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title: "憨山大師年譜疏註 · 五十一歲至六十歲"
description: "憨山大師年譜疏註由福善記錄、福徵述疏，成書於明末清初。該書以年譜形式詳實記述了明代高僧憨山德清大師的生平事跡，包括其求法經歷、弘法事業以及與皇室和士大夫的交往。內容涵蓋大師的修行體悟、著作講解以及對禪宗思想的闡釋，並附有註疏者對重要事件的考證與解讀。作為研究憨山大師思想與明代佛教史的重要文獻，該書不僅是了解大師生平權威史料，更是探討晚明佛教復興運動及禪淨雙修思想發展的核心典籍，在漢傳佛教史上具有崇高地位。"
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## 憨山老人年譜自敘實錄疏卷下

> 憨山老人年譜自叙実録疏<note>巻下</note>

二十四年丙申●

> 二十四歳、丙申の年。

予五十一歲．春正月．過文江訪鄒給諫。廬陵大行王性海．禮予於江上．請註楞伽。二月度大庾嶺．至嶺頭．觀慧明奪袈裟處．以詩弔之。有翻思昔日宵行客．何似今朝度嶺心之句。因見行人汗血．乃囑一行者．立捨茶庵於嶺頭。見路崎嶇難行．令道者勸修之．不數年為坦途。至韶陽．入山禮祖。飲曹溪水．偈曰．曹溪滴水自靈源．流入滄溟浪拍天。多少魚龍從變化．源頭一脈尚泠然。見祖庭凋敝不堪言．遂淒然而去。抵五羊．囚服見大將軍．將軍為釋縛．款齋食．寓海珠寺。時大參周鼎石公．講陽明之學．率門生數十人過訪。坐間．周公舉通乎晝夜之道而知．發問頭。比眾中有一稱老道長者．答云人人知覺．日間應事時是如此知．夜間做夢時亦是此知．故曰通乎晝夜之道而知。周公曰．大家都是這等說．我心中未必然。乃問予曰．老禪師．請見教。予曰．此語出何典。公曰．易之繫辭．連念數句。予曰．此聖人指示人．要悟不屬死生的一著。周公擊節曰．直是老禪師指示得親切。眾皆罔然．再問．周公曰．死生者．晝夜之道也．通晝夜．則不屬晝夜耳。一座歎服。先是．諸護法者．以書通制府大司馬陳公．遣郵符津濟之。三月十日抵雷州．著伍．寓城西之古寺。夏四月一日．即開手註楞伽經。時歲大饑．疫癘橫發．經年不雨．死傷不可言。予如坐屍陀林中．以法力加持．宴如也。時旱．井水枯竭．唯善侍者相從．每夜半．候得水一罐．以充一日．餓夫視之．得一滴．如天甘露也。城之內外．積骸暴露。秋七月．予與孝廉柯時復．勸眾收拾埋掩骴骼．以萬計。乃作濟度道場．天即大雨．平地水三尺．自此厲氣解。八月．鎮府檄還五羊．寓演武場．時往來作從軍詩二十首。初過電白之苦藤．嶺道之門戶也．乃作銘．建捨茶庵。豫章丁大參右武．以誣謫廣海．至．素相慕．遂莫逆。文江鄒給諫．廬陵王大行性海．大將軍．無姓．大參周鼎石．制府大司馬陳公．孝廉柯時復．丁大參右武．各一見。善侍者．即福善．三見。鄒給諫．名元標．號南皋．江西吉水人．萬曆丁丑第進士。即廷論張相居正．奪情．謫戍七年．起補吏科．歷左都御史。周鼎石．即後海門．名汝登．字繼元．浙江嵊縣人。陳公．名大科．字思進．揚州人。

> 私は五十一歳の年の春、正月に文江を訪れて鄒給諫に会いました。廬陵の大行である王性海が、江上で私を礼して、楞伽経の注釈を請いました。二月には大庾嶺を越え、嶺の頂上で慧明が袈裟を奪った場所を見て、詩を詠んで弔いました。「思い返せば昔の宵の客、いずくんぞ今朝の嶺を渡る心に如かんや」という句があります。行者の汗と血を見て、一人の修行者に託し、嶺の頂に茶庵を建立させました。道が険しく歩きにくいのを見て、道者に命じて修理を勧め、数年後には平坦な道となりました。 韶陽に至り、山に入って祖師を礼拝しました。曹溪の水を飲んで、偈を詠みました。「曹溪の滴水は自ら霊源より、流れ入りて滄溟に至れば浪は天を打つ。多くの魚龍変化より来たるも、源頭の一脈はなお冷ややかなり」。祖庭の荒廃が言葉に尽くせないほどであるのを見て、悲しみながら去りました。五羊に到着し、囚人の服を着て大将軍に面会しました。将軍は私の縄を解き、丁寧に食事をもてなし、海珠寺に滞在させました。 その時、大参の周鼎石公が陽明学を講じており、門人の数十人を率いて訪ねてきました。座中で周公が「昼夜の道に通じて知る」という言葉を挙げて、質問を投げかけました。その場にいた一人の老道長と呼ばれる者が答えて言いました。「人は皆、知覚を持っています。昼間に物事に対応する時の知覚がこれであり、夜に夢を見る時の知覚もまた同じ知覚です。ゆえに『昼夜の道に通じて知る』と言うのです」。周公は言いました。「皆がそのように言いますが、私は心の中でそうは思いません」。そして私に尋ねました。「老師、ご教示ください」。私は答えました。「この言葉はどの経典から出ましたか」。公は「『易経』の繋辞伝です」と言い、幾つかの句を続けて読みました。私は言いました。「これは聖人が人々に、生死を超越した一着を悟らせるよう示したものです」。周公は拍手して言いました。「実に老師のご指摘は親切でございます」。皆は呆気に取られて、さらに尋ねました。周公は言いました。「死生というのは、昼夜の道のことです。昼夜に通じるならば、それは昼夜のものではないのです」。一座の人々は感嘆しました。 これに先立ち、護法の皆さんが書簡を制府大司馬陳公に送り、駅伝の継ぎ札を送って旅を助けてもらいました。三月十日に雷州に到着し、伍に編入され、城西の古寺に寓居しました。夏の四月一日には、すぐに楞伽経の註釈に着手しました。その年は大飢饉で、疫病がはやり、一年中雨が降らず、死傷者は言うまでもありません。私はあたかも屍陀林の中に座っているかのようでしたが、法力をもって加持し、静かに過ごしました。旱魃のため井戸の水は枯れ、ただ善侍者だけが従い、毎晩半夜に水を一罐得て、一日分としました。飢えた人々はこれを見れば、一滴を天の甘露のようだと見なしました。 城の内外は屍骨がさらされていました。秋七月、私は孝廉の柯時復と共に、人々に勧めて死体や骨を収集埋葬させ、その数は万に及びました。そこで済度の道場を作ると、天はすぐに大雨を降らせ、平地に水が三尺もたまり、これにより疫気は解消されました。八月、鎮府から五羊に戻るよう命じられ、演武場に寓居し、その折に往復して従軍詩二十首を作りました。 初めに電白の苦藤を過ぎましたが、それは嶺道の門戸でした。そこで銘文を作り、捨て茶庵を建立しました。豫章の丁大参右武が、誣告により広海に左遷され、到着しました。以前から互いに敬慕しており、非常に親しくなりました。

徵觀憨祖前未上臺山．先入少林禮初祖。此未抵雷州．先入曹溪禮六祖。法緣是主．世緣是客。法緣無大．一往參祖註經。法緣無小．到處捨茶掩骼。

> 憨山大師は、まだ五台山に登る前に、まず少林寺に入り初祖（達磨大師）を礼拝しました。また、雷州に到着する前に、まず曹溪に立ち寄り六祖（慧能大師）を礼拝しました。 法の縁が主であり、世の縁は客です。法の縁に大小はなく、ひたすら祖師を訪ね、経典の注釈を書きました。法の縁に軽重はなく、あらゆる場所でお茶を施し、遺骨を葬りました。

二十五年丁酉●

> 二十五年、丁酉の年。●

予五十二歲．春正月．時會城死傷多．骸骨暴露．予因令人收拾埋掩．亦數千計．乃建普濟道場七晝夜．丁右武．身為之佐。先是．粵人不知佛．自此翕然知歸。夏四月．楞伽筆記成．因諸子有歸依者．未入佛理．故著中庸直指以發之。初上下見予為罪僧．甚易之。時制臺大司馬．如岡陳公．法極嚴．無敢私詣者。先因有談者．予未往見．即遣人候之甚勤。是年九月．同右武往詣之．及門．役報．止之。及回．是晚親往拜予於舟中．攜茶食．坐談．漏三下．人皆驚異。後對諸當道．極稱之．曰．僧中麟鳳也．即諭三司往拜之。自是．嶺南皆知僧為重矣。丁右武．如岡陳公．皆再見。

> 私は五十二歳の春の正月、当時、城では死傷者が多く、遺骨が露出していた。そこで私は人を集めて遺骨を収拾し埋葬させた。その数も数千に及んだ。それから七日七晩にわたる普済道場を建立した。丁右武が自らその助手を務めた。それ以前は、広東の人々は仏教を知らなかったが、このことから皆がこぞって帰依するようになった。 夏四月、楞伽筆記が完成した。帰依を志す者たちがいたが、まだ仏教の道理に入っていなかったため、中庸直指を著して彼らを啓発しようとした。当初、上下の人々は私を罪を犯した僧侶と見なし、非常に軽んじていた。当時、制台大司馬の如岡陳公は法が極めて厳しく、私的に訪問する者は誰もいなかった。先に私について話す者があり、私はまだ訪ねていなかったが、すぐに人を派遣して非常に熱心に待たせていただいた。この年の九月、右武と共に彼を訪ねたが、門に着くと役人が止めて、引き返した。その夜遅く、彼が自ら私を舟に訪ね、茶と食べ物を持参し、座して語り合った。時計が三度打つまで話し込み、人々は皆驚き怪しんだ。その後、彼は関係する役人たちに対して、私のことを大いに褒め称え、「僧の中の麒麟や鳳凰のようなものだ」と言って、三司に命じて私を拝謁させるように指示した。これ以来、嶺南の人々は皆、僧侶が重要であることを知るようになった。 <note>丁右武、如岡陳公、ともに再び現れる。</note>

