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title: "憨山大師年譜疏註 · 六十一歲至七十歲"
description: "憨山大師年譜疏註由福善記錄、福徵述疏，成書於明末清初。該書以年譜形式詳實記述了明代高僧憨山德清大師的生平事跡，包括其求法經歷、弘法事業以及與皇室和士大夫的交往。內容涵蓋大師的修行體悟、著作講解以及對禪宗思想的闡釋，並附有註疏者對重要事件的考證與解讀。作為研究憨山大師思想與明代佛教史的重要文獻，該書不僅是了解大師生平權威史料，更是探討晚明佛教復興運動及禪淨雙修思想發展的核心典籍，在漢傳佛教史上具有崇高地位。"
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三十四年丙午●

> 三十四年、丙午の年。

予六十一歲．春三月．度嶺至南州．候丁右武．謝張相國洪陽公。以予在難時．公居亞相．知予之難始末最詳．相與一時力救之．予心感焉。今公居家．故往謝。公歡然道故．集諸子．款齋於江上之閒雲樓。坐中．公曰．人皆知憨師為大善知識耳．不知大有社稷陰功也。眾聞之．悚然．問公．公言其槩．一座動色．時有詩六首。回過文江．訪鄒給諫．留數日。至章貢．陳貳師將軍．留署中．病期月．有臥病詩十二首．歸曹溪。至秋八月．皇長孫生．有恩赦．凡在戍老疾．及詿誤者．俱聽辯明釋放．予在例。乃往告軍門．准行勘．復之雷州道．勘明應赦．按察司．類造候題．遂開伍。丁右武．四見。張相國洪陽．一見。鄒給諫．二見。陳貳將軍．一見。皇長孫．一見。洪陽．名位．江西新建人。主泰昌定儲之議．與沈相國鯉．郭宗伯正域．並有大功。

> 六十一歳の年の春三月、嶺を越えて南州に到り、丁右武を訪ねました。そして、張相国洪陽公にお礼を申し上げました。私が難儀していた時、公は亞相の任にあり、私の艱難の始終を最も詳しくご存じで、共に力を尽くして私を救ってくださいました。その恩義に心から感謝しております。今、公はご自宅におられますので、お礼に伺ったのです。公は喜んで昔話をされ、息子たちを集め、江上の閒雲楼で斎をもてなしてくださいました。座の中で公は言われました。「皆さんは、憨師をただの大善知識だと思っているでしょうが、彼が社稷のために尽くした陰の功績を知らないのです」。皆これを聞いて驚き、公に問い質すと、公がその概略を話され、一座の者たちは皆、顔色を変えました。その時、詩を六首詠みました。 その後、文江に立ち寄り、鄒給諫を訪ねて数日滞在しました。章貢に至ると、陳貳師将軍が宿舎に留めてくださり、そこで一か月ほど病に臥しました。その時に臥病詩を十二首作りました。そして曹溪に帰りました。 秋八月、皇長孫がお生まれになり、恩赦がありました。戍役に就いている者や老病の者、また過失で罪に問われている者は、弁明により釈放するというものでした。私もこれに該当しました。そこで軍門に出向き、調査を申請しました。雷州道に戻り、調査の結果、恩赦に該当することが判明しました。按察司は類別して上奏を待ち、ついに私は軍籍を除かれたのです。 <note>丁右武は四度目の登場。張相国洪陽は一度目の登場。鄒給諫は二度目の登場。陳貳将軍は一度目の登場。皇長孫は一度目の登場。洪陽（名は位）、江西新建の人。泰昌帝の皇太子擁立の議論を主導し、沈相国鯉、郭宗伯正域と共に大きな功績があった。</note>

徵按洪陽公所稱．大有社稷陰功．及言其槩．一座動色者．無非祈儲得儲．保儲建儲．以致觸忌犯患．宮闈內外．所不可言之事．故其言若露若諱．卒不得傳。憨祖以此戍始．以此赦終．故大書特書云．秋八月．皇長孫生。照前壬午書．八月皇太子生並春秋特筆之例．是以有春秋左氏心法之著也。皇太子者何．泰昌既立後之追稱也。皇長孫者何．天啟初生時之敘稱也。天啟．亦泰昌才人王氏所生．後諡孝端皇后。蓋兩王才人．相繼毓二帝也。憨祖雖身在恩赦中．義不專為恩赦．筆直綰結臺山祈嗣緣起時。半生大關目．大公案．在皇長孫生四字。是以知年譜前後顛末．悉春秋左氏心法也。

> 洪陽公が語ったところによれば、彼は国家に多大な陰徳を積み、その話を大まかに述べると一座の皆が顔色を変えたという。それは、帝に子が授かるよう祈り、その子が授かり、その子を守り、その子を太子に立てることで、ついには聖意に触れ、危難に遭うこととなった。また、宮中の内外で口にできないような出来事があったため、その言葉はあえて露わにせず、あるいは忌み隠すようであった。結果として、その真実は伝わらなかった。 憨祖はこの事件によって流罪となり、この恩赦によって生涯を終えた。そこで彼はあえて大きく書き記して「秋八月、皇長孫が生まれる」とした。これは先の壬午の年に「八月、皇太子が生まれる」と記したのと、春秋の筆法に基づく特別な記述の例に倣ったものである。これこそが『春秋左氏心法』を著すに至ったゆえんである。 ここで「皇太子」とは何か。泰昌帝が即位した後に追って称された呼び名である。「皇長孫」とは何か。天啓帝が生まれた当初に時系列に沿って述べられた呼び名である。天啓帝もまた、泰昌帝の才人であった王氏が生んだ子であり、後に孝端皇后と諡された。 すなわち、二人の王姓の才人が相次いで二人の皇帝を生み育てたのである。憨祖は恩赦の身にありながらも、その意味をただ恩赦のみに限定することはなかった。その筆はまっすぐに、五台山での皇子誕生祈願の因縁をつなぎとめている。彼の生涯の重要な節目、大公案は、「皇長孫が生まれる」という四字にあるのである。これによって、年譜の前後の経緯がすべて『春秋左氏心法』に依拠していることが知られるのである。

