---
title: "淨土全書 · 淨土起信"
description: "淨土全書由清代居士俞行敏重輯，是一部重要的淨土宗典籍。該書匯編了淨土信仰的核心經典與歷代祖師注疏，系統闡述了念佛往生西方極樂世界的理論與方法。其內容涵蓋彌陀經典、往生傳記及修行儀軌，強調信願行三資糧，為修行者提供清晰指引。此書反映了清代淨土法門的興盛與民間信仰的融合，在佛教史上具有承先啟後的地位，是研究淨土宗思想與實踐的重要文獻。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cmdzw4dei02gbjp04zf4ymls8"
---

### 淨土起信

> 浄土への信を起こす

王龍舒云。予徧覽藏經。及諸傳記。取其意為淨土文。無一字無所本。幸勿以人微而忽其說。欲人人共曉。故其言直而不文。

> 王龍舒は次のように述べています。私は蔵経や諸々の伝記をくまなく読み、その意味を取り入れて『浄土文』を著しました。一字一句、典拠のないものはありません。どうか私が微賤の身であるからといって、この説を軽んじないでください。あらゆる人々に理解してもらいたいと願い、そのため言葉は率直で飾り気のないものとしました。

淨土之說。多見于日用之間。而其餘功。乃見于身後。不知者。止以為身後之事而已。殊不知其大有益于生前也。何則。佛之所以訓人者。無非善。與儒教之所以訓人。何以異哉。故其以淨土為心。則見于日用之間者。意之所念。口之所言。身之所為。無適而非善。善則為君子為大賢。現世則人敬之神祐之。福祿可增。壽命可永。庸人稍知佛理者。世必目之為善人。此其效也。由是言之。則從佛之言。而以淨土為心者。孰謂無益于生前乎。或曰。從孔子之言。而以儒教為心。豈不益于生前。何必淨土哉。曰此世間法耳。非出世間法。世間法則不出于輪迴。出世間法則直脫輪迴之外。淨土既益于生前。又益于身後者。以其兼世間出世間法故也。

> 浄土の教えは、日常生活の中に多く見られますが、その真価は死後にこそ現れるものです。知らない人は、ただ死後のことだと思いがちですが、実は生きている間にも大いに役立つものなのです。 なぜなら、仏が人々に教え諭すことは、すべて善にほかならず、儒教の教えと何ら変わりはありません。ですから、浄土を心に抱くならば、日常生活において、思い浮かべることも、口に出す言葉も、体で行うことも、すべて善以外にはなりません。善をなせば君子となり、大賢者となり、現世では人から敬われ、神から守られ、福と禄は増え、寿命は長くなります。少しでも仏の道理を知る凡夫は、世間から必ず善人と見なされるものです。これがその効果です。 こうして考えると、仏の教えに従い、浄土を心に抱くことが、生きている間に役立たないなどと言えるでしょうか。ある人が言うかもしれません。「孔子の教えに従い、儒教を心に抱けば、生きている間に役立つはずです。なぜ浄土が必要なのでしょうか」と。 しかし、それは世間の法に過ぎず、出世間の法ではありません。世間の法では輪廻から抜け出せませんが、出世間の法では輪廻の外へと直ちに脱することができます。浄土が生きている間にも役立ち、死後にも役立つのは、世間の法と出世間の法の両方を兼ね備えているからなのです。

淨土之說。有理有跡。論其理。則見于日用之間。而未常離。前篇所言是也。論其跡。則見于三時一茶之頃。而不必終日泥十念法門是也。葢修持法門有九品。人人皆可以修。雖罪惡之人。佛亦不棄。迴心向善。即為善故。雖屠宰之人。放下屠刀。亦可以修。所以修者不難。亦不妨一切俗事。故在官不妨職業。在士不妨修讀。在商賈不妨販賣。在農人不妨耕種。在公門不妨事上。在僧徒不妨參禪。凡一切所為。皆不相妨。故曰。其修持工夫。見于三時一茶之頃耳。遂可以為萬萬劫不壞之資。用力甚易。而收功甚大。人何為而不修乎。及此不修。可痛惜哉。可痛惜哉。

> 浄土の教えには、道理と実践の両面があります。 道理を論じれば、それは日常の生活の中に現れ、決して離れることはありません。前の章で述べた通りです。 実践を論じれば、それは一日三度の食事や一服のお茶のわずかな時間にも現れ、終日「十念の法門」に固執する必要はありません。 そもそも修持の法門には九品があり、誰もが修めることができます。たとえ罪深い人であっても、仏は見捨てません。心を改めて善に向かえば、それは善となるからです。屠殺を業とする者でも、屠刀を下ろせば修めることができるのです。 したがって、修めることは難しくなく、またあらゆる世俗の事柄を妨げることもありません。役人であれば職務を、学者であれば学問を、商人であれば商売を、農民であれば耕作を、役所の者であれば上の者への奉公を、僧侶であれば坐禅を妨げることはないのです。すべての行いが、互いに妨げ合うことはありません。 ですから、その修持の工夫は、一日三度の食事や一服のお茶のわずかな時間に見出されるというわけです。それによって、永遠に朽ちることない資糧を得ることができるのです。 努力はごくわずかで、得られる功徳は非常に大きい。人はなぜ修めようとしないのでしょうか。この機会を逃して修めないのは、なんと痛ましいことでしょう。なんと痛ましいことでしょう。