徵錄憨祖外紀有云．初來謁某總府．持謁庭下．移時不命起去。心解得．應自呼名稟見耶．顧不能出諸口．如千鈞重．無可柰何．時奮自稱名某稟見．乃得起去。明日參謁．復然竟一歲不少假借。旁謂．武人何知破常格待知識也。最後．約同謁撫院日．總府備一舟．裝齋飯果品如賓席．邀請過舟．作禮揖上坐．曰．非我不能假借公．知公有傲骨．聊以相成也．歡談促膝以別。乃歎宰官中．大有深心人在．何問武弁耶。徵疑此事．在陳制臺如岡公折節前則異．在如岡右武時．猶是武弁情態也。聞當日在行伍．名蔡德清．蓄髮．留長髯．便中戴東坡巾。自五十歲遣戍日始．至六十九歲．始對聖母靈主披剃．去髯髮．返僧服。又外紀有云．在嶺南時．人情未熟．崖岸在．不能使人狎．無可親者。有小孩兒欲近之．輒畏我去。一日．學獅子調兒法．勉自倒身昵狎之．與之果蓏．日狎一日．遂不我畏．自此人不我避忌．日來親也。徵知此至人孩世之思．自得力老子來。所謂天下皆嬰兒．我亦與之為嬰兒也。而吾儒仁愛我佛慈悲．亦不離此。

> 「憨祖外紀」にこうある。初めてある総府を訪ねた時、名刺を門で差し出しても、なかなか通してもらえなかった。しばらく待たされた後、ようやく呼び入れられた。内心では「自分の名を名乗って面会を願い出るべきか」と思ったが、言葉が喉につかえてどうしても出てこない。それはまるで千斤の重みのようで、どうにもならなかった。やっと勇気を奮い起こし「某が面会を願います」と自ら名乗って、ようやく通してもらえた。翌日も同じだった。それが一年もの間、少しの猶予もなく続いた。周りの者は「武人に何がわかる？おかしな習慣で知識人を遇している」と言った。最後に、一緒に撫院を訪ねる約束をした日、総府は一艘の船を用意し、中には賓客をもてなす膳や果物が並べてあった。憨祖を船に招き入れ、礼をして上座にすすめ、こう言った。「私でなければ、あなたにそんなに厳しくしなかったでしょう。あなたに傲骨があると知っていたので、あえて試したのです。」そして膝をつき合わせて楽しく語り合い、別れた。憨祖は嘆じた。「役人の中にも、深い心を持つ人がいるものだ。武人だからといって軽んじるべきではない。」この話は、陳制台の如岡公が自ら折れて接した以前、あるいは如岡が武人として振る舞っていた時は、彼は武人らしい態度だった。聞くところによると、当時は軍籍にあり、名を蔡徳清といい、髪を伸ばし、長いあごひげを蓄え、東坡巾をかぶっていた。五十歳で流罪に処せられてから、六十九歳になってはじめて聖母の霊位の前で剃髪し、髪とひげを落とし、僧衣に戻ったのだという。また『外紀』にこうある。嶺南にいた時、まだ土地の者たちに馴染めず、どこかとっつきにくい雰囲気があり、誰も近づこうとしなかった。近づきたいと思う子どもでさえ、私を見ると怖がって逃げてしまった。ある日、獅子が子を育てる方法を思い出し、無理にでも自分から身をかがめて子どもに親しみ、果物を与えた。そうするうちに、日を追うごとに子どもは私を怖がらなくなり、やがて誰も私を避けなくなり、日々親しく接してくれるようになった。私は知った。この聖人は世の中を赤ん坊のように見なす考えを持っておられたのだ。それは老子から培われたものに違いない。『天下皆な嬰児なり、我も亦これと与に嬰児と為る』というのは、そのままこのことだ。そして我ら儒者の仁愛や我ら仏陀の慈悲も、この境地を離れてはありえない。

二十六年戊戌●

> 二十六年、戊戌の年。

予五十三歲．春正月時侍御友軒樊公．以建儲持議．謫雷陽。初訪予於五羊．予校楞伽稿．公問予．雷陽風景何如．予拈經卷示之曰．此雷陽風景也。公歎異．即為疏募刻之。海門周公．任粵臬鹽道時．問道往來因攝南韶．囑修曹溪志。粵士子．向不知佛．適周公闡陽明之學．及集諸子問道於予．有龍生璋者．聞予議論．心異之。歸謂其友王生安舜．馮生昌曆．曰．北來禪師．說法甚奇。二子俱來請益．予開示以向上事．諦信不疑．切志參究。二生素有德業者．相率歸依法門者日益眾．自是始知有佛法僧矣。此後法化大開．三生之力也。每憶達師許經之願．酬之未便也。其夏．始構禪室於壘壁間．將擬大慧冠巾說法．乃集遠方舊依弟子．性融．如乾等．法性菩提樹下弟子．通岸．超逸等．數十人．誦法華經．為眾說之至現寶塔品．忽悟佛意．要指娑婆人人目前即華藏也。然須三變者．特為劣根．漸示一斑耳．遂著法華擊節。右武性急烈．負慷慨．知敬僧．而不知佛法。將歸．予送之舟中．重下鉗錘．公翻然大悟．乃字之曰覺非居士示之以銘．及作澄心銘以警之。侍御樊友軒．一見。周海門即前鼎石．再見。龍生璋．王生安舜．馮生昌曆．弟子性融．如乾．通岸．超逸．各一見。達師四見。丁右武三見。

> 私は五十三歳の春の正月、御友軒樊公に仕えていました。樊公は皇太子擁立の件について意見を述べたため、雷陽に左迁されました。初めに五羊で私を訪ね、私が楞伽経の原稿を校訂しているのを見て、「雷陽の風景はどのようなものか」と尋ねました。私は経巻を手に取り、「これが雷陽の風景です」と示しました。樊公は驚き感嘆し、すぐに寄付を募って経典を出版しました。 海門の周公は広東で按察使・塩道を務めていた時、仏法を尋ねるために往来し、南韶を兼務していた縁で、曹溪志の編纂を私に依頼しました。広東の士人たちは、それまで仏教を知りませんでした。ちょうどその時、周公が陽明学を解説し、士人たちを集めて私に仏法を尋ねさせたところ、龍璋という人物が私の議論を聞いて深く感銘を受けました。彼は帰宅して友人である王安舜、馮昌曆に「北方から来た禅師の説法は非常に素晴らしい」と語りました。二人とも私の元を訪れて教えを請い、私は悟りの境地を説き明かしました。彼らは疑うことなく信じ、熱心に参究することを決意しました。この二人はもともと徳のある人物で、続々と仏門に帰依する者が増え、それ以来、地元の人々も仏法僧の存在を知るようになりました。その後、教化が大いに広まったのは、この三生の尽力によるものです。 かつて達師が経典を出版したいと願ったことを思い出し、まだその願いを果たしていないことを気にかけていました。その夏、石垣の間に坐禅堂を建て始め、大慧禅師が僧衣を着けて説法した故事に倣おうと考えました。そこで遠方から来た以前の弟子である性融、如乾など、また法性菩提樹下の弟子である通岸、超逸など、数十人を集め、法華経を読誦し、彼らのために経典を解説しました。『宝塔出現品』に至った時、ふと仏の真意を悟りました。この娑婆世界の一人ひとりの目前にこそ、華蔵世界があるということを。ただ三度の変現（土地の清浄化）が必要なのは、凡夫のために少しずつその一端を示すためであると理解し、『法華経撃節』を著しました。 丁右武は気性が激しく、慷慨の士で、僧侶を敬うことは知っていても、仏法そのものは理解していませんでした。彼が帰郷する際、私は船の中で彼をさらに深く指導し、ついに彼は大きく悟りました。そこで私は彼に「覚非居士」という名号を贈り、銘文とともに『澄心銘』を贈って戒めとしました。 <note>侍御樊友軒は一度登場。周海門は前に出てきた鼎石であり、再登場。龍璋、王安舜、馮昌曆、弟子の性融、如乾、通岸、超逸はそれぞれ一度登場。達師は四度登場。丁右武は三度登場。</note>

徵知．祈儲．得儲．建儲．爭儲．同一罪案．同一心事。故特為樊公遠謫．拈出雷陽風景．並有一往深情在也。忽言．每憶達師許經之願者．不忘許誦法華百部時心。因之為雷陽說法．著法華擊節緣起也。外紀有云．教眼．宗眼．原無二眼。永明師．提宗．全摭教語印入．恐人一向無義路邊錯下腳也。若不得教眼．便落邪見。我註金剛．法華．楞伽．楞嚴．等經．盡從情識不到處．沒義路邊迸出者拈取。卻以教印宗．學者當自得之。

