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title: "出曜經 · 18 水品"
description: "出曜经是姚秦时期著名译经师竺佛念所译的佛教经典，属于早期汉传佛教重要文献之一。该经主要阐述佛陀的教法，内容涵盖修行方法、因果业报、戒律规范等核心教义，具有鲜明的实践指导意义。竺佛念作为五世纪初重要译经家，其译文准确流畅，对佛教在中国的传播影响深远。出曜经不仅反映了早期佛教思想体系，也为研究中国佛教发展史提供了珍贵资料，在汉传佛教经典中占有重要地位，是了解原始佛教教义的重要参考典籍之一。"
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## 出曜經卷第十八

> 出曜経 巻第十八

姚秦涼州沙門竺佛念譯

> 姚秦涼州沙門竺仏念訳

### 雜品之二

> 雑品 第二

「自歸大聖雄， 欲覲尊沙門，今欲自悔過， 久來所作罪。」

> 「自ら大聖雄に帰依し、尊き沙門にまみえようと望みます。 今、自ら過ちを悔い、長きにわたり積み重ねてきた罪を告白したいと願います。」

爾時世尊還現色相威神炳著，手執指鬘詣祇洹精舍告諸比丘：「汝等將此指鬘度為比丘。」即如佛教得為道人，清旦著衣持鉢入舍衛城分越。爾時城門裏有一牝象，懷妊欲產不時得產。象主遙見比丘來即起迎逆。「比丘若能使象時產者，可得入城乞；不能使象產者，不得入城分越。」比丘答曰：「吾先不誦此呪，且小停住，須吾還至世尊所受誦神呪，還當呪之使得產。」時指鬘比丘即至世尊所，頭面禮足白世尊曰：「向者入城分越，值城門裏有象欲產，責我呪術，象得產者然後得乞。唯願世尊願受神呪，使象得產使得分越。」佛告指鬘：「汝往彼所當以此言呪之：『今至誠呪，自生以來初不殺生。』持是至誠語使象得產無他。」爾時鴦掘魔從佛受呪術，即往呪象安隱得產。時諸人民皆稱：「善哉！世間乃有此奇怪之事。此指鬘前後殺生不可稱計，今方自呪從生以來初不殺生，持是至誠語使象得產無他。」便得入城，街巷人民見指鬘來，其中或父母兄弟妻息為指鬘所殺者，皆前報怨，或以刀杖瓦石打指鬘極使牢熟，破頭傷體裂壞衣被，鉢盂亦破，即走出城竟不乞食。還至世尊所，頭面禮足自說緣本，佛知其意指鬘受緣報何其速哉？爾時世尊漸與說法，即於坐上得須陀洹果乃至羅漢六通清徹。

> その時、世尊は再び荘厳な姿と威光を現し、手に指鬘を持って祇園精舎に赴き、比丘たちに告げられました。「あなたたちは、この指鬘を僧侶として受け入れなさい。」僧侶たちはその教えの通りに彼を出家させました。 ある朝、指鬘は衣をまとって鉢を持ち、舎衛城に托鉢に入りました。その時、城門の内側に一頭の雌象がおり、妊娠していましたが、なかなか産むことができませんでした。象の飼い主は遠くから比丘が来るのを見て、すぐに立ち上がって出迎えました。「比丘様、もしこの象をすぐに産ませることができれば、城内に入って托鉢しても構いません。しかし、産ませることができなければ、城内での托鉢は許されません。」と告げました。 比丘は答えました。「私はまだそのような呪文を習っていません。少しお待ちください。世尊のもとに戻って神呪を教わり、戻ってきて呪文を唱え、この象を産ませましょう。」そこで指鬘比丘は世尊のもとに行き、頭を足に付けて礼をし、こう申し上げました。「先ほど托鉢のために城内に入ろうとしたところ、城門の内側で出産に苦しむ象に出会いました。象の持ち主は私に呪術を求め、象が無事に産んだ後でなければ托鉢を許さないと言います。どうか世尊よ、神呪を授けてください。象を無事に産ませ、托鉢ができるようにお願いいたします。」 仏は指鬘に告げられました。「あなたはあの場所に行き、この言葉で呪いなさい。『今、真実の心で誓う。生まれてこのかた、一度も生き物を殺したことがない』と。この真実の言葉の力によって、象が無事に産まれ、何の障りもありませんように。」その時、鴦崛魔（指鬘）は仏から呪文を受け、すぐにその呪文を唱えて象を無事に産ませました。 人々は皆、「素晴らしい！世の中にこのような不思議なことがあるとは。この指鬘は以前は数え切れないほどの命を奪ってきたのに、今や自ら呪文を唱え、生まれてから一度も殺生をしたことがないと言う。この真実の言葉で象が無事に産まれた。」と讃えました。 こうして指鬘は城内に入ることができましたが、街中で彼を見た人々の中には、父母や兄弟、妻や子供を指鬘に殺された者たちがいて、それぞれが復讐しようとしました。彼らは刀や杖、瓦や石で指鬘を激しく打ち据え、頭は傷つき、体は裂け、衣は破れ、鉢も壊れてしまいました。指鬘はついに托鉢もできずに城外へ逃げ出し、世尊のもとに戻りました。そして頭を足に付けて礼をし、一部始終を話しました。 仏はその心を知り、指鬘が縁による報いをこんなにも速く受けるとは何ということか、と思われました。そこで世尊は次第に説法をされ、指鬘はその場で須陀洹果（預流果）を得、ついには阿羅漢果に至り、六神通を清らかに体得したのでした。

爾時波斯匿王，即集四種兵，馬兵象兵車兵步兵，欲往詣彼園與鴦掘魔共鬪。出舍衛城中，道聞行人說，鴦掘魔大賊受如來教得為比丘，即停兵眾入祇洹精舍，與如來相見。爾時世尊知王當來，即以神足隱鴦掘魔形使不顯露。時，王波斯匿至世尊所，頭面禮足在一面坐，爾時世尊即知而問曰：「王嚴備戰具集四種兵，為欲何至？」王白佛言：「界內有賊，名鴦掘魔，依嶮作賊暴虐無道，故集兵眾欲往攻伐。中路聞人說：『鴦掘魔受佛來化得為道次。』不審其人今為所在？」佛知王意即攝神足，使王見鴦掘魔。王見恐懼面投於地，諸臣扶起以水灑之。佛告王曰：「是王大幸遇此小恐，其人已得阿羅漢果。設當王詣彼深園見其本形，頭戴指鬘人血塗體，身執利劍顏色隆怒，王當見者心肝摧碎即喪命根。」王白佛言：「如來今日未降者降、未度者度，云何世尊！其人乃殺無央數人，云何得成羅漢果？」佛言：「無苦，行有前後、有熟不熟、有初有終。」爾時世尊觀宿因緣，便於大眾而說斯頌：

> その時、波斯匿王は四種の軍勢、すなわち騎馬兵、象兵、戦車兵、歩兵を集め、園林へ向かってアングリマーラと戦おうとしました。舎衛城を出る途中、道ゆく人から「大盗賊アングリマーラが如来の教えを受けて比丘となった」と聞き、王は軍勢を止めて祇園精舎に赴き、如来とお会いになりました。 その時、世尊は王が来られることを知り、神通力によってアングリマーラの姿を隠し、見えないようにされました。波斯匿王は世尊のもとに到り、頭を仏足に伏せて礼拝し、一方にお座りになりました。 そこで世尊は王の心中をお見通しになり、お尋ねになりました。「王は戦装備を整え、四種の軍を集められたが、どこへ向かわれるおつもりか。」 王は仏に申し上げました。「領内にアングリマーラという賊がおり、険しい地に拠って乱暴を働き道もありませんので、軍を集めて討伐に向かおうとしました。ところが途中で『アングリマーラが仏の教えを受けて修行者となった』と聞きました。はたしてその者は今どこにいるのでしょうか。」 仏は王の思いを知り、神通力を解いて、王がアングリマーラを見ることができるようにされました。王はその姿を見て恐怖のあまり地面に倒れました。家臣たちが王を支え起こし、水をかけて正気に戻らせました。 仏は王に告げられました。「王はこの小さな恐怖に遭われたが、むしろ幸運であった。この者はすでに阿羅漢果を得ている。もし王が彼の元の姿、すなわち頭に指の髪飾りを頂き、血に染まった体で鋭い剣を手に、怒りに満ちた表情であの深い園林にいるのをご覧になれば、心臓は砕け、命を落とされたことであろう。」 王は仏に申し上げました。「如来は今日、まだ降伏していない者を降伏させ、まだ救われていない者を救われました。しかし世尊よ、あの者は無数の人々を殺したというのに、どうして阿羅漢の果報を得ることができたのでしょうか。」 仏はお答えになりました。「心配することはない。行いには前後があり、熟するものと熟さないものがあり、初めと終わりがあるのだ。」 その時、世尊は過去の因縁を観察され、大衆の中でこの偈を説かれました。

