---
title: "出曜經 · 23 聞品"
description: "出曜经是姚秦时期著名译经师竺佛念所译的佛教经典，属于早期汉传佛教重要文献之一。该经主要阐述佛陀的教法，内容涵盖修行方法、因果业报、戒律规范等核心教义，具有鲜明的实践指导意义。竺佛念作为五世纪初重要译经家，其译文准确流畅，对佛教在中国的传播影响深远。出曜经不仅反映了早期佛教思想体系，也为研究中国佛教发展史提供了珍贵资料，在汉传佛教经典中占有重要地位，是了解原始佛教教义的重要参考典籍之一。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmczndkry1n7ajj04ajr6wjnc"
---

## 出曜經卷第二十一

> 出曜経 巻第二十一

姚秦涼州沙門竺佛念譯

> 姚秦涼州沙門竺仏念訳

### 如來品之二

> 如来品 その二

諸有不信佛， 如此眾生類，當就於厄道， 如商遇羅剎。

> 仏を信じない者たちは、 そのような生きとし生けるものは、 やがて災いの道へと向かうだろう。 まるで商人が羅刹に遭うように。

諸有不信佛者，閻浮利地有眾多賈客，共相率合入海採寶，正值迴波惡風吹壞大船，復有諸人乘弊壞船，順風流迸墮羅剎界。眾多羅剎女輩，顏貌端正眾寶自瓔珞身，前迎賈客：「善來男子！此間饒財多寶，隨意明珠無價雜珍恣意取之無守之者，我等既無夫主，汝無妻妾，可止此間共相娛樂，後得善風良伴歸家不遠。又諸君當知！海水晝夜迴波無有定方，若見左面有道者，慎莫隨從，設於夢中見左面道亦莫陳說。」時商客中有一智達者，內自思惟：「此諸婦女所說左道，事不徒爾，會當有緣。」即設權詐竊為陰謀，向暮與女共臥交接，伺女已睡竊即起，進涉左道行數里，中聞一城裏數千萬人稱怨喚呼，或呼父母及己兄弟姊妹妻息，云何捨閻浮利地就此命終？賈客聞已衣毛皆竪，還攝心意直前詣城，周匝觀察，見城鑄鐵垣牆，亦無門戶出入處所，去城不遠尸梨師樹高廣且大。即往攀樹，見城裏數千萬人啼哭號喚，遙問城裏人曰：「何為稱喚父母兄弟耶？」城裏人報曰：「我等入海採致寶物，為風所漂，又為羅剎女所誑，墮此鬼界閉在牢城。前有五百人漸漸取殺，今有二百五十人在。君莫呼此女謂為是人，皆是羅剎鬼耳！」其人聞已即還下樹，詣彼女村竊就女臥。

> 仏を信じない者たちがいた。閻浮利の地には多くの商人たちがいて、互いに誘い合って海に入り宝を採っていた。ちょうどそのとき、逆巻く波と悪風が大船を打ち壊し、また別の人々は壊れた船に乗って、風に流されて羅刹の世界に落ちてしまった。 多くの羅刹の女たちは、顔かたちが端正で、さまざまな宝を身に飾っていた。彼女たちは商人たちを迎えて言った。「ようこそ、男の方々。ここには財産も宝も豊かにあります。思うままに明珠や無価の珍品を取ってください。守る者もいません。私たちには夫もなく、あなた方にも妻もいません。どうかここに留まり、ともに楽しんでください。のちに良い風と良き仲間に恵まれれば、家に帰るのも遠くはありません。また皆さん、知っておいてください。海水は昼も夜も波が逆巻き、定まった方角はありません。もし左の方に道があるのを見ても、決して従ってはいけません。夢の中でも左の方の道を見たなら、それも口にしてはいけません。」 そのとき商人の中に一人の賢い者がいて、心の中で思った。「この女たちが言う左の道のことは、ただごとではない。きっと何かわけがあるに違いない。」そこで計略をめぐらし、密かにたくらみをめぐらして、夕暮れに女とともに臥して交わり、女が眠ったのを見はからって密かに起き上がり、左の道を進んで数里行った。その途中で、一つの城の中から数千万の人々が怨みの声をあげて叫ぶのが聞こえた。ある者は父母を呼び、ある者は自分の兄弟姉妹や妻子を呼んで、「どうして閻浮利の地を捨てて、ここで命を終えなければならないのか」と言っていた。商人はこれを聞いて、身の毛がよだった。心を落ち着けてまっすぐ城へ向かい、ぐるりと見回した。城は鉄で鋳られた垣根や壁で、門も出入り口もなかった。城から遠くないところに、尸梨師樹という高く大きな木があった。すぐに木に登ると、城の中の数千万人が泣き叫んでいるのが見えた。遠くから城の中の人に問うた。「なぜ父母や兄弟を呼び叫ぶのか。」城の中の人は答えた。「私たちは海に入って宝物を採り、風に流され、また羅刹の女にだまされて、この鬼の世界に落ち、牢城に閉じ込められています。以前は五百人がいて、だんだんと殺されていき、今は二百五十人がいます。あなたは、この女たちを人間だと思ってはいけません。みな羅刹の鬼なのです。」その人はこれを聞くとすぐに木を下り、かの女の村へ戻り、密かに女のそばに臥した。

