---
title: "出曜經 · 29 惡行品"
description: "出曜经是姚秦时期著名译经师竺佛念所译的佛教经典，属于早期汉传佛教重要文献之一。该经主要阐述佛陀的教法，内容涵盖修行方法、因果业报、戒律规范等核心教义，具有鲜明的实践指导意义。竺佛念作为五世纪初重要译经家，其译文准确流畅，对佛教在中国的传播影响深远。出曜经不仅反映了早期佛教思想体系，也为研究中国佛教发展史提供了珍贵资料，在汉传佛教经典中占有重要地位，是了解原始佛教教义的重要参考典籍之一。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmczndlkl1nf5jj04f3i89ljl"
---

## 出曜經卷第二十五

> 出曜経 巻第二十五

姚秦涼州沙門竺佛念譯

> 姚秦涼州沙門竺仏念訳

### 惡行品第二十九

> 悪行品 第二十九

諸惡莫作， 諸善奉行， 自淨其意，是諸佛教。

> 悪いことをせず、良いことを行い、自分の心を清らかにすること。これが仏の教えです。

諸惡莫作者，諸佛世尊教誡後人三乘道者，不以脩惡而得至道，皆習於善自致道跡，是故說曰，諸惡莫作也。諸善奉行者，彼修行人普脩眾善，唯自瓔珞具足眾德，見惡則避恒脩其善，所謂善者，止觀妙藥燒滅亂想。是故說曰，諸善奉行。自淨其意者，心為行本招致罪根，百八重根難解之結纏裹其心，欲怒癡盛憍慢慳嫉種諸塵垢，有此病者則心不淨，行人執志自練心意使不亂想，如是不息便成道根，是故說曰，自淨其意也。是諸佛教者，如來演教禁戒不同，戒以檢形義以攝心，佛出世間甚不可遇，猶如優曇鉢花億千萬劫時時乃有；是故如來遺誡教化，聖聖相承以至今日，禁誡不可不脩，惠施不可不行，吾所成佛王三千者，皆由禁誡惠施所致也。是故說曰，是諸佛教。

> 悪いことをしてはならない。これは、諸仏が後の人々に教え諭された三つの乗り物（三乗）の道である。悪を行うことによって道に至ることはできず、みな善を積み重ねて自ら道を歩むのである。だからこう説かれる、「諸々の悪を作すこと莫れ」と。 もろもろの善を奉行せよ。修行する人はあらゆる善を身につけ、ただ自らを飾り立てて多くの徳を備え、悪を見れば避け、常に善を行う。ここでいう善とは、止と観という妙薬によって乱れた思いを焼き滅ぼすことである。だからこう説かれる、「諸々の善を奉行せよ」と。 自らその心を清めよ。心は行いの根本であり、罪の根を招き寄せる。百八の重い煩悩の結び目が心を包み込み、貪り・怒り・愚かさが盛んになり、傲慢・物惜しみ・嫉妬がさまざまな塵や垢を生み出す。この病ある者は心が清らかではない。修行する人は志を堅く持ち、自らの心を鍛えて乱れた思いを起こさぬようにする。こうして絶え間なく続ければ、やがて道の根本となる。だからこう説かれる、「自らその心を清めよ」と。 これが諸仏の教えである。如来の説かれる教えや戒めは一様ではないが、戒は行いを正し、その意味は心を整えることにある。仏が世に現れることは、まことに出会いがたい。ちょうど優曇鉢の花が億千万劫の時を経てようやく咲くように。だから如来は教えを遺し戒めを伝え、聖から聖へと受け継がれて今日に至っている。戒めを修めずにはいられず、恵み施すことを行わずにはいられない。私が仏となり三千世界を治めるに至ったのも、すべて戒めと恵み施しによるものである。だからこう説かれる、「これが諸仏の教えである」と。

惠施獲福報， 不藏恚怒懷，以善滅其惡， 欲怒癡無餘。

> 施しを与える人は福報を得ます。 怒りや恨みを心に隠さず、 善によってその悪を滅ぼし、 欲望と怒りと愚かさを残らず消し去ります。

昔日大目揵連同產弟，饒財多寶七珍具足，金銀珍寶、車𤦲馬瑙、真珠虎珀，庫藏盈溢僕從奴婢不可稱計。是時，目連往到弟家而告弟曰：「聞卿慳嫉不好惠施。佛常演說，夫人惠施獲報無數。卿今施者得福無量。」弟聞兄教開藏惠施，更新立庫藏欲受其報。未經旬日財寶竭盡，故藏悉空新藏無報，甚至懊惱向兄說曰：「前見告勅施獲大報，不敢違教竭藏惠施，當來過去諸貧窮者靡不周遍；然財寶貨盡舊藏空竭新藏無報，將無為兄所疑誤乎？」目連告曰：「止止族姓子！莫陳此語。無使異學邪見之士聞此麤言。若使福德當有形者，虛空境界所不容受，吾今權且示汝微報，若欲見者隨從我來。」爾時目連以神足力，手接其弟至於六天。彼有宮殿七寶合成，前後浴池香風遠布，庫藏盈溢不可稱計，玉女營從數千萬眾，純女無男亦無夫主。弟白目連：「是何宮殿巍巍乃爾？不見有男，純是女人。」目連告弟：「汝今往問，自當知之。」即往問之：「天女當知！我有所問願見發遣。」天女問曰：「有何狐疑而欲見問？」其人報曰：「是何宮殿七寶合成，巍巍堂堂懸處虛空？誰有斯德於中受福？願解我疑永無猶豫。」天女報曰：「汝不知乎？我等在此積有年歲，食福自然無復是過，欲知我夫主者，施在心懷今當與說。閻浮利內迦比國界釋迦文佛神力弟子，名曰目連，彼有賢者弟大富長者，好憙惠施周窮濟乏，彼命終之後當來生此，與我等作夫主，七寶宮殿及我等身惠施之報。」其人聞憙善心生焉，還至兄所具白其情。目連告曰：「云何族姓子？夫人惠施當有報耶？為無報耶？」弟懷慚愧頭面懺悔，還至世間廣施不惓。是故說曰，惠施獲福報。不藏恚怒懷者，夫人懷毒藏匿在內，伺人之惡惱人之善，如斯之類不可與親；如灰覆火，目雖不覩，蹈則燒脚，身無防備唐突禁戒，當時意勇不覺傷損。人之傷害自古有之，或先懷嫌，或卒興怒，卒興怒者猶尚可恕，先懷嫌者斯意難親。所以然者？夫人陰謀必有傷剋，群愚相逐遂致惡災，外揚不密內共情通，共相稱譽成惡朋友，事與願違遂致喪沒，家屬財產斯皆入官，人所憎嫉惡聞其聲。是故說曰，不藏恚怒懷也。以善滅其惡，欲怒癡無餘者，所謂善者賢聖道品是也，乘此道品，猶四瀆水斷流而無所畏難，滅渡諸惡部使不復生，有災吐毒欲怒癡生，拔三根栽種其三業，仰脩道觀進趣四道有何難受？是故說曰，以善滅其惡，欲怒癡無餘也。