「人前為惡， 以善滅之， 是照世間，如月雲消。」

> 人前で悪を行ったならば、 善をもってそれを滅しなさい。 それは世の中を照らすこと、 雲の消えた月のように。

人前為惡以善滅之者，如彼指鬘，殺害無數千人，以賢聖八品道而滅其惡，諸惡已盡永無根本，究竟清淨得不起法。是故說，人前為惡，以善滅之也。是照世間，如月雲消者，世間者其義有三：一名眾生世，二名器世，三名陰世。猶如秋月眾星圍繞，於中獨明光照遠近，弊惡比丘諸惡已盡，修清淨行，便於大眾廣有濟度。是故說，是照世間，如月雲消也。

> 昔、悪を為した者が、善によってその悪を滅ぼすことは、例えば指鬘（アングリマーラ）が無数の人々を殺しながらも、聖なる八つの正しい道によってその悪を滅ぼしたようなものです。諸々の悪は尽き、永遠に根本が断たれ、究極の清らかさを得て、もはや生まれ変わることのない法（悟り）に至りました。ゆえに説かれています。「人が前に悪を為しても、善によってそれを滅ぼす」と。 この世の中を照らすことは、月が雲に消えるようなものです。この「世の中」には三つの意味があります。第一に衆生世、第二に器世、第三に陰世です。例えば秋の月が多くの星々に囲まれ、その中でただひとつ明るく輝き、遠く近くを照らすように、悪しき行いをした比丘も、諸々の悪が尽き、清らかな行いを修めれば、大衆の中にあって広く人々を救済するのです。ゆえに説かれています。「この世の中を照らすことは、月が雲に消えるようなものである」と。

人前為惡， 以善滅之， 世間愛著，念空其義。

> 人前で悪を行う者は、 善をもってそれを滅ぼしなさい。 世の中に執着があるなら、 その意味を空として観じなさい。

人前為惡，以善滅之者，夫作惡皆由愛著，彼梵志妻興惡向無害，皆由愛心。是故說，人前為惡，以善滅之也。世間愛著，念空其義者，愛心深固流轉三界，受四生分迴趣五道，皆由愛著不能捨離，行人分別虛而不真，知皆空寂不可恃怙，是故說，世間愛著，念空其義也。

> 人前で悪をなしても、善をもってそれを滅する者よ。そもそも悪を行うのは、すべて愛着による。かのバラモンの妻が、害のない者に向かって悪意を抱いたのも、すべて愛心ゆえである。ゆえに説く、「人前で悪をなしても、善をもってそれを滅する」と。 世間の愛着について、その意味を空として観じるならば、愛心は深く固く、三界を流転し、四生の分をうけ、五道をめぐる。すべて愛着によって、これを捨て離れることができない。修行者はこれを分別して虚しく真実ならずと知り、すべて空寂にして頼るべからざるものと知る。ゆえに説く、「世間の愛着について、その意味を空として観じる」と。

少壯捨家， 盛修佛教， 是照世間，如月雲消。

> 若者が若いうちに家を捨て、さかんに仏教を修行すれば、その人は世の中を照らす存在となる──まるで雲が晴れた後の月のように。

佛契經說：「因象師喻，時象師教訓少壯象，樂於曠野不被調御，即於曠野命終，復有中象不被調御，於彼取命終。少壯比丘此亦如是，不被教訓而取命終，長老比丘不被教訓而取命終。」比丘當知此亦如是，少壯象調御而取命終，中年象被調御而取命終，少壯比丘被教訓而取命終，長老比丘被教訓得賢聖法而取命終。少壯比丘盛修佛教，無所漏失具足佛法。云何為具足？越次取證成無上果，是故說，少壯捨家，盛修佛教也。是照世間，如月雲消者，猶如秋月光明遠照也。

> 仏教経典にこう説かれています。「象使いのたとえ話によると、象使いが若い象を訓練しようとしたところ、その若い象は野原を楽しみ、調教されずに野原で命を終えました。また、中年の象も調教されずにそこで命を終えました。若い修行者たちもこれと同じで、教えを受けずに命を終え、年老いた修行者たちも教えを受けずに命を終えます。」 修行者たちよ、よく知るがよい。これもまた同じである。若い象が調教されて命を終え、中年の象が調教されて命を終えるように、若い修行者が教えを受けて命を終え、年老いた修行者が教えを受けて聖なる法を悟り、命を終えるのである。 若い修行者は、仏の教えを盛んに修行し、漏れなく完全に仏法を身につける。どのようにして完全となるのか。段階を越えて悟りを達成し、無上の果報を得るのである。ゆえに説く、「若くして家を捨て、仏の教えを盛んに修行せよ」と。 「世を照らすこと、雲の消えた月の如し」とは、ちょうど秋の月が明るく遠くまで照らすようなものである。

少壯捨家， 盛修佛教， 世間愛著，念空其義。

> 若き日に家を捨てて、仏教を盛んに修行し、世の中の愛着について考えるときは、その意味が空であると観じなさい。

少壯捨家者，欲斷愛著，諸天、阿須倫所見敬侍，加留羅、乾沓和等皆悉承事供養，是故說，世間愛著，念空其義也。

> 若者は家を捨てて、執着を断ち切ろうと努める。すると、天やアスラ(※阿修羅)などの神々は彼を敬い仕え、カルラ(※金翅鳥)、ケンダツバ(※乾闥婆)なども皆、彼に仕え、供養をする。それ故に、こう説かれている。世の中の愛執について、その意味をよく考え、空(くう)と見つめなさい、と。

生不施惱， 死而不慼， 是見道悍，應中勿憂。

> 生きている間は他者を苦しめず、 死ぬ時には悲しまない。 これが道を見極めた勇者の姿であり、 その中にあって憂えてはならない。

生不施惱，死而不慼者，自生以來不殺盜婬妷，不犯諸邪，臨命終時，神識澄靜亦不驚懼，亦復不見地獄畜生餓鬼，不見弊惡鬼，但見吉祥瑞應，是故說，生不施惱，死而不慼也。是見道悍，應中勿憂者，彼見諦人已離五難，雖在憂慼之間淡然無為，亦不悲號哭泣生諸眾惱，是故說，是見道悍，應中勿憂也。

> 生きている間、他者に苦しみを与えず、死に際しても悲しまない者とは、生まれてこのかた殺生・盗み・邪淫といったあらゆる悪行を犯さず、命が終わる時には意識が澄み静かで、驚きや恐れもなく、地獄や畜生、餓鬼の世界も見えず、醜い悪鬼も見えない。ただ、吉祥の瑞兆のみを目にする。ゆえに説く、「生きていて苦しみを与えず、死に臨んでも悲しまない」と。この道を見極めた勇者は、その中にあって憂い悲しむことなかれ。その真理を見極めた人は、すでに五つの難を離れている。たとえ悲しみや苦しみの只中にあっても、淡々として無為であり、声をあげて泣き叫んだり、さまざまな苦しみを生み出したりすることはない。ゆえに説く、「この道を見極めた勇者は、その中にあって憂い悲しむことなかれ」と。

生不施惱， 死而不慼， 是見道悍，在親獨明。

> 生まれてきたからといって悩みをふりまかず、 死ぬからといって悲しみに沈まない。 これこそが、道理を見極めた、たくましい者の姿である。 身内の中にあっても、ただ一人、はっきりと見通している。