明日晨旦語諸同伴：「吾有匿事欲共論說，各往閑靜處，慎莫男女自隨。」諸人響應各詣隱處，即便告曰：「卿等知不？昨夜吾欻生此念：『斯女人等何故慇懃說莫從左面道。』見女睡眠竊起往觀，見大鐵城閉數百人，㘁哭喚呼。吾上樹頭遙問意故，眾人報我為摩竭魚所見壞船，惡風吹浪墮此鬼界，閉在鐵城高數十丈，勸我還家善求方計。卿等今日意欲云何？」眾人答曰：「卿昨夜何不重問彼人，頗有權宜方計，眾人及我身得安隱歸家不乎？」人即報曰：「我昨夜退不問此事，今暮竊起當往重問之。」說此語已各還所在。彼智達人向暮與女交接已，相女睡眠竊起，詣彼樹上，問城裏人曰：「頗有權宜方計，卿等諸人復及我身，得還閻浮利地不耶？」城裏人報曰：「我等適生念欲還閻浮利地，此鐵城便作數重不可敗壞，死者日次無由得免；唯卿外人少有權宜，可得度脫還至本土。十五日清旦有一馬王，從欝單越食自然粳米，來至此鬼界住高山頂，三自喚呼：『誰欲還歸閻浮利地？』卿等若聞馬王聲者，皆往禮敬求還本鄉。」其人聞是語已，即還伴中具陳情狀，眾人報曰：「今可去不？」智者答曰：「須十五日至，馬王當來，乃得去耳。」未經數日馬王便至在高山頂，三自喚呼：「誰欲還歸閻浮利地？」聲極遠震。商客聞已，皆往至馬王所前白王言：「我等咸欲還本鄉里，願見將接得歸無為。」馬王告曰：「卿等專意聽我所說，各欲歸家還本鄉者，心意專正便得歸家，心不專正不得歸也。此諸婦女各抱男女，追逐卿後啼哭喚呼。其中諸人興戀慕心，正使在我脊上猶不得去；若能捨恩愛正心一意無所戀著，至心捉我一毛便得歸家。」如其所語諸婦女至，各語夫曰：「誠可捨我賤身，何為捐棄兒女？」先教兒女往抱父頸啼哭喚呼：「捨我等為欲何去？」心意戀著者便不得還，唯有大智師子一人即安隱還歸。是故說，諸有不信佛，如此眾生類，當就於厄道，如商遇羅剎。

> 翌朝、同伴たちに語りかけた。「私には内密に話したいことがある。それぞれ静かな場所へ行こう。くれぐれも男女が互いに従い合うことのないように。」人々は応じて、それぞれ人里離れた場所へ向かった。そこで告げた。「皆さん、ご存じか？昨夜、私はふとこんな思いが浮かんだ。『この女たちはなぜしきりに左側の道を行くなと言うのか』と。女が眠るのを見て、こっそり起きて様子を見に行くと、大きな鉄の城があり、数百人が閉じ込められて泣き叫んでいた。私は木の上に登り、遠くからそのわけを尋ねると、人々はこう答えた。『摩竭魚に船を壊され、悪風が波を吹き立ててこの鬼の世界に落ち、高さ数十丈の鉄の城に閉じ込められたのだ。家に帰り、よく方法を考えよ』と。皆さん、今日はどうお考えか。」人々は答えた。「あなたは昨夜、なぜあの人にもう一度尋ねなかったのか。何か便宜の方法があって、皆も私も無事に家へ帰れるかどうか。」その人はすぐに答えた。「私は昨夜、引き下がってこのことを尋ねなかった。今晩、こっそり起きて、もう一度尋ねに行こう。」こう言い終えて、それぞれ自分の場所へ戻った。 その智慧ある人は、夕暮れに女と交わりを終え、女が眠るのを見てこっそり起き、かの木の上へ行き、城の中の人に尋ねた。「何か便宜の方法があって、あなた方も私も、閻浮利地へ帰ることができるだろうか。」城の中の人は答えた。「我々がちょうど閻浮利地へ帰りたいと思っただけで、この鉄の城は幾重にもなって壊すことができない。死ぬ者は日ごとに次々とやって来て、免れるすべもない。ただあなたのような外の者だけが、少しの便宜を得て、脱け出て故郷へ帰ることができる。十五日の朝、馬王が一匹おられ、欝単越から自然の粳米を食べて、この鬼の世界へ来て高山の頂に住み、三度自ら呼びかける。『誰か閻浮利地へ帰りたい者はいるか』と。あなた方がもし馬王の声を聞いたなら、皆で礼敬し、故郷へ帰ることを求めるがよい。」 その人はこの話を聞くと、すぐに仲間のもとへ戻り、一部始終を詳しく語った。人々は答えた。「では今すぐ行けるのか。」智者は答えた。「十五日になるのを待たねばならない。馬王が来られてから、行けるのだ。」数日も経たないうちに、馬王はやって来て高山の頂に立ち、三度自ら呼びかけた。「誰か閻浮利地へ帰りたい者はいるか。」その声ははるか遠くまで響き渡った。商人たちはこれを聞くと、皆、馬王のもとへ行き、王に申し上げた。「私たちは皆、故郷へ帰りたいと願っています。どうかお導きください。無為の境地へ帰れるように。」馬王は告げた。「皆、心を集中して私の言うことを聞きなさい。それぞれ家に帰り故郷へ帰りたい者は、心を正しく専一にすれば帰ることができる。心が専一でなければ帰ることはできない。この女たちはそれぞれ男女の子を抱き、あなた方の後を追って泣き叫んでいる。その中で人々が恋慕の心を起こせば、たとえ私の背の上にいても帰ることはできない。もし恩愛を捨て、心を正しく一意にして何ものにも執着せず、至心に私の毛を一本つかめば、帰ることができるのだ。」 その言葉どおり、女たちがやって来て、それぞれ夫に言った。「どうか私の卑しい身を捨ててください。なぜ子供たちを見捨てるのですか。」まず子供たちに教えて、父の首に抱きついて泣き叫ばせた。「私たちを捨てて、どこへ行こうというのですか。」心に恋慕を抱く者は帰ることができず、ただ大智の師子だけが一人、無事に帰ることができた。このゆえに説く。仏を信じない者、このような衆生は、厄難の道に赴くこと、商人が羅刹に遭うようなものだと。