> 悟りを求め、祈りを捧げ、悟りを得て、悟りを築き、悟りを争う――これらはすべて同じ業の種であり、同じ心の動きである。そこで私は特に樊公が遠くへ流される事情に鑑み、雷陽の風景を描き出し、そこに深い情念を込めたのである。ある時、達師が経典を読む誓いを立てたことを思い出し、『法華経』を百巻読誦するという誓いを決して忘れない心を語った。これがきっかけで雷陽において説法を行い、『法華経』の要旨を撰述するに至ったのである。 外紀にはこうある。「教の眼と宗の眼は、もともと二つの眼ではない」。永明大師は宗門を掲げながら、あえて教典の言葉をすべて拾い集めて印可の基準とした。それは、人がひたすら意味のない道筋で誤った修行をしないようにとの配慮からである。もし教の眼を得なければ、たちまち邪見に堕ちてしまう。私が『金剛経』『法華経』『楞伽経』『楞厳経』などの経典に注解を施したのは、すべて意識や分別が及ばないところ、意味の道筋がないところから湧き出るものを取り出したのである。しかし教典をもって宗門を印可するという私の方法を、学ぶ者は自ずから悟り得るであろう。

○徵念憨祖成就及門．痛下鉗錘．因病發藥．翻然使覺．如丁右武者．指不一再屈。蓋追隨雖眾．浮慕為多。備觀譜中屬意話頭．可燭照而數計也。澄心銘云．真性湛淵．如澄止水。憎愛擊之．煩惱浪起。起之不休．自性渾濁。煩惱無明．愈增不覺。以我取彼．如泥入水。以彼動我．如膏益火。彼亂我真．亂實我生。我若不生．劫燒成冰。是故至人．先空我相。我相若空．彼從何障。忘我之功．在乎堅忍。習氣纔發．忽然猛省。省處即覺．一念回光。埽蹤絕迹．當下清涼。清涼寂靜．挺然獨立。恬澹怡神．物無與敵。

> ○憨祖の成就と門下を追憶し、痛切に鍛錬を施し、病に応じて薬を与え、目覚めさせた者は、丁右武の如き、指を数えるに再三ならず。それに従う者は多かったが、心から慕う者は少なかった。系譜を詳しく見れば、話頭に心を留める者は、火を照らすように明らかで、数え挙げることができる。『澄心銘』に曰く、「真性は湛として淵の如く、澄み渡った静かな水のようである。憎しみや愛着がこれを打つと、煩悩の波が立ち上がる。立ち上がり止まなければ、自性は濁ってしまう。煩悩と無明は、ますます増して気づかない。我をもって彼を取れば、泥が水に入るが如し。彼をもって我を動かせば、膏が火を益するが如し。彼が我が真を乱すのは、乱れは実に我から生じる。我が生じなければ、劫の焼き尽くす火も氷となる。ゆえに至人は、まず我相を空しくする。我相が空しくなれば、彼は何によって障りとなるのか。我を忘れる功は、堅忍にある。習気がわずかに発すれば、忽ちに猛然と省みる。省みる所では即ち覚り、一念を回光する。蹤跡を掃い去り、当下に清涼となる。清涼にして寂静、挺然として独り立つ。恬澹として神を怡ばせ、物に敵するものなし。」

○後成曹溪通志四卷．陳制府大科．楊少宰起元．周大參汝登．候都督繼高．並有序跋。

> ○のちに成った『曹溪通志』四巻には、陳大科・楊起元・周汝登・侯継高の方々が序文や跋文を寄せている。

二十七年己亥●

> 二十七年、己亥の年

予五十四歲．春．刻楞伽筆記成．為眾講一過．乃印百餘部．徧致海內法門知識．并護法宰官．且令知予處患難中．未忘佛事。抑恐死而無聞．將託言以見志．冀垂不朽耳。有不見諒者．以予為妄。粵俗固好殺．遇中元．皆殺牲祭先．至時．市積牲如積薪．甚慘也。予因作盂蘭盆會．講孝衡鈔．勸是日齋僧．放生．用蔬祭．從者甚眾。自後．凡喪祭大事．父母壽日．或祈禳．或拜懺．放生齋素。未幾．則放生會．在在有之．而為佛法轉化之一機也。時惠州少宰．復所楊公．往與予有法門深契久．以憂歸。今秋乃訪之．至之日．公已卒於瑩所．詰朝將入山．公靈已至城矣。予即往視殮．為求棺槨．以周旋之。值潮陽道觀察任公．陪直指於惠陽．請遊西湖。登東坡白鶴峯．而歸．有歌一首歸．即欲掩關卻埽矣。惠州少宰復所楊公．朝陽道觀察任公．各一見。楊公．名起元．任公．名可容。

> 私は五十四歳の春、『楞伽筆記』を完成させ、大衆のためにその解説を行いました。そして百部余りを印刷し、全国の仏門の知己や仏法を護る官僚の方々に広くお送りしました。これは、私が苦難の只中にあっても仏事を忘れていないことを知ってもらうためです。また、もし死んでしまい名声が残らなくとも、筆に託して志を示し、後世に伝わることを願ったのです。理解してくださらない方は、私を虚妄だと思うでしょう。 粤の地の風習は元々殺生を好み、盂蘭盆会の時期になると、皆が生け贄を屠って先祖を祀ります。その時、市場には薪のように犠牲の動物が積み上げられ、誠に惨たらしいものでした。そこで私は盂蘭盆会を催し、『孝衡鈔』を講じて、その日は僧侶に斎を施し、放生を行い、野菜で供えるよう勧めました。これに従う者は大勢いました。その後、喪や祭祀の大切な行事、父母の誕生日、または祈禳や悔過の時には、放生と菜食を行うようになりました。間もなく、放生会はあちこちで行われるようになり、これが仏法に転化する一つのきっかけとなりました。 その頃、惠州の少宰である復所楊公は、以前から私と仏法における深い因縁がありましたが、喪に服すために帰郷していました。今年の秋、彼を訪ねましたが、到着した日には、彼は既に墓所で亡くなっていました。明朝には山に入る予定でしたが、楊公の霊は既に城に到着していました。私はすぐに彼の遺体を見に行き、棺や外棺を手配して、その葬儀を取り仕切りました。 折よく潮陽道の観察使である任公が、直指の士と共に恵陽に来ており、西湖に遊ぶよう招かれました。私は蘇東坡の白鶴峯に登り、その後帰路につきました。その時に一首の歌を作りました。帰宅後、すぐに門を閉ざして一切の関わりを断とうと思いました。 <note>惠州少宰・復所楊公、朝陽道観察・任公、それぞれお会いしました。楊公、名は起元。任公、名は可容。</note>

徵按惠州西湖．杭州西湖．東坡兩遺勝槩．憨祖兩作勝緣。徵獨得於杭湖．躬遇放生勝會耳。又按復所楊公．為憨祖作曹溪通志敘．法契甚深．來謁已久。往訪之日．恰值靈至．周旋法緣．亦非偶爾。

> 釈迦牟尼仏がお作りになった優れた功績の記録について考えてみると、恵州の西湖と杭州の西湖は、蘇東坡という偉大な人物が遺した二つの素晴らしい名所であり、また憨山祖師が二度にわたって素敵なご縁を結ばれた場所であります。私は特に杭州の西湖において、生き物を放つという尊い集いに直接参加する機会に恵まれました。 さらに、復所こと楊公は、憨山祖師の依頼で『曹渓通志』の序文を執筆され、両者の仏法における心の通い合いは非常に深いものでした。楊公が憨山祖師に会いに来られてから、かなりの年月が経っていました。そこで私が楊公を訪ねた日に、ちょうど霊妙な出来事が起こりました。このように仏法のご縁が巡り合ったのも、決して偶然のことではありません。

二十八年庚子●

> 二十八年、庚子の年

予五十五歲．時榷使初出．地方震蕩．加以倭警．人心惶惶．予即散諸弟子．閉關絕迹．深以避之。粵人素苦閩海之白艚運米．恐騰貴也．時以為亂。新軍門．閩人也．公子舟次海上．適大將軍請告將行．稅使正畜意侵之．偶有白艚數隻．即藉口以大將軍為公子資行也．嗾市民．遂大鬨。頃刻．聚數千人．投磚石．打公子舟．幾破．圍帥府．持戈相向．甚急時三司府縣．皆赴端州行節禮．會城無一正官．卒無解救者．勢變在呼吸也大將軍危之．無已．乃令中軍詣關前求解．予甚不可．曰．無神術也。中軍跪泣曰．師即不念兵主．獨不念地方生靈乎。予聞之．惕然．無柰．遂破關往詣稅使者．從容勸化．開曉其意。使者聞予言．果悟．乃令自行招安．以散亂民。時予先往．大言於眾曰．諸君今所欲．食賤米耳．今犯大法．當取死．即有賤米．誰食之耶。眾聞之．愕然．頃令至．帥府圍即解．會城遂以寧。父老感予．欲尸祝之。時三司．正在軍門飯．聞報民作亂．皆投筯而起．及回．業已安堵．然皆知予之意也。時觀察任公聞之．乃以書報予曰．憨師不出．其．如地方何。憨師既出．其如憨師何。予亦自知．此後無寧日矣。秋七月．南韶觀察惺存祝公．延予入曹溪．予乘興．遂入山．為六祖奴郎矣。時新制臺戴公．知予安亂民．深德之．意欲一見．諭大將軍將予往。詣之．及見．禮遇甚優．即留款齋。因辭往曹溪．公遂願為護法。且令有事即白．予始得安心焉。大將軍．無姓．再見。稅使者．一見。觀察任公．再見。南韶觀祭惺存祝公．新制臺戴公．各一見。祝公．名以豳海寧人．歷應天府尹。戴公名燿。

