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title: "出曜經 · 19 華品"
description: "出曜经是姚秦时期著名译经师竺佛念所译的佛教经典，属于早期汉传佛教重要文献之一。该经主要阐述佛陀的教法，内容涵盖修行方法、因果业报、戒律规范等核心教义，具有鲜明的实践指导意义。竺佛念作为五世纪初重要译经家，其译文准确流畅，对佛教在中国的传播影响深远。出曜经不仅反映了早期佛教思想体系，也为研究中国佛教发展史提供了珍贵资料，在汉传佛教经典中占有重要地位，是了解原始佛教教义的重要参考典籍之一。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmczndkge1n36jj04xpkboagn"
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## 出曜經卷第十九

> 『出曜経』第十九巻

姚秦涼州沙門竺佛念譯

> 姚秦涼州沙門竺仏念訳

### 華品第十九

> <note>華品第十九</note>

孰能擇地， 捨鑑取天， 唯說法句，如擇善華。

> 誰が地を選び、 鏡を捨てて天を取ることができるだろうか。 ただ法の句を説く者だけが、 良い花を選ぶように。

如來所以演此偈者，欲以生言致難，然無能致詰者。佛還自說，孰能擇地，捨鑑取天，唯說法句，如擇善華。佛以偈報曰：

> 如来がこの偈を説かれたのは、生きとし生けるものの言葉によって問い難じようとされたからであるが、しかし誰も問い詰めることはできなかった。仏は自ら説かれた。誰がよく地を選び、鏡を捨てて天を取ることができようか。ただ法の句を説くことは、善い華を選ぶようなものである。仏は偈をもって答えられた：

「學者擇地， 捨鑑取天， 善說法句，能採德華。」

> 学ぶ者は場所を選び、 鏡を捨てて天を取る。 よく法の句を説き、 徳の華を採ることができる。

學者擇地者，所謂向阿羅漢。云何名為地？所謂地者，愛種是也。學者執信擇選善地，除愛根本自致成道，是故說，學者擇地也。捨鑑取天者，學人修行，從此世間上至諸天，披求愛本永斷無餘，天龍鬼神八部將軍，其有愛者皆能除斷，是故說，捨鑑取天也。善說法句，能採德華者，句身味身分別義理一一剖判，以無礙智解諸縛著，猶如學人採致眾華以為鬘飾，賣既得價，觀者無厭，善說法句亦復如是，敷演玄微廣採眾妙，是故善說法句也。

> 学ぶ者が地を選ぶとは、阿羅漢の境地を目指すことをいう。では「地」とは何か。地とは、愛の種のことである。学ぶ者は信を保ち、よく選んだ善き地において、愛の根本を取り除き、自ら道を成し遂げる。それゆえ「学ぶ者は地を選ぶ」というのである。鑑を捨てて天を取るとは、学ぶ者が修行して、この世から天上の諸天に至るまで、愛の根源を探し求めて永遠に断ち切り、余すところなくすることをいう。天・龍・鬼神、八部の将軍たちのうち、愛を持つ者はみな断ち切ることができる。それゆえ「鑑を捨てて天を取る」というのである。よく法句を説き、徳の華を採るとは、句の集まりと味わいの集まりを一つ一つ分別し、義理を明らかにし、妨げのない智慧によってすべての束縛を解くことである。ちょうど学ぶ者が多くの華を採って花輪の飾りとし、それを売って値段を得れば、見る者は飽きることがないのと同じである。よく法句を説くこともまた同じで、深遠で微妙な真理を説き広め、多くのすぐれた教えを広く採り入れる。それゆえ「よく法句を説く」というのである。

斷林勿斷樹， 林中多生懼，斷林滅林名， 無林謂比丘。

> 林を断つといっても、木を一本ずつ切ることではない。 林の中には多くの恐れが生まれるからだ。 林への執着を断ち、林の想いを滅ぼすこと、 林のない状態を、比丘と呼ぶ。

昔佛在舍衛國祇樹給孤獨園。爾時世尊與無央數眾說法，前後圍繞。時有一人，信心堅固，捨家妻子捐棄五親，出家學道求為沙門。爾時彼人在大眾中，心念宿舊五欲自娛，憶女顏貌如現目前，陰便動起；心懷慚愧，即詣靜處以刀斷之，血流溢出迷悶不自覺知。爾時世尊告大眾曰：「汝等觀此愚人，應獲而不獲，不斷而便斷之。夫欲斷者，當斷結使諸縛，何乃斷此形相？」由是如來頻說二偈：