人驟聞淨土之景象。多不信之。無足怪也。葢處此娑婆濁世。惟知生長于胞胎。不知彼有蓮華之化生。壽不過百年。不知彼有河沙之壽數。衣食必由于營作。不知彼有自然之衣食。快樂常雜于憂惱。不知彼有純一之快樂。遂將佛之所言。等于幻妄。而不之信。殊不思佛切戒人以妄語。必不自妄語以誑人。其言可信。無足疑者。故先賢云。佛言不信。何言可信。況自古及今。修此者感應甚多。猶不可以不信者也。

> 浄土の情景を初めて聞いた人は、多くが信じられないと思うでしょう。それは無理もありません。なぜなら、この穢れた娑婆世界に生きる私たちは、母の胎内で生まれることしか知らず、あの世には蓮華から生まれる清らかな姿があることを知らないからです。寿命は百年に過ぎず、あの世には河の砂の数ほどの長い寿命があることを知りません。衣食は必ず働いて得るものと思い、あの世には自然に用意される衣食があることを知らないのです。喜びは常に悩みと混ざり合い、あの世には純粋な喜びだけがあることを知りません。だからこそ、仏の言葉を虚妄と同一視し、信じようとしないのです。 しかし、よく考えてみてください。仏は人々に「妄語を戒める」と厳しく説かれています。ご自身が人を欺くために妄語を語られるはずがありません。その言葉は信頼に値し、疑う余地はないのです。だから先賢も言われました。「仏の言葉を信じないなら、いったい何を信じればよいのか」と。ましてや、古より今に至るまで、この教えを実践して多くの霊験を得た人々がいるのです。それでもなお、信じないわけにはいかないでしょう。

世有專于參禪者云。惟心淨土。豈復更有淨土。自性阿彌。不必更見阿彌。此言似是而非也。何則。西方淨土有理有跡。論其理。則能淨其心。故一切皆淨。誠為惟心淨土矣。論其跡。則實有極樂世界。佛丁寧詳復言之。豈妄語哉。人人可以成佛。所謂自性阿彌者。固不妄矣。然猝未能至此。譬如良材可以雕刻物像。而極其華麗。必加以雕刻之功。然後能成。不可遽指良材。而遂謂極物像之華麗也。又或信有淨土。而泥惟心之說。謂現前即是西方。不足生者。謂參禪悟性。超佛越祖。阿彌不足見者。皆失之矣。何則。此言甚高。竊恐不易到。彼西方淨土無貪無戀。無嗔無痴。吾心能無貪戀無嗔痴乎。彼西方淨土思衣得衣。思食得食。欲靜則靜。欲去則去。吾思衣而無衣。則寒惱其心。思食而無食。則饑惱其心。欲靜而不得靜。則羣動惱其心。欲去而不得去。則繫累惱其心。是所謂惟心淨土者。誠不易到也。彼阿彌陀佛。福重山海。力挈天地。變地獄為蓮華。易于反掌。觀無盡之世界。如在目前。吾之福力。尚不能自為。常恐宿業深重。墜于地獄。況乃變作蓮華。隔壁之事猶不能知。況乃見無盡世界乎。是所謂自性阿彌者。誠不易到也。然則吾心可以為淨土。而猝未能為淨土。吾性可以為阿彌。而猝未能為阿彌。烏得忽淨土而不修。捨阿彌而不欲見乎。故修西方。見佛而得道則甚易。若止在此世界。欲參禪悟性。超佛越祖為甚難。況修淨土者。不礙于參禪。何參禪者。必薄淨土而不修也。大阿彌陀經云。十方有無量菩薩。往生阿彌陀佛國。彼菩薩尚欲往生。我何人哉。不欲生彼。是果勝于諸菩薩乎。不仰藉阿彌陀佛慈力。往生彼國。又果勝于阿彌陀佛乎。由此言之。惟心淨土自性阿彌者。高而寡效。修未到者。誤人多矣。不若脚踏實地。持誦修行。則人人必生淨土。徑脫輪迴。與虗言無實者。天地相遠矣。