> 私は五十五歳の時であった。ちょうど礦税使（こうぜいし）が初めて派遣され、地方は動揺し、さらに倭寇（わこう）の警報もあって人心は不安に満ちていた。そこで私は弟子たちを解散させ、自ら門を閉ざして人目を避け、ひたすら身を隠した。 広東の人々はもともと、福建から白艚船（はくそうせん）で米を運んでくるのを苦々しく思っており、米の値上がりを恐れていたため、この時を機に騒動を起こした。新任の軍門（ぐんもん）は福建の出身で、その御曹子が船で海上にいた。ちょうどその時、大将軍が辞任の上奏をして出立しようとしており、税使は故意に彼を陥れようと目論んでいた。そこに偶然、白艚船が数隻あったため、税使はこれを口実に「大将軍が公子の旅費のために船を用意した」とでっち上げ、市民を扇動したため、大騒動となった。 たちまち数千人が集まり、磚石（せんせき）を投げつけて公子の船を打ち壊しそうになり、さらには帥府（すいふ）を包囲して戈（ほこ）を構えて対峙した。緊急の事態であったが、三司（さんし）や府県の役人は皆、端州（たんしゅう）で節礼（せつれい）の儀式に出席しており、会城（かいじょう）には正規の役人が一人もおらず、救助する者はいなかった。事態は瞬息（しゅんそく）の間に変化しようとしていた。 大将軍は危機に瀕し、やむを得ず中軍（ちゅうぐん）に命じて私のもとへ来て解決策を請わせた。私は「神業（かみわざ）などできぬ」と断った。中軍はひざまずいて泣きながら言った。「師（し）が大将軍を顧みないとしても、この地の民衆だけはお救いくださいませ」。私はこの言葉を聞いて、はっと心を打たれ、やむを得ず門を破って税使のもとへ赴き、穏やかに諭し、事情をよく説明した。税使は私の言葉を聞いて、ようやく悟り、自ら招安（しょうあん）を行い、暴徒を解散させることにした。 その時、私は先に民衆のもとへ赴き、大声で言った。「諸君が今望むのは、ただ安い米を食べることだろう。だが今、大法を犯せば死罪に値する。たとえ安い米があっても、誰がそれを食べられようか」。人々はこの言葉を聞いて驚愕し、やがて命令が下ると帥府の包囲は解かれ、会城はついに平穏を取り戻した。 古老たちは私に感謝し、私を祀ろうとした。その時、三司はちょうど軍門で会食中だったが、民衆が反乱を起こしたという報せを聞き、皆、箸を投げ出して立ち上がった。しかし戻ってきた時には、すでに秩序は回復していた。そして皆、私の尽力を知ったのである。 後に観察使（かんさつし）の任公（にんこう）がこれを聞き、私に書状を送って言った。 「憨師（かんし）が出て行かれなければ、地方はどうなっていたことか。憨師が出て行かれた以上、その後のご処遇はいかがか」 私もまた、この後、安穏な日々はないだろうと自覚していた。 秋七月、南韶観察（なんしょうかんさつ）の惺存祝公（せいぞんしゅくこう）が私を曹溪（そうけい）に招いた。私は興に乗って山に入り、六祖恵能（ろくそえのう）の奴郎（どろう）となった。その時、新任の制台（せいだい）・戴公（たいこう）が、私が暴徒を鎮めたことを知って深く感謝し、一度会いたいと望み、大将軍に命じて私を連れて来させた。私は彼のもとを訪ね、会うと非常に丁重に遇され、そのまま斎（とき）に招かれた。そして曹溪へ赴くことを伝えると、戴公は進んで護法者となることを誓い、「何かあればすぐに知らせよ」と言ってくれた。こうして私はようやく安心して過ごすことができたのである。 <note>大将軍、無姓（むしょう）。再見。税使者、一見。観察任公、再見。南韶観察惺存祝公、新制臺戴公、各一見。祝公、名は以豳（いいん）、海寧（かいねい）の人、応天府尹（おうてんふいん）を歴任。戴公、名は燿（よう）。</note>

徵疑此大將軍．在譜兩見．無姓號．豈僅知禮名僧．而不知於地方行威信．故一激幾成大變．不得不藉仗善知識引手耶。片言悟稅使．散亂民．昔日釋縛款齋之禮．一何相報之綦重。此日排難解紛之道．一何彈指而入神。後來當事聞風興起．曹溪於是乎放光矣。

> この大将軍という人物が系譜に二度登場し、姓も号も記されていないのは、単に礼儀に詳しい名僧として知られながら、地方にその威光と信頼を示さなかったからではないでしょうか。そのため、ひとたび激昂すれば大きな変事に発展しかねず、善知識（良き指導者）の助力を仰がざるを得なかったのでしょう。わずかな言葉で税吏を悟らせ、民衆の混乱を鎮める。かつて束縛を解き、斎戒の礼を尽くしたことへの報いが、これほどまでに重かったとは。この日に至って困難を取り除き、争いを解く道は、なんと指を鳴らすほどの短さで神妙に成し遂げられたのでしょう。後日、これを聞いた関係者たちが心を動かされて立ち上がり、曹溪がついにその光を放つこととなったのです。

二十九年辛丑●

> 以下は、日本語への現代語訳です。 二十九年、辛丑の年。

予五十六歲．春正月．見四方流棍．集於山門．開張屠沽．穢汙之甚．積弊百餘年矣。墳墓率占祖山．僧產多侵之。且勾合外棍挾騙．寺僧無敢正視者。予歎曰．此心腹之疾也．苟不去．則六祖道場．終將化為狐窟．卒莫可救矣。柰何．無法處也．予縱居此何為哉。熟慮之．無已．乃往白制臺戴公。公曰．無難也．予試為師力行之。即下令本縣坐守．限三日內．盡行驅逐．不留一人。鋪店盡拆．不存片瓦。自此．曹溪山門積垢．一旦如洗。公因留予齋．坐談間．公曰．六祖腥膻．予為師洗之矣。目前地方生靈塗炭．大菩薩．有何慈悲以救之乎。予曰何謂也。公曰．珠船千艘．率皆海上巨盜．今以欽採．資之以勢．罷採之日．不歸．橫行海上．劫掠無已．法不能禁．此其一也。地方開礦．採役暴橫．掘人之墓．破人之產．在在百姓受其毒害．甚於劫掠．由是民無安枕矣．為之柰何。予曰．此未易言也．姑徐圖之。採使者李公．頗有信心．是年秋．至曹溪進香於六祖．留山中數日．聞法甚喜。予因勸為重興祖庭之布金檀越．慨然力荷之。徐密啟之曰．開採為害於地方．甚矣．非聖天子意也。採船．急設約束期．往來過限以罪。礦罷開採．盡撤其差役．第令所司歲額助解進．秋毫無擾於民．可乎採使唯唯力行之。由是山海地方．一旦遂以寧。公深感之．以書謝予曰．而今乃知佛祖慈悲之廣大也以此．護法之心益切。予因是．得以安心曹溪．開闢祖庭．改風水道路．選僧授戒．立義學．作養沙彌．設庫司．清規．查租課．贖僧產．歸侵占．一歲之間．百廢具舉制臺戴公．再見。採使者李公．一見。

> 私が五十六歳になった年の春のことだ。四方から流れ者が集まり、山門の前にまで進出して屠殺や酒の商売を営み、ひどく不浄な状態であった。これは百数十年にわたって積み重なった悪弊であった。墓地はことごとく先祖代々の山を占拠し、僧侶の財産も頻繁に侵奪されていた。さらに、よそ者たちと結託して僧侶を脅して騙し取るため、寺の僧侶で正々堂々と対抗できる者はいなかった。私は嘆いて言った。「これは心腹の大患である。もし取り除かなければ、六祖の道場はついには狐の巣窟と化し、救いようがなくなってしまうだろう。どうすればよいのか。対処法がない。仮に私がこのままここに留まったとしても、何になろうか。」熟考したが、方法がなかったので、やむを得ず制台の戴公に相談に行った。戴公は言った。「難しいことではありません。私があなたのために断行しましょう。」すぐに県に命じて役人を駐在させ、三日以内に一人残らず追い払うよう命じた。商店はことごとく取り壊し、瓦一枚も残さないようにした。こうして、曹溪の山門に長年積もった汚れは、たちまちに洗い清められた。戴公は私を引き止めて食事を共にし、座談の折に言った。「六祖の周りの不浄は、私があなたのために洗い清めました。しかし今、この地域の人々は塗炭の苦しみに遭っています。大菩薩であれば、どのような慈悲をもって救われるのでしょうか。」私が「どういうことですか」と尋ねると、戴公は答えた。「真珠を運ぶ船が千艘もあり、そのほとんどが海上の大盗賊です。今は皇帝の命による採集の便りにその勢いを得ていますが、採集が終わっても帰らず、海上で勝手に振る舞い、絶えず略奪を繰り返し、法でも禁じることができません。これが一つ目です。また、地方で鉱山を開き、採掘の役人が横暴に振る舞い、墓を掘り返し、人々の財産を破壊しています。各地で民百姓がその毒害を受けており、劫掠（強奪）よりも甚だしい。そのために民は安らかに眠ることもできません。これに対してどうすべきでしょうか。」私は言った。「これは容易に口にできることではありません。しばらくゆっくりと対策を考えましょう。」採集使の李公は信心が厚く、その年の秋、曹溪に来て六祖に香を捧げ、山中に数日滞在し、法を聞いて大いに喜んだ。私は彼に祖庭（六祖の道場）を再興するための寄付をお願いし、彼は快く力強く引き受けてくれた。そこで私は徐ろに密かに進言した。「開採が地方にもたらす害は甚大です。これは決して聖天子のお考えではありません。採集船にはすぐに規制を設け、往来の期限を過ぎた場合は罪とするべきです。鉱山の採掘も全て中止し、差役（役人）は全員引き揚げさせ、ただ所轄の役所に年に決まった額を朝廷に納めさせるようにし、民には毫も迷惑をかけないようにする。それは可能でしょうか。」採集使は謹んでこれを受け入れ、実行に移した。こうして山海の地方は、たちまちに平穏を取り戻した。戴公は深く感じ入り、書状を送って私に感謝した。「今こそ、仏祖の慈悲の広大さがこのようなものであることを知りました」と。これにより、彼の仏法を護ろうという心は一層切実なものとなった。私はこのおかげで心を安んじて曹溪に留まり、祖庭を開拓し、風水や道路を改め、僧を選んで戒律を授け、義学（無料の学校）を設立して沙弥（見習い僧）を養成し、庫司（会計係）や清規（規則）を設け、租税や授業料の帳簿を調べ、僧侶の財産を取り戻し、侵占された土地を還らせた。一年の間に、様々な事業が一斉に興された<note>制臺戴公、再見。採使者李公、一見。</note>

