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title: "出曜經 · 第三十"
description: "出曜经是姚秦时期著名译经师竺佛念所译的佛教经典，属于早期汉传佛教重要文献之一。该经主要阐述佛陀的教法，内容涵盖修行方法、因果业报、戒律规范等核心教义，具有鲜明的实践指导意义。竺佛念作为五世纪初重要译经家，其译文准确流畅，对佛教在中国的传播影响深远。出曜经不仅反映了早期佛教思想体系，也为研究中国佛教发展史提供了珍贵资料，在汉传佛教经典中占有重要地位，是了解原始佛教教义的重要参考典籍之一。"
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## 出曜經卷第三十

> 出曜経 第三十巻

姚秦涼州沙門竺佛念譯

> 姚秦涼州沙門竺仏念訳

### 梵志品之二

> 梵志品の二

若見侵欺， 但念守戒， 端身自調，是謂梵志。

> もし欺かれることがあっても、ただ戒を守ることを心に念じ、身を正して自らを整える、これこそが梵志である。

若復有人所見侵欺，不興惡懷有瞋怒意，守戒多聞降伏意識，身正影直心平道存。是故說曰，若見侵欺，但念守戒，端身自調，是謂梵志。

> もし誰かに欺かれたとしても、悪意や怒りの心を起こさず、戒めを守り、よく教えを聞き、自分の心を制している――体が正しければ影もまたまっすぐで、心が平らかであれば道もそこにある。だからこう説くのである。欺かれることがあっても、ただ戒めを守ることを思い、身を正しく整えて自らを調える、これこそが真の修行者である、と。

世所善惡， 脩短巨細， 無取無與，是謂梵志。

> 世の中の善悪や、長短や大小にこだわらず、何も求めず、何も拒まない。これこそが真の修行者である。

世俗方略事有若干，欲察人情先採其語，說善說惡不記于懷，不見有長短廣狹，亦復不見有取有與，具足如是行者是謂梵志。是故說曰，世所善惡，脩短巨細，無取無與，是謂梵志。

> 世間にはさまざまなやり方がありますが、人の心を知ろうとすれば、まずその人の言葉をよく聞きます。善いことを言っても悪いことを言っても、それを心に留めません。長所や短所、広い狭いといった違いも見ず、受け取ることも与えることも考えません。このように実践する人を、真の修行者（梵志）と呼ぶのです。それゆえにこう説かれます――世の中の善悪、長短、大小にとらわれず、受け取ることも与えることもない、これこそが真の修行者なのです。

身為行本， 口意無犯， 能辦三處，是謂梵志。

> 身を行じ、口と意を犯さず、三つのことを成し遂げる人、これを梵志と呼びます。

身不行殺、口不惡罵、意不嫉妬，於五鼎沸世能具此三行者，乃名為梵志。是故說曰，身為行本，口意無犯，能辦三處，是謂梵志。

> 体で殺すことをせず、口で悪口を言わず、心で妬まない。この五つの激情が沸き立つ世の中で、この三つの行いを身につけることができる者を、梵志と呼ぶのです。だからこう説きます――身は行いの根本であり、口と心で過ちを犯さず、この三つの場所を整えることができる、それを梵志と呼ぶのです。

來不作歡， 去亦不憂， 於聚離聚，是謂梵志。

> 来ることも喜ばず、去ることも憂えず、集まることも離れることもない、これが梵志である。

彼習行人持心牢固毀譽不動，見有來者不孚用歡，設見去者亦不用憂，若在大眾若復離眾，心恒平等亦無高下。是故說曰，來不作歡，去亦不憂，於聚離聚，是謂梵志。

> 修行する人は、心をしっかりと保ち、褒められても貶されても動じません。来る人を見ても喜ぶことはなく、去る人を見ても悲しむことはありません。大勢の中にいても、一人でいても、心は常に平等で、高い低いもありません。だからこう言います。来ても喜ばず、去っても悲しまず、集まりの中でも離れていても、これこそが真の修行者です。

來亦不歡， 去亦不憂， 無憂清淨，是謂梵志。

> 来ることも喜ばず、去ることも憂えず、憂いのない清らかさ、これを梵志という。

若見愛念不愛念者亦不用作歡。所以然者？恐心染著興起因緣。設見去者便自念言：「我於彼人各無所犯，內外清淨息意不起亦名為梵志。」是故說曰，來亦不歡，去亦不憂，無憂清淨，是謂梵志。

> 愛する人に会っても、愛さない人に会っても、どちらでも喜んではならない。なぜか。心が染まり執着して、悩みの原因を生み出す恐れがあるからだ。去っていく人を見たら、こう心に念じなさい。「私はあの人に対して何の罪も犯していない。内も外も清らかで、心の動きは起こらず、それこそが梵志（清らかな修行者）と呼ばれるのだ」と。だからこう説かれる――来ても喜ばず、去っても憂えず、憂いなく清らかである、これが梵志である、と。

以斷恩愛， 離家無欲， 愛有已盡，是謂梵志。

> 恩愛を断ち切り、家を離れて欲を捨て、愛執をすっかり滅ぼした人、それを梵志と呼ぶのです。

如彼行人修習於道，永斷恩愛離家無欲遠遊無礙，盡諸有愛缺三界漏，能具足如此者乃名梵志。是故說曰，以斷恩愛，離家無欲，愛有已盡，是謂梵志。

> 修行する人は道を修め、情愛を永遠に断ち切り、家を離れて欲望を捨て、妨げなく遠く旅し、すべての存在への執着を使い果たし、三界の煩悩を滅ぼし、これを完全に成し遂げた人こそ、真の修行者と呼ばれます。それゆえにこう説かれます。情愛を断ち切り、家を離れて欲望を捨て、執着を使い果たした人、これこそ真の修行者であると。

適彼無彼， 彼彼以無， 捨離貪欲，是謂梵志。

> あの世に執着せず、あの世への執着もない。あの世への執着を捨て、貪欲を離れた人、それが梵志である。

所謂彼者外六入也，所謂無彼者內六入也，行人執意觀內外諸情斯悉虛寂，捨離貪淫不興六情，具足如此眾行之本者，乃名為梵志。是故說曰，適彼無彼，彼彼以無，捨離貪欲，是謂梵志。

> いわゆる「彼」とは、外の六入（六つの感覚対象）のことです。いわゆる「彼なし」とは、内の六入（六つの感覚器官）のことです。修行者が心を定めて内外のすべての感情を観察すれば、それらはすべて虚しく静かであると知り、貪りと淫欲を捨て離れ、六つの感覚のはたらきを起こしません。このように多くの修行の基本を具えている人を、梵志（清らかな求道者）と呼びます。それゆえにこう説かれています。「彼に適い、彼なく、彼もまた彼も無である。貪欲を捨て離れる、これを梵志と呼ぶ」と。

適彼無彼， 彼彼以虛， 不染三處，是謂梵志。

> あちら側に執着せず、あちら側もない。 あれこれの区別は空しいものである。 三つの領域に染まらないこと、 これこそが真の修行者である。

彼習行人解知內外皆無結使，不著欲界色界無色界，能具足如此眾行者，乃名為梵志。是故說曰，適彼無彼，彼彼以虛，不染三處，是謂梵志。

> 修行する人は、内にも外にも煩悩の束縛がないことを理解し、欲界・色界・無色界のいずれにも執着しない。このような多くの修行をすべて身につけた人こそ、真の修行者（梵志）と呼ばれる。だからこう説かれる――あちらへ行ってもあちらに執われず、あれこれもすべて空しい。三つの世界に染まらない、これこそ真の修行者である。

能捨家業， 拔於愛欲， 無貪知足，是謂梵志。

> 家庭や財産を手放し、愛欲を断ち切り、貪ることなく足るを知る――これこそが真の修行者である。

夫人離家莫與世俗從事，正使出家不修其法，毀戒不精進，亦不多聞，亦不應與坐起從事，更不思惟當來利養，能具如此者乃名梵志。是故說曰，能捨家業，拔於愛欲，無貪知足，是謂梵志。

