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title: "憨山大師年譜疏註 · 七十一歲至七十七歲"
description: "憨山大師年譜疏註由福善記錄、福徵述疏，成書於明末清初。該書以年譜形式詳實記述了明代高僧憨山德清大師的生平事跡，包括其求法經歷、弘法事業以及與皇室和士大夫的交往。內容涵蓋大師的修行體悟、著作講解以及對禪宗思想的闡釋，並附有註疏者對重要事件的考證與解讀。作為研究憨山大師思想與明代佛教史的重要文獻，該書不僅是了解大師生平權威史料，更是探討晚明佛教復興運動及禪淨雙修思想發展的核心典籍，在漢傳佛教史上具有崇高地位。"
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四十四年丙辰●

> 四十四年、丙辰の年。

予七十一歲．春正月．歸自零陵。初達觀禪師入滅之次年．予弟子大義．請靈龕回南．緇白弟子．奉供於徑山之寂照庵．今一紀矣。予難忘法門之義．向欲親往一弔．故香亦未遣也。適聞葬期．必欲一往。且金沙有東禪之迎．遂乘興而往。將行．花藥寺眾僧請齋．為續法系。過梅雪堂．弔遜庵宗師。夏四月．離湖東．有去南嶽解嘲詩。端午．至武昌．禮大佛．遊九峯．禮無念禪師塔。六月．至潯陽．遊東林．有懷古詩。登匡廬．弔徹空禪師．避暑金竹坪．註肇論。因見其山幽勝．有歸隱之意。徧覽諸勝．七月．遊歸宗．登金輪峯．禮舍利塔．有詩。適有僧某者．以五乳相送為靜室。及予登覽．觀其地不廣．其境頗幽．遂受之。時江州孝廉邢來慈．願為布金檀越．即捐資五十金．為予買山．故遂予投老之意焉。適浮梁陳赤石大參聞予至．亦至山相訪。聞予有意匡山．發願為護法。秋八月．出山．至黃梅．禮四五祖。訪汪司馬公．入紫雲山．留旬日．汪公願作匡山建造檀越．拉荊國主．袁使君等．為七賢社別去．桐城訪吳觀我太史．吳本如中丞．欲建庵以留。遊浮山．有歌。截江．登九華。十月初。抵金沙東禪寺．晤于王孫氏諸君。頃．出金沙．即之雙徑。過曲阿．令尹東里王公．問法於觀音山。蔣墅賀氏．迎於家之別業．留數日．備舟送之。過梁溪．遊惠山．儀部景逸高公諸君．齋於鄒氏園。婁東王孝廉．張九復諸居士．迎於關上．舍其家．禮請法要。過吳江．晤周沈諸公於接待院。石門顏生生居士．候迎於淞陵．迎過其家．備齋資以隨行。長至月望．至寂照庵。十九日．為達觀師作茶毗佛事。時大師弟子．緇素俱集．予先為文以祭之。預定是日．無爽。二十五日．手拾靈骨．藏於文殊臺。弟子法鎧．隨建塔．予為塔上之銘．以盡生平法門之義焉。遂留山中度歲．為禪堂衲子小參．有參禪切要。鎧公請益相宗．為述性相通說。諸請益者．各為說法語．作擔板漢歌。吳門居士朱白民．王芥庵．朝夕聚談．法喜為樂。時虞山錢受之太史．嚴天池中翰．以書見招。武林金中丞．虞吏部．諸縉紳．皆具書來迎。時以歲暮未應。達觀師．七見。弟子大義．遜庵宗師．無念禪師．各一見。徹空師．三見。孝廉邢來慈．浮梁陳赤石大參．汪司馬．無號。荊國主．袁使君．無號。吳觀我太史．吳本如中丞．金沙于．王孫．諸君．曲阿賀氏．並無號。王東里令尹．高景逸儀部．婁東王孝廉．無號。張九復諸居士．吳江周沈諸公．並無號。石門顏生生．達師弟子法鎧．吳門居士．朱白民．王芥庵．虞山錢受之太史．嚴天池中翰．金中丞．虞吏部．並無號．各一見。赤石．名大綬。歷太僕卿。汪司馬．號靜峯．黃梅人．歷官密雲總制。袁使君．即後南康郡守袁公九濟。觀我．名應賓．本如．名用先．並桐城。王東里．名志道．泉州人．歷官都御史。景逸名攀龍．無錫人．歷官左都御史。白民．名鷺．蘇州人．以寫竹名。芥庵．名在公．字孟夙．崐山人．以孝廉為令．尋棄官去。受之．名謙益．常熟人．歷官大宗伯。天池．名訥．常熟人。金中丞．名學曾．號省吾。虞吏部．名淳熙．號德園．並錢塘人。德園．作東遊集序。

> 私は七十一歳、春の正月、零陵から帰った。初めて達観禅師が入滅された翌年、私の弟子大義が霊龕を南方へお連れし、僧侶や在家の弟子たちが径山の寂照庵に安置した。それからすでに十二年が経つ。私は法門の絆を忘れがたく、以前から直接弔問したいと思っていたが、香を捧げることもできずにいた。折よく葬儀の日取りを聞き、必ずや参列したいと考えた。さらに金沙に東禅寺の招きがあり、興に乗って出かけることとした。 出発に際し、花薬寺の僧たちが斎を催し、法の継承を願った。梅雪堂に立ち寄り、遜庵宗師を弔った。夏の四月、湖東を離れ、「南嶽を去る解嘲の詩」を作った。端午の節句に武昌に至り、大仏に礼拝し、九峯に遊び、無念禅師の塔を弔った。六月、潯陽に至り、東林に遊び、「懐古の詩」を作った。匡廬に登り、徹空禅師を弔い、金竹坪で避暑しながら「肇論」の注釈を記した。その山の幽玄で勝れた景観を見て、隠棲の思いが湧いた。あらゆる名所を巡り、七月には帰宗に遊び、金輪峯に登って舎利塔に礼拝し、詩を作った。 折よく某僧が五乳の地を静室として差し出した。私が登って見渡すと、その地は広くはないが、境は大変幽寂で、これを受け入れた。その時、江州の孝廉・邢来慈が布施の檀越となることを願い、即座に五十金を寄付して私のために山を買い、老後の隠棲の願いを叶えてくれた。折よく浮梁の陳赤石大参が私の到来を聞き、山まで訪ねて来た。私が匡山に志があると聞き、彼は法を守護する立場となることを誓った。 秋八月、山を出て黄梅に至り、第四祖・第五祖を礼拝した。汪司馬公を訪ね、紫雲山に入り十日余り留まった。汪公は匡山での建立の檀越となることを願い、荊国主・袁使君らを引き連れて七賢社を結び、別れを告げた。桐城に赴き、呉観我太史と呉本如中丞を訪ねると、彼らは庵を建てて私を留めようとした。浮山に遊び、歌を作った。長江を渡り、九華に登った。十月の初め、金沙の東禅寺に到り、于・王孫氏らの諸君に会った。 やがて金沙を出て、すぐに双径へ向かった。曲阿を過ぎると、令尹・東里王公が観音山で法を問うた。蔣墅の賀氏は自らの別荘に迎え、数日留まらせ、舟を整えて送り出した。梁溪を過ぎ、恵山に遊ぶと、儀部・景逸高公ら諸君が鄒氏の園で斎を催した。婁東の王孝廉・張九復ら諸居士が関所で迎え、その家に泊めて法要を請うた。呉江を過ぎ、周・沈諸公に接待院で会った。石門の顔生生居士が淞陵で待ち迎え、その家に招き、斎の資を整えて随行した。 冬至の月の十五日、寂照庵に至った。十九日、達観師のための茶毘の仏事を行った。その時、大師の弟子たち、僧侶・在家が皆集まり、私はあらかじめ文章を用意して弔った。期日を予定通り、遅延なく執り行った。二十五日、自ら霊骨を拾い、文殊台に納めた。弟子の法鎧がこれに従って塔を建て、私が塔上の銘文を記し、師との生涯の法門の絆を尽くした。 そのまま山中に留まり歳を越し、禅堂の衲子たちのために小参（短い説法）を行い、「参禅切要」を説いた。鎧公は相宗（唯識）について教えを請い、そのため「性相通説」を述べた。教えを請う者たちには、それぞれに法語を説き、「担板漢歌」を作った。呉門の居士・朱白民と王芥庵は朝夕語り合い、法の喜びを楽しんだ。その時、虞山の銭受之太史・厳天池中翰から書状で招かれた。武林の金中丞・虞吏部ら諸紳士も、皆書状を持参して迎えを求めた。時は年末のため、応じなかった。

徵按是年．前半譜．五乳峯法雲寺緣起。後半譜．金沙．曲阿．吳門．武林．一時善信法侶．徵得皈依本師．命名福徵．命字梁生．成東遊集緣起也。全譜中．大關目處．在最先禮初祖．次禮六祖．茲禮四祖五祖．一一隨時機緣．覿面印證．肉身嗣祖．奇矣偉矣。本師至雙徑寂照庵時．徵寓西湖聊齋讀書。以大樓倒塌．三梁翼護．再生因緣．急走徑山謁雪嶠禪師。於向築千指庵中．強之躬導頂禮梁皇寶懺七日竟．遽得輕安。矢志精進．在山未歸．恰於寂照庵．得遇本師上山茶毗達觀大師．正啟南嶽所緘祭章．刻期無爽之日也。顏生生．桐鄉縣人．居石門．徵同年．開美名俊彥之尊人。一夕．預夢伽藍神．命迎賓頭盧．見有坐中堂正席者．旁列侍坐．並一時名宿．法律宗師．疇昔所識認者．咸在．遂驚而覺。越日．聞本師東來．命舟往迎於淞陵．歷雙徑．雲棲．湖上諸山。所在．同徵隨侍最久．命名福堅。後本師還．過石門．生生延至家中．有梨園．本師命演拜月亭．設大供．先擇侍從受具戒者．始得與席．餘悉禁止。一時列坐．有巢松．一雨．智河．聞谷．古德．佛石．德宗．心宗．玄津．某某諸名宿。生生席中與徵言．此了了分明．夢賓頭盧日．所目擊人景也。越日．徵在法舟啟問．看戲不礙戒律否。本師歎曰．大難說。他人一日不犯戒．一日是不犯戒。我日日不犯戒．日日是犯戒。徵聞之．不覺傾心喪膽．迄今言猶在耳也。參禪切要．擔板漢歌．並在徑山大殿．為大眾普說。諸方相傳．擔板漢歌．為雪嶠宗師而作．則大訛。雪師特立峭聳．與名禪諸公多不諧．獨本師．相與無閒。本師為作雪嶠山主真贊．千指庵六妙銘。瀕行．又受雪師鐵如意之供．而為之銘．具在東遊集中．讀之可識其契遇機緣矣。因錄擔板漢歌．以析法門疑義。