徵讀夢遊集．示珊公云．初丙申春二月．度嶺．至曹溪謁六祖．叢林凋敝．香燈零落．有僧海月珊為監寺。丁酉．魔風競撓．道場破壞．僧徒無依．珊公來謁於五羊．請入山授戒法。庚子冬．應請．至山。便言．予非祖師攝受．不能至曹溪．曹溪非予來．不能有叢林中興之功德。今日非純誠．難以取究竟。始終總是一大事因緣．實非偶然云云。又示立義學緣起云．庚子歲．當道延予料理曹溪時．舊規百廢．遂選諸沙彌．設義學．延賓師以教習威儀．誦讀內外經書。稍知信向．則披剃．立禪堂．使就清規．受戒法．晝夜禮誦。予苦心十年．差有可觀。後丙午．赦還南嶽．沙彌輩．悉已成人．並深戀慕．羣請開示。予語．汝輩若錯過今日．不一力做工夫．將來縱向十方世界參訪知識．總是他家活計．此是老人真實訓誨。又外紀云．曹溪沙彌．率皆樵兒牧豎．選其少可教者．令受業經典。更延諸生之有信心者．教以儒門經書．破其俗業．披剃．始從本業。八年．而成就百餘眾。

> 【夢遊集より珊公に示す】 初め丙申の春二月、嶺を越え、曹溪に至り六祖を拝した。僧林は荒れ果て、香灯も絶え絶えであった。その時、海月珊という僧が監寺を務めていた。丁酉の年、悪風が競い起こり、道場は破壊され、僧たちは頼る場所を失った。珊公が五羊に来て拝し、山に入って戒律を授けるよう請うた。 庚子の冬、請いに応じて山に至った。そこで私は言った。「私が祖師の加護を受けなければ、曹溪に来ることはできなかった。また、曹溪も私が来なければ、僧林の中興の功徳を成就することはできなかった。今日、真心がなければ、究竟に至ることは難しい。始終、すべては一つの大事因縁であり、決して偶然ではない」と。 また、義学設立の由来について示すに、庚子の年、当道が私に曹溪の管理を依頼した時、旧規はすべて廃れていた。そこで、沙弥たちを選び、義学を設け、賓師を招いて威儀を教え、内外の経典を読誦させた。少しでも信心に目覚めた者は、剃髪し、禅堂を設け、清規に従い、戒律を受け、昼夜礼拝読誦させた。私は苦心十年、ようやく見応えのあるものとなった。 その後、丙午の年、南嶽に許されて帰る時、沙弥たちは皆、すでに成年しており、深く慕い、群れをなして法話を請うた。私は言った。「お前たちは、もし今日を誤り、一生懸命に修行しなければ、将来、十方世界の知識を訪ね歩いても、それはすべて他人の成果に過ぎない。これが老人の真実の訓えである」と。 また、外紀に言う。曹溪の沙弥は、おおむね樵夫や牧童であった。その中から若く教育できる者を選び、経典を学ばせた。さらに、信心のある若者を招き、儒教の経典を教えて俗業を打ち破り、剃髪させて、ようやく本業に就かせた。八年で百余人が成就した。

○錢牧齋云．憨大師戍粵五年．乃克住錫曹溪．歸侵田．斥僦舍．屠門酒肆．蔚為寶坊．緇白坌集．攝折互用．大鑑之道．勃焉中興。徵觀此．曹溪一番大時節因緣．的的不可思議。憨祖爾時．即冠巾說法．猶然著伍罪僧耳。況儲議方危．採使四出．山海毒民．劇於近地．時事大非．當事束手。誰知地方機宜之梗．反成塔寺堅固之緣。荷戈束髮之期．偏遘僧俗報施之利。曹溪機緣．得之制臺。海上機緣．得之採使。若非採使進香皈信．安能定海舶開採之亂．結制府護法之心．成曹溪百廢之舉。若非憨祖行力圓滿．安能致採使權要入山．密加款曲．片言排難．大放海涯祖席光明也哉。聖人先天弗違．後天奉時．天為之．亦人為之．是曰天人參焉。

> ○銭牧斎は言う。憨大師が広東にて五年を経て、ついに曹溪に住まうことができるようになった。奪われた田を返させ、賃居を追い出し、屠殺場や酒場を荘厳な仏道の場へと変えた。僧侶も在家信徒も大勢集まり、摂受・折伏の手立てを適宜使い分け、大鑑禅師の道は見事に再興された。 これをよく見れば、曹溪にこの大きな機縁が訪れたことは、実に不可思議と言うほかない。憨祖がその当時、ただの罪人として兵士の身でありながら、頭巾をつけて説法していたのだから。ましてその頃、皇位継承の計画は危うく、採使が四方に派遣され、山や海での採掘は住民に害を為すこと、近くの地よりもひどかった。時勢は非常に悪く、責任者はなす術がなかった。 しかし、だれが知ろう。地方の事情の難渋が、かえって塔寺を堅固にする縁となったことを。武器を執り髪を束ねる時期に、かえって僧俗の間での報恩の利益がもたらされたのである。 曹溪の機縁は、巡撫から得られたものだ。海上の機縁は、採使から得られたものだ。もし採使が香を焚いて帰依していなければ、どうして海船の採掘の乱を鎮め、巡撫の護法の心を結び、曹溪の多くの廃れた事業を成し遂げることができただろうか。 もし憨祖の行力が円満でなければ、どうして採使や権力のある人々を山に入らせ、密かに〈注：親しく交わり〉、一言で困難を取り除き、大いに師の地である祖庭の光明を放つことができたであろうか。 聖人は、天の理に先んじて背かず、後にあっては天の時に従う。天がそれを為し、また人がそれを為す。これを「天人が共に関わる」というのである。

三十年壬寅●

> 我々は皆、仏の子である。

予五十七歲．是年．重修祖殿．培後龍．改路徑。以屠肆為十方旦過寮．闢神道．移僧居．拓禪堂．創立規制。

> 私は五十七歳、その年、祖殿を再建し、後山の風水を整え、道をつけ直しました。肉屋を十方の旅僧のための宿坊とし、神道を開き、僧の住まいを移し、禅堂を広げ、新たな規則を定めました。

徵想當日南華一坐具地．僧徒盡為波旬．佛土翻成魔窟。非佛祖冥囑中興．安得於荷戈負戟場中．不待披緇返服．而願力遂成創制。依然盧祖獵隊說法時．非小可因緣也。

三十一年癸卯●

> 三十一年目の癸卯（みずのとう）の年です。

予五十八歲．冬十一月．達觀禪師．在京師．遭妖書之戹．逮下獄．訊．以為予之故．因此又及之。予心知不免．安心以待。荷聖恩寬之．京院有通行。達師五見．聖上七見。

> 私は58歳の冬、11月のことでした。達観禅師が都で巻き込まれた事件がありました。それは「妖書」という無実の罪で、逮捕されて獄に下され、尋問を受けたのです。私のせいで、そこにまた連座してしまいました。私は逃れられないと悟り、心を静めて受け入れようと待ちました。皇帝陛下の寛大なお慈悲によって助けられ、都の寺から解放されました。 <note>達観禅師は五度、皇帝陛下は七度、お会いになりました。</note>