三十五年丁未●

> 三十五歳、丁未の年。

予六十二歲．春三月．予告回籍．制府檄韶州府．安置曹溪。予住山中時．得為諸弟子說法。予幼讀老子．以文古意幽．苦艱澀．切究其旨．有所得．俗弟子．請為之註．始於壬辰屬意．每參究透徹．方落筆。苟一字有疑而不通者．決不輕放。因此用功十五年．攜於行間．至今方完。制府戴公．四見。

> 私は六十二歳の春三月、故郷へ帰ることを願い出ました。総督が韶州府に命じ、曹溪に住むこととなりました。私は山にこもっている間、弟子たちのために説法を行う機会を得ました。 私は幼い頃に老子を読んだことがありましたが、文章が古く、意味が深く、読むのに苦労しました。そこでその趣旨を突き詰めて考察し、いくつかの理解を得ました。俗人の弟子たちがその註釈を書いてほしいと請うたため、壬辰の年から着手しました。一つ一つの意味を徹底的に究明してから、ようやく筆を下ろしました。たとえ一文字でも疑問が残り、理解できないものがあれば、決して軽んじて見過ごすことはありませんでした。このようにして十五年の歳月を費やし、旅の間も携えてきたものが、今ようやく完成しました。 <note>総督の戴公とは、四度目の面会となりました。</note>

徵按憨祖外紀云．道德一經註．歷十三年乃脫槀。太上語旨．蓋身試之而後見．未可謂紙上陳言．無真味也。予凡著經．必是凝神入觀．體契佛心．機倪忽自迸出者．方副之紙。若涉思議．即不中用。

> 『憨祖外紀』にいう、『道徳経』の註釈は十三年を経てようやく成ったと。太上の言葉の真意は、自ら実践して初めて見えるものであり、紙上の陳腐な言葉に真の味わいがないとは言えない。私が経典を著す時は、必ず精神を集中して観想に入り、仏の心と一体となり、機縁が自ら湧き出てくるのを待って、ようやく紙に書き記す。もし思慮分別を交えれば、それは役に立たない。

三十六年戊申●

> 三十六年 戊申

予六十三歲．議修曹溪大殿。春二月．馮元成公．吳中人．任嶺西道。因訪予入山．宿．遂夢大士現身．有感．詰朝入殿禮佛．至三大士前．見兩棟摧朽．驚謂予曰．何不修此。予曰．工大費多．力不及耳。問曰．費幾何。予應以若干。公曰．無難也．吾試為之。歸白制府戴公．公曰．殆哉．見孺子將入井．必匍匐往救之．況佛菩薩處此危地．不動心．非夫也。乃詰所費．即以予言告。公曰．猶未也．即發南韶道往勘估計．且令請予以議之。予往．見公．公慨然欲獨為鼎建。予告曰．若勞公家之費．恐不便．苟依法門故事．庶幾可耳公曰．柰何。予請以募眾為之．公囑嶺西道．為疏十二簿．三司道府．各置一扇．隨意施捨．總會於府．解歸於一．無庸歸僧。如此．則不勞而易集。公從之．不期月而集將千金。予躬往西粵采大木．至端州．制府留修寶月臺．乃別委官采辦。冬．寶月臺成．予作記．材木俱積於端江之滸．次第運之。冬十一月初．安南賊破欽州．戴公請王師遠討．因覈論罷。嶺西道馮元成．一見。制府戴公．五見。元成．名時可．號文所．華亭人．隆慶辛未進士．歷浙江參政。

> 私は六十三歳の時、曹渓大殿の修復を計画しました。春の二月、馮元成という嶺西道の役人が、呉の出身でいらっしゃいました。彼が私に会いに山に入り、宿泊しました。すると夢に観音大士が現れ、そのお姿に感動されました。翌朝、彼は仏殿に入り仏に礼拝し、三つの菩薩の像の前に来た時、二本の梁が朽ちているのを見て、驚いて私に言いました。「なぜ修復しないのですか。」私は答えました。「工事は大きく費用も多いため、力が及びません。」彼が「費用はどのくらいですか。」と尋ねましたので、私はいくらかをお答えしました。彼は「難しいことではありません。私がやってみましょう。」と言いました。 帰って制府の戴公に報告すると、戴公は言いました。「危ない。子供が井戸に落ちそうになるのを見たら、必ず這ってでも助けに行くものだ。ましてや仏や菩薩がこのような危険な場所におられるのに、心を動かさないのは男らしくない。」そこで費用を尋ね、私は彼が言ったことをそのまま伝えました。戴公は「まだ足りない。」と言い、すぐに南韶道に行かせて調査と見積もりをさせ、さらに私を呼んで協議させました。 私が彼に会うと、戴公は感激して一人で全額を負担し建て直そうとしました。私はお伝えしました。「もしお役所の費用をお使いになるのは、恐らく好ましくないでしょう。もし法門の昔からのやり方に従えば、何とかできるかもしれません。」戴公は「どうすれば良いのか。」と尋ねました。私は、人々から寄付を募ることを提案しました。戴公は嶺西道に命じ、十二冊の寄付簿を作らせ、三司や道府ごとに一冊ずつ置き、自由に寄付してもらい、全てを府で集め、一箇所にまとめて僧に回さないようにしました。そうすれば、労せずして容易に集まるでしょう。戴公はこれに従い、一か月もしないうちに千金ほどが集まりました。 私は自ら西粤に行き大木を調達し、端州に着くと、制府が私を留めて宝月台の修復をさせ、別の役人に材料の調達を任せました。冬になり宝月台が完成し、私は記録を書き、材料は全て端江のほとりに積み上げられ、順次運ばれました。冬の十一月初め、安南の賊が欽州を攻め落とし、戴公は朝廷の軍に遠征を要請しましたが、そのために弾劾されて免職となりました。 <note>嶺西道の馮元成に一度会う。制府の戴公に五度会う。元成の名は時可、号は文所、華亭の人、隆慶辛未の進士、浙江参政を歴任。</note>