諸有信佛者，如此眾生類，安隱還得歸，皆由馬王度。唯有師子一人安隱得歸，餘者由戀慕心皆墮厄難也。時，羅剎婦抱其男女，往逐師子商客在在處處，告諸村落：「師子身者是我夫主，共生男女捨我逃走不知所趣？」諸人聞已問師子曰：「觀卿婦女體性容貌人中英妙，兒女可愍，何為捨之？」師子報曰：「此亦非人，是羅剎鬼耳。住海渚中殺噉商賈不可稱數，吾伴數百閉在鐵城，唯我一人幸得免濟。今此鬼女復逐我後，規欲害我恐不免濟。」說此語已轉復前行還至本國，鬼亦逐後到其國土。鬼往白王：「我與師子共為夫婦，生此男女後望得力，非圖今日永已見捨，師子意不用我身，當錄取男女，我故年少，豈更不能適趣耶？」王召師子問其情實：「卿婦幼少顏貌端正，男子殊異有君子相，何為捨之不肯納受？」師子白王：「此非人形，乃是噉人羅剎鬼，化作男女追逐我後，望人意傾欲取我殺。前將五百賈客入海採寶，盡為羅剎所噉食，唯我一人得免濟耳。今復見逐，將知如何？」王告師子：「設卿不用可持與我。」師子報曰：「此實非人是羅剎鬼，備有愆咎後莫見怨。」師子復語左右諸臣：「斯鬼至此間，必有傷害王。今不信欲內深宮，如是不久王及內宮盡當灰滅。」王復瞋恚語師子曰：「女中姿容如天玉女，何緣復稱為羅剎鬼耶？速出在外吾自觀察之。」王將鬼女入內宮中，牢固門閤已入一宿。明日食時宮門不開，諸臣共議：「王新納妻，意相貪樂故門不開耳。」師子說曰：「不如來議。王及夫人并諸婇女，必為羅剎所食噉盡，故門不開耳。」即施高梯踰牆入內，見死人骸骨滿數間舍，復見坑孔新出土壤，諸臣問師子曰：「王今已死內宮喪亡，骨成於積不可識別，云何葬送王身？」師子報曰：「盡聚諸骨一處焚燒，但言葬王，餘者不在其例。」葬送已訖，諸臣責師子曰：「正坐汝身將羅剎鬼，殺王喪國宮殿滅亡，卿今意欲云何？」師子答曰：「吾先有言契，此非人身是羅剎鬼，備有愆咎後莫見怨。卿等何為復見責數？」諸臣人民前白師子：「王今已死更無胤嗣，唯願師子當登王位，統理人民永得康寧，使我諸臣尊奉有處。」師子告曰：「若欲舉我為王者，當隨我教，設不從我教，盡為羅剎所噉。」諸人異形同響咸皆稱善，即隨王教。王告諸臣：「彼羅剎子女睡眠有時，當共集兵乘船入海攻擊。」即往攻擊殺羅剎男女大小，不可稱數無有遺在，復往破壞鐵城出其中人，因彼住止人民，熾盛富樂自然，珍奇異物不可稱量。因名彼城號曰師子。迸落諸羅剎鬼不在例者，移在山西。鐵圍東垂土俗常法，若一人不事佛者，當送山西付鬼噉之。自爾已來佛法熾盛得道無數。是故說，諸有信佛者，如此眾生類，安隱還得歸，皆由馬王度。又彼國常儀，國王生子若十若百若至無數，盡出作道，誦習佛經三藏備舉，還復罷道登陟王位，梵語不通經籍不舉，則不得陟王位也。住在外渚故，稱師子渚國。