生不施惱，死而不慼者，自生已來，不由父母兄弟宗親五族而行惡法也，是故說，在親而獨明。

> 生まれて他者を悩ませず、死に臨んでも悲しまない人は、この人生において、父母や兄弟、親族の助けを借りずに、悪い行いをしない生き方をしてきたからです。それゆえに、たとえ身内の中にあっても、その人は独りで明らかな智慧を輝かせている、と説かれています。

斷濁黑法， 學惟清白， 渡淵不反，棄猗行止， 不復染樂， 欲斷無憂。

> 濁った黒い心を断ち切って、 清らかな白い行いだけを学び、 深い淵を渡って、二度と戻らない。 執着に寄りかかる歩みを捨て去り、 再び欲望に染まり楽しむことはなく、 欲望を断って、憂いのない境に入る。

斷濁黑法者，云何名為濁黑法？答曰：「一切諸使縛結塵垢，一切諸不善法退墮法、諸染著生死者，當斷已斷永斷。」是故說，斷濁黑法也。學惟清白者，云何名曰清白法？答曰：「意止、意斷、神足、根、力、覺意、八正道，三十七品，正使有法離於生死得出要者，亦名清白法。」是故說，學惟清白也。渡淵不反者，何以故名為淵？所謂淵者，流在界趣轉增生死，由此淵故流轉生死不可稱記，墮三塗八難，是故世尊說，當滅四淵求無上道。是故說，渡淵不反也。棄猗行止者，云何為猗？所謂猗者，猗欲不善法，是故如來說，棄猗無著乃謂真行。是故說，棄猗行止也。不復染樂者，不染五樂，親近賢聖律終不捨離，是故說，不復樂也。欲斷無憂者，夫人不至於無為，皆由有欲，染著女色興意思想，念彼色貌髮毛爪齒肥白端正；行人執意除去彼念，欲想便息不復熾然。是故說，欲斷無憂也。

> 濁った黒い法を断ち切るとは、どのようなものを濁黒法と言うのか。答えよう。「あらゆる煩悩の束縛や、心を汚す塵埃、あらゆる不善の法、退堕落させる法、生死に執着するもの。これらは、断つべきであり、断たれ、永遠に断たれるべきである。」それゆえに、「濁黒法を断つ」と言うのだ。 清らかな白い法のみを学ぶとは、どのようなものを清白法と言うのか。答えよう。「四念処、四正断、四神足、五根、五力、七覚支、八正道という三十七の修行の道具。そして、たとえ生死を離れ、解脱へと至る道となる法であれば、それもまた清白法と呼ぶ。」それゆえに、「清白法のみを学ぶ」と言うのだ。 淵を渡りて還らざるとは、なぜ淵と名付けるのか。いわゆる淵とは、六道の世界に流れ続け、生死を増長させるものである。この淵によって、生死を転々とし、その数は計り知れず、三悪道や八つの難しい境涯に堕ちるのである。それゆえ世尊は説かれた。「四つの淵を滅ぼし、最高の悟りの道を求めなさい」と。それゆえに、「淵を渡りて還らざる」と言うのだ。 よりかかりを捨てて行いを止めるとは、よりかかりとは何か。いわゆるよりかかりとは、欲望や不善の法に寄りかかることである。それゆえ如来は説かれた。「よりかかりを捨て、何にも執着しないことこそが、真の修行である」と。それゆえに、「よりかかりを捨てて行いを止める」と言うのだ。 再び楽しみに染まらないとは、五つの感覚的な楽しみに染まらず、聖なる賢者の教えに親しみ、決してそれを捨て離れないことである。それゆえに、「再び楽しみに染まらない」と言うのだ。 欲望を断ち切れば憂いはないとは、人は無為の境地に至れないのは、みな欲望があるからである。女性の姿に執着し、思いを巡らせ、その容貌、髪、毛、爪、歯、豊かで白い端正な姿を思い浮かべる。修行者は心を制御してそのような思いを断ち切れば、欲望の想いは消え去り、再び燃え上がることはない。それゆえに、「欲望を断ち切れば憂いはない」と言うのだ。

愛欲意為田， 婬怒癡為種，故施度世者， 得福無有量。

> 愛欲という心を田んぼとし、 怒りや愚痴の煩悩を種としてきたからこそ、 この世を超えようと施しを行うならば、 その功徳は計り知れないほどに大きいのです。

愛欲意為田者，猶如荒田穢地不數修治，菅草競生傷害良苗，穀子不滋時不豐熟，人染著愛欲亦如是，是故說，愛欲意為田也。婬怒癡為種者，夫行人習行常自觀察，若人種德，為施何處而獲果報？答曰：「施無空入者少，施空入者多。」云何施無空入者少？答曰：「諸在外道異學及裸形梵志尼乾子等，愚人好施於中望福，於十六分而不獲一。」猶如穢田傷害善苗，穢行梵志傷害善根，為婬怒癡所覆不生道果。是故說，婬怒癡為種，故施度世者也。得福無有量者，嘆說如來聖眾施福之報，於大眾之中有斷欲人，所施雖少獲福無量，所得果報不可稱計，是故說，故施度世者，得福無有量。

> 愛欲の心を「田畑」とするなら、それはまるで荒れ果てた不毛の土地を、手入れもせずに放置しているようなものだ。 雑草が競い合って生え、良い苗を傷つけてしまう。穀物の種は育たず、実りもない。 人が愛欲に染まるのも、まさにこれと同じである。ゆえに説こう。「愛欲の心を田畑とする」と。 また、淫らな心、怒り、愚かさを「種」とする。 修行する人は、常に自らの行いをよく観察せよ。 もし人が功徳を積もうとして、どこに施しをすれば果報が得られるのかと問うならば、こう答えよう。「施しが無駄にならない人は少なく、無駄になる人は多い」と。 なぜ「施しが無駄にならない人は少ない」のか。 答えよう。様々な外道の異学や、裸形の梵志、尼乾子（ジャイナ教徒）などのもとでは、愚かな人は好んで施しをしても、その中に利益を望むのだが、十六分の一の果報さえも得られないのである。 それは丁度、荒れ果てた田畑が良い苗を傷つけるように、汚れた行いをする梵志が善い根を傷つけ、淫らさ、怒り、愚かさに覆われて悟りの道の果報を生じさせないからである。 ゆえに説こう。「淫らな心、怒り、愚かさを種として、世を超えるための施しをするならば」と。 「得る福に限りがない」とは、如来と聖なる僧団への施しの福徳による報いを称賛するものである。 大いなる集いの中に、欲望を断ち切った人がいれば、その人に施すことは、たとえわずかであっても限りない福を得ることになり、その果報ははかり知れない。 ゆえに説こう。「世を超えるための施しをするならば、得る福に限りがない」と。

猶如穢惡田， 瞋恚滋蔓生，是故當離恚， 施報無有量。

> 汚れた田んぼのように、 怒りは雑草のように広がります。 だからこそ、怒りを手放しなさい。 与えれば、その報いは計り知れないのです。

猶如穢惡田，瞋恚滋蔓生者，何以故名為穢惡？所以名穢惡者，亦自毀己復毀他人。所以自毀者，瞋恚熾盛顏色變易本性改異，是謂自毀。復毀他人者，瞋恚熾盛毀損他人，乃至失其命根。是故說，猶如穢惡田，瞋恚滋蔓生也。是故當離恚，施報無有量者，人由懷恚後受恚報，人由瞋恚亡國破家，皆由瞋恚，仁施福德施無恚者，獲福無量，是故說，當離恚施，報無量也。