> 妻子を捨てて家を離れ、世俗のことに携わってはならない。たとえ出家してもその法を修めず、戒を破り、精進せず、多く聞くこともなければ、その人と共に起居し行動してはならない。未来の利養を思うこと also ない。これらを全て備えた者こそ、真の梵志と呼ばれる。それゆえに説くのである。家業を捨て、愛欲を抜き、貪りなく、足るを知る、これこそ梵志であると。

如今所知， 究其苦際， 無復有欲，是謂梵志。

> 今、知るべきことを知り、苦の極まりを究め、もはや欲望はない——これこそが梵志である。

於見法中能分別微妙無有眾惡，知苦是眾病之原首，能斷此者乃應於妙。於見法中不與欲意共相應，瞋恚愚癡永盡無餘離諸縛著，能具如此者故名為梵志。是故說曰，如今所知，究其苦際，無復有欲，是謂梵志。

> 法を見る中で、微妙に分別することができ、もろもろの悪がなく、苦はあらゆる病の根源であると知り、これを断ち切ることができる者こそ、すぐれた境地にふさわしい。法を見る中で、欲の心とともに対応することがなく、怒りや愚かさが永遠に尽きて余すところなく、もろもろの束縛から離れている。これらをすべて備えた者を、梵志と呼ぶ。だからこう説かれる――今、知るところによって、苦の果てを極め尽くし、もはや欲がなくなった、これが梵志である、と。

於罪與福， 兩行永除， 無憂無塵，是謂梵志。

> 罪と福の両方をすっかり捨て去り、憂いも汚れもない――これこそが真の修行者です。

正使有福世俗有漏善本功德得為人身，由故不脫生老病死。又復作罪種三惡本經歷生死，罪之與福二不足貪，兩行永除無復塵垢，能具此行者，是謂梵志。是故說曰，於罪與福，兩行永除，無憂無塵，是謂梵志。

> たとえ福徳を積んで、世俗の善行や功徳によって人間の身を得たとしても、それだけでは生・老・病・死から逃れることはできません。また罪を犯せば三悪道に落ちる原因をつくり、生死を繰り返すことになります。罪も福も、この二つに貪ってはならず、どちらの行いもすっかり除き去れば、もはや塵も汚れもありません。この行いを身につけた人を、梵志（清らかな修行者）と呼ぶのです。だからこう説かれています――罪と福の両方をすっかり除き去り、憂いも塵もない、これが梵志である、と。

於罪與福， 兩行永除， 三處無染，是謂梵志。

> 罪と福の両方を永遠に手放し、三つの執着にも染まらない人、それを梵志と呼びます。

福之與罪無欲無染，中間禪樂無色禪樂，行人盡捨無所染著，不著三界欲界色界無色界，能解此具足者乃名梵志。是故說曰，於罪與福，兩行永除，三處無染，是謂梵志。

> 福も罪も求めず、汚れもなく、中間の禅の喜びも色界・無色界の禅の喜びも、修行者はすべて捨て去って執着しない。三界──欲界・色界・無色界──にも執着しない。これを完全に理解できる人こそ、真の修行者と呼ばれる。だからこう説かれる──罪と福の両方を永遠に除き、三つの世界に汚れのない人、これこそ真の修行者である、と。

猶如眾華葉， 以鍼貫芥子，不為欲所染， 是謂名梵志。

> 花や葉を針で芥子粒に貫き通すように、欲望に心を汚されない人、それを梵志と呼びます。

猶如蓮華之葉不受塵水，彼修行人亦復如是，以離於欲不復著色聲香味細滑法，猶若以鍼欲貫藍豆及與芥子，難可獲也。彼修行人無有婬欲，略說其要，不為惡所染。是故說曰，猶如眾華葉，以鍼貫芥子，不為欲所染，是謂名梵志。

> 蓮の葉が水や汚れをはじくように、修行する人もまた同じです。欲望から離れ、色や声や香りや味わいや触れ合いに心を奪われることがありません。針で藍豆や芥子粒を貫くのが難しいように、修行する人には淫らな欲望がありません。要するに、悪に染まらないということです。それゆえにこう説かれます。多くの花の葉を針で芥子粒を貫くように、欲望に染まらない、これこそが梵志と呼ばれるのです。

心喜無垢， 如月盛滿， 謗毀已除，是謂梵志。

> 心が喜びに満ち、汚れがなければ、 満月のように輝き、そしりや悪口を取り除いた人、 これこそが真の修行者です。

猶如月盛滿清淨無瑕穢無有五翳，眾星圍遶放大光明靡所不照。彼比丘清淨行人，永除五翳無復五結，心得解脫諸覺道品，眾定正受而自圍遶，於中獨尊無有眾瑕，捨世八法毀譽已除，能具此行者故名為梵志。是故說曰，心喜無垢，如月盛滿，謗毀已除，是謂梵志。

> 満月のように清らかで、汚れも曇りもなく、五つの覆いもない。多くの星に囲まれて、大きな光を放ち、照らさないものはない。その比丘は清らかな修行者であり、五つの覆いを永久に除き、五つの結縛もなく、心は解脱を得て、諸々の覚りの道の要素と、多くの定と正受に自ら囲まれている。その中で独り尊く、少しの汚れもない。世の八つの法を捨て、称賛と非難はすでに除かれている。この修行を完全に成就できる者を、梵志と呼ぶのである。それゆえに説いて言う、心は喜び汚れがなく、満月のように満ちている。誹りと毀りはすでに除かれた。これが梵志である。

如月清明， 懸處虛空， 不染於欲，是謂梵志。

> 月のように清らかで、虚空に浮かび、欲に染まらない―― これこそが梵志である。

如秋時月不為五事所翳，清淨無瑕放大光明靡所不照，修行比丘亦復如是，不為婬怒癡五結所翳，能具此行者故名為梵志。是故說曰，如月清明，懸處虛空，不染於欲，是謂梵志。

> 秋の月が五つのものに遮られず、清らかで瑕なく、大きな光明を放ち、照らさないものはない。修行する比丘もまた同じです。淫欲・怒り・愚かさという五つの束縛に遮られない。この修行を身につけた人は、梵志と呼ばれます。だからこう説かれます。月のように清らかで、虚空に懸かり、欲に染まらない、これが梵志であると。

避諍不諍， 犯而不慍， 惡來善待，是謂梵志。

> 争いを避けて争わず、害を受けても怒らず、悪意ある者にも善意で接する──これが真の修行者です。

彼入定人不起諍訟，禪定一意念待喜安，自守五行具足乃名為定。設有惡意來相向者恒以善待。是故說曰，避諍不諍，犯而不慍，惡來善待，是謂梵志。

> 定に入った人は争いを起こさず、禅定の一念で喜びと安らぎを待ち望み、五つの行いを自ら守り、すべてを満たしてこそ定と呼ばれます。たとえ悪意を持って向かってくる人がいても、常に善意で接します。だからこう説かれます。争いを避けて争わず、犯されても怒らず、悪意には善意で応える、これが梵志なのです。

解微妙慧， 辨道不道， 體行上義，是謂梵志。

> 深い智慧を理解し、道と道でないものを弁え、優れた教えを身をもって行じる、これが真の修行者である。

諸有人聞籌量算計圖度萬物分別義趣，一一分明辨其道趣，可就知就可捨知捨，體行上義。所謂上義者，滅盡泥洹是，能具足此法者故名為梵志。是故說曰，解微妙慧，辨道不道，體行上義，是謂梵志。

> もし人が、よく考え、計算し、思い測って、あらゆるものごとを分別し、その意味を一つひとつはっきりと見分け、この道は取るべき、これは捨てるべきと知って、すぐれた教えを身をもって実践するならば——ここでいうすぐれた教えとは、すべての煩悩が滅び尽くした涅槃のことです。この法を完全に身につけた人を、梵志（清らかな求道者）と呼びます。それゆえこう説かれています。微妙な智慧を理解し、道と道でないものをはっきりと見分け、すぐれた教えを身をもって実践する——これこそが梵志なのです。

