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title: "出曜經 · 17 雜品"
description: "出曜经是姚秦时期著名译经师竺佛念所译的佛教经典，属于早期汉传佛教重要文献之一。该经主要阐述佛陀的教法，内容涵盖修行方法、因果业报、戒律规范等核心教义，具有鲜明的实践指导意义。竺佛念作为五世纪初重要译经家，其译文准确流畅，对佛教在中国的传播影响深远。出曜经不仅反映了早期佛教思想体系，也为研究中国佛教发展史提供了珍贵资料，在汉传佛教经典中占有重要地位，是了解原始佛教教义的重要参考典籍之一。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmczndk581mz9jj042dzgbb8h"
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### 出曜經雜品第十七

> <note>『出曜経』雑品第十七</note>

當念自覺寤， 慎莫損其行，行要修亦安， 不行行受報。

> 自分の目を覚まし、しっかりと気づいていることを忘れずに、 その行いを損なわないよう、慎みなさい。 行いを修めるならば、心は安らかであり、 行いを修めなければ、その報いを受けることになる。

當念自覺寤者，夫人有施為，先當內思惟校計熟思。

> 自分が目覚めているかどうかを、まずよく考えなさい。人が何かを行おうとするときは、まず心の内でよくよく考え、吟味し、熟慮すべきである。

善思而思行， 慎勿失其所，慮不失所者， 失所懷痛憂。

> よく考えてから行動し、 自分の居場所を決して失わないようにしなさい。 居場所を失わなければ、 失ったときに悲しみに苦しむことはない。

是故說，當念自覺寤也。慎莫損其行者，夫人有所施為，事情已彰復還懈慢，不究其理不禪思惟，或時諷誦亦不通利，臨欲試時捨眾逃亡，是謂於學有損。習禪之人念不在定流馳萬端，如彼猨猴捨一趣一，於賢聖法律乃有大累，是故先達之人教彼後生，卒成其道不使漏失，是故說，慎莫失其所也。慮不失所者，或有誦人日誦十千解義百千，晝夜諷誦不失上下文句，一一分明理不遠義，入禪之寂，天雷地震萬響俱作不能動其神，是故說，慮不失所者也。失所懷痛憂者，行不專己俱興嫉意自墜於淵，皆由行不正故，是故說，失所懷痛憂也。

> だからこそ説かれるのです。「自ら目覚めていることを念じなさい」と。行を損なってはならないとは、人が何かを行おうとして、すでに事が明らかになったのに再び怠けてしまい、その道理を究めず禅思惟もせず、あるいは経を誦んじても滑らかに通らず、いざ試されようとする時に大衆を捨てて逃げてしまう、これを行の損なわれることと言います。禅を修める人は、心が定にとどまらずに万端へと流れ馳せ、あの猿が一つの枝を捨てては別の枝に向かうようなもので、賢聖の法と律において大きな妨げとなります。だからこそ先達の人々は後の者たちを教え導き、にわかにその道を成就させず、欠け落ちることのないようにするのです。だからこそ説かれるのです。「その居所を失ってはならない」と。居所を失わないとは、あるいは誦む人が日に一万句を誦み、十万句の義を解し、昼夜に誦んじて上下の文句を失わず、一つ一つ分明で理が義から遠ざからず、禅の寂静に入れば、天の雷も地の震動も万の響きがともに起こってもその心を動かすことができない、これを居所を失わないと言います。居所を失えば痛みと憂いを抱くとは、行いが専一ならず、ともに嫉みの心を起こして自ら淵に堕ちる、すべては行いが正しくないためです。だからこそ説かれるのです。「居所を失えば痛みと憂いを抱く」と。

人當求方便， 自致獲財寶，彼自觀其義， 意願即果之。

> 人は努力を重ねて、みずから財宝を得るべきです。 その意味をよく見つめれば、願いはそのまま実現するのです。

人當求方便者，世人多慕周旋四方，孜孜級級求救形命皆貪財貨。諸比丘等復求方便，誦契經律阿毘曇及諸雜藏，坐禪比丘禪定入微，小七大七不失其次，耳錘法財已得功德增益其行，是故說，人當求方便，自致財寶也。彼自觀其義，意願即果之者，世人思惟，誰有富貴積財千萬者，隨所意念費耗財寶，學道之人，捐捨妻息去離榮寵，自知功德具滿，分別義理問則能答。彼坐禪人復自觀見禪定寂靜，得六神通飛騰虛空，作十八變勇沒自由，不信道者覩已則信，已信道者遂進不退，是故說，彼自觀其義，意願即果之也。