> ちょうど荒れ果てた田んぼのように、怒りは雑草のように生い茂る。では、なぜ「荒れ果てた」というのか。それは、自らを損ない、他人をも損なうからである。自らを損なうとは、怒りの炎が燃え盛り、顔色が変わり、本来の性質が変わってしまうことをいう。他人を損なうとは、怒りの炎が激しく燃え上がり、他人を傷つけ、時にはその命を奪うことさえある。それゆえに、「荒れ果てた田んぼのように、怒りは雑草のように生い茂る」と説かれたのである。ゆえに怒りを離れるべきである。施しの報いは限りがない。人は怒りを抱けば、後にその報いを受ける。人は怒りによって国を滅ぼし家を失う。全ては怒りによるものである。慈悲深い施し、怒りのない施しは、限りない福徳を得る。それゆえに説く、「怒りを離れた施しの報いは限りがない」と。

猶如穢惡田， 愚癡穢惡生，是故當離愚， 獲報無有量。

> 穢れた田んぼのように、愚かさから汚れたものが生まれます。 だからこそ、愚かさから離れなさい。そうすれば、計り知れない報いを得られます。

猶如穢惡田，愚癡穢惡生者，猶彼盲人目不覩高原平地，亦不見善色惡色青黃赤白。此眾生類亦復如是，以無明闇法而自纏絡，不覩四諦善不善法，覆蔽慧明及三十七道品。外道異學及諸梵志，癡所覆蓋不識道真。如來聖眾，永無此患。是故說，猶如穢惡田，愚癡滋蔓生也。是故當離愚，獲福無有量者，彼修行人欲求無愚者，當從何求？答曰：「當從如來聖眾求。何以故？已其聖眾觀察本末，若大若小若好若醜，分別四諦眼明智覺毫釐不失，施彼如來聖眾無有愚癡者，獲報無量也。」是故說，當離癡施，報無有量也。

> まるで荒れ果てた汚れた田んぼのように、愚かさという汚れが生じてくる。それはちょうど盲人が、高い平地も低い平地も見えず、善い色も悪い色も、青、黄、赤、白も見えないのと同じである。この人々の種類もまた同じように、無明の闇の法によって自らを絡め取り、四つの真理（四諦）や善悪の法を見ることができず、智慧の光明と三十七の修行の道（三十七道品）を覆い隠してしまっている。外道の異なる学問やバラモンたちも、愚かさに覆われて真実の道を認識できない。しかし、如来の聖なる集いには、このような悩みは永遠に存在しない。ゆえに説かれた、まるで荒れ果てた汚れた田んぼのように、愚かさが茂り生じてくると。それゆえ、愚かさから離れるべきであり、得る福徳には限りがない。修行を志す人が愚かさのない状態を求めるなら、どこに求めるべきか？答え：「如来の聖なる集い（僧伽）に求めるべきである。なぜなら、その聖なる集いは物事の本末を観察し、大きいものも小さいものも、良いものも悪いものも分別し、四つの真理を明確に見極め、智慧の眼が覚めて明らかで、わずかな誤りもないからである。その如来の聖なる集いに施しを行えば、愚かさのない者となり、その報いは無量である。」ゆえに説かれた、愚かさを離れて施すならば、その報いは無量であると。

猶如穢惡田， 憍慢滋蔓生，是故當離慢， 獲報無有量。

> あたかも汚れた田んぼに、 驕りの雑草がはびこるように、 ゆえに驕りを離れるならば、 限りない果報を得られるのだ。

猶如穢惡田，憍慢滋蔓生者，外道異學憍慢最甚，是故如來說偈曰：「婆羅門憍慢滋多，從今世命終，當生六趣中，鷄猪狗狼驢五泥犁六，施彼人者不獲其報。」是故說，猶如穢惡田，憍慢為滋多也。是故當離慢，獲報無有量者，於如來大法中除去憍慢，或時著衣持鉢入村乞食，下意自卑如旃陀童女，身被寶衣價直百千，若詣他舍倚門侍立不敢入舍侮慢。比丘亦復如是，本出豪族自苦其形修乞士法，御心調意如執利劍，手執鉢盂如世窮人；閻浮利人以髮為飾，我沙門便取剃之；閻浮利人衣裳多貪白淨，沙門染污為色；閻浮利人諸犯罪者逐著深山，沙門山藪為家，無欲之人執行如是，況得向果者心可移乎？是故說，當離憍慢，獲報無有量也。

> まるで不毛の田畑のように、驕り高ぶりは心に蔓延る雑草です。特に外道や異なる教えを説く者たちは、この驕りが最も甚だしい。それゆえ如来は次の偈を説かれました。「バラモンは驕り多く、この世を終えた後、六つの世界に生まれ落ちる。鶏、豚、犬、狼、驢馬、そして五つの地獄である。彼らに施しを行っても、報いは得られない。」つまり、不毛の田畑のように、驕りが心を蝕むということです。 故に、驕りを離れなさい。そうすれば計り知れない報いを得ることができるのです。如来の大いなる教えにおいて驕りを除くとは、例えば、衣をまとい鉢を持って村に托鉢に入る時、心を低くして、まるでチャンダーラ（賤民）の娘のように振る舞うことです。彼女は百千の価値ある宝衣をまとっていても、他家の門に寄りかかって立ち、敬意を払って屋内に入ろうとしません。比丘もまた同じです。元は高貴な生まれであっても、自らを苦しめて托鉢の修行をするのです。心を御することは、鋭い剣を手にするように、鉢を持つことは世の貧しい人のように。閻浮提（この世界）の人々は髪を飾りとするが、我々沙門は頭を剃る。閻浮提の人々は白く清らかな衣を好むが、沙門は衣を染めて濁色とする。閻浮提の人々は罪を犯した者を深い山に追放するが、沙門は山や藪を住まいとする。無欲の人の行いはこのようなものです。ましてや悟りの境地に向かおうとする者の心が、揺らぐことがありましょうか。故に説かれています。驕りを離れなさい。そうすれば計り知れない報いを得ることができる、と。

猶如穢惡田， 貪欲為滋蔓，是故當離貪， 獲報無有量。

> 汚れた田んぼのように、貪欲が雑草を生やします。だからこそ、貪りを離れなさい。そうすれば、得られる報いは計り知れません。

猶如穢惡田，貪欲為滋蔓者，人懷慳貪至死不改，或由慳貪傷夭命根，是故智者去離慳貪，是故說，猶如穢惡田，貪欲為滋蔓，是故當離貪，獲報無有量也。

> ちょうど汚れた田んぼに、貪りの欲が雑草として生い茂るように、人はむさぼりの心を抱いて死ぬまでそれを改めません。あるいは、そのむさぼりによって命を縮めてしまうことさえあります。だからこそ、賢い人はむさぼりから離れるのです。そこでこう説かれています。「ちょうど汚れた田んぼに、貪りの欲が雑草として生い茂るように、ゆえに貪りから離れるべきである。そうすれば、測り知れない報いを得ることができるのだ」と。

六增上王， 染為染首， 無染則離，染者謂愚。

> 六つの増上の王、 染まりが染まりの首となる。 染まりなければ、離れることができる。 染まる者を愚かという。

六增上王者，所謂王者何者是？曰意也。以次數者則名六，逆數者亦為六。增上者，意動則五隨走作五情，役使諸入，盡意所造。如佛契經說，猶如五根各各有境界，不相錯涉亦不相侵。意者至此五處最為原首，侵彼五界，役使五情不得停住，於五事中最勝最妙，是故名為王。是故說，六為增上王也。染為染首者，云何為染？所謂染者，染色聲香味細滑法，是故說，染為染首。無染則離者，云何名無染？所謂無染者阿羅漢是。雖言須陀洹諸塵垢盡得法眼淨，不永得淨；羅漢者永已得淨，是故說，無染則離也。染者謂愚，愚人所習習，著色香味細滑法，應思惟者然不思惟，不應思惟者反更思惟，是故說，染者謂愚也。

