。設當我眾倮形遊世者，與彼畜獸有何差別？則不知尊卑貴賤父母宗親。」復有異比丘往至世尊所，白佛言：「唯然大聖！聽諸比丘著織髮衣。」佛告比丘：「斯是外道異學所服衣被，非我賢聖法律所容受也。愚人當知！著織髮衣者有五瑕穢。云何為五？一為臭穢，二為難近，三為饒蝨，四為饒蟣，五為熱時佐熱寒時佐寒。夫為道士披僧伽梨者，過去諸佛賢聖標式，是故說，不知計數也。衣被飲食者，已說僧伽梨復說衣被飲食耶？報曰，所謂衣被者，泥洹僧僧祇支、安陀衛、欝多羅僧。所謂飲者，甘蔗漿、黑石蜜漿、蒲桃漿、石蜜漿。所謂食者，食本有五：穄、粟、󰉕、麥󰉕、麥頭麩，正根本食者粳米為首。」種種飲食者，惡生畏王請一比丘，勅太官：「與比丘精細飲食令如吾食。」比丘食已辭王出外。王問比丘：「飲食訖耶？」答曰：「已訖。」王意自念：「比丘所食必當麤惡，觀色不悅必然不疑。」重請明日更食。比丘辭還精舍，明日更來。王躬自斟酌若干甘饌食彼比丘已，問比丘曰：「云何道士！食為甘美耶？」比丘答曰：「如食所食。」王內興恚：「吾躬自具食，道士故言如食所食。」王復重請比丘，明日更食以苦酒煮𧰉豆食之，食已問曰：「云何道士！食為甘美耶？」答曰：「如食所食。」王問道士：「食好飲食亦言如食所食，得斯惡食亦言如食所食。將有何故？願聞其意。」比丘答曰：

「如笮瞻蔔華， 出油用膏車，臭脂膏致遠， 豈貴好以醜？百味食續命， 支形得行道，苦酒𧰉豆食， 全命何假彼。」

> たとえば瞻蔔の花を絞って油を出し、その油で車の膏(あぶら)とする。臭い脂(from beef)でも膏として遠くまで行くことができる。どうして良いものだけを尊び、醜いものを卑しめようか。 百味の食事は命を続け、体を支えて道を行う。苦い酒や豆の飯でも、命を全うするのにどうして彼のものを借りようか。

時王聞已，內自慚愧無顏仰瞻。「我之所為極為可耻，乃興惡意觸嬈賢聖，猶如愚人不自顧慮，便自興意扠須彌山，不損於彼而自傷手，以小升斗欲量海水。我今所行其猶如此，自以褊狹小意，量度賢聖。」王復思惟：「夫修行人，不自為己但欲支命，得修行道亦復不望現身受報。」今身施好後獲好報，施穢得穢如影隨形，是以智者當清淨施，莫懷妄想。是故說，衣被飲食也。

