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title: "無明慧經禪師語錄 · 開堂"
description: "無明慧經禪師語錄是明代曹洞宗高僧無明慧經的語錄彙編，由其法嗣元賢禪師重新編纂。該書成書於晚明時期，記錄了慧經禪師的開示、法語、機鋒對答及書信等內容，集中體現了其直指人心、強調實修的禪法思想。作為曹洞宗中興的重要人物，慧經禪師的語錄不僅是研究其個人思想與明代禪宗發展的關鍵文獻，也對後世禪修者具有重要的指導意義，在中國禪宗史上佔有重要地位。"
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### 開堂

> 開堂

若論此事。三世諸佛口挂壁上。諸大祖師一切聖賢慙愧無門。何則。本分天然。豈落言說。故世尊說法四十九年。末後云。初從鹿野苑。終至䟦提河。於是二中間。未嘗有一字。山僧斗膽今日冐登此座。濫受大眾殷勤。畢竟成得箇甚麼邊事。直是專為臨濟大師雪屈。初問黃蘗如何是佛法大意。蘗賜棒。師云師資分上則可。二次又賜棒。師曰為道之人當如是乎。三次又棒。此即不堪。彼時合云。太多生。無用處。若黃蘗再棒。合掣下抝折擲於地上。非惟增麗黃蘗門風。亦乃光揚靈山會上正法眼藏。大眾會麼。父嚴子敬理當然。誰覺能男奪父權。不信蘗師遭一掌。大愚肋下喫三拳。然雖如此。須是臨濟大師始得。其或亂統。入地獄如箭射。

> さて、この一大事について論ずるならば、三世の諸仏も口を壁に掛けたままである。歴代の祖師たち、一切の聖賢も、恥ずかしくて言葉を出す場がない。なぜか。本来の自己は自然そのものであり、どうして言葉や説明に落ちるものがあろうか。それゆえ、世尊は四十九年の間説法されたが、最後にこう仰せられた。「初めに鹿野苑から、終わりに跋提河に至るまで、この二つの間において、未だかつて一字も説かれたことはない」と。 山僧は厚かましくも、今日この座に登り、大衆の厚意を濫りに受けることになった。一体、これで何が成就するというのか。まさしく、ただ臨済大師の無念を晴らすためだけである。 大師が初めに黄檗に「仏法の大意とは何か」と問われた時、黄檗は棒を打たれた。大師は「師資の分際においては、それでよいでしょう」と言われた。二度目にもまた棒を打たれ、大師は「道を求める者が、このようなものでしょうか」と言われた。三度目にもまた棒を打たれ、これはさすがに堪え難かった。 その時こそ、「多すぎます。役に立ちません」と言うべきであったのだ。もし黄檗がさらに棒を打たれたなら、その棒を奪い取って、真っ二つに折って地に投げ捨てるべきであったのだ。 そうすれば、ただ黄檗の門風を一段と輝かせるだけでなく、霊山会上の正法眼蔵をも、見事に顕揚したことであろう。 大衆よ、解るか。 父が厳しく、子が敬うのは、当然の道理である。 だが、誰が気づくであろうか、優れた子が父の権威を奪うことを。 黄檗が掌で打たれたとは信じがたいが、 大愚の脇の下で、拳を三度食らったのだ。 とはいえ、これは臨済大師にして初めてなし得たことである。もしやみくもに真似ようものなら、地獄に落ちること、矢の如く速しである。