徵於宗鏡堂．聞之侍者云．戴制府耀．節鉞粵中九載．山海寇賊數動．得久任無虞者．悉藉憨祖之力。是以効施曹溪．百廢具舉．獨大殿未建．擬用鐵梨木為棟梁．盡從粵西采至地．價已值三千金矣。戴公更一年在任．曹溪事業．成就不思議矣。臨罷之日．留師修寶月堂者．是時安南猺獞破欽州．事已潰敗．上聞．幾被逮矣。師以重名．用幢幡寶蓋．入洞說降之。賊既退．得安輯．全活欽州百萬生靈。戴公乃有請王師問罪之疏．以掩前失事．故僅覈論罷．而得免於逮訊．師所以報戴興復曹溪之功者．亦綦大矣。然而不侈己功．不彰戴失．直以十數字．了制府去官一案．亦春秋為賢者諱之心法．忠厚之至義也。時有奇門指掌一書．為戴公所乞論著。

> 鏡のごとき宗鏡堂を訪ねたとき、侍者の言葉を聞いた。それによると、戴制府耀（たいせいふ・よう）は節鉞（せつえつ）を携えて広東に九年間赴任していたそうだ。山海の賊が幾度も蜂起したが、彼が長く任にあって無事でいられたのは、すべて憨祖（かんそ）の力によるものだった。その恩義に報いるため、曹溪（そうけい）に献じたところ、多くの荒れ果てた事業が再興された。ただ大殿だけはまだ建てられておらず、鉄梨木（てつりぼく）を梁や柱に用いる計画で、その材木は広西からすべて運び込まれたが、費用だけでもすでに三千金に上っていた。 戴公がさらに一年在任すれば、曹溪の事業は成就し、計り知れないものとなったであろう。しかし、彼が職を解かれる間際、師に宝月堂の修理を託したのは、ちょうど安南の猺獞（ようどう）が欽州（きんしゅう）を攻め落とした時だった。この事件はすでに手がつけられぬほど混乱しており、朝廷に報告されると、彼は捕らえられるところであった。師はその名声を以て、幢幡（どうばん）や宝蓋（ほうがい）を掲げ、賊の根拠地に入り、説得して投降させた。賊は退き、情勢は落ち着き、欽州の百万もの命が救われたのである。 戴公はそこで、王師に罪を問わせるよう求める上奏文を出し、これまでの失敗を隠そうとした。そのため、審査の末、職を解かれるだけで、逮捕や尋問は免れた。師が戴公の曹溪復興の功績に報いたのは、実に大きなものであった。しかし、師は自らの功績を誇らず、戴公の失敗を明らかにすることもなく、ただ十数文字で、制府が官を去った一件を片づけた。これは『春秋』が賢者のために事実を隠した心法であり、誠実で寛大な極みの義である。 なお、当時『奇門指掌』という一書があり、これは戴公が師に請うて著させたものである。

三十七年己酉●

> 三十七年、己酉の年。

予六十四歲．春二月．予自端州運木回．阻風於羚羊峽．遊端溪．有夢遊端溪記。木運至濛江．予即入山．方集眾經營之．時眾中不肖者數僧．遂作孼牴牾之．因鼓眾為亂．如叛民。予見而歎曰．此予重違佛教．乃著相之過也。眾方鼓噪．予獨坐堂上．焚香誦金剛般若．至佛說四見即非四見．忽然大悟．遂著金剛決疑。稾成．眾寂然．比不肖者．不見信予心．乃為奸人誤之．益危懼．遂訟於按院．准行司理。予是時．飄然出山聽理．船居於芙蓉江上者二年．資斧已竭。時別駕項公楚東．抱關於浛江．邀予往。江行．遭風破舟．及至．復大病幾死．公延醫力救之。及回郡．乃臥病於旅邸．將期年。司理．無姓。別駕項公楚東．名桂芳．嘉興人．各一見。

> 私は六十四歳の年の春二月。端州から材木を運んで帰る途中、羚羊峡で風に阻まれ、端溪に立ち寄った。その時、「夢遊端溪記」という文章を記した。材木を濛江まで運んだ後、私はすぐに山に入った。ちょうど多くの人々を集めて作業を始めようとしていたところ、仲間の僧の中に不届きな者が数名おり、事を起こして反抗し、僧たちを扇動して反乱を起こさせた。あたかも民衆の反乱のようであった。 私はそれを見て嘆き、「これは私が仏教の教えに背き、姿や形に執着した過ちである」と言った。僧たちが騒ぎ立てている中、私は一人堂に座り、香を焚いて『金剛般若経』を誦んだ。「仏が説いた四つの見解もまた、四つの見解ではない」という一節に至ったとき、突然に大いなる悟りを得て、『金剛決疑』を著した。原稿が完成すると、僧たちは静かになった。しかし、あの不届きな者たちは私の真心を信じず、奸悪な者たちにそそのかされて、ますます恐れ慎み、ついには按察使に訴え出た。按察使はこれを受理し、裁判官に送った。 その時、私は身を軽んじて山を出て裁判に臨み、芙蓉江のほとりに船を浮かべて二年間過ごしたが、旅費も尽きてしまった。ちょうどその頃、別駕の項楚東氏が浛江で関所の仕事をしており、私を招いてくれた。江を下る途中、風に遭って船が難破し、到着してからも重い病気にかかり、ほとんど死にそうになった。項氏は医者を呼んで懸命に助けてくれた。その後、郡に戻り、旅館で寝込むこと約一年となった。 <note>司理は姓不詳。別駕の項楚東は名を桂芳といい、嘉興の人で、一度だけ会ったことがある。</note>

徵授梓金剛決疑於楞嚴經坊．計四十八牒。不知何以搶攘鼓噪中．片刻便能成稾．洵得心應手．不在文字求也。

> 金剛決疑を、楞厳経の版元に版木を依頼する。全部で四十八枚であった。どういうわけか、騒がしい喧噪の中、ほんのわずかな時間で原稿ができあがった。まさに心が応じて手が動くということで、文字の上に求めるものではなかったのだ。

三十八年庚戌●

> 三十八年、庚戌の年。

予六十五歲．是年．船居於江上。秋七月．直指按部至郡．訪及予．時司理聞之。方為理返坐予罪。直指大不然．駁之云．某大有功於六祖者。向所捨為常住計者．今奸僧得利．而返罪之．是謂平等法門乎．復行本道嚴究之。由是本府親詣山中．按僧之所開狀．逐款審之．盡妄言無當也。所誣侵常住八千餘金．予初立常住庫司清規．置有號票。凡一應錢糧收支．有監寺書記．秋毫出入．皆執號票為據．不妄發也。至是．歷年執事僧．當官研覈查算．以號票為準．無分毫及予者。時上下內外．方信予之不妄也．事乃白。當道重怒其僧．予力為解之。再三請予留住山中．時予心已厭倦．故力辭之。以禪堂付弟子懷愚掌之．予即飄然長往。直指無姓．一見。○禪堂．即寶林堂。