> 人当求方便者，世人多慕周旋四方，孜孜級級求救形命皆貪財貨。諸比丘等復求方便，誦契經律阿毘曇及諸雜藏，坐禪比丘禪定入微，小七大七不失其次，耳錘法財已得功德增益其行，是故說，人當求方便，自致財寶也。彼自觀其義，意願即果之者，世人思惟，誰有富貴積財千萬者，隨所意念費耗財寶，學道之人，捐捨妻息去離榮寵，自知功德具滿，分別義理問則能答。彼坐禪人復自觀見禪定寂靜，得六神通飛騰虛空，作十八變勇沒自由，不信道者覩已則信，已信道者遂進不退，是故說，彼自觀其義，意願即果之也。

坐起求方便， 自求於定明，如工練真金， 除去塵垢冥，不為闇所蔽， 永離老死患。

> 座ったり立ったりしながら、楽になる方法を求め、 自ら定の明らかさを求める。 まるで職人が真金を練り、 塵や垢、暗さを取り除くように、 暗闇に覆われることなく、 永遠に老いと死の悩みから離れる。

坐起求方便，自求於定明者，所謂坐起者，諸疑結使是，人懷懈慢不究其業，彼懈慢人雖言起立與坐無異，精勤之人雖言坐臥與立無異，是故說，坐起求方便，自求於定明也。常當專意求於定，明光無盡無處不照，是故說，求於定明也。如工鍊真金，除去塵垢冥者，彼大眾中工師巧匠集在彼眾，猶如塵垢物為塵所蔽，未被刈除遂增污穢。今此人心亦復如是，為婬怒癡垢所染，亦無精光不得照曜。是故說曰，如工練真金，除去塵垢冥也。不為闇所蔽，永離老死患者，彼修行人，刈治塵垢無諸結使，終不為生所屈、不為老所困、不為無常所召，是故說，不為暗所蔽，永離老死患。

> 座に坐り、立ち上がり、方便を求める――自ら定の明らかさを求めるとは、こういうことです。いわゆる「坐起」とは、あらゆる疑いや結使のことです。人は怠けおごり、自分の業を突き詰めようとしません。そうした怠惰な人は、立っても座っても同じだと言いますが、精勤な人は、座っても横になっても立っているのと変わらないと言います。だから「坐起、方便を求む。自ら定の明を求む」と説かれるのです。常に心を専らにして定を求めなければなりません。定の明るい光は尽きることがなく、照らさないところはありません。だから「定の明を求む」と説かれるのです。金を練る職人のように、塵や垢、暗さを取り除くとは、その大衆の中に巧みな工芸の師たちが集まっている様子をいいます。ちょうど塵に覆われた汚れが刈り除かれずにますます汚れを増すように、今この人の心もまた同じです。婬・怒・癡の垢に染まり、清らかな光もなく照らすことができません。だから「金を練る職人のように、塵垢の暗さを取り除く」と説かれるのです。闇に覆われず、永遠に老と死の憂いを離れるとは、その修行する人は塵垢を刈り清めて結使がなく、ついに生に屈することもなく、老に苦しめられることもなく、無常に召されることもありません。だから「闇に覆われず、永遠に老死の憂いを離れる」と説かれるのです。

不羞反羞， 羞反不羞， 不畏現畏，畏現不畏， 生為邪見， 死入地獄。

> 恥ずべきことを恥じず、恥じるべきでないことを恥じ、恐れるべきでないものを恐れ、恐れるべきものを恐れない。このような邪った見方をして生きる者は、死んで地獄に落ちる。

