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title: "出曜經 · 33 沙門品"
description: "出曜经是姚秦时期著名译经师竺佛念所译的佛教经典，属于早期汉传佛教重要文献之一。该经主要阐述佛陀的教法，内容涵盖修行方法、因果业报、戒律规范等核心教义，具有鲜明的实践指导意义。竺佛念作为五世纪初重要译经家，其译文准确流畅，对佛教在中国的传播影响深远。出曜经不仅反映了早期佛教思想体系，也为研究中国佛教发展史提供了珍贵资料，在汉传佛教经典中占有重要地位，是了解原始佛教教义的重要参考典籍之一。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmczndmez1npfjj041ojtd3ri"
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## 出曜經卷第二十九

> 出曜経 第二十九巻

姚秦涼州沙門竺佛念譯

> 姚秦涼州沙門竺仏念訳

### 沙門品第三十三

> 沙門品 第33章

比丘乞求， 以得無積， 天人所譽，生淨無穢。

> 修行者は物を求めず、蓄えもせず、 天と人とに讃えられ、 清らかに生まれ、汚れがない。

比丘乞求，以得無積者，乞食比丘恒作是念：「我今所求索者自足而已，不留遺餘計為財貨，設有遺餘尋施與人不留遺長。如佛律禁所說，父母年邁老病著床，及同學比丘久抱重患不堪行來，聽使乞索，不問多少供養老病。」是故說曰，比丘乞食，以得無積也。天人所譽，生淨無穢者，比丘執行少欲知足，到時乞求無所藏積，諸天衛護稱歎其德，名聞四遠靡不聞知。論此比丘生淨無穢，所以諸天稱歎其德者，持戒之人，死必生天增益諸天眾，減損阿須倫眾，是故說曰，天人所譽，生淨無穢也。

> 托鉢に出る修行者は、こういつも心に念じます。「私が今求めるものは、ただ自分が足りる分だけでよい。余分を蓄えて財産にしようとは思わない。もし余りがあれば、すぐに人に施して、決して残しておかない」。仏の定めた戒律にも、こう説かれています。父母が年老いて病に伏せっているとき、あるいは共に修行する仲間が長く重い病を抱えて歩けないときは、托鉢に出て、多少にかかわらず集めたものを老いた者や病む者のために供養することが許されています。それゆえに「修行者は托鉢し、得たものに蓄えがない」と説かれるのです。天人が讃えるとは、清らかに生まれ、けがれがないということです。修行者は少欲知足を実践し、托鉢の時が来れば求め、何も蓄えません。そこで諸天が守り護り、その徳を讃嘆し、その名声は四方に広く知れ渡ります。この修行者が清らかに生まれ、けがれがないと論じられるのは、諸天がその徳を讃嘆するからです。戒を守る人は、死後必ず天に生まれ、天の仲間を増やし、阿修羅の仲間を減らします。それゆえに「天人が讃え、清らかに生まれ、けがれがない」と説かれるのです。

比丘為慈， 愛敬佛教， 深入止觀，滅行乃安。

> 比丘は慈悲の心を持ち、仏教を敬い愛し、深く止観に励み、煩悩を滅ぼしてこそ安らかになれます。

比丘執意行四等心，慈悲喜護愍念一切，愛敬三寶信心不斷，深入分別止觀所趣，在在乞求處處留化；所以除貪制意者，欲除世榮不貪利養，究盡生死滅諸惡行，度有至無乃謂永安。是故說曰，比丘為慈，愛敬佛教，深入止觀，滅行乃安也。

> 修行に励む僧は、四つの限りない心を実践しようと固く決意します。それは慈悲と喜びと護りと哀れみの心で、すべての生きとし生けるものを思いやることです。三宝を愛し敬い、その信心は途切れることがありません。止観の境地を深く見極め、どこにあっても托鉢に励み、その場その場で人々を導きます。貪りを除き心を制するのは、世の栄華を捨てて利養を欲しがらず、生死の流れを究め尽くして諸々の悪行を滅し、有から無へと渡り彼岸に至ってこそ、真の安らぎが得られるからです。それゆえにこう説かれます──僧は慈しみをもって仏の教えを愛し敬い、止観を深く極め、行を滅してこそ安らかになる、と。