> 仏を信じる者はみな、このような生きとし生けるものは、無事に故郷へ帰ることができた。それはすべて馬王のおかげである。ただ師子だけが一人無事に帰ることができ、他の者たちは未練の心からみな災難に堕ちてしまった。 そのとき、羅刹の女は自分の男女の子を抱いて、師子商人の後を追い、至るところで村々に告げて言った。「師子という人は私の夫です。二人の間に生まれた男女の子を捨てて私から逃げ、どこへ行ったのか分かりません。」人々はこれを聞いて師子に尋ねた。「あなたの妻を見ると、体つきも容貌も人のうちで最も優れて美しく、子どもたちも気の毒だ。どうして捨てるのか。」 師子は答えた。「あれは人間ではない。羅剎の鬼である。海の中洲に住んで商人を殺して食べること数えきれない。私の仲間数百人は鉄の城に閉じ込められ、ただ私一人だけが幸いに逃れることができた。今この鬼女がまた私の後を追ってきて、私を害そうと企んでいる。逃れられないかもしれない。」 こう言ってまた前へ進み、ついに自分の国へ帰り着いた。鬼もまた後を追ってその国にやって来た。鬼は王のもとへ行き申し上げた。「私は師子と夫婦になり、この男女の子を生みました。後には頼りになることを望んでいましたが、今日このように永久に捨てられるとは思いませんでした。師子は私を顧みようとしません。どうか男女の子だけは引き取ってください。私はまだ若いので、ほかの誰かに嫁げないでしょうか。」 王は師子を召して真実を尋ねた。「あなたの妻は若く美しく、男の子は格別に立派で君子の風がある。どうして捨てて受け入れようとしないのか。」師子は王に申し上げた。「あれは人の姿ではありません。人を食べる羅刹の鬼です。男女に姿を変えて私の後を追い、人の意をくじいて私を殺そうとしています。以前、五百人の商人を連れて海へ宝を採りに行き、全員が羅刹に食べられ、ただ私一人だけが逃れることができました。今また追ってきています。どうなることか分かりません。」 王は師子に告げた。「あなたが受け入れないなら、私に与えなさい。」師子は答えた。「これは本当に人間ではなく羅刹の鬼です。のちに過ちがあっても恨まないでください。」師子はまた左右の臣たちに言った。「この鬼がここに来たら、必ず王を害するでしょう。今信じずに奥宮に入れれば、まもなく王も后宮もすべて灰のように滅びるでしょう。」 王は怒って師子に言った。「女の中の容貌は天の玉女のようだ。どうして羅刹の鬼と呼べるのか。早く出て行け。私自身が確かめる。」王は鬼女を奥宮に連れて入り、門を固く閉ざして一晩過ごした。翌日の食事の時になっても宮門は開かなかった。臣たちは相談した。「王は新しい妻を迎えたので、情愛にふけっているから門が開かないのだ。」 師子が言った。「そうではない。王も夫人も、そして女官たちもみな羅刹に食べ尽くされたから門が開かないのだ。」すぐに高い梯子をかけて塀を越えて中に入ると、死人の骸骨が幾部屋にも満ちていた。また新しく土を掘り出した穴も見えた。臣たちは師子に尋ねた。「王は今や亡くなり、奥宮も全滅し、骨は積み重なって見分けがつきません。どうやって王を葬るのですか。」師子は答えた。「すべての骨を一か所に集めて焼きなさい。ただ王を葬ったと言い、他はそこに含めない。」葬送が終わると、臣たちは師子を責めた。「まさにあなたが羅刹の鬼を連れてきて、王を殺し国を失わせ宮殿を滅ぼした。あなたは今どうするつもりか。」師子は答えた。「私は先に言ったはずだ。これは人の身ではなく羅刹の鬼だと。のちに過ちがあっても恨まないでくれと。あなたたちはなぜまた私を責めるのか。」 臣たちと民は師子に申し上げた。「王は今亡くなり、後継ぎもありません。どうか師子が王位に就き、民を治めて永久に安寧を得させ、私たち臣たちが尊んで仕える拠り所となってください。」師子は告げた。「私を王に立てたいのなら、私の教えに従いなさい。もし従わなければ、罗刹に食べ尽くされるでしょう。」人々は姿は違えど声をそろえて皆よいと称し、すぐに王の教えに従った。 王は臣たちに告げた。「あの羅刹の子らは眠るときがある。兵を集めて船で海に入り攻撃しよう。」すぐに攻めに行き、羅刹の男女や大小を殺すこと数えきれず、一人も残らなかった。また鉄の城を破壊して中の人々を出した。その地に住む人々は繁栄し豊かで自然に楽しく、珍しい宝物は量りきれないほどであった。そこでその城を師子と名づけた。逃れ落ちた羅刹の鬼でその中にいなかった者たちは、山の西へ移された。鉄囲山の東の辺りの土地の習わしとして、もし一人でも仏を信じない者がいれば、山の西へ送って鬼に食べさせる。それ以来、仏法は盛んになり、道を得る者は数えきれない。だから説かれるのである。仏を信じる者はみな、このような生きとし生けるものは、無事に帰ることができた。それはすべて馬王のおかげである。 またその国では常の決まりとして、国王に子が生まれれば、十人でも百人でも数えきれなくても、すべて出家して道を修め、仏経を誦し三蔵をあまねく学び、それから還俗して王位に就く。梵語に通じず経典を学ばなければ、王位に就くことはできない。外の中洲に住むことから、師子渚国と呼ばれる。

