---
title: "出曜經 · 21 恚品"
description: "出曜经是姚秦时期著名译经师竺佛念所译的佛教经典，属于早期汉传佛教重要文献之一。该经主要阐述佛陀的教法，内容涵盖修行方法、因果业报、戒律规范等核心教义，具有鲜明的实践指导意义。竺佛念作为五世纪初重要译经家，其译文准确流畅，对佛教在中国的传播影响深远。出曜经不仅反映了早期佛教思想体系，也为研究中国佛教发展史提供了珍贵资料，在汉传佛教经典中占有重要地位，是了解原始佛教教义的重要参考典籍之一。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmczndklx1n52jj04h0w4kikk"
---

## 出曜經卷第二十

> 出曜経 巻第二十

姚秦涼州沙門竺佛念譯

> 姚秦涼州沙門竺仏念訳

### 恚品第二十一

> 怒りの章 第21

除恚去憍慢， 超度諸結使，不染著名色， 除有何有哉？

> 怒りを捨て、慢心を手放し、 煩悩の束縛を乗り越え、 名と形に染まらず執着しないなら、 何が残り、何があるというのでしょう。

除恚去憍慢者，夫人瞋恚敗善行人，所以競利多少亡家破國種族滅盡皆由恚，以憍慢滅已滅當滅，是故說，除恚去憍慢也。超度諸結使者，瞋恚憍慢結使為本，除本則無有枝葉，是故說，超度諸結使。不染著名色者，盡除雖有名色存，眾生有樂想，皆由名色與共相毀訾，我色像名望勝卿，卿色像名望不勝我，是故說，不染著名色。除有何有哉者，所謂有者結使名號，未能度有至無，為使所使、為結所結、為縛所縛；彼修行人以虛寂止觀，永盡無餘度有至無，是故說，除有何有哉也。

> 怒りを捨て、驕りを離れた人——そもそも怒りは善き行いを台無しにします。利益を争い、家を滅ぼし、国を破り、一族を絶やすのも、みな怒りのせいです。驕りもまた、すでに滅び、今滅び、これから滅びるものです。だから「怒りを捨て、驕りを離れる」と言うのです。もろもろの煩悩の束縛を超え渡った人——怒りと驕りは煩悩の根っこです。根を断てば枝も葉もありません。だから「もろもろの煩悩の束縛を超え渡る」と言うのです。名と形に染まらない人——すべてを断ち尽くせば、たとえ名と形が残っていても、生きるものの楽しいという思いは、みな名と形によって互いにけなし合うことから生まれます。「私の姿や名声はあなたに勝っている、あなたの姿や名声は私に劣っている」と。だから「名と形に染まらない」と言うのです。有を除けば何の有があろうか——いわゆる「有」とは煩悩の呼び名です。まだ有を渡り切って無に至らず、煩悩に使われ、煩悩に結ばれ、煩悩に縛られているのです。しかし修行する人は、虚寂の止観によって、永遠に残りなく有を渡り切って無に至ります。だから「有を除けば何の有があろうか」と言うのです。

降恚勿令起， 欲生當制之，漸斷無明根， 修諦第一樂。

> 怒りを起こさないように気をつけて、怒りの心が生まれそうになったらすぐに抑えなさい。 無明の根本を少しずつ断ち切って、真理を修めるという最高の喜びを実践しなさい。

降恚勿令起者，恚熾如火當念速滅，若令滋長者多所傷敗，恚生則禍至，猶人把火逆風自燒身，是故說，降恚勿令起也。欲生當制之者，欲心適生即求方便令不生，如彼毒蛇方欲出穴，即當制御令不暴逸，欲心如是，即生便滅使不滋長，是故說，欲生當制之也。漸斷無明根者，無明者世間之大冥，覆蔽心識不得開舒，當求方便以勇猛心斷根不生，是故說，漸斷無明根也。修諦第一樂者，行者所以不速成道，猶其婬怒癡染污身心，此三結使由四諦斷，不獲諦人不能除此三事，從無數世以來未曾獲無為樂，得四諦者爾乃為樂，是故說，修諦第一樂。