> むかし、大目連（だいもくれん）には実の弟があった。財産は豊かで七つの宝に満ち足り、金・銀・珍宝・車や瑪瑙・真珠・琥珀、蔵はあふれかえり、召使いや奴婢の数は数えきれないほどだった。あるとき、目連は弟の家へ行き、こう告げた。「あなたは物惜しみして施しを好まないと聞いた。仏は常に説いておられる。施しをする人は数えきれないほどの報いを受ける、と。あなたも今、施しをすれば無量の福を得るだろう。」弟は兄の教えを聞いて蔵を開き施しを始め、新たに蔵を建ててその報いを受けようとした。しかし十日もたたないうちに財宝は尽き、もとの蔵はすっかり空になり、新しい蔵には何の報いもなかった。弟はたいそう悔しがり、兄にこう言った。「先日あなたの教えに従って施しをすれば大きな報いがあると聞き、教えに背かず蔵を空にして施しました。来る者も去る者も貧しい者たちにことごとく行き渡らせました。しかし財宝は尽き、もとの蔵は空になり、新しい蔵には何の報いもありません。兄に惑わされたのではないでしょうか。」目連は答えた。「やめなさい、族姓子よ。そんなことを言ってはならない。他の教えを信じる邪（よこしま）な者がこの荒い言葉を聞かぬように。もし福徳が形あるものなら、虚空の広がりとても収めきれないだろう。今しばらく、私があなたにほんのわずかな報いを見せてやろう。見たいのなら私についてきなさい。」そこで目連は神通力で弟の手をとり、六天（ろくてん）の世界へと連れて行った。そこには七宝でできた宮殿があり、前後に浴池が広がり、香しい風が遠くまで漂い、蔵はあふれかえり、数えきれないほどだった。侍女たちは数千万もいて、女ばかりで男も夫もいなかった。弟は目連に尋ねた。「これは何の宮殿でしょう。これほど立派で、男の姿もなく女ばかりです。」目連は告げた。「あなたが行って尋ねなさい。おのずとわかるだろう。」そこで弟は行って尋ねた。「天女よ、お尋ねしたいことがあります。どうかお答えください。」天女は尋ねた。「どんな疑いがあってお尋ねになりたいのですか。」弟は答えた。「これは何の宮殿でしょう。七宝でできて、堂々と虚空に浮かんでいます。誰がこの徳を受けて中で福を楽しんでいるのですか。どうか私の疑いを解いて、ためらいをなくしてください。」天女は答えた。「ご存じないのですか。私たちはここに長い年月住み、自然に福を食べてこの上ない暮らしをしています。私の夫となる者を知りたいのなら、心に思っていることを今話しましょう。閻浮利（えんぶり）の迦比（かび）の国、釈迦文仏（しゃかもんぶつ）の神力の弟子で、名を目連という者がいます。その人には賢い弟で大富の長者がいて、施しを好み、貧しい者を救い乏しい者を助けています。その命が終わったのち、ここに生まれ、私たちの夫となり、七宝の宮殿と私たちの身は施しの報いとなるでしょう。」弟はこれを聞いて喜び、善い心が起こり、兄のもとへ戻って一部始終を話した。目連は告げた。「どうだ、族姓子よ。施しには報いがあるか、ないか。」弟は恥じて頭を垂れて懺悔し、世間に戻って広く施しを続け、倦むことがなかった。それゆえに説く、施しは福の報いを得る、と。 怒りを隠し抱く者について。人が毒を心に秘めて内に隠し、人の悪をうかがい人の善を妨げるなら、このような者と親しんではならない。灰に覆われた火のように、目には見えなくても、踏めば足を焼く。身を守らず戒を破れば、そのときは勇ましくても傷つくことに気づかない。人の害は昔からある。あるいは先に恨みを抱き、あるいはにわかに怒りを起こす。にわかに怒る者はまだ許せるが、先に恨みを抱く者はその心、親しみがたい。なぜか。陰で謀る者は必ず傷つけ倒す。愚か者たちが互いにつき従い、ついに災いを招く。外に漏らさず内に通じ合い、互いにほめたたえて悪しき友となる。事は願いに背き、ついには身を滅ぼし、家族も財産もみな官に没収され、人に憎まれその声を聞くのも嫌がられる。それゆえに説く、怒りを隠し抱くな、と。 善をもってその悪を滅ぼし、欲と怒りと痴を余すことなくする、とは。善とは賢聖の道品のことである。この道品に乗れば、四つの大河の流れを断ち切っても恐れることはない。もろもろの悪を滅し渡して再び生じさせない。災いを吐き出す毒、欲と怒りと痴が生じるなら、三つの根を抜き三つの業を種とし、仰いで道を修め観を進め、四道を趣けば、何の受け難いことがあろうか。それゆえに説く、善をもってその悪を滅ぼし、欲と怒りと痴を余すことなくする、と。

隻行勿逐愚， 欲群當逐智，智者滅其惡， 如鶴擇乳飲。

> 愚かな者とだけ行動するな。 仲間を作るなら、知恵ある者と共にせよ。 知恵ある者は悪を滅ぼす。 鶴が乳だけを選んで飲むように。

隻行勿逐愚者，所謂隻行者，在閑靜之處意不分散，思惟善本繫念在前，設欲同處當與善知識從事，莫與惡知識從事，是故說曰，隻行勿逐愚也。欲群當逐智者，世多有人慕及上賢，追逐有智持戒精進辯才深邃，堪說道教不懷疲勞，是故說曰，欲群當逐智也。智者滅其惡者，智慧之人明古達今，出言所說必有所濟，晝夜孜孜思惟道術，承受明智所吐言教，以善功德消滅眾惡，是故說曰，智者滅其惡也。如鶴擇乳飲者，如昔有人多捕群鶴孚乳滋長，展轉相生其數無限，養鶴之法，以水和乳乃得食之，鶴之常法當食之時，鼻孔出氣吹水兩闢純食其乳，鳥之頑鹵由能分別去水食乳。今之比丘能不爾乎？當選其善蠲除其惡，如彼鳥鶴深知好惡也。是故說曰，如鶴擇乳飲也。