如來無等倫， 思惟二觀行，善觀二閑靜， 除冥超神仙。

> 如来に並ぶものはなく、二つの観行を思惟し、 二つの静けさをよく観じて、闇を除き神仙を超えていく。

如來無等倫者，如來處世神德無量，行過虛空所化無限，普引眾生導示慧明，四等育養見者得度，是故說，如來無等倫，思惟二觀行，善觀二閑靜，除冥超神仙也。

> 如来に並ぶものはありません。如来がこの世に現れると、その神がかりな徳は限りなく、そのはたらきは虚空を超えて、導かれるものは数えきれません。すべての生きとし生けるものを広く導き、智慧の光を示し、四つの平等な心で育み養い、見るものはみな救われます。それゆえに説きます、如来に並ぶものはない、と。二つの観行をよく思い、二つの静けさをよく見つめ、闇を除いて神仙をも超えるのです。

善獲獲自在， 愛盡無所積，解脫心無漏， 恩惠天世人。

> 善く獲し自在を得、愛尽きて積む所なく、 解脱の心に漏なく、恩恵は天と世人に及ぶ。

善獲獲自在者，眾生處在荼炭，流轉五趣迴波七使，欲趣於道不知何路得至？是故如來不捨弘誓之心，拔濟苦難，普處眾生類指示自在堂，是故說，善獲獲自在也。愛盡無所積者，得四無畏永盡於愛，是故說，愛盡無所積也。解脫心無漏者，心永得解脫無所罣礙，復獲無漏永除諸垢，是故說，解脫心無漏也。恩惠天世人者，一切眾生皆來歸仰，是以聖人應時適化救濟無乏，是故說，恩惠天世人也。

> 善く得て自在を得たる者は、衆生は苦しみの中にあり、五つの世界を巡り流転し、七つの煩悩に波立たされている。道を目指しながらも、どの道を通ればたどり着けるのか分からない。だからこそ如来は、誓いの心を捨てず、苦しみから救い出し、すべての衆生に自在の世界を示してくださる。それゆえ「善く得て自在を得たり」という。愛を尽くして積むところがないとは、四つの恐れなき心を得て、永遠に愛を尽くしたということ。それゆえ「愛尽きて積むところなし」という。心が解脱して漏れがないとは、心が永遠に解け放たれ、何の妨げもなく、さらに漏れのない境地を得て、すべての汚れを永遠に除いたということ。それゆえ「心解脱して漏れなし」という。天と人とに恩恵を施すとは、すべての衆生が皆、帰依し仰ぎ見ること。それゆえ聖人は時に応じて教えを施し、救いを与えて乏しいところがないようにされる。それゆえ「天と人とに恩恵を施す」という。

猶人立山頂， 遍見人村落，審觀法如是， 如登樓觀園，人憂除無憂， 令知生死趣。

> 山の頂に立つ人のように、 そこから人々の村々を広く見渡す。 このように法をよく観察することは、 楼阁に登って庭園を眺めるようなものだ。 人の憂いを取り除き、無憂へと導き、 生死の道筋を人々に知らせる。

猶人立山頂，遍見人村落者，如有目之士遍見村落，行者坐者出入行來，啼哭歌舞喜笑皆悉觀之。如來世尊亦復如是，立智慧山頂，觀五趣眾生，黠者愚者有至無至，皆能分別而往化之。是故說，猶人立山頂，遍見人村落也。審觀法如是，如登樓觀園者，如來天眼一切遍見，乘高樓觀一一分別難度易度，可與言者與言，不可與言者而自默然，隨其前人所念成道，是故說，審觀法如是，如登樓觀園也。人憂除無憂，令知生死趣者，如來觀察有憂無憂有少智多智，皆悉分別，教示眾生令知生死之趣，是故說，人憂除無憂，令知生死趣也如來品第二十二竟。

> 人が山の頂に立って、すべての村々を見渡すように、目のある人が村々をくまなく見て、歩く人も座る人も、出入りする人も、泣く人も歌い踊る人も喜び笑う人も、すべてを見るのと同じです。如来世尊もまた同じです。智慧の山の頂に立って、五つの世界に生きるすべての众生を見て、賢い人も愚かな人も、悟りに至る人も至らない人も、すべてを見分けて導かれます。だから「人が山の頂に立って、すべての村々を見渡すようだ」と説かれるのです。法をあるがままに見極めることは、楼閣に登って庭園を眺めるようなものです。如来は天眼ですべてを見通し、高い楼閣に乗って一つひとつを見分け、導きやすい人も導きにくい人も、話すべき人には話し、話すべきでない人には黙しておられます。それぞれの人の心に応じて悟りへと導かれるのです。だから「法をあるがままに見極めることは、楼閣に登って庭園を眺めるようだ」と説かれるのです。人の憂いを除き、憂いのない境地に導き、生死の世界のありようを知らせるとは、如来が憂いのある人も憂いのない人も、智慧の少ない人も多い人も、すべてを見分けて、众生を教え導き、生死の世界のありようを知らせることです。だから「人の憂いを除き、憂いのない境地に導き、生死の世界のありようを知らせる」と説かれるのです<note>如来品第二十二 おわり</note>。

