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title: "出曜經 · 26 親品"
description: "出曜经是姚秦时期著名译经师竺佛念所译的佛教经典，属于早期汉传佛教重要文献之一。该经主要阐述佛陀的教法，内容涵盖修行方法、因果业报、戒律规范等核心教义，具有鲜明的实践指导意义。竺佛念作为五世纪初重要译经家，其译文准确流畅，对佛教在中国的传播影响深远。出曜经不仅反映了早期佛教思想体系，也为研究中国佛教发展史提供了珍贵资料，在汉传佛教经典中占有重要地位，是了解原始佛教教义的重要参考典籍之一。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmczndkxg1n9ejj04va803503"
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### 出曜經親品第二十六

> 出曜経 親品 第二十六

無信懷憎嫉， 鬪亂彼此人，智者所屏棄， 愚習以為樂。

> 信のない者は憎しみと嫉妬を抱き、 互いに争いを起こす。 賢者はそんな人を遠ざけるが、 愚か者はそれを楽しみとする。

無信懷憎嫉，鬪亂彼此人者，夫人在世信心不固，亦復不信佛法聖眾、真如四諦苦習盡道，積財至天猶不可恃怙，捨壽之日財不自隨，皆由今身不惠施故不造功德，畢故不造新。猶如有鳥素貪肉食，山樹有葉其像肉色，晝夜伺捕延頸仰望，在樹像肉墮即為葉，迷惑所纏不自覺寤，如是不息喪命於彼。所以然者？皆由貪心不自改更故。此間聞語傳至於彼，設從彼聞復傳於此，鬪亂彼此使不成就，意中興嫉轉生塵垢，是故說曰，無信懷憎嫉，鬪亂彼此人也。智者所屏棄者，智人知禮節避嫌遠疑，不處惑亂之中，彈指之頃不與從事，況當至竟與共遊乎？所謂智者，明古知今博通眾事，防慮未然所行不左，心口相應言無有失，分別深義意不倒錯，從一句義演布無數，愚者所惑，是故說曰，智者所屏棄也。愚習以為樂者，設復有人，善心勸諫誘進童蒙，訓之以道使見道門，不從其教反更疑惑，以地獄為堂室，不慮後世殃禍之根，教行惡業不從善教，轉復墮落地獄餓鬼畜生之中，是故說曰，愚習以為樂。

> 信がなく、憎しみと嫉妬を抱き、人々の間を争わせ乱す者について。世の人々は信仰の心が堅固でなく、仏法僧の三宝も、真如や四諦――苦・集・滅・道――も信じていない。財を積み上げて天に届くほどになっても、頼りにはならない。命が終わる日には財はついてこない。すべては今の身で施しをせず、功徳を積まなかったためである。古い業を終えても新たな業を作らない。たとえば、ある鳥がもともと肉食を貪り、山の木に肉の色に似た葉があり、昼夜それを狙って首を伸ばして仰ぎ見ていると、木にある肉に似たものが落ちてくるが、それはすぐに葉になってしまう。惑いに包まれて自ら目覚めない。このように絶えずにいて、そこで命を落とす。なぜそうなるのか。すべては貪りの心を自ら改めないからである。ここで聞いた話が彼のところへ伝わり、もし彼のところから聞いた話がまたここへ伝われば、互いを争わせて成就させない。心の中に嫉妬が起こり、さらに塵垢が生じる。それゆえに説くのである、信がなく憎しみと嫉妬を抱き、人々の間を争わせ乱す者だと。智者が遠ざけ捨てるものとは、知ある人は礼節を知り、疑いを避けて遠ざかり、惑い乱れる中に身を置かず、指を弾くほどの短い間も共に事を行わない。ましてや最後まで共に付き合うことがあろうか。いわゆる智者とは、古を明らかにし今を知り、多くの事に博く通じ、未然に防ぎ慮り、行いに偏りがなく、心と口が相応じて言葉に過ちがなく、深い意味を分別して心に倒錯がなく、一句の意味から無数の教えを広く説き広める。愚者はそれに惑わされる。それゆえに説くのである、智者が遠ざけ捨てるものだと。愚者が楽しみとするものとは、もしまたある人が、善き心で勧め諫めて幼い者を導き進め、道を教えて道の門を見せても、その教えに従わず、かえってさらに疑い惑うこと。地獄を堂室とし、後世の災いの根源を思慮せず、悪業を行うよう教えられて善き教えに従わず、さらに地獄・餓鬼・畜生の中に堕ちていく。それゆえに説くのである、愚者は楽しみとするものだと。