> 六つの王とは、何を指すのか。それは「意」である。順に数えれば六つとなり、逆に数えても六つである。「増上（主）とは、意が動けば五つの感覚（五情）がそれに従い、五つの感覚器官を働かせ、すべての認識対象（諸入）を使役し、すべてが意によって作り出されることをいう。仏の経典に説かれるように、五根はそれぞれ固有の領域を持ち、互いに混ざり合ったり侵害したりしない。しかし意はこれら五つの領域において最も根本であり、それらの領域に立ち入り、五感を働かせて休むことを許さず、五つの事柄の中で最も勝れ、最も優れている。それゆえに「王」と呼ばれる。ゆえに説かれる、「六つは増上の王である」と。 「染まりが染まりの主である」とは、何が「染まり」か。いわゆる染まりとは、色・声・香・味・触・法に染まることである。ゆえに説かれる、「染まりが染まりの主である」と。では「染まりなきは離れる」とは、何が「無染」か。いわゆる無染とは阿羅漢のことである。須陀洹（預流果）も煩悩の塵が尽きて法眼が清らかになると言われるが、それは永遠に清らかになったわけではない。しかし阿羅漢は、すでに永遠に清らかになったのである。ゆえに説かれる、「染まりなきは離れる」と。 「染まる者は愚かである」とは、愚かな人が慣れ親しむこと、すなわち色・声・香・味・触・法に執着することである。本来考えるべきことを考えず、考えるべきでないことをかえって考えてしまう。ゆえに説かれる、「染まる者は愚かである」と。

骨幹以為城， 肉血而塗之，根門盡開張， 結賊得縱逸。

> 骨組みで城郭のように築き上げ、血や肉でその上を塗り固めた。感覚の門は全て開き放たれ、煩悩という賊が思いのままに跳梁跋扈している。

骨幹以為城，肉血而塗之者，所謂城者，以五陰身為牆，骨幹垣壁以血染之，若當以內物現露於外者，便生惡露觀，不染著身，興不可樂想，以其皮膚覆骨莊飾為形，智者觀察無一可貪，是故說，骨幹以為城，肉血而塗之。根門盡開張，結賊得縱逸者，眼根開張受於外色，曰誰開乎？答曰：「由不思惟，故使結賊得入劫善根財貨。」耳鼻口身心亦復如是，意根開張結賊得入，是故說，根門得開張，結賊得縱逸也。

> 骨を城郭とし、肉と血でそれを塗り固める。いわゆる「城」とは、五蘊の身体を壁とし、骨を城壁として血で染めたものである。もし体内のものが外に露わになれば、厭うべき観察（不浄観）が生じ、身体に執着せず、楽しいという想いを持たなくなる。皮膚で骨を覆い飾り立てて形を成しているが、賢者は観察して、貪るべきものは何一つないと知る。ゆえに説かれた。「骨幹を城とし、肉血を以てこれを塗る」と。 諸感覚の門（根門）はすべて開き放たれ、煩悩という賊が好き放題に振る舞う。眼根が開き、外なる色を受け入れる。では、誰がこれを開くのか。答えよう。「よく考えないことによって、煩悩という賊を招き入れ、善根という財宝を奪われるのである」と。耳・鼻・舌・身・意もまた同じであり、意根が開き放たれることで、煩悩の賊が入り込む。ゆえに説かれた。「根門は開き放たれ、結賊は縦逸を得る」と。

有緣則增苦， 觀彼三因縛，滅之由賢眾， 不從外愚除。

> 縁があれば苦しみは増す。 あの三つの因（貪・瞋・痴）の束縛を観察せよ。 それを滅ぼすのは賢者たちによるのであり、 外の愚か者に従って取り除かれるものではない。

有緣則增苦者，前有因緣後生增苦，前無因緣苦何由生？猶如泉源出水成江河，此亦如是，因前有緣則有苦際，漸漸增長至四百四患，是故說，有緣則增苦也。觀彼三因縛者，猶如遇事人閉在作坊役使不住，此亦如是，五盛陰身以結使為縛，憂愁苦惱役使心識不得停住，復當經歷四百四病，是故說，觀彼三因縛也。滅之由賢眾者，夫欲信施當詣大眾，施少獲福多，猶如勇健丈夫能却外敵摧敗彼眾，乃名勇健，加得賞賜過出眾人。如來賢眾亦復如是，如海納萬川不拒細流，有來供養者不存用喜，不供養者亦不憂慼，是故說，滅之由賢眾也。不從外愚除者，世愚惑人顛倒來久計著吾我，著五陰身計為實身，猶如有人曾不被毒蛇螫而不避之，曾不被結使縛者而造其行，為外塵所染，是故說，不從外愚除也。何以故名為雜？所以言雜者，偈義種種演說不同，餘偈單義不與此同，是故說雜也雜品第十七竟。

> 因縁があれば苦しみは増す。過去に因縁があれば、後に苦しみが増す。過去に因縁がなければ、苦しみはどこから生じるのか。それはまるで、泉の水が流れ出て川や大河となるようなものだ。これもまた同じで、過去に因縁があれば苦しみが生じ、徐々に増大して四百四病に至る。ゆえに、因縁があれば苦しみは増す、と説くのである。 その三つの因縁の束縛を観察せよ。それは、あたかも人が仕事場に閉じ込められ、休む間もなく使役されるようなものだ。この五蘊の身もまた、煩悩を束縛とし、憂いや苦しみが心を駆り立てて休むことを許さず、やがて四百四病を経ることになる。ゆえに、その三つの因縁の束縛を観察せよ、と説くのである。 それを滅するのは、賢き僧伽による。もし布施をしようと望むなら、僧伽のもとへ行くべきである。わずかな施しで大きな福徳を得る。それは、力強い勇者が外敵を退け、敵軍を打ち破ってこそ勇者と名づけられ、さらには他の者を超える褒美を得るようなものだ。如来の賢き僧伽もまた同じである。海が多くの川を包み込み、細流をも拒まないように、供養する者がいても喜びに執着せず、供養しない者がいても憂い悲しまない。ゆえに、それを滅するのは賢き僧伽による、と説くのである。 外なる愚かさによらずして除くことはできない。世の愚かで惑える人々は、古くから迷いが深く、「我」というものに固執し、五蘊のこの身を実在の肉体と思い込んでいる。それは、毒蛇に噛まれたことのない者が毒蛇を避けないようなものであり、煩悩に縛られたことのない者が煩悩の行為に走り、外の塵に染まるようなものだ。ゆえに、外なる愚かさによらずして除くことはできない、と説くのである。 なぜ「雑」と名づけるのか。雑と名づける理由は、偈の意味が様々に異なって説かれているからである。他の偈は単一の義であり、これと同じではない。ゆえに、雑と説くのである<note>雑品第十七終わり</note>

### 出曜經水品第十八

> 出曜経 水品 第十八

心淨得念， 無所貪樂， 已度癡淵，如鴈棄池。

> 心が清らかであれば、正しく念じることができる。 貪りや楽しみに執着することなく、 すでに無明の深みを乗り越えた。 それはあたかも、雁が池を捨て去るかのようである。

心淨得念，無所貪樂者，係心於淨，恒求巧便欲得出要，觀此生死如幻如化，常懷恐懼心如熾火，是故說，心淨得念，無所貪樂也。如鴈棄池者，知彼池水多諸畏懼，又為獵者數來驚怖，鳥即棄池高翔避此眾難，是故說，如鴈棄池也。已度癡淵者，癡淵所蔽入骨徹髓，便求方便永滅無餘，是故說，已度癡淵也。

> 心が清らかであれば、正しい念（おもい）を得ることができます。何かに執着して楽しむことはありません。心を清らかに留め、常に巧みな方法を求め、迷いの世界から出離しようと願います。この生と死の世界は、幻や魔法のように儚いものだと見なし、常に恐れを抱き、その心は燃え盛る炎のようです。だからこそ、『心清らかにして念を得、貪り楽しむことなし』と説かれているのです。 例えば、水鳥が池を捨て去るようなものです。水鳥は、その池の水に多くの危険が潜み、また狩人たちが何度も驚かせに来ることを知っています。そこで鳥は池を捨て、高く飛び立ってこれらの様々な難を避けます。だからこそ、『水鳥が池を捨てるがごとく』と説かれているのです。 すでに愚かさの深い淵を渡り終えた者とは、愚かさの深い淵というものは、骨の髄まで染み渡るほどに人を覆い尽くすものです。そこで、そのような者は、巧みな方法を求めて、それを完全に滅ぼし尽くし、余すところなく無くしてしまうのです。だからこそ、『すでに愚かさの淵を渡り終えた』と説かれているのです。