> 怒りを鎮めて、再び起こさないようにしましょう。怒りが激しく燃え上がったら、すみやかに消すことを心がけるべきです。もし怒りを育ててしまえば、多くの損害を受けることになります。怒りが生じれば災いがやってきます。それはちょうど、人が火を手に持って風に向かって歩けば自分自身を焼いてしまうようなものです。だからこそ、「怒りを鎮めて、再び起こさないようにしましょう」と言うのです。 欲望が生じたら、それを制御すべきです。欲望の心がちょうど生じたときに、すみやかに方便を求めて、それを生じさせないようにします。ちょうど、あの毒蛇がちょうど穴から出ようとしているときに、すぐに制御して、奔放に暴れさせないようにするのと同じです。欲望の心もこのようであり、生じたらすぐに滅して、育てないようにします。だからこそ、「欲望が生じたら、それを制御すべきです」と言うのです。 無明の根を少しずつ断ち切りましょう。無明とは、世間の大きな闇であり、心と識を覆い隠して、開き広げることができないようにします。勇猛な心で方便を求め、その根を断ち切って、生じさせないようにすべきです。だからこそ、「無明の根を少しずつ断ち切りましょう」と言うのです。 真理を修めることが第一の楽しみです。修行者が速やかに道を成就できないのは、婬と怒と癡が身心を汚しているからです。この三つの結使は四諦によって断たれます。真理を得ていない人は、この三つの事を除くことができません。無数の世以来、無為の楽しみをまだ得たことがなく、四諦を得た者だけがそれを楽しみとします。だからこそ、「真理を修めることが第一の楽しみです」と言うのです。

斷恚得善眠， 恚盡不懷憂，恚為毒根本， 甘甜為比丘，賢聖能悉除， 斷彼善眠睡。

斷恚得善眠者，夫人瞋恚晝夜不睡，如遇蛇嚙、如病發動、如失喪財貨，此恚之相貌。人無瞋恚不見眾惱，安臥睡眠天曉不悟，如服甘露心識淡然，是故說，斷恚得睡眠也。恚盡不懷憂者，人懷恚怒現在前時，晝夜愁慼如喪親親、如失財寶，恚已得除無復愁憂苦惱，是故說，恚盡不懷憂也。恚為毒根本者，毒中根者莫過於恚，人當恚盛，覆諸功德不得露現，是故說，恚為毒根本也。甘甜為比丘者，已拔毒根本無復毒栽更生美藥，如彼甘露去諸穢惡，是故說，甘甜為比丘也。賢聖能悉除，斷彼善睡眠者，所謂賢聖者諸佛弟子，眾惡悉除諸善普會，滅恚生本更不造新，意不興念念此恚想，善得睡眠無復憂慮，是故說，賢聖能悉除，斷彼善睡眠也。

人興恚怒， 作善不善， 後恚已除，追念昔事， 如火熾然。

人興恚怒，作善不善者，如人為恚怒所纏，心意倒錯無所識知，猶如盲者不覩高岸平地，彼恚怒人亦復如是，為恚怒所纏，不見善與不善、好之與惡，是故說，人興恚怒，作善不善也。後恚已除，追念昔事，如火熾然者，猶如失道之士時變為要，瞋恚之人速悔為上，內懷慚愧即自悔責：「恚為虛詐何為興怒？怒怒相報終無休已，如火熾然。」心意變悔，羞為恚所使，是故說，後恚已除，追念昔事，如火熾然也。

無慚無愧， 復好恚怒， 為瞋所纏，如冥失明。

無慚無愧者，人之恚盛不別尊卑，無有慚恥，如顛惑狂，眾人圍繞終日嗤弄不自覺知，匿事發露誑言無本，是故說，無慚無愧也。復好恚怒者，彼恚怒人，行無清白心懷穢濁，無由得修梵行，是故說，復好恚怒也。瞋恚所纏，如冥失明者，彼恚怒人瞋怒熾盛，觀晝如闇天地悉冥，無所復覩己無身光，雖復千日競照何益於己？是故說，為恚所纏，如冥失明也。

彼力非為力， 以恚為力者，恚為凡朽法， 不覺善響應。

彼力非為力，以恚為力者，所以瞋恚由非義興，內自思惟：「吾所行是，彼所行非。」會至眾詰問前却，乃為小兒所嗤。方自覺悟退追不是，所謂貴勝理直則勝，瞋恚力者不可恃怙，亦無牢固，敗人善性。是故說，彼力非為力，以恚為力者也。恚為凡朽法，不覺善響應者，盡滅善本出語成惡，不慮前後觸類興罵語常麤󰉕，以瞋恚為首。夫人有德遠近稱慶，必有善響所在流布。今論此人，但聞惡聲無有善響，雖少多有善，為恚所覆不得顯露，是故說，恚為凡朽法，不覺善響應也。