> 本年譜の前半では、五乳峯法雲寺の縁起を記す。後半では、金沙、曲阿、呉門、武林の地において、一時に集った善男信女や法の友が、本師に帰依することを得て、「福徵」という法名と「梁生」という字を授かり、これが『東遊集』の縁起となったのである。 全譜の中で最も重要な場面は、まず初祖に礼し、次に六祖に礼し、ここで四祖と五祖に礼するところにある。その時々の機縁に従い、目の前で以心伝心の印可を受け、肉身のまま祖を嗣ぐこととなった。これはまことに奇異であり、偉大なことである。 本師が双径の寂照庵に到着された時、私は西湖の聊斎に寓居して読書していた。大きな楼が倒壊した際に、三本の梁が翼のごとく私を護ってくれたという、再生の因縁があった。急いで径山に赴き、雪嶠禅師に参謁した。かつて私が築いた千指庵において、無理に彼に案内を依頼し、自ら導いて『梁皇宝懺』を七日にわたって礼拝した。するとたちまち身心が軽やかで安らかになった。 志を立て精進し、山に留まって帰らなかったが、ちょうど寂照庵において、本師が達観大師の荼毘のために上山されるのに遇った。本師がちょうど南嶽から封じられていた祭文を開かれた日であり、期限通りで違わなかった日である。 顔生生は、桐郷県の人で、石門に住んでいる。私と同年であり、開美（名は俊彦）の尊父である。ある夜、予め伽藍神が夢に現れ、賓頭盧尊者を迎えるよう命じられた。中堂の正席に座っている方があるのを見ると、その傍らには侍坐する人々が並び、当時の名宿や法律宗師など、以前に知り合った人々が皆そこにいた。驚いて目覚めた。 翌日、本師が東から来られると聞き、船を仕立てて淞陵まで迎えに行き、双径、雲棲、湖上の諸山を巡った。その間、私は最も長く従い、法名を「福堅」と授かった。後に本師が帰還の途上、石門を通られた際、生生は師を自宅に招いた。そこには梨園があり、本師は『拜月亭』を演じさせ、大掛かりな供養を設けられた。まず侍従の中から具足戒を受けた者たちだけが席に与ることを許され、その他は全て禁じられた。その時列座したのは、巣松、一雨、智河、聞谷、古徳、佛石、徳宗、心宗、玄津、その他の名宿たちであった。 生生は席上で私に言った。「これははっきりとわかる。賓頭盧尊者が夢に出られた日に、私が目撃した人物や情景そのものだ。」 翌日、私は法船の中で本師に問うた。「芝居を見ることは戒律を妨げないのでしょうか？」 本師は嘆息して言われた。「それは大変難しい話だ。他人は一日戒を犯さなければ、その日は戒を犯していないということになる。私は一日として戒を犯さない日はないが、一日として戒を犯しているのである。」 これを聞いて、私は思わず心から敬服し、肝を冷やした。今もなおその言葉が耳に残っている。 「参禅切要」と「担板漢歌」は、ともに径山大殿において大衆のために普く説かれたものである。諸方で伝えられるところでは、「担板漢歌」は雪嶠宗師のために作られたというが、これは大きな誤りである。雪師は特に孤高で、名だたる禅僧たちとも多くは調和しなかったが、本師だけは彼と隔てなく交わった。本師は雪師のために「雪嶠山主真賛」と「千指庵六妙銘」を作られた。また、出立に際しては、雪師から鉄如意を献上され、それに銘を付された。これらは全て『東遊集』に収められており、読めばその契遇の機縁を知ることができる。よって、ここに「担板漢歌」を録し、法門における疑義を明らかにするものである。

○擔板漢歌．并引云．徑山法窟．自大慧中興臨濟之道．相續慧命．代不乏人。近來禪門寥落絕響．久矣。頃一時參究之士．坐滿山中．至有一念瞥地．當體現前．得大自在者。惜乎．坐在潔白地上．不肯放捨．以為奇特．不知反成法礙也．教中名為所知障。所以古德云．直饒做到寒潭皎月．靜夜鐘聲．隨叩擊以無虧．觸波瀾而不散．猶是生死岸頭事。所謂荊棘林中下腳易．月明簾下轉身難。名抱守竿頭．靜沈死水．尚不許坐住．況有未到瞥地．偶得電光三昧．便以為得．弄識神影子者乎。此參禪得少為足．古今之通病也。恐落世諦流布．疑誤多人。有請益者．乃笑為擔板漢歌以示之。歌曰．擔板漢．擔板漢．如何被他苦相賺。只圖肩上輕．不顧腳跟絆。縱饒擔到未生前．早已被他遮一半。這片板．項上枷．渾身骨肉都屬他。若不快便早拋卻．百千萬劫真怨家。坐也累．行也累．明明障礙何不會。只為當初錯認真．清門靜戶生妖魅。開眼見．閉眼見．白日太虛生閃電。乾闥婆城影現空．癡兒認作天宮殿。要得輕．須放下．臭死蝦蟆爭甚價。烏荳將來換眼睛．魚目應須辨真假。有條路．最好行．坦坦蕩蕩如天平。但不留戀傍花柳．管取他年入帝京。捨身命．如大地．牛馬駝驢不須避。果能一擲過須彌．劍樹刀山如兒戲。若愛他．被他害．累贅多因費管帶。一朝打破瑠璃瓶．大地山河多粉碎。我勸君．不要擔．髑髏有汗當下乾。分身散影百千億．從今不入死門關。

> ○担板漢の歌　并びに引 径山の法窟は、大慧禅師が臨済の道を中興されてより、慧命を受け継ぎ、代々人材に欠くことがなかった。しかし近来、禅門は寂れ、その響きも絶えて久しい。ところがこの頃、参究の士が山に満ち、一念に瞥地し、当体現前して大自在を得る者も現れた。惜しいことに、彼らは潔白な地上に坐し、これを放捨しようとせず、奇特と思い込んでいる。その実、かえって法の障碍となっていることを知らず、教中ではこれを「所知障」と名づける。ゆえに古徳は言う、「たとえ寒潭の皎月、静夜の鐘声、叩けば欠けず、波瀾に触れて散らずとも、なお生死の岸頭の事なり」と。いわゆる「荆棘林中に脚下し易く、月明簾下に轉身し難し」、また「竿頭に抱守し、死水に沈静す」、これすら坐住を許さない。まして瞥地に至らず、偶々電光の三昧を得て、これを得たりとし、識神の影子を弄ぶ者があろうか。これ参禅における得少為足、古今の通病である。世諦の流布に堕ち、多くの人を疑い誤らせることを恐れ、請益する者があれば、笑って担板漢の歌を作り、これを示した。 歌に曰く、 担板漢、担板漢、 いかにして彼の苦に相賺されし。 ただ肩の軽きを図りて、 顧みず脚跟の絆を。 たとい担うも未生前に到れば、 すでに彼に遮られて半分。 この片板、項の枷、 渾身の骨肉ことごとく彼に属す。 もし快便に早く拋却せずんば、 百千万劫、真の怨家。 坐するも累い、行くも累い、 あきらかに障碍す、何ぞ会せざる。 ただ当初に錯りて真と認めしがため、 清門静戸に妖魅を生ず。 開眼も見、閉眼も見、 白日太虚に閃電を生ず。 乾闥婆の城、影空に現ずるを、 癡児は認めて天宮殿となす。 軽きを得んと欲せば、須く放下すべし、 臭死の蝦蟆、争んで価をなさん。 烏豆を持ちて来たり眼睛に換えん、 魚目、応に須く真偽を弁ずべし。 有条の路、最も行きよく、 坦坦蕩蕩として、天平の如し。 但だ傍花柳に留恋せず、 管取す、他年帝京に入らんことを。 身命を捨てる、大地の如く、 牛馬駝驢も避くるを須いず。 果して能く一擲して須弥を過ぎなば、 剣樹刀山も児戯の如し。 もし彼を愛せば、彼に害せられ、 累贅、多くは管帯を費やすが故なり。 一朝、瑠璃瓶を打破せば、 大地山河ことごとく粉碎す。 我、君に勧む、担うことなかれ、 髑髏に汗あり、当下に乾く。 分身散影、百千億、 今より死門の関に入らず。

○又按本師年譜．所自敘者．止筆其綱．不遑詳筆其目。徵所述疏．亦止得見聞之什一．而遺其什九。即如是年所筆．願作匡山建造檀越．明年復筆．業先具資為修靜室之汪公．如許檀信宰官．止稱汪司馬．而不詳名氏．復不詳里居。嚮閱之．疑謂即前汪司馬伯玉．而歷年久遠．楚歙地隔．正所未解。比見本師法屬融澄法師．乃知為居黃梅．官總制之靜峯公。則其他皈依善信之遺漏．固指不勝屈矣。又如是歲至匡廬金竹坪時．有徧覽諸勝四字．所該括含攝道場事迹．不知幾許。即如九江有石門遠公道場．為本師經月卓錫說法之地．其命為住持者．即融澄公也。初為休寧諸生．俗姓程．名可裕．與畢居士貫之．同讀書石門．一見本師．即棄家．皈依祝髮．命法名廣捨．隨命住持石門道場。後本師在五乳．屢寄手札．囑之料理石門諸務．開示諄切此為目前最親法嗣．而譜中不遑載也。一日融公．同邵子石生．攜本師親筆種種．過雨花臺偶偕居．焚香展誦．因書以識之。又一日．有紹玄師．法名慈義者．從江陰來見訪．為知微師法孫．慈門師法嗣．曾住法雲．後住潯陽一鉢禪林．又興武昌洪山修靜寺。兵亂中．所至掩骼．兩建水陸道場。本江陰陸氏子．改革後．還里．現興萬佛禪林。自言所度弟子．仁達．量明等．甚多．然于本師未及親炙也。本師所最肯許上首弟子．無如知微師．名福善者。始則吉凶同患．六見本師臨化年譜．終則奔走扶龕．詳筆本師後事因緣．是為五乳肖子。又如虛中師．名廣益者．寶林會上．親證涅槃．啟請垂足．遺言傳示．歷歷有據．是為曹溪幹孫。今知微師玄孫．仁錫．號明記者．學法長干。虛中師有徒慈任．號堅如者．住持棲霞。是亦徵於亂後．奉假白門故都．相與機緣會逢．成就年譜疏述者也。就中後事因緣．聞之寬居．名廣用者．特詳而確。後來紛紛之說．舉不足憑．不敢妄筆。惜其遽寂棲霞．不及見年譜疏述之成耳。寬居．實知微之嗣．即明記之祖也。又一時．往還祖堂報恩。因靈峯素公說法時得相見者．有懷白師．名恆道．曾住法雲二載餘．親近本師．從受大戒。又祖堂監院湛持．名修如者．為雪浪大師孫．本師所屢念恩兄之嫡嗣也。以上諸公．與靈峯素公．並有甚深法緣．例得書識法系之後。