不自望利， 不諂於人， 不依他活，守己法行。

> 自分の利益ばかりを求めず、 人にへつらうことなく、 他人に頼って生きることなく、 自分の定めた法を守って行いましょう。

不自望利者，昔諸比丘初學日淺貪著乞求，所在分越得食皆惡麤弊不甘，所遊乞處正使得食或遲或疾。意轉欲退不堪習行，內懷憂慼漸興權詐，轉習世法不復論講契經律阿毘曇。世尊告曰：「汝等比丘！當觀宿緣皆有果報。猶如尸婆羅比丘、阿那律比丘，功德滿足不求自至，餘雖有福不相為譬。能知宿緣有高下者，不當興意起憎嫉心。」是故說，不自望利也。不諂於人者，行當專一身心相應，外現愚惑內智勇猛，心念口發無所差違，姦偽邪意常當遠離。昔罽賓國拘秀那羅村，時有一人好事諂偽姦者，彼有塔寺名婆槃那，有一比丘恒給眾僧清淨水。此比丘欲現權詐，佯如姦宄，集聚阿練比丘，皆著百補納衣，其色若干，往至彼村與主人相見，相問訊訖各一面坐。其人悲泣五體投地，謂諸道士：「為從何來而至貧家？為從蓮華池來？為從他方世界？為從神仙山來？」意甚愛敬即請諸比丘：「願明日於貧家食。」諸比丘報曰：「吾等所以來者，正為君一人耳，今以相造豈得受餘人請耶？雖爾欲求度人之首良祐福田者，斯有爾許人無有過者。」即入家內勅諸僕使：「速辦種種甘饌飲食，有諸神人道士來造我家，吾欲食之。」時諸比丘報語主人：「賢士竟為知不？我等涉學積有年歲，經行進止常有法則，六時行道不與常同，意欲經行清旦至暮暮達平曉，日出則食不違典律。」彼眾中上座入語檀越：「吾一人者名曰一坐一食，飯食諸饌及以菓蓏，一時齎來吾當呪願。」檀越聞已，歡喜踊躍不能自勝，辦具種種諸饌飲食投於鉢中，別上果蓏前受呪願，復以酥餅蜜和󰉓別貢上座，望道士食已鉢中遺。「吾得食之必獲其福。」比丘受食呪願已訖，問檀越曰：「頗有甘漿美飲不？」檀越報曰：「如貧家中漿有數種，𮐡桃甘蔗石蜜諸漿種種皆有，不審尊者上座為須何漿？」道人報曰：「向所論漿，生來不飲初不歷口，吾所問漿淳清重甘，儲在積年味不變者，吾乃飲耳。」檀越聞已甚怪所以：「咄咄禍災乃置此變。吾生斯念，謂諸道士皆獲六通羅漢清澈；今觀其蹤正是大賊。」檀越尋語道人：「自少以來酒不過口，豈敢以酒施於道人？」道人即以奢勒裏錢語檀越曰：「家若無酒，可持此錢為我酤來。」檀越聞已以手掩耳。「咄咄甚為可怪！何意道士持生業自隨？此諸人等皆是賴鞮道士，有何道心？」即語道人：「別更使人，吾非汝僕使，乃令吾酤酒室？賴鞮道人！吾先不諳墮汝欺中，我今終不為汝所誑。」比丘報曰：「止止檀越勿興斯謗，吾等所以來者，欲覺寤卿一人耳。汝前後以來費耗財貨施不值主，檀越若下意者聽我說譬喻。」報曰：「大佳願欲聞之。」「可善聽之。猶如善射之士，百步射毛時時乃中，或高或下或左或右不中其的，若以地為的而取射者，高下東西南北，所射皆著終不失地。今此大眾亦復如是，不選擇施者必值真人，若選擇施者時時乃值，多有空出費而不益。大眾之中四果備足，四雙八輩十二賢士皆悉具有。欲取珍寶，當詣大海至須彌寶山，欲求賢人得道羅漢者當詣大眾。檀越明聽，更說一譬，開意受持，明者以譬喻自解。昔此貴邦有一僑士適南天竺，同伴一人與彼奢婆羅呪術家女人交通，其人發意欲還歸家，輒化為驢不能得歸。同伴語曰：『我等積年離家，吉凶災變永無消息，汝意云何為欲歸不？設欲去者可時莊嚴。』其人報曰：『吾無遠慮遭值惡緣，與呪術女人交通，意適欲歸便化為驢，神識倒錯天地洞燃，為一不知東西南北，以是故不能得歸。』同伴報曰：『汝何愚惑乃至如此？此南山頂有草名遮羅波羅，其有人被呪術鎮壓者，食彼藥草即還復形。』其人報曰：『不識此草知當如何？』同伴語曰：『汝以次噉草，自當遇之。』其人隨語如彼教誡，設成為驢即詣南山，以次噉草還復人形，採取奇珍異寶，得與同伴安隱歸家。檀越當知，此亦如是。愚惑之人，一向直信施求羅漢得道者，何日可果？所在推覓終不可值。欲求真人羅漢者，當從大眾索之，以次供養必值賢聖獲果不疑。檀越復當明聽，昔佛在世，大愛道瞿曇彌親佛夷母，以金縷織成衣奉獻如來，佛告大愛道：『夫欲施者，當詣大眾，何為獨向我耶？吾亦是大眾之一數，亦有微分，可持此金縷織成衣往施聖眾。』如來三界特尊，猶尚不能偏受信施，辭讓聖眾不自專己。檀越頗聞此界南城內婆槃那寺主，給施眾僧水者不乎？」檀越報曰：「久聞消息，生年已來不覩其形，今方乃知賢聖之人。」比丘答曰：「前後已來姦偽虛詐誑惑萬端，侵欺檀越如我比者非徒一人，自今已始若欲設福，當詣大眾，所求果報如願剋獲。」時彼比丘即說頌曰：