有信無憎嫉， 精進信多聞，智者所敬待， 賢聖以為樂。

> 信があれば憎しみや嫉妬はなく、努力して信じ、よく聞く人は、賢い人々に敬われ、聖なる者たちに喜ばれる。

有信無憎嫉者，如復有人篤信佛法聖眾，至意信解苦習盡道，不懷諛諂心意柔軟，承事敬待諸梵行人，晝則懃受夜則經行，孜孜汲汲不失威儀，和顏悅色先笑後言不傷人意，是故說曰，有信無憎嫉也。精進信多聞者，人之修行精進為上，況復廣學採取多聞，戒聞施慧廣布一切，安處無為寧處道場，以己所見演示前人，是故說曰，精進信多聞也。智者所敬待者，常當親近承受不及，戒身不具足者令使具足，定身慧身見身見解脫身不具足者令使具足，是故說曰，智者所敬待。賢聖以為樂者，夫人修行追賢逐聖不辭寒苦，正使遭遇七千億難能捨身命，雖遭斯苦不分其意，是故說曰，賢聖以為樂。

> 信があれば憎しみや嫉妬はない。たとえば、ある人が仏法と聖なる僧団を深く信じ、心から苦・集・滅・道を信じ理解し、へつらう心がなく心が柔らかく、修行者たちに敬い仕え、昼は勤めて学び夜は経行し、怠ることなく威儀を保ち、柔和な顔と穏やかな言葉で、まず笑ってから話し、人の心を傷つけない。それゆえ「信があれば憎しみや嫉妬はない」と説くのである。精進と信と多聞とは、人の修行には精進が最も大切である。ましてや広く学び多くを聞き、戒・聞・施・慧をすべてに広め、無為の安らぎに住し道場に寧かに処し、自らの見解を人に示すならば、なおさらである。それゆえ「精進と信と多聞」と説くのである。智者に敬われる者は、常に親しみ仕えて及ばぬことを受け、戒が不足する者を満たし、定・慧・見・解脱の身が不足する者を満たす。それゆえ「智者に敬われる者」と説くのである。賢聖を楽しみとする者は、人が修行して賢聖を追い求めるにあたり寒苦を辞さず、たとえ七千億の難に遭っても身命を捨てることができ、このような苦に遭ってもその心を変えない。それゆえ「賢聖を楽しみとする」と説くのである。

不親惡知識， 不與非法會，親近善知識， 恒與正法會。

> 悪い友だちには近づかず、 間違った集まりにも加わらない。 善い友だちを大切にし、 いつも正しい教えの集まりに集う。

不親惡知識者，彼修行人遭惡知識者日增惡行，墮入地獄餓鬼畜生，正使行清意潔隨惡染其素，由若有人愛犬猪羊心不遠離，猪犬隨逐亦不相離，猪犬所樂糞除為上，廁溷為浴池共相染污，親惡知識者亦復如是，共相追逐終以無善。是故說曰，不親惡知識也。不與非法會者，非法人者五無救罪，無戒無信無聞無慧無施，如此之人不可親近，其有追逐以為伴者，墮入惡趣不至善處，是故說曰，不與非法會也。親近善知識者，學有日新出言柔和心意相應，設有之造不傷人意，先笑後言文句相應，是故說曰，親近善知識。恒與正法會者，所謂正法會，佛辟支佛聲聞是也，更無眾生出於佛者，除佛以更無眾生出於辟支佛者，除佛辟支佛更無眾生出於聲聞者，其有信心向此三者，得至究竟，不墜三塗厄難之處，是故說曰，恒與正法會也。