> さらに、本師の年譜には、本人が自ら記したところは概要のみにとどまり、詳細を記す暇がなかった。また、その著作を収集しても、見聞きしたものの十の一に過ぎず、十の九は失われている。例えば、その年に記された中に「匡山の檀越（だんおつ）を造ることを願う」とあり、翌年には「既に資金を出して静室を修繕した汪公」と記されている。このような多くの檀越や役人の中で、ただ「汪司馬」とだけ記され、氏名も詳しくなく、住居も詳しくない。以前にこれを読んだ時、かつての汪司馬伯玉のことかと思ったが、年月が経ち、楚と歙は遠く離れており、理解できなかった。後に本師の法属である融澄法師に会い、黄梅に住み、総制の官にあった静峯公であると知った。それならば、他の帰依した善信者たちの漏れは、指で数えきれないほど多いことであろう。また、この年に廬山の金竹坪に至った時、「徧覧諸勝」の四字があり、そこに含まれる道場の事跡は、どれほどあるかわからない。例えば、九江には石門の遠公の道場があり、本師が一か月も錫を止めて説法した地で、その住持を命じられたのが融澄公である。もとは休寧の諸生で、俗姓は程、名は可裕、畢居士の貫之とともに石門で読書していたが、本師に一目会うや家を捨て、帰依して髪を剃り、法名を広捨と命じられ、そのまま石門道場の住持を命じられた。その後、本師が五乳にいた時、たびたび親筆の手紙を送り、石門の諸務を処理するよう嘱み、開示は懇切丁寧で、これが最も親しい法嗣であるのに、年譜には載せる暇がなかった。ある日、融公が邵子の石生と共に、本師の親筆の品々を持って、雨花台に偶然居合わせたので、共に香を焚いて展覧し、これを書き留めた。また別の日、紹玄師、法名は慈義という者が、江陰から訪ねて来た。知微師の法孫で、慈門師の法嗣であり、かつて法雲に住み、後に潯陽の一鉢禅林に住み、さらに武昌の洪山修静寺を興した。戦乱の中で、至る所で遺骨を埋め、二度水路道場を建立した。もとは江陰の陸氏の子で、改革の後、故里に帰り、現在は万仏禅林を興している。自ら言うには、度した弟子は仁達、量明など多くいるが、本師には直接教えを受けたことはない。本師が最も許した上首弟子は、知微師、名は福善という者である。初めから吉凶を共にし、六度本師の臨化年譜を見、終わりには龕を運ぶために奔走し、本師の後事の因縁を詳しく記した。これが五乳の肖子である。また、虚中師、名は広益という者は、宝林の会で自ら涅槃を証し、垂足を請い、遺言を伝え示したことは、歴歴として証拠があり、これが曹溪の幹孫である。今、知微師の玄孫、仁錫、号は明記という者が、長干で法を学んでいる。虚中師には弟子の慈任、号は堅如という者がおり、棲霞に住持している。これもまた、乱後に、仮の白門故都にて、互いに機縁が会い、年譜疏述を成就したのである。中でも後事の因縁は、寛居、名は広用という者から聞いたところが、特に詳細で確かである。後の様々な説は、全く信頼できず、軽々しく筆を加えることはできない。惜しむらくは、彼が棲霞で急に亡くなり、年譜疏述の完成を見るに及ばなかったことである。寛居は実に知微の嗣であり、すなわち明記の祖である。また、一時、祖堂と報恩を行き来した。霊峯素公が説法した時に会う機会があった者に、懐白師、名は恒道という者がおり、かつて法雲に二年余り住し、本師に親しく仕え、大戒を受けた。また、祖堂の監院、湛持、名は修如という者は、雪浪大師の孫で、本師がしばしば恩兄と念じた者の正しい後継者である。以上の諸公は、霊峯素公と共に、非常に深い法縁があり、例により法系の後に記すべきである。

○徵自是歲皈依後．凡隨侍關切事．始稱本師。初奉供法影於藥山龍樹壇．後奉供於雨花臺偶偕居．則覺浪和尚說法三藏堂時．特率羣侍禮足主席者也。茲素公復說法三藏堂．得藉商略．圓成譜疏勝事．載悉緣起。

> ○これにより、この年に帰依してからは、師に随い近しく侍り、心をかける事柄があれば、初めて本師と呼ぶようになった。最初は薬山の龍樹壇に法影を奉納し、後に雨花台に偶然共に住した折、覚浪和尚が三蔵堂で説法された際には、特に多くの侍者を率いて主席の和尚を礼拝した。この度、素公が再び三蔵堂で説法されるにあたり、相談を借りて、事を成し遂げ、譜疏の勝事を完全なものとする。因縁の起こりは全てここに記される。

○素公．鍾姓．少居蘇門．業儒．篤信宣尼．時見夢寐。年十七．閱蓮師著述．始省淨土。二十二歲時．雪嶺峻師．以觀頌旨鑰．得契本師．往參匡山．因附瓣香問法。本師示鍾居士偈云．西方只在自心頭．煩惱空時妄想休。便見彌陀真面目．元從苦海泛慈舟。越二載．即依雪師．棄家祝髮。從此．迄本師示寂．四感夢緣。今弘演台宗．指歸淨土．徵所目擊法乳也。

> 釈素公（俗姓は鐘）。若き頃は蘇門に住み、儒学を修め、孔子を篤く信じ、その姿を夢にまで見ることがあった。十七歳の時、蓮池大師の著作を読み、初めて浄土の教えを悟った。二十二歳の時、雪嶺峻師が著した『観頌旨鑰』によって、本師（大師）との縁が結ばれ、廬山に参禅し、香を手向けて教えを請うた。本師は鐘居士に偈を授けて言われた。 「西方はただ自らの心の内にあり 煩悩の空しくなる時、妄想もまた休む ここに弥陀の真の姿を見れば もとより苦海より慈舟に乗って渡る」 二年後、雪師に従い、世俗を捨て剃髪した。それ以降、本師が世を去るまで、四度の夢に不思議な縁を受けた。今、天台宗の教えを広め、浄土への帰依を指し示すのは、自らが目の当たりにした法乳（教えの恩恵）を伝えるためである。

四十五年丁巳●

> 四十五年 丁巳

予七十二歲．春正月元旦．為眾說戒。下雙徑．弔雲棲．時緇白弟子千餘人．久候於山中．留二旬。每夜小參．問法．各各歡喜．發揮蓮池大師生平密行。弟子聞之．至有悲泣．謂予發其人所不知者．乃請作塔銘。出山時．玄津法師．譚生孟恂．同郡中諸縉紳居士．留請淨慈宗鏡堂．日繞數千指．為說大戒．作宗鏡堂記。時諸方名德．俱集於湖上．偕譚生問法．各申詰難．時謂東南法會之最勝者．昔所未見也。乃遊靈隱．三竺．西山．諸名勝．贊揚放生三池．乃行。時城中宰官居士．具舟放生．餞別湖上．且具狀．請留雲棲．乃有三年之約。過檇李．岳石帆儀部．項楚東別駕．乃予舊知．晤於楞嚴禪院。適麟溪沈旅泊．迎過其家．座中．忽詢先大師雲谷和尚塔．不知何許。居士即告曰．近近．棲真里許耳。予大喜．是暮即過其寺．禮先師塔。見寺最幽勝．而塔院頗荒寂．予悽然久之。恨行󷗱󷗱．不能料理．敬託沈君代為之緝。且囑置長生田．以贍香燈。凡一往所經．隨手之作．玄津壑公．譚生孟恂．彙為四卷．刻之．名東遊集。回至吳門．巢松一雨兩法師．請入花山．遊天池．玄墓．鐵山．諸名勝。寒山趙凡夫．文文起．姚孟長．徐仲容．徐清之．諸公．問道於觀音山。馮元成．申玄渚．二宰官．駕於家。將行．弟子洞聞．漢月．錢太史．王季和．瞿完初．迎至常熟．遂至虞山信宿。拂水太史送至曲阿．賀知忍父子姪．候於奔牛之三里庵．請留園中結夏。力辭之．歸山．賀知忍居士．以八十八祖道影送予．乃高士丁雲鵬筆．予遂受之。送至京口．受三山緇白齋．於大徹堂．為眾說戒。罷．即揚帆返匡山．以五月一日過白下．江上一宿．見一二故人。五日至蕪湖．繕部劉玉受．督關．因款留．請作異夢說。崔吏部鶴樓．追唔於江上。以五月十六日．舟次星渚．抵歸宗．寓居。時汪司馬．業先具資為予修靜室．六月十五日．即命弟子福善．經營五乳開工．於十月始成一室．乃得安居。雲棲蓮池大師．玄津法師．譚生孟恂．項別駕楚東．各再見。岳石帆儀部．麟溪沈旅泊．各一見。雲谷和尚．三見。巢松．一雨．兩法師．寒山趙凡夫．文文起．姚孟長．徐仲容．徐清之．各一見。馮元成．四見。申玄渚．洞聞．漢月．二師．各一見。錢太史受之．再見。王季和．瞿完初．賀居士知忍父子．劉繕部玉受．崔吏部鶴樓．各一見。汪司馬．即前靜峯．再見。弟子福善．六見。玄津法師。名大壑．雪浪大師弟子．即淨慈宗鏡堂住持．與徵同事。石帆．名元聲．嘉興人．歷官少司馬。凡夫．名宧光．以草篆名。文起．名震孟．狀元拜相。孟長．名希孟．官宮坊。清之．名溶．文華中書玄渚．名用懋．歷官冢宰。以上．並蘇州府城人。季和．名宇春．完初．名純仁．並名士．常熟人。玉受．名錫玄．蘇州人．歷官大參。