> 利益を自ら望まないとは、昔の比丘たちが修行を始めたばかりで日が浅く、物乞いや求めに貪り執着し、あちこちで分け前に越えて食を得ても、みな粗末でまずいものを嫌い、托鉢に行った場所でたまたま食を得ても、あるいは遅くあるいは速く、心が移り変わって退屈し、修行に堪えられず、内に憂いを抱いて次第にずる賢さを起こし、世間の法を学んで、もはや契経・律・阿毘曇を論じ講じなくなった。世尊は告げられた。「あなたがた比丘たちよ、宿縁を観察すべきである。みな果報がある。ちょうど尸婆羅比丘や阿那律比丘のように、功德が満ち足りていれば求めなくても自然に至る。他の者たちは福があっても比べものにならない。宿縁に高下があることを知る者は、憎しみや嫉妬の心を起こしてはならない。」それゆえ「自ら利益を望まない」と説くのである。 人に諂わないとは、行いは専一に身心が相応し、外には愚かで惑っているように見せ、内には智恵が勇猛で、心に念じ口に発するに違いがなく、奸偽邪意は常に遠ざけるべきである。昔、罽賓国の拘秀那羅村に、一人の諂い偽り奸悪を好む者がいた。そこに塔寺があり、名を婆槃那といい、一人の比丘がいつも僧衆に清浄な水を給仕していた。この比丘は権詐を示そうとして、奸悪であるかのように装い、阿練比丘たちを集め、みな百の補納衣を着て、その色はさまざまで、かの村に行き主人と会い、互いに問訊を終えてそれぞれ一面に座った。その人は悲しみ泣き、五体を地に投げて、道士たちに言った。「どこから来て貧しい家に至ったのか。蓮華池から来たのか。他方世界から来たのか。神仙山から来たのか。」心に深く敬愛し、すぐに比丘たちに請うた。「明日、貧しい家で食をとっていただきたい。」比丘たちは答えた。「われわれが来たのは、まさにあなた一人のためである。今ここに来たのに、どうして他の人の請いを受けられようか。そうではあるが、人を度する首座の良き福田を求めるならば、これだけの人数で過ぎた者はない。」すぐに家の中に入り僕使いたちに命じた。「速やかに種々の甘い飲食を用意せよ。神人道士たちがわが家に来られる。われはこれを食べたい。」時に比丘たちは主人に告げた。「賢士よ、はたして知っているか。われらは学を積み年歳を経て、経行進止には常に法則があり、六時に行道し常と異なる。意は経行を清旦から暮れまで、暮れから暁まで行いたい。日が出れば食し、典律に違わない。」かの衆の中の上座が入り檀越に言った。「われ一人は名を一坐一食という。飯食の諸饌および果蓏を、一時に持って来ればわれが呪願しよう。」檀越は聞いて、歓喜踊躍して自ら勝えず、種々の諸饌飲食を用意し鉢の中に投じ、別に果蓏を上し前に受けて呪願し、さらに酥餅蜜和を別に上座に貢いだ。道士が食して鉢の中に残すことを望んだ。「われはこれを得て食すれば必ずその福を得よう。」比丘は食を受け呪願し終えて、檀越に問うた。「甘い漿や美しい飲み物はあるか。」檀越は答えた。「貧しい家には漿が数種ある。桃・甘蔗・石蜜の諸漿、種々みなある。尊者上座はどの漿を必要とされるか、はかりかねる。」道人は答えた。「さきに論じた漿は、生まれてこのかた飲まず初めから口にしたことがない。われが問う漿は淳清で重く甘く、積年蓄えて味の変わらないもの、それをわれは飲むのである。」檀越は聞いて甚だ怪しんだ。「ああ禍災、なんとこの変事。わが生はこの念を抱いた。道士たちはみな六通羅漢で清澈だと。今その跡を観るにまさに大賊である。」檀越はすぐに道人に語った。「幼い時から酒を口にしたことがない。どうして敢えて酒を道人に施せようか。」道人はすぐに奢勒裏銭を檀越に示して言った。「家に酒がなければ、この銭を持ってわれのために買って来い。」檀越は聞いて手で耳を覆った。