> 世の中には、禅の修行に専念する人たちがいて、こう言います。「心こそが浄土である。どうして他に浄土などあるだろうか。自性こそが阿弥陀である。どうしてさらに阿弥陀に会う必要があろうか」と。この言葉は、一見すると道理にかなっているようで、実は誤っています。なぜでしょうか。 西方浄土には、「理」と「跡」の二つの側面があります。理の面から言えば、心を清めることができれば、すべてが清らかになります。まさに「心こそが浄土」と言えるでしょう。しかし、跡の面から見れば、極楽世界は確かに実在します。仏が繰り返し詳しく説かれているのです。どうして妄語でありましょうか。 誰もが仏になれるという「自性阿弥陀」の説も、確かに間違いではありません。しかし、すぐにそこに至れるわけではないのです。たとえば、良質な木材は美しい彫刻にすることができますが、そのためには彫刻の技を加えなければなりません。ただ良材があるからといって、すぐに華麗な彫刻ができあがると言うことはできないのです。 また、浄土の存在は信じていても、「心こそが浄土」という説に固執し、「今ここがそのまま西方である」と考えて、往生を願わない人がいます。あるいは、禅によって自性を悟り、仏や祖師を超えることができれば、阿弥陀に会う必要はないと考える人もいます。これらは皆、誤りです。 なぜでしょうか。これらの言葉は非常に高尚ですが、実際にそこに至るのは容易ではないと考えるからです。あの西方浄土には貪りも執着もなく、怒りも愚かさもありません。果たして、私たちの心に貪りや執着、怒りや愚かさがなくなるでしょうか。西方浄土では、衣を思えば衣が得られ、食を思えば食が得られます。静かにしたいと思えば静かになり、行きたいと思えば行けます。しかし、私たちは衣を思っても得られなければ寒さに心を悩ませ、食を思っても得られなければ飢えに心を悩ませます。静かにしたいのに静かになれなければ、周りの動きに心を悩ませ、行きたいのに行けなければ、縛られて心を悩ませます。これが「心こそが浄土」と言われる境地ですが、実に容易に至れるものではありません。 あの阿弥陀仏は、福は山や海よりも重く、力は天地をも動かし、地獄を蓮華に変えることも掌を返すように容易く、無数の世界を見渡すことも目前のようです。しかし、私たちの福や力は、自分自身さえも満足にできず、常に過去の悪業が重く、地獄に堕ちるのではないかと恐れています。ましてや地獄を蓮華に変えたり、隣の部屋でさえも知ることができないのに、無数の世界を見渡すことなどできるでしょうか。これが「自性阿弥陀」と言われる境地ですが、実に容易に至れるものではありません。 そうであるならば、私たちの心は浄土となる可能性はありますが、すぐには浄土にはなれません。私たちの自性は阿弥陀となる可能性はありますが、すぐには阿弥陀にはなれません。どうして浄土を軽んじて修行せず、阿弥陀を捨てて会おうとしないのでしょうか。 ですから、西方浄土を願い、仏に会って道を得ることは、実は非常に易しいのです。もしこの世界に留まり、ただ禅によって自性を悟り、仏や祖師を超えようとするならば、それは非常に難しいことです。まして、浄土を願うことは、禅の修行を妨げるものではありません。どうして禅を修行する者は、必ず浄土を軽んじて修行しないのでしょうか。 『大阿弥陀経』には、「十方に無量の菩薩がいて、阿弥陀仏の国に往生する」と説かれています。あの菩薩たちでさえ往生を願っているのに、私たちはどうして往生を願わないのでしょうか。果たして私たちは、あの諸菩薩よりも勝っているのでしょうか。阿弥陀仏の慈悲の力に頼らず、自らの力だけでその国に往生できると、果たして阿弥陀仏よりも勝っているのでしょうか。 こうして考えると、「心こそが浄土」「自性こそが阿弥陀」という説は、高尚ではありますが、効果を得る者は少なく、修行が未熟な者が誤解すれば、多くの人を誤らせることになります。むしろ、地に足をつけ、念仏を唱え、修行を実践するほうが、誰もが必ず浄土に生まれ、輪廻から速やかに解脱することができます。これは、空虚な言葉で実体のないものとは、天地ほども隔たっているのです。

淨土或問云。今禪者見修淨土。鄙之為愚夫愚婦。此非鄙愚夫愚婦也。乃鄙文殊普賢馬鳴龍樹也。何以故。觀佛三昧經文殊菩薩偈云。願我命終時。滅除諸障礙。面見彌陀佛。往生安樂剎。華嚴行願品普賢菩薩偈云。願我臨欲命終時。盡除一切諸障礙。面見彼佛阿彌陀。即得往生安樂剎。起信論。馬鳴菩薩。示最勝方便。謂專意念佛。即得往生。終無有退。楞伽經。佛告大慧。大名德比丘。厥號為龍樹。初得歡喜地。往生安樂國。以上略舉四大菩薩。其餘菩薩修淨土者。不可勝紀。下劣凡夫。焉得忽淨土而不修。

> 『浄土或問』にこうあります。 「今、禅を修める者が浄土を修める者を見て、それを愚かな男女と軽蔑する。これは愚かな男女を軽蔑しているのではなく、文殊菩薩、普賢菩薩、馬鳴菩薩、龍樹菩薩を軽蔑しているのである。なぜなら、『観仏三昧経』の文殊菩薩の偈に、『願わくは我が命終わらん時に、諸の障礙を滅除し、面して弥陀仏を見、安楽刹に往生せん』とあり、『華厳経』行願品の普賢菩薩の偈には、『願わくは我、臨終せんとする時に、一切の諸の障礙を尽く除き、面して彼の仏、阿弥陀を見、即ち安楽刹に往生を得ん』とある。『大乗起信論』では、馬鳴菩薩が最勝の方便を示し、専心に念仏を修めれば、往生を得て、決して退転することがないと説かれている。『楞伽経』では、仏が大慧菩薩に告げて、『大名徳の比丘あり、その号を龍樹とす。初めて歓喜地を得て、安楽国に往生せり』とある。以上、四大菩薩を略挙したが、その他の菩薩で浄土を修める者は数えきれないほどである。下劣な凡夫である我々が、どうして浄土を軽んじて修めないでいられようか。」