> 私は七十二歳、春の元日に大衆のために戒律を説いた。その後、雙徑を下り、雲棲を弔問した。その時、緇白の弟子千余人が山中に長く待ち望んでいたので、二十日間滞在した。毎夜、小参（簡潔な法話）を行い、法を問うた人々は皆、歓喜した。私は蓮池大師の生涯における隠れた修行の功徳を明かした。弟子たちはこれを聞き、涙する者まであり、私が大師の知られざる事柄を明らかにしたと語り、塔銘の作成を依頼してきた。 山を出た時、玄津法師と譚生孟恂が、同郡の多くの紳士・居士たちと共に、私を淨慈寺の宗鏡堂に留めて招いた。毎日数千人が集まり、大戒を説き、宗鏡堂の記録を作成した。その時、各地の名高い徳の高い僧侶たちが湖上に集まり、譚生と共に法を問い、それぞれ疑問をぶつけ合った。当時、東南の法会で最も勝れたものは、これまで見たことがないと言われた。 その後、靈隱寺、三竺、西山などの名所を巡り、放生のための三つの池を讃えてから出発した。その時、城内の役人や居士たちは舟を用意して放生を行い、湖上で別れの宴を開き、さらに文書を添えて雲棲に留まるよう請い、三年の約束が交わされた。 檇李を過ぎた時、岳石帆儀部と項楚東別駕という旧知の二人と、楞嚴禅院で会った。折よく麟溪の沈旅泊が迎えに来て、その家に招かれた。座中で、ふと先師の雲谷和尚の塔の場所を尋ねたところ、誰も知らなかった。すると居士がすぐに教えてくれた。「すぐ近く、棲真寺からわずか一里ほどです」と。私は大いに喜び、その夜のうちに寺に赴き、先師の塔を礼拝した。寺は非常に静かで美しい場所にあったが、塔院はかなり荒れ果てていた。私はしばし悲しみに沈んだ。行程が急で手を加える余裕がなかったため、敬って沈君に代わりに修繕を依頼した。さらに長生田を設けて香灯の費用を賄うよう依頼した。 旅の途中で手にした詩文は、玄津壑公と譚生孟恂が四巻にまとめ、出版して「東遊集」と名付けた。 戻る途中、呉門で巢松と一雨の両法師が花山に招き、天池、玄墓、鐵山などの名所を巡った。寒山では趙凡夫、文文起、姚孟長、徐仲容、徐清之らの方々が観音山で法を問うた。馮元成と申玄渚の二人の役人が自宅に迎えた。出発しようとした時、弟子の洞聞、漢月、銭太史、王季和、瞿完初らが常熟に迎え、虞山で二日間滞在した。拂水太史は曲阿まで見送り、賀知忍父子と甥は、奔牛の三里庵で待ち構え、園に留まって夏安居をするよう請うたが、固辞して山に帰った。賀知忍居士は八十八祖道影（高士丁雲鵬の筆）を私に贈ったので、これを受け取った。 京口に送られた時、三山の緇白の供養を受け、大徹堂で大衆のために戒律を説いた。その後、すぐに帆を上げて匡山に戻った。五月一日に白下を過ぎ、江上で一泊し、一二の旧友に会った。五日に蕪湖に着き、繕部の劉玉受が税関を監督していたため、歓待され、「異夢説」の作成を依頼された。吏部の崔鶴樓が江上で追いかけてきて会った。五月十六日、舟が星渚に着き、帰宗に到着して寓居した。その時、汪司馬が既に資金を用意して私の静かな部屋を修理していた。六月十五日、弟子の福善に命じて五乳の工事を始めさせ、十月になってようやく一室が完成し、安心して住むことができた。 <注>雲棲蓮池大師、玄津法師、譚生孟恂、項別駕楚東は、それぞれ二度お会いした。岳石帆儀部、麟溪沈旅泊は、それぞれ一度。雲谷和尚は三度。巢松・一雨の両法師、寒山趙凡夫、文文起、姚孟長、徐仲容、徐清之は、それぞれ一度。馮元成は四度。申玄渚、洞聞、漢月の二師は、それぞれ一度。銭太史受之は二度。王季和、瞿完初、賀居士知忍父子、劉繕部玉受、崔吏部鶴樓は、それぞれ一度。汪司馬（前名静峯）は二度。弟子の福善は六度。玄津法師は名を大壑といい、雪浪大師の弟子で、淨慈寺宗鏡堂の住持であり、私と共に事をなした。石帆は名を元聲といい、嘉興の人で、少司馬に至った。凡夫は名を宧光といい、草篆で名を成した。文起は名を震孟といい、状元となり宰相となった。孟長は名を希孟といい、宮坊の官にあった。清之は名を溶といい、文華中書玄渚であり、名を用懋といい、冢宰に至った。以上は、いずれも蘇州府城の人である。季和は名を宇春、完初は名を純仁といい、共に名士で、常熟人である。玉受は名を錫玄といい、蘇州の人で、大参に至った。</注>

徵按大明一代．法門大和尚．在萬曆同時應現．聲名洋溢者．無如雲棲蓮池．紫柏達觀．曹溪憨山．為一時天下三大老。其以肉身嗣六祖者．則特在本師耳。本師以七旬老宿．一東遊．而雲棲紫柏兩塔銘．立傳不朽．祭文像讚．纍牘輝煌．如三大老團圝聚話。而徵得周旋杖履之下．斯亦生平奇遘．宿世良因矣。徵所手錄東遊集中．示參禪切要．在徑山法堂說．示念佛切要．在雲棲法堂說．示持準提切要．在淨慈宗鏡堂說。而西來西往．持明祕密之種種法門．得此三示．無遺蘊矣。達師為本師生平第一法契．每以不得拂面痛哭為恨．東遊緣起．特為了此第一大公案。蓮師五臺之契．在四十一年前。雲谷師坐禪天界之緣．在最初五十二年前。又兩大公案．並於東遊半載中了之。弔雲棲日．緇白千眾．款留山中。不允所請．寫像留供．以期後來．乞自為讚。所稱聞蓮師密行．至有悲泣者．雲棲弟子宋公化卿也。周旋宗鏡堂許久．而譜中略失姓氏．蓋一時法緣紛遝．光明不能隙數也。因思全譜所歷．自金陵報恩．至西湖淨慈．地之相去若干里．時之相後若干歲。所列一生皈依緇白名德．不過千百中存一二。而其間語意．自有深屬．明眼人．自能勘取。

> 明の時代、仏門の高僧たちが万暦帝の御世に同時に現れ、その名声が天下に轟いたことにおいて、雲棲の蓮池、紫柏の達観、曹渓の憨山の三大老に勝る者はいませんでした。その中で、肉身のまま六祖の法脈を継がれたのは、ひとえに本師（憨山）のみでした。本師は七十歳の老宿として、一度東遊し、雲棲と紫柏の二人のために塔銘を撰し、その伝記を不朽のものとし、祭文や賛辞の数々は燦然と輝き、あたかも三大老が一堂に会して語り合っているかのようでした。そして私は（憨山）老師の指導のもとで行動を共にする機会を得ました。これこそ生涯まれな巡り合わせであり、過去世からの善き因縁であります。 私が手書きで記した『東遊集』の中には、「参禅の切要」を径山の法堂で説き、「念仏の切要」を雲棲の法堂で説き、「準提呪を修める切要」を浄慈寺の宗鏡堂で説いた記録があります。そして、西から来て西へと往く、様々な密教の法門についても、この三つの説法によってその奥義は余すところなく示されました。達観師は本師（憨山）にとって生涯で最も深い法縁の相手であり、互いに涙を流して語り合えなかったことを常に憾みとされていましたが、『東遊集』の縁起は、まさにこの最大の公案を解くためのものでした。蓮池師との五台山での因縁は、四十一年前のことであり、雲谷師と天界寺での坐禅の因縁は、さらに遡ること五十二年前のことです。この二つの大きな公案も、東遊のわずか半年のうちに全て明らかとなりました。 雲棲を訪れた日には、僧侶と在家合わせて千人の人々が私を山中に留めようとしましたが、私はその願いを断り、自らの肖像を描き写して留め置き、後世に伝えることを願い、自ら賛辞を撰すよう求められました。蓮池師の密かな修行の話を聞いて、涙を流した者がいたと伝えられますが、それは雲棲の弟子である宋公化卿という方でした。宗鏡堂で長く共に過ごしながら、譜録に氏名が記されていない方もおられます。これは、当時の法縁が非常に多岐にわたり、その光明の全てを細かく書き留める暇がなかったからです。 この全譜録に記された足跡を思うに、その出発は金陵の報恩寺から、終着は西湖の浄慈寺に至るまで、距離も時間も大きく隔たっています。列記された一生の間に帰依した僧俗の名だたる方々も、その千百の中の一二を留めるに過ぎません。しかし、その間の言葉の一つ一つには、深い意味が込められており、眼識ある人であれば、自ずとその真意をくみ取ることができるでしょう。

○譜中所云玄津法師．譚生孟恂．同郡中諸縉紳居士．留請淨慈宗鏡堂．日繞數千指．為說大戒．及遊靈隱．三竺．西山．諸名勝．此不過百日間事耳。時以聖母恩師．弘法罹難．戍久生還．實大聲洪．自地方巡撫總鎮．以至府縣大小各官．及四方善信．宰官居士．法律宗三門耆宿後生．靡不畢集武林．直是一日千載。其時首倡延請雲棲．旋至南屏淨慈者．仁和令周季侯宗建．及本里金巡撫省吾．虞吏部德園．葛學憲屺瞻．聞孝廉啟祥．宋官生化卿．嚴文學印持．鄒文學孟陽．某某諸檀信也。整理監院清規．幹辦供眾各務者．玄津壑法師也。初則屬筆延請．繼則步趨將命。知賓書記．晨燈執役者．徵實終始本師東遊三吳間．一大公案也。爾時日侍左右．無日不凛凛在龍天神鬼中。見本師隨行．曾無麈拂杖錫之具．玉容光皙．暑月無汗．晨夕盥沐．器水徹清。坐必雙趺．不煩手展。合眼即入定．開眼即出定。日際燈邊．行住坐臥．一聞啟請．眼光如電．眶無纖淄．不煩手拭。自罹難後．足艱於步．不堪久立．數武必掖．百步必輿。有善信舁從四人．兩自曹溪．兩自南嶽．舍身服役數千里．經年不去。本師自乙未冬十月得旨戍粵之日．即留鬚髮．修髯徑尺．冠巾說法．越十二載。至丙午秋八月．已遇皇太孫生．恩赦開伍．尚未披剃。又九載．至甲寅去粵．夏四月至湖東．聞聖母賓天．乃建報恩道場．奉恩詔．對靈主披剃．易僧服。前此在粵不披剃者．已歷二十年。自披剃至丙辰冬十一月．東遊雙徑之日．徵得見本師圓相時．披剃止越三載．未久也。上堂說法．啟口數千百言．不吃一字．如洪鐘發響．堂外悉聞。提筆作開示語．不更趺坐之常．申楮數千百字．筆無留行。侍者傳錄．疲於奔命．日不暇給也。左手時轉數珠．右手時握白竹骨折疊扇一柄．冬夏不去手．舉而不搖．合而不開。遇有人天三界大指麾事．當案一擊．靡不呼應。竹篦拄杖．棒喝交馳不足當一扇之機用。能使邪魔退聽．疾於雷霆。徵就道力神通所至．目擊百端．略記其大。在宗鏡堂．一日方陞座．兩僧夾扶一僧．歷階而上．顛狂不止。其兩道友．乞本師引救云．此僧持大悲呪五年．素無敗行．不知何故著魔至此。本師曰．此病可醫．即命侍者．於堂中徧詢．得習持穢迹金剛神呪者三人來前．本師因於座間先自持．令習者傳教之。初傳不省．本師以扇於案上震威一擊提授一句．傳之．便應聲如響．習者因逐句傳竟．顛僧如夢斯覺．頂禮而退。本師令入香積寮．如無恙也。是日在座者．有本省吳方伯行可．仁和令周季侯宗建楚學憲葛𡉏瞻寅亮．一輩向未深信．至此神色為變．大眾翕然。又一日．有一僧來禮拜．未起．本師擊扇喝曰．殺人賊．見我作麼．知事作急趁出。僧無語去．眾愕視不解．翼日．聞以盜被獲。此類神通．不可枚舉。飛錫兩月．每日必有施主作百金齋供淨慈大鍋．煑米十石．自住及行．無日不舉火也。至嘉興日．大眾迎入金明寺禪堂．本師命徵聞之舊契．岳司馬石帆．項別駕楚東．二公並來謁晤。楚東．奉檄洭州時．與本師盤桓殷至．醫藥周旋．了結司理一時魔案．本師深德之．一時往還法語手札最多。石帆．慣以禪喜作戲論．向在儀部時．值本師弘法罹難．抗言救之。至是．相見甚歡．坐甫定．寒溫未畢．岳即問曰．適疑素富貴四句．大師作麼解。本師應曰．素是張白紙．畫箇紗帽．便做箇紗帽．畫箇乞兒．便做箇乞兒。蓋明朝．稱仕宦人為紗帽也。大笑．有頃．別去。時齋畢．列燭茶話小參．堂門已閉．忽有持挺箠人．叫呼門外者。或識為糧衙錢皁隸．以為醉顛也．逐之不去．聲愈厲．雜出佛語云．今日活菩薩降臨．我應超度．勿得攔阻。徵異其言．聞之本師。本師曰．可呼之進。進則合掌禮拜．具佛子威儀．眾咸目之雙．膝著地．作佛子鬼語云．他是錢大復．身是仲曰仁．託體求度的。弟子生前持長齋．修淨土八載．今亡期當五七．不到陰府．合生西天．望菩薩慈悲指引。伏地涕淚．悲泣不已。本師為呼侍者中．專習念佛耆宿六人侍立．親為展數珠．即命與一數珠．念千聲佛．託鬼身即能念．一堂大眾．肅然無聲。念佛竟．隨與演蒙山施食文．至應觀法界性．一切唯心造．舉扇擊案疾呼曰．速得解脫。彼即應聲曰．解脫竟。三呼三應．捷於影響。仍起．具佛子威儀．稱謝往生淨土。東西禮大眾云．各各努力．龍華會上相逢。時及更餘．大眾在堂未散．有涕泣者．歎息者．甚有竊笑者．有訾議者．本師處之宴如也。例必登輿還舟．彼即隨輿．送至臨崖．頂禮謝訖．仍還禪堂門口．作謝錢老官賴託得度語．撲地而醒．則依然錢皁隸故態也。旁人因言．曰仁．乃隔河仲庠士．名聞韶之父．生前修淨土甚虔．宜有此感應。徵應曰．此吾壁經社友．仲聖孚也。即同善信數人往叩門．拉過法舟禮謝。乃知是日亡人正值五七喪期．錢皁隸．以催糧入其靈座前．乘醉引魂得度也。後科辛酉．聖孚舉於鄉矣。是日有戚友許泰惟居士者．素信佛．見本師神感．延至家．為父憲副公設靈．叩求說法。本師語語悉開示以平生陰事．聞者懾服。一二日間．相傳活菩薩．誦聲奔走．郡城父老．兒童婦女．延領若狂。徵隨侍．至棲真禮雲谷和尚塔．還備輿蓋威儀．至東塔．俾大眾渴仰者．得一瞻禮。俄而緇白坌集．自山門及方丈．肩摩踵接．一時長堤廣壇．竟無容足處。因與岳石帆先生商．為本師前導．拾級登塔．隨楗塔門。本師軀偉．僅得奉掖至第二層南欄．四眾望見．羅拜頂禮．起伏覆地．蒸如雲煙．黑暮乃散。然燈入方丈．升座說法．略示數語竟．即齋．齋竟．旋即登舟．捧香布果餌來獻者．舟為之壓。時東塔堂主．為靜休師。越日．楞嚴請齋．時．堂主為茂林師。歷覽經坊．備詢規制．因專囑徵以刻藏事．娓娓不置。是日城中隨喜男女．亦復填涌。又越日．而舟渡淞陵矣。