比丘盡諸愛， 捨愛去貢高，無我去吾我， 此義孰不親。

> 比丘はすべての愛欲を断ち切り、愛を捨てて高慢を離れ、 無我の境地に達して自我を手放した。この教えを誰が親しまないだろうか。

比丘盡諸愛，捨愛去貢高者，彼苦行比丘滅諸想著，欲色色色無色色、欲愛色愛無色愛，三界憍慢眾邪顛倒泓然除盡，是故說曰，比丘盡諸愛，捨愛去貢高也。無我去吾我，此義孰不親者，苦行比丘不滯三界，解知內外悉無有主，計我之人撗來求福，雖得從願後必墮落；在凡夫地不見吾我之人者，解知內外萬物虛寂，孰者吾我？吾我是誰？為人所繫及得罵詈，悉虛悉寂都無所有，為人所罵音聲來往，中間內外悉無所有。是故說曰，無我去吾我，此義孰不親也。

> 修行に励む僧は、すべての愛欲を断ち切り、愛着を捨て去り、高慢な心を捨て去ります。そのような苦行の僧は、あらゆる思いにとらわれることを滅ぼし、欲望の世界の色、物質の世界の色、物質を超えた世界の色、欲望への愛、物質への愛、物質を超えたものへの愛、そして三つの世界の慢心とあらゆる邪まな顛倒した心を、すっかり消し尽くします。それゆえにこう説かれます。「修行僧はすべての愛欲を断ち切り、愛着を捨て、高慢な心を捨て去る」と。無我をもって我への執着を去る――この道理に親しむことのできない人がいるでしょうか。苦行の僧は三つの世界にとどまることなく、内も外もすべてに主人はないと悟ります。我にとらわれる人は、むやみに福を求め、たとえ願いがかなっても後に必ず堕ちてしまいます。凡夫の境地にあって我にとらわれない人は、内も外もすべてのものは空虚で静寂であると悟ります。何が我なのでしょうか。我とはいったい誰なのでしょうか。人に縛られたり罵られたりしても、すべては空虚で静寂であり、何も存在しません。人に罵られるその声が行き来しても、その間にも内外にも、すべて何も存在しないのです。それゆえにこう説かれます。「無我をもって我への執着を去る――この道理に親しむことのできない人がいるでしょうか」と。

當知是法， 身之出要， 如象御敵，比丘習行。

> この法こそ、身を守り導く大切な教えであると知るべきです。それはまるで、象が敵を制するかのように。比丘たちは、この教えを実践してください。

當知是法，身之出要者，習行比丘得博採眾要，擇脩善德以補不及，如人欲所至必由其徑，求道窠窟必有其路，出要路者四諦真如是。是故說曰，當知是法，身之出要也。如象御敵，比丘習行者，如彼暴象飲以醲酒奔逸向敵，雖被刀射至死不退，要有所擒乃還本營。所以然者，畏上御者不畏外寇：習行比丘亦復如是，要從導師承受苦教，隱在心懷反覆思惟不失義跡。是故說曰，如象御敵，比丘習行也。

> この法を、身を解脱へと導く大切な道であると知るべきです。修行する比丘は、多くの教えを広く学び取り、すぐれた徳を選んで実践し、足りないところを補います。ちょうど、人が行きたい場所へは必ずその道を通らなければならないように、悟りを求める者にも必ず通るべき道があります。その解脱への道とは、四諦の真理です。だからこう説かれました。「この法を、身を解脱へと導く大切な道であると知るべきである」と。 暴れ象が敵を制するように、比丘が修行するとは、次のようなものです。あの荒れ狂う象は、強い酒を飲まされて敵めがけて突進し、刀で斬られ矢を射られても死ぬまで退きません。必ず何かを捕らえてからでなければ、自分の陣営へは戻らないのです。なぜそうするのかといえば、上の調教師を恐れ、外の敵を恐れないからです。修行する比丘もまた同じです。導師から厳しい教えを授かり、それを心の内に秘めて繰り返し思い巡らし、その意味を見失いません。だからこう説かれました。「暴れ象が敵を制するように、比丘は修行するのである」と。