參禪一法。固為了悟生死。而設修淨土一法。亦是令眾生了悟生死也。參禪有省。則現世了悟生死。得生淨土。則見阿彌陀佛。而後了悟生死。況即證無生忍。居不退轉地。直至成佛而後已。大善知識。未甞不以此教人。初機參學人。何為薄淨土而不修乎。

> 参禅という修行は、もともと生死を悟るために設けられたものです。しかし、浄土を修める法もまた、衆生に生死を悟らせるためのものです。参禅で悟りを得れば、現世で生死を悟ることができます。浄土に生まれれば、阿弥陀仏に会ってから生死を悟ることになります。ましてや無生法忍を証得し、不退転の位に住し、成仏するまで続くのです。優れた指導者たちは、常にこのことを人々に教えてきました。初心の修行者たちよ、どうして浄土を軽んじて修めようとしないのでしょうか。

蓮宗寶鑑云。世人稍利根。便輕視念佛。謂是愚夫愚婦勾當。彼徒見愚夫愚婦。口誦佛名。心遊千里。不知此等。是名讀佛。非念佛也。念從心心思憶而不忘。故名曰念。然人之一心。不思正則思邪。不思理則思欲。今人念念思憶五欲。不覺其非。反以念佛為非。不亦惑之甚哉。

> 蓮宗寶鑑に云う。世間の人々は少し利口になると、すぐに念仏を軽んじ、愚かな男女のすることだと軽蔑する。彼らはただ愚かな男女が口で仏の名を唱えながら、心は千里をさまよっているのを見て、これらはただ仏を読んでいるのであって、念仏ではないと知らない。念とは心から思い出し、忘れないことをいう。だから念という。しかし人の心は、正しいことを思わなければ邪なことを思い、道理を思わなければ欲望を思う。今の人々は絶えず五欲を思い出し、その非を自覚せず、かえって念仏を非とする。これもまた迷いの極みではないか。

人有不信因果。從而不信淨土者。夫因果烏可以不信乎。要知前世因。今生受者是。要知後世果。今生作者是。若不信此語。何不以目前之事觀之。人生所以有富貴貧賤。有苦樂勞逸。有榮辱壽夭。其禍福種種不同。雖曰天命。天豈私于人哉。葢以其人前生所為有善惡故。今生受報有禍福。是以此身謂之報身。報身者。報我前生所為故。生此身也。以其前生所為不能純乎善故。今生亦不得純受其福報。有富貴而苦夭者。有貧賤而壽樂者。有榮寵而悴辱者。如影隨形。如響應聲。纖毫不差。故云種桃得桃。種李得李。惟種時少。收穫時多。故作善惡時甚小。受禍福之報甚大。故云春種一粒粟。秋收萬顆子。人生為善惡。果報還如此。葢造化自然之理也。此理可信。則淨土之說必可信。何則。二者皆佛言也。佛誠言于因果。必不妄言于淨土。故因不信因果。從而不信淨土者。此可以解其惑矣。

> 世の中には因果を信じず、それゆえに浄土を信じない人もいます。しかし、因果をどうして信じられないことがありましょうか。前世の因を知りたければ、今世に受けているものがそれです。来世の果を知りたければ、今世に行っていることがそれです。もしこの言葉を信じられないなら、どうして目の前の事実を見てみないのでしょう。 人がなぜ富貴と貧賤があり、苦楽と労逸があり、栄辱と寿夭があるのか。その禍福の種々なる違いは、一見天命のように思えますが、天がどうして人に私的に与えることがありましょうか。それは、その人が前世に行ったことに善悪があったからです。今世に受ける報いには禍福があり、この身を「報身」と呼ぶのは、前世の行いに対する報いとしてこの身が生まれたからです。 前世の行いが純粋に善だけではなかったため、今世も純粋に福報だけを受けることはできません。富貴でありながら苦しみ早逝する者もいれば、貧賤でありながら長寿で楽しい者もいます。栄誉と寵愛を受けながらも、やがて衰え辱めを受ける者もいます。影が形に従い、響きが声に応じるように、ほんのわずかも違いはありません。だから、桃を植えれば桃がなり、李を植えれば李がなると言われるのです。ただ、種を蒔くときはわずかでも、収穫するときは多く、善悪の行いをするときは小さくても、禍福の報いを受けるときは大きいのです。春に一粒の粟を蒔けば、秋には万の実りを得るように、人生の善悪の行いも、果報はまさにこの通りです。これは天地の自然の理なのです。 この理が信じられるなら、浄土の説きも必ず信じられるはずです。なぜなら、どちらも仏の言葉だからです。仏が因果について誠実に語られたなら、浄土について妄りに語ることはありません。ですから、因果を信じないために浄土を信じないという人は、この道理によってその迷いを解くことができるでしょう。

