---
title: "出曜經 · 24 我品"
description: "出曜经是姚秦时期著名译经师竺佛念所译的佛教经典，属于早期汉传佛教重要文献之一。该经主要阐述佛陀的教法，内容涵盖修行方法、因果业报、戒律规范等核心教义，具有鲜明的实践指导意义。竺佛念作为五世纪初重要译经家，其译文准确流畅，对佛教在中国的传播影响深远。出曜经不仅反映了早期佛教思想体系，也为研究中国佛教发展史提供了珍贵资料，在汉传佛教经典中占有重要地位，是了解原始佛教教义的重要参考典籍之一。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmczndkry1n7bjj041snwv04v"
---

### 出曜經我品第二十四

> 『出曜経』我品 第二十四

當學善言， 沙門坐起， 一坐所樂，求欲息心。

> 善く語ることを学びなさい。修行者の起居は、一つの座に安楽を見出し、欲望を静める心を求めることです。

當學善言者，晝夜誦習善言好語，採取眾妙度世之要，是故說，當學善言也。沙門坐起者，比丘常當作是念：「分別上下不侵他坐，斯是食坐斯是行道坐，吾當坐此捨此。」是故說，沙門坐起也。一坐所樂者，專其一心求於定意，分別諸情攝取諸根，一坐心亂者非為一坐，意不外馳便能超越度魔境界。是故說曰，一坐所樂也。求欲息心者，藏匿心識不攝心者多諸思想，若更受形趣三惡道，地獄畜生餓鬼中，不遇三寶諸佛世尊，不值清淨諸梵行人，不知慚耻，當從一生至百千生；求欲息心則無生死，是故說曰，求欲息心也。

> 善い言葉を学ぶべき者は、昼も夜も善い言葉を唱えて学び、多くのすぐれた教えの中から世を渡る要点を取り上げます。だから「善い言葉を学ぶべきだ」と説かれるのです。沙門の坐起とは、比丘はいつもこう思いなさい――「上の席と下の席を区別し、他人の座を侵してはならない。これは食事の座、これは修行の座と、私はここに座りあちらは譲ろう」と。だから「沙門の坐起」と説かれるのです。一坐を楽しむとは、心を一つに集中して定の境地を求め、さまざまな感情を見分けて諸感覚を収めます。一座のうちに心が乱れるなら、それは一坐とはいえません。心が外に走らなければ、魔の領域を超え渡ることができるのです。だから「一坐を楽しむ」と説かれるのです。心を静めたいと願うとは、心の動きを隠し収めない者は多くの思いにさらされます。もし再び形を受けて三悪道、地獄・畜生・餓鬼の中に向かえば、三宝や諸仏世尊に出会わず、清らかな修行者たちに出会うこともなく、恥を知ることもなく、一生から百千の生へと続いていくでしょう。心を静めたいと願えば生死はなくなります。だから「心を静めたいと願う」と説かれるのです。

一坐一臥， 獨步無伴， 當自降伏，隻樂山林。

> ただひとり坐り、ただひとり臥し、ひとり歩み、ともに歩む者はいない。みずから心をおさめ、ただ山林の静けさを楽しむ。

一坐一臥者，降伏內外生死熾然，雖復一坐一臥，心意不定非為坐臥也。復當思惟三有之難，恒當繫意使不分散。是故說曰，一坐一臥也。獨步無伴者，在眾若野心恒一定，若行若坐心不馳騁，如彼行人隨時乞食，內自思惟食所從來，受施之人求報其恩，自知止足，復當念佛身相功德，持意忍辱亦不分散。有如是心者便可入村求度眾生，不興亂想，如彼山林而不有異。是故說曰，獨步無伴也。當自降伏者，恒自息意令不馳散，常能挍計內外諸物，以能降伏，便為諸天世人承事供養，八部鬼神隨時擁護，為佛世尊所見歎譽。是故說曰，當自降伏也。隻樂山林者，持心專意恒樂空閑，雖入大眾意如空無，天雷地動心不錯亂，然後乃應如來聖典。是故說曰，隻樂山林也。