> ただ独り歩み、愚かな者に従ってはならない。独り歩みとは、静かな場所で心を散らさず、善き根本を思惟し、常に心を前に保つことである。もし共に過ごしたいと思うなら、善き友と共に行動し、悪しき友と共にしてはならない。それゆえ「独り歩み、愚かな者に従うな」と説かれたのである。 群れをなしたいならば、智者に従うべきである。世には多くの人が優れた賢者を慕い、智慧あり、戒を保ち、精進し、弁才深く、教えを説くことに疲れを知らない人を追い求める。それゆえ「群れをなしたいならば、智者に従え」と説かれたのである。 智者はその悪を滅ぼす。智慧ある人は古きを明らかにし今に通じ、その言葉は必ず人を助ける。昼も夜も励み、道を思惟し、明らかな智慧の語る教えを受け、善き功德によって多くの悪を滅ぼす。それゆえ「智者はその悪を滅ぼす」と説かれたのである。 鶴が乳だけを選んで飲むように。昔、多くの鶴を捕らえ、卵をかえし育て、次々と増えてその数は限りなかった。鶴を養う方法として、水と乳を混ぜて与えた。鶴はいつも食べるとき、鼻から息を吹き出して水を二つに分け、乳だけを飲む。鳥の愚かさでも、なお水を除いて乳を飲むことを分別できる。まして今の比丘はそうできないだろうか。善きを選び悪しきを除くべきである。あの鶴が好悪をよく知っているように。それゆえ「鶴が乳だけを選んで飲むように」と説かれたのである。

觀世若干變， 知法起滅跡，賢聖不樂世， 愚者不處賢。

> 世の移り変わりをよく観察し、 法が生じては滅する跡を知る。 賢い聖者は世を楽しまず、 愚かな者は賢者と共にいない。

觀世若干變者，所謂世者世有三品：一者器世，二者陰世，三者眾生世。此三世者貯病之牢室，內外堅固非醫所療治，內者四百四病同時俱作，外者含毒之類，蚖蛇百足蝮蠍虎狼所見噬螫，眾變若干其事不同，水火盜賊怨讎之類竊來傷害。是故說曰，觀世若干變也。知法起滅跡，知跡起滅其事有二：一者結跡，二者陰跡。能滅其事乃應無為，是故名曰，知法起滅跡。賢聖不樂世，愚者不處賢者，賢聖永滅諸惡不處群俗，鶴飛則高不樂丘塚，猩猩好淨不處廁溷，賢聖之人亦復如是，不處群俗與共同光；愚者好惡不處賢眾。是故說曰，賢聖不樂世，愚者不處賢也。

> 世の中の移り変わりを観察するとは、いわゆる「世」には三つの種類がある。一つは器世、二つは陰世、三つは衆生世である。この三つの世は、病をためこむ牢獄のようなもので、内外ともに堅固で、医者にも治せない。内側では四百四の病が同時に起こり、外側では毒を持つ者たち、すなわち蚖蛇や百足、蝮や蠍、虎や狼に噛まれ刺され、さまざまな災いが起こる。水火や盗賊、怨敵の類がひそかにやって来て害を加える。だからこう説くのである、「世の中の移り変わりを観察する」と。 法の起滅の跡を知るとは、跡の起滅を知ることに二つある。一つは結跡、二つは陰跡である。そのことを滅することができれば、無為にかなう。だから「法の起滅の跡を知る」というのである。 賢聖は世を楽しまず、愚者は賢者のもとに居らず、賢聖はすべての悪を永遠に滅して群衆の中に居ない。鶴は飛べば高く、丘や塚を楽しまず、猩猩は清らかさを好み、便所や汚物の中に居ない。賢聖の人もまた同じである。群衆の中に居らず、ともに光を同じくしない。愚者は悪を好み、賢者の集いの中に居ない。だからこう説くのである、「賢聖は世を楽しまず、愚者は賢者のもとに居らず」と。

解知念待味， 思惟休息義，無熱無飢想， 當服於法味。

> 悟りを求める心で真理を味わい、 静けさの意味をよく考え、 熱苦しみも飢えもない安らぎを思い、 法の味わいをいただきましょう。

解知念待味者，經歷無數生死已來，未曾得此念待之味，世多甘美殊勝之味，苷蔗葡萄如此之比不可稱數，晝夜享之無有厭足；然不從此得至無為，念待味者未曾經口，設當一遇永無飢渴，其餘味者展轉生死墜墮三塗，欲求出期實為難矣。是故說曰，解知念待味也。思惟休息義者，彼脩行人專精一已思惟禪定，心所念法終不錯亂，從初至竟不識其緒，是故說曰，思惟休息義也。無熱無飢想者，貪欲是熱、瞋恚是熱、愚癡是熱、飢渴是熱，能斷此飢渴熱者，其事甚難；正使飲此四大海水欲消其渴者，未始見也。欲除其渴永使不生，唯有八解澄淨之味，乃得消此眾渴之本。是故說曰，無熱無渴想。當服於法味者，所謂法味，眾施法施勝，眾味法味勝，得此味者法身不離苦本，斷諸世俗飢渴之患，人欲修學求其解脫，不得甘露至要之味者，安坐無為？不自慇懃欲求得道跡者甚為難矣。是故說曰，當服於法味也。