諸在人間， 乞索自濟， 無我無著，不失梵行， 說智無崖， 是謂梵志。

> 人の世にあって、乞い求めて自らを養い、 自我にとらわれず、執着もなく、 清らかな行いを失わず、尽きることのない智慧を説く―― これこそが真の修行者である。

或有貴族姓子，從四姓中出家學道，捨憍慢意去高就下不著榮冀，在在處處周旋往來。興有佛事恭奉三寶，若得衣食床臥具病瘦醫藥，便為呪願使彼施家世世受福，或以神足騰在虛空作十八變，施主見者莫不歡喜，便從受法皆得開悟，能具此行者故名為梵志。是故說曰，諸在人間，乞索自濟，無我無著，不失梵行，說智無崖，是謂梵志。

> あるいは貴族の家柄の者が、四つの姓の中から出家して道を学び、驕り高ぶる心を捨てて高い立場を離れ低い立場に就き、栄誉を求めることなく、あちこちを巡り歩きます。仏の教えを広める行いを起こし、三宝を恭敬し、衣食や寝床、病の薬などを得れば、その施し主のために呪願を唱え、その施し主の家が代々福を受けられますようにと願います。あるいは神通力によって虚空に飛び上がり、十八の変化を現せば、施し主は見て喜ばない者はなく、そのまま法を授かり皆が開悟を得ます。このような行いを完全にできる者を、梵志と呼びます。それゆえにこう説かれます。人々の間にあって、乞い求めて自らを養い、無我にして執着なく、梵行を失わず、智は果てしないと説く、これを梵志と呼びます。

若能棄欲， 去家捨愛， 以斷欲漏，是謂梵志。

> 欲望を捨て去り、家を離れ、愛着を手放し、欲望の流れを断ち切った人、それこそが真の修行者です。

如彼行人盡能斷欲，親近道門愛而不捨，或有梵志未盡究竟，欲意未斷貪著五樂，雖稱梵志不離於欲。諸有學人永滅欲漏不習恩愛，能具足此行者故名為梵志。是故說曰，若能棄欲，去家捨愛，以斷欲漏，是謂梵志。

> 修行する者が欲望をすべて断ち切り、道に親しみ、道を愛して捨てないならば、それは立派な行者です。しかし、志はあってもまだ悟りに至らず、欲望の心が断ち切れず、五つの楽しみに執着しているならば、たとえ修行者と名乗っても欲望から離れてはいません。学びの途上にある人が欲望の煩悩を永遠に滅ぼし、親しみや愛着を捨て、この修行を完全に成し遂げた人を、真の修行者と呼びます。ですからこう説かれます。もし欲望を捨て、家を離れ、愛着を捨て去り、欲望の煩悩を断ち切るならば、それが真の修行者なのです。

慈愍於人， 使不驚懼， 不害有益，是謂梵志。

> 人に慈しみの心を持ち、恐れさせず、害を与えず、益をもたらす、これが真の修行者です。

眾行之要四等為本，恒當慈愍加被眾生，見有恐懼懷憂惱者，便往恤化永處安隱，無害於人興致供養，能具此行者名曰梵志。是故說曰，慈愍於人，使不驚懼，不害有益，是謂梵志。

> すべての行いの根本は四つの無限の心（慈悲喜捨）にあります。いつも慈しみの心で众生を包み込み、恐れや悩みを抱える人を見れば、すぐに寄り添い慰め、永遠の安らぎへと導きます。人を傷つけず、供養の心を起こす。この行いを身につけた人を、梵志（清らかな求道者）と呼びます。ですからこう説かれています――人に慈しみを施し、恐れさせず、害を与えず益をもたらす、これが梵志である、と。

避怨不怨， 無所傷損， 去其邪僻，故曰梵志。

> 恨みを避けて恨まず、何も傷つけることがなく、邪(よこしま)な心を取り除いた。だから梵志(ぼんじ)という。

行人執意志操不同，用心平等設見怨家視如赤子，慈心普等平均無二。猶若忍心如地平等如秤，蜎飛蠕動蚑行喘息，視如己身，念之如父、念之如母、念之如子、念之如身，而無有異。能具此眾行者名曰梵志。是故說曰，避怨不怨，無所傷損，去其邪僻，故曰梵志。

> 意志の持ち方は人それぞれであっても、心を平等に保ち、敵と見なす相手をも我が子のように慈しみ、慈しみの心をあまねく等しく注いで差別しない。それはちょうど、大地がすべてを平等に受け止めるように、秤が偏りなく量るように、忍ぶ心でいることである。飛ぶ虫、這う虫、息をする生き物のすべてを自分の身体のように見て、父を思うように、母を思うように、子を思うように、わが身を思うように、少しも変わりなく慈しむ。このような多くの行いを身につけた人を、梵志（清らかな修行者）と名づける。それゆえに説くのである――怨みを避けて怨まず、何ひとつ傷つけることなく、邪（よこしま）な道を去る。だから梵志と呼ばれるのである。

于後于前， 及中無有， 無操無捨，是謂梵志。

> 前にも後ろにも、また中にもとらわれず、執着もなく手放すこともない、これこそが真の修行者です。

猶如有人，於未來世不作眾惡行，已不作當不作，於過去世不作眾惡行，已作眾惡行，已不作當不作現不作，及其中間作眾惡行不作眾惡行，已不作當不作現不作。能捨此眾惡行者，故名為梵志。是故說曰，于後于前，及中無有，無操無捨，是謂梵志。

> たとえば、ある人が未来の世においてもろもろの悪行をなさず、すでになさず、今後もなさず、過去の世においてもろもろの悪行をなさず、すでに悪行をなし、すでになさず今後もなさず現在もなさず、またその中間において悪行をなし、悪行をなさず、すでになさず今後もなさず現在もなさず。このもろもろの悪行を捨てることができる者を、梵志（ばんじ）と名づける。それゆえに説いて言う、のちにおいても、さきにおいても、また中においても、なにもなく、保つこともなく捨てることもなく、これを梵志という、と。

去婬怒癡， 憍慢諸惡， 鍼貫芥子，是謂梵志。

> 淫欲と怒りと愚かさを去り、 慢心やさまざまな悪を捨て去り、 針で芥子の種を貫くような道を歩む人、 それが真の修行者です。

如彼行人欲為污心，不得至於虛寂之道，除去憍慢諸不善法，便得漸進至泥洹境，猶若鍼貫芥子終不可得。彼心亦復如是，不為婬怒癡繫所拘礙，能具此行者是謂梵志。是故說曰，去婬怒癡，憍慢諸惡，鍼貫芥子，是謂梵志。

> 修行者が汚れた心を持ったままでは、虚寂の道に至ることはできません。驕りや慢心など諸々の不善の法を除いてこそ、しだいに涅槃の境へと進むことができるのです。それはちょうど、針で芥子の実を貫こうとしても決してできないようなものです。心もまた同じです。淫欲・怒り・愚かさの束縛に妨げられず、この修行を完全に成し遂げる者を、梵志（清らかな求道者）と呼びます。そこでこう説かれます――淫欲・怒り・愚かさを去り、驕りや慢心など諸々の悪を除くこと、針で芥子を貫くことはできないこと、これが梵志なのである、と。

城以塹為固， 往來受其苦，欲適渡彼岸， 不肯受他語，唯能滅不起， 是謂名梵志。

> 城は堀によって堅固になり、 行き来する人々はその苦しみを受ける。 彼岸へ渡ろうと望むなら、 他人の言葉を受け入れず、 ただ滅びが起こらぬようにする、 これこそ梵志と呼ばれる。

生死久遠涉苦無數，唯有禪定之人越此生死之難，去邪疑意無復猶豫，捨煩惱結使，受清淨結使。能具此者故名為梵志。是故說曰，城以塹為固，往來受其苦，欲適渡彼岸，不肯受他語，唯能滅不起，是謂名梵志。

> 生と死ははるか遠く、長く苦しみをさまよい続けてきた。ただ禅定を修める人だけが、この生と死の難しさを乗り越えることができる。邪(よこしま)な疑いの心を捨て去り、もはやためらうことなく、煩悩の結縛(けつばく)を捨て、清らかな結縛を受ける。これを身につけることができる人を、梵志(ぼんじ)と呼ぶ。だからこう説かれる——城は堀によって堅固になり、行き来する者はその苦しみを受ける。彼岸(ひがん)へ渡ろうとしながら、他人の言葉を聞こうとしない。ただ滅びて起こらぬことができる、これを梵志と呼ぶ。