> 一つの坐、一つの臥に徹するとは、内と外の生死の激しい炎を鎮めることです。たとえ坐り臥していても、心が定まらなければ、それは真の坐臥とは言えません。また、三界に生きることの困難を常に思い、心を集中して散らさないようにすべきです。だから「一坐一臥」と言うのです。 独り歩み、伴なき者とは、大衆の中にいても、あるいは野にあっても、心は常に一つの定まった状態にあり、歩くときも坐るときも心が走り回らないということです。そうした修行者は、時節に応じて托鉢し、内に食物の由来を思い、施しを受けた者としてその恩に報いることを求め、自ら足ることを知ります。さらに仏の姿と功徳を念じ、心を持して忍辱を保ち、これもまた散らすことがありません。このような心を持つ者は、村に入って衆生を救うことができます。乱れた想いを起こさず、山林にいるのと変わりません。だから「独歩無伴」と言うのです。 自らを降伏するとは、常に自らの心を静めて走らせず、常に内外の諸物をよく見極めることです。よく降伏できれば、諸天と世人が仕え供養し、八部の鬼神が時節に応じて守護し、仏世尊に称賛されるでしょう。だから「当自降伏」と言うのです。 ただ山林を楽しむとは、心を持して専注し、常に空閑を喜ぶことです。たとえ大衆の中に入っても、心は空しく何もないかのようであり、天が雷鳴をとどろかせ地が揺れても心は乱れません。そうしてこそ、如来の聖なる教えにかなうのです。だから「隻楽山林」と言うのです。

千千為敵， 一夫勝之， 莫若自伏，為戰中勝。

> 千人を相手にしても、一人で勝つよりも、自分自身に打ち勝つことこそが、戦いの中の最上の勝利です。

千千為敵，一夫勝之者，或有眾生一人勝千，不自降者則非為勝，便為墮落不至究竟。能自攝意內外降伏，乃得越次至無為境，勝諸怨讎無所畏忌，乃謂為勝，能滅三界結使根本永盡無餘，名為健夫，三界結本已滅無餘更不造新。或有眾生一人勝千，或勝萬人，非為健夫。何以故？猶在生死不遠八難。是故說曰，千千為敵，一夫勝之，莫若自伏，為戰中勝也。

> 千の敵を一人で打ち勝つ者がいたとしても、その人が自分自身を制することができなければ、本当の勝利とは言えません。それはむしろ堕落であり、究竟の境地には至りません。自分の心をよく整え、内も外もおさめることができてこそ、次第を超えて無為の境地に至るのです。すべての怨敵に打ち勝ち、恐れることなく、ためらうこともない、これこそ真の勝利と言えます。三界の煩悩の根本を永久に滅ぼし尽くして余すところなく、名実ともに健やかな人と言えるのです。三界の煩悩の根本がすでに滅び尽くされて、新たに作り出すこともありません。たとえ千の者に勝ち、万の者に勝つ者がいても、それは健やかな人ではありません。なぜなら、まだ生死の流れの中にあり、八難の苦しみから遠くないからです。それゆえにこう説かれます。「千千の敵に一人で勝つよりも、自分自身を伏しおさめることが、戦いの中の最も勝れた勝利である」と。

自勝為上， 如彼眾生， 自降之士，眾行具足。

> 自分に打ち克つことが何よりもすぐれている。 あの生きとし生けるものたちのように、 自分を制した人は、 すべての行いが円満にそなわっている。

自勝為上者，夫人在世，能自降伏精神不錯，復為天、龍、鬼神、揵沓和、阿須倫、迦留羅、旃陀羅所見供養，天魔波旬雖統六天，亦不能得其便，是故說曰，自勝為上也。如彼眾生者，如彼修行人，既自慕學，復能使人執行，此心內不興垢外塵不入，乃應淨清無為處，是故說曰，如彼眾生也。自降之士，眾行具足者，人有十名號亦不同，或言眾生，我人壽命有形之類，皆名眾生，如斯之輩能自降伏不生外想，實諦第一義，無形不可見，欲求無為道者，念自降伏，不生十八本持，不漏諸界，斯亦復名自降之士。諸根具足，功德備具，隨時行道不失時節，是故說曰，自降之士，眾行具足也。