「ああ甚だ怪しむべきこと。どうして道士が生業を持ち歩くのか。この人たちはみな頼鞮道士で、何の道心があろうか。」すぐに道人に語った。「別に人を使え。われは汝の僕使ではない。どうしてわれに酒室を買わせるのか。頼鞮道人よ。われは先に汝の欺きの中に堕ちることを諳んじなかった。われは今終に汝に誑かされない。」比丘は答えた。「止みなさい、止みなさい、檀越よ、この謗りを起こしてはならない。われらが来たのは、あなた一人を目覚めさせようとしたのである。汝は前後以来、財貨を費消し施しても主に値しなかった。檀越よ、もし下意するならわれが譬喩を説くのを聞きなさい。」答えた。「大いに良い、聞きたいと願う。」「よく聞きなさい。ちょうど善射の士が、百歩で毛を射る時には時にしか中たらず、あるいは高くあるいは下くあるいは左あるいは右で的を中たらないが、もし地を的として射るならば、高下東西南北、射る所みな当たり終に地を失わない。今この大衆もまたかくのごとし。施者を選ばなければ必ず真人に値する。もし施者を選べば時にしか値せず、多くは空しく費やして益がない。大衆の中には四果が備わり、四双八輩十二賢士がみな具わっている。珍宝を取ろうとするなら、大海に詣で須弥宝山に至るべきである。賢人や得道羅漢を求めようとするなら大衆に詣でるべきである。檀越よ明聴しなさい。さらに一つの譬を説こう。意を開いて受持しなさい。明者は譬喩をもって自ら解する。昔この貴邦に一人の僑士が南天竺に適いた。同伴の一人がかの奢婆羅呪術家の女と通じた。その人は発意して家に帰ろうとしたが、そのたびに驢と化して帰ることができなかった。同伴が語った。『われらは積年家を離れ、吉凶災変に永く消息がない。汝の意はどうか、帰りたいか。もし去ろうとするなら時に荘厳せよ。』その人は答えた。『われは遠慮なく悪縁に遭い、呪術の女と通じ、意がちょうど帰ろうとすれば便ち驢と化し、神識は倒錯し天地は洞燃し、一として東西南北を知らず、それゆえに帰ることができない。』同伴は答えた。『汝は何と愚かで惑っているのか。この南山の頂には草があり名を遮羅波羅という。その人が呪術に鎮圧された者は、かの薬草を食せば即ち形に還る。』その人は答えた。『この草を知らないでどうすればよいか。』同伴が語った。『汝は順に草を噛め、自ずから遇うであろう。』その人は語に従いかの教誡のごとくし、驢と成ったなら即ち南山に詣で、順に草を噛んで人形に還り、奇珍異宝を採取し、同伴と安隠に家に帰ることが得た。檀越よ知るべきである。これもまたかくのごとし。愚惑の人は、一向に直信して施し羅漢得道を求めるが、何日にか果たせようか。所在に推し覓めても終に値するこはできない。真人羅漢を求めようとするなら、大衆から索めるべきである。順に供養すれば必ず賢聖に値し果を得て疑いない。檀越よまた明聴しなさい。昔仏が在世の時、大愛道瞿曇彌は仏の夷母であり、金縷で織った衣を如来に奉献した。仏は大愛道に告げた。『それ施そうとする者は、大衆に詣でるべきである。なぜ独りわれに向かうのか。われもまた大衆の一数であり、微分もある。この金縷織成の衣を持って聖衆に施しに行きなさい。』如来は三界の特尊でありながら、なお偏に信施を受けず、聖衆に辞譲し自ら専らにしなかった。檀越よ、この界の南城内の婆槃那寺主で、衆僧に水を給施する者を聞いたか。」檀越は答えた。「久しく消息を聞いた。生まれてこのかたその形を覩ず、今にして乃ち賢聖の人と知った。」比丘は答えた。「前後以来、姦偽虚詐で万端に誑惑し、檀越を侵欺することわれのような者は一人だけではない。今より始めて、もし福を設けようとするなら、大衆に詣でなさい。求める果報は願いのごとく克ち獲るであろう。」時にかの比丘は即ち頌を説いた。