徵按．是歲．達師即化於圜中．而譜文不詳顛末。東遊所作達師誌銘．及他紀所載．附錄一二於左。塔銘略云．師諱真可．字達觀．號紫柏。門人稱尊者．重法故也。姓沈氏．其先句曲人．徙居吳江太湖之灘缺師生．五歲不語．一僧過門．摩頂而謂其父曰．此兒出家．當為天人師．言訖忽不見．師遂能語。髫年．性慷慨激烈．婦女無敢近年十七．欲仗劍北遊．至蘇州閶門．天大雨．值虎丘僧明覺．見師少年不羣．心異之．因與同蓋．歸寺飧宿。師夜聞誦八十八佛名經．侵晨．即解腰纏十餘金．請剃髮．禮覺為師．往來三吳間。一日．辭覺去．聞僧誦張拙見道偈．至斷除妄想重增病．趨向真如亦是邪．遂大疑之。每至處．輒書二語於壁間．疑至頭面俱腫。一日齋次．忽悟．頭面立消．自是陵躒諸方。過匡山．窮相宗奧義。一日．行二十里．足痛．師以石砥腳底．至日行二百里．乃止。遊五臺．至京師．參徧融大老．留挂搭．徧參笑巖．暹理．諸知識。見大千潤公．見上堂講公案．以口耳為心印．以帕子為真傳．師歎曰．西來意．固如是耶．遂不入眾。南還．至嘉禾．有密藏道開．南昌人．棄青衿出家．依師為侍者。郡城有楞嚴寺．為長水疏經處．久廢。師與太宰陸五臺公光祖心契．始議恢復．建禪堂五楹。成日．師引錐刺臂血盈盌．書一聯云．若不究心．坐禪徒增業苦。如能護念．呵佛猶益真修。念大藏卷帙重多．致遐方僻陬．有終不聞佛法名字者。欲刻方冊．易為流通．普使見聞．作金剛種子。即有謗者．罪當自代．遂倡緣。時陸太宰．與馮司成夢禎．曾廷尉同亨．瞿冏卿汝稷．鳩工於徑山寂照庵。密藏開公．幻予本公．澹居鎧公．迭董其事。後桐城吳方伯用先．復化城為貯板所。師既刻藏嘉禾．有成議．乃返吳門．省前得度師覺公．已還俗．以醫名乃詐姓名．稱病舟中．延覺診視。覺見師．大驚．師即涕泣．勸之剃髮。覺慚感．還執弟子禮時吳江．沈周二氏．曲阿．賀孫．金沙．于王諸氏．聚族歸禮。師於于園．書法華經．報二親。聞妙峯師建鐵塔於蘆芽．乃送經安置塔中。訪予於東海．時予以謝恩．入長安．師攜開公至膠西．值秋水泛漲．眾度必不能渡．師解衣先涉．水及肩．疾呼眾前既渡．曰．死生關頭．須直過為得耳。予在長安．從于君玉．聞師東行．亟促裝．日夜兼程．亦犯橫流．趕至即墨．師已出山。一見．大歡．復還山．留旬日．遂許生平矣。師返都門．復潭柘古剎。乃由三晉．歷關中．踐棧道．至蜀．遊峨眉．禮普賢大士。順流下瞿塘．過荊襄．登太和．至匡廬．過安慶．遊皖公山．馬祖庵。阮居士自華．求度．遂薙髮於山中．名曰法鎧．是為澹居。師復北遊．至石經山．復晉琬公塔院．啟石座．得函．貯佛舍利若干．光燭巖壑。聖母聞之．賜紫伽黎．出帑金．重藏。適予聞師西遊．即馳至京．候於上方兜率院。師拉予遊觀石經．遂作記。同出山．居於西郊園中．對談四十晝夜．目不交睫．信為生平至快事。師在潭柘．未禮佛．戒食。一日．客至．誤先舉食．命知事．痛責三十棒．師伏佛前受杖．兩股如墨。乃云．眾生無始習氣．如油入麪．牢不可破。苟折情不痛．未易調服也。乙未．師在匡山．將赴都下救予．聞予將南放．遂待於江滸．會於下關旅泊庵。師執予手．歎曰．公以死荷負大法．古人為法．有程嬰公孫杵臼之心．我何人哉。公不生還．吾不有生日。予慰之再三．瀕行．師囑曰．吾他日．即先公死．後事屬公．遂長別。予度嶺之五年．師以予未歸初服．每歎曰．法門無人矣．若坐視法幢之摧．則紹隆三寶者．當於何處用心耶。老憨不歸．則我出世一大負。礦稅不止．則我救世一大負。傳燈未續．則我慧命一大負。若釋此三負．當不復走王舍城矣。癸卯秋．予在曹溪．飛書囑門人之計偕者．招師入山中。報書．直云．捨此一具貧骨。居無何．忽妖書事發．震動中外。時忌者．乘白簡劾師．師竟以是罹難。先是．上手書金剛般若．偶汗下漬紙．疑當更易．遣曹近侍質師。師以偈進曰．御汗一滴．萬世津梁．無窮法藏．從此放光。上覽之．大悅。章奏逮及．旨云．著審而已。及金吾訊鞫．但以三負事對。在獄．有建言侍御曹公學程．問道．成圜中語錄。時執政欲死師。師聞之曰．世法如此．久住何為。乃索浴罷．端坐說偈而逝。曹公聞之．急趨至．撫之曰．師去得好。師復開目微笑而別。時癸卯十二月十七日．世壽六十有一．法臘四十有奇。噫．師生平行履．疑信相半。即此末後快便一著．上下聞之．無不歎服。徵於憨祖東遊．侍間．所見手著出世大文字．無如雲棲蓮池．徑山達觀．兩塔銘。當世廟神廟間．海內得三大祖師。憨祖於蓮師因緣淺．於達師因緣深。半作達師塔銘．實半作己躬塔銘。所關宮闈建儲同．聲氣犯患同．宗教通會同．孔孟統一同．憨祖一東遊．了結彼此三大公案。在徑山．則示參禪切要．在雲棲．則示念佛切要。集兩師之大成．揭三教於終古．法法圓滿．未有盛於東遊．茶毗達師．憑弔蓮師之日者也。塔銘末云．初諸弟子奉師龕歸徑山．卜於丙辰十一月十九日茶毗．二十三日歸靈骨．塔於大慧塔後文殊臺。予始在行間．聞師訃．即欲親往弔．因循一紀．未遂本懷。頃從南嶽數千里來．無意與期會．而預定祭日．蓋精神感孚．亦奇矣。師後事．予幸目擊．得以稍盡心焉。徵親見．千里祭文．開卷不爽一日．然猶常言．以不能拂面痛哭紫柏為恨．兩師之相知心．具在神通不思議中矣。又記舉火云．性火真空．性空真火．狹路相逢．定沒處躲。恭惟紫柏尊者．達觀大和尚．偶來人世．誤落塵寰。赤力力．脫盡娘生布衫．光爍爍．露出本來面目。荷擔正法．純剛煉就肩頭。徹底為人．生鐵鑄成肝膽。死生路上．直往直來。今事門頭．半開半掩。六十餘年松風水月襟懷．千七百則兔角龜毛柱杖。饒他末後風流．未免藏頭露尾。撇下贓私．誰料落在憨山道人手中．今日特為人天眾前．當場拈出．大眾還見麼。以火把畫○相云．柱杖挑開雙徑雲．通身涌出光明藏．珍重諸人著眼看．這回始信無遮障。