> ＜解知念待味＞とは、念待の味を理解することである。無数の生死を経てきたが、かつてこの念待の味を得たことはない。世には甘美で殊勝な味が多く、サトウキビやブドウなど数えきれないほどある。昼夜これを味わっても飽きることはない。しかしこれによって無為に至ることはできない。念待の味はかつて口にしたことがなく、もし一度でも出会えば永遠に飢え渇くことはない。その他の味は生死を巡り三途に堕ちる。求め出ることは実に難しい。だからこそ説くのである、＜解知念待味＞と。 ＜思惟休息義＞とは、修行者が専心に己を一つにして禅定を思惟し、心に念じる法が終に錯乱せず、初めから終わりまでその緒を識らないことである。だからこそ説くのである、＜思惟休息義＞と。 ＜無熱無飢想＞とは、貪欲は熱であり、瞋恚は熱であり、愚痴は熱であり、飢渇は熱である。この飢渇の熱を断つことは、実に難しい。まさに四大海水を飲んでその渇きを消そうとしても、かつて見たことはない。その渇きを除き永遠に生じさせないためには、ただ八解の澄浄な味だけが、この多くの渇きの根本を消すことができる。だからこそ説くのである、＜無熱無渇想＞と。 ＜当服於法味＞とは、いわゆる法味である。もろもろの施しの中では法施が最も勝れており、もろもろの味の中では法味が最も勝れている。この味を得た者は、法身は苦本を離れず、もろもろの世俗の飢渇の患いを断つ。人が修学してその解脱を求めるのに、甘露の至要の味を得られなければ、どうして無為に安坐できようか。自ら勤めずに道跡を得ようと求める者は、実に難しい。だからこそ説くのである、＜当服於法味＞と。

人不損其心， 亦不毀其意，以善永滅惡， 不憂墮惡道。

> 人がその心を傷つけず、 その思いも壊さず、 善をもって悪を永遠に滅ぼせば、 悪道に堕ちることを憂えることはない。

人不損其心，亦不毀其意者，人初立行先習善法，初意猶豫乍信乍不信，其意勇者聞輒信解，意狐疑者不達於法，此人必當經歷生死，億佛超過不蒙得度。設損其心不毀其意，欲得至道取之甚易。人欲脩學專意乃獲，如匹夫聞彼有法，中路多難無由經過，一意念彼形意以達。何以故知？如彼得通之人，心念形以隨，是故說曰，人不損其心，亦不毀其意也。以善永滅惡，不憂墮惡道者，夫人習行敦崇道業，世俗見根而現在前，雖有善根，斯是世俗有漏之行，不興想著求於上及，斯人終不憂墮惡趣。是故說曰，以善永滅惡，不憂墮惡道也。

> 人の心を損なうことなく、その志を壊すこともないとは、人が修行を始めるにあたり、まず善い教えを学ぶとき、最初のうちは迷いがあり、信じたり信じなかったりするものです。しかし志の強い人は、教えを聞けばすぐに信じて理解します。疑いの心を持つ人は、真理を悟ることができません。そのような人は必ず生と死の流れを繰り返し、億もの仏が過ぎ去っても救われることはないのです。もし心を損なわず志を壊さなければ、悟りに至ることはとても容易です。人は学びを志して一心に励めばこそ達成できるのです。たとえば、ある人が遠くに教えがあると聞いても、途中に多くの困難があって通り抜けられないとき、ただ一心にその姿を思い描けば到達できるようなものです。なぜそれがわかるのかといえば、神通力を得た人は、心に思うままに姿を変えて従うことができるからです。それゆえに説かれるのです、人は心を損なわず、志を壊すこともないのだと。善をもって悪を永遠に滅ぼせば、悪道に堕ちることを憂えないとは、人が修行に励み道を重んじるとき、世俗の目に見える形で善根が目の前に現れますが、たとえ善根があっても、これはまだ煩悩を伴う世俗的な行いであり、高い悟りを求める思いを起こさなければ、その人はついに悪道に堕ちることを憂えることはありません。それゆえに説かれるのです、善をもって悪を永遠に滅ぼせば、悪道に堕ちることを憂えないのだと。

人欲練其神， 要當數修琢，智者易彫飾， 乃名世之雄，能親近彼者， 安隱無憂惱。

> 人がその心を磨こうとするなら、 何度も繰り返し锻えていかねばならない。 賢い人は教えを素直に受け入れ、よく整えることができる。 それこそ世の雄と呼ばれる人だ。 そのような人に親しむことができれば、 安らかで、悩みも憂いもない。

人欲練其神，要當數修琢者，舊學之人外虛內實，或有潛隱山藪，或有佯狂遊世，行雖不同所濟等一，此不取形器，此純練精神定意不錯，行人權現千轉百化，要設方便導引眾生至百練室；所謂室者，泥洹虛寂無為城是。是故說曰，人欲練其神，要當數修琢也。智者易彫飾，乃名世之雄者，捷疾利根之人出言成律，必欲所度得四辯才，義辯法辯辭辯應辯，義辯法辯者此二攝內法，辭辯應辯者此二攝外法。是故說曰，智者易彫飾，乃名世之雄也。能親近彼者，安隱無憂惱者，人執威儀進止去來周旋往返，皆執威儀不失其節，猶如眾花競敷香氣遠布；履行之人亦復如是，戒聞施德諸總持門定意不散者，能親近此無所違失，便能成就無漏聖行。是故說曰，能親近彼者，安隱無憂惱。

> 人が自らの心を鍛えようとするなら、何度も繰り返し磨き上げなければならない。昔から学んできた人は、外見は飾り気がなくとも内面は充実しており、あるいは山奥に隠れ住み、あるいは狂人のふりをして世を巡ることもある。行い方はそれぞれ異なっても、救うという目的は同じである。これは形や器にこだわらず、ただひたすら精神を練り、心を定めて迷わない。実践者は仮の姿を現し、千変万化しながら、方便を設けて衆生を百練の室へと導く。いわゆる室とは、涅槃の静けさ、何もしない平和な城のことである。だからこう説くのである――人が自らの心を鍛えようとするなら、何度も繰り返し磨き上げなければならない、と。 知恵ある人は巧みに飾り立てることができ、それこそ世の英雄と呼ばれる。機敏で鋭い人柄の人は、口にした言葉がそのまま規範となる。必ず救おうとする者は四つの弁才を得る――義弁、法弁、辞弁、応弁である。義弁と法弁は内なる法を収め、辞弁と応弁は外なる法を収める。だからこう説くのである――知恵ある人は巧みに飾り立てることができ、それこそ世の英雄と呼ばれる、と。 そのような人に親しむことができるなら、安らかで憂いも悩みもない。人は威儀を守り、進み止まり、行き来し巡り歩くとき、すべて威儀を保ち、その節度を失わない。それはあたかも多くの花が競って咲き、香りが遠くまで広がるかのようである。戒めを守り、教えを聞き、施しを行い、功徳を積み、すべての総持の門を修め、心を定めて散らさない実践者もまた同じである。このような人に親しめば、違反も過失もなく、やがて煩悩のない聖なる行いを成就することができる。だからこう説くのである――そのような人に親しむことができるなら、安らかで憂いも悩みもない、と。