人不壽劫， 內與心諍， 護身念諦，比丘惟安。

> 人は長寿の劫にないからこそ、 心の内なる争いを鎮め、 身を護り、真理を念じる。 こうして比丘は安らかである。

夫脩學之人得四神足晝夜脩習，意欲住壽一劫若過一劫，隨意所念則無有難，離諸縛著常與心諍，不使流馳斷諸悕望，去是非意與欲永別，亦復不見三界窠窟，然後乃應無虧損行，是故說曰，人不壽劫，內與心諍，護身念諦，比丘惟安。

> 修行する人は四神足を得て、昼も夜も修行を重ねます。その心が望めば、一劫の間、あるいは一劫を超えて命を保つことも、思いのままに難なくできます。執着の束縛から離れ、常に自分の心と向き合い、心が外に流れ散らないようにし、あらゆる願いを断ち切ります。善悪にとらわれる心を去り、欲望とも永遠に別れ、三界の住みかを見ることもなくなります。そうしてこそ、損なうことのない修行が成り立つのです。それゆえにこう説きます――人は寿命を劫の長さに保つことはできないが、内に心と向き合い、身を守り、真理を念じるならば、比丘は心安らかである、と。

念親同朋友， 正命無雜糅，施知應所施， 亦令威儀具，比丘備眾行， 乃能盡苦際。

> 親や友を思いやり、正しい生活を送り、混じりけのない行いをし、 施しを受けるにふさわしい人に施し、威儀を整え、 比丘が多くの行いを備えてこそ、苦の果てに到達できるのです。

行人成就皆由朋友，功成德滿稱過四遠，稟受之人日有其新，所行真正不著外部，所出惠施，施佛比丘僧與師及諸尊長。所以然者？斯等諸人皆有威儀，執諸禮節知苦之所由。是故說曰，念親同朋友，正命無雜糅，施知應所施，亦令威儀具，比丘備眾行，乃能盡苦際。

> 修行を成就するのは、すべて善き友によるものです。功徳が円満に成れば、その評判は四方に広く届きます。教えを受ける人は日々新たになり、その行いは正しく、外にとらわれることがありません。施しをするときは、仏と比丘僧、師、そして諸々の尊長に施します。なぜでしょうか。これらの人々は皆、威儀を備え、礼節を守り、苦の原因を知っているからです。それゆえにこう説かれました。親しき友を思い、正命に雑りなく、施すべき相手を知って施し、また威儀を具えよ。比丘が多くの行いを備えてこそ、苦の果てを尽くすことができるのです。

手足莫妄犯， 節言慎所行，常內樂定意， 守行謂比丘。

> 手足をみだりに犯すことなく、言葉をつつしみ行いを慎み、 常に心の内に定の喜びを保ち、行いを守る者を比丘という。

世多有人凶暴為惡，手捲相加遂致傷害，內恣六情，著色聲香味細滑之法。如斯之人雖得為道，不應法行，進無脩道之法，退失賢聖之儀，如擔死人種，無所復中直。此比丘等亦復如是，能自專意所行隨順，坐禪定意六時行道，不失本行，是故說曰，手足莫妄犯，節言慎所行，常內樂定意，守行謂比丘也。