> 譜に記されている所の玄津法師、譚生孟恂、同郡の諸紳士・居士らが、淨慈寺の宗鏡堂に師を請じて留め、日ごとに数千の指を繞らし、大戒を説かせたこと、また靈隱・三竺・西山の名勝を遊覧したことは、すべて百日余りの間の出来事に過ぎない。その折、聖母恩師が弘法の故に難に遭い、長き戍役の末に生還したことは、実に大いなる聲價であった。地方の巡撫・總鎮から府縣の大小の官、そして四方の善信・宰官・居士、律宗・教宗・禪宗の三門にわたる耆宿・後生に至るまで、こぞって武林に集まり、まさに一日千載の時であった。 その時、最初に提唱して雲棲を招請し、やがて南屏淨慈に至ったのは、仁和縣令の周季侯宗建、および本里の金巡撫省吾、虞吏部德園、葛學憲屺瞻、聞孝廉啟祥、宋官生化卿、嚴文學印持、鄒文學孟陽、その他の諸檀信である。寺務を整理し、監院の清規を整え、大衆の供養を辦じたのは、玄津壑法師である。初めは文を草して招請し、次いで奔走して使者の任を務めた。知賓・書記として、朝夕燈明のもとで役務に仕えた者は、徵（筆者）が終始その任に當たった。これこそが、本師が東遊して三吳の間を行脚された一大公案である。 その時、日々御側に侍り、常に龍神・天・鬼の中に在るかの如く凛とした心地であった。本師が行かれるに際し、塵を拂う麈尾も、杖や錫杖もお持ちでなかった。玉の如き御顔は光り皙く、暑い月にも汗をかかれず、朝夕の盥沐の器の水は透き徹って清らかであった。お坐りになる時は必ず双跏趺を組まれ、手を煩わせることもなかった。眼を閉じれば即座に入定し、開けば即座に出定された。昼も燈明の傍らでも、行住坐臥のうちに、啓請を聞けば、眼光は電の如く、眼の縁には少しの濁りもなく、手で拭う必要もなかった。難に遭われて後は、足が歩みにくく、長く立つに堪えず、數歩ごとに必ず支えられ、百歩ごとには必ず輿に乘られた。四人の善信が輿を擔ぎ、二人は曹溪より、二人は南嶽より來て、身を捨てて數千里にわたり供役し、年を經ても去らなかった。 本師は乙未年の冬十月に粤地への流罪の旨を得てより、鬚髮を伸ばし、長く一尺にもなる鬚を蓄え、冠を戴き布を纒って說法され、十二年の歳月を經た。丙午年秋八月に至り、皇太孫が生まれ恩赦によって軍籍を解かれたが、まだ剃髮せず、さらに九年を經て甲寅年、粤地を去った。夏四月に湖東に至り、聖母が崩じられたとの報に接し、報恩の道場を建立し、恩詔を奉じて、靈主の前に對して剃髮し、僧服に變えられた。それ以前、粤地で剃髮しなかったこと、既に二十年を歷ていた。剃髮してより丙辰年冬十一月、東遊して雙徑に至った日、徵は本師の円相を拜見したが、剃髮してから僅かに三載を過ぎたばかりで、久しいものではなかった。 上堂して說法される時、口を開けば數千言、一語も違わず、洪鐘が響く如く、堂外までも聞こえた。筆を執って開示の語を認める時、常の趺坐の姿勢を變えず、紙を伸ばせば數千百字、筆を留めることなく書き進められた。侍者が記錄に奔走し、日々暇がなかった。左手には常に數珠を回し、右手には白竹の骨折り疊み扇を一柄握り、冬も夏も手から離さず、掲げても揺らがず、合わせても開かれなかった。人天三界の大事を指麾すべき時に當たっては、卓上に一撃すれば、呼應しないものはなかった。竹篦や拄杖、棒喝の交錯も、扇の一擊の機用には及ばなかった。邪魔を退けて聽き従わせること、雷霆より速やかであった。 徵は道力・神通の至る所、目撃すること百端あり、大要を略記する。宗鏡堂に於いて、一日、師がまさに陞座されようとした時、二人の僧が一人の僧を挟み扶け、階を歷て上って來たが、その僧は狂亂して止まなかった。その二人の道友が、本師に救いを乞いて言う、「この僧は大悲呪を五年間持ち続け、素行に缺くる所はありませんでしたが、何故か魔に著かれてこの有様です」。本師曰く、「この病は醫し得る」と。即ち侍者に命じて、堂中を遍く尋ね、穢迹金剛神呪を習持する者三人を得、前に來させた。本師は座中に於いて自ら先ず呪を唱え、その習者に傳えて教えさせた。初めは傳えても悟らなかったが、本師が扇を以て案上に震威一撃し、一句を提唱して傳えると、即座に聲が響く如くに應じ、習者は逐句傳え終わった。狂僧は夢より覚めたる如く、頂禮して退いた。本師は香積寮に入らせ、恙無きが如くであった。この日、座中には本省の吳方伯行可、仁和縣令の周季侯宗建、楚學憲葛屺瞻寅亮らの一輩が居り、従來深く信じていなかったが、この時に至って神色一變し、大衆翕然とした。 また一日、一僧が禮拜に來て未だ起き上がらぬうちに、本師が扇を擊ち喝して曰く、「殺人賊、我に會って何を為さん」。知事は急いで追い出した。僧は無言で去り、衆は愕然として理解しなかった。翌日、盜みの故に捕えられたと聞いた。この類の神通、枚舉に暇あたわず。 飛錫して二月の間、每日必ず施主が百金の齋供を設けた。淨慈の大鍋は、米十石を煮る。師の在住時及び行脚中、火を起こさぬ日はなかった。嘉興に至った日、大衆は迎えて金明寺禪堂に入れた。本師は徵が聞き知っていた舊い知己、岳司馬石帆、項別駕楚東の二公が共に來謁するよう命じた。楚東は洭州に奉檄された時、本師と懇ろに交わり、醫藥を周旋し、司理の時の魔の一案を了結せしめた。本師は深くその德を感じ、往還の法語・手札が最も多かった。石帆は常に禪喜をもって戲論を作し、尚は儀部に在った時、本師が弘法の故に難に遭うに當たり、抗言して之を救った。この度、相見えて甚だ歡し。坐が定まり、寒暖の挨拶も未だ終わらぬうちに、岳即ち問う、「適たま『素富貴』の四句を疑いますが、大師如何に解しますか」。本師應えて曰く、「『素』は白紙を張る如し。紗帽を畫けば即ち紗帽となり、乞児を畫けば即ち乞児となる」。蓋し明朝に於いて、官人を紗帽と稱したのである。大笑し、暫く有って別れた。 時に齋畢わり、燭を列べ茶話の小參を行っていた。堂門已に閉ざされたが、忽ち杖を持ち人を打つ者が、門外で叫んでいた。ある者は糧衙の錢皁隸と知り、醉狂と思って逐ったが、去らず、聲は益々激しく、佛語を雜えて言う、「今日、活菩薩降臨す、我れ超度されるべきなり、阻むことを得ず」。徵はその言葉を異とし、本師に聞こし召した。本師曰く、「之を呼び入るべし」。入れば合掌禮拜し、佛子の威儀を具えていた。衆は皆その雙膝が地に著くのを見た。佛子の鬼語を作して言う、「我れは錢大復、身は仲曰仁。體を託して度を得んことを求む。弟子生前、長齋を持し、淨土を修すること八年、今亡期、五七に當たる。陰府に到らず、西天に生まるべきなり。願わくば菩薩、慈悲を以て指引せよ」。地に伏して涕涙し、悲泣して止まなかった。本師は侍者の中より、事に念佛を専習する耆宿六人を呼び侍立させ、親しく數珠を展げ、即ち一數珠を授け、千聲の佛を念ぜしめた。托鬼の身は即座に能く念じた。一堂の大衆、肅として聲無し。念佛終わり、隨って蒙山施食文を演じた。「應観法界性・一切唯心造」に至り、扇を擧げ案を擊ち急呼して曰く、「速かに解脫を得よ」。彼即ち聲に應じて曰く、「解脫竟」。三呼三應、影が形に隨い響が聲に應ずるより捷し。仍お起ち、佛子の威儀を具え、謝して往生淨土を稱した。東西に大衆に禮して云く、「各各努力せよ。龍華會上に相逢わん」。時に更け餘、大衆堂に在りて散ぜず、涕泣する者、歎息する者、甚だしくは竊み笑う者、謗り議する者あり。本師は之に處して晏如たり。例により輿に登り舟に還るべき時に、彼即ち輿に隨い、臨崖に至り頂禮謝し終わり、仍お禪堂の門口に還り、謝して錢老官賴託得度の語を作し、地に仆れて醒めれば、依然として錢皁隸の故態に還った。傍人の因りて言う、「曰仁は、隔河の仲庠士、名は聞韶、その父なり。生前淨土を修すること甚だ虔なり。宜しく此の感應あるべし」。徵應えて曰く、「此れ吾が壁經社の友、仲聖孚なり」。即ち善信數人と共に門を叩き、法舟に拉して過ぎ、禮謝せしめた。乃ち知る、是の日、亡人は正に五七の喪期に當たり、錢皁隸は糧を催すためにその靈座の前に入り、醉いに乘じて魂を引き度を得たることを。後、辛酉の科に、聖孚は郷に擧げられた。 是の日、戚友として許泰惟居士と謂う者有り、素より佛を信じ、本師の神感を見て、家に延きて父憲副公の靈を設け、叩首して說法を求めた。本師は語語悉く開示して平生の陰事を明かされ、聞く者、慴伏した。一二日間のうちに、活菩薩の誦聲が相傳わって走り、郡城の父老、兒童、婦女、延頸して狂するが如し。徵隨侍して、棲真に至り雲谷和尚の塔を禮し、還りて輿蓋の威儀を備え、東塔に至り、大衆の渴仰する者をして一たび瞻禮を得せしめた。程なく緇白坌集し、山門より方丈に至るまで、肩摩踵接し、一時に長堤廣壇、竟に容足の処無し。因って岳石帆先生と商い、本師の前導と為り、階を拾い登り塔に至り、隨いて塔門を楗した。本師の軀は偉大、僅かに奉掖して第二層の南欄に至るを得た。四衆望見し、羅拜頂禮し、起伏して地を覆うこと、蒸煙の如く、黑暮に至りて乃ち散じた。燈を點じ方丈に入り、升座說法し、略數語を示し竟わり、即ち齋し、齋竟わり、旋即ち舟に登った。香を捧げ布果餌を獻ずる者、舟以て壓せらる。時に東塔の堂主は靜休師なり。越日、楞嚴に於いて齋を請う。時に堂主は茂林師なり。經坊を歷覽し、規制を備に詢ね、因って專ら徵に刻藏の事を囑し、娓娓として置かず。是の日、城中に隨喜の男女も亦た填涌たり。又越日にして、舟は淞陵を渡った。