不羞反羞者，或有行人年歲長大，不肯從小比丘承受教誡，小比丘所說隨順法教，長老羞耻內自思惟：「為少年比丘所授，極懷慚愧藏顏無處。」於彼不應起羞而羞，是故說，不羞反羞也。羞反不羞者，彼修行人，不誦習契經律阿毘曇及諸雜藏，虛受信施衣被飯食病瘦醫藥床褥臥具，是故說，羞反不羞也。不畏現畏者，滅盡泥洹淡然無為，反更畏之不親其行，彼泥洹中無生無老無病無死，亦復無天趣人趣地獄餓鬼畜生趣，反更畏之如所說。彼凡夫人未曾聞此，本無今無已無當無，亦無恐懼安隱，亦復無眾害諸變，捨一切難，而更畏之，是故說曰，不畏而現畏也。畏現不畏者，五道生死婬怒癡熾然為火所燒，漸增生老病死愁憂苦惱不可稱說，亦不畏彼更著三有，是故說，畏現不畏也。生為邪見，所謂邪見者，可羞不羞不羞反羞，可畏不畏不畏反畏，此盡名為邪見。造邪見業，是謂生為邪見，死入惡道，作罪多者入惡道，作罪中者入畜生，作罪少者入餓鬼。是故說曰，邪見墮惡道。

> 恥ずべきでないのに恥じるとは、こういうことです。ある修行者が年をとっていて、若い比丘から教えを受けることを受け入れず、若い比丘が説く法に従おうとしない。長老はそれを恥ずかしく思い、心の中で「若い比丘から教えられるとは」と深く惭愧し、顔を隠す場所もないと思う。本来なら恥じる必要がないのに恥じる、それゆえ「恥じるべきでないのに恥じる」と言うのです。 恥じるべきなのに恥じないとは、その修行者が、経典や律や阿毘曇、その他の諸々の論書を誦習せず、むなしく信者の施しである衣や食事や病の薬や寝具を受け取っていることです。それゆえ「恥じるべきなのに恥じない」と言うのです。 恐れるべきでないのに恐れるとは、滅尽涅槃は静かで無為であるのに、かえってそれを恐れてその行いに向かおうとしないことです。その涅槃には生もなく老もなく病もなく死もなく、天の世界も人の世界も地獄も餓鬼も畜生の世界もありません。なのに、かえってそれを恐れるのです。凡夫はこれを聞いたことがなく、もとからなく今もなくすでになく今後もない、恐れもなく安らかであり、あらゆる害や災いもなく、すべての苦難を捨てているのに、かえってそれを恐れるのです。それゆえ「恐れるべきでないのに恐れる」と言うのです。 恐れるべきなのに恐れないとは、五道の生死において、婬欲と怒りと愚かさが燃え盛る火に焼かれ、しだいに生老病死や憂いや苦しみが増していく、言葉に尽くせないほどなのに、それを恐れず、かえって三有に執着することです。それゆえ「恐れるべきなのに恐れない」と言うのです。 邪見から生まれるとは、いわゆる邪見とは、恥じるべきなのに恥じず、恥じるべきでないのに恥じ、恐れるべきなのに恐れず、恐れるべきでないのに恐れる、これらすべてを邪見と言います。邪見の業を造る、これを「邪見から生まれる」と言い、死後は悪道に落ちます。罪を多く造った者は悪道に落ち、罪が中ほどの者は畜生に落ち、罪が少ない者は餓鬼に落ちます。それゆえ「邪見は悪道に堕ちる」と言うのです。