有力近兵， 無力近軟， 夫忍為上，宜常忍羸。

有力近兵，無力近軟者，自恃力勢謂為第一，為弱者輕忍不還報，設當打捶亦不興恚，力力相從羸羸相就，力者終不設意，於羸羸者反更舉意向強，是故說，有力近兵，無力近軟也。夫忍為上，宜常忍羸者，所謂忍者，不見過咎是與不是乃名為忍，不恃已強陵易弱者，設當輕易弱者，便為眾人所見嗤笑，是故說，夫忍為上，宜常忍羸。

舉眾輕之， 有力者忍， 夫忍為上，宜常忍羸。

舉眾輕之者，或有一人為眾所輕，其中有𭶑慧者便能忍之。何以故？彼人單弱無所歸趣，豈復在是一人當興瞋恚？是故說，舉眾輕之，有力者忍也。夫忍為上，宜常忍羸者，忍為第一力，世間無過者，雖神通鑒照成道相好皆是忍力，達明今世後世徹照無外亦由忍力，是故說，夫忍為上，宜常忍羸。

自我與彼人， 大畏不可救，如知彼瞋恚， 宜滅己中瑕。

自我與彼人，大畏不可救者，夫人思惟先自察己，然後觀彼相其顏色，即能分別，斯性弊惡、斯性良善，恒自謹慎不造惡行，恐後世報受苦無量，從今世至後世無有解脫。是故說，自我與彼人，大畏不可救也。如知彼瞋恚，宜滅己中瑕者，知彼瞋恚顏色隆盛，己便默然內自思惟：「設我與彼競者則非其儀，我今宜默，與彼諍為？」是故說，如知彼瞋恚，宜滅己中瑕也。

二俱行其義， 我與彼亦然，如知彼瞋恚， 宜滅己中瑕。

二俱行其義，我與彼亦然者，亦自為己復為他人，亦自護己復護他身，恒自思惟避於二事：一者恐現身受殃，二者恐後得報。是故說二俱行其義，我與彼亦然也。如知彼瞋恚，宜滅己中瑕者，躬見前人瞋恚隆怒，或見把持瓦石欲來見害，己亦防備瓦石拒之，如有一人手執白杖欲往鬪諍，手所執杖即化為刀，其人見以即投刀于地。時有國王在高樓上遙見此人，始以把草復化為刀，尋復見之即投于地。王尋遣信喚來詰問：「汝何以故前如把草草化為刀？所以投刀於地。」其人白王：「曾聞佛經言，佛告侍者：『吾將淪虛寂滅無為，時後五鼎沸世，眾生共諍捉推瓦石即化為刀劍。』臣積善來久，不敢為惡原首，是故投刀于地。」王聞此語，大自感激歎未曾有，即賞彼人給與民戶。是故說，如知彼瞋恚，宜滅己中瑕也。

俱行二義， 我為彼然， 愚謂無力，觀法亦然。

俱行二義，我為彼然者，常護己身亦護彼人，如護寶貨，內自思惟降伏己心不嬈前人，亦使彼人不來得我，彼此將護不令有失，是故說，俱行二義，我為彼然也。愚謂無力，觀法亦然者，愚者意闇不察來變，謂鬪者常鬪未始有解，和者常和未始諍說，智者觀見非鬪者必有損，雖得稱勝莫若本無鬪，是故說，愚謂無力，觀法亦然。

若愚勝智， 麤言惡說， 欲常勝者，於言宜默。

若愚勝智，麤言惡說者，常惡同友壞敗良善，發言惡至終日無善，惡惡相隨積罪如山，同類歎譽各諍勝如，此名穢濁不至究竟，是故說，若愚勝智，麤言惡說也。欲常勝者，於言宜默者，賢聖默然智者所歎，惡來加己不以為慼，若得榮寵不以為歡，罵不報罵行忍為業，若撾捶者默受不報，是故說，常欲勝者，於言宜默也。