> 世の中には凶暴で悪を行う者が多く、手を振り上げては互いに傷つけ合い、心の内では六つの感情のままに、色・声・香・味・触といった快楽に溺れています。このような人は、たとえ出家の道を得ても、法にかなった行いをせず、進んでは修行の法を修めることもなく、退いては賢聖の威儀を失い、まるで死体を担ぐ者のように、何の役にも立ちません。この比丘たちもまた同じです。しかし、自ら心を専らにして行いに従い、坐禅して心を定め、六つの時を定めて道を歩み、本来の修行を失わないならば、それゆえにこう説かれます――手足を妄りに犯してはならず、言葉を慎み行いを慎み、常に内に定の心を楽しみ、行いを守るものを比丘と呼ぶのです。

樂法欲法， 思惟安法， 比丘依法，正而不費。

> 法を楽しみ、法を求め、いつも法を思い、比丘は法に従って生きる。それは正しく、むだがない。

學人脩行分別諸法，見法得法深入觀法，若坐若臥眾神往來思惟安法，比丘依法乃得滅度，於諸聖道益而無費，日有增益終無減損，亦使正法久存於世，是故說曰，樂法欲法，思惟安法，比丘依法，正而不費也。

> 修行する人は、さまざまな教えを見分けながら実践し、教えを見ては理解を深め、じっくりと法を観察します。座っているときも横になっているときも、心を集中して絶えず法を思い、心安らかに法に親しみます。比丘は法に従ってはじめて悟りの境地に達することができ、聖なる道を歩むほどに功徳は増えこそすれ、決して失われることはありません。日ごとに積み重なり、減ることはありません。また、それによって正しい教えがこの世に長くとどまるのです。だからこう説かれています――法を楽しみ、法を求め、常に心安らかに法を思い、比丘は法に従う。それは正しく、むだになることはない、と。

當學入空， 比丘靜居， 樂非人處，觀察等法。

> 空を学び、静かに暮らす比丘は、 人のいない場所を楽しみ、 すべての法をよく観察する。

執行之人觀此五陰，計為是常牢固不敗，不能捨離興於塵勞，然執行之人，分別五陰內外悉空，正使在于曠野之中樹下塚間，思惟法本求於道果，先當習空乃應道真。昔諸道人室內坐禪空行，須菩提在外求索開門，內人應曰：「汝是誰乎？」須菩提對曰：「世人假名須菩提者也。」人所樂者，彈琴皷瑟作倡伎樂，此是人所樂，非人所樂者，禪定數息繫意在一，非人所念。是故說曰，當學入空，比丘靜居，樂非人處，觀察等法也。

> 修行する人は、この五陰を観察するとき、それを常であり堅固で壊れないものと見なし、手放すことができずに煩悩を起こしてしまう。しかし修行する人は、五陰の内も外もすべて空であると見極める。たとえ荒野の中や樹の下、墓の間にあっても、法の根本を思い、道の果てを求めるならば、まず空を修めてこそ道の真理にかなうのである。昔、修行者たちが部屋の中で坐禅し、空の修行をしていたとき、須菩提が外から扉を開けてほしいと求めた。中の人が答えて言った。「あなたは誰ですか。」須菩提は答えた。「世の人が仮に須菩提と名づけている者です。」人が楽しむものとは、琴を弾き瑟を打ち、歌や舞の芸を演じることである。これは人が楽しむものである。人が楽しむものではないものとは、禅定にして息を数え、心を一つのところに結びつけることである。これは人が念じないものである。だからこう説くのである。空に入ることを学び、比丘は静かに居り、人のいない場所を楽しみ、平等の法を観察せよ、と。

當制五陰， 服意如水， 清淨和悅，為甘露味。

> 五つの陰を制することは、 心を水のように従わせ、 清らかで和やかに喜ぶこと、 それは甘露の味わいとなる。

初學之人觀此五陰，皆當壞敗無一可貪，分別諸持悉不牢固，意均平等顏色和悅，清淨無瑕盡諸苦際，是故說曰，當制五陰，服意如水，清淨和悅，為甘露味。

> 初めて学ぶ人は、この五陰を観察するとき、すべては壊れていくもので、貪るべきものは何一つないと見ます。それぞれの要素はどれも確かなものではなく、心は平等で、表情は穏やかです。清らかで汚れがなく、すべての苦しみの果てに達します。それゆえにこう説かれます。五陰を制し、心を水のように従わせ、清らかで穏やかであること、これが甘露の味であると。