○又譜中所云．諸方名德俱集湖上．偕譚生問法．東南法會之盛．昔所未見。又云．凡一往所經隨手之作．玄津壑公．譚生孟恂．彙為四卷．刻之．名東遊集。此本師於涅槃會上．垂足示意．囑語殷勤．即特出偕之一字．直以東遊勝因．歸徵一身．通譜中．未見有此許可之筆也。徵少時．從先太僕凡同公．命字孟恂。嗣後身在堂樓傾倒之下．翻藉三梁翼之而免．恰於是歲得遇本師．命法字曰梁生。後又自號埽庵．人遂不復知有孟恂矣。本師所示梁生偈云．屋梁倒塌壓譚生．譚生被壓何不死。梁若到身身即碎．身若到梁梁不避。兩者既到何不干．試問不干之所以。目前幻境不比梁．譚生何苦先惶慞。若要不惶慞．看逼狗跳牆。此初見時開示語。嗣有示持準提錐劄諄切諸法語．並載東遊集中。因念當日．自雙徑．雲棲．延留淨慈宗鏡．開堂．因遊歷湖上．靈隱．天竺．諸山．及檇李．金明．東塔．大現光明。度閱淞陵．吳門．直抵金沙東禪．禮足而別。自春徂夏．晨燈侍從．靡有閒日。臨放舟時．本師手撫徵背．笑而言曰．身後事．乃囑汝．此二十七歲時事也。徵於本師．不減嬰兒之戀乳。本師於徵．不異慈母之字孩。爾時．先嚴在朝．先慈在侍．本師先幾早見．預示以立身涉世未了因緣．力止從遊五乳．然瞻依夢寐．未嘗須臾忘也。別後迄今．行年六十有二．老矣。向來受記．即持準提．四紀如一日。法雲送供．往還示札盈笥。燕都石鐙道場．聞寂哀慕。只今覿面法影．疏述年譜．抽繹疇昔耳提垂示簡冊．以期了異日入藏請諡公案．始知身後付囑之語．乃在今日。嗟夫．本師愛徵．一時目中無兩．徵事本師．庶幾少分相應爾。

> また、この『一夢漫言』の記録には、「諸方の名だたる高僧たちがこぞって湖上に集い、譚生とともに法を問うた。東南における法会の盛況は、かつて見たことがないほどであった」とあります。また、「旅の途次、その場その場で書き記した作品を、玄津壑公と譚生孟恂がまとめて四巻とし、版刻した。これを『東遊集』と名づけた」とも。これは、本師が涅槃会の席上で足を垂れて示し、懇ろに言葉を残されたところで、特に「偕（とも）に」の一字を抜き出し、直ちに東遊の勝因をもって一身に帰することを示したものです。通譜の中でも、このような許可の筆致は見られません。 私は若い頃、先に亡くなった太僕・凡同公より、字を孟恂と命じられました。その後、堂楼の危うい倒壊に遭いながら、かえって三つの梁（三梁）に支えられて難を免れ、ちょうどその年に本師に出会い、法の字を「梁生」と授かりました。その後、自ら「埽庵」と号したため、人々はもはや私に孟恂という字があったことを知らなくなりました。本師が示された梁生の偈にはこうあります。 「屋梁倒塌圧譚生　譚生被圧何不死 　梁若到身身即碎　身若到梁梁不避 　両者既到何不干　試問不干之所以 　目前幻境不比梁　譚生何苦先惶慞 　若要不惶慞　看逼狗跳牆」 これは最初にお目にかかった時の開示のことばです。その後、準提を修行するに際しての錐劄（教示）や格別に懇ろな法語をいただき、それらは『東遊集』に収められています。思い起こせば、当時は双径山、雲棲寺に滞在し、さらに延長されて浄慈寺の宗鏡堂で説法するに及び、湖上、霊隠寺、天竺寺など諸山や、檇李、金明寺、東塔寺を巡り、大いに光明を現しました。その後、淞陵、呉門を経て、はるばる金沙の東禅寺に至り、本師の足に礼拝して別れました。春から夏にかけて、朝夕の灯のもと、常に侍従して、暇な日は一日もありませんでした。 舟を出す際、本師は手で私の背を撫でながら、笑ってこう言われました。「後事は、お前に託す」。これは私が二十七歳の時のことです。私は本師に対して、決して乳飲み子が母の乳を恋しがる思いに劣ることはありませんでした。本師の私に対するのも、慈母が子を慈しむのと異なることはありませんでした。その当時、父は朝廷におり、母は私のそばにいました。本師は先見の明を持って早くから見抜き、身を立て世に交わる未完の因縁を示し、懸命に五乳山への従遊を止められました。しかし、夢寐にも慕い寄る思いは、一瞬たりとも忘れたことはありません。 お別れしてから今日に至るまで、年は六十二歳になり、老いました。これまで授かった記別（将来の成仏の予言）に従い、ひたすら準提の修行を続け、四十八年を一日の如く過ごしてきました。法雲寺の方からは供養が送られ、往復の手紙は箱いっぱいになりました。燕都の石鐙道場が寂れてしまったことには、悲しみ慕う思いが絶えません。今、目の前に本師の影像（法影）を拝し、年譜を述べ記し、かつて耳提面命を受けた簡冊を引き出し熟読して、いつの日か蔵経に入れ、諡を請うた公案を完遂しようとするにつけ、初めて「身後の事を汝に託す」という言葉が、まさに今日に向けられていたのだと知りました。ああ、本師の私への慈愛は、当時、世に比類するものがありませんでした。私の本師に事（つか）える志は、どうにかしてその一端にでも相応したいと願うばかりです。

四十六年戊午●

> 四十六年、つちのえうまの年。

予七十三歲．吳下諸居士．捐資為予建逸老精舍。是年始修五乳佛殿．禪堂。三月．浮梁大參赤石陳公．入山．結新安儀部中素鮑公．星子刑部我齊夏公．為十友．助建造資．長至月．殿堂就。陳赤石．再見。鮑儀部中素．夏刑部我齊．各一見。中素．名應鰲．徽州人．歷官太常卿。

> 私は七十三歳になった。呉下（ごか）の諸居士たちが、資金を出し合って私のために「逸老精舎（いつろうしょうじゃ）」を建ててくれた。同年、五乳峰（ごにゅうほう）の仏殿と禅堂の修繕に着手した。三月、浮梁（ふりょう）の大参・陳赤石（ちんせきせき）公が山に入り、新安（しんあん）の儀部・鮑中素（ほうちゅうそ）公、星子（せいし）の刑部・夏我斎（かがさい）公と共に十友（じゅうゆう）を結成し、建築資金を援助してくれた。冬至の月に、殿堂は完成した。 <note>陳赤石については再掲。鮑儀部中素、夏刑部我斎については各々初出。中素の名は応鰲（おうごう）、徽州（きしゅう）の人。太常卿（たいじょうけい）まで官職を歴任した。</note>

徵於丁巳夏四月．別本師時．囑募造西方出山三聖法像。蓋彌陀觀音勢至．為六時念佛道場主．追仿遠公蓮社也。此像世剎希有．恰江右萬匠得傳．檀造精異。又恰得天然座蟠根一枝．列坐三聖。又恰得古銅鑪缾燭臺供器五。是春圓成．侍者虛中益公．以佛殿將成．來迎．徵即日買舟送之。本師一見．歡喜讚歎．迄今供養完好。五乳所建殿堂．在九江府．德化縣．匡廬山之陰．初名木石庵．今稱法雲寺。住持知徵師．化後．今屬慈嚴師．號潤宏。

> 丁巳年（1617年）夏四月のことでした。私は師と別れる際、西方三聖（阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩）の出山像の造立を依頼されました。これは、昼夜六時にわたって念仏修行する道場の主尊として、遠公の白蓮社の故事にならったものです。 このような像は世にも珍しく、折よく江西の名匠がその技を受け継いでおり、寄進された材も精妙でございました。また、天然の蟠根（ねじれた根）からなる台座一つが得られ、そこに三聖を安置することができました。さらに、古い銅製の鑪・瓶・燭台・供器の五具も揃いました。 この春、すべてが完成し、侍者の虚中益公が「仏殿がまもなく完成するので、お迎えに参りました」と申しましたので、私は即日船を仕立てて送り届けました。師はこれを見て大いに喜び、讚歎され、今も大切に供養されております。 五乳に建立した殿堂は、九江府・徳化県の廬山の北麓にあり、当初は「木石庵」と称しましたが、現在は「法雲寺」と呼ばれております。住職の知徴師が亡くなられて後は、現在は慈厳師（潤宏と号す）が務めております。