譬如鴈鳥，從空暫下，求出惡道，至無為處。譬如鴈鳥者，畏諸眾鳥飛在虛空，避此諸難自求無為，是故說，譬如鴈鳥也。從空暫下者，身能飛行遠近無礙，去危就安，是故說，從空暫下也。求出惡道，到無為處也。賢聖弟子如來等正覺，為人除惡求出惡道，修於善業離一切結，是故說，求離惡道，至無為處也。亦名滅盡泥洹，無生滅著斷，恒不變易亦不磨滅，彼得定修行人，為老病所逼，四百四病恒切己身，厭患四大身，捨五陰形，入無為處。

> 例えば水鳥が、空から一時的に降り立つように、悪い道から脱して、無為の境地に至ることを求める。 例えば水鳥とは、様々な鳥たちを恐れて空中を飛び、これらの災難を避けて自ら無為を求めることから、このように説かれたのである。 空から一時的に降り立つとは、身体が遠く近く自由に飛び回り、危険を避けて安らかなところに向かうことであり、このように説かれたのである。 悪い道から脱して、無為の境地に至ることを求めるのである。 賢聖の弟子や如来、正しい覚者などは、人々のために悪を除き、悪い道から脱することを求め、善い行いを修めてすべての煩悩の束縛から離れる。このように説かれたのである。 また、これを滅尽・涅槃ともいい、生も滅もなく執着も断たれ、常に変わらず、磨滅することもない。その修行によって定を得た人は、老いや病に悩まされ、四百四病が常に自身に迫り、四大から成るこの身を厭い、五陰の形を捨てて、無為の境地に入るのである。

不修梵行， 少不積財， 愚者睡眠，守故不造。

> 修行に励まず、若いうちに財を蓄えず、愚か者は眠りにふけって、古いままで新しい道を築こうとしない。

昔佛在舍衛國祇樹給孤獨園。爾時世尊到時著衣持鉢，將侍者阿難，見閻浮界二人耆老，形變色衰僂步而行，見已世尊便笑。爾時阿難更整衣服，右膝著地長跪叉手白佛言：「佛不妄笑，笑必有以，願說其意。」爾時世尊告阿難曰：「汝頗見此二耆舊長老不？形變色衰。若此二人，於此舍衛國從少積財者，於舍衛國第一豪富；若當捨妻子棄捐居業，出家學道，即成阿羅漢。若小積財至足今日，於此舍衛城里，復在第二家；若出家學道，得阿那含果。此二人若在中年，積財至今日足，在第三家；若出家學道者，得斯陀含果。愍此二人違前所願，捨本隨末，飢寒勤苦萬患并至。」爾時世尊觀察此義，為後眾生敷演大明，在於大眾而說斯偈。

> 昔、仏は舎衛国の祇樹給孤独園におられた。ある時、世尊は時に着衣し鉢を持ち、侍者の阿難を連れて、閻浮界で二人の老人を見かけられた。その姿は変わり果て、色は衰え、腰を曲げて歩いていた。それを見て世尊は微笑まれた。 そこで阿難は衣服を整え、右膝を地につけ、手を合わせて仏に申し上げた。「仏はむやみに笑われることはありません。お笑いになるには必ず理由があります。どうかそのお心をお聞かせください。」 その時、世尊は阿難に告げられた。「お前はこの二人の老人を見たか？その姿は変わり、色は衰えている。もしこの二人が、この舎衛国で若い頃から財を積んでいたなら、舎衛国で第一の大富豪になったであろう。また、もし妻子を捨て、家業を捨てて出家し修行したなら、阿羅漢の悟りを得たであろう。あるいは、今日をしのぐだけのわずかな財を積んでいたなら、この舎衛国で第二の家に生まれていただろう。もし出家して修行したなら、阿那含の果を得たであろう。この二人が中年の頃に財を積み、今日に至るまで十分に蓄えていたなら、第三の家に生まれていただろう。もし出家して修行したなら、斯陀含の果を得たであろう。この二人は、かつての願いを裏切り、本来を捨てて末を追い、飢えや寒さに苦しみ、あらゆる困難が同時にやって来たのだ。哀れなことである。」 そこで世尊はこの意味を観察し、後の衆生のために大いなる光明を広く示し、大衆の中で次の偈を説かれた。

不修梵行， 少不積財， 如鶴在池，守故何益？

> 修行も積まず、若いうちに財も蓄えず、 それはまるで池の中の鶴のようなもの。 昔のままに固執しても、何の益があるだろう。

猶如老鶴伺立池邊，望魚上岸乃取食之，終日役思不果其願，用意不息自致亡軀。老有老法壯有壯力，鶴以老法行於壯力終日不果，但念少壯捕魚，不覺耆年已至。今此耆年長老亦復如是，自念力壯，歌舞戲笑博弈戲樂，不慮今日，年邁耆艾抱膝蹲踞。憶彼所更不行老法，但念少壯欺詐萬端，是故說，如鶴在池，守故何益。

> まるで年老いた鶴が池のほとりに立ち、魚が岸に上がってくるのを待ちわびて捕えて食べようとし、一日中思いを巡らせても願いが叶わず、その思いをやめようとせずに自ら命を落としてしまうようなものだ。老いには老いの道があり、壮年には壮年の力がある。鶴は老いの道を無視して壮年の力で行動しようとし、一日中成果を得られない。ただ若かった頃に魚を捕ったことだけを思い、老境がすでに訪れていることに気づかない。今、この長老もまた同じである。自らの力を壮年だと思い込み、歌い舞い、笑い戯れ、囲碁や博打に興じていた。今日、老いて膝を抱えてうずくまることになろうとは考えもしなかった。過ぎ去った日々を懐かしみ、老いの道を歩もうとせず、ただ若かった頃の様々な欺瞞を思い出す。だからこう説かれた。「鶴が池にいるように、古いにこだわって何の益があるのか。」と。

莫輕小惡， 以為無殃， 水渧雖微，漸盈大器， 凡罪充滿， 從小積成。

> 小さな悪事だからといって、 「災いはないだろう」と軽んじてはいけない。 水のしずくは小さくとも、 器を満たす。 すべての罪報もまた、 小さな積み重ねから成るのである。

莫輕小惡，以為無殃者，人為惡行雖小不可輕，蚖虵雖小螫嚙人身，毒遍其身以喪命根，毒藥雖微人來得食見毒便死。此亦如是，為惡雖小妨人正行，不至究竟不慮於後當受其報，日復一日不肯改更，不念遠離惡遂滋長，是故說，莫輕小惡，以為無殃也。水渧雖微，漸盈大器者，猶如大器仰承水漏，渧渧相尋溢滿其器，是故說，水渧雖微，漸盈大器也。凡罪充滿，從小積成者，愚人習行從小至大，日日翫習不覺殃至，是故說，凡罪充滿，從小積成。

> 小さな悪を軽んじて、「災いはない」と思ってはならない。 人が悪を行う時、たとえ小さくても、それを軽んじてはならない。 例えば、蛇は小さくとも人を噛めば、毒は全身に広がり、命を奪う。 毒薬もごくわずかでも、人がそれを口にすれば、即座に死に至る。 これと同じく、悪は小さくとも、人の正しい行いを妨げる。 道の完成に至らず、将来の報いを思わず、 日々を重ねて改めようとせず、 遠ざけようと願わなければ、悪はしだいに育っていく。 ゆえに説く、「小さな悪を軽んじて、災いはないと思うな」と。 水滴はごくわずかでも、やがて大きな器を満たす。 ちょうど、大きな器に水滴が漏れ入り、 一滴一滴が積もり、ついに器を満たすように。 ゆえに説く、「水滴はわずかでも、やがて大きな器を満たす」と。 あらゆる罪が満ちるのも、小さなことから積み重なるのである。 愚か者は小さな習慣から大きな過ちへと進み、 日々それを繰り返して、災いの訪れに気づかない。 ゆえに説く、「あらゆる罪が満ちるのも、小さなことから積み重なる」と。