如彼極峻山， 不為風所動，比丘盡愚癡， 所在不傾動。

> あの極めて切り立った山が 風に揺るがないように、 修行者が愚かさを滅ぼし尽くせば、 どこにあっても揺らぐことはない。

猶若安明山不為四種風所傾動，盡癡比丘亦復如是，不為色聲香味細滑之法所動，是故說曰，如彼極峻山，不為風所動，比丘盡愚癡，所在不傾動也。

> 須弥山のような高い山が、四つの風に揺さぶられないように、愚かさを滅ぼした比丘もまた同じです。色・声・香・味・触といった感覚の対象に心を動かされることはありません。それゆえにこう説かれました。「あの非常に険しい山が風に動かされないように、愚かさを滅ぼした比丘は、どこにあっても揺らぐことがない」と。

一切名色， 非有莫惑， 不近不愛，乃為比丘。

> すべての名と色にとらわれず、惑わされることなく、 近づかず、愛着も持たない—— それが真の修行者です。

名色六入，行者之所棄，我所非我所都無所有，不近於危嶮之法。法有種種，或有真實或有危嶮，所謂真正者諸度無極，所謂危嶮者世俗常則。比丘具足此者乃謂應真，是故說曰，一切名色，非有莫惑，不近不愛，乃為比丘。

> 名と形、六つの感覚の入口——修行者はこれらを手放します。我のものでも我のものでないものでもなく、すべては何も属さないものです。ですから危険な道に近づくことはありません。 法にはさまざまなものがあります。あるものは真実であり、あるものは危険です。真実の道とは、悟りへと導く様々な実践のこと。危険なものとは、世間のありきたりな慣習のことです。 比丘がこのことをしっかりと身につけたなら、まさに真の聖者と呼べます。ですからこう説かれました——すべての名と形に、とらわれることなく、惑わされることなく、近づかず、愛着しない、それが比丘なのです。

比丘非剃， 慢誕無戒， 捨貪思道，乃應比丘。

> 比丘にあらずといえども、戒を守り、 貪りを捨てて道を思うならば、 まことの比丘である。

息心非剃， 放逸無信， 能滅眾苦，為上沙門。

> 心を静めることが大切であり、髪を剃ることではありません。 怠けていて信仰がなければ、 多くの苦しみを滅ぼすことはできません。 それこそが最も優れた修行者なのです。

爾時世尊，到時持鉢整頓衣服，徑向乞求婆羅墮者婆羅門所。爾時梵志遙見世尊，梵志自歎說曰：「我亦乞士君亦乞士，二乞士中何者為勝？」爾時世尊便說此偈：

> そのとき、世尊は托鉢の時間になると、鉢を持ち、衣を整えて、まっすぐにバラドゥヴァージャというバラモンの家へ向かわれました。バラモンは遠くから世尊を見ると、こう言って自ら嘆きました。「私も托鉢する者、あなたも托鉢する者。二人の托鉢者のうち、どちらが優れているのか。」そこで世尊は次の詩を説かれました。

「比丘非剃， 慢誕無戒， 捨貪思道，乃應比丘。

> 剃髪しただけでは比丘ではありません。 おごり高ぶり、戒めを守らず、 貪りを捨てて道を思う者こそ、 真の比丘なのです。

「息心非剃， 放逸無信， 能滅眾苦，為上沙門。」

爾時梵志聞斯偈已，即以所有財貨施於世尊。爾時如來尋不受之，語梵志曰：「我今所說非歌頌所讚，何緣取汝所施之物？」梵志白佛：「不審今者以此所施為付何人？」世尊告曰：「汝今持此所施持著淨處，若著無草之地，若著清淨水中。」爾時梵志受如來教，即以所施寫著水中。是時，水中自然涌出，作若干種聲，漸漸於中出大光明。梵志見已踊躍歡喜不能自勝，如來即說真如四諦，尋於坐上諸塵垢盡得法眼淨。