### 出曜經聞品第二十三

> 『出曜経』聞品第二十三

善聞好行， 善好閑靜， 所行不左，安如沙門。

> よく話を聞き、進んで実践し、静かな場所を好み、行いが偏らず、沙門のように安らかである。

善聞好行者，多聞學士為人所譽善哉善哉！人之有聞所行必善，是故說，善聞好行也。善好閑靜者，求出欲界色界無色界，不樂憒亂無所繫縛志趣閑靜，是故說，善好閑靜。所行不左者，身口意所行常順正理終不左也，最勝最妙無有出者，是故說，所行不左也。安如沙門者，順沙門行不逆沙門行，如彼所行所修，是故說，安如沙門也。

> よく聞いてよく行う人とは、多くのことを学んだ学者が人々にほめられることを言います。まことに善いことです。人にとって聞くことがあれば、行うことも必ず善くなります。それゆえ「よく聞いてよく行う」と説くのです。よく静けさを好むとは、欲界・色界・無色界を出ることを求め、ざわめきや乱れを好まず、とらわれなく、心を静けさに向けることです。それゆえ「よく静けさを好む」と説くのです。行いが正しくないことがないとは、身・口・意の行いが常に正しい道理に従い、決して道から外れないことです。最もすぐれ、最もすばらしく、これより勝るものはありません。それゆえ「行いが正しくないことがない」と説くのです。沙門のように安らかであるとは、沙門の行いに従い、沙門の行いに逆らわず、その行いその修行のとおりであることです。それゆえ「沙門のように安らかである」と説くのです。

愚者不覺知， 好行不死法，善解知法者， 病如芭蕉樹。

> 愚かな人は気づかないが、 不死の法をよく実践する。 法をよく理解する人は、 病も芭蕉の木のように儚いと知っている。

愚者不覺知，好行不死法者，愚者所習恒習弊行，不別善法惡法，若好若醜盡不覺知，不計無常變易之法，營一身之資謂千年不盡，保物久常無有耗減，是故說，愚者不覺知，好行不死法也。善解知法者，病如芭蕉樹者，雖善解於法經耳便過，如芭蕉樹遇風則葉落，病者頓極加以毒湯，是故說，善解知法者，病如芭蕉樹也。

> 愚かな者は気づかない。不死の法を行うことを好むのに、愚かな者はいつも悪い行いを習慣にしてしまい、善い法と悪い法を区別できない。良いものも醜いものもまったく気づかず、無常で移り変わる法を思わない。一身の財産を営んで千年も尽きないと思い、持ち物は長く常にあって減り耗ることがないと考える。だから説かれる、「愚かな者は気づかない、不死の法を行うことを好む」と。善く法を理解する者は、病むこと芭蕉の樹のようである。たとえ善く法を理解しても、経を耳にすればすぐに過ぎ去ってしまう。芭蕉の樹が風に遭えば葉が落ちるように。病む者はさらに重くなり、毒の湯を加えられる。だから説かれる、「善く法を理解する者は、病むこと芭蕉の樹のようである」と。

猶如蓋屋密， 闇冥無所覩，雖有眾妙色， 有目不見明。

> 屋根をぴったり覆うように塞ぐと、 中は真っ暗で何も見えません。 どんなに美しい色があっても、 目があってもその光を見ることはできません。

猶如蓋屋密，闇冥無所覩者，猶如造屋舍閉塞窓牖，內外緻密冥然不見明，是故說，猶如蓋屋密，闇冥無所覩也。雖有眾妙色，有目不見明者，彼屋舍裏雖有眾妙色羅列姝好，有目者入中永不見色，是故說，雖有眾妙色，有目不見明也。

> たとえば、屋根をぴったりと覆った家の中では、暗くて何も見えないようなものです。窓を全部ふさいだ家のように、内も外もすきまなく閉ざされていると、中は真っ暗で明かりが見えません。だから「たとえば屋根をぴったりと覆った家のように、暗くて何も見えない」と言うのです。中には美しいものがたくさんあっても、目があるのに見えないのです。その家の中にどんなにすばらしい色や形のものが並んでいても、中に入った人は決してそれを見ることができません。だから「美しいものがたくさんあっても、目があるのに見えない」と言うのです。

彼如有一人， 智達廣博學，不聞則不知， 善法及惡法。

> どんなに賢く広い知識を持つ人でも、 教えを聞かなければ知ることはできない。善い法も悪い法も。

彼如有一人，智達廣博學者，世儻有人，優婆塞優婆夷剎利長者居士及諸庶人，心慧意朗，先不聞者則知善惡之法，極智慧人，先不聞法者則無所別知，是故說，不聞則不知，善法及惡法也。