> 〔按〕この年、達観禅師は獄中で示寂されたが、伝記にはその詳しい経緯が記されていない。東遊記に収められた達師の塔銘や、他の記録に基づき、参考までに一二を付記する。 塔銘（略）に云う。師は諱を真可、字を達観、号を紫柏という。門人は尊者と称したが、これは法を重んじたからである。姓は沈氏。先祖は句曲の人で、後に呉江の太湖のほとりに移り住んだ。師が生まれて五歳まで言葉を話さなかった時、一人の僧が門前を通りかかり、その頭をなでて父に言った。「この子は出家すれば、必ず天人の師となるだろう」。言い終わると忽然と姿を消し、師はそれから話せるようになった。 幼少の頃から気性は慷慨激しく、女性は近づくことさえできなかった。十七歳の時、剣を携えて北方へ遊学しようと、蘇州の閶門に至った。折しも大雨となり、虎丘の僧・明覚に出会った。明覚は師の若くして卓越した様子を見て異とし、共に傘を共にして寺に帰り、食事と宿を供した。その夜、師は八十八仏名経の読誦を聞き、明け方には腰に巻いていた十数金を差し出して剃髪を請い、明覚を師と仰いだ。以後、三呉の間を往来した。 ある日、師は明覚に別れを告げて去り、僧が張拙の見道偈を誦するのを聞いた。「断除妄想重増病、趨向真如亦是邪」の句に至り、大いに疑問を抱いた。到る所でこの二語を壁に書き、その疑いは頭や顔が腫れるほどに至った。ある日の斎中、忽然と悟り、頭や顔の腫れはたちまち消えた。以来、諸方を歴遊した。匡山を過ぎ、相宗の奥義を極めた。ある日、二十里歩いて足が痛んだが、師は石で足の裏をこすり、ついには一日二百里歩けるようになった。 五台山に遊び、京師に至って遍融老師に参じ、掛搭して逗留した。笑巌、暹理などの諸知識にも遍く参じた。大千潤公に会い、上堂して公案を講じるのを見て、「口耳を以て心印とし、手巾を以て真伝とする」の風に師は嘆じて言った。「西来の意、果たしてこのようなものか」と。衆には入らなかった。 南に帰り嘉禾に至った。密蔵道開という人物がいた。南昌の人で、青衿（儒生の服）を捨てて出家し、師に侍者として仕えた。郡城に楞厳寺があり、長水が疏経した場所であるが、長く廃れていた。師は太宰陸五台公光祖と心が通じ合い、初めて復興を議し、禅堂五楹を建立した。完成の日、師は錐で腕を刺し血を碗に満たし、一聯を書いた。「若し心を究めずんば、坐禅も徒らに業苦を増す。如し能く念を護らば、呵仏すらも猶お真修を益す」。大蔵経の巻帙の重多さから、遠方や辺鄙な地では終に仏法の名を聞くことさえない者があることを思い、方冊（冊子本）に刻んで流通しやすくし、普く見聞せしめて金剛の種子と為さんと欲した。もし謗る者がいれば、その罪は自らが代わり受けようと、縁を倡えた。 時に陸太宰、馮司成夢禎、曽廷尉同亨、瞿冏卿汝稷らが、径山寂照庵で工を起こした。密蔵開公、幻予本公、澹居鎧公が、代わってその事を司った。後に桐城の呉方伯用先が、更に化城を経板の収蔵所とした。師が嘉禾で蔵経の刻印を計画し、議がまとまると、呉門に返り、先の得度師・覚公を訪ねた。覚公はすでに還俗し、医者で名を成していた。師は姓名を偽り、病と称して舟中に覚公を招き診察させた。覚公は師を見て大いに驚いた。師は涙を流して剃髪を勧め、覚公は恥じ入り感動して、再び弟子の礼をとった。 時に呉江の沈氏、周氏、曲阿の賀氏、孫氏、金沙の于氏、王氏らが族を挙げて帰依し礼した。師は于園で法華経を書き、両親に報いた。妙峰師が蘆芽に鉄塔を建てたと聞き、経典を送って塔中に安置した。私（憨山）を東海に訪ねたが、私は謝恩のため長安に入っていた。師は開公を連れて膠西に至り、秋水の漲るのに遭い、皆渡れないと思ったが、師は衣を脱いで真っ先に渡った。水は肩に及び、大声で皆を呼んで前に進ませ、渡り終えて言った。「死生の関頭、直ちに過ぐるを以て得と為す」。 私が長安にいた時、于君玉から師が東行したと聞き、急いで荷物をまとめ、日夜兼行し、横流をも犯して即墨に追いついたが、師は既に出山していた。一見して大いに喜び、再び山に還り十日余り留まり、遂に生涯の友と誓い合った。師は都門に返り、潭柘の古刹を再興した。そして三晋を経、関中を歴、桟道を歩いて蜀に至り、峨眉に遊び、普賢大士を礼した。順流して瞿塘を下り、荊襄を過ぎ、太和に登り、匡廬に至り、安慶を過ぎ、皖公山・馬祖庵に遊んだ。阮居士自華が度を求めたので、山中で剃髪させ、名を法鎧とし、これが澹居である。 師は更に北遊し、石経山に至り、晋の琬公塔院を再興し、石座を開けて函を得、中に仏舎利若干を納め、光は岩壑を照らした。聖母（太后）がこれを聞き、紫の伽黎を下賜し、帑金を出して再び蔵めた。折りしも私は師の西遊を聞き、馳せて京に至り、上方兜率院で待った。師は私を拉して石経を遊観し、記を作った。共に山を出て、西郊の園中に住み、四十昼夜対談し、目を閉じることもなかった。まことに生涯の至快事と信じる。 師は潭柘にいた時、未だ仏を礼せず、斎戒の食事をしていた。ある日、客が来て、誤って先に食事をした。師は知事を呼び、痛責三十棒を加えさせ、自ら仏前に伏して杖を受けた。両腿は墨の如くになった。そして言った。「衆生の無始の習気は、油が麺に入るが如く、牢として破り難し。もし情を折るに痛を以てせざれば、調服し易からず」。 乙未年、師は匡山にいたが、都下に赴いて私を救おうとした。私が南に流されることを聞き、江のほとりで待ち、下関の旅泊庵で会った。師は私の手を取って嘆じた。「公は死を以て大法に荷負する。古人は法の為に、程嬰・公孫杵臼の心あり。我は何者ぞ。公が生還せずんば、吾に生日あることなし」。私は再三慰め、別れに臨み、師は嘱した。「我、他日、先だって公の為に死なん。後の事は公に属す」。遂に長く別れた。 私が嶺を越えて五年、師は私が未だ初服に帰らざるを以て、毎に嘆じた。「法門、人無し。若し坐して法幢の摧くるを視るならば、則ち三宝を紹隆する者は、何れの処に於いてか心を用うべき。老憨（私）の帰らざるは、則ち我が出世の一大負。礦税の止まざるは、則ち我が救世の一大負。伝灯の未だ続かざるは、則ち我が慧命の一大負。若しこの三負を釈くならば、当に復た王舎城に走らざるべし」。 癸卯年の秋、私は曹溪にいた。飛書して門人の計偕（科挙の受験で都に行く者）に託し、師を山中に招こうとした。返書は、ただ「この一具の貧骨を捨てん」とのみ。居ること無くして、忽ち妖書事件が発覚し、震動中外した。時に師を憎む者が、白簡をもって師を弾劾し、師は遂にこの難に遭った。先に、帝（神宗）が自ら金剛般若経を書写された折、偶々汗が紙に落ちて滲んだ。書き改めるべきかと疑い、近侍の曹某を遣わして師に質した。師は偈を進めた。「御汗の一滴、萬世の津梁、無窮の法蔵、此より放光」。帝は之を見て大悦した。章奏が及び、旨は「ただ審問せよ」とのみ。金吾（護衛官）が訊鞫した時、ただ三負の事を以て対えた。獄中において、建言侍御曹公学程が道を問い、成ったのが圜中語録である。 時に執政は師を死罪にしようとした。師は之を聞き、「世法、此の如し。久しく住して何を為さん」と。乃ち湯浴みを求め終え、端座して偈を説きて逝いた。曹公之を聞き、急ぎ趨り至り、之を撫して言う。「師、去りて好し」。師、復た開目し、微笑して別れた。時に癸卯年十二月十七日、世寿六十一、法臘四十有余。噫、師の生平の行履、疑信相半ばす。即ちこの末後の快便の一着、上下之を聞き、歎服せざるは無し。 ＜注＞塔銘の終わりに云う。初め諸弟子、師の龕を奉じて径山に帰し、丙辰年十一月十九日に荼毘すると卜し、二十三日に霊骨を収め、大慧塔の後ろの文殊台に塔を建てた。私は始め行間に在り、師の訃を聞き、親しく弔問に赴こうとしたが、一紀（十二年）を因循して、本懐を遂げなかった。頃、南嶽より数千里来て、意図せずして期会し、予め祭日を定めたのは、是れ精神の感孚、亦た奇なり。師の後事、私は幸いに目撃し、以て稍や心を尽くすを得たり。（按の著者・憨山）徴は親しく見る、千里の祭文、巻を開いて一日を爽（たが）わず。然れども猶常に言う、面を払いて紫柏に痛哭する能わざるを恨むと。両師の相知る心、具に神通不思議の中に在り。又た挙火の記に云う。「性火真空、性空真火、狹路相逢、定沒處躲（定めて隠れ処無し）。恭惟紫柏尊者、達觀大和尚、偶來人世、誤落塵寰（偶々人世に来り、誤って塵寰に落つ）。赤力力（力強く）、脫盡娘生布衫（母生の布衫を脱ぎ尽くし）、光爍爍（きらめき）、露出本来面目（本来の面目を露出す）。荷擔正法（正法を荷担し）、純剛煉就肩頭（純鋼に煉就した肩頭）。徹底爲人（徹底して人の為に）、生鐵鑄成肝膽（生鉄に鑄成した肝膽）。死生路上、直往直來（死生の路上、直往直来）。今事門頭、半開半掩（今事の門頭、半分開き半分明く）。六十餘年松風水月襟懷（六十余年、松風水月の襟懷）、千七百則兔角龜毛柱杖（千七百則、兎角亀毛の柱杖）。饒他末後風流（他を許す、末後の風流）、未免藏頭露尾（免れず、頭を蔵し尾を露わす）。撇下贓私（贓私を撇下するに）、誰料落在憨山道人手中（誰か料らん、憨山道人の手中に落ちたるを）、今日特爲人天衆前（今日特に人天衆の前の為に）、當場拈出（当場拈出す）、大衆還見麼（大衆還た見るや）」。火把を以て○相を画して云う、「拄杖挑開雙徑雲、通身涌出光明蔵。珍重諸人著眼看、這回始信無遮障（柱杖、双径の雲を挑開し、通身、光明蔵を涌出す。諸人、著眼看るを珍重せよ、这回、始めて信ず、遮障無きを）」。

○徵聞達師罹難時．皇太子初立．福王未就封．有投匿名書於閣部者．題曰．續憂危竑議．言貴妃將危太子。上聞之．怒甚．發卒嚴捕．羅織沈相國鯉．郭宗伯正域．並幾罹難．後磔礉生光以解。又按達師遺事云．師當訊鞫時．大金吾．厲聲問曰．妖書事．汝定知道。師對曰．臣不知。金吾曰．汝緣何不知。師曰．臣凡僧．不知。又問．乃述三負語．絕無他辭。圜中臨化前一日．陸五臺公子澹園公．時在水曹．師與手札云．此間黑暗殊甚．速買琉璃燈七盞進來．以作光明勝事。澹園如命送至．越日．師然燈．几上．端坐說偈曰．一笑由來別有因．那知大塊不容塵。從茲收拾娘生足．鐵橛花開不待春。

> 達師が難に遭われた時、皇太子は即位されたばかりで、福王はまだ封されておりませんでした。ある者が閣部に匿名の書状を投じ、題して「続憂危竑議」とありました。それは貴妃が太子を危険に陥れようとしていると述べたものでした。帝はこれを聞き、激怒し、兵を発して厳しく捜索させました。その結果、沈相国の鯉や、郭宗伯の正域らが連座し、ほとんど難を被るところでした。後に、?生光を磔にして事態を収めました。 また、達師の遺事によれば、師が取り調べを受けた時、大金吾が鋭い声で問いました。「妖書の件、お前は必ず知っているはずだ」と。師は答えました。「臣は存じません」と。金吾が言いました。「なぜ知らぬのか」と。師は答えました。「臣はただの僧でございます。存じません」と。さらに問われると、三つの負い目について述べられただけで、他に言葉は全くありませんでした。 獄中で遷化される前日、陸五台の公子である澹園公が当時水曹におられました。師は手紙を送り、こう記されました。「この所は非常に暗い。すぐに瑠璃灯を七つ買って届けてほしい。光明の勝事としたい」と。澹園公は命のままにそれを送りました。翌日、師は机の上に灯をともし、端座して偈を説かれました。「一笑由来別有因、那知大塊不容塵。従茲収拾娘生足、鉄橛花開不待春」。