比丘得慈定， 承受諸佛教，極得滅盡跡， 無親慎莫覩。

比丘得慈所在解脫，分別萬行無事不達。設復有人見眾生之類，步兵象兵馬兵車兵共相鬪訟，入慈之人愍彼不及，拔濟眾生至無為岸，猶如平稱平等無二。於如來所得四堅固之心不可傾動，猶如最勝長者及以比丘覩佛無厭足，正使化佛在其前者，亦不能使心有所傾動。行人得滅盡之跡無復眾惱，知可近知近可從知從，如是行蹤跡，滅行則為本。略說其要，如是結使本為火之所燒，如是漸以次斷諸結使源，如是頗有梵志無乃至於泥洹。

心喜極歡悅， 加以愛念者，比丘多熙怡， 盡空無根源。

彼修行之人，歡喜踊躍無有懈怠，聞喜不以為歡，聞惡不以為慼，比丘入定無有錯亂，恒自思念，從無數劫以來，修行眾德不失行本，究盡空源無邊無崖，是故說曰，心喜極歡悅，加以愛念者，比丘多熙怡，盡空無根源。

息身而息意， 攝口亦其善，捨世謂比丘， 渡淵無有礙。

彼修行人執持威儀不失其則，護口四過無所違失，不使其心有所流馳，所說言教無有麤獷，先笑後言適可人情。捨世謂比丘，何者為比丘？所謂比丘者，離色聲香味細滑法，去婬怒癡，是故說曰，息身而息意，攝口亦其善，捨世謂比丘，渡淵無有礙也。

無禪不智， 無智不禪， 道從禪智，得近泥洹。

夫人學問，先從誦四阿含三藏具足，然後乃名稱為禪定，此是世俗之智。無智不禪者，無漏慧觀必有所至無有罣礙，設有二事具足者，便近於泥洹，是故說曰，無禪不智，無智不禪，道從禪智，得近泥洹。

禪無放逸， 莫為欲亂， 無吞洋銅，自惱燋形。

如彼脩行之人攝身口意，少欲知足不大慇懃，雖得衣被飲食床臥具病瘦醫藥，趣自支形不慕世榮，威儀禮節不失其度，床臥坐具恒知止足，莫受後世洋銅灌口，是故說曰，禪無放逸，莫為欲亂，無吞洋銅，自惱燋形。

能自護身口， 護意無有惡，後獲禁戒法， 故號為比丘。

夫人習行，身不行惡、口不罵詈、意不妬嫉，具此三者乃為比丘。是故說曰，能自護身口，護意無有惡，後獲禁戒法，故號為比丘也。

諸有修善法， 七覺意為本，此名為妙法， 故曰定比丘。

如彼行人善脩其法，先得無漏盡苦之源，便得七覺意華，漸至無為得近泥洹。是故說曰，諸有脩善法，七覺意為本，此名為妙法，故曰定比丘也。

如今現所說， 自知苦盡源，此名為善本， 是無漏比丘。

於現法中而自觀了，求其巧便盡於苦際，所謂盡苦際者滅盡泥洹，是故諸根具足成就無漏行，所行如意無所違失。是故說曰，如今現所說，自知盡苦源，此名為善法，是無漏比丘也。

不以持戒力， 及以多聞義，正使得定意， 不著於文飾，比丘有所持， 盡於無漏行。

夫人習行，不但精進忍辱一心智慧求於解脫，亦復不以多聞解慧知內外法至於無為，要得世俗定意，然後至於妙際，或在山野空閑之處，與善知識相遇，說其正徑不說邪路。比丘當知此行習無漏法，所以盡苦際者，皆是漏盡羅漢，須陀洹、斯陀含、阿那含猶尚涉諸苦惱。是故說曰，不以持戒力，及以多聞義，正使得定意，不著於文飾，比丘有所持，盡於無漏行也。