> 自らに勝つことが最上であるとは、人がこの世にあって、よく自らの心を鎮め、精神が乱れることがなければ、天・龍・鬼神・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・旃陀羅からも供養され、天魔波旬が六天を統べていても、その隙を得ることができない。それゆえに説いて、「自らに勝つことが最上である」という。 かの衆生のごとく、かの修行者のごとく、すでに自ら学びを慕い、また人々をも実践へと導く。この心の内に汚れが起こらず、外の塵が入らなければ、すなわち清浄なる無為の境地にかなう。それゆえに説いて、「かの衆生のごとく」という。 自らを鎮める者は、あらゆる行いを具えているとは、人には十の名号があり、それぞれ異なっている。あるいは衆生と言い、我・人・寿命・有形の類は、みな衆生と名づける。このような者たちがよく自らを鎮め、外の想いを生じなければ、実諦・第一義であり、形なく見ることはできない。無為の道を求めようとする者は、自らを鎮めることを念じ、十八の本持を生じることなく、もろもろの界から漏れることもない。これまた自らを鎮める者と名づける。諸根が具足し、功徳が備わり、時に応じて道を行じ、時節を失わない。それゆえに説いて、「自らを鎮める者は、あらゆる行いを具えている」という。

非天犍沓和， 非魔及梵天，棄勝最為上， 如智慧比丘。

> 天の神々でもなく、悪魔でもなく、梵天でもなく、 そのような者は最上の勝利を捨て去る――智慧ある比丘のように。

非天犍沓和，非魔及梵天者，或有世人祭祠諸天欲求恩福，或事犍沓和修其淨行，或事魔天望得豪尊，或事梵天謂天為道，外道異學心想梵天，眾生根本皆由梵天而生，以是之故事於梵天。如來說曰：「此非真道，自既迷惑，復使他人內於邪逕，亦非堅固不可恃怙。所謂真正道者，智慧比丘是也。執心清淨不漏諸結，為人說法無彼此心，意如虛空不可沮壞，利根速疾亦不滯礙，意之所念無往不剋。」是故說曰，非天犍沓和，非魔及梵天，棄勝最為上，如智慧比丘也。

> 天の神々や魔や梵天ではない、ある人は世の人々が天を祭って恩福を求めたり、ある人は天の神に仕えて清らかな行いを修めたり、ある人は魔の天に仕えて富と尊さを得ようと望んだり、ある人は梵天に仕えて天こそが道だと思ったりする。外道や異学の人々は梵天を心に思い描き、すべての生き物は梵天から生まれたと思っている。だから梵天に仕えるのだ。如来はこう説かれた。「これは真の道ではない。自分が迷っているだけでなく、他人までも邪な道に引き入れてしまう。また確かなものではなく、頼りにできるものでもない。真の道とは、智慧ある出家者である。心を清らかに保ち、煩悩の絆に漏れることなく、人々のために法を説き、自他を分け隔てする心がない。その心は虚空のように揺るぎなく、鋭い悟りの力は速やかで滞りがない。心に思うところは、成し遂げられないことがない。」だからこう説くのである。天の神々でもなく、魔でも梵天でもない、勝れたものを捨て去ることが最も尊い、智慧ある出家者のように。

先自正己， 然後正人， 夫自正者，乃謂為上。

> まず自分自身を正し、それから他人を正す。自分自身を正すことこそ、最もすぐれたことである。

先自正己，然後正人者，夫人修習自守為上，晝則教誡夜則經行，孜孜汲汲終日匪懈，然後訓誨眾生安處大道。如佛契經所說，佛告均頭：「如人己自沒在深泥，復欲權宜拔挽彼溺者，此事不然。猶人無戒欲得教誡前人者，亦無此事。廣說如契經。」如器完具所盛不漏，人神淡泊堪受深法，亦能教化一切眾生，其聞法者莫不信樂，是故說曰，先自正己，然後正人，夫自正者，乃謂為上也。