> 悪い友に親しまない人について。修行者が悪い友に親しむと、悪い行いが日ごとに増え、地獄・餓鬼・畜生の道に落ちてしまいます。たとえ心が清らかで行いが潔白であっても、悪に染まってその本性を汚してしまいます。たとえば、犬や豚や羊を可愛がる人がその心を離さないと、豚や犬が後を追い、互いに離れません。豚や犬が喜ぶのは糞尿の掃き溜めで、便所を浴槽のようにして共に汚れ合います。悪い友に親しむ人もまた同じで、互いに追いかけ合い、ついには善がなくなってしまいます。だからこそ、「悪い友に親しまない」と説かれるのです。 非法の集まりに加わらないことについて。非法の人とは、五つの救いのない罪を犯した者——戒めもなく、信もなく、学びもなく、智慧もなく、施しもない者です。このような人には近づいてはいけません。その人を追いかけて仲間とする者は、悪い世界に落ちて善いところへは行けません。だからこそ、「非法の集まりに加わらない」と説かれるのです。 善い友に親しむことについて。学びは日々新たになり、言葉は柔らかく、心と心が通い合います。たとえ何かを作り出しても人の心を傷つけません。まず笑い、それから語り、言葉のつながりもよく合っています。だからこそ、「善い友に親しむ」と説かれるのです。 常に正しい法の集まりと共にあることについて。いわゆる正法の集まりとは、仏・辟支仏・声聞のことです。仏を除いて、仏から出た他の衆生はなく、仏と辟支仏を除いて、辟支仏から出た他の衆生はなく、仏・辟支仏を除いて、声聞から出た他の衆生はありません。この三者に対して信心を向ける者は、究竟に至ることができ、三悪道の苦難の場所に落ちることはありません。だからこそ、「常に正しい法の集まりと共にある」と説かれるのです。

行路念防慮， 持戒多聞人，思慮無量境， 聞彼善言教，各各知差別。

> 道を歩みながらも、心を守り、思いを巡らせる。 戒めを守り、多くを聞いた人々は、 はかり知れない境地を思い巡らし、 その善き教えの言葉を聞いて、 それぞれに違いを理解するのです。

行路念防慮者，群徒在途出言防慮，曠野之中多諸鬼神，若論惡語神即得便，論說善者鬼神營護，所至到處不遇惡人，亦復不逢劫盜人者，是故說曰，行路念防慮。持戒多聞人，受佛言教不去心首，如佛所說，告諸比丘當修三昧正受定意，若行若坐無令違失，便為諸天鬼神所見營護。所以然者？皆由承受正佛言教。是故說曰，持戒多聞人也。思慮無量境者，晝夜思慮坐禪誦經戒聞施慧，是故說曰，思慮無量境也。聞彼善言教，各各知差別，如彼學人聞彼善教，意不錯亂文句相應，便成道果，須陀洹果、斯陀含果、阿那含果、阿羅漢果，增益善根至無為道，是故說曰，聞彼善言教，各各知差別。

> 旅の道中では、心を守り、よく考えて行動しなさい。一行が道を歩くときには、言葉を慎み、よく気をつけなさい。広い野原には多くの鬼神がいるので、もし悪い言葉を口にすれば、鬼神はすぐにつけ込み、善いことを語れば鬼神が守ってくれます。どこへ行っても悪い人に出会わず、盗賊に出会うこともありません。だからこそ、「旅の道中では、心を守り、よく考えなさい」と言うのです。 戒を守り、よく教えを聞く人は、仏の言葉を心に刻んで忘れません。仏が説かれたように、比丘たちに告げられました。「よく定まり、心を正しく落ち着けて修行しなさい。歩くときも座るときも、それを怠ってはなりません。」そうすれば、天や鬼神が守ってくれるでしょう。なぜでしょうか。それは、仏の正しい教えをしっかり受け止めているからです。だからこそ、「戒を守り、よく教えを聞く人」と言うのです。 限りない世界を思い考えるとは、昼も夜も、座禅をし、経を読み、戒めを守り、教えを聞き、施しを行い、智慧を磨くことを思い続けることです。だからこそ、「限りない世界を思い考える」と言うのです。 その善い教えを聞いて、それぞれが違いを理解するとは、学ぶ人がその善い教えを聞き、心が乱れず、言葉と意味がかみ合って、やがて悟りの結果を得ることです。須陀洹果、斯陀含果、阿那含果、阿羅漢果という段階を経て、善い心を育み、無為の道へと至ります。だからこそ、「その善い教えを聞いて、それぞれが違いを理解する」と言うのです。