> 私は六十五歳の年であった。その年、私は江上の船に住んでいた。秋七月、巡按御史（直指）が巡行のためこの地に来られ、私を訪ねてくださった。その時、司理（法官）がこれを聞きつけ、ちょうど私の罪を追及して法廷に引き出そうとしていた。ところが巡按御史はこれを全く認めず、次のように駁論された。「この僧は六祖に対し大きな功績がある者だ。以前に寺の共有財産として寄進したものは、今や悪僧らが私利を貪っている。その功績ある者をかえって罰するとは、これが平等の法門というものか。」そして改めて、管轄の役所に厳重な調査を命じられた。 これにより、本府（その地の知事）自ら山中にお出でになり、僧たちが作成した告訴状の項目を一つ一つ審問されたが、それらはすべて虚偽であり、当を得ないものであった。僧たちの告訴によれば、私が寺院の共有財産である金八千両余りを横領したというのだ。そもそも私は当初、寺院の共有財産を管理するための庫司清規（会計規則）を定め、番号付きの証票を設けていた。すべての金銭や食料の収支には、監寺や書記が立ち会い、わずかな出入りもすべてこの証票を証拠として扱い、根拠なく支出することはなかった。そこで、それぞれの年に責任者を務めた僧たちが、役人の面前で調査・計算を行った結果、証票に基づいて精査され、私に不正な金が及んでいることは一切なかった。 この時、上下内外の人々がようやく、私に偽りがないことを信じ、事実は明らかになった。役人たちは告訴した僧たちを厳しく罰そうとしたが、私は力いっぱい彼らを弁護した。そして、何度も山中に留まるよう懇願されたが、その時すでに私は心が厭い疲れていたため、固辞した。私は禅堂を弟子の懐愚に任せ、そのままふらりと長旅に出たのである。 <note>直指（巡按御史）は名もなく、一度会ったのみ。○禅堂は、すなわち宝林堂である。</note>

徵疑戴制府方罷．而不肖數僧．輒敢大發難端．此何僧乎．必曹溪舊主僧也。此所誣侵常住者．何錢糧乎．必曹溪舊規．當官收支．當官覈算．積年常住錢糧也。自上臺延憨祖入曹溪．而舊僧不得主．久失侵漁之利．故乘臺憲知交乏人．構司理以翻局。而幾先之哲．杜患已豫．倉猝之孼．肆毒無虞。然兩年船居聽理．轉眼殿材歸虛．此六祖緣事之大慳．幸憨祖長算之善後也。回視曩者請查內支籍冒施無稽之事．難有大小．解惟一法。千僧粥飯場．片席潔白地．禪堂得付．去來自由．曹溪公案從此了．而正未了也。瀕行．勉曹溪諸弟子十首云．千僧和合似靈山．大眾皈依豈等閒。不是曾蒙親囑付．如何得入祖師關。肉身現在即如生．朝暮茶湯出志誠。鐘鼓分明當說法．不須苦口再叮嚀。福田種子要深栽．因果如臨明鏡臺。親到寶山千萬次．這回不可又空回。辛勤作務莫辭勞．可想當年石墜腰。一息不來千萬劫．善根不種苦難消。莫教輕易過平生．如箭光陰實可驚。只恐氣銷三寸後．幾時再到寶山行。功德園林不可輕．腳跟步步要分明。莫教錯落隨他去．免使盲人又夜行。寸椽片瓦眾緣成．信施脂膏不可輕。切莫貪他驢糞橛．等閒換卻一雙睛。信心膏血重須彌．粒米莖薪不可欺。但看披毛并戴角．酬償夙債苦泥犁。幸生中國早離塵．身著袈裟遠六親。受用空門清淨福．如何能報祖師恩。少小能存向上心．毫芒終長到千尋。只須歷盡冰霜苦．始得成材出鄧林。又將之南嶽．留別嶺南法社諸子十首云．一落風塵二十年．相逢須信是前緣。自從衣鉢南來後．今日重拈直指禪。底事分明在己躬．不須向外問窮通。但能觸處回光照．莫被塵勞困主公。大道從來絕本真．多因分別強疎親。直須看破娘生面．方是塵中特達人。瘴煙飲盡齒猶寒．不記從前道路難。此去萬山深密處．雲霞五色座中看。廿載驅馳走瘴鄉．年來不覺鬢如霜。今乘一葉扁舟去．蹤迹應從萬壑藏。塵勞浪迹久和光．只為拈提此事忙。千尺釣竿幾斫盡．海天回首更茫茫。一自歸依繞法壇．時時為乞此心安。莫言別去三千里．明月中天覿面看。時把綸竿見素心．竹枝唱罷幾知音。扁舟歸去霜天夜．明月蘆花何處尋。寒空歷歷鴈聲孤．蹤迹從今落五湖。無限煙波寄愁思．片帆天際是歸途。為法寧辭道路賒．豈云瘴海是天涯。頻將一滴曹溪水．灌溉西來五葉花。