> まず自分自身を正し、それから他人を正す。人が修行するには、自分を守ることが何よりも大切である。昼は教えを説き、夜は経行（きんぎょう）に励み、一日中怠ることなく勤め続けて、はじめて衆生を導き、大道（だいどう）へと安らかに導くことができる。仏の契経（きょう）に説かれているとおりである。仏は均頭（きんず）に告げられた。「たとえば、人が自分から深い泥の中に沈みながら、巧みに他の溺れる者を引き上げようとする。そんなことが成り立つはずがない。同じように、戒を守らない者が他人を教え導こうとする。そんなことも成り立たない。詳しくは契経に説かれているとおりである。」たとえば、器が完全に整っていれば、中に入れたものが漏れることはない。人の心が淡泊で清らかであれば、深い教えを受け止めることができ、またすべての衆生を教化することもできる。その教えを聞いた者は、みな信じ喜ぶのである。それゆえにこう説かれる。「まず自分自身を正し、それから他人を正す。自分を正すことこそ、最もすぐれたことである」と。

先自正己， 然後正人， 夫自正者，不侵智者。

> まず自分自身を正し、それから他人を正しなさい。自分を正しくする人は、賢い人を傷つけることがありません。

夫人習行不唐其功，畢竟其學不辭勞苦，以己所信平等無二，懃加精進日有新業，附近明智不親弊友。夫人有智，皆由明哲成人之慧，非師不剋，是故說曰，不侵智者也。

> 夫人は修行を怠ることなく、その功徳はむだになりません。学びを志して労苦をいとわず、自らの信じるところは平等で二つとなく、ひたすら精進して日々新たな業を積み、賢明な人に親しみ、悪しき友には近づきません。夫人に智慧があるのは、すぐれた導き手によって人を育てる慧を得たからであり、師なくしては成し遂げられません。それゆえにこう説かれます。「智慧を侵さない者である」と。

當自剋修， 隨其教訓， 己不被訓，焉能訓彼。

> 自分でしっかり修行し、その教えに従いなさい。自分自身が教えられていないのに、どうして他人を教えることができましょうか。

當自剋修，隨其教訓者，如人習行備具諸行，戒聞施慧以自莊嚴，念定三昧盡諸有漏，然後乃得訓誨一切，其聞法者自歸篤信不懷狐疑。是故說曰，當自剋修，隨其教訓也。己不被訓，焉能訓彼者，如人修學素無善師，無有將導便致躓礙，遇善師者能自修責，必獲所願無事不剋。猶如善御馬將，隨馬良善，善者育養、惡者加捶，然後乃知善惡有別，方之賢愚亦復不異，善者生天、惡者入獄，方當經歷畢諸罪苦，其間艱難何能具宣？如人出行必求良祐，意欲所至無願不獲。是故說曰，當自剋修，隨其教訓，己不被訓，焉能訓彼也。

念自剋修， 使彼信解， 我己意專，智者所習。

念自剋修者，恒當專精使意不亂，滅十跡行應身口意，使無數眾生莫不渴仰，遲聞所說欲修奉行。是故說曰，念自剋修也。使彼信解者，比丘比丘尼優婆塞優婆夷、剎利婆羅門長者居士，聞正言教心意信樂終不違逆，是故說曰，使彼信解也。我已意專，智者所習者，如人習術意專乃剋，若失良師便自墜落不能自拔，出入進止為天世人所見愛敬，若至他方異域剎土，見者心歡終不中退。是故說曰，我已意專，智者所習也。

為己或為彼， 多有不成就，其有覺此者， 正己乃訓彼。

為己或為彼，多有不成就者，人之習行以己所修邪見之業，復以己智授彼使學，此則墜墮不至無為，如復有人己身專正習正受行，以己所見教訓前人，受者信解不唐其功。是故說曰，為己或為彼，多有不成就也。其有覺此者，明人所習當究本行，如佛所說，不能自利焉能利人？習行之人當念觀察，思惟非常苦空非身，悉解非有彼無我空，豈有身也？是以聖人示人軌則，導以微教布見切禁。是故說曰，其有覺此者，正己乃訓彼也。