近惡自陷溺， 習善致名稱，妙者恒自妙， 此由身真正。

> 悪に近づけば自ら溺れ沈み、 善を習えば名を知られるようになる。 素晴らしいものは常に自ずから素晴らしい、 これは身の在り方が真に正しいからである。

近惡自陷溺者，如復有人親近惡友，但有日損不至究竟，猶若半月日有闇冥無有大明，親近惡友亦復如是，日損善根增益惡法，是故說曰，近惡自陷溺也。習善致名稱者，勝人所習日有名稱，猶如月欲盛滿日有光明遠照無外，修善之人亦復如是，善名廣著名稱遠布，是故說曰，習善致名稱也。妙者恒自妙，所行專正修無上道，猶如須陀洹家仰修斯陀含道，斯陀含家仰修阿那含道，阿那含家仰修阿羅漢道，阿羅漢家轉自增益諸善功德，是故說曰，妙者恒自妙也。此由身真正者，當求巧便求諸功德瓔珞其身，意中欲得名稱廣布者，欲得諸天世人敬待，當自謹慎不與塵勞懷來道故，是故說曰，此由身真正也。

> 悪友に親しめば、自ら悪に沈んでしまう。たとえば、悪友に近づく人がいるならば、ただ日ごとに損なわれて究竟に至ることはない。ちょうど半月の月に暗さがあって大きな光明がないように、悪友に親しむ人もまた同じである。日ごとに善根を損ない、悪法を増やす。だからこう説く、「悪に近づけば自ら沈む」と。 善を習えば名称を得る。すぐれた人が習うところは、日ごとに名称を持つ。ちょうど月が満ちようとするとき、日ごとに光明があって遠くを照らし、外に及ばないところがないように、善を修める人もまた同じである。善き名は広く知られ、名称は遠くまで広まる。だからこう説く、「善を習えば名称を得る」と。 すぐれたものは常に自らすぐれている。行うところが専ら正しく、無上の道を修める。ちょうど須陀洹の家が斯陀含の道を仰いで修め、斯陀含の家が阿那含の道を仰いで修め、阿那含の家が阿羅漢の道を仰いで修め、阿羅漢の家が転じて自ら諸々の善功德を増やすように。だからこう説く、「すぐれたものは常に自らすぐれている」と。 これが身の真実によるものである。まさに巧みな方法を求め、諸々の功德を求めて身を飾るべきである。心の中で名称が広く行き渡ることを望み、諸天と世人に敬われたいと望むなら、まさに自ら謹慎し、塵労と共に道を妨げることがあってはならない。だからこう説く、「これが身の真実によるものである」と。

善者終以善， 斯由親近善，智慧為最上， 禁戒永寂滅。

> 善い人はついに善に至る。 それは善き人に親しむからです。 智慧は最もすぐれたものであり、 戒めを守ることは永遠の静けさへと導きます。

善者終以善，斯由親近善者，智人求於智，以成其聖道，猶如紫磨真金內外清徹，造作器皿無不成就；智者亦爾，賢聖相習留教在世永世不朽，是故說曰，善者終以善，斯由親近善也。智慧為最上，禁戒永寂滅者，夫人習行先當求上人之法，是故說曰，智慧為最上，禁戒永寂滅者也。

> 善い人はついには善いに至ります。これは善い人に親しむからです。智慧ある人は智慧を求め、それによって聖なる道を完成させます。ちょうど紫磨の真金が内外ともに清らかで、どんな器を作っても仕上がらないものがないようなものです。智慧ある人も同じです。賢者と聖者は互いに学び合い、教えを世に残し、永遠に朽ちることがありません。それゆえにこう説かれました。「善い人はついには善いに至る。これは善い人に親しむからである」と。智慧は最も尊く、戒めを守ることは永遠の静けさに入ることです。人が修行するときは、まずすぐれた人の教えを求めるべきです。それゆえにこう説かれました。「智慧は最も尊く、戒めを守ることは永遠の静けさに入ることである」と。

如魚湍聚湊， 人之貪著取，意著不覺臭， 習惡亦如是。

如魚湍聚湊，人之貪著取者，猶如群魚集聚一處穢污難近，人意貪著不顧臭穢，愚人執意謂為甘美，不知久久不便於身，臭氣流溢布見於外；習惡之人亦復如是，與親近者即成其惡，損減善根增益惡部，是故說曰，如魚湍聚湊，人之貪著取，意著不覺臭，習惡亦如是也。

木榓葵霍葉， 眾生往採取，葉薰香遠布， 習善亦如是。

木榓葵霍葉，眾生往採取者，如有善察之人往採其香，雖不得根而獲香葉香氣苾芬，正使捨彼故處猶香；善知識從事者亦復如是，成人之德功德日積，是故說曰，木榓葵霍葉，眾生往採取，葉薰香遠布，習善亦如是也。