四十七年己未●

> 四十七年、つちのとひつじ●

予七十四歲．春正月．啟諷華嚴經長期．為眾說法華通議。夏說楞嚴．起信．金剛．圓覺．唯識．經論。秋七月．囑南康郡守袁公為記．以五乳為十方養老常住。八月望．予閉關謝緣．效遠公六時刻香代漏．專心淨業。每念華嚴一宗將失傳．清涼疏鈔．皆懼其繁廣．心志不及．故世多置之．但宗合論。因思清涼．乃此方撰述之祖．苟棄之．則失其宗矣。志欲但取疏文．提筆大旨．使觀者易了．題曰綱要．於關中批閱筆削始。袁公．即前袁使君．後九濟．再見。

> 私は七十四歳の春、正月から『華厳経』の長期間の読誦を始め、大衆のために『法華経通議』を説きました。夏には『楞厳経』『大乗起信論』『金剛経』『円覚経』『唯識論』などの経論を説きました。秋七月には、南康の郡守である袁公に記文を依頼し、五乳山を十方の養老のための常住院としました。八月十五日、私は関（こもり）に入り、縁を絶ち、慧遠大師の六時の香と漏刻（水時計）にならって、専ら浄業に没頭しました。 『華厳経』の一宗がやがて伝わらなくなることを常に憂えていました。清凉澄観大師の疏（註釈）と鈔（疏の註釈）は、その広大で煩雑な内容ゆえに、人々の心が及ばず、世間では多くがこれを置き去りにして、『合論』（李通玄長者の『華厳合論』）を重んじていました。そこで思いました。清凉大師はこの国（中国）における撰述の祖である。もしその著作を捨てるならば、その宗旨を失ってしまうだろうと。 そこで、疏の文のみを取り出し、その大要を筆記して、読む人が容易に理解できるようにしたいと志しました。これを『綱要』と題し、関中で校閲・筆削を始めたのです。 <note>袁公、すなわち前の袁使君（後の九済）のこと。再見。</note>

徵按譜中．五見清涼公案．究竟以華嚴綱要了之。又越三年壬戌．草就．而清涼緣就．曹溪緣亦就矣。意本師．即清涼再來耶。又本師．是時方以刻香代漏．專心淨業為宗．而清涼疏鈔．華嚴一宗．復得筆削綱要．垂示後來．是謂淨土唯心．萬法歸一。

> 『五見清涼公案』について調べてみると、結局のところ『華厳綱要』によってその全貌を明らかにすることができました。それから三年後の壬戌年になって、草稿が完成しました。すると清涼大師とのご縁も成就し、曹溪（六祖慧能）とのご縁も成就したのです。思うに、我が師（蕅益大師）は清涼大師の再来ではないでしょうか。 また、この時、我が師は香を刻んで時計の代わりとし、心を込めて念仏の修行（浄業）を専らとされていました。そして清涼大師の『疏鈔』や華厳宗の教えを再び筆で削り整えて『綱要』を著し、後世に示されました。これはまさに、「浄土は唯心の所現であり、一切の法は一つに帰する」という教えを体現しているのです。

四十八年庚申．即泰昌改元．●

> 四十八年庚申。すなわち泰昌に改元。

予七十五歲．春．課餘．侍者廣益．請述圓覺．起信．直解．莊子內七篇註。夏病足疾。秋八月．麻城儀部無異陳公．安義吏部明衡徐公．星子刑部潯上吳公．江州使君景鄴陸公．南康郡守九濟袁公．司理仲達李公．入山問道。向之分巡湖南吳公．轉粵臬．入曹溪禮祖．託山中弟子．寄乞諸祖傳讚。予病中．為纂小傳七十餘首．各系以讚．復為親手書之。初予去曹溪．之南嶽．住匡山．業已八年。而曹溪僧．深思予歸．僧等數數問訊．欲請之．而未能也。適吳公赴任．便道入山．見予重興之功．嗟歎久之。眾僧因具白所以．思予歸．請之不能之狀。吳公欣然為作護法．即具書往請。合山大眾．及本省鄉縉紳士子．同具請狀．至匡山哀乞之。粵弟子．侍御王省東．親入山請之三次．予時力以病謝。廣益．再見。麻城陳儀部無異．安義徐吏部明衡．星子．吳刑部潯上．江州陸使君景鄴．南康李司理仲達．粵中王侍御省東．各一見。袁九濟．即袁公．吳公．即吳生白中偉．各再見。景鄴．名夢龍．浙江山陰人．廣東主考．歷貴州參政。仲達．名應昇．江陰人．官御史．魏璫時逮死。

> 私は七十五歳の春、授業の合間を縫って、侍者の広益が『円覚経』『大乗起信論』『直解』『荘子内篇七篇の注』の講述を求めてきました。その夏、私は足の病にかかりました。秋八月には、麻城の儀部・無異陳公、安義の吏部・明衡徐公、星子の刑部・潯上呉公、江州の使君・景鄴陸公、南康の郡守・九済袁公、司理・仲達李公が山に訪ねてきて道を問いました。以前、湖南を巡察していた呉公は、広東の按察使に転任し、曹溪に立ち寄って祖師を礼拝しました。そして山にいる私の弟子に託して、諸祖の伝記と讃頌を求めてきました。私は病中ながら、七十余篇の短い伝記を編纂し、それぞれに讃を付け加え、さらに自ら筆写しました。 初めに曹溪を去って南嶽に向かい、匡山に住んでから既に八年が経っていました。ところが曹溪の僧たちは私の帰還を強く望み、たびたび見舞いを送っては帰ってきてほしいと願い出ましたが、実現できずにいました。折よく呉公が赴任の途次に山に立ち寄り、私が再興した事業を見て、長い間嘆賞されました。そこで僧たちは事の次第を詳しく説明し、私が帰ることを望みながらも、それを請うことのできない状況を打ち明けました。呉公は快く護法者となり、早速書状をしたためて私を招請しました。山全体の僧侶たちと、本省の郷紳・士人たちが連名で請願書を作り、匡山にまで来て哀れみを乞いました。広東の弟子である侍御・王省東も、自ら山に入って三度も私を招請しました。その時、私は病を理由に固辞しました。 <note>広益は再登場。麻城の陳儀部無異、安義の徐吏部明衡、星子の呉刑部潯上、江州の陸使君景鄴、南康の李司理仲達、粤中の王侍御省東は各一度のみ。袁九済は袁公、呉公は呉生白中偉のことで、いずれも再登場。景鄴の名は夢龍、浙江山陰の人で、広東の主考官を務め、貴州参政を歴任。仲達の名は応昇、江陰の人で、御史を務め、魏璫の時に捕らえられて死去。</note>

徵按譜中．一書萬曆十年壬午秋八月．皇太子生．再書三十四年秋八月．皇長孫生．三書四十八年庚申．即泰昌改元。蓋是歲七月二十六日．神宗崩．泰昌立．詔以明年為泰昌元年。是歲九月初三日．光宗旋崩．初六日．天啟立。科臣李若珪．道臣左光斗．疏請．自八月初一．至十二月終．借之先帝．去萬曆年號．俱稱泰昌元年月日．究未准行。要亦失正始正終之義．實出一時無稽．而草草終局也。與其借之先帝．以虧曆年．於後崩者為非孝．孰若借之後帝．以彰元祀．於新立者為孝。且以天啟元年．為泰昌元年．正信泰昌即位之詔非借也。天啟二年．實天啟元年也。今泰昌元年．僅得附筆於萬曆四十八年。本師懼其改元湮沒．故大書特書於四十八年庚申之下．云泰昌改元。此五字者．春秋筆法心法之最大者也．豈從前祖師年譜所經見哉。五臺山祈嗣．慈壽寺保嗣．以至鎮撫司打問．大庾嶺從軍．張洪陽相國所稱大有社稷陰功者．到此五字中．成一大結果也。五乳刻漏念佛之餘．疏註述作．熾然說法無虛日．豈七十五歲老人．病中所能。五乳事業未了．曹溪事業復興．所謂天行健．君子以自強不息也。吾友王季延．名起隆．作泰昌元年辯．及質疑．反覆詳覈上下古今改元經制．極筆二千餘字．實為先得我心。大旨．只踰年改元．為萬世之經．隨月即改．為一時之謬．兩言該之。又云．一年可分兩截．則萬曆．泰昌．天啟．併在一年．何不可分為三截。是勉強支離．以光廟為贅疣也。此語更刮目刺心．鄙見所未到也。況光廟．聖德高厚．為不世出之主．即位之月．陝西臨鞏黃河．徹清三日。早以令旨停礦稅．諸稅監盡撤歸．發帑金犒邊．以百萬計．召起建言讜臣．若不遑暇食者．此猶新政所有。若夫青宮育德．仁孝獨殫．當內有菀枯之形．外有羽翼之激．處此實難。神廟臨崩．以鄭貴妃封后．詔囑之行．廷臣爭之．卒不忍奪。此四十日之孝思仁澤．被及．三世．天道猶可問也。愚因憨祖譜中．有即泰昌改元五字．感而識之。

> 年譜の中に見る「一、萬曆十年壬午秋八月、皇太子生。再び三十四年秋八月、皇長孫生。三、四十八年庚申、即ち泰昌改元。」とある。これは、同年七月二十六日に神宗が崩じ、泰昌帝が即位し、翌年を泰昌元年と詔したことによる。同年九月初三日、光宗（泰昌帝）は崩じ、初六日に天啓帝が即位した。科臣の李若珪、道臣の左光斗は上疏し、「八月初一から十二月末までは、先帝のものと借りなし、萬曆の年号を除き、すべて泰昌元年の月日とせよ」と願い出たが、結局許可されなかった。これは正しく始めと終わりを正す義を欠き、一時の根拠なき判断による、いい加減な幕引きであった。先帝に借りて年曆を損なうことは、後で崩じた帝に対して不孝となる。それよりも、新たに即位した帝に借りて元年を明らかにする方が、孝といえる。さらに、天啓元年を泰昌元年とすることこそ、泰昌帝即位の詔を正しく継ぐものであり、借りものではない。天啓二年は、実は天啓元年なのである。現在、泰昌元年はわずかに萬曆四十八年に附記されているに過ぎない。本師（憨山大師）はその改元が埋もれることを憂い、あえて大きく書き記して萬曆四十八年庚申の下に「泰昌改元」と記したのである。この五文字こそ、春秋の筆法と心法の極致であり、これまで祖師の年譜に見られるものではない。五臺山での子宝祈願、慈壽寺での安産祈祷、鎮撫司での尋問、大庾嶺での従軍、張洪陽相国が「国に大いなる陰徳あり」と称した事績も、すべてこの五文字に結実したのである。五乳での念仏の余暇に疏註や著述を行い、絶えず説法した日々は、七十五歳の老人に病中で可能な業ではなかった。五乳の事業が未了のうちに、曹溪の事業が再び起こった。まさに「天行健、君子以て自彊息まず」である。友人の王季延（名は起隆）は「泰昌元年辯」及び「質疑」を作り、古今の改元の制度を詳細に検討し、二千字余りを筆にした。まさに我が意を得たものである。その要旨は、「年を越して改元するのが万世の常道であり、月に随って即座に改めるのは一時の誤りである」の二言に尽きる。また、「一年を二つに分けられるなら、萬曆、泰昌、天啓を並べて一年とし、三つに分けられないことはない。これは無理に分割し、光宗を無用のものとする議論である」と述べている。この言葉はさらに目を驚かせ心を衝くもので、私の見解の及ばないところであった。ましてや、光宗の聖徳は高く厚く、稀代の君主であった。即位の月には、陝西の臨鞏にある黄河が三日間清らかに澄んだ。早々に令旨を下して鉱税を止め、税監をすべて撤収させ、国庫から百万単位の金を辺境に支給し、諫言の臣を用いた。新政として目 new しいものである。東宮での徳の育み、仁愛と孝行に尽くし、内部に盛衰の形あり、外部に翼護の激しさあり、その中での処遇は実に難しかった。神宗が崩じる際、鄭貴妃を后にせよとの遺詔があり、廷臣が争ったが、ついに奪うことはできなかった。この四十日の孝思と仁澤は、三代に及び、天の道もまた問うべきものである。私は、憨山大師の年譜に「即ち泰昌改元」の五文字があることに感じ、記す次第である。