「毒蛇擎持頸， 被服虎斑文，行如鶴伺魚， 閉塞寂無聲。內無四等心， 欺詐於主人，是故離諭諂， 以真練精神。如來廣普教， 三界廓然明，所以致利養， 由有賢聖道。施者忘慳貪， 盡心事三寶，是以離欺詐， 以法成其性。」

爾時檀越即從坐起，五體投地敬禮聖眾，願受懺悔。「今蒙潤澤昔所未聞，雖言父母尊長猶不能導引，真要遭蒙聖恩永除心垢。自今已始設當惠施不問多少，盡當詣眾不敢自專。今重自歸，願諸賢聖盡為我師，當以四事供養衣被飯食床臥具病瘦醫藥。」是故說，不諂於人也。不依他活者，昔調達比丘將五百比丘，受王重養供給什物，隨時瞻視不失其意。此五百人皆仰調達得致利養，自無功德不足為貴。要當己身備具眾法，自致供養乃可為貴。是故說，不依他活也。守己法行者，法者諸善之法恒念備具，不於餘人受教授，沙門白衣以己內教授，息心令常精勤不失法度，恒隨正法不墮邪部，是故說，守己法行也。

自得不恃，不從他望，望彼比丘，不至正定。自得不恃者，夫人執德而不見其德，為而不見其為，自不恃德𣣋彼無德。調達門徒，已實無德虛受信施，皆興願求獨尊無等，是故說自得不恃也。不從他望者，調達弟子各立限制，不得共相誹謗，稱嘆名譽，一人不說逐出眾外，正說無德強說有德。是故世尊告諸比丘：「各各自守，慎莫虛稱功德，行不合己，則致其殃不致究竟。」是故說，不從他望也。望彼比丘，不至正定者，意常僥倖有所希望，心意不專不履正行，於中終不能得出受定意，夫人入定，要當專意無他異念，是故說曰，望彼比丘，不至正定也。

夫欲安命， 息心自省， 如鼠藏穴，潛隱習教。

夫欲安命者，所謂安命者，眾善普集，闡揚幽玄以為營命，非但衣服飲食而已，是故說曰，夫欲安命也。息心自省者，戒聞惠施智慧解脫，解脫見慧而自瓔珞，是故說曰，息心自省也。如鼠藏穴者，夫穴處之蟲深則牢固無所畏懼，不為惡人弊蟲所見侵害，不為暴火溢水所見燒溺，是故說曰，如鼠藏穴。潛隱習教者，盡具沙門內禁之法，潛居隱處，心意遊寂節食知足，人若非人不得其便，是故說，潛隱習教也。

夫欲安命， 息心自省， 趣得知足，念修一法。

夫欲安命者，夫人所以周流四海，超越嶮難遂增艱苦，無毫釐之善，是故說曰，夫欲安命也。息心自省者，食知止足不廣慇懃，設欲得衣被飯食床臥具，終無榮冀，是故說曰，趣得知足也。念修一法者，云何為一法？所謂一法者，於諸善法而悉知足，是故說曰，念修一法也。

約利約可， 奉戒思惟， 為慧所稱，清潔勿殆。

約利約可者，謹慎其行不為流耶所屈，設得利養，先勸施大眾然後自受，當為四部弟子比丘比丘尼優婆塞優婆夷，或為國王大臣一億居士豪富長者，日夜咨受恒以推讓為先，然後自表，是故說曰，約利約可也。奉戒思惟者，專意奉戒毫釐不犯，出入行來不失威儀，持心修戒如經火難，是故說曰，奉戒思惟。為慧所稱者，諸有智人志崇高顯，耻不上及，見有執行之人，共相扶佐成就其行，便共稱歎譽其名德，是故說曰，為慧所稱也。清潔勿殆者，晝夜精勤坐臥經行不失本業，清旦至暮暮經達曉，思惟止觀食息不廢，是故說曰，清潔勿殆也。

比丘三達， 解脫無漏， 寡知尠識，智者憶念。

比丘三達者，利根高德無疑解脫棄八除入，是謂一明亦名一達，諸漏已盡是謂二明，得諸神通是謂三明。復有說者，諸漏永盡是謂一明，知所從生是謂二明，自識宿命是謂三明。是故說曰，比丘三明也。解脫無漏者，彼執行人已去老死，死有四義：一為結使死，二為陰死，三為至竟死，四為自在天死，是謂四死。三達比丘永降二魔。云何降二魔？一者結使魔，二者天魔。是故說，解脫無漏也。寡知尠識者，己身智慧廣普無崖，然不與人間周旋，不與知識往反，唯有智者乃能分別，是故說，寡知尠識也。智者憶念者，為諸梵行所見愛敬，知其神力信得自在無所罣礙，是故說，智者憶念也。