永息無過者， 柔和不卒暴，吹棄諸惡法， 如風落其葉。

> 穏やかで荒々しさがなく、 悪い教えを吹き払う方は、 まるで風が木の葉を落とすように、 すべての過ちを永遠に静めてくださいます。

永息無過者，柔和不卒暴者，諸根具足無所流溢，所說專正言不卒暴，威儀禮節無所漏失，如斯之人，無有儔匹亦無過者，是故說曰，永息無過者，柔和不卒暴也。吹棄諸惡法，如風去其葉者，行人執意鏗然不動，執信堅固毫釐不犯，去諸惡法日進其善，晝夜挍飾不令有塵，如鐵生垢瑩治乃明，人心重垢須慧乃照，是故說曰：吹棄諸惡法，如風去其葉也。

> 永遠に穏やかで過ちのない人、柔らかくて怒りっぽくない人、諸感覚が整っていて漏れるところがなく、語ることは専ら正しく、言葉は荒々しくなく、立ち居振る舞いや礼儀に欠けるところがない——このような人には並ぶ者もなく、また過ちもありません。だからこう説かれます、「永遠に穏やかで過ちのない者、柔らかくて怒りっぽくない者」と。 悪い法を吹き払い捨てることは、風が葉を散らすようなものです。修行する人は意志を確固として動かず、信を堅く保ってわずかたりとも犯さず、諸々の悪法を去って日々善を進め、昼も夜も磨き清めて塵を残しません。鉄に錆が生じても磨けば輝くように、人の心の重い垢は慧によってこそ照らされます。だからこう説かれます、「悪い法を吹き払い捨てることは、風が葉を散らすようなものだ」と。

無故畏彼人， 謗毀清淨者，尋惡獲其力， 煙雲風所吹。

> 理由もなくその人を恐れ、清らかな人を謗り毀す者は、 悪を求めてその力を得るが、煙や雲が風に吹き払われるように消えていく。

無故畏彼人，謗毀清淨者，人之脩學除穢為上，行人除垢唯修清淨，功德充滿何懼不達，心無慳嫉者，崇其道根豁然自寤，斯由通達了深要故。清淨之人無有結使，愚者謗毀謂為不淨，謗毀聖者受無擇罪。斯由福報積行所致。是故說曰，無故畏彼人，謗毀清淨者也。尋惡獲其力，煙雲風所吹者，世人執迷以惡為妙，由是殃禍漸入泰山，造地獄餓鬼雜畜生之罪，是故說曰，尋惡獲其力，煙雲風所吹也。

> 理由もなく人を恐れ、清らかな人を謗る。人は穢れを除く修行を第一とし、修行者は垢を除き清浄を修める。功徳が満ちていれば、悟りに至らないことを何も恐れない。心に物惜しみや嫉妬がなければ、道の根を崇め、豁然と自ら目覚める。これは深い要点に通達したからである。清浄な人には煩悩の束縛がない。愚かな者は謗り、不浄だと言う。聖者を謗る者は無間の罪を受ける。これは福報と積み重ねた行いによるものである。だからこう説く。「理由もなく人を恐れ、清らかな人を謗る」と。悪を追えばその力を受ける。煙や雲が風に吹かれるように、世の人は迷い執して悪を妙なりとし、それによって災いが次第に身に及ぶ。地獄・餓鬼・畜生の罪を造るのである。だからこう説く。「悪を追えばその力を受け、煙や雲が風に吹かれるようだ」と。

人之為行， 各各自知， 善之為善，惡之為惡。

> 人はそれぞれ自分の行いについて、 善は善であると、 悪は悪であると、 自ら知っています。

人之為行，各各自知者，人之修行志趣若干，惡者自知惡、善者自知善，雖為善惡不自知者受報一倍，善者受福無窮，惡者受罪一倍，淨者受淨行，不淨者受不淨行；臨終之時善惡然別，若神來迎，見宮殿屋舍園觀浴池神不錯亂，衣被服飾自然著體，天女圍遶共相娛樂，還自見光所照無礙。積惡之人臨死之日神識倒錯，但見大火劍戟，見蹲鵄野狐羅剎妖魅虎狼惡獸，復見刀山劍樹荊棘坑坎惡鬼圍遶。是故說曰，善之為善，惡之為惡也。

> 人の行いは、それぞれ自分自身で知っているものです。人の修行の志や趣向にはさまざまなものがあり、悪いことをする人は自分が悪いと知っており、善いことをする人は自分が善いと知っています。たとえ善悪を行っていても自分でそれと気づかない人は、受ける報いが倍になります。善い人は尽きることのない福を受け、悪い人は倍の罪を受けます。清らかな人は清らかな行いを受け、清らかでない人は清らかでない行いを受けます。 臨終の時には、善と悪の違いがはっきりと現れます。もし神が迎えに来るなら、宮殿や家屋、庭園や浴池を見ることができ、心が乱れることはありません。衣や装飾は自然と身に着き、天女たちに囲まれてともに楽しみ、また自分が照らす光がさえぎるものなく届くのを自ら見ることができます。 悪を積み重ねた人は、死ぬ日に意識が乱れます。ただ大火や剣戟だけを見、しゃがんだ鳶や野狐、羅刹や妖怪、虎や狼などの獣を見ます。さらに刀の山や剣の樹、茨や穴、悪鬼に囲まれるのを見ます。 だからこう説くのです。善は善として、悪は悪としてあるのだと。

人之為惡， 後自受報， 已不為惡，後無所憂。

> 悪いことをした人は、あとで自分がその報いを受ける。 もう悪いことをしなければ、あとで憂うことはない。

人之為惡，後自受報者，夫人為惡自招禍患，非有父母兄弟宗族代受其罪；自不為惡後不受報，如此之人，生則遇聖當受其福，非父母兄弟代獲其慶，意自清潔不累於人，自行清淨自受其報。是故說曰，人之為惡，後自受報，已不為惡，後無所憂也。

> 人が悪を行えば、後に自分自身がその報いを受ける。人が悪を行えば自ら災いを招くのであって、父母や兄弟、一族が代わりにその罪を受けるのではない。自分が悪を行わなければ、後に報いを受けることはない。そのような人は、生きているうちに聖人に出会い、福を受けるのであって、父母や兄弟が代わりにその慶びを得るのではない。心が清らかであれば人に迷惑をかけず、自ら清浄に行動して自らその報いを受ける。だからこう説かれるのである。人が悪を行えば後に自ら報いを受け、すでに悪を行わなければ後に憂いもない、と。