> 疑いを抱き、制府（総督）の裁きが終わらないうちに、私のような拙僧が事を大きく荒立てた。これは一体どのような僧であろうか。きっと曹溪の旧住職であろう。横領したとする常住の銭糧（寺の財産）とは何であろうか。必ずや曹溪の旧例に従い、官府が収支を担い、官府が精算してきた、長年にわたる常住の銭糧であろう。上臺（上官）が憨祖（憨山）を曹溪に招いてから、旧僧は主導権を奪われ、長らく横領の利を得られなくなった。そこで、臺憲（上司）たちの知己が乏しいのを幸いと見て、司理（裁判官）を抱き込んで局面を覆そうとした。しかし、先見の明ある者は、既に災いを未然に防いでいた。慌ただしい中での悪行は、毒を撒き散らすことも無謀であった。とはいえ、二年間を船中で暮らし裁きを待つうちに、たちまち堂の資材は空となり、これこそ六祖の因縁事における大きな障りである。幸いにも憨祖の長期的な計画が、事後の始末を上手くつけた。昔、内帑（内庫）の帳簿調査を願い出て、根拠のない布施を暴いた一件を顧みれば、難儀に大小の差はあれ、解決はただ一つの方法による。千人もの僧が粥を食べる場所、一片の清らかな地、禅堂を得て受け継ぎ、去来は自由自在。曹溪の公案はこれにて一段落したが、まだ終わったわけではない。旅立つにあたり、曹溪の諸弟子に十首の詩を贈った。 千人の僧が和合する様は霊山の如し　大衆の帰依、どうして等閑にできようか かつて親しく付嘱（委任）を受けていなければ　どうして祖師の関門に入ることができようか 肉身は今なお現前し生きているが如し　朝夕の茶湯は志誠（真心）から出づるもの 鐘鼓の音分明に説法を為す　苦口（熱心な説諭）して再び叮咛するに及ばず 福田の種子は深く植えるべき　因果は明鏡の台に臨むが如し 親しく宝山に至ること千万遍　この度も又、空しく帰ってはならない 辛勤に作務（仕事）を為す、労を辞してはならない　想う可し当年、石を腰に下げた（慧能の逸話）ことを 一息来たらざれば千万劫　善根を植えねば苦しみ消え難し 軽々しく平生を過ごすことを許すな　箭（矢）の如き光陰、実に驚くべきもの ただ恐れる、気の三寸に消えた後　幾度宝山に到ることを得るだろうか 功徳の園林（寺）は軽んじてはならない　脚跟（足の運び）一歩一歩分明にすべし 誤って他に随い落ちることを許すな　盲人をして又夜行（暗闇の中の歩行）させぬため 寸椽片瓦（わずかな材木や瓦）も衆縁が成したもの　信施（信仰に基づく布施）の脂膏（油や膏）は軽んじてはならない 決して彼の驢馬糞の切れ端を貪るなかれ　等閑（うっかり）に一双の眼を換えられてしまう 信心の膏血（血と汗の結晶）は須弥（山）よりも重い　一粒の米や一茎の薪も欺いてはならない ただ看よ、毛を披き角を戴く（畜生に生まれ変わる）者を　宿債を償い泥犁（地獄）に苦しむことを 幸いに中国（仏法の盛んな地）に生まれ早くに塵を離れ　身に袈裟を著け六親から遠ざかる 空門（仏門）の清らかな福を受用しながら　如何にして祖師の恩に報いることができようか 少小の時より向上の心を保ち得れば　毫芒（わずかな芽）も終に千尋に長ず ただ須く氷霜の苦しみを歴尽くすべし　始めて成材して鄧林（材木の名産地）を出ずるを得ん また南嶽へ赴くに当たり、嶺南法社の諸子に留別する詩十首。 一たび風塵に落ちて二十年　相逢うは信じて是れ前縁 衣鉢（達磨以来の伝法の証）南来の後より　今日重ねて拈起す、直指の禅 底事（その事）分明に己が躬にある　須く外に向かって窮通（運命の良し悪し）を問うことなかれ ただ触れる所、回光（心を内省し自らの本心を見つめること）して照らすことを得れば　塵労に困（くる）められ主君（本来の自己）を失わず 大道は従来絶えて本真（本当の姿）無し　多くは分別によって強いて疎親（差別）をなす 直に須く看破すべし、娘生（母親から生まれたままの）の面（顔）を　方（はじめ）て是れ塵中（俗世）の特達（傑出した）人 瘴煙（熱帯の瘴気の煙）を飲み尽くし齒なお寒し　記せず従前の道路の難きことを 此の去、万山深密の処　雲霞五色の座中に見る 二十年駆馳し瘴癘（マラリアなどの風土病）の郷を走る　年来、覚えず鬢（もみあげ）霜の如くなる 今、一葉の扁舟（小舟）に乗り去り　蹤迹（足跡）は応に萬壑（多くの谷）に藏るべし 塵労に浪迹（行脚）し久しく和光（俗世に溶け込んで輝きを和らげる）して　只だ是れ拈提（禅の公案を提起すること）の此事に忙しきが為なり 千尺の釣竿幾度か斫（き）り尽くされ　海天を回首（振り返る）すれば更に茫茫（果てしなく広がる）たり 一たび歸依し法壇を繞（めぐ）りてより　時々に為に此の心安らぐことを乞う 言うなかれ、別れて三千里　明月中天（空高く昇った月）に、面と向いて看ることを 時（ある時）に綸竿（釣り竿）を把（と）って素心（清らかな心）を示し　竹枝（歌）を唱い終わるも幾人の知音（理解者）かおる 扁舟（小舟）帰去す、霜天（霜の降りる夜の空）の夜　明月と蘆花（芦の花）、何れの処にか尋ぬべき 寒空、歴歴と鴈（かり）の声孤（ひとり）なり　蹤迹（足跡）、今より五湖（江湖の意）に落つ 無限の煙波（もやと波）に愁思を寄す　片帆（一枚帆の舟）天際（空の果て）に在るは是れ帰途（帰る道）なり 法の為に、辞すとも道路の賖（はるか）なるを肯んずや　云う岂（なん）ぞ瘴海（毒の海）是れ天涯（果て）と 頻り（しきり）に一滴の曹溪の水を将（も）って　西来の五葉の花を灌漑（そそぎ育てる）せん

○前十首教宗．後十首宗教．即此是衣鉢。

> 最初の十の詩は教えの根本を示し、後の十の詩はその教えを実際に体得する道を示す。これこそが、私からあなたへ伝える法の証（いわゆる衣鉢）そのものである。

三十九年辛亥●

> 三十九年 辛亥

予六十六歲．春三月．居端州鼎湖山養疴。初奉赦．候題．向無直指覆命．故延至今．復蒙重勘明．始銷．聽自便。時諸士子相依請益．遂述大學決疑。

> 私は六十六歳の年の春三月、端州の鼎湖山で病気療養をしていました。当初、勅命を奉じて待機していましたが、直接的な指示がなく復命できなかったため、今日まで延期されていました。改めて重ねて調査を受け、ようやく事が済み、自由に行動できるようになりました。その時、多くの学者たちが集まり教えを請うたので、『大学』の疑義を解く講話を行いました。