人能斷愛， 今世後世， 有愛已盡，是謂梵志。

> 愛を断ち切った人は、今生でも来世でも、その愛をすっかり尽くした。これこそが真の修行者である。

愛根未盡則不至道，愛根已盡者乃能為道，欲求道者不斷三界結使則不至於道，能斷愛根然後乃至於道，能具足此者故名為梵志。是故說曰，人能斷愛，今世後世，有愛已盡，是謂梵志。

> 愛への執着が残っているうちは、道に至ることはできない。愛への執着を完全に断ち切った者だけが、道を歩むことができる。道を求めながら、三界の煩悩の結びつきを断たなければ、道に至ることはできない。愛の根を断ち切ってこそ、道に至ることができる。これをすべて成し遂げた者を、梵志と呼ぶ。だからこう説かれる——人が愛を断ち切り、現世でも来世でも、愛をすっかり尽くしたなら、それを梵志というのである。

人無希望， 今世後世， 以無希望，是謂梵志。

> 希望を持たない人は、この世でもあの世でも、希望にとらわれない。これが真の修行者です。

所謂希望者，天下萬物皆人之所希望，然此希望故未斷絕，如今現身未死見存於世，正使後世取其命終，身死神逝無復希望。能如此功德具足者，名曰梵志。是故說曰，人無希望，今世後世，以無希望，是謂梵志。

> いわゆる希望とは、世の中のすべてのものごとを、人はみな希望するということです。しかし、この希望があるかぎり、それは断ち切られることがありません。たとえば、今この身が生きてこの世に存在しているように、やがて後の世には命が終わり、身は滅び、魂は去って、もはや希望はなくなります。このようにして功德を完全に備えた人を、梵志（ぼんじ）と呼びます。だからこう説かれています――人が希望を持たず、この世でも後の世でも希望がないならば、それを梵志と呼ぶのです。

自不識知， 天揵沓和， 知無量觀，是謂梵志。

> 自分を知らず、天の乾闥婆も無量の観を悟れば、これこそが真の修行者である。

當佛如來坐禪之時，諸天世人竟不知佛今為所在。有一比丘名曰多耆奢，往至世尊所，便以此偈而讚如來曰：

> 仏である如来が座禅をしているとき、天の者も人々も、仏が今どこにいるのか誰も知りませんでした。多耆奢（たぎしゃ）という名の一人の比丘が、世尊のもとへやって来て、次の詩句で如来を讃えました。

「歸命人中尊， 歸命人中上，不審今世尊， 為因何等禪？唯願天中天， 敷演其教義。」

> 人中の尊き方に帰依します。 人中の最上の方に帰依します。 今、世尊は どのような禅によっておられるのでしょうか。 天の中の天なる方よ、 どうかその教えを説いてください。

如來自說：「梵行之中無有出我者，所以知其然，禪解脫正受定意，猶是世之常法，諸天龍神不能知我之所在，況我當行佛事眾智之妙門？天龍鬼神能知我處乎？」是故說曰，自不識知，天揵沓和，知無量觀，是謂梵志。

> 如来みずから説かれた。「清らかな行いの中に、私を超える者はいない。だからこそ知るのである。禅の解脱、正受、定意は、なお世の常の法である。諸天・竜神は私の在る所を知ることができない。ましてや私が仏の行い、もろもろの智慧の妙なる門を行うとき、天・竜・鬼神が私の居場所を知ることができようか。」それゆえに説いて言う。みずから識ることなく、天の揵沓和は、無量の観を識る。これを梵志という。

自識宿命， 見天人道， 知生苦源，智心永寂。

> 自らの宿命を知り、天道と人道を見て、生の苦しみの源を知り、智慧の心は永遠の静けさに入る。

自識宿命無數劫事，觀知地獄天上之事，餘者不能，唯有佛、如來、至真、等正覺，觀三千大千世界如掌觀珠，知生苦源究暢其本，捷疾之智速成羅漢道，隨意所念而無流滯。是故說曰，自識宿命，見天人道，知生苦源，智心永寂。

> 自らの過去世の無数の出来事を自覚し、地獄や天上のことを見通すことができる。しかし、それ以外の者にはできない。ただ仏、如来、至真、等正覚のみが、三千大千世界を手のひらの上の珠を見るようにご覧になり、生の苦しみの源を知り、その根本を徹底的に究め尽くされる。その迅速な智慧によって速やかに羅漢の道を成し遂げ、心に思うままに何の滞りもない。それゆえにこう説かれる——自ら宿命を知り、天人の道を見、生の苦の源を知り、智慧の心は永遠に静けさに安んずる、と。

自知心解脫， 脫欲無所著，三明以成就， 是謂為梵志。

> 心が解脱したことを自ら知り、欲望から離れて執着がない。三つの明知を成就した者を、真の修行者と呼ぶ。

如彼行人知心所念，解脫者不解脫者皆悉明知，欲想諸行永得解脫。所謂三明者，自識宿命、天眼、漏盡，若具足如是行者名曰梵志。是故說曰，自知心解脫，脫欲無所著，三明以成就，是謂為梵志。

> 修行する人は、心に浮かぶ思いを知り、解脱した者も解脱していない者もすべてはっきりと見極め、欲望と想いと諸々の行いから永遠に解き放たれます。いわゆる三明とは、自らの過去世を知ること、天眼、煩悩の尽きたことです。これらの修行をすべて身につけた人を、梵志（ぼんじ）と呼びます。それゆえにこう説かれます。自ら心の解脱を知り、欲望から脱して執着することなく、三明を成就した人、これを梵志と呼ぶのです。

自識於宿命， 知眾生因緣，如來佛無著， 是謂為梵志。

> 自らの宿命を知り、 衆生の因縁を悟っている。 如来仏は執着がなく、 これこそを梵志という。

是時，如來知無數事，觀眾生性行一一分明，生者死者皆悉了知，猶如天雨普潤世界，是時，世尊觀生死之類亦復如是，生者死者無不觀練。

> そのとき、如来は無数のことをご存じで、すべての生きとし生けるものの性質や行いを一つ一つはっきりと見通しておられました。生まれるものも死ぬものも、すべてを完全に知っておられたのです。ちょうど天の雨が世界中をあまねく潤すように、世尊が生死をめぐる生きとし生けるものを見つめられるのも、また同じでありました。生まれるものも死ぬものも、見極めておられないものはありませんでした。

爾時世尊與舍利弗，在閑靜室獨共遊處。爾時有人已取命終，處在中陰精神不移。佛告舍利弗：「汝今觀此中陰中識神，為從何許中來？設復遷轉為處何所？」是時，舍利弗即入四禪定意，觀此人神為從何來？設當遷轉為處何處？時，舍利弗不知此人為從何來？為趣何處？爾時世尊告舍利弗曰：「汝今所見不及諸佛境界，此神所從來處此無數世界，非汝神力之所能見。」佛告舍利弗：「汝復觀此精神當生何處？」時舍利弗復入三昧，而不知精神所湊，舍利弗即從三昧起，前白佛言：「今日入定遍觀世界不知神之所湊。」佛告舍利弗：「此神今日復當過一億世界，當生某甲家姓某字某。如來所見，非是聲聞辟支佛所及知，宿命通唯有如來等正覺得此宿命通。」是故說曰，自識於宿命，知眾生因緣，如來佛無著，是謂為梵志。