或者疑云。此間念佛。西方七寶池中。如何便生蓮華一朵。曰此不難知也。譬如大明鏡。凡有物來。便現其影。鏡何甞容心哉。以其明而自然耳。阿彌陀佛頂中光明。清淨圓滿。自然照見十方世界。是故此間念佛。西方七寶池自然生蓮華一朵。無足疑也。或又疑念往生真言者。阿彌陀佛常住其頂。若無量世界眾生。念此真言。阿彌陀佛豈能一一徧住其頂乎。曰亦自然耳。譬如天上一月。普現一切水中。豈不自然哉。

> あるいは疑う。ここで念仏を唱えれば、西方の七宝の池に、どうしてただちに蓮華の一輪が生じるのか。答えて言う。これは難しく知ることではない。たとえば大きな明鏡がある。物が来れば、ただちにその影を映す。鏡はどうして心を容れることがあろうか。その明るさによって自然なのだ。阿弥陀仏の頂上の光明は、清浄で円満である。自然に十方世界を照らし見る。それゆえ、ここで念仏を唱えれば、西方の七宝の池に自然に蓮華の一輪が生じる。疑うに足りない。 またあるいは疑う。往生真言を念ずる者には、阿弥陀仏が常にその頂上に住まわれるという。もし無量世界の衆生がこの真言を念ずれば、阿弥陀仏はどうして一つ一つに遍くその頂上に住まわれることができようか。答えて言う。これも自然なのだ。たとえば天にある一つの月が、すべての水の中に普く現れる。どうして自然でないことがあろうか。

人生時。父母妻子。屋宅田園。牛羊車馬。以至檯凳。器皿衣服。及細微帶索等物。不問大小色色。認為己物。倉庫既盈。心猶未足。金珠已多。營猶未止。舉眼動步。無非愛着。一宿在外。已念其家。一僕未歸。已憂其失。種種事務。無非掛懷。一旦大限到來。盡皆拋去。雖我此身。猶是棄物。況身外者乎。靜心思之。恍如一夢。古人有言。一日無常到。方知夢裏人。萬般將不去。惟有業隨身。妙哉此言也。予故用其後二句。續成一偈云。萬般將不去。惟有業隨身。但念阿彌陀。定生極樂國。葢業者。謂善業惡業。此皆將得去者。豈可不以淨土為業乎。

> 人生において、父母や妻子、家屋や田畑、牛や羊、車や馬、はては机や腰掛け、器や皿、衣服や、細々とした紐や縄に至るまで、大小さまざまな物を、すべて自分のものだと思い込んでいます。倉庫はすでに満ちているのに、心はまだ満たされず、金銀財宝はもうたくさんあるのに、蓄えようとする気持ちは止まりません。目を上げれば、足を動かせば、すべてが愛着の対象です。一晩外に泊まれば、もう家のことが気になり、一人の召使いが帰ってこなければ、もう失うのではないかと心配します。あらゆる物事が、心にかかって離れません。しかし、いったん大限が訪れれば、すべてを投げ出さなければなりません。この身すら、捨て去るべきものであるのに、ましてや身の外のものなど、なおさらです。静かに考えてみれば、あたかも夢のようだと気づきます。古人はこう言いました。「一日無常が訪れて初めて、自分が夢の中の人であったと知る。万般のものは持って行けず、ただ業だけが身に付いてくる」と。なんと深い言葉でしょう。そこで私は、この後の二句を用いて、一つの偈を続けました。「万般のものは持って行けず、ただ業だけが身に付いてくる。ただ阿弥陀仏を念じれば、必ず極楽浄土に生まれるであろう」と。そもそも「業」とは、善業と悪業を指します。これらは皆、持って行けるものです。どうして浄土を業とせずにいられましょうか。

昔佛問阿難云。汝欲見地獄人否。阿難云欲見。佛云。身行惡。口言惡。意念惡。此地獄人也。葢謂人生善惡。不過身口意三業。若三業俱惡。是為純黑業。所以入地獄。若三業俱善。則為純白業。乃生天堂。若三業中。有一業善。則為雜業。亦不入地獄。故身意雖惡。而口念佛名。亦一業善。遠勝于三業俱惡。況口念佛時。又能心想佛像。則意業善。端正其身。而手提數珠。則身業善。常能善此三業。以修淨土。必上品生。或曰。人誦佛名。連稱不絕。正如呼一人。頻呼不止。其人必怒。則是專誦佛名者。未足為善也。是不然。眾生自無始以來。口業過惡。積如山海。多誦佛名。以滌蕩之。猶懼不足。豈可以稱呼常人之名為比也。況佛自開此念誦法門。所以誘掖眾生。善其口業。以漸善其身意者。至矣。其謂專誦佛名。未足為善者。世俗愚昧之說。非諸佛誘掖眾生之言。何足齒焉。