達己淨不淨， 何慮他人淨？愚者不自練， 如鐵鑽純鋼。

> 自分の心が清らかかどうかをこそ見つめなさい。人の心が清らかかどうかを、なぜ気にするのですか。 愚かな人は自分を磨こうとせず、鉄で鋼を削るように、ただ無駄に力を費やすだけです。

達己淨不淨，何慮他人淨者，己自清淨亦能使彼行清淨，己行不均焉能使彼得清淨行？是故說曰，達己淨不淨，何慮他人淨也。愚者不自練，如鐵鑽純鋼者，愚人所習終日不窮，一日所造墜墮永劫，雖遇賢聖不蒙濟度，猶鐵鑽純鋼功至不可獲。是故說曰，愚者不自練，如鐵鑽純鋼也。

若眼見非邪， 黠人求方便，智者善壽世， 亦不為眾惡。

若眼見非邪者，夫人習行專精為惡，若眼見色不起眼識，若好若醜意悉平等，設見好色不興染著，設見惡色亦不懷慼，是故說曰，若眼見非邪。黠人求方便者，見彼眼色知為非真，為磨滅法遷轉不住，生者有盡常者亦滅，愚者翫習智者所嗤，是故說曰，黠人求方便也。智者善壽世，亦不為眾惡者，智人所施教權化非一，防惡於無形，養福於自然，執行不累於世，言教不損於形質；在世周旋，未幾彼壽，見短如有恥，見長不自稱，在世訖其壽，終不為惡行。是故說曰，智者善壽世，不為眾惡也。

商人在路懼， 伴少而貨多，經過嶮難處， 然有折軸憂。

商人在路懼，伴少而貨多者，昔有眾賈商人冒涉途路，經過曠野嶮難之中，路多盜賊無由自免，所齎財寶無有資糧，同伴行人無有器仗用自防備，行人既少財寶極多，心懷恐懼神識熾然。有一黠者告其同伴：「勿生恐懼，吾當設計得免此難。」眾人意正便得無他。是故說曰，商人在路懼，伴少而貨多也。經過嶮難處，然有折軸憂者，道路嶮難不遇良伴，捨其大道隨其細徑，不達所至中遇車壞，前伴不顧後伴共相捐棄。是以世尊借此為喻，欲使後生深識罪福，受化者無毫釐之礙，演教者不捐其功。是故說曰，經過嶮難處，然有折軸憂。

有身無瘡痏， 不為毒所害，毒無奈瘡何， 無惡無所造。

猶如調達在羅閱城，興謀害心，後事彰露舉國聞知，時王阿闍世語調達曰：「汝宜出國，不須住此，十六大國莫不聞知。云何此有調達造作眾惡，起傷害心向於如來？」調達聞已內懷憂慼，心不自寧便還本國，宿怨不盡為恚結所纏，唐突菩薩宮內，語瞿夷曰：「我今取汝拜為第一夫人，不審聖女為可爾不？」瞿夷聞之語調達曰：「前汝右手吾欲把之。」調達尋舒手使把，扼腕骨碎五指血出，當時迷悶良久乃穌。瞿夷語曰：「除悉達力，更無有人出我上者，設當與汝相把持者，身體碎爛劇於塵霧，猶如力人指壞千樹，隨意碎之有何難乎？」是時調達，轉進入宮殿坐菩薩床，宮人見之悉共嫌恨，即前競捉擲于床下，即傷左臗不堪行來，家人輦輿還歸本舍。諸釋皆嫌皆來告語：「汝今調達宜可改更向佛懺悔。」調達聞之私設巧詐，密作鐵爪害毒塗之，外形柔和內懷瞋恚。爾時調達憶佛所說：「瞿曇沙門恒陳此言：『有身無瘡痏，不為毒所害，毒無奈瘡何，無惡無所造。』我今當往佯如懺悔，以爪摑壞其脚，毒氣流溢自當取死。」諸人輦輿往詣世尊，去世尊三七仞，語左右人：「下我在地，吾欲步往。」尋下在地。尋時地中勇火沸出，纏裹其身將入地獄。是故說曰，有身無瘡痏，不為毒所害，毒無奈瘡何也。

多有行眾惡， 必為身作累，施善布恩德， 此事甚為難。

多有行眾惡，必為身作累者，世多有人布惡自侵不合聖諦，屠割魚獵養猪畜雞，張施懸弶以捕群鹿，為賊殺賊縛就獄卒，真陀羅種絃索飛綸，如是惡行眾生不可稱說，如斯之類必為身作患，死入地獄受痛難量，是故說曰，多有行眾惡，必為身作累也。施善布恩德，此事甚為難者，人能自察前世後世善惡報應，廣施周窮，侵肌之貨，以施於人，此事甚難。是故說曰，施善布恩德，此事甚為難也。

善哉修善者， 善哉為甚惡，惡惡自為易， 惡人為善難。

善哉脩善者，善人脩善行應自然，為惡之徒不可親近，為善之人諸佛衛護，諸天世人所可愛敬，所至之方終不離善知識，是故說曰，善哉脩善者。善哉為甚惡者，人之為惡日增無損，猶如蔓草不種自滋，正使鏟其地淨，故處猶生不息，是故說曰，善哉為甚惡也。惡惡自為易，惡人為善難者，猶如真陀羅種，恒擔死人捐棄塚間，心恒喜歡無所畏忌，心倍歡喜以自娛樂；猶若典獄之人守護杻械，晝夜行惡自謂為尊。賢聖之人觀此眾變以為大患，應死之人將詣都市，舉足下足以近死地，三界酸楚何可貪慕？是故說曰，惡惡自為易，惡人為善難也。

愚者自謂正， 猶惡未成熟，惡以成熟滿， 諸苦亦復熟。

愚者自謂正，猶惡未成熟者，愚人自念所行專正，餘者所作皆為非法，見行善者共憎嫉之，罪根以具癡心純熟，然後乃知我所作非。今我造惡非父母為，亦非兄弟宗親所造，分受其罪悔無所及，非天非鬼非沙門梵志之所造，我今自知罪之根本，上不怨天下不尤地，甘心受罪知復奈何。是故說曰，愚者自謂正，猶惡未成熟也。惡以成熟滿，諸苦亦復受者，積罪之人入獄受報，十三種焰纏裹其身，死而復穌求死不得，要償故罪以盡無餘，然後乃出；若在畜生，愚癡所蔽不識真道，領腫脊壞穿鼻羈頭枷鎖手脚；若生餓鬼，晝夜飢渴腹若泰山咽細若鍼，身長四十里，一寸千隔；若在人中，貧賤困悴衣不蓋形食不充口。是故說曰，惡以成熟滿，諸苦亦復熟也。