> そこで世尊は舎利弗とともに、静かな部屋で二人きりで過ごしておられた。ちょうどそのとき、一人の人が命を終えて、中陰の状態にあり、その精神は移り動いていた。仏は舎利弗に告げられた。「あなたは今、この中陰にある識神が、どこから来たのか、また移り変わってどこに行くのかを観察してみなさい。」そこで舎利弗は四禅定の境地に入り、この人の神がどこから来たのか、また移り変わってどこに行くのかを観た。しかし舎利弗には、この人がどこから来たのか、どこへ向かうのかが分からなかった。そこで世尊は舎利弗に告げられた。「あなたの見る力は、諸仏の境地には及びません。この神がやって来たもとの世界は無数にあり、あなたの神通力では見ることができないのです。」仏は舎利弗に告げられた。「あなたはさらに、この精神がどこに生まれるかを観なさい。」そこで舎利弗は再び三昧に入ったが、精神がどこに行くのか分からなかった。舎利弗は三昧から起き上がり、仏の前に進み出て申し上げた。「今日、定に入って世界中を観ましたが、神がどこに行くのか分かりませんでした。」仏は舎利弗に告げられた。「この神は今日、一億の世界を過ぎて、ある家の某人、姓は某、名は某として生まれるでしょう。如来の見る力は、声聞や辟支仏が及ぶところではありません。宿命通は、ただ如来・等正覚だけがこの宿命通を得ることができるのです。」それゆえにこう説かれます。自ら宿命を知り、衆生の因縁を知る、如来仏は無著なり、これを梵志と名づける、と。

盡斷一切結， 亦不有熱惱，如來佛無著， 是謂為梵志。

> 一切の結びつきを完全に断ち切り、 煩悩の熱に苦しむこともない。 如来仏は執着がなく、 これこそが真のバラモンと呼ばれる。

諸有眾生斷一切結使，羅漢辟支雖斷結使，由有相似結在，諸佛世尊無有相似，是故如來佛無所著。是故說曰。盡斷一切結。亦不有熱惱。如來佛無著。是謂為梵志。

> すべての生きとし生けるものは、あらゆる煩悩の束縛を断ち切ります。阿羅漢や辟支仏も煩悩の束縛を断ち切りますが、なお似たような煩悩が残っています。しかし、諸仏世尊にはそのような似たものすらありません。ですから、如来・仏は何ものにも執着されません。そこでこう説かれます。すべての束縛をことごとく断ち切り、また熱悩の苦しみもなく、如来・仏は執着されることがない。これこそを梵志（真の修行者）と呼ぶのです。

仙人龍中上， 大仙最為尊，無數佛沐浴， 是謂為梵志。

> 仙人の中でも龍は最上の者であり、 大いなる仙人は最も尊い存在です。 無数の仏がその身を清められる、 これこそが真の修行者といえるでしょう。

所謂仙人者，得五通道，在群最尊無有出上，內外清徹無有眾瑕。仙者亦名為象，長育形體獸中最大，執意剛強能却眾敵。無數沐浴，所謂沐浴者八解正浴池，去諸塵垢無有結使。如來舒手，手所及處塵垢不著，伺察惡人不得其便。是故說曰，仙人龍中上，大仙最為尊，無數佛沐浴，是謂為梵志。

> 仙人とは、五つの神通を得た者であり、多くの者の中で最も尊く、これより優れた者はありません。内も外も清らかで、少しの汚れもありません。仙人はまた「象」とも呼ばれます。象は体を大きく育て、獣の中でも最も大きく、その意志は強固で、多くの敵を退けることができます。数えきれないほどの沐浴をしますが、ここでいう沐浴とは、八つの解脱の正しい浴池のことです。そこではあらゆる塵や汚れを洗い流し、もはや心の束縛はありません。如来が手を伸ばされれば、その手の届くところには塵も汚れも付きません。悪人がつけ込む隙をうかがっても、その機会を得ることはできません。それゆえにこう説かれます。仙人は龍の中でも最も優れ、大仙人は最も尊い。無数の仏が沐浴される、これこそが梵志なのである、と。

所有盡無， 渡流無漏， 從此越岸，是謂梵志。

> すべてを手放し、漏れのない流れを渡り、ここから彼岸へ越えた人、これを梵志と呼びます。

彼修行人，都越一切諸法，審諦分明解世所有悉無所有。所謂流者，流有四名：一名欲流，二名有流，三名無明流，四名見流。渡此四流者，然後乃得無漏之行。羅漢辟支猶尚思惟空、無相願忍、煖、頂法，雖可思惟有漏俗法意結所在，或有是時，欲念無漏先念有漏，是以如來深藏則有大闕。如來大聖繫意禪定從有至無，於無漏法觀未始有闕，得諸總持強記不忘，十力、四無畏、大慈大悲、三無礙道及神足行，是謂如來所修之法，非羅漢辟支佛所修之法。是故說曰，所有盡無，渡流無漏，從此越岸，是謂梵志。

> 修行する人は、あらゆる物事を超越し、この世のすべてを明確に見極めて、何ひとつ実体のないものだと理解しています。流れには四つの名があります。一つは欲の流れ、二つは有の流れ、三つは無明の流れ、四つは見の流れです。この四つの流れを渡り終えてこそ、煩悩のない境地に至ります。羅漢や辟支仏でさえ、空・無相・無願の忍、煖法、頂法を思いめぐらしますが、それは煩悩を伴う世間の法にすぎず、心の結びつきが残っています。時に、無漏を願いながらまず有漏を思うことがあり、そのため如来の深い教えには大きな欠けがあるように見えます。しかし如来という大聖は、心を禅定に結びつけ、有から無へと至り、無漏の法を観じて少しの欠けもありません。あらゆる総持を得て記憶を失わず、十力・四無畏・大慈大悲・三無礙道・神足行を備えています。これが如来の修める法であり、羅漢や辟支仏の修める法ではありません。それゆえに説かれます。すべては尽きて無となり、流れを渡って無漏に至り、ここから彼岸を越える、これを梵志という、と。

無禪無說， 亦不念惡， 禪智清淨，是謂梵志。

> 禅も語りもなく、悪を思うこともない。禅の智慧が清らかである、これこそが梵志である。

彼修行人不念惡禪，夫入禪之人，無言無說常思善法。設見罵詈但守其法，若得味相應禪及中間禪，執意守之無所嬈惱，能具足此行者故名為梵志。是故說曰，無禪無說，亦不念惡，禪智清淨，是謂梵志。

> 修行する人は、悪い禅を思わず、禅に入る人は、言葉もなく説くこともなく、常に善い法を思います。たとえ罵られても、ただ法を守ります。もし味相応の禅や中間禅を得たら、心をしっかりと保ち、悩まされることはありません。この修行を完全に実践できる人を、梵志と呼ぶのです。だからこう説かれています。禅もなく説もなく、悪も思わず、禅の智慧が清らかである、これを梵志と言うのです。

比丘塜間衣， 觀於欲非真，坐樹空閑處， 是謂為梵志。

> 修行者は墓場の布をまとって、欲望は真実ではないと見つめ、木の下や静かな場所に座る。これこそが真の修行者です。

塜間衣有四種：一者發家著衣出家學者，二者檀越施衣受而守護，三者百納拾諸遺餘，四者塜間污穢不淨。如來初學發家著衣，觀欲非真捨六萬夫人，棄轉輪王位，出家學道在閑靜處，坐樹王下，降伏魔王破十八億眾。能具此眾德者故名為梵志。是故說曰，比丘塜間衣，觀於欲非真，坐樹空閑處，是謂為梵志。

> 塜間衣には四つの種類があります。第一は家を発って衣を着け、出家して学ぶもの。第二は檀越が施した衣を受け取り、守り保つもの。第三は百納、すなわち捨てられた布切れを拾い集めたもの。第四は塜間の汚れた不浄な衣です。如来は初めに学ぶ者として家を発って衣を着け、欲が真実でないと観じて六万の夫人を捨て、転輪王の位を棄てて、出家して道を学び、閑静な場所で樹王の下に座り、魔王を降伏し、十八億の軍勢を打ち破りました。このような多くの徳を備えた者を、梵志と呼ぶのです。それゆえに説きます――比丘は塜間の衣をまとい、欲が真実でないと観じ、樹の下の空閑の地に座る。これこそ梵志と呼ばれるのです。

人無識知， 無語無說， 體冷無煖，是謂梵志。

> 人は識知もなく、語ることも説くこともなく、体は冷たく暖かさもない、これが梵志である。

如來出世，無事不知無事不包，無語無說者，永除狐疑不懷猶豫，諸煩惱結使永盡無餘，逮甘露滅，能具此眾行故名為梵志。是故說曰，人無識知，無語無說，體冷無煖，是謂梵志。

> 如来がこの世に現れると、知らないことは何もなく、含まれないものも何もなく、語ることも説くこともない。疑いを永遠に取り除き、迷いを抱くことなく、あらゆる煩悩の束縛を永遠に尽くし余すところなく、甘露の滅（涅槃）に到達する。この多くの行いをすべて備えているからこそ、梵志（バラモン）と呼ばれるのである。だからこう説かれる――人が識知することなく、語ることも説くこともなく、体が冷たく暖かさもない、これが梵志である。