莫輕小善， 以為無福， 水渧雖微，漸盈大器， 凡福充滿， 從纖纖積。

> 小さな善い行いを軽んじて、 「これくらいで福徳が得られるはずがない」と思ってはいけません。 水滴はとても小さいものですが、 少しずつ溜まれば大きな器を満たします。 すべての福徳もまた、このように わずかな行いの積み重ねから満ちていくのです。

莫輕小善，以為無福者，如有善人詣彼塔寺禮拜求福，或上明燃燈燒香掃灑，作倡伎樂懸繒幡蓋，從一錢始，復勸前人使發施心，一摶以上供養聖眾，或以楊枝淨水供給清淨，或脂燈續明。如此小小亦不可輕，依彼心識獲報無量，如然一燈除舍闇冥，不知冥之蹤跡，如燒極微妙香，盡除臭穢不知所在，利劍雖小能斷毒樹。此亦如是，善行雖微能除重罪，往來人天不更苦惱，從此適彼受福無量現在可知，渧渧不絕遂滿大器，勇者行福漸漸成就。是故說，凡福充滿，從纖纖積。

> 小さな善行を軽んじて、「これに福はない」と思ってはならない。 たとえば、ある善人が寺院や塔に赴き、福を求めて礼拝し、 あるいは灯明を灯し、香を焚き、掃き清め、 音楽を奏で、幡や蓋を掲げる。 それは一銭から始まる行いである。 さらに、他人に対しても布施の心を起こすよう勧め、 一握りの食べ物であっても聖なる僧団に供養し、 あるいは楊枝や清らかな水を清めるために施し、 油の灯明を絶やさずに灯し続ける。 このような、ほんのわずかな善行であっても、軽んじてはならない。 その人の心のありように従い、得られる報いは計り知れないのだ。 たとえば、一つの灯明が家の暗闇を除くとき、 闇の行方がどこにあるのかわからなくなるように。 また、極めて微かな香を焚けば、すべての臭いが除かれ、その行方も知れなくなるように。 小さな利剣であっても、毒の木を断ち切ることができるように。 これもまた同じである。 小さな善行であっても、重い罪を除くことができる。 そして、人天の間を往来しても、もはや苦しみ悩むことはない。 ここからあの世へと至り、受ける福は今のうちにわかるほど無量である。 ぽたぽたと滴る水も絶え間なく続けば、やがて大きな器を満たす。 勇気ある人は、福を行じて徐々に成就していく。 それゆえに、 「およそ福は満ちるものであり、それはわずかなものの積み重ねから成る」 と説かれたのである。

猶如人渡河， 縛筏而牢固，彼謂渡不渡， 聰叡乃謂渡。

> 川を渡ろうとする人が、いかだをしっかりと縛るように、 ある人は「渡る」と言い、またある人は「渡らない」と言うが、 賢い人はまさに「渡る」と言う。

縛筏而牢固者，猶彼眾生欲渡深淵，或筏而渡或腰船而渡，或浮瓠或載小船，或草木為筏，皆得至岸而無罣礙。是故說，猶如人渡河，縛筏而牢固也。彼謂渡不渡者，謂愛淵猶如深淵流出成河，彌滿世界流向三界，趣四生遍五道，復流至色聲香味細滑法，是故說，彼謂渡不渡也。聰叡乃謂渡者，所謂聰叡者佛辟支佛是，雖渡世淵不足為奇。何以故？世淵無盡，渡愛欲淵者，乃謂為奇。是故說，聰叡乃謂渡也。

> 筏をしっかりと縛るとは、あたかも人々が深い淵を渡ろうとして、筏に乗って渡る者、腰舟で渡る者、瓢箪を浮かべて渡る者、小さな船に乗る者、草木で筏を作る者など、皆が岸に着いて妨げられることがないようなものである。故に説かれた、「人が川を渡るように、筏をしっかりと縛れ」と。 「渡る」「渡らない」とは、愛欲の淵がまるで深い淵から流れ出で川となるごとく、世界に満ち溢れて三界へと流れ、四生を巡り五道を行き、さらに色・声・香・味・触・法へと流れ出ずることをいう。故に説かれた、「それが『渡る』『渡らない』である」と。 「聡明な者こそが渡る」とは、聡明な者とは仏や辟支仏のことである。彼らが世の淵を渡っても、それは驚くべきことではない。なぜなら、世の淵には際限がないからだ。愛欲の淵を渡ることこそ、驚くべきこととされる。故に説かれた、「聡明な者こそが渡る」と。

佛世尊已渡，梵志渡彼岸，比丘入淵浴，聲聞縛牢筏。昔有兩師大梵志，造立波羅利弗多羅大城，功夫已舉莊飾成辦，便請佛及眾僧入城供養。未與諸門立號，梵志內心作是念：「若沙門瞿曇從所門出，當名為瞿曇門，若復如來渡恒伽水，當名彼渡為瞿曇渡。」爾時梵志復生是念：「不審如來為欲載筏渡，腰船浮瓠小船為載河渡？」爾時世尊知彼梵志心中所念，即以神力及比丘僧忽然而渡，在彼岸立。爾時世尊在大眾中，而說此偈：

> 仏陀世尊はすでに彼岸に渡り、修行者も彼岸に至り、比丘たちは深みに入って沐浴し、声聞たちはいかだをしっかりと縛った。 昔、二人の偉大なバラモンがいて、パータリプトラの大城を築いた。その工事が完成し、飾りも整ったので、彼らは仏と僧侶たちを城に招いて供養した。まだ門に名前を付けていなかったので、バラモンは心の中で考えた。「もし沙門ゴータマがこの門から出るなら、これをゴータマ門と名付けよう。また、如来がガンジス川を渡るなら、その渡し場をゴータマ渡しと名付けよう。」 さらにバラモンはこうも思った。「如来は、いかだに乗って渡るのか、それとも腰舟、浮き瓢、小舟を使い、あるいは川を歩いて渡られるのだろうか？」 その時、世尊はバラモンの心の中の思いを知り、神通力によって比丘僧と共に瞬時に川を渡り、彼岸に立たれた。世尊は大衆の中で、この偈を説かれた。

「佛世尊已渡， 梵志渡彼岸，比丘入淵浴， 聲聞縛牢筏。」

> 仏世尊はすでに彼岸に渡り、 修行者たちもその岸に達した。 僧たちは深い淵で身を清め、 弟子たちはしっかりと筏を固めて縛る。

說此偈已各還精舍。梵志聞佛所說，歡喜奉行。

> この偈を説き終えると、それぞれの精舎に帰っていった。梵志は仏の説法を聞いて、喜び、その教えの通りに実践した。

是泉何用？ 水恒停滿， 拔愛根本，復欲何望？

> その泉に何の用があるのか？ 水は常に満ちている。 愛執の根を抜き去ったなら、 それ以上に何を望むことがあるのか？

是泉何用，水恒停滿者，三有者假謂為泉，愛亦名為泉，水恒停滿，一切諸結皆集愛泉，是故說，是泉何用，水恒停滿也。拔愛根本，復欲何望者，行人以能拔愛根本無復生死，猶如毒樹究盡其根，無復出生亦無枝葉，愛亦如是，無復枝葉拔其根本。復欲何望者，更不受有更不復生，是故說，復欲何望也。

> この泉に何の用があろうか。水が絶えず満ちているが、三有（三界の生存）を仮に泉と呼ぶのである。渇愛もまた泉と名づけられ、水が絶えず満ちている。あらゆる結びつき（煩悩）はすべて、この愛の泉に集まる。ゆえにこう説かれている。「この泉に何の用があろうか。水が絶えず満ちているのだから。」と。 愛の根本を抜き去ったなら、さらに何を望むことがあろうか。修行者は、愛の根本を抜き切ることで、もはや生死（生まれ変わり）がなくなる。ちょうど毒樹の根を完全に絶ち切れば、再び生え出ることもなく、枝葉も生じないのと同じである。愛もまた同じく、枝葉をなくし、その根本を抜き去るのである。「さらに何を望むことがあろうか」とは、もはや生存を受けることなく、再び生まれることもない。ゆえにこう説かれている。「さらに何を望むことがあろうか。」と。