當觀正覺樂， 勿近於凡夫，觀此現世事， 分別於五陰。

如彼學人觀正覺樂，以自娛樂不近於凡夫。所以然者？非彼境界所有。觀此世事者，知眾生之類生者滅者進退所趣，知苦所由，分別五陰成敗所趣，是故說曰，當觀正覺樂，勿近於凡夫，觀此現世事，分別於五陰。

為之為之， 必強自制， 捨家而解，意猶復染。 行懈緩者， 勞意弗除，非淨梵行， 焉致大寶？

執行之人興諸想著起結使本，或有分別計有今世後世之累，於苦而不自免，比丘莫著此，自謂清淨之行。諸有沙門婆羅門不知出要之法，我不說此人應得度也。所以然者？不離縛著之所致。比丘當知，非有而言有，此習邪見非真諦法。何以故？皆由五陰身本而興此病，以有此病復生惡行，由此諸病不得盡苦際。比丘當知究盡其源，解知無常為變易法。

夫學之人觀此法者，無堅無牢為無有要，解知無身則知生死，不以為死魔之所沮壞，以得勝彼更不造有，盡一切之有，此名苦際更無有上。

心得永休息， 比丘攝意行，以盡老病死， 便脫魔縛著。

如彼行人永盡諸結，意所染著不復造行，色聲香味細滑之法不復在懷，自知罪畢更不受胎，永離魔界亦不與欲塵相應，是故說曰，心得永休息，比丘攝意行，以盡老病死，便脫魔縛著。

心以得永寂， 比丘攝意行，以盡老病死， 更不復受有。

有者生死之累，所以沈漂周旋五道者，皆由意惑不盡其源故，是故說曰，心以得永寂，比丘攝意行，以盡老病死，更不復受有。行人執意多有所濟，常求方便以自濟渡。

以斷於愛根， 比丘攝意行，以盡老病死， 更不復受有。

愛之為病多所危害，欲界愛者其事有二：一者食愛，二者欲愛。色界無色界禪味愛。是故說曰，以斷於愛根。

無有結使心， 比丘攝意行，以盡老病死， 更不復受有。

所謂結使者，眾行之本漏諸穢濁，是故說曰，無有結使心，比丘攝意行，以盡老病死，更不復受有。

不以斷有根， 比丘攝意行，以盡老病死， 更不復受有。

以度生死，更不受有。

比丘攝意行， 以盡老病死，更不復受有， 以脫於魔界。

永離於魔界，更不處於欲界，以脫永脫更不受有。

以勝叢林刺， 及除罵詈者，猶如憑泰山， 比丘不受苦。

以勝叢林刺者，此名為色聲香味細滑法，更復有者，何者為林刺？所謂林刺者，婬怒癡病最為根本，唯有諸佛世尊乃能除耳。設彼罵我，解知無形，內自思惟，身為苦器內外無主，分別此身何可貪樂？一病以發，四百四病同時俱作，此名身之內患。所謂外患者，荊棘叢林誹謗之名毀形污辱，或被撾打，如斯之類從外而至，或被蚖蛇毒害百足之虫，此皆外事來逼其身。猶若泰山，不用幻呪奇術之法所可移動，是以比丘欲得離眾苦之本，唯有真如四諦。彼比丘不知苦樂，所謂不知苦樂者，苦至不以為酸楚，樂到不以歡娛。是故說曰，以勝叢林刺，及除罵詈者，猶如憑泰山，比丘不受苦。