> 昔、仏は舎衛国の祇樹給孤独園におられました。そのとき世尊は、数えきれないほどの人々に説法をされ、多くの人に前後を囲まれていました。 そのとき一人の人がいました。信心は固く、家も妻も子も捨て、五人の親族をも捨てて、出家して道を学び、沙門となろうとしていました。その人が大勢の人の中にあって、昔の五欲の楽しみを心に思い、女の顔かたちをありありと目の前に思い浮かべたため、陰が動き起こりました。心に恥ずかしさを抱き、すぐに静かな場所へ行き、刀でそれを断ち切ったところ、血が流れ出て、気を失い、自分がどうなっているのかも分からなくなりました。 そのとき世尊は大衆に告げて言われました。「あなたがたはこの愚かな人を見なさい。得るべきものを得ず、断つべきでないものをすぐに断ってしまった。断とうとする者は、結使のさまざまな束縛を断つべきであるのに、どうしてこの形相を断つのだろうか。」 そこで如来は続けて二つの偈を説かれました。

「斷林勿斷樹， 林中多生懼， 未斷林頃，增人縛著。 斷林勿斷樹， 林中多生懼，心縛無解， 如犢戀母。」

> 林を断ち切れ、木を断つな。林には多くの恐れが生まれる。林を断ち切らぬ限り、人の執着は増していく。 林を断ち切れ、木を断つな。林には多くの恐れが生まれる。心の縛りは解けず、子牛が母を恋うように。

未斷林頃，增人縛著，未斷結使縛著諸想，心使流馳不能專一，是故說，未斷林頃，增人縛著也。心縛無解者，如苦行人常樂山藪，所以然者，皆由彼山得成道故，是故說，心縛無解。猶犢戀母者，猶如新生犢子，其心終不離母，此眾生類亦復如是，眾結未盡為狐疑所追逐，是故說，如犢戀母也。

> 林の煩いを断ち切っていないうちは、人の束縛はますます増える。煩悩の束縛を断ち切っていないので、あれこれと思いにとらわれ、心が流れ散って一つのことに集中できない。だから「林の煩いを断ち切っていないうちは、人の束縛はますます増える」と言うのである。心の束縛から解き放たれないとは、たとえば苦行をする人がいつも山や沢を好むようなものである。なぜかといえば、その山によって道を成し遂げることができるからである。だから「心の束縛は解けない」と言うのである。子牛が母を恋うようだとは、生まれたばかりの子牛の心が決して母から離れないようなものである。この生きとし生けるものもまた同じであり、煩悩の結び目がまだ尽きず、疑いの心に追いかけられている。だから「子牛が母を恋うように」と言うのである。

當自斷戀， 如秋池華， 息跡受教，佛說泥洹。

> 自分の執着を断ち切りなさい。秋の池の花のように。教えを受け入れ、心の跡を静めて、仏は涅槃を説かれる。

當自斷戀，如秋池華者，愛之染神病無端緒，猶如蓮華色鮮且好，其有見者莫不愛樂，及秋華萎，人心皆離不復貪樂，是故說，當自斷戀，如秋池華。息跡受教者，息跡者賢聖人，受正教誡初無差違，善法日增惡法日退。何以故？以佛說泥洹樂，泥洹中無苦惱眾患切身，是故說，佛說泥洹樂也。

> 自ら執着を断ち切るべきです。それは秋の池の花のように。愛着は心を汚し、病のように際限がなく、まるで蓮の花が色鮮やかで美しいときには、見る人が皆愛し楽しむのに、秋になって花がしぼむと、人の心は皆離れ、もはや貪り楽しむことがないのと同じです。だからこそ説かれたのです、「自ら執着を断ち切るべきです、秋の池の花のように」と。 <span class="note">教えを素直に受け入れる人について。</span> 教えを素直に受け入れる人とは、賢い聖なる人であり、正しい教えを受け止めて少しも違うことをせず、善い法は日々増え、悪い法は日々減っていきます。なぜでしょうか。仏が説かれた涅槃の楽しみには、苦しみや悩みが身を迫ることがまったくないからです。だからこそ説かれたのです、「仏は涅槃の楽しみを説かれた」と。

如彼可意華， 色好而無香，工言華如是， 無果不得報。

> 香りのよい花のように見えても、色は美しくても香りがない。口先だけの言葉も同じで、実を結ばず、何の報いも得られない。

爾時世尊愍彼群生，欲演法教故說斯偈，夫說法人，上中下善義理深邃，言行自違不獲其報，是故世尊說不得其果。如來所以說此偈者，欲訓後弟子，欲令師教嚴切，現弟子義承受教誡，或時弟子不堪教戒，是故說，如彼可意華，色好而無香，工言善如是，無果不得報也。