> 昔、仏が阿難に問われました。 「地獄の衆生を見たいか」 阿難が「見たい」と答えると、 仏は言われました。 「身で悪を行い、口で悪を語り、心で悪を思う者、これが地獄の衆生である」 つまり、人の善悪の行いは、身・口・意の三業に尽きます。 もし三業すべてが悪であれば、それは純粋な黒業であり、地獄に堕ちるのです。 もし三業すべてが善であれば、純粋な白業となり、天界に生まれます。 もし三業のうち一つでも善があれば、それは雑業であり、地獄には堕ちません。 ですから、たとえ身と心が悪であっても、口で仏の名号を唱えるなら、それは一つの善業となり、三業すべてが悪であるよりはるかに勝っています。 ましてや、口で仏名を唱えながら、心に仏の姿を想い、端正な姿勢で数珠を手にすれば、意業も身業も善となります。 常にこの三業を善くし、浄土を修めれば、必ず上品往生することができるでしょう。 ある人が言いました。 「人が仏の名号を唱え、絶え間なく称えるのは、まるで一人の人をしきりに呼び続けるようなものだ。そうすれば、その人は必ず怒るだろう。だから、専ら仏名を称えるだけでは、善とは言えない」 それは違います。 衆生は無始以来、口業の罪悪が山や海のように積もっています。 多くの仏名を唱えてそれを洗い清めても、まだ足りないほどです。 どうして普通の人の名前を呼ぶことと比べられましょうか。 ましてや、仏ご自身がこの念誦の法門を開かれたのは、衆生を導き助け、その口業を善くし、次第に身と心をも善くするためです。 「専ら仏名を称えるだけでは善ではない」というのは、世俗の愚かな言葉に過ぎず、諸仏が衆生を導かれる言葉ではありません。 取り上げる価値もないことです。

據佛所言。口業果報多于身意二業。以發意則未必形于外。出口則遂見矣。舉身為惡。猶有時艱阻。不若口之易發也。且如人有一言稱人或勸人。其人終身受賜。有福及子孫者。一言陷人或唆人。其人終身受害。有累及子孫者。口業豈不重哉。

> 仏陀が説かれるところによれば、口による行いの報いは、身と心の二つの行いよりも多いのです。なぜなら、心に思うことは必ずしも外に現れませんが、口から出ればすぐに明らかになるからです。体を使って悪事を働くにも、時には困難や障害がありますが、口で言うことはそれほど容易に発せられるものではありません。たとえば、人を称える一言や人を励ます一言があれば、その人は一生涯その恩恵を受け、福が子孫にまで及ぶこともあります。一方、人を陥れる一言やそそのかす一言があれば、その人は一生涯苦しみ、子孫にまで災いをもたらすこともあります。口による行いの重さは、いかに大きいことでしょう。

全持齋戒。又禮佛念佛。讀誦大乘經典。解第一義。以此迴向。願生西方。必上品上生。所謂齋者何哉。不食肉。不飲酒。不淫慾。不食五辛。所謂戒者何哉。殺生偷盜邪婬。是謂身三業。妄言綺語兩舌惡口。是謂口四業。貪慾瞋恨邪見。是謂意三業。總為十戒。若修淨土者。全持十戒。加以如上文所言功德。固上品上生矣。若止持五戒。而修淨土。亦不失中品下生。或下品上生也。若又不能持五戒。豈可以不戒殺生乎。殺生為五戒之首。亦為十戒之首。亦為比丘二百五十戒之首。是不殺則為大善。殺則為大惡。故殺生不可不戒也。凡殺生以資口腹。則口腹之欲何厭。放箸之後。滋味已空。而殺業具在。若殺生以待賓。賓則以平日不殺。亦無過責。況其罪己自當之。經云。來而獨自來。去而獨自去。輪迴獨自行。果報獨自受。觀此則豈可為人而殺生也。若殺生以祭先祖。豈無素食清羞。孔子雖蔬食菜羮瓜。祭必齋如也。如是何有不可哉。若然香誦經。仗佛力。以為薦󳫠。自得超生。故亦不在殺生也。若止能持此不殺之一戒。以修淨土。已不在下品生矣。

> 完全に斎戒を保ち、また仏を礼拝し、念仏を唱え、大乗経典を読誦し、第一義を理解する。これをもって回向し、西方浄土への往生を願えば、必ず上品上生を得る。 ここでいう「斎」とは何か。肉を食べず、酒を飲まず、淫欲を避け、五辛を食べないことである。ここでいう「戒」とは何か。殺生・盗み・邪淫、これらを身の三業という。嘘・綺語・両舌・悪口、これらを口の四業という。貪欲・瞋恚・邪見、これらを意の三業という。合わせて十戒となる。 もし浄土を修める者が、十戒を完全に保ち、さらに上記の功徳を加えれば、必ず上品上生を得る。もし五戒だけを保って浄土を修めても、中品下生あるいは下品上生を得ることは失わない。もしまた五戒さえ保てないとしても、どうして殺生を戒めないことがあろうか。殺生は五戒の第一であり、十戒の第一でもあり、比丘の二百五十戒の第一でもある。殺さなければ大善であり、殺せば大悪である。だから殺生は必ず戒めなければならない。 そもそも殺生をして口腹を満たすならば、口腹の欲にどこに満足があるだろうか。箸を置いた後には、味わいはすでに消え去り、殺生の業だけが残る。もし殺生をして賓客をもてなすならば、賓客は普段殺生をしなければ、とがめることもない。ましてやその罪は自分自身が負うべきものである。経に言う、「来るときは独りで来て、去るときは独りで去る。輪廻は独りで行い、果報は独りで受ける」と。これを観れば、どうして人のために殺生をすることがあろうか。 もし殺生をして先祖を祭るならば、どうして素食や清らかな供物がないことがあろうか。孔子でさえ、野菜や羹、瓜を供え、祭りには必ず斎戒を守った。このようにすれば、何ができないことがあろうか。もし香を焚き、経を誦し、仏の力を頼りとして供養すれば、自然に超生を得る。だから殺生は必要ないのである。 もしこの不殺生の一戒だけを保って浄土を修めれば、すでに下品往生にはならないのである。