棄捐家居， 無家之畏， 逮甘露滅，是謂梵志。

> 家を捨てて、家の恐れのない者となり、 不死の安らぎに到達した人、 これこそが真の修行者です。

所以居家者，安處人民得自生活，身者眾結之屋室，是以聖人教人離家，在於閑靜求甘露滅，能具如是眾德者故曰梵志。是故說曰，棄捐家居，無家之畏，逮甘露滅，是謂梵志。

> ですから、在家の人は、人々が安らかに暮らし、自ら生活できるよう支えますが、身体は多くの煩悩が集まる住まいなのです。だからこそ聖人は、家を離れて静かな場所で甘露の滅（悟りの境地）を求めるよう教えます。このように多くの徳を備えた人を、梵志（修行者）と呼ぶのです。ですからこう説かれます――家庭を捨て、家の恐れのない者となり、甘露の滅を証した者、これを梵志と呼ぶのです。

斷絕世事， 口無麤言， 八道審諦，是謂梵志。

> 世の中のことに執着するのを断ち切り、口に荒い言葉を言わず、八つの正しい道をよく理解している人、これこそが真の修行者です。

如來世尊光相炳著，初轉法輪，八萬諸天及二王人、梵志七人，摩竭國王洴沙萬二千人，摩竭國界石室之中，釋提桓因萬二千天，拘尸那竭國，最後度須拔。佛滅度後當有羅漢出世，名曰優波掘，於其中間濟度眾生不可稱計，演說八道無礙之法。是故說曰，斷絕世事，口無麤言，八道審諦，是謂梵志。

> 如来世尊の光明と姿は輝きわたり、初めて法輪を転じられた。八万の諸天と二人の王、梵志七人、摩竭国王の洴沙と万二千人、摩竭国の石室の中では釈提桓因と万二千の天、拘尸那竭国では最後に須抜を導かれた。仏が滅度された後、羅漢が世に現れるであろう。名を優波掘といい、その間、衆生を済度することは数えきれないほどで、八つの道の妨げのない法を説かれる。それゆえにこう説く。世間の事を断ち切り、口に粗い言葉なく、八つの道を真に悟る、これを梵志という。

遠逝獨遊， 隱藏無形， 難降能降，是謂梵志。

> 遠くへ去り、ひとりで歩み、形を隠して見えなくなる。降ろし難いものを降ろすことができる、これを梵志（ぼんじ）という。

如彼行人興無涯之想、散無邊之念，身形在此心在海表，人欲觀意知其形狀者甚為難剋。心意流馳彈指之頃，過數千萬億江河山表，是以故說遠逝獨遊。復有問者，心有十大地法，心為十一，何以故說遠逝獨遊乎？報曰：「心者恒逐因緣隨前任行，當心在色聲，爾時無有香味細滑法；當心在香，爾時無有色味細滑法；心在味，無色香細滑法；心在細滑，爾時無色聲香味法；心在法，無上五事。當在色時心為法本，猶如王行羽儀賓從無不備有。但以王為名。此亦如是，心造因緣十法備有但不受名，亦如飛鳥飛行空中依其六翮，然但以鳥為名。此亦如是，心之無形亦無窠窟，非是世人肉眼所見，依止五陰，陰散則離非有形質，心之難化猶木鑽鋼。是以聖人遺教後生，欲降伏心者，晨用百藥中用百藥暮用百藥，空無相願止觀滅盡，用療心病使得除愈，能具此者故曰梵志。」是故說曰，遠逝獨遊，隱藏無形，難降能降，是謂梵志。

> 心が遠くへ行き、ただ独りでさまようというのは、たとえば修行者が限りない想いを起こし、果てしない念いを散らすようなものである。体はここにあっても心は海の向こうにあり、その形や姿を思い描いて知ろうとするのは、きわめて難しい。心の流れは指を弾くほどの一瞬に、数千万億もの川や山を越えていく。だからこそ「遠逝独遊」（遠くへ去り、独りで遊ぶ）と言うのである。 また、ある人が問うた。「心には十の大地法があり、心を加えれば十一となる。なぜ『遠逝独遊』と言うのですか」と。これに答えて言った。「心はつねに因縁を追い、その前にあるものに従って進む。心が色や声にあるとき、そのとき香・味・細滑・法はない。心が香にあるとき、そのとき色・味・細滑・法はない。心が味にあるとき、色・香・細滑・法はない。心が細滑にあるとき、そのとき色・声・香・味・法はない。心が法にあるとき、以上の五つのものはない。色にあるとき、心は法の根本であり、それはちょうど王が行進するとき、護衛も従者もすべて備わっているようなものである。しかし王の名をもって呼ばれるだけである。これも同じことで、心が因縁を造るとき十の法がすべて備わっているが、その名を受けない。ちょうど飛鳥が空を飛ぶとき、その六枚の羽根によるのであるが、ただ鳥の名をもって呼ばれるだけである。これも同じである。心には形がなく、また住みかもない。世間の人の肉眼で見ることはできない。五陰に依って止まっており、陰が散れば離れて、もはや形のあるものではない。心を変えることは、木で鋼を鑽るように難しい。だからこそ聖人は後の世の者のために教えを遺された。心を降伏させようと願う者は、朝に百の薬を用い、中に百の薬を用い、暮に百の薬を用いる。空・無相・願、止・観・滅尽を用いて、心の病を癒やし、除き去って快復させる。これを具えることができる者を、それゆえ梵志と言うのである。」 こういうわけで、「遠くへ去り独りで遊び、隠れて形がなく、降伏しがたいものを降伏させる、これを梵志と言う」と説かれたのである。

無色不可見， 此亦不可見，解知此句者， 念則有所由，覺知結使盡， 是世最梵志。

> 形も色もなく、目に見えるものもない。 これもまた、目に見えるものではない。 この句の意味を理解する人は、 その思いに確かなよりどころがある。 煩悩の束縛が尽きたことを悟った人こそ、 この世で最も優れた修行者である。

無色不可見者，何者？心也。夫心興患與身招殃，猶若象馬剛強𢤱戾不調，有目之士加於捶杖，使知楚痛，然後調良。人心為患，牽致地獄餓鬼畜生，雖得為人處在卑賤，顏色醜陋為人所嫉。是故說曰，無色不可見，此亦不可見。解知此句者，念則有所由，覺知結使盡，是世最梵志。諸佛世尊所以出世者，正欲降此弊惡之心，諸佛世尊慈慜一切，弘慈普蓋靡所不照，雖處於世無所染著。

> 色も形もないもの、それは何か。心です。心がわざわいを起こし、身体に災いを招くのは、ちょうど象や馬が頑固で荒々しく、手に負えないようなものです。目のある人は鞭や杖を加えて、痛みを知らせてから、ようやく素直にします。人の心もまたわざわいとなり、地獄・餓鬼・畜生へと引きずり込み、たとえ人として生まれても卑しい立場に置かれ、容貌は醜く、人から憎まれます。だからこう説きます。「色も形もない、見ることもできない」と。この句を理解する人は、思いにその由来があることを知り、煩悩が尽きたことを悟ります。これが世の中で最も優れた修行者です。諸仏世尊が世に現れるのは、まさにこの悪しき心を降伏させるためです。諸仏世尊はすべてを慈しみ、その広い慈悲はあまねく覆い、照らさないものはありません。世にありながらも、何ものにも汚されず執着しません。

斷生死河， 能忍超度， 自覺出壍，是謂梵志。

> 生死の流れを断ち切り、よく耐え忍んで超越し、自ら悟って堀を出た者、これを梵志と呼ぶ。

如彼行人為五欲所繫，流轉生死之河，要須大聖指授權宜，從此岸得至彼岸。如來降形非事不豫，要接有緣後乃滅度。壍者憍慢之壍，能度此壍不為憍慢所繫。能具此者故名為梵志。是故說曰，斷生死河，能忍超度，自覺出壍，是謂梵志。