當習智者教， 不與愚者集，能忍穢漏言， 故說忍中上。

當習智者教，觀勝己人慎莫違彼教，猶尚不與卑賤共諍，況復與勝己者諍乎？此事不然。何以故？智慧之人為尊為上無有過者。是故說，當習智者教也。不與愚者集，以類相從，善入善聚惡入惡友，善者聞惡見則避之，惡者聞善便欲毀蔑，諸佛賢聖及諸得道者，歎說不鬪諍之德，是故說，不與愚者集。能忍穢漏言者，弊惡之人不自惜身，為人所憎性行卒暴，與彼諍者為人所嗤，既自毀辱朋友不歡為人所責，云何以金寶身貿彼瓦石？是以智者以忍為默。是故說，能忍穢漏言也。故說忍中上者，賢聖之人具足眾業，善本無漏皆悉成就，見彼穢行自攝其心：「我今何為復與彼同？」遇聖無數由忍得成，晝夜防備如處熾然，意念修善日欲增多，若復過惡日損使滅，是故說忍中上。

恚者不發言， 處眾若屏處，人恚以熾然， 終已不自覺。

恚者不發言者，受此人形積無數行乃得成辦，既得人身舌根具足，常當歎說佛法聖眾，承事二親敬奉師尊，晝夜誦習深妙契經。何以故？佛亦引喻，舌為劍戟招致殃禍，由舌蚩言喪滅門族，舌有十號言為殊異，為人重任未始離舌。是故說，恚者不發言也。處眾若屏處者，夫習學人常自謹慎護口過失，若在大眾及在屏處，出言柔軟不傷彼意，前言覆後理不煩重，是故說，處眾若屏處也。人恚為熾然，終己不自覺者，如彼惡人喜怒發動，恚蓋所覆不自照見，但自損辱無益於世，垢膩自纏不自拔濯，一日為惡乃積億劫之殃，況復終身行惡，望欲得道終己不可得。是故說，人恚以熾然，終己不自覺也。

> 怒りを発する人は、言葉を口にしないほうがよい。この人は人としての形を受けるまでに無数の行いを積み、ようやくそれを成し遂げたのだから、すでに人身を得て舌根が備わっているなら、常に仏法と聖なる僧団を讃え説き、父母に仕え、師尊を敬い奉り、昼も夜も深遠で妙なる経典を誦み習うべきである。なぜか。仏もまたたとえを引いておられる。舌は剣戟となって災いを招き、舌の愚かな言葉によって門一族を滅ぼすこともある。舌には十の異名があり、言葉はとりわけ異なるもので、人としての重い務めは未だかつて舌を離れたことがない。それゆえ説くのである、怒る人は言葉を発しないほうがよい、と。 大衆の中にいても、人目につかない所にいても、修行に学ぶ人は常に自ら慎み、口の過ちを守るべきである。大衆の中にあっても、人目につかない所にあっても、柔らかな言葉を発して相手の心を傷つけず、先に言った言葉が後の言葉を覆い隠すこともなく、道理が煩わしく重なることもない。それゆえ説くのである、大衆の中にあっても人目につかない所にあっても、と。

諦說不瞋恚， 乞者念以施，三分有定處， 自然處天宮。

> 怒りを捨て、施しを求める人には喜んで与え、三つの行いを定まった道として実践すれば、自然に天の宮へと導かれます。

諦說不瞋恚者，人行至誠人所恭敬，為數千萬人所見念待，斯由不瞋致斯德也。乞者念以施，不懷慳悋，有來乞亦不逆意者，此乃名曰開泰人也。乞者不為貪求欲後世緣，緣積善滿自然得聖道，是故說，乞者念以施也。三分有定處，自然處天宮者，三業是行不枯朽，必生天上人中，往反周旋不處卑賤。猶如有人從觀至觀、從園至園，五樂自娛終無憂慼，便能閉地獄餓鬼畜生門，開天人徑路，轉進功業便至無為。是故說，三分有定處，自然處天宮也。

> 怒らずにいる人を、人々は誠実な人として敬い、何千万もの人から慕われ見守られます。これは怒らないことによって得られる徳です。施しを求める人には喜んで与え、物惜しみの心を持たず、乞うて来る人を決して拒まない――これこそ「開泰の人」と呼ばれるのです。乞う人が貪り求めて后世の縁を願うのではなく、善を積み重ねて満ちれば自然に聖なる道を得ます。だから「乞う人には喜んで施せ」と説くのです。三つの行いに定まった行き先があり、自然に天の宮に生まれるとは、三つの業の行いが朽ち果てることがなく、必ず天や人の世界に生まれ、巡り行き巡り来ても決して低い境遇に落ちないということです。ちょうど人が園から園へ、庭から庭へと巡り、五つの楽しみに心を慰めて少しも憂いがないように、地獄・餓鬼・畜生の門を閉ざし、天と人の道を開き、功徳を積んで進めば无为に至るのです。だから「三つの行いに定まった行き先があり、自然に天の宮に生まれる」と説くのです。