賢者見於惡， 不為惡所熟，如惡以不熟， 惡者觀其惡。

賢者見於惡，不為惡所熟者，彼執行人見其行惡隨時訶諫，此非妙行輪轉生死求出甚難，於三惡道造罪根本，是故說曰，賢者見於惡，不為惡所熟也。如惡以不熟，惡者觀其惡者，如人作惡後尋懷悔：「咄我所作，將非其宜，人之所嫉，我今習之，將非是我執意誤乎？自今改悔，觀惡穢污。」是故說曰，如惡以不熟，惡者觀其惡也。

賢者觀其惡， 乃至賢不熟，設以賢熟者， 賢賢自相觀。

賢者觀其惡，乃至賢不熟者，賢人守戒眾德具足，多聞辯慧言無缺漏，出言柔和常行真誠，行四等心慈愍一切，見小過隙便懷恐懼，況當造無擇之罪？是故說曰，賢者觀其惡，乃至賢不熟也。設以賢熟者，賢賢自相觀者，賢者自察自觀性行：「我今所致供養者，皆由前身積學所致，宿不種福布恩施德，今日何緣得此福報？今不謹慎重行其德者，後更受形無福可憑，復當流浪經歷生死，方便積行久乃成就，其間艱難非度所知非算所籌，過佛恒沙不覩不聞，由行自墜至今不度。」是故說曰，設以賢熟者，賢賢自相觀也。

人雖為惡行， 亦不數數作，於彼意不樂， 知惡之為苦。

人雖為惡行，亦不數數作者，人為惡行當自改更，備受三塗八難之苦，於中求出亦甚難得。是故智者，制以禁法防以未然，設受其報猶輕，若在地獄湯冷水微受苦無幾，斯由悔過知罪根本；若作畜生負擔不重，食以隨時不加苦痛；若為餓鬼，鬼有四種，生作豪尊餓鬼，衣食自然；若處人間，豪富大族無所渴乏；若生於天，微福之報，食以覆口自恥福少。是故說曰，人雖為惡行，亦不數數作也。於彼意不樂，知惡之為苦者，學人見惡意不願樂，自攝其意不使分散，罪雖微細報如泰山，猛火雖小焚燒山野，是以智者常當防慮，知惡根源眾苦之首。是故說曰，於彼意不樂，知惡之為苦也。

人能作其福， 亦當數數造，於彼意願樂， 善受其福報。

人能作其福，亦當數數造者，人生一世所以致貧窮者，皆由前身慳結所誤。是以聖人觸類所說，先以施惠為首，雖復貧窮，要當少多減損以補曩愆，雖無財貨當自役己出力作使，脩補神祠佐助眾事，不使日夜闕其福業，彈指之頃念善亦是，況復躬自行功德乎？是故說曰，人能作其福，亦當數數造也。於彼意願樂，善受其福報者，人之脩福多所潤及，見行善者代其歡喜，輒自出財勸助為福，見身獲祐善名流布，見者心歡靡不致敬，生輒遇聖不墮八無閑處，是故說曰，於彼意願樂，善受其福報。

先當制善心， 攝持惡根本，由是興福業， 心由樂於惡。

先當制善心，攝持惡根本者，善心具足勿令分散，執意在前如擎油鉢，戰戰兢兢如避劫燒，當以無常苦空非身，除心穢垢沐浴使淨，是故說曰，先當制善心，攝持惡根本也。由是興福業，心由樂於惡者，人不行善作後世資糧者，命終燒身之患，日夜為惡不能自改，是故說曰，由是興福業，心由樂於惡也。

為惡雖復少， 後世受苦深，當獲無邊報， 如毒在心腹。

為惡雖復少，後世受苦深者，人意不固所行無記，少多為罪或覺不覺，要當受報不免其對，無慚無愧不求出要求度世道，是故說曰，為惡雖復少，後世受苦深也。當獲無邊報，如毒在心腹者，少多有隙塵垢染意，便當受於無邊之罪，或觸嬈人使興惡行，由是自致墮無邊罪，或離別眷屬鬪亂家室，如此之苦眾惱無數。是故說曰，當獲無邊報，如毒在心腹也。

為福雖少， 後受大福， 當獲大報，如種獲實。

為福雖少，後受大福者，人之為福唯存在心，不在財物有多有少，設施物多內心悋惜，後獲其福亦不足言；施物雖少心意普等，廣及一切不自為己，後獲其福不可稱限。是故說曰，為福雖少，後受大福也。當獲大報，如種獲實者，後受天人自然之福，顏色從容，恒處中國不在邊境，言從語用不傷人意，饒財多寶不懷憎嫉，在家脩德宗族和穆，設當出家捐棄恩愛，剃除鬚髮著三法衣，苦形學道除榮冀心，越次取證盡其有漏成無漏行，眾德普備功福具滿，猶如田夫多種獲報，倉庫盈滿意志歡喜，內自慶賀功不唐舉。是故說曰，當獲大報，如種獲實也。

無過而強輕， 無恚而強侵，當於十品處， 便當趣於彼。

無過而強輕，無恚而強侵者，如彼有人無有恚嫉憍慢之心，然愚騃之人，興意向彼起謀害心，諸佛世尊慈愍一切，見有哀苦拔濟其難，興念生類如母愛子。是故說曰，無過而強輕，無恚而強侵也。當於十品處，便當趣於彼者，所謂十品者，一名無救，二名焰，三名大焰，四名黑繩，五名啼哭，六名大啼哭，七名等害，八名等命，九者畜生，十者餓鬼。其有眾生惡心熾盛，壽終之後不離此十處。是故說曰，當於十品處，便當趣於彼也。