已自不習惡， 親近習惡者，為人所誣笑， 惡名日增熾。

已自不習惡，親近習惡者，世多有人不行惡事婬妷盜竊，性不飲酒、不博弈戲樂，然彼眾生或在酤酒家坐，或入婬種村中，或在博弈家坐，為主人所見，謂為斯人習此非法興猶豫想：「此人先自貞潔清淨，今日何為習此非法？」惡聲遂顯流聞四遠，百千眾生共相告語，誹謗之名從是日滋。是故說曰，已自不習惡，親近習惡者，為人所誣笑，惡名日增熾也。

觀習而習之， 知近而親近，毒箭在其束， 淨者被其污，勇夫能除污， 去惡不為伴。

觀習而習之，知近而親近者，世多有人未在道撿，意不堅固與惡從事，不被教訓見物而習，見惡習惡見善習善，以己所見示見於人，身自不正焉能正人？猶如毒箭污染餘者，己身行惡教人習之，智者觀察此已終不行其惡，是故說曰，觀習而習之，知近而親近，毒箭在其束，淨者被其污，勇夫能除污，去惡不為伴也。

是故知果報， 智人悉分別，非親慎莫習， 習當近於賢，比丘行於道， 忍苦盡諸漏。

是故知果報，智人悉分別者，眾生造行果報不同，或舋輕而藥妙，或罪重而易療，唯有覺者能消滅耳；智人所習自審明矣，設有愆咎即能誨過，猶馬蹶躓加之杖策然後調伏，智人習行亦復如是，尋隙所生自悔不及，是故說曰，聖人知果報，智者悉分別也。非親慎莫習，習當近於賢者，所謂非親，所行非義，口吐言教終無善響，布毒於人以為快樂。其有眾生翫習此者，便為長夜流轉生死受惱無量，神識倒錯心意煩熱。所謂賢者，包識眾事萬機不惑，為人師範辯才無礙，以己明慧演示眾生，其聞音者斯蒙度脫。是故說曰，非親慎莫習，習當近於賢也。比丘行於道，忍苦盡諸漏者，行人執意眾業備具，賢聖八品如來聖道，諸佛世尊常所修行，復以賢聖苦忍之法，盡諸有漏成乎無漏。是故說曰，比丘行於道，忍苦盡諸漏也。

愚者盡形壽， 承事明智人，亦不知真法， 如瓢斟酌食。

愚者處世雖受百年與智者同俱，然意曚曚不別真法，是以聖人以瓢為喻，終日酌物不知鹹酢，喻彼愚者雖遇賢聖，意迷心惑不達正教，寄生於世無益於時。是故說曰，愚者盡形壽，承事明智人，亦不知真法，如瓢斟酌食。

智者斯須間， 承事賢聖人，一一知真法， 如舌知眾味。

智人所學意志捷疾，聞一知萬豫達未然，隨時之行亦不錯謬，悉能分別亦無滯礙，猶舌甞味，甜酢鹹淡悉能知之；學人所習究暢本末別白黑法，知病所興知病所滅，斯非顛倒斯是顛倒，皆能別了投之聖藥，是故說曰，智者斯須間，承事賢聖人，一一知真法，如舌知眾味也。略說其事，彼不解慧愚人所習，唯有智者能究其事，彼無眼目，所謂愚者是也；眼目者，賢聖眼目是也，唯有智者而有此耳。彼不知真法，三耶三佛說，所謂不知真法者，愚者是也。

智者尋一句， 演出百種義，愚者誦千句， 不解一句義。

智者尋一句，演出百種義者，智者執意明達道術，禪燕不亂練精神識，永無塵垢四辯具了，問一句之義達百千之章，是故說曰，智者尋一句，演出百千義也。愚者誦千句，不解一句義者，愚者意迷，從冥至冥不覩大明，雖誦千章不解一義，是以智人常當遠之不與從事，是故說曰，愚者誦千句，不解一句義也。