身全得存道， 爾時豈容彼，已以被降伏， 智者演其義。

身全得存道者，由彼習行之人專精剋己，為尊為貴為無有成，進止行來不逢凶虐，恒為諸天世人、天龍鬼神、揵沓和、阿須倫、旃陀羅、摩休勒，所見供養，衛護其身便不遭患。是故說曰，身全得存道，爾時豈容彼也。已以被降伏，智者演其義者，如人慕脩深奧之法，得第一義越過三界，便得成就四意止、四意斷、四神足、五根、五力、七覺意、賢聖八品道，是謂如來甘露法門，所願者得，四事供養，衣被飲食床臥具病瘦醫藥。是故說曰，已以被降伏，智者演其義者也。取要言之，偈成三句，其文一同，但益智者獲其法一句也。法謂二義：一名字體義體，第二者所謂第一義四沙門果是也。智者得其戒，此二句也，戒有二種：一名二百五十戒，二名無漏身戒。智者被歎譽，此三句也。此亦二義：一者俗所歎譽，二者為內藏所歎譽。所謂俗者，言語辯才和顏悅色不傷人意，其聞法者歡喜承受樂聞其法。無漏身戒者，所行不左常遇賢聖，離八不閑處，其有見者心開意解，共相告令歎說其德。智者聞其名，此四句也，或有學人，俗聞其名道聞其名。智者獲其樂，樂有二種：俗樂、道樂。在俗受其福德，為檀越施主所見念待，受其供養，衣被飯食床臥具病瘦醫藥。道樂者，受禪定福，根力覺意賢聖八道。智者獲其慧，慧有二種：或有俗慧，或有道慧。所謂俗慧者，分別名字眾不滯礙。所謂道慧者，得須陀洹道、斯陀含道、阿那含道、阿羅漢道，得諸根具足空無相願。是故說曰，智者獲其慧也。智者獲其心，心者眾行之本，若心不正流馳萬端，外著色聲香味細滑法，若能降伏攝心不亂，便能成就無為道果。然彼行人服其心意，思惟曩昔為心所惑，劫數難量經歷生死皆由於心。然我今日覺心所為，更不造新為心所使也。智者獲其道，眾生流轉從劫至劫不可稱記，如契經所說，眾生入地獄者，多於大地塵土。如我今日越過三界，以天眼觀眾生之類，蜎飛蠕動共相傷害無有竟已，由如陶家脚蹴輪轉成其坏器，或輪上壞者，或在地壞者，或入陶壞者，人亦如是，是故學人當念慕修。又復引經：「吾以天眼觀眾生，生天者如爪上土，蓋不足言。」是故說曰，智者獲其道。處天久遊觀，若有眾生久生天者，勝後生天三事。何謂三事？一者天壽，二者天色，三者福祿。是故說曰，處天久遊觀也。處天久受福，共相娛樂視東忘西，是故說曰，處天久受福也。處在宗族中如日貫雲出，為父母兄弟姊妹中外所見愛敬。斷諸一切縛，盡能斷一切諸結使，永盡無餘縛著，愛染悉皆除棄。是故說曰，盡能斷一切諸結使。處憂不己憂，心解是非，解知無常、恩愛別離、世之常法：有樂必苦，生當有死，不生則無，死豈可避？以是義推，憂為是誰樂所從來？是故說曰，處憂無憂，心如死灰，澹然無為。盡滅一切惡趣，所已惡趣者，地獄餓鬼畜生，邊地夷狄之中，亦名惡趣。是故說曰，滅一切惡趣也。脫一切苦惱，脫八苦根，生苦、老苦、病苦、死苦、怨憎會苦、恩愛別離苦、所欲不得苦，取要言之五盛陰苦。行者於中脫此眾苦，泥洹為第一，無為無作無有眾變，是故名為泥洹也我品第二十四竟。

## 出曜經卷第二十一