痛痒語麤獷， 此形必壞敗，眾病所酷切， 心亂而不定，宗族別離散， 財貨費耗盡，王者所劫略， 所願不從意，或復無數變， 為火所焚燒，身壞無智慧， 亦趣於十品。

此上諸偈，盡是如來神口所說，調達愚教阿闍世酒飲暴象醉向如來。是時，世尊尋向彼象而說斯偈。

作惡勿言無， 久作言無罪，屏猥言無罪， 斯皆有證驗。

夫人作惡事有輕重，意盛不捨不能去離不求出要，藏隱自匿，亦復不能向人陳說；是以世尊教誨後人，新作舊造下至屏猥之處，善惡冥報不可藏匿。是故說曰，作惡勿言無，久作言無罪也。屏猥言無罪，斯皆有證驗者，人欲設意在屏猥處造諸罪根，當時雖可免萌類謗，然復不免後世報對。是故說曰，屏猥言無罪，斯皆有證驗也。

作惡言有憂， 久作亦言憂，屏猥亦言憂， 彼報亦有憂。

人之造惡初意赫熾不自覺知，當時心勇謂為應爾。爾時世尊便引其喻，如日初沒之際，山川樹影皆各垂陰遂至於冥，今此群惑之徒執迷亦爾，造身口行不善之本，臨終之日諸惡重陰，各各自隨漸漸將至冥室受報。是故說曰，作惡言有憂，久作亦言憂，屏猥亦言憂，彼報亦有憂也。

此憂彼亦憂， 惡行二俱憂，彼憂彼受報， 見行乃知審。

所謂此憂者今現世憂，所謂彼憂者後世之憂，所謂此憂，不死不命終，所謂彼憂者已死已命終，是故說曰，此憂彼亦憂也。惡行二俱憂者，彼憂彼受報，見行乃知審。

此喜彼亦喜， 福行二俱喜，彼喜彼受報， 見行自清淨。

昔琉璃王興兵，攻伐迦維羅竭國，摧破人民擒獲七千，聖人見道跡者悉埋其足，使暴象蹋蹈殺之。略說其義。佛告比丘：「拘薩羅王現無反復，違聖叛真，興無擇罪，斯等之類却後七日自當受報。拘薩羅國，王種當絕，無復繼嗣，無擇地獄火焰當出，纏裹王身及諸侍從，悉入無擇地獄之中。」琉璃聞之即日嚴駕四種之兵，宮人婇女出城避災，尋詣恒水張帆乘船謂為免難。時，阿鼻地獄火焰來接及諸群眾，翼從多少悉入地獄無得脫者。琉璃王先未避災之時，來至舍衛城內，遙聞作倡伎樂歌舞戲笑五樂自娛，王問左右：「斯是誰家戲笑之聲乃徹於此？」諸臣白曰：「此是祇頭太子家中音樂之聲。」王尋遣信速喚使來。「我今征伐與賊戰鬪憂慮國事，祇頭今日方更歡樂，以五樂自娛，設我戰鬪不如賊者，此人必望得王尊位。」祇頭太子聞王召喚，尋出奉迎。王告太子：「吾與賊戰心憂萬國，汝今方更五樂自娛。」即拔利劍斬而捨去。祇頭捨身即生天上，內宮妓女五樂自娛不覺失主，天上婇女前後圍遶，亦復作倡伎樂共相娛樂。爾時世尊以天眼，觀見祇頭王子二處受福，在大眾中而說斯偈：

「此喜彼亦喜， 福行二俱喜，彼喜彼受報， 見行自清淨。」

爾時世尊，復與琉璃王而說斯偈：

「此煮彼亦煮， 罪行二俱煮，彼煮彼受罪， 見行自有驗。」

爾時世尊，以天眼觀見琉璃王處在地獄，拷掠榜笞五毒酸楚，是故世尊而說斯偈：

「作福不作惡， 皆由宿行法，終不畏死徑， 如船截流渡。」

昔佛先世未成等正覺時，為菩薩身，號曰一切施，為婆羅門故，自縛詣闕。敵國王曰：「汝今畏吾？」爾時一切施而說斯偈：

「作福不作惡， 皆由宿行法，終不畏死徑， 如船截流渡。」

昔有噉人鬼，在人中作王，恒食人肉以為厨宰，隣國征伐得九十九王，二十一人以為常則，九十九王白羅剎王曰：「隣國有王名曰善宿，好行施惠脩菩薩德，有所求索不逆人意，大王設能擒獲彼者，我等甘心受死萬無一恨。」爾時羅剎人王即起鬼兵往伺其便，正值善宿大王在外園觀浴池遊戲。有一梵志，辭家外學，夫梵志之法，臨辭去時白父母言：「我今離家追伴學問，計還之日且未有期，設財貨窮乏從王舉貸我還當償。」其人學問以得成就，來至家中，但見空屋不見人眾，即問隣比：「我今父母兄弟姊妹竟為所在？」隣比報曰：「汝學之後舉王財賄無以當償，為王所繫今在牢獄，欲往看者宜知是時。」其人自念：「家窮事狹無有財寶，設我詣獄親覲父母，復當拘執同受其苦不免王法，宜令在外改形易服竊行求索，畢償官物乃得出身耳。」其人復念：「隣國有王號善宿，脩行道德施心不絕，當往至彼至誠告情，必不見違，足償王物。」尋往至彼隨王乞索。王言：「大佳！當相供給，須吾沐浴訖當惠施，小停勿憂不負言信。」王詣浴池為鬼兵所擒，王尋還顧悲慼涕零，鬼王問曰：「我等聞王仁和博愛靡不周濟，雖遭厄困何為悲慼？」王報鬼曰：「我生惠施未曾有悔，向有梵志在外乞索，許而未與，是以憂慼耳。」鬼王白王：「王守誠信由來不改，如今放王施訖時還。」乃知王心不失誠信，王得還宮開藏惠施恣彼人意，尋還就信詣鬼王所。鬼王告曰：「汝不畏吾乎？何為受死而來？」爾時善宿大王向彼鬼王，而說斯偈：

「作福不作惡， 皆由宿行法，終不畏死徑， 如船截流渡。」

鬼王聞之內懷慚愧，改心易行思脩善本，即告善宿王曰：「今聞所說人中難有，今放九十九王。我捨此位，願王統領以法治化，我領鬼眾還歸本居住，若俱健者自當數覲。」即共離別各還所在。萬民稱慶國界清泰，共行十善不脩惡業，善宿積行不息，後得成佛於樹王下，復說斯偈：

「作福不作惡， 皆由宿行法，終不畏死徑， 如船截流渡。」

惡行品第二十九竟

## 出曜經卷第二十五