徵讀譜．丁酉．著中庸直指。越十五載辛亥．始述大學決疑。先中庸．後大學者．本禮記中庸第三十一．大學第四十二也。師在宗鏡堂．面語徵．大學尾中庸之義．徵得因而成書。

> 『中庸直指』を著したのは丁酉年（1657年）のこと。<br> それから15年後の辛亥年（1671年）に、ようやく『大学決疑』を書き記した。<br> まず『中庸』、次に『大学』としたのは、もともと『礼記』では中庸が第三十一篇、大学が第四十二篇であったことによる。<br> 師（蕅益大師）は宗鏡堂において徵（編者・成時）に直接語り、「大学は中庸の意味を補足するものだ」と述べた。徵はこの教えを受けて、本書をまとめたのである。

四十年壬子●

> 四十年、壬子の年。

予六十七歲．居長春庵．為諸弟子說起信論．八識．百法．請述直講。向以法華擊節．文義聯絡不分．學者難會．乃著品節。

> 私は六十七歳、長春庵にて弟子たちに『大乗起信論』・八識・百法について説法し、直接わかりやすく講じてほしいと請われた。以前『法華経』の解説書では文章の意味の区切りが不明瞭で学びにくかったため、新たに段落ごとの区分を記した。

四十一年癸丑●

> 四十一歳、癸丑の年。

予六十八歲．為諸弟子於長春庵結夏．講圓覺經．方半．即發背疽甚重．醫不能治．幾危。大將軍漢冲王公．業為予治後事。時粵人梁杏山者．酒人也．素以醫瘍名．偶至．視之曰．甚矣．少遲．則莫救矣．幸安心．無傷也。乃純採草藥以敷之．隨手奏捷．猶如弄丸．刻期取效。至冬乃痊．予為文以謝之。此疽．蓋自初坐禪時所發．知是怨債．以誦華嚴告假者．每向於書寫讀誦華嚴．則竊發．隨禱而止。即至粵中．已兩舉不成．此患在身．四十八年矣。初起時．偶忘之．且不知為疽也．遂成大疾。其怨業酬償．蓋以身試之不爽也。十月疾瘉．初與衡陽曾儀部金𥳑．為方外友．向有南嶽休老之盟．書以十數．未能也。今特具書．專門人旋湛來迎．遂杖策而往．乃去粵。初予至粵時．法性弟子相從者數十．久之漸零落．唯通炯．超逸．以風波患難疾病相從．未離左右。通岸．常往來．今將行．皆不捨．則岸逸力擔簦以從。攜侍者福慧．廣益．廣成．度嶺。以是年十一月．至湖東．遂以居。先是弟子福善．攜侍者深光．北歸探親。至是．不數日亦追至。王大將軍漢冲．梁瘍醫杏山．曾儀部金簡．弟子旋湛．通炯．各一見。超逸．通岸．各再見。福慧．廣益．廣成．深光．各一見。福善．四見。金簡．名鳳儀．字舜徵．衡陽人．以禮部郎致仕．自號南嶽山長．著楞伽宗通八卷

> 私は六十八歳の時、長春庵で弟子たちのために夏の安居を設け、『円覚経』を講義していた。講義が半分ほど進んだところで、背中に大きな悪性の腫れ物（疽）ができ、非常に重篤となった。医師も治療できず、危険な状態に陥った。大將軍の漢冲王公は、すでに私の後事の準備をしてくれていた。 その時、広東出身の梁杏山という酒好きの者がいた。彼は元々、外科の治療で名を知られており、偶然そこに立ち寄った。私を見て言うには「これは大変だ。もう少し遅れていたら手の施しようがなかった。どうか安心してください。命に別状はありません。」そして、純粋に草薬を集めて私に塗布した。すると手際よく効果が現れ、まるで玉を弄るかのように、期日通りに効き目があった。冬になってようやく全快したので、私は文章を書いて彼に感謝した。 この腫れ物は、実は最初に坐禅を始めた時にできたもので、怨みの業（カルマ）であると知っていた。『華厳経』を誦経することで、一時的に治まっていたのだ。しかし、書写や読誦を行うたびにこっそりと再発し、祈ると止むという状態が続いた。広東に来てからも二度ほど発症したが、治まらなかった。この患いは、実に四十八年間も私の身体にあったのだ。 初めて発症した時、うっかりそのことを忘れており、これが腫れ物だとも知らなかったため、大きな病となってしまった。この怨みの業の報いは、まさに身をもってその確かさを証明したと言える。 十月に病が癒えた頃、以前から衡陽の曾儀部金簡と、世俗を超えた友人として交際していた。彼とは以前から南嶽で隠居する約束をしており、十数通の手紙をやり取りしていたが、実現できずにいた。そこで今、正式に手紙をしたため、専用の使いである旋湛を送って迎えを依頼した。私は杖をついて旅立ち、広東を去った。 私が初めて広東に来た時、法に従う弟子たちが数十人も従っていた。しかし、年月が経つにつれて次第に減り、ただ通炯と超逸だけが、風波や患難、疾病の苦しみの中でも、常に私のそばを離れなかった。通岸もしばしば訪ねて来ていた。今、旅立つに際して、彼らは皆、私を手放そうとしなかった。そこで岸と逸は力を尽くし、行李を担いで従った。侍者として福慧、広益、広成を連れて峠を越えた。同年十一月、湖東に到着し、そこに住まうこととした。 先に弟子の福善が侍者の深光を連れて北方へ帰省していたが、私が湖東に着いてから数日も経たないうちに、彼らも追いかけて来た。 <注>王大將軍・漢冲、梁の医者・杏山、曾儀部・金簡、弟子の旋湛・通炯は、それぞれ一度登場。超逸、通岸はそれぞれ二度登場。福慧、広益、広成、深光はそれぞれ一度登場。福善は四度登場。金簡は名を鳳儀、字を舜徵といい、衡陽の人。礼部郎を辞し、自ら南嶽山長と号した。『楞伽宗通』八巻を著す。</注>