如彼可意華， 色好而香潔，工言善如是， 必得其果報。

爾時世尊為諸人前，頻而說斯法，彼說法人聲響清徹言無忌難，為眾生說法上中下善，義味具足，淨修梵行義理深邃，智者分別，已行專正訓彼亦爾，皆順於法不違義理，世尊說具得果報，是故說，如彼可意華，色好形香潔，工言善如是，必得其果報也。

如蜂集華， 不擾色香， 但取味去，仁入聚然。

爾時世尊，為分越比丘而說斯偈，彼與食人與處求觀，見前人善色惡色若好若醜，見彼容姿熟視不離，見彼不端正者目不視之，聞彼香者以鼻𭊴之，見彼穢者背而捨之，憶彼善色善香，還至房中晝夜思想。爾時世尊觀見比丘心各如是，佛告比丘：「汝等何不如蜂採華？但取味去不擾色香。汝比丘！善香惡香善色惡色若好若醜，何所加益？大家小家饒財貧賤，汝等如心便負彼人。如仁所行，何不如是行？」是故說，如蜂集華，不擾色香，但取味去，仁入聚然也。多作寶華，結步瑤琦者，如彼工巧華鬘弟子，多集眾華作華鬘，價以自存活。諸比丘見彼所行，便自造未曾有鬘，世尊說：「各造華鬘，汝等如是。正是行時，造無數行乃得人身，何不作福德而自修習布施思惟教誡，精進修戒持淨梵行？」是故說，多作寶華，結步瑤琦，廣積德者，所生轉好也。

愚誦千章， 不解一句， 智解一句，即解百義。

愚誦千章，不解一句者，愚者無智無行無見無眼不修聞，但有淺智麤智，貪食彼千句不解一句，是故說，愚誦千章，不解一句也。智解一句，即解百義者，智者有眼有見，能細思惟彼一義，圍遶義如此法應爾、不應爾，是故說，智解一句，即解百義也。

猶如雨時華， 萌芽始欲敷，婬怒癡如是， 比丘得解脫。

猶如雨時華，萌芽始欲生者，猶如雨時天華得敷開亦不減，華葉墮落芽生益好，是故說，猶如雨時華，萌芽始欲敷。婬怒癡如是，比丘得解脫者，「汝等比丘，不畏王故作道人，不畏賊故作道人，不畏責故作道人，不畏病故作道人，不畏役故作道人。汝等所以作道人者，患厭世苦作道人，欲離生老病死故作道人，為爾不？」比丘答曰：「如是，世尊！」「汝等何不思惟去婬怒癡？遠離結使不與從事，當吐當除當滅當獲。何等當獲二業？自為己、為他人。自為己者，以善熏身，為他人者，若受人信施，衣被飯食床敷臥具病瘦醫藥，則無有損。」是故說，婬怒癡如是，比丘得解脫也。

如作田溝， 近于大道， 中生蓮華，香潔可意。

如作田溝，近于大道者，所謂田溝者，不淨穢惡盡順其中，人見患之不肯親近，行則避之目不欲視，是故說，如作田溝，近于大道也。中生蓮華，香潔可意者，色成就香成就，人見歡喜當作是意，不問其地但觀其華。「云何於此處乃生極妙華？甚為奇特世之希有。」是故說，中生蓮華，香潔可意也。

有生死然， 凡夫處邊， 慧者樂出，為佛弟子。

昔佛在舍衛國祇樹給孤獨園。爾時世尊一日一夜六時觀察，頗有眾生應從佛度，反更墜他凡夫地，則於佛法有大闕減。以天眼見舍衛城裏，有一旃陀羅兒。客除糞以自存命。爾時世尊，到時著衣持鉢入舍衛城分衛，以次漸漸至彼旃陀羅家。時客除糞者，遙見世尊來，內懷慚恥，即避世尊更詣餘巷，如來忽然復往逆之。其人自念：「吾擔糞穢臭惡不淨，今日何由得覲世尊？」復欲避走，詣一澤地，索斷瓶破穢污淨地，恐地主瞋意欲馳走。佛遙喚曰：「吾今故為汝來，復欲何趣？」其人報曰：「身體穢污，不敢親近尊顏，是故欲避之耳。尊今當知，早喪父母，五親凋落無有妻息，孤窮單立，客除糞以自存活。不審世尊何所教誡？乃能慈愍與罪人共語。」爾時世尊告曰：「汝隨我來，欲度卿為沙門。」其人白佛言：「云何世尊！地獄餓鬼畜生亦得為道乎？」爾時世尊告彼人曰：「吾今永世以來修無數行求成佛道，正為罪苦人耳。」爾時世尊即以神力，手執其人上昇虛空，往至恒水側沐浴彼人身體香潔，復以神力接至祇洹精舍，勅諸比丘：「將此人度為沙門。」受教即度為沙門。其人已得為道，內自思惟：「吾出寒賤，幸有微福得染道味，今不自求求於道者，後墮凡細復劇於今。」即自勸勵精勤日新，未經旬日便得須陀洹果、斯陀含果、阿那含果、阿羅漢果，六通清徹涌沒自由，即詣一大方石，當中央坐補納故衣。