不念今後世， 觀世如幻夢，比丘勝彼此， 如蛇脫故皮。

猶若明行人，意知今世後世變易不停，是故說曰，不念今後世，觀世如幻夢，比丘勝彼此，如蛇脫故皮。

能斷愛根本， 盡竭欲深泉，比丘勝彼此， 如蛇脫故皮。

所以說此喻者，欲使行人知其深淺，料量正行皆順於法。爾時世尊訓以道德，恐後眾生不別愛本，是故演說知其出源。是故說曰，能斷愛根本，盡竭欲深泉，比丘勝彼此，如蛇脫故皮。略說其要，欲怒癡憍慢亦復如是，著欲者說其欲，著瞋者說其瞋，著騃者說其騃。

能斷於五欲， 斷於欲根本，比丘勝彼此， 如蛇脫故皮。

猶如有人身被五繫，愁憂苦惱無復情意，後得蒙赦得免危厄。是以如來為喻，欲使後生審知明白，是故說曰，能斷於五欲，斷於欲根本，比丘勝彼此，如蛇脫故皮。

能斷於五結， 拔於愛欲刺，比丘勝彼此， 如蛇脫故皮。

所謂五結者，貪欲結、瞋恚結、睡眠結、調戲結、疑結，覆蓋人心使不覩慧明，使人盲冥不覩光明，滅於智慧永斷諸趣，不得至於泥洹。是故說曰，能斷於五結，拔於愛欲刺，比丘勝彼此，如蛇脫故皮。拔於愛欲刺者，刺有三義：欲刺、恚刺、無明刺，盡斷無餘更不復生，無起滅法見斷五蓋。是故說曰，拔於愛欲刺也。

諸有無家業， 又斷不善根，比丘勝彼此， 如蛇脫故皮。

彼修行人執苦來久，脩菩薩德終日不捨，捨家出學不貪世榮，是故說曰，諸有無家業，又斷不善根，比丘勝彼此，如蛇脫故皮。

諸不有熱惱， 又斷不善根，比丘勝彼此， 如蛇脫故皮。

所謂熱惱者，一者欲熱惱，二者瞋恚熱惱，三者愚癡熱惱，三熱惱中恚最為上，火所焚燒從欲界乃至初禪地；三毒熾火燒欲界至無色界，能滅此三毒界者，乃為第一無為之樂。是故說曰，諸不有熱惱，又斷不善根，比丘勝彼此，如蛇脫故皮。

斷欲不遺餘， 如拔不牢固，比丘勝彼此， 如蛇脫故皮。

人之著欲無不喪命。所以然者？皆由意斷心惑之所致。是以聖人先制婬欲。是故說曰，斷欲不遺餘，如拔不牢固，比丘勝彼此，如蛇脫故皮。略說其要，貪欲瞋恚愚癡憍慢，亦復如是。

愛生而流溢， 猶蛇含毒藥，比丘勝彼此， 如蛇脫故皮。

人隨愛意不自禁制，漸從欲界乃至三有，流轉五趣不離四生。所以論比丘勝彼此者，彼者六塵此者六情，比丘能滅彼此者，如蛇脫故皮。

諸有斷想觀， 內不造其心，比丘勝彼此， 如蛇脫故皮。

觀有三觀：欲觀、恚觀、無明觀，能滅此者乃謂為道士。是故說曰，諸有斷想觀，內不造其心，比丘勝彼此，如蛇脫故皮。

持戒謂比丘， 有空乃行禪，行者究其源， 無為最為樂。

比丘執行以威儀為本，戒以檢形服以法衣，所行法則不違先聖，有空定意然後名為禪，不捨假號。如彼行人受則信解分別其義，求於無為快樂之處，無有飢寒苦惱之患。是故說曰，持戒謂比丘，有空乃行禪，行者究其源，無為最為樂也。

比丘憂忍憂， 分別床臥具，當念無放逸， 斷有愛無餘。

比丘修行，處樂不以為歡，遭難不以為苦，利衰毀譽無增減心，在閑靜處一意端坐心不流馳，斷諸結使念無想著，是故說曰，比丘憂忍憂，分別床臥具，當念無放逸，斷有愛無餘也。