徵觀諸祖．無不云隨時．亦無不云償債。豈積生定業．即華嚴大法．可禱可假．而必不可逃免耶。以四十八年．數患怨疽之身．究竟成不朽肉身．乃見大法之靈驗耳。憨祖往來東西南北．緇白皈依．未可更僕數。乃譜中所載．落落如晨星。即一時大名公．每不詳其名字爵里。如曾公．書法略備．猶槩不書名也。自乙未入粵．至此一十八年．始書去粵二字。其間．戍雷陽．入南韶．興復曹溪南華寺．寶林堂．旦過寮．許大公案．悉以去粵二字了之。而曹溪因緣．究竟不了不去也。徵又觀盧祖．自黃梅．至曹溪．避難匿迹於獵人隊中．一十七載．始薙髮於菩提樹下。憨祖之束髮從軍六載．即在曹溪．亦冠巾說法也。盧祖應韶州牧請．始與四眾千二百人．據座說般若．從此光流八表．道被寰中。憨祖戍粵．得徇制臺各憲之請．移錫曹溪．頓使屠門酒肆．蔚為寶坊．緇白羣集．攝折互用．大鑑道種．勃焉中興也。盧祖寶林肉身。示寂於唐中宗先天二年。迄明萬曆二十四年丙申．憨祖始度嶺面謁盧祖。迄天啟三年．肉身示寂於曹溪．又迄崇禎十六年癸未．始從五乳．再度嶺啟龕．密邇相對．舉成數言之．恰一千年。前後煇映．若合符節．先聖後聖．其揆一也。凡世所傳．如陳亞仙．蕭公子．毛賴債等語．悉從宗鏡堂侍者證其訛。惟為靈通侍者戒酒事．聞之特詳．訪之特真．可記也。靈通侍者．占城國太子．其父王．遣五位大臣．同太子來曹溪．請六祖往彼供養。六祖不行．太子率大臣俱立化於海濱．不歸。五臣為神．顯靈韶陽。眾於南華寺山門外．立相公祠．旁有相公橋。太子既化．復以靈性．現身為六祖侍者．獨不戒酒．六祖許之．得受付法去。有一鉢留在寺．寺僧鑄一銅像．侍立六祖肉身之旁。像頂有布帽．寺鄰鄉人．每日盛一鉢酒供養之．酒即化成水。供酒後．其帽即歪。憨祖初入山．期與大眾授戒．大眾言．靈通侍者飲酒．我儕不合受戒。本師．乃作一文．啟六祖座前．先與靈通侍者戒酒．即碎其鉢。啟語有云．擊碎酒器．以成法器。靈通侍者。從此不受酒供以酒供之．帽不歪．酒不成水。

> 歴代の祖師たちを見渡すと、時に随うと言わない者はなく、また業を償うと言わない者もいない。では、積み重なった定まった業があるならば、華厳の大法に祈り頼ろうとも、逃れられない宿命があるのだろうか。四十八年にわたり、怨みや病の腫物に悩まされた身が、ついには朽ちない肉身を得た。これこそ大法の霊験あらわれた証である。 憨山大師は東西南北を往来し、僧俗が帰依した。その数は数え切れない。ところが年譜に記された名は、朝の星のようにまばらである。当代の高名な人物でさえ、名前や出身地が詳しく記されていない。例えば曾公という人物は、書道の記述はあるが、名すら書かれていない。 乙未の年に広東に入ってから十八年、ようやく「広東を去る」と記された。その間、雷陽に流され、南韶に入り、曹溪の南華寺、寶林堂、旦過寮を復興した。これら大切な事柄も、すべて「広東を去る」の一言で片づけられている。しかし曹溪との縁は、結局、去らず、終わらず、だった。 さらに私は、六祖慧能が黄梅から曹溪に至り、身を隠して狩人の隊列に十七年間潜み、ようやく菩提樹の下で剃髪したことを思う。憨山大師が束髪のまま六年間軍に従い、曹溪でも頭巾をつけて説法したことにも通じる。 六祖は韶州の長官の請いに応じ、千二百人の僧俗と共に座について般若を説き、ここからその光は八方に流れ、教えは世界に広まった。憨山大師が広東に流され、総督や行政官の請いを容れて曹溪に移り、屠殺場や酒場を美しい寺院に変え、僧俗が集まり、指導と制御を自在に行い、大鑑の法の種が再び盛んになった。 六祖の寶林における肉身は、唐の中宗・先天二年（七一三年）に入滅した。明の万暦二十四年丙申（一五九六年）に憨山大師が嶺を越えて六祖に初めて面会した。天啓三年（一六二三年）に肉身は曹溪で入滅し、さらに崇禎十六年癸未（一六四三年）に五乳峰から嶺を越えて龕を開き、近くで相対した。概算でちょうど千年となる。前後が照り映え、符節を合わせたようであり、先聖と後聖の道理は一つである。 世に伝わる陳亞仙、蕭公子、毛賴債などの話は、すべて宗鏡堂の侍者から誤りを指摘された。ただ霊通侍者の禁酒の話だけは、特に詳しく聞き、特に真実を確かめたので、記録に値する。 霊通侍者は占城国の太子である。父王は五人の大臣を遣わし、太子と共に曹溪に来て、六祖を招いて供養しようとした。六祖が行かないと、太子と大臣たちは皆、海辺で立ったまま入滅し、帰らなかった。五人の大臣は神となり、韶陽で霊験を現した。人々は南華寺の門外に相公祠を建て、傍らに相公橋がある。太子は入滅後、霊性をもって六祖の侍者として現れた。ただ酒だけは断たず、六祖はそれを許し、太子は法を受け継いで去った。一つの鉢が寺に残り、寺の僧は銅像を鋳造し、六祖の肉身形の傍らに侍らせた。像の頭には布の帽子があり、寺の隣の村人が毎日鉢に酒を満たして供えると、酒は水に変わった。酒を供えると、その帽子は傾いた。 憨山大師が初めて山に入り、大衆に戒律を授けようとした。大衆は言った。「霊通侍者が酒を飲むのです。私たちが戒律を受けるのはふさわしくありません」と。そこで大師は一文を作り、六祖の座前に置き、まず霊通侍者の酒を断った。そして鉢を打ち砕いた。その文には「酒器を打ち砕いて、法器を成す」とある。以来、霊通侍者は酒の供えを受けなくなった。酒を供えても、帽子は傾かず、酒も水にならない。