爾時王波斯匿，聞佛度旃陀羅兒客除糞者，王自思惟：「佛出釋種豪族姓家，左右弟子皆出四姓，長者種婆羅門種剎利種，來入宮室受人供養信施，五體投地接足而禮；今聞如來度旃陀羅種，我等云何屈伏禮敬？吾今當往責數如來。」王自嚴駕出詣如來所，未到之頃，見一比丘坐大方石補納故衣，有五百淨居天圍遶禮覲。王直前語比丘曰：「今煩比丘往白世尊：『王波斯匿在外，欲覲世尊。』」比丘聞已即沒入石中，從如來精舍地中出，前白佛言：「王波斯匿在外欲見世尊。」佛告比丘：「汝今還從此地入，從彼石出，告王曰：『宜知是時。』」即如佛教，從石涌出告語王曰：「如來有教，大王宜知是時。」波斯匿王復作是念：「我今所以來者，欲問彼除糞人，今且捨置，先問此比丘云何得入是剛鞕石裏涌沒自由？亦當問此比丘為是何人？」爾時波斯匿王，即除王飾前至佛所，頭面禮足在一面坐，須臾退坐前白佛言：「向者比丘為名何等？乃能有此神力，石裏往反無有罣礙。」佛告王曰：「此是客除糞人，今有神力如是。」爾時世尊以此因緣便說二偈：「猶如穢污惡地田溝深坑，生香潔蓮華。云何大王！有目之士當取此華不乎？」王白佛言：「唯然世尊！華極香潔當取莊飾，穢污當觀如母胎，於彼胎中生功德華。」時波斯匿王叉手合掌前白佛言：「唯然世尊！彼人快得善利，蒙聖垂教得在道次，既得為道，神足變化不可思議。自今以始，終身請此比丘供養，四事不闕。」是故說，慧者樂出家，為佛弟子。

如有採華， 專意不散， 村睡水漂，為死所牽。

如有採華，專意不散者，昔有眾多人在野採華，採擇妙者競取好者，是故說，如有採花，專意不散也。村睡水漂，為死所牽者，時彼人民採華疲惓歸家睡眠，客水暴溢盡漂殺之，是故說，村睡水漂，為死所牽也。

如有採華， 專意不散， 欲意無厭，為窮所困。

如有採華，專意不散者，是時人民採致妙華，競取好者奔趣東西，要獲妙香以用歡慶，是故說，如有採華，專意不散也。欲意無厭，為窮所困者，所以採取華者，欲以五欲自娛快自縱恣，莫知來變不觀未然，來變進趣死日逼至乃知為困，是故說，欲意無厭，為窮所困也。

如有採華， 專意不散， 未獲財業，為窮所困。

如有採華，專意不散者，是時人民窮儉多乏，採華往賣用自存濟，是故說，如有採華，專意不散也。未獲財業，為窮所困者，其人慇懃所在求財，不稱其願不充悕望，便為窮所逼，捨此形當更受身，皆由無慮故捨形受形，是故說，未獲財業，為窮所困也。

觀身如坏， 幻法野馬， 斷魔華敷，不覩死王。

觀身如坏者，猶彼坏器危脆不牢必當敗壞，為磨滅法不可恃怙悉當歸盡，漸漸積聚乃成堆阜。此四大身亦復如是，不可恃怙皆當歸盡，為磨滅法，如是不久當捐棄塚間，是故說，觀身如坏也。幻法野馬者，猶如野馬光焰熾明幻人眼目，人欲往就尋究不知所在，徒自疲勞無所剋獲。解知諸法皆悉如是，無強無牢不可恃怙，是故說，幻法野馬也。斷魔華敷者，所謂魔者稱為自在天子，彼所著結髮，以見諦思惟道往斷，斷已斷當斷，剝已剝當剝，打已打當打，是故說，斷魔華敷也。不覩死王者，見諦思惟道所應斷結已盡無餘，不復進趣向於自在天子，亦復不為天所牽連，是故說，不覩死王也。