> 修行する人が五欲に縛られ、生死の川を巡り流れているとき、偉大な聖者の導きがなければ、この岸からあの岸へ渡ることはできません。如来が姿を現されたのは、意味のないことではなく、ご縁ある人々を救うためであり、その後で涅槃に入られました。堀とは驕りの堀のことです。この堀を越えられる人は、驕りに縛られることがありません。これを備えた人を梵志と呼びます。それゆえにこう説かれます。生死の川を断ち切り、よく耐え忍んで超え渡り、自ら堀を出る、これを梵志と呼ぶのです。

當求截流渡， 梵志無有欲，內自觀諸情， 是謂為梵志，能知如是者， 乃復為梵志。

> 流れを断ち切って彼岸に渡ることを求め、清らかな修行者にはもはや欲望がない。 自らの内なる心の動きをよく観察する、これこそが清らかな修行者である。 このことをあるがままに知ることができる者こそ、真に清らかな修行者なのだ。

如彼行人不斷愛流四駛四淵者，進趣於道不亦難乎？如河暴溢必有所傷，梵志貪欲死趣惡道。是以如來誡以除貪，與說欲本污穢不淨，當斷諸邪使不流馳。能具此眾行者故名為梵志。是故說曰，當求截流渡，梵志無有欲，內自觀諸情，是謂為梵志，能知如是者，乃名為梵志。

> 愛の流れを断ち切れない人は、四つの激流と四つの深淵を越えて道を進むことは、やはり難しいのではないでしょうか。川が氾濫すれば必ず傷つくものが出るように、修行者も貪欲であれば死後には悪い世界へと向かいます。ですから如来は貪りを除くようにと戒め、欲望の根源が汚れていて不浄であると説き、さまざまな邪な心を断って流れ漂わないようにさせます。これらの行いをすべて備えた人を、修行者と呼ぶのです。それゆえにこう説かれました――流れを断ち切って渡ることを求めよ、修行者には欲望がない、内に自らの心を観よ、これが修行者である、このことを知る者は、まさに修行者と呼ばれるのです。

先去其母， 王及二臣， 盡勝境界，是謂梵志。

> まずその母を捨て、 王と二人の臣下は、 国境をすべて制した。 これが梵志である。

先去其母者，愛心流馳以為源本，無漏意識能去斯病使盡無餘。王者我慢也，二臣戒盜身見。盡勝境界者，一切諸結使，能去眾結之患。故曰為梵志。是故說曰，先去其母，王及二臣，盡勝境界，是謂梵志。

> まず母を除くとは、愛する心が流れ走ることが根源となっているので、無漏の意識はこの病を取り除き、完全に残りなくすことができます。王とは我慢であり、二人の臣とは戒と盗と身見です。境界に完全に勝つ者とは、すべての煩悩の束縛であり、多くの束縛の患いを取り除くことができます。それゆえ梵志と言います。したがって説かれています、まず母を除き、王と二人の臣、境界に完全に勝つ、これが梵志であると。

不捶梵志， 不放梵志， 咄捶梵志，放者亦咄。

> 梵志を打たず、 梵志を放さず、 いま梵志を打つ、 放す者もまた叱る。

所謂梵志者，得阿羅漢道，不得以手捲刀杖加彼真人，不放梵志者，此是真人，恒當供養衣被服飯食床臥具病瘦醫藥，四事供養令不減少。咄捶梵志，行惡之人，放者亦咄，復是惡人，不留供養飲食床臥具病瘦醫藥，能具此行故名為梵志。是故說曰，不捶梵志，不放梵志，咄捶梵志，放者亦咄。

> いわゆる梵志とは、阿羅漢の道を得た者である。手で刀や杖を巻いて、その真人に加えてはならない。梵志を放たない者、これも真人であり、常に衣被・飯食・床臥具・病瘦の医薬を供養し、四事の供養を減らしてはならない。梵志を打ち叩く者は悪行の人であり、放つ者もまた悪人であり、飲食・床臥具・病瘦の医薬を留めて供養しない。よくこの行を具えるゆえに、これを梵志と名づける。それゆえに説いて言う、梵志を打たず、梵志を放たず、梵志を打つ者は悪人、放つ者もまた悪人である、と。

諸有知深法， 不問老以少，審諦守戒信， 猶祀火梵志。

> 深い法を知る人は、老若を問わず、 戒と信を確かに守る。あたかも火を祀るバラモンのように。

昔佛在世周旋教化。時諸比丘不廣多聞，爾時世尊便作是念：「今諸比丘多有懈怠意不精懃，復自觀察當來過去三世之事，知當來世當有比丘，嫉妬恚癡不順道教，便興誹謗損如來法輕慢於師，亦復不敬說法之人。」是以世尊觀察後世遺法中間，恐有老少共相上下尊卑不別，老恃耆艾少恃聰叡。老者自陳：「吾所目覩，非卿所知，汝今所見如螢火虫。」少者自陳：「老頓嚚鹵，情喪心塞，知何可歸？」如來教曰：「當自守戒，猶若事火梵志五處然火，晝夜承事不失時節，香華繒綵事事供養。」是故說曰，諸有知深法，不問老以少，審諦守戒信，猶祀火梵志，歸命人中尊，亦如事火神。

> 昔、仏が世におられた頃、教えを広めて人々を導いておられた。当時の比丘たちは広く多くを聞くことがなく、そこで世尊はこのようにお考えになった。「今の比丘たちには怠け心が多く、精を出して励んでいない。また自ら過去・現在・未来の三世のことを観察して、未来の世には比丘がいて、嫉妬や怒りや愚かさから教えに従わず、誹謗を起こして如来の法を損ない、師を軽んじ、法を説く人をも敬わないであろうことを知られた。」 そこで世尊は後の世の遺法の中間を見通して、老いも若きも互いに上下をつけ、尊卑の区別がなくなり、老人は年長であることを頼み、若者は聡明さを頼みとすることを恐れられた。老人は自ら述べる。「私が目の当たりにしたことは、お前には分かるまい。お前の見るものは蛍の火のようなものだ。」若者は自ら述べる。「老人は愚かでぼんやりしており、心も塞がっている。何の頼りになろうか。」 如来は教えて仰った。「自ら戒を守りなさい。ちょうど火を祀るバラモンのように、五つの場所で火を燃やし、昼も夜も絶えず世話をして時節を違えず、香や花や布や飾りで何事も供養するようにしなさい。」それゆえに説いて言う。深い法を知る者があれば、老いたか若いかを問わず、戒と信を確かに守りなさい。ちょうど火を祀るバラモンが火の神に仕えるように、人中の尊き方に帰依しなさい。

諸有知深法， 等覺之所說，審諦守戒信， 猶祀火梵志。

> 深い法を知る人々は、悟りに等しい方の説かれた教えを、よく見極めて守り、戒を保ち、信を抱きます。それはちょうど、火を祀るバラモンたちのように。

如來出現，億千萬劫時時乃出，遭賢遇聖實不可得，人能守戒信不失儀，如祀火梵志。昔佛在世誡諸比丘：「自今以後不得誦外書外道異學所誦習者。何以故？彼所陳說非真正義，亦復不是至道之本。」是故說曰，諸有知深法，等覺之所說，審諦守戒信，猶祀火梵志，真誠歸命佛。

> 如来がこの世に現れることは、億千万劫という長い年月のうち、ほんの時折のことです。賢者に巡り会い、聖人と出会うことは、実に得がたいことです。人が戒めを守り、信仰を保ち、礼儀を失わないならば、それは火を祀るバラモンの行者にも似ています。昔、仏がこの世におられたとき、比丘たちに戒められました。「今より後、外典や外道の異学が唱える書物を読んではならない。なぜか。彼らが説くところは真実の義ではなく、また至道の根本でもないからだ。」それゆえにこう説かれました。深い法を知る者たちは、等覚者が説いたとおりに、真理を見極めて戒めを守り信仰を保つ。それはちょうど火を祀るバラモンの行者のように、真摯に仏に帰依することです。