水人調船， 弓師調角， 巧匠調木，智人調身。

> 水に応じて船を操り、 弓師は弓の端を整え、 巧みな職人は木を整える。 賢者は自らの身を整える。

水人調船者，治牢固𢿦，治諸孔不使漏水，使眾生類從此岸得至彼岸；弓匠修治筋角調和得所，火炙筋被用不知折。是故說，水人調船，弓師調角也。巧匠調木者，墨縷拼直高下齊平，意欲造立宮室成就，是故說，巧匠調木。智者調身者，恒以正教不毀法律，搜求義味，求上人法，是故說，智者調身也。

> 水に生きる人が船を調整する者は、船をしっかりと丈夫に作り、あらゆる隙間を修繕して水漏れを防ぎ、生きとし生けるものを此岸から彼岸へと渡らせます。 弓師は筋や角を調整し、上手く調和させ、火で炙った筋を弓に貼り付けても折れないようにします。 それゆえに、こう説かれています。「水に生きる人は船を調整し、弓師は角を調整する。」 巧みな職人が材木を調整する者は、墨縄で測り、まっすぐに高さを揃えて平らにし、心に建物を建て完成させようと意図します。 それゆえに、こう説かれています。「巧みな職人は材木を調整する。」 賢者が自らの身を調整する者は、常に正しい教えをもって、教えや戒律を破らず、その真の意味を探し求め、優れた人の道を追求します。 それゆえに、こう説かれています。「賢者は自らの身を調整する。」

猶如深泉， 表裏清徹， 聞法如是，智者歡喜。

> 深い泉のように、その表も裏も清らかに透き通っている。法を聞くこともまたこのようであり、賢い者は喜びに満たされる。

猶如深泉，表裏清徹者，所以說偈，智者以譬喻自解。或有深泉不清恒濁，或復有泉深而且清，於彼自照面像悉現，是故說，猶如深泉，表裏清徹也。聞法如是，智者歡喜者，昔有國王，厭患世典疲倦俗業，往至塔寺欲聽正法。時象力比丘得阿羅漢道，當次說法。時彼國王以巾覆頭，脚著履屣入眾聽法。羅漢比丘告彼王曰：「昔佛有制，不得為著屣者說法。」王內恚隆盛即脫履屣。羅漢比丘復告王曰：「昔佛如來亦說此限，不得與覆頭者說法。」王聞是語遂興瞋恚，內自思惟：「咄今為此比丘所辱，此比丘故當見我頭白禿，故欲辱我耳；若此比丘說法不入我耳者，當取斫頭。」爾時國王即却頭覆，「沙門速為我說法。」比丘報曰：「如來、至真、等正覺亦說此教，不得為瞋恚者說法。王今瞋恚，何由得說法？王當正意聽說譬喻。猶如濁泉涌沸不停，王今如是，心意倒錯何由聞法？」爾時國王內自慚愧，即興敬心：「此比丘必是聖人，乃能玄鑒通達人心。」即從坐起右膝著地頭面禮足，白比丘言：「唯願聖尊與我說法，使此穢形永蒙蔭覆。」王即就坐欲得聞法。爾時比丘便以此偈，向王說曰：

> 深い泉が、その表も中も清らかに澄み渡っているように、賢者は譬えによって自らを悟る。ある泉は深くとも常に濁っている。またある泉は深くて清らかであり、水面に自らの姿がすべて映る。ゆえに、『深い泉のように、表も中も清らかである』と説かれた。 このように法を聞いて、賢者が喜ぶとは、こういうことである。かつてある国王が、世俗の典籍に倦み、俗務に疲れ果てて、寺院に赴き正しい法を聞こうとした。その時、象力比丘という阿羅漢の境地に達した僧が、説法の番であった。その国王は頭に布をかぶり、履物を履いたまま、大衆の中に入って法を聞こうとした。阿羅漢の僧は国王に告げた。「昔、仏は定めを設けられた。履物を履いている者には法を説いてはならない、と」と。王は内心怒りが湧き起こり、すぐに履物を脱いだ。阿羅漢の僧はさらに王に告げた。「昔、如来もまたこの限りを説かれた。頭を覆っている者には法を説いてはならない、と」と。王はこの言葉を聞いてますます怒りを募らせ、心の中で思った。「おお、今この比丘に辱められた。この比丘は、私の頭が白く禿げているのを見て、私を辱めようとしているのだ。もしこの比丘の説法が私の耳に入らなければ、この比丘の首を刎ねてやろう」と。 その時、王は頭の覆いを払って言った。「沙門よ、早く私に法を説け」。比丘は答えた。「如来・至真・等正覚もまた、この教えを説かれている。怒りに満ちた者には法を説いてはならない、と。王は今怒っている。どうして法が説けようか。王は心を正して、譬えを聞くがよい。それはまるで、濁った泉が湧き上がり止まないようなものだ。王も今まさにそのような状態で、心は逆立ち乱れている。どうして法を聞けようか」。その時、王は内心深く恥じ入り、直ちに敬意を抱いた。「この比丘は必ずや聖人である。よく深く人の心を見通し、達しておられる」と。王は座を立ち、右膝を地につけ、頭を僧の足の下につけて礼をして言った。「どうか聖なる尊よ、私のために法を説いてください。この汚れた身が永遠にご慈愛に覆われますように」と。王は座に着き、法を聞こうとした。その時、比丘はこの偈を王に向かって説いた。

「猶如深泉， 表裏清徹， 聞法如是，智者歡喜。」

> 深い泉のように、 内外ともに清らかで澄み渡っている。 法を聞くこともまた、そのようであり、 賢者はそれを喜ぶ。

爾時比丘重與王說法，令彼王心歡喜踊躍，道根信心而不傾動。是故說，聞法如是，智者歡喜也。

> 時に比丘は再び王に教えを説き、王の心を歓喜躍動させました。その道への信心の根は固く揺るぎません。故にこう説かれています。「法を聞くことはかくのごとし。智ある者は歓喜する」と。

忍心如地， 不動如安明，澄如清泉， 智者無亂。

> 忍耐の心は大地のごとく、揺るぎなきは山のごとく、 清らかさは泉のごとく、賢者は決して乱されない。

忍心如地者，猶如此地亦受於淨亦受不淨，地亦不作是念：「我當捨是受是。」智者執行亦復如是，若人嘆譽不以為歡，有毀辱者不懷憂慼，見善不喜聞惡不怒。是故說，忍心如地也。不動如安明者，猶如安明獨處眾山，不為暴風所傾動。賢聖之人亦復如是，不為闕四事心有增減，是故說，不動如安明也。澄靜如清泉，智者無亂者，猶如澄靜泉表裏清徹，不為小流所嬈濁，智者如是，內既無非外姦不入，心如金剛不可沮壞，是故說，猶如澄泉，智者不亂也水品第十八竟。

> 大地のように忍耐する者とは、あたかもこの大地が清らかなものも清らかでないものも受け入れ、また大地が「これを捨てて、あれを受けよう」とは思わないのと同じである。智慧ある者の振る舞いもまた同様である。人が褒めたたえても喜ばず、毀り辱めても憂い悲しまず、善いものを見ても喜ばず、悪いことを聞いても怒らない。ゆえに説く、「忍耐は大地の如し」と。 動かざること安明山の如しとは、あたかも安明山がただ独り多くの山々の中にあって、暴風にも傾き動かされないかのようである。聖賢の人々もまた同様に、四つの事（衣食住薬）の欠如によって心に増減（動揺）を起こすことはない。ゆえに説く、「動かざること安明山の如し」と。 澄み静かなること清泉の如く、智慧ある者は乱れなしとは、あたかも澄み静かな泉が表も裏も清く透き通り、小さな流れによって濁らされないかのようである。智慧ある者もまた、内に非（悪）がなく、外からの奸（邪悪）も入らず、心は金剛の如く壊すことができない。ゆえに説く、「清泉の如く、智慧ある者は乱れず」と。 <note>水品第十八 了</note>

## 出曜經卷第十八

> 出曜経 巻第十八