此身如沫， 幻法自然， 斷魔華敷，不覩死王。

此身如沫者，猶如聚沫不得久停不可恃怙，捉便消滅不可護持，此四大身亦復如是，無力無強亦無堅固，是故說，是身如沫也。幻法自然者，猶如幻化之物誑惑他人，非真非實，愚人染著謂為己，有智者觀察無一可貪，是故說，幻法自然。斷魔華敷者，見諦思惟所斷結使永盡無餘，更不適彼言而親近之，是故說，斷魔華敷也。不見死王者，見諦思惟結已盡，獨王三千，存亡自由，更不為自在天子所拘錄，是故說，不見死王也。解身與貪，一而不異，學能捨牢有，如選憂曇鉢，比丘度彼此，如蛇脫故皮。學能捨牢有者，有中牢者何者是？可謂五欲是。心意染著不能捨離，令此眾生興意染著，流轉五道周而復始，一形毀壞復受一形。世間復有何者牢？所謂五盛陰身是。復使眾生類終日翫習不能去離，然彼學人執意牢固。能捨此牢有者，可謂賢聖，能捨五盛陰身及五欲者，是謂應賢聖行，是故說，學能捨牢有也。如選憂曇鉢者，善別之人選擇妙華求憂曇鉢，形神疲勞不能剋獲，意便疲厭即捨而去，是故說，如選憂鉢也。比丘度彼此者，所謂比丘者，破諸結使毀辱形體，著衣持鉢行乞度人。度彼此者，謂內外六情，內六入外六塵，是故說，比丘度彼此也。如蛇脫故皮者，賢聖人，三有牢者，為賢聖之道也，聖人能捨賢聖道，入無為泥洹城，是故說，如蛇脫故皮也。

> この身は泡のようなもので、集まった泡は長くとどまることができず、頼りにすることもできません。つかもうとすれば消えてしまい、守り保つこともできません。この四大からなる身もまた同じです。力もなく、強さもなく、堅固でもありません。だからこそ、「この身は泡のようだ」と言うのです。 幻法自然とは、幻のように化けたものが人を惑わすようなものです。真実ではなく実体もなく、愚かな人は執着して自分のものと思いますが、智者は観察して貪るべきものが何一つないと見ます。だからこそ、「幻法自然」と言うのです。 断魔華敷とは、真理を見て思惟し、断じられた結使が永遠に尽きて余りなくなり、もうそれに従って言葉を交わし親しむことがないということです。だからこそ、「断魔華敷」と言うのです。 不見死王とは、真理を見て思惟し、結がすでに尽きたので、独り三千世界に王として存亡自由であり、もう自在天子に拘束されることがないということです。だからこそ、「不見死王」と言うのです。 身と貪を解き放ち、一つであって異ならない。学ぶ者は牢のような有を捨てることができる。憂曇鉢の花を選ぶように、比丘は彼此を渡る。蛇が古い皮を脱ぎ捨てるように。 学ぶ者が牢のような有を捨てることができるとは、有の中で牢となるものとは何か。それは五欲のことです。心が染まり執着して捨て離れることができず、この衆生に染まった心を起こさせ、五道を流転して巡り巡ってまた始まりに戻り、一つの形が壊れればまた一つの形を受けるのです。世間にはまた何が牢でしょうか。それは五盛陰の身です。また衆生をして一日中慣れ親しんで離れることができなくさせますが、しかしその学人は意志を堅固に保ちます。この牢のような有を捨てることができる者こそ、賢聖と言えます。五盛陰の身と五欲を捨てることができる者、これが賢聖の行いにかなうと言えます。だからこそ、「学能捨牢有」と言うのです。 如選憂曇鉢とは、よく見分ける人が妙華を選んで憂曇鉢を求め、心身疲労して手に入れることができず、そこで疲れ厭いて捨てて去るということです。だからこそ、「如選憂鉢」と言うのです。 比丘度彼此とは、比丘とは、もろもろの結使を破り、形体を貶し、衣を着て鉢を持ち、乞食して人を済度する者です。彼此を渡るとは、内外の六情、内の六入と外の六塵のことです。だからこそ、「比丘度彼此」と言うのです。 如蛇脱故皮とは、賢聖の人にとって、三有の牢は賢聖の道のためです。聖人は賢聖の道を捨てて、無為の泥洹の城に入ることができます。だからこそ、「如蛇脱故皮」と言うのです。