息意何有恚， 自撿壽中明，等智定解脫， 知已無有恚。

息意何有恚者，學人息心降麤弊意，心如死灰身如朽木，見前恚樂不以經懷，心如安明不可移動，是故說，息意何有恚也。自撿壽中明者，學人自檢自養其壽，恒以無漏而自榮護，不貪世榮有悕望，是故說，自撿壽中明。等智定解脫，知已無有恚者，彼修行人，平等解脫不以無等，無等解脫者，斯是世俗斷欲人也，平等解脫人終無恚怒，所有恚怒結使之垢永已除盡，是故說，等智定解脫，知已無有恚也。

夫為惡者， 怒有怒報， 怒不報怒，勝彼鬪負。

夫為惡者，怒有怒報者，行惡之人彼此受殃，猶野火行值前被然，先恚怒者令生恚怒，先惡心者令生惡心，是故說，夫為惡者，怒有怒報也。怒不報怒，勝彼鬪負者，昔波斯匿王寵養諸奴，遣使攻伐他國，善解戰法所往皆伏。後諸妻婦請道人供養求願，復為說微妙法，皆得須陀洹道。後征人還，婦等語諸夫曰：「君征去後，我等請諸道人供養求願，願君安隱早歸。為我說法，我等已得須陀洹道，君等更可請之。」即如婦言請諸道人供養說法，諸夫復得阿那含道。彼界復有賊寇，王教召諸群奴令往攻擊，奴輩聞之內自思惟：「我等各各皆得道諦，慈愍一切不害生類，云何當往攻伐彼敵？」復重思惟：「設不應命受王教者，身自喪滅殃及妻息，寧就彼死，不在此存罪及妻息。」即皆嚴駕往向彼敵，諸天龍神感應，摧破彼眾安隱還家，國主歡喜四遠寧泰。是故說，怒不報怒，勝彼鬪負也。

忍辱勝怨， 善勝不善， 勝者能施，真誠勝欺。

忍辱勝怨者，昔阿闍世王集四種兵，往攻舍衛城，時波斯匿王復集四種兵，出外戰鬪摧破大眾，生擒阿闍世身，將至如來所白世尊曰：「姊子阿闍世，叛逆無道橫興惡意攻伐我國，本無怨讎自生怨讎，本無鬪諍自生鬪諍，今原赦其罪放還本國。何以故？為我大姊見放之。」是故說，忍辱勝怨也。善勝不善者，無功德人喜自稱說：「吾所知多，彼所知少。」實無技術稱言有之，實無方略自言多方，臨事之際攝腹如步屈之蟲。若見智者兀然獨立，如死肉聚無復神識。是以智者勸人積學，學者寧神之寶宅，心意自在通達四遠，由學得成，營家立國法度邪非，斯由學也。是故說，善勝不善也。勝者能施者，所謂勝者勝彼慳貪，人不立德本者嫉彼妬賢，見人惠施代惜財貨，恒作是念：「我施彼者後何所望？」唯有立信之人乃能惠施，亦不選擇不願果報，乞者填門不立禁限，四遠雲集不距微細，是故說，勝者能施也。真誠勝欺者，真誠行人宗室眷屬，所在稱揚無不聞者，妄語之人人見不歡人所憎嫉，是故說，真誠勝欺。

無恚亦不害， 恒念真誠行，愚者自生恚， 結怨常存在。

無恚亦不害，恒念真誠行者，彼修行人知時知法，可避知避可就知就，所說真誠為世人所敬不誑惑人，是故說，無恚亦不害，恒念真誠行也。愚者自生恚，結怨常存在者，愚人所習瞋恚為首，存在心懷未始捨離，猶如鑿石作字文章分明，不為暴風所滅，是故說，愚者自生恚，結怨常存在也。

恚能自制， 如止奔車， 是為善御，去冥入明。

恚能自制，如止奔車者，恚怒即生還能制者，此名人中雄也，猶如馬車奔逸，御者能止此名善御，是故說，恚能自制，如止奔車也。是為善御，去冥入明者，此善御者非御車御，亦非象馬御，所謂御者，能自攝意念不分散息心不起，志趣無為不著世累，為人重任作良祐福田，可敬可貴為供養最，是故說，是為善御，去冥入明也。

沙門及道， 行斯愛念， 雜水華香，馬恚為十。