人前為過， 後止不犯， 是照世間，如月雲消。

> 人前で過ちを犯しても、後には止めて二度と犯さない。それは世間を照らすことで、月が雲から消え出るかのようだ。

昔佛在舍衛國祇樹給孤獨園。彼時去國界不遠有梵志子，名曰無害，常追逐師友，讀梵志經典，所事師者耆舊長老，年過八十所納妻婦，年幼少壯顏貌端正，女之禮節威儀備舉，無害梵志子，亦復端正丈夫姿顏世無雙比。時彼女人婬欲熾盛，即捉梵志子無害手，「吾敬卿德欲與情交，宜可爾不？」無害聞之，以手掩耳：「我寧喪命終不敢聽。」女答之曰：「夫人飢渴給以食飲豈不篤意耶？我今婬火熾盛，須卿婬水滅之，豈不適我情耶？設當由汝喪我命根者，於此經典何用學為？」無害答曰：「我從母意犯梵志法死入地獄，豈不抂乎？」時彼無害自抴走出門外。時梵志婦蓬頭亂髮以土自坌，裂壞衣裳坐地𡀱哭。長老梵志行還見之，問其婦曰：「誰取汝打撲乃爾？」婦答梵志：「是汝親信弟子。」梵志聞已內自思惟：「吾今不宜彰露此事，彼人備聞害我不疑，當以權宜微以誘進，乃獲其身斷其命根。」即呼梵志子而告之曰：「汝前後已來，所學呪術皆悉備具無有缺漏，然當選擇良日祭祠諸神呪乃得行。左手援楯右手援劍，詣彼要道嶮路，值人斬之，數滿千人，而取一指如是成鬘，呪乃得行。」是時，弊魔復遣鳩槃荼鬼，衛護其人使得行惡，斷絕人路無復行人，漸漸乃至闍梨違尼園中，人民丘曠舉國被災，又少一指不充其數。無害親所生母每生此念：「吾子久在曠野，飢寒勤苦必然不疑。」時母送餉躬詣彼園，無害遙見便生此念：「吾受師訓當辦指鬘，今少一指不充其數。今值我母自來送餉，若我先食呪術不成，若我先殺母者當犯五逆罪。」梵志子應從佛得度，如來三達見彼無害興五逆意殺母不疑。「若審爾者億佛不救，吾今宜往拔濟其苦，使母子俱全豈不善乎？」即化作比丘，手執應器視地而行，循彼徑路直趣彼園，路側行人諸牧牛者語曰：「沙門止止！莫從此路，前有暴賊，名曰指鬘，前後已來傷害人民不可稱計，我等所忌不從此路。沙門單弱，儻為賊所害者不亦劇耶？」化人曰：「無苦，賊不害我，吾有禁呪足能制彼，使不害我。」轉復前進遂欲至園。指鬘遙見有比丘來，歡喜踊躍不能自勝。「吾願果矣。必成指鬘，又不害母，呪術成辦。權停我母及此餉食，殺彼比丘然後能食。」執刀擎楯往逆比丘。無害素是壯士，走及奔馬馳趣向佛；佛以神力令彼無害在地頓縮，佛地寬舒，如是疲極不能及佛。指鬘舉聲喚沙門曰：「止止沙門！吾欲問義。」比丘答曰：「吾自久住，卿自不住。」爾時指鬘以偈向比丘說曰：