其於飲食， 從人得利， 而有惡法，從供養嫉。

其於飲食，從人得利者，皆由前身好喜惠施，顏貌端正面如桃華，生豪族家饒財多寶，先笑後言和顏悅色，神識了朗聰明智慧，高才博學無事不知，所至到處增益法事，是故說，其於飲食，從人得利也。而有惡法，從供養嫉者，或有學人，展轉相承而得供養，互相法則從一人得養，後人効之復來供養，亦不能分別智慧深淺道德多少。有智慧人反更輕慢巧詐虛名，反更恭奉，以真為偽、以偽為真，轉相是非共興誹謗：「我智慧才技出過於人，汝所知淺。」各伺其便枉殺良善，死者無限，令諸智人隱而不出，愚惑惡人在世縱逸。是故說，而有惡法，從供養嫉也。

多集知識， 強服法衣， 但望飲食，床臥之具。

多集知識，強服法衣者，或巧偽之人著補納衣，外陽下密內共同情，人間同處安行法步自不離前，是故說，多集知識，強服法衣也。但望飲食床臥具者，其有清信士女出逢見者，皆興恭敬善心生焉，當見之際，如華開敷見日鮮明，心意哀愍不能去離。然彼人雖被納衣，心如豺狼，如狸伺鼠，無戒受施不惟道德，欺惑世人不以經戒，眾生奔趣如柱崩頹，猶渴須飲裸者得衣，心意敬待立望其福，謂為良祐福田不復是過。是故說，但望飲食床臥具也。

當知是過， 養為大畏， 寡取無憂，比丘釋意。

當知是過，養為大畏者，利養為病入骨徹髓，死墮惡趣必然不疑，多諸恐畏終已無安，若處人間多諸危害，欲自防護復無善助，住則畏死去則畏賊，是故說，當知是過，養為大畏也。寡取無憂，比丘釋意者，或有族姓男女執信牢固，捐捨妻息出家學道，剃除鬚髮著三法衣，到時持鉢廣福眾生，得食麤細呪願施家，緣是蒙祐盡得度脫。然少於知識，不廣周旋，捷疾辯才應適無方，復為天龍鬼神八部之眾所見尊待，來聽正法受三自歸，無數鬼神諸塵垢盡得法眼淨。是故說，寡取無憂，比丘釋意也。

非食命不濟， 孰能不揣食？夫立食為先， 知是不宜嫉。

非食命不濟者，一切眾生有形之類，依食得全其命。或有貪著飲食，以其貪故傷害眾生數千萬眾。復有眾生心無慳悋，於諸飲食不大慇懃。所以然者，皆由起八大人念，飲食知足取支形命。是故說，非食命不濟也。孰能不揣食者，人得飲食便有出入息，神識得定進經行道。雖有四食，揣食為先，進趣行來皆能成辦。是故說，孰能不揣食也。夫立食為先者，彼修行人意常觀食，食從何來？為從何去？一一分別由食成果。是故說，夫立食為先也。知是不宜嫉者，或有行人深山隱處獨樂閑靜，騏驎戴一獨無伴侶，各住隻居亦無徒眾。所以不樂貪在世者，見譏知微防慮未然，患出於對水溢於原，設無對者則我無患，是以聖人教人閑居不處憒閙，則無復有憎嫉之想。是故說，知是不宜嫉也。

嫉先創己， 而後創人， 擊人得擊，是不得除。

嫉先創己者，猶如有人沒在污泥，不能得濟拔彼厄難。己不能度安能度人？當求方便免濟其厄。是故說，嫉先創己也。而後創人者，己既得度，復求方便濟彼未度，是故說，而後創人也。擊人得擊者，皆由人心未去是非，此現法報，猶仰唾虛空還下著面，不能計彼音響寂靜無形，為人所罵但有音聲，吾耳往聽了無形質，何為空寂法中橫生喜怒？愚人無慮自生識想，互相是非遂致喪亡。是故說，擊人得擊也。是不得除，愚人執意至死不改，設遇利養計為己有，於中生嫉不能廣及，是故說，是不得除也。

## 出曜經卷第十五