楞伽經云。有無量因緣。不當食肉。眾生肉本非所宜食。以耳聞目見。慣熟不知其非。如能斷去。固為上也。如不能斷。且食三淨肉而減省。所謂不見殺。不聞殺。不為己殺。是也。如食兼味。且去其一。如兩飡皆肉。且一飡以素。人生祿料有數。若此自可延壽。更當為此。眾生念誦資薦。庶可釋冤滅罪。據閻羅王告鄭鄰之言。則至誠為彼念佛。必得超度往生觀音感應記云。饒州軍典鄭鄰。誤追至陰府。放還。閻王告云。汝還人間。勉力為善。汝見人殺生。但念阿彌陀佛。與觀世音菩薩。彼得受生。汝亦得福。由此推之。足以見念阿彌陀佛。誠可薦󳫠亡者。增延福壽。不獨身後生西方也。

> 『楞伽経』には、肉を食べるべきではない無量の因縁が説かれています。そもそも衆生の肉を食することは、本来ふさわしくありません。耳で聞き、目で見ることに慣れ親しんでしまい、その非を悟らないのです。もし断つことができれば、それは最も優れたことです。もし断つことができないなら、せめて三浄肉を食べるようにし、量を減らしましょう。三浄肉とは、殺されるのを見ず、殺されるのを聞かず、自分のために殺されなかった肉のことです。また、二品以上の料理があるなら、一品は控えめに。二食とも肉料理なら、一食は菜食にしましょう。人生で受けられる福禄には定めがあり、このようにすれば自ずと寿命を延ばすことができます。さらに、この衆生のために念誦し、供養と回向をすべきです。そうすれば、冤みを解き、罪を滅ぼすことができるでしょう。閻魔王が鄭鄰に告げた言葉によれば、心を込めて彼らのために念仏を唱えれば、必ずや超度され、往生することができるのです<note>『観音感応記』に、饒州の軍典・鄭鄰が誤って冥府に連行され、釈放された際、閻魔王が告げたという。 「汝は人間界に戻り、善行に励むがよい。人が殺生するのを見たら、ただ阿弥陀仏と観世音菩薩の名号を唱えよ。それによって彼らは生を受け、汝もまた福を得るであろう」 これによって推し量れば、阿弥陀仏を念じることは、誠に亡者を供養し、福寿を増し延ばすことができると分かります。それは単に死後に西方浄土に生まれるためだけではないのです</note>。

下品下生者。乃臨終地獄形相已現。能至心十念南無阿彌陀佛。則變地獄為蓮華。亦生淨土。良由我佛慈悲至深。威力至大。故能如此。然所謂十念者。乃生前自己十聲。念阿彌陀佛。非身後倩人念也。生前自念者。臨命終時。佛與菩薩。自來迎接故。亦必生淨土。或云平生殺害眾生。苦虐人民。臨死念佛。便得往生。其所殺所苦之眾生。懷冤負枉。何時而可解乎。答云。生淨土得道之後。然後度脫一切冤親。豈不勝于冤冤相報彼此無出期者乎。

> 下品下生とは、臨終の際に地獄の形相がすでに現れている者である。その者が心を込めて十回「南無阿弥陀仏」と念じれば、地獄が蓮華に変わり、浄土に生まれることができる。これは、我が仏の慈悲が極めて深く、威力が極めて大きいからこそ、このようなことが起こるのである。 ただし、ここで言う「十念」とは、生前に自分自身で十声、阿弥陀仏を念じることを指し、死後に他人に頼んで念じてもらうものではない。生前に自ら念じる者は、臨命終時に、仏と菩薩が自ら迎えに来てくださるため、必ず浄土に生まれることができる。 ある人が言う。「平生、衆生を殺害し、人々を苦しめ虐待した者が、臨死に念仏するだけで往生できるというなら、その者が殺し苦しめた衆生は、冤罪を負い無念を抱えたまま、いつになったらその苦しみから解き放たれるのか」と。 これに対して答える。浄土に生まれ、道を得た後、すべての怨みある者も親しい者も救い導くのである。それは、怨みが怨みを呼び、お互いに果てしなく報復し合うよりも、はるかに勝れているのではないだろうか。