> もしある人が、広く学び、智慧にすぐれているならば、世の中には在家の信者や王族、長者、一般の人々で、心が澄んで賢い人は、前に聞いたことがなくても善悪の法を知ることができます。しかし、智慧がすぐれていても、前に法を聞いたことがなければ、何も見分けることができません。だからこそ、「聞かなければ知ることはない、善い法も悪い法も」と説かれるのです。

猶如人執燭， 悉見諸色相，聞已盡能知， 善惡之所趣。

> ちょうど人がともしびを手にすれば、あらゆる色や形をはっきりと見るように、この教えを聞いた人はすべてをよく理解し、善と悪の行く先も知ることができます。

猶如人執燭，悉見諸色相者，猶如智達之人手執明燈，盡能分別好惡諸色，是故說，猶如人執燭，悉見諸色相也。聞已盡能知，善惡之所趣者，彼知學人聞法即知善惡諸法，近法遠法、有記無記盡能了知，是故說、聞已盡能知、善惡之所趣。

> たとえば人が灯明を手にすれば、あらゆる色形をはっきりと見ることができるようなものである。ちょうど、智慧ある人が明かりを手に持って、良い色も悪い色もすべて見分けることができるのと同じである。だから「たとえば人が灯明を手にすれば、あらゆる色形を見る」と説くのである。聞いてすっかり知ることができる、善悪の行き先について——学びの人は法を聞けば、ただちに善悪のさまざまな法を知り、近い法も遠い法も、記されるものも記されないものも、すべてよく理解する。だから「聞いてすっかり知ることができる、善悪の行き先について」と説くのである。

雖稱為多聞， 禁戒不具足，為法律所彈， 所聞便有闕。

> 多聞と呼ばれていても、 戒律を守っていなければ、 法と律に责められ、 その聞いた教えも欠けたものとなる。

雖稱為多聞、禁戒不具足者，多聞博智善分別法，於禁戒不大慇懃，觸有所犯戒律不具，是故說，雖稱為多聞，禁戒不具足也。為法律所彈，於聞便有闕者，戒律之人以法彈舉，斯人犯律不行正法，為人所譏行慚愧事，是故說，為法律所彈，於聞便有闕也。

> たとえ「多聞」と呼ばれていても、戒を守ることができていない者は、多くを聞き広く知り、法をよく分別していても、戒を守ることに熱心でなく、戒律を犯すことがあり、戒律が完全でない。それゆえ「多聞と呼ばれていても、戒を守ることができていない」と言うのです。 法と律によって非難され、聞くことにおいても欠けるとは、戒律を守る人々が法によってそれを指摘し、その人が戒律を犯して正しい法を行わないため、人から責められて恥じ入ることを意味します。それゆえ「法と律によって非難され、聞くことにおいても欠ける」と言うのです。

行人雖少聞， 禁戒盡具足，為法律所稱， 於聞便有闕。

> 教えを学ぶことは少なくても、 戒めをしっかり守っている人は、 法と戒律にかなっていると称えられますが、 聞くことにおいては不足しています。

行人雖少聞，禁戒盡具足者，持戒完具無有缺失，不廣習學，是故說，行人雖少聞，禁戒盡具足也。為法律所稱，於聞便有闕者，彼持戒人為人所稱，某甲某村有持戒人可敬可貴，晝夜精懃行道不廢，不廣博學達古知今，於聞便有闕，是故說，為法律所稱，於聞便有闕也。

> 修行する人は、たとえ教えをあまり聞いていなくても、戒律をすべて完全に守っていることがあります。戒めをしっかり守り、少しも欠けるところがなくても、広く学ぶことがなければ、「修行する人は教えをあまり聞いていないが、戒律は完全に守っている」と言われるのです。 また、戒律を重んじる人として世間に称えられながら、教えを聞くことには不足がある場合、その人は「あの村のあの人は戒律を守る立派な人だ」と人々に称えられます。昼も夜も熱心に修行に励み、怠ることはありませんが、広く学んで昔のことも今のことも知るということになると、教えを聞く面では不足があるのです。それゆえ「戒律を重んじる人として称えられても、教えを聞くことには不足がある」と言われるのです。

雖少多有聞， 持戒不完具，二俱被訶責， 所願者便失。

雖少多有聞，持戒不完具者，既自少聞、戒律不具，為眾多人民所見嗤笑，人修人本必全一行，云何斯人盡拔善本？或有興念憐愍彼人，身後長夜受惱無量。是故說，雖少多有聞，持戒不全具，二俱被訶責，所願者便失也。

智博為多聞， 持戒悉完具，二俱得稱譽， 所願者盡獲。

多聞戒具足，不犯於眾惡，便為天、世人、龍、鬼神、阿須倫、真陀羅、摩休勒等，悉見恭敬承事尊奉，是故說，智博為多聞，持戒悉完具，二俱得稱譽，所願者盡獲也。

多聞能奉法， 智慧常定意，如彼閻浮金， 孰能說有瑕？

多聞能奉法者，思惟正法無所缺漏，分別一句義演出無量，復能略說還至一句，是故說，多聞能奉法也。智慧常定意者，分別慧明欲盡有漏至無為處，亦無造作成就賢聖無漏智，心常禪寂而無亂想，是故說，智慧常定意也。如彼閻浮金者，餘弊惡金多有瑕者，此閻浮金內外無瑕亦無塵垢，是故說，如閻浮金也。孰能說有瑕者，猶如戒行清淨人，內外清徹，行無玷缺，無所違失，無有能譏彼行人者，是故說，孰能說有瑕也。