○是歲有札示徵往曹溪意．預題譚孝廉居士。

> ○この年、手紙があり曹溪へ行く意向を示された。予め譚孝廉居士に伝えた。

天啟元年辛酉●

> 天啓元年（1621年）、辛酉の年

予七十六歲．夏．為眾請．說楞伽筆記。冬十月．弟子孝廉劉起相．陳迪祥．陳迪純．梁四相．來訊。時前任韶陽觀察祝公．今轉粵海道．同吳公．具書．再至匡山．予復以病謝。劉起相．陳迪祥．陳迪純．梁四相．各一見。祝公．即前惺存．再見吳公．即前生白．三見。

> 私は七十六歳の夏、大衆の求めに応じて『楞伽経』の講義録を作成しました。冬十月、弟子の劉起相、陳迪祥、陳迪純、梁四相が見舞いに訪れました。その時、以前韶陽観察の職にあった祝公が粤海道に転任し、呉公と共に書簡を持って再び匡山に来られましたが、私は病を理由にお断りしました。 <note>劉起相、陳迪祥、陳迪純、梁四相はそれぞれ一度だけ面会しました。祝公は前回の惺存であり、再会した呉公は前回の生白で、これで三度目の面会となります。</note>

徵里祝公惺存．吳公生白．兩前輩．並吾鹽官人．究能成就六祖憨祖肉身會聚．許大因緣。是歲．即未返曹溪．已動返之幾．決返之勢矣。若不再返曹溪．即肉身出五乳．不覿面盧祖．未見大奇特也。

> 徽里の祝公惺存、呉公生白、両先輩は、ともに我が塩官の出身であり、六祖と憨祖の肉身が会し、この大きな因縁を成就させることができました。その年、曹溪に戻らなかったとしても、既に戻る機運は動き、戻る勢いは決まっていました。もし再び曹溪に戻らなければ、肉身は五乳を出でても、盧祖と直接対面することなく、大いに奇特なこととは言えません。

○以上了匡山五乳法雲寺公案。

> 以上が、匡山五乳法雲寺の公案です。

二年壬戌●

> 二年、壬戌の年

予七十七歲．力提華嚴綱要．草就．大眾請說楞嚴．圓覺．金剛．起信．肇論．諸經論。吳公朝覲回．又遣書．意更切．韶陽太守三星張公．特書．專堂主本昂至。予情不獲已．意必一往。於是年冬至月十日．出匡山．度彭湖．有詩。未幾．掌院南皋鄒公．北還．尋予入山。時予已抵吉州．會蕭太史拙修．馬季房．曾堯臣．劉韶也．賀可尚．劉轉華．諸公．問道於自燕山房。臘八度嶺．望日入曹溪。吳公生白．四見。韶陽太守張公三星．堂主本昂．各一見。掌院鄒公南皋．再見。蕭太史拙修．馬季房．曾堯臣．劉韶也．賀可尚．劉轉華．各一見。三星．名翼軫．松江華亭人．由韶州守．升廣西副使。拙修．名雲舉．號玄圃．廣西宣化籍．江西泰和人．歷官少宰。

> 私は七十七歳で、華厳経の綱要を執筆し、草稿を仕上げました。大衆からは楞嚴経、円覚経、金剛経、起信論、肇論などの経論の講義を求められました。呉公が朝廷への参内から戻ると、さらに手紙を送り、その意気込みは一層切実なものでした。韶陽太守の張三星公も特に手紙を書き、堂主の本昂を派遣して私を招きました。やむを得ず、私は必ず一度は赴こうと決意しました。その年の冬至の月の十日に、匡山を出発し、彭湖を渡りました。その際に詩を作りました。間もなく、掌院の鄒南皋公が北方から戻り、私を山に入れようと探しました。その時、私はすでに吉州に到着しており、蕭太史の拙修、馬季房、曾堯臣、劉韶也、賀可尚、劉転華といった諸公と、自燕山房で道を問う機会がありました。臘八の日に嶺を越え、翌日（望日）に曹溪に入りました。 <note>呉公生白は四回出現。韶陽太守の張公三星、堂主の本昂はそれぞれ一回出現。掌院の鄒公南皋は二回出現。蕭太史拙修、馬季房、曾堯臣、劉韶也、賀可尚、劉転華はそれぞれ一回出現。三星は名を翼軫といい、松江華亭の人。韶州の守から広西副使に昇進した。拙修は名を雲挙、号を玄圃といい、広西宣化の籍で、江西泰和の人。少宰の官を歴任した。</note>

徵按南皋公以下．並江右志節．佛法中人．筆之末簡．蓋從多士中擇而取之．然終未嘗歸許一人也。孔子七十二歲．冬十月．作春秋．絕筆於西狩獲麟．明年七十三．而夢奠曳歌矣。憨祖七十七歲．臘月望日．作年譜．絕筆於度嶺．入曹溪．明年七十八．而肉身示寂矣。先聖後聖．若合符節．豈論儒釋色相哉。更所奇者．本師前在粵．始末二十一年．未曾披剃。後至楚地．始具圓相．還僧服。向使不重返曹溪．則粵中緇白．竟畢生不得見本師圓相僧服矣。然則有髮無髮．僧服儒服．聖賢異同．正不在此。

> ここに記す南皋公以下の諸氏は、いずれも江右の地に志節を立てた人々であり、仏法に帰依する者である。彼らを末筆に記すのは、多くの士の中から選び取ったからに他ならない。しかし、最終的に一人として我が師が「これぞ」と許した者はいない。 孔子は七十一歳（※実際は七十二歳とする説もある）の冬十月に『春秋』を著し、西の方で麟を狩り獲た出来事をもって筆を絶った。その翌年、七十三歳で夢にて自身の最期を悟り、杖を曳きながら歌を詠んで世を去った。 一方、憨祖（＝私の師）は七十七歳の臘月十五日、自らの年譜を記し、嶺を越えて曹溪に入ったところで筆を絶った。その翌年、七十八歳で肉身のまま入寂した。 古の聖人と後の聖人、その行いはまるで割符が合うかのようである。儒も仏も、その外見や形相を論じる必要などあろうか。 さらに不思議なのは、我が師はかつて広東に在すること実に二十一年、その間一度も髪を剃り、袈裟をまとうことがなかった。後に楚の地に至って初めて円満な僧相を具え、僧服に戻ったのである。もし再び曹溪に戻らなければ、広東の僧侶も在家も、終生、師の円相や僧服を目にすることはなかったであろう。 そうであるならば、髪があるかないか、僧服か儒服か、聖賢の異同というものは、まさにそこにあるのではない。

○徵得見本師所著．有楞伽筆記．華嚴綱要．法華擊節．楞嚴懸鏡．楞嚴通議．法華通議．起信論解．唯識論解．圓覺直解．觀老莊影響論．道德經解．莊子內七篇解．憨山緒言．中庸直指．大學決疑．春秋左氏心法．奇門指掌．夢遊集．曹溪通志。徵所手錄付梓．有東遊集。梓行．有金剛決疑。其著述尚多．如所面語．有三教論．論語通解．奇門指掌。及堅如所云．有語錄全集若干卷．本師化後．被侍者心啟．竊市他方．茲不得見者．不具載。而佛祖慧命所寄．則楞伽筆記其最先．華嚴綱要其最後。宗不離教．祖不離佛．此其甚彰明較著者矣。本師常自言．筆舌所出．靡不凝神入觀．體契佛心．稍涉思議．即不中用。即此華嚴綱要．屬草圓就．乃在七十七歲示寂之前一年．以當迦文末後雙樹拈花之事。定力神光．乾健不息．具在大乘貝葉中．是豈思議所及也。

> ○ご本師の著されたものには、『楞伽筆記』、『華厳綱要』、『法華撃節』、『楞厳懸鏡』、『楞厳通議』、『法華通議』、『起信論解』、『唯識論解』、『円覚直解』、『観老荘影響論』、『道徳経解』、『荘子内七篇解』、『憨山緒言』、『中庸直指』、『大学決疑』、『春秋左氏心法』、『奇門指掌』、『夢遊集』、『曹渓通志』がありました。 私が自ら筆写して刊行に付したものには、『東遊集』があります。刊行されたものには、『金剛決疑』もあります。その他にも多くの著作があり、お会いした際に伺ったものとしては、『三教論』、『論語通解』、『奇門指掌』があります。また、堅如の言うところによれば、語録全集が数巻あるそうです。ご本師がお亡くなりになった後、侍者である心啓がこっそりと他国へ売り払ってしまい、現在では見ることができないものについては、ここに詳しく記しません。 しかし、仏祖の慧命が託されているものとして、『楞伽筆記』は著作の中で最も早く、『華厳綱要』は最も遅いものです。宗旨と経典は離れず、祖師と仏陀もまた離れないということは、これらの著作によってきわめて明らかです。ご本師は常に自ら言われました。「筆や口から出るものは、すべて心を凝らして観想に入り、仏の心に悟り合うものである。少しでも分別や思惑が混じれば、それは役に立たない」と。 この『華厳綱要』についても、草稿から完成まで、なんとお亡くなりになる前の年、七十七歳の時であり、これは釈迦牟尼仏が最後に双樹の間で花を拈られた故事にあたるのです。ご本師の定力と神光は、健やかで絶え間なく、すべて大乗の貝葉経典に具わっており、それは思議の及ぶところではありません。

○是歲．起重返曹溪因緣．未了憨山寺肉身嗣祖公案。

> この年は、曹渓への帰還の因縁が再び起こりましたが、いまだ果たせずにおりました。また、憨山寺の肉身が祖を嗣ぐという公案も、未解決のままでした。

## 憨山老人年譜自敘實錄疏終

> 憨山老人年譜自敘實錄疏 終わり