蓮宗寶鑑云。惡人必不回心念佛。其有念佛者偽也非真念也。若真能一心念佛。即取給於臨終之十念。亦必往生。況善人一心念佛。而有不生西方者乎。我輩既修淨土。止愁不到一心不亂田地。若一心不亂。任他千譏萬謗。當巍巍不動如泰山矣。更何疑哉。

> 蓮宗寶鑑に云う。悪人は必ずや心を回らして念仏を称えることはない。もし念仏を称える者がいれば、それは偽りであって真の念仏ではない。もし真に一心に念仏を称えることができるなら、たとえ臨終の十念に頼るとしても、必ず往生する。まして善人が一心に念仏を称えて、西方に往生しないことがあろうか。我々が既に浄土を修める以上、ただ一心不亂の境地に至らないことを憂えるべきである。もし一心不亂に至れば、たとえ千の嘲笑や万の誹謗があろうとも、泰山のように巍然として動じない。さらに何を疑うことがあろうか。

淨土指歸云。欲了生死。修行淨業。當發十種信心。念念不忘。決生淨土。一信佛所說法。金口誠言。真實不虗。二信凡夫在迷識神不滅。六趣循環不息。三信此土修行未得道果不免輪迴。四信未出輪迴雖生天上不免墮落。五信極樂世界眾生生者永無退轉。六信眾生發願願生淨土決定往生。七信一稱佛名能滅八十億劫生死重罪。八信念佛之人阿彌陀佛神通光明攝取不捨。九信念佛之人十方世界恒沙諸佛同以神力時常護念。十信既生淨土壽命無量一生當得無上菩提。于此十種。不能深信。生疑惑者。雖念佛不得往生。又有一種常情。謂念佛乃老年事。方當少壯未暇。及此一旦無常。措手弗及咦。莫待老來方念佛。孤墳多是少年人。今為再設方便。當少壯時。即須信向。每日早晨盥𠻳畢。䖍心面西。止用十念工夫。專精念佛十聲。即迴向云。願我臨命終時。往生西方極樂世界。持至半老。加功精進。亦必往生。

> 『浄土指帰』に云う。生死を了えんと欲し、浄業を修行せんとすれば、十種の信心を発すべし。念念に忘れず、決して浄土に生ずべし。 一に、仏の説かれた法は、金口の誠言にして、真実にして虚しからざるを信ずる。 二に、凡夫は迷いの中にあり、識神は滅せず、六趣を循環して息まずを信ずる。 三に、この土に修行して未だ道果を得ざれば、輪廻を免れざるを信ずる。 四に、輪廻を出でざれば、たとえ天上に生ずるも、堕落を免れざるを信ずる。 五に、極楽世界に生ずる衆生は、永く退転すること無きを信ずる。 六に、衆生が願を発し、浄土に生まれんと願えば、決定して往生するを信ずる。 七に、一声仏名を称えれば、八十億劫の生死重罪を滅するを信ずる。 八に、念仏する人は、阿弥陀仏の神通光明に摂取せられて捨てられざるを信ずる。 九に、念仏する人は、十方世界の恒河沙の諸仏、同じく神力をもって常に護念するを信ずる。 十に、浄土に生じたれば、寿命無量にして、一生のうちに無上菩提を得るを信ずる。 この十種を深く信ずることができず、疑い惑う者は、たとえ念仏すれども往生を得ず。 また一つの常なる情けあり。念仏は老年の事なりと謂い、壮年に当たりては未だこれに暇あらず。一旦無常に及べば、措手するに及ばず。 ああ、老い来たるを待って方に念仏すなかれ。孤墳多くは少年の人なり。 今、再び方便を設く。壮年の時より、すなわち信向すべし。毎朝、洗面漱口を畢え、虔心に西に向かい、ただ十念の工夫を用い、専精に念仏十声を唱え、すなわち回向して云う。 「願わくは我が臨命終時に、西方極楽世界に往生せんことを」 これを半ば老いるまで持ち至り、功を加えて精進すれば、必ず往生すべし。

是書廼原本龍舒。推廣至教。以補法寶之所未備。凡我善信得是書者。切宜仰體。

> この書は、もともと龍舒が編んだものを基に、教えを広く伝えるために補い、仏法の宝典としてまだ備わっていなかった部分を補完したものです。すべての善き信仰を持つ方々がこの書を得たならば、どうか心からその意を汲み取り、

佛祖弘慈。公諸同志。轉相勸諭。萬弗束之高閣。及等閒委棄。沉埋法寶。慢褻聖贒。罪莫可逭。戒之戒之。如有遠方善信。欲廣其傳。捐貲重刻。流播十方。功德無量。決定往生。勉之勉之。

> 仏陀は広大な慈悲をもって、同志の皆様にこの法をお伝えくださいました。互いに勧め合い、決してこれを棚にしまい込んだり、軽んじて捨てたりすることのないように。法の宝を埋もれさせ、聖賢を軽んじることは、罪が免れません。戒めよ、戒めよ。 もし遠方の善き信者が、この法を広く伝えたいと願い、資金を寄付して再版し、十方に広めたいならば、その功徳は計り知れず、必ず往生を遂げることができます。努めよ、努めよ。