於己法在外， 梵志為最上，一切諸有漏， 皆盡皆無餘。或復觀於痛， 皆盡皆無餘，或復觀合會， 皆盡皆無餘。或復觀因緣， 皆盡皆無餘。

> 自分の法を外に求める者の中では、梵志が最も優れている。 すべての煩悩は、ことごとく尽きて余りがない。 あるいはまた痛みを観じて、ことごとく尽きて余りがない。 あるいはまた合会を観じて、ことごとく尽きて余りがない。 あるいはまた因縁を観じて、ことごとく尽きて余りがない。

於己法在外者，彼脩行人觀了一切眾法，無事不關無事不知，猶若梵志知天文地理星宿災變皆悉觀了，一切諸漏皆盡無餘。觀諸苦痛若好若醜，皆歸於盡，觀其合會必有離別，因緣暫有亦復歸滅。

> 修行する者は、自分自身の法においても外にあるものにおいても、あらゆる現象をよく観察します。知らないことは何もなく、関わりのないことは何もありません。ちょうどバラモンが天文や地理、星の宿りや災いの変化をすべて見通すかのようです。すべての煩悩の漏れは完全に尽きて、何一つ残りません。さまざまな苦しみが良いものであれ醜いものであれ、すべては滅びに帰すると観察します。集まり会うものは必ず別れがあると観察し、因縁によって仮に存在するものもまた滅びに帰するのです。

猶若內法本， 梵志為在表，若使共床褥， 如彼婆鉤盧。

> たとえば、自分の教えの中にある法のように、梵志が外に現れているとしても、もし同じ床や褥を共にするならば、それはあの婆鉤盧のようなものである。

所謂內法者，四諦真如一一分別不失次緒，梵志於內則謂為表。是故說曰，猶若內法本，梵志為在表。若使共床褥，如婆鉤盧者。此婆鉤盧比丘出家以來，未曾與人說四句之義，正使與共同坐不聞說其正法，從生至老八十一鉢和藍，未曾畜沙彌弟子及餘使人，若為人鮮潔託志虛無繫意玄寂。是故說曰，若使共床褥，如彼婆鉤盧。

> いわゆる内なる法とは、四諦の真理を一つ一つ見分けて秩序を失わないことです。梵志はこれを内なるものとして表すと言います。だからこう説かれます、「ちょうど内なる法の根本のように、梵志はそれを表す」と。たとえ床を共にしても、婆鉤盧のような者であれば、この婆鉤盧という比丘は出家して以来、人に四句の教えを説いたことがなく、たとえ共に座っていてもその正しい法を聞くことがありませんでした。生まれてから老いるまで八十一回の安居を過ごしましたが、沙弥の弟子や召使いを養ったことは一度もなく、人と接するときは清らかで、志を空に託し、心を深い静けさにつなぎとめていました。だからこう説かれます、「たとえ床を共にしても、かの婆鉤盧のようである」と。

猶如內法， 梵志在表， 知生知老，轉當至死。

> あたかも内なる法のように、梵志は外に現れ、生を知り老いを知り、やがて死に至ることを知る。

所謂內法者不誑惑人，一向而無傾，一向而無邪，唯有如來能越此境界，以盡其生更不受有，如實知之。是故說曰，猶若內法，梵志在表，知生知老，轉當至死。

> いわゆる内なる法とは、人を欺いたり惑わせたりすることなく、ただひたすらに傾くことなく、ひたすらに邪なることのないものである。ただ如来だけがこの境地を超えることができ、生を尽くして再び存在を受けることがなく、ありのままに知っておられる。それゆえにこう説かれる――ちょうど内なる法のごとく、梵志は外にあって、生を知り老いを知り、やがて死に至ることを。

日照於晝， 月照於夜， 甲兵照軍，禪照道人， 佛出天下， 照一切冥。

> 太陽は昼を照らし、月は夜を照らし、鎧と武器は軍を照らす。 禅は修行者を照らし、仏が世に現れると、すべての闇を照らす。

日照於晝者，當日天子初出之時，放億百千萬光明，使星宿月光無復光明；若復日沒之時，月及星宿皆共競明，俱有所照其明不同。猶若大將之士兩敵相向，揚威奮武決戰勝負，震赫精刃鍾皷雷鳴。禪定之人移山飛岳海水揚塵手捫日月，有此神力不自稱譽。方此諸人雖有此德，不及如來。佛出世間眾相具足，放大光明靡所不照，光明所及晝夜不絕，其見光者聾盲瘖瘂考掠苦痛自然休息。是故說曰，如日照於晝，月照於夜，甲兵照軍，禪照道人，佛出天下，照一切冥。

> 太陽が昼を照らすとき、日天子が昇り始めると、億百千万の光を放ち、星や月の光はかえって見えなくなる。また日が沈むと、月と星がともに競うように輝き、それぞれ照らすところはあっても、その明るさは同じではない。ちょうど大将が二人の敵と向かい合い、威を張り武を奮って勝負を決しようとし、精鋭の刃と鐘鼓が雷のように鳴り響くかのようである。禅定に入った人は山を移し岳を飛ばし、海水を揚げて塵とし、手で日月を撫でることができる。このような神力を持ちながらも、みずから誇ることはない。しかしこれらの人々がこのような徳を持っていても、如来には及ばない。仏が世に出現されると、すべての相を具え、大いなる光明を放ち、照らさないところはない。光明の及ぶところは昼夜絶えることがなく、その光を見る者は、耳の聞こえぬ者も目の見えぬ者も声の出ぬ者も、責め苦の痛みが自然に休息する。それゆえに説くのである。日のごとく昼を照らし、月のごとく夜を照らし、鎧と兵は軍を照らし、禅は道の人を照らし、仏が天下に出でて一切の冥きを照らす、と。

梵志無有是， 有憂無憂念，如如意所轉， 彼彼滅狐疑。

> 迷いを抱く人には、憂いがあるとか無いとかいう考えはありません。 心がままに動くままに、あちらの人もこちらの人も、疑いを滅ぼすのです。

梵志無有是，意著於殊妙之法，見樂不以為喜，見憂不以為慼，如如意所轉恒自念善，彼彼自滅惡，得習聖諦分別諸使。是故說曰，梵志無有是，有憂無憂念，如如意所轉，彼彼滅狐疑。

> 修行を志す者には、次のようなことはない。心がすぐれた教えにとらわれて、楽しいものを見ても喜ばず、憂いごとを見ても悲しまない。心のままに移り変わりながら、いつも善を念じ、あれこれと悪を自ら滅ぼし、聖なる真理を学んで諸々の煩悩をはっきりと見分ける。それゆえにこう説く。修行を志す者には、次のようなことはない。憂いがあろうとなかろうと、心のままに移り変わりながら、あれこれと疑いを滅ぼすのである。

出生諸深法， 梵志習入禪，能解狐疑網， 身知其苦痛。

如來等正覺初成佛時，七日之中禪定正受思惟十二因緣，一一分別知起知滅。爾時如來即從三昧起而說斯偈：

「出生諸深法， 梵志習入禪，能解狐疑網， 身知其苦痛。

「如我所習積行所致，今日成等正覺實而不虛。」梵志習入禪，去諸惡法悉壞狐疑網，於諸深法得無礙智，所念自在深知苦際，深知因緣合數之法權詐非實。略誦其要，當觀因緣法，復當觀盡法，一切諸法皆由合數，一切諸法皆由於痛，當知盡滅不造有漏。

出生諸深法， 梵志習入禪，遍照一切世， 猶日在虛空。

法能成人非法不就，晝夜思惟不去胸懷，身口意行不妄有犯，能成就如此法，便能照一切法。以己所得盡施眾生，猶若明日處在虛空普有所照，其有覩者莫不蒙光。是故說曰，出生諸深法，梵志習入禪，遍照一切世，猶日在虛空。

出生諸深法， 梵志習入禪，能却魔眾敵， 如佛脫眾垢。

出生諸深法者，如來成等正覺，具足三十七道品之法，身口意行與無漏相應，降伏魔怨進却時宜，如來等正覺脫一切結使。

## 出曜經卷第三十