諸有稱己色， 有歎說名德，斯皆謂貪欲， 然自不覺知。

佛契經說，如來世尊先當成二業：一眼知色，二耳知聲。愚者錯聞，一者謂如來著色，二者謂如來貪聲。如來聲者如梵羯毘鳥。佛言：「不爾。吾所說異，義不如此。智者分別解如來義。如來積行於阿僧祇劫，先淨眼耳聲，然後方修餘行。」是故說，諸有稱已色，有歎說名德，斯皆謂貪欲，然自不覺知也。

內無自知， 外無所見， 內不見果，便隨聲往。

昔王波斯匿集四種兵，夜非人時出城遊行。時有一比丘名羅婆那拔提，寂然閑靜唄聲清徹，令四種兵莫不聞者。時波斯匿王於彼眾中便生此念：「若我明日見此唄比丘者，當賜三百千兩金。」王復漸近內自思惟：「聲音如似近，然復不見。」轉復前進，見其人身在一函裏，便賜三貝珠，是故說：

「內既知之， 外無所見， 內見果實，便隨聲往。 內既不知， 外有所見，二果俱成，

便隨聲往。 內有所知， 外有所見，彼有朗智， 不隨聲往。」

時波斯匿王前白佛言：「向唄道人今為所在？吾欲觀之。」佛告王曰：「欲見者勿興懈慢。」佛即遣信喚比丘來。王尋見之生變悔心，悔夜所許極為奢侈，尋與三枚貝珠，意猶欲悔。王白佛言：「今此比丘本行何德得此妙聲？復作何行受此小形？唯願世尊敷演其義。」爾時世尊即以宿命智，觀察當來過去現在，便告王曰：「往昔久遠世時人壽二十千歲，人民之類共相敬待謙遜承事，時世有佛名曰迦葉，在世遊化教誡周訖便取滅度。是時國王臣民興戀慕心，即起偷婆高而且廣。其人爾時亦在其側，稱言：『造此偷婆何為高廣？』即夜以一鈴懸於佛圖竿，尋發誓願：『若我後生在在處處，聲響清徹上徹梵天，遭遇彼聖得盡諸漏，於弟子中聲響清徹。』緣昔吐言嫌寺廣大，由此果報受身極小；復以鳴鈴懸寺上，蒙此果報得致妙聲。」內既知之者，自觀己身內無所有，若好悉能分別。內自知者，知內六根。是故說，內自知之也。外有所見者，便觀外身一一分別，若見剝割斫刺亦無所覺，解知虛詐。又言外有所見者，外見六入。是故說，外有所見也。彼有朗智者，分別內外身，一一思惟善察無滯，解知所有，以智觀之悉無所有，是故說，彼有朗智也。不隨聲往者，人之聲響，亂人善念之原首，彼入定者，外聲不入內亂不出，解知彼聲猶如空等。是故說，不隨聲往也。了知四偈，義各如是。

耳識多所聞， 眼識多所見，聞見不牢固， 事由義析理。

耳識多所聞者，或聞佛經，或外道異學、歌詠詩誦，好者便受、惡者捨離，是故說，耳識多所聞也。眼識多所見者，眼識亦多所見，若好若醜善色惡色，是故說，眼識多所見也。聞見不牢固，事由義析理者，若見聞念知盡能了別，見當說見聞當說聞，是故說，聞見不牢固，事由義析理也。

智牢善說快， 聞知定意快，彼不用知定， 速行放逸者。

智牢善說快者，彼善思惟、言不錯亂，承受不忘失則應行此行，是故說，智牢善說快也。聞知定意快者，皆由聞故然後得定，已得定意所適無礙，是故說，聞知定意快也。彼不用知定，速行放逸者，放逸之人轉能行惡，不顧後緣不念後世，猶如以穀子投火，欲望苗幹者，事終不然。猶如小塊塞江，欲以止流者，終不可得。放逸之人意行暴虐，欲求毫釐善者，吾亦不見。是故說，彼不用知定，速行放逸者也。

賢聖樂於法， 所行應於口，以忍思惟定， 聞意則牢固。

賢聖樂於法者，樂應賢聖法，未始去離終已翫習意無厭足，皆是諸佛賢聖之所演說，是故說，賢聖樂於法也。所行應於口者，行如禁法無所違失，是故說，所行應於口也。以忍思惟定者，受人教誡一心奉行，不興憎嫉彼此之心，聞其善言甘心稟受，晝夜誦習不離定意，是故說，以忍思惟定也。聞意則牢固者，佛所說法，從初至竟上中下義，終日諷誦初不忘失，是故說，聞意則牢固也聞品第二十三竟。