一句義成就， 智者所修學，愚者好遠離， 真佛之所說。

昔有比丘往至佛所，前白佛言：「唯然世尊大慈垂愍，開悟未及，願為說法應適人意，我聞法已心意開悟得蒙度脫。」爾時世尊略說其義，告比丘曰：「非汝則捨。」比丘白佛：「我以知矣。」佛告比丘：「我義云何汝以知乎？」比丘白佛：「色非我有，我以捨矣。」佛言：「善哉！如汝所說。」是故說曰，一句義成就，智者所修學也。愚者好遠離，真佛之所說，聖人處世教誡眾生平等大道，愚者意迷神識難革，或見如來而掩目者，或聞說法而塞耳者，或見如來行跡輪相在地而蹋壞者，斯等之類罪垢深固難可改更。過去恒沙諸佛世尊，終訖說法於無餘境，然眾生類執愚積久，甘露滋降不覩不聞，捨形受形輪轉生死無有出期，斯由愚惑無明所纏故也。

怨憎有智勝， 不隨親友義，愚者訓非道， 漸趣地獄徑。

怨憎有智勝者，怨憎之人自知隙咎，本性明達防慮未然，恒自思惟：「設我今日行非法者，便自陷溺不毀彼人也，如有怨讎眾多，思欲報怨力所不至，知當如何？不如行慈乃可得勝。」是故說曰，怨憎有智勝也。不隨親友義者，親友之人心意欵到，意之所好教授前人與共同歡，惡則同惡好則同好，後受報對入地獄中，是故說曰，不隨親友義，愚者訓非道，漸趣地獄徑。

愚者自稱愚， 當知善𭶑慧，愚人自稱智， 是謂愚中甚。

愚者自稱愚，當知善黠慧者，愚自思惟悔本不及，我本所行實為非法，種諸罪根開地獄門，塞泥洹路，晝夜懇責，我今處世眾結自纏塵垢污染，捨身受身輪轉生死不離三有，便自悔責追師逐侶，漸漸得至無為之處。是故說曰，愚者自稱愚，當知善黠慧也。愚人自稱智，是謂愚中甚者，愚人生世恒自歎譽，我為尊貴餘者不如，不達今世後世殃舋之罪，我所知見世之希有，自揚其名抑彼之德，不知生死之難，修凡夫行，是故說曰，愚人自稱智，是謂愚中甚。

若復歎譽愚， 毀呰智者身，毀智猶有勝， 歎愚不為上。

若復歎譽愚者，愚者所習見物歎譽，不別尊卑善惡之行，所可歎者反更毀呰，是故說曰，若復歎譽愚也。毀呰智者身者，雖被誹謗不以憂慼，自知果報緣對所至，是故說曰，毀呰智者身猶有勝也。歎愚不為上者，眾生處世群愚黨惑，聞彼稱名歡喜踊躍不能自勝，不知久後於身不便，是故說曰，歎愚不為上也。

莫見愚聞聲， 亦莫與愚居，與愚同居難， 猶如怨同處。

昔佛在羅閱祇，將侍者一人，名曰阿難，在路遊行。爾時世尊遙見調達逐路前進，佛告阿難：「我等可共就餘路行，何為與此愚人相見？」爾時阿難前白佛言：「云何世尊如來，今日畏此調達乎？何為欲避就於餘路？」佛告阿難：「我自憶念，本所造福自致無上等正覺，亦復不見魔若天外道異學沙門梵志，能使如來有恐怖者。此事不然。吾昔在樹王下眾結未盡，弊魔波旬將十八億眾，人身獸頭猨猴師子，虎兕毒蛇惡鬼形貌，擔山吐火把持刀劍戈牟鎧鉀，揚聲哮吼填塞虛空時來恐我，猶尚不能動我一毛，況今我身成等正覺三界獨尊，豈當畏於愚調達耶？此事不然。」爾時世尊便說此偈：

「莫見愚聞聲， 亦莫與愚居，與愚同居難， 猶如怨同處，當選擇共居， 如與親親會。」

夫人處世，當與黠慧之人共居，出則和顏入則同歡，共相敬待如父如兄如身無異，猶如親親心意欵至，如此相敬皆至無為。是故說曰，當選擇共居，如與親親會也。

是故事多聞， 并及持戒者，如是人中上， 猶月在眾星。

是故事多聞，并及持戒者，多聞眾生解世非常明鑒三有，知今世後世之報，自知眾德具足，恒親近賢人，戒成就者，定成就慧成就解脫成就解脫見慧成就。說曰，是故事多聞，并及持戒者也。如是人中上，猶月在眾星中者，五分法身未具令使具足，在大眾中獨尊隻步無有儔匹，猶如明月在眾星中，光明遠照無有及者。是故說曰，如是人中上，猶月在眾星親品第二十六竟。

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