> 昔、仏は舎衛国の祇樹給孤独園におられました。そのころ、国境から遠くないところに、無害という名の梵志の子がいました。いつも師や友に従って梵志の経典を読んでいました。師は年老いた長老で、八十歳を超えていましたが、若く美しい妻を迎えていました。その女は礼儀や作法もきちんと備えていました。無害もまた端正な男子で、その姿かたちは世に並ぶものがないほどでした。 あるとき、その女の淫欲が激しく燃え上がり、梵志の子・無害の手を取って言いました。「私はあなたの徳を敬い、情を交わしたいと思います。よろしいでしょうか。」無害はこれを聞くと、手で耳を塞いで言いました。「私は命を失うとしても、決して聞き入れられません。」女は答えました。「人が飢え渇いているとき、食べ物や飲み物を与えるのは、まことに行き届いた心ではないでしょうか。私の淫欲の火は今激しく燃えています。あなたの淫欲の水で消していただかねばなりません。私の気持ちに添ってはいただけないのでしょうか。もしあなたのせいで私が命を落とすなら、この経典を学んで何の役に立つのでしょう。」無害は答えました。「母の心に従って梵志の法を犯せば、死んで地獄に落ちます。それはあまりに理不尽ではありませんか。」そして無害はひとりで門の外へ走り出ました。 そのとき、梵志の妻は髪を振り乱し、土を頭からかぶり、衣を裂き破って、地面に座って泣き叫びました。長老の梵志が帰ってきてこれを見て、妻に尋ねました。「誰がお前をこんなに打ち叩いたのか。」妻は答えました。「あなたが親しく信じている弟子です。」梵志はこれを聞いて、心の中で思いました。「今、このことを表沙汰にするのはよくない。あの者はすっかり聞いて、私を害すること疑いない。しかるべき方便で、さりげなく誘い進め、その身を捕らえて命を断とう。」そこで梵志の子を呼んで告げました。「お前はこれまで学んできた呪術をすべて備え、欠けるところがない。しかし、良き日を選んで神々を祭り、呪を唱えれば、はじめて行うことができる。左手に盾を取り、右手に剣を取って、あの要路の険しい道へ行き、人に会えば斬りなさい。数が千人に満ちたら、その指を取って、このようにして鬘を作れば、呪が行えるようになる。」 そのとき、弊魔はさらに鳩槃荼鬼を遣わし、その人を守護して悪を行わせ、人の道を断ち切って通る者もなくなりました。しだいに闍梨違尼園に至りました。人民は荒野となり、国中が災いに遭いました。しかし、まだ一指が足りず、その数に満ちませんでした。 無害の生みの母は、いつもこの思いを抱いていました。「我が子は長く荒野におり、飢えと寒さに苦しんでいるに違いない。」そこで母は食べ物を送ろうと、自らその園へ赴きました。無害は遠くに見て、こう思いました。「私は師の教えを受けて、指鬘を成し遂げねばならない。今、一指が足りず、その数に満たない。ちょうど我が母が自ら食べ物を送って来た。もし私が先に食べれば呪術は成らない。もし私が先に母を殺せば、五逆罪を犯すことになる。」 梵志の子は仏から度されるべき者でした。如来は三達の智で、かの無害が五逆の心を起こし、母を殺すことに疑いがないのを見られました。「もし本当にそうなれば、億の仏も救えない。今こそ私が赴いてその苦しみから救い、母子ともに全うさせることができれば、なんと善いことか。」そこで比丘に化身し、手に応器を持ち、地を見ながら歩き、その小道に沿ってまっすぐにかの園へ向かわれました。 道端の行人や牛飼いたちが言いました。「沙門よ、止まれ止まれ。この道から行ってはならない。前に暴賊がいて、名を指鬘という。これまで人を傷つけた数は数えきれない。我々が忌み避けてこの道から行かぬのはそのためだ。沙門は単弱である。もし賊に害されたなら、あまりにひどいではないか。」化人は言いました。「心配ない。賊は私を害さない。私には禁呪があり、彼を制して私を害させないことができる。」さらに前へ進み、ついに園に至ろうとされました。 指鬘は遠くに比丘が来るのを見て、歓喜雀躍して自ら抑えられませんでした。「我が願いは果たされた。必ず指鬘を成し遂げ、しかも母を害さず、呪術も成就する。しばらく我が母とこの食べ物をとどめ、かの比丘を殺してから食べよう。」刀を執り盾を掲げて比丘に立ち向かいました。 無害はもともと壮士で、走れば奔馬にも及び、仏に向かって馳せました。仏は神力をもって、かの無害を地に縮こまらせ、仏の地は広くゆったりとされました。こうして疲れ果てても仏に追いつくことができませんでした。指鬘は声を上げて沙門に叫びました。「止まれ止まれ、沙門よ。私は義を問いたい。」比丘は答えました。「私はもともと久しく住んでいる。あなたこそ住まないのだ。」そのとき、指鬘は偈をもって比丘に説きました。

「沙門行反言住， 我住反言不住，沙門當說此義， 云何汝住我不住？」

> 修行者は「私は留まらない」と言うけれど、私は「留まる」と言う。 修行者よ、この意味を説くべきだ。どうしてあなたが留まり、私が留まらないのか。

爾時佛復以偈答曰：

> そのとき、仏は再び詩でお答えになった。

「指鬘我已住， 無害一切人，汝為凶暴人， 何不改罪過？」

廣說如契經偈。爾時指鬘賊即以劍楯、頭上指鬘投於深㵎，叉手合掌向如來懺悔，復以偈讚曰：

## 出曜經卷第十七