○又按曾公金簡著楞伽宗通．自敘云．與憨師莫逆．初造訪牢山．後憨師入粵．道出螺川．敬以楞伽囑．至雷陽作筆記。徵今見曾公宗通．融會三譯。斟酌筆記．似憨祖至雷陽寄金簡筆記者．專了前諾也。乃前譜中．丙申丁酉二年．有云．開手註楞伽．又云．楞伽筆記成。而其緣起．乃謂大行王性海．禮於江上請註．不屬金𥳑．不知云何．豈同時兩請而速成耶。

> また、曽公金簡が著した『楞伽宗通』の自叙には、「憨師と莫逆の友となり、初めて牢山を訪ねた。後に憨師が粤に入り、螺川を経由した際、敬んで楞伽経を託された。雷陽に至り、筆記を作成した」とある。今、曽公の宗通を見ると、三つの訳を融会し、筆記を斟酌している。憨祖が雷陽より金簡に送った筆記は、まさに以前の約束を果たすためのものである。しかし、前の年譜の中で、丙申・丁酉の二年間に、「楞伽註解に着手す」とあり、「楞伽筆記、成る」ともある。その発端は、大行王性海が江上で礼をなし、註を請うたことにあり、金簡に属するものではないという。どうしてそうなのか。同時に二つの請願があり、速やかに成し遂げられたのだろうか。

○以上．了曹溪中興公案。

> 以上、曹溪中興の公案を了する。

四十二年甲寅●

> 四十二年、甲寅の年。

予六十九歲．予去粵時．諸弟子不能追隨者．思慕之心益切。時馮生啟南等．以書來延福慧．以代予座。是年．即遣福善．送慧還粵。暮春遊德山禮祖．有詩四首。訪馮元成公於武陵．有詩二首。會龍參知．朱陵．受榮王齋．大善寺．眾僧請說戒。馮公與諸同道．各捐資．修曇華精舍。回衡陽．舟過湘潭．晤包儀甫。夏四月．還湖廣．聞聖母賓天．隨建報恩道場．有恩詔．乃對靈主披剃．謝恩．還僧服。楞嚴經．自東海立意著通議．久蘊於懷．未暇述。今夏五月落筆．五十日稾成。十一月．精舍就．有山居詩．時門人悟心．顓愚來省。聖母．十一見。馮生啟南．一見福慧．二見。福善．五見。馮元成．再見。龍參知．朱陵．榮王．包儀甫．門人悟心顓愚．各一見。儀甫．名鴻逵．秀水人．進士．湘潭令．世信佛。

徵觀粵弟子．來延侍者福慧．代座寶林．是即復返曹溪之緣起也。對聖母靈主．乃肯披剃．謝恩．還僧服。前此恩赦．勘明．開伍．八年竟未肯容易自還僧服。究必俟聖母始終之報恩道場．報聖母臺山慈壽之恩．於報恩本寺積儲因緣．尤雙關切義也。非常罹難．非常報恩．非常恩詔．非常披剃．實積生積世非常關目也。聖母者．慈聖李皇太后也．隆慶皇妃．誕神宗．及潞藩。後為太后．信心喜捨．到處稱佛老娘娘。明制．外戚．生東宮者．止封父侯一輩．子弟僅襲錦衣。惟太后父．封宣國公．姪李成銘．嗣封武清侯．三輩不絕．兼多科甲．貴盛無比．人以為聖母事佛永世之報。崇禎十二年．成銘長庶子國臣．與異母弟．爭嗣爵家產．上怒．謂外戚世爵．本非祖制．且嫌其資厚．傳議籍沒．奉行者過驟．李氏不堪。忽一日．第五皇子病死．頃之復甦．對上云．往見太祖娘娘．現在成佛．號九蓮菩薩。說武清侯產業．是我在日所賜．傳與汝父．無罪不得抄沒。國難不遠矣．汝去．即來。言畢．尋卒。上聞之大驚．遂聽戚族處分．寢前議．建九蓮菩薩廟於大內之北。此著國亡之兆．更驗佛法之靈。又聞聖母賓天時．囑萬曆皇帝．以不得達觀．憨山．修建道場為遺憾．聞憨山尚在廣．亟召之歸．云云。此徵在都任軍需廠時．多與內使同事．故得聞其槩如此。楞嚴通議稾．成以五十日．了二十七年前．戊子在海印一案．亦似關切聖母時事也。時有送悟心融首座．還京口云．空山擬伴老餘年．何意東歸上法船。好待海門孤月上．話頭一為老僧圓。訊顓愚衡公病云．四大久觀如泡影．病魔何處可潛蹤。古人自有安閒法．只在無生一念中。讀此．可識悟顓二公．疇昔操履本領．并可想二公同遊遠省緣契。

○是歲．起南嶽匡山東遊因緣。

四十三年乙卯●

予七十歲．春．為眾說楞嚴通議。夏四月．著法華通議。以雖有二節．全文尚未融貫．故重述之．亦五十日稾成。說起信論．纂起信略疏。秋七月．遊南嶽．登祝融．有詩。重陽．馮公自武陵移守湖南．復招予同遊方廣。回郡．公同巡道吳公生白．過訪湖東．談及楞嚴．吳公大喜．即與諸屬捐資刻之。禮八十八祖道影．吳公大讚歎．乃命畫士臨小像冊．請予各為傳讚。馮公到任．未幾．即請予遊九疑。冬十月．至零陵．留過冬於愚溪。馮公元成．三見。吳巡道生白．一見。生白．名中偉．海鹽人．歷官刑部侍郎。

徵觀七十歲老人．闡揚竺乾墳典．著議．纂疏．日不暇給．此語言文字中．水窮山盡處也。迦文說法四十九年．流傳五千四十八部．卻說不曾道一字。宣尼刪詩書．定禮樂．贊周易．修春秋．悉六十八歲後．七十三歲前．數年間事。忘食忘憂．不知老之將至。究竟說予欲無言．天何言哉。至如初祖楞伽四卷．六祖金剛一卷．是有言．是無言．是棒是喝．是同是異。吾師乎．吾師乎．於是有感。