○又按達師為法忘身之事非一．而創刻方冊．視圜中罹難因緣．尤為可大可久。惟此方冊．廣法運．便參學．隨人隨地．悉可流通。否則．梵本莊嚴．帙繁價重．通僧不通俗．遐方善信．雖聞佛名號．難見法寶隻字矣。自達師開闢勝因．傳播薄海內外．天上天下．佛法中人．無不聞知。嘉興郡中楞嚴寺．有書本經坊常住者。其刻藏緣起．在達師高足密藏公．奉慈聖太后旨．鳩工五臺。而究竟成就．則在徑山寂照化城．及吾郡楞嚴般若堂兩地。當日達師法語．著為令曰．徑山藏板．不得發經．楞嚴發經．不得藏板．似逆慮後來．他郡邑之妄有紛更者。憨祖過嘉郡時．楞嚴堂主茂竹公．延齋於本寺．因請開示。憨祖示語．歷敘楞嚴廢興．亦稱茂公端雅慈忍．而勉以大法．流通無窮不朽之佛事。因於坐間面囑徵云．我與達大師．法門心契．休戚相關．刻藏事．即我事．此未了念也．汝幸勿忘。嗣後移坊私印．紛更數番。自癸亥歲．延江西宗派．白法琮公．住持楞嚴．稍有就緒。而化城僧清隱．復於丙寅丁卯間．捏造變亂之說。賴白公操履方正．經理精詳．不避嫌怨．終難動搖。迄今二十餘年．功在楞嚴．門殿像設．香積種種．圓就不小。而其莫大斡旋．尤在流通方冊．長開人天眼目。九疑李先生．稱白公為紫柏肖子．密藏幹弟．不虛也。即乙酉閏六月．兵燹大亂時．白公坐鎮經坊．鋒刃榜掠．劫之數四．屹然不動。直以頭目髓腦．捍衛竺乾墳典．得完璧如平時．佛力法力僧力．於茲大現奇特。今白公雖自楞嚴．而營泉．而漏澤．而東塔．杖笠所到．靡不鼎新整飭。而經坊一大事因緣．徵當從之始終．無負達憨諸祖遺念也。

> ○また、達観大師が法のため自らを忘れた事跡は一つや二つではない。中でも方冊（経典の冊子版）を創刻したことは、世の中の苦難の因縁を見極め、とりわけ偉大で永続する事業と言える。この方冊によって、仏法の流れは広がり、学びの人々は都合よく、場所を選ばず誰でも流通させることができる。もしそうでなければ、サンスクリットの経典は荘厳で帙（帙）が重く価格も高いため、僧侶に通じても一般の人々には通じず、遠方の善男信女は、仏の名号を聞いても、法宝の一文字も見ることが難しかっただろう。 達観大師がこの勝れた因縁を開き、四海内外に伝播して以来、天上天下、仏法に関わる人々は、みなこれを知らない者はいない。嘉興郡の楞厳寺には、経典の書本を専門に扱う経坊（経典の印刷所）がある。その蔵経刻印の因縁は、達観大師の高弟である密蔵禅師が、慈聖太后の遺旨を奉じて、五台山で工事を起こしたことに始まる。そしてついに成就したのは、径山の寂照庵・化城庵、および我が郡の楞厳寺・般若堂の二か所である。 当時、達観大師の法語には「径山の蔵板は経典を出してはならない。楞厳の経典は蔵板を所蔵してはならない」という定めがあった。これは後世、他の郡邑で軽率に変更する者が現れるのを予見してのことである。憨山大師が嘉興郡を訪れた時、楞厳堂主の茂竹禅師が、本寺に招いて斎を施し、開示を請うた。憨山大師の示語は、楞厳の廃興を詳しく述べ、茂竹禅師を「端雅慈忍」と称え、大法をもって流通無窮・不朽の仏事をなすよう励ました。 そしてその席で、私に直接こう言い含めた。「私は達観大師と法門において心を通わせ、利害を共にしている。蔵経刻印のことこそ、我が事である。この未完の事業は、決して忘れてはならぬよ」と。その後、経坊は私的に移され、印刷所は数度にわたって変更された。癸亥の年からは江西の宗派から白法琮禅師を招き、楞厳寺を住持させると、ようやく整い始めた。しかし、化城庵の僧・清隠が、丙寅・丁卯の間に偽りの騒乱説を捏造した。白禅師の正しい行いと精細な管理により、嫌疑や恨みを避けず、結局動揺することはなかった。 今から二十余年、功績は楞厳寺にあり、門や殿舎、仏像の荘厳、香積（食事）の諸々は、小さからぬ完成を見せた。その最大の功績は、方冊の流通にあり、長く人天の眼目を開いたことである。九疑の李先生が白禅師を「紫柏大師の実の子、密蔵禅師の弟」と称したのも、決して虚言ではない。 乙酉年閏六月、兵火の大混乱の時も、白禅師は経坊に坐し、刃の先や拷問にも遭い、何度も略奪されたが、崩じることはなかった。まさに頭・目・髄・脳を捧げ、仏典を守り、平時のように完全な状態を保った。仏の力・法の力・僧の力が、ここに大いに奇跡を現したのである。 今、白禅師は楞厳寺を離れ、営泉、漏沢、東塔と、杖と笠の赴くところ、どこでも新しく整備している。経坊という一大事の因縁について、私は終始これに従い、達観・憨山両大師の遺志を裏切らぬようにしなければならない。

三十二年甲辰●

> 三十二年、甲辰の年

予五十九歲．春正月．以達師之故．通行至按院．檄予還戍所．遂去曹溪往雷州。因憶達師云．楞嚴說七趣因果．世書無對解者。予曰．春秋乃明明因果之書耳．遂著春秋左氏心法。達觀師六見。

> 五十九歳の年の春、正月のことでした。達観師の件があり、私は役所まで行き、按察使から戍所（守備地）へ戻るよう命じられました。そこで曹渓を去り、雷州へ向かいました。その折、達観師が「楞厳経には七趣の因果が説かれているが、世の書物にはそれに相応する解釈がない」と言われたのを思い出しました。私は「春秋こそ因果を明らかにした書物である」と申し上げ、そこで『春秋左氏心法』を著しました。 <note>達観師に六度お目にかかった。

徵讀上文云．以為予之故．又及之。此云．以達師之故．檄予還戍所。蓋達師磔礉生光事．在危儲時．兩人實一人．兩事實一事．兩難實一難。故一番京院通行．又一番大危疑是非也。而有閒心著書．更不著佛書．偏著孔書．不著他書．偏著春秋左氏心法者．春秋自隱桓以後．如魯衛齊晉．專以妃匹之惑亂．致儲貳之廢立．國祚之衰危。援古況今．殷鑑不遠。言者無罪．聞者足戒。左氏心法．得之孔子．祖師心法．得之佛菩薩．入世出世．義莫大乎春秋也。

> 上記の文章にある「以爲予之故」は、「私のせいで」という意味で用いられています。 また「以達師之故」とは、達師のことが原因で、私が戍所（見張りの任地）へと呼び戻されたことを指しています。 そもそも達師が弾劾され、世に出た事件は、皇太子の地位が危うくなっていた時に起こりました。この二人（作者と達師）は実は同一人物であり、二つの出来事も実は一つの出来事、二つの困難も実は一つの困難でした。 そのため、一度は京師の役所を通行する騒ぎとなり、またひときわ大きな危険と疑念、是非が巻き起こりました。 ところが、そのような中で平静な心で書物を著し、しかも仏書ではなく、あえて儒書を書き、他の書物ではなく、あえて『春秋左氏心法』を著したのはなぜでしょうか。 春秋の時代は、魯・衛・斉・晋などの国々が、君主の后妃への惑溺によって太子の廃立が起こり、国運が衰退・危機に陥ることを専らとしました。過去を引き合いに出して現在を戒めるならば、その教訓は近くにあります。語る者に罪はなく、聞く者は戒めとすべきです。 左氏の心法は孔子に由来し、祖師（達師）の心法は仏菩薩に由来します。世の中に入ることも世を超えることも、その義は『春秋』にまさるものはありません。

三十三年乙巳●

> 三十三年 乙巳

予六十歲．春三月．渡瓊海．訪東坡桄榔庵．白龍泉．求覺範禪師遺迹．不可得。寓明昌塔院．作春秋左氏心法序。遊石山．作瓊海探奇記．金粟泉記。夜登郡城．索然若無人煙者．唯城西郭．少有生氣。予因謂諸子曰．瓊城將有災．急禳之．人以為妄。及予渡海．方半月．地大震．城東．壁連門陷．城中官舍盡傾塌。明昌塔倒．壓予所居樓盡碎。予行時．郡士夫苦留之．予不肯止．若不行．則予亦為灰粉矣．是時人以為異。因月夜渡海．觀瓊之勝槩．予以為仙都．乃十洲之一云。夏四月．制府檄予回五羊。秋七月．至曹溪．去時．祖殿已拆修造．工未止．歸則完者十之六七。所負工料．將千金．毫無出。予化兩內使施．盡償之．復修五羊青門長春庵．為曹溪廨院．為六祖辦供之所。制府戴公．三見。兩內使．即前採使李公輩．二見。

徵疑．兩內使．即採使．能效忠聖母者．故得於檄戍重歸．頓施償所負祖殿工料千金．此豈募化所易致哉。內使之施．亦聖母疇昔聲名之緣也。望氣知災．如宣尼商羊知雨．月暈知晴．自是通明人先幾本等事．非為語怪。前乙巳春三月．瓊州城．明昌塔倒．壓所居樓盡碎．而憨師適行．自謂免於灰粉．人以為異。迨後十二年丙辰夏．六月二十八日．嘉興北城椿樹巷．所居堂樓五間．悉倒．徵壓其下．得三巨梁翼而支之。磚瓦大徑尺餘者．著身．如冥器中所用楮物．不知擊痛．絕無傷損。出於聚礫之中．如一泥人．沐浴經時而淨．覺舉動無少別。合城驚怪．以為再生中所希有。是時徵早信佛法．樓傾大震時．舉家咸聞有南無觀世音菩薩一聲．徹空中也。即於七月朔．入徑山．禮雪嶠禪師．述之．雪夷然不以為異。隨於十一月朔．在徑山．得遇憨祖．述之．祖矍然不以為常。因名以福徵．字以梁生．而示之以偈。茲讀譜中瓊城碎樓語．因憶前事。祖以知幾其神．從渡海免灰粉．而人以為異。徵以死生有命．從灰粉中免灰粉．而心時不忘。因感而附識之。