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title: "溈山警策句釋記 · 二生老病死"
description: "溈山警策句釋記是明代高僧弘贊註解、開詗記錄的重要佛教典籍。該書以唐代溈山靈祐禪師的警策文為基礎進行闡釋，內容聚焦禪宗修行要義，強調精進修行與戒律清淨，針對當時佛教界存在的鬆弛現象提出警策。此著作融合了禪宗心性思想與實踐指導，在佛教史上具有承先啟後的地位，被視為禪門清規類文獻的代表作之一，對後世禪林規制及修行風氣產生深遠影響，是研究明清佛教禪宗思想與實踐的重要經典。"
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### ○二生老病死

> ○二 生老病死

稟父母之遺體。假眾緣而共成。

> 父母からいただいたこの体は、さまざまな縁が集まってできたものです。

上句明色本。下句明假合。此二句總屬生法。即萬累之原也。稟即稟受。體即四大色身。從初一念顛倒。攬父母赤白二穢為身。故曰遺體。假眾緣者。假謂假借。亦藉也。眾緣即四大六根。及十二因緣。圓覺經云。四緣假合。妄有六根。六根四大。中外合成。言四大者。即地水火風。其體各異。中無實性。亦無主宰能自和合為身。必藉宿因眾緣三事而成。因緣不具。色即不住。十二因緣者。所謂此有。故彼有。此生。故彼生。從無明緣行。行緣識。識緣名色。名色緣六入。六入緣觸。觸緣受。受緣愛。愛緣取。取緣有。有緣生。生緣老死。起憂悲苦惱。如是純大苦蘊積集而生。然此十二法。展轉能感果故名因。互相由藉而有謂之緣。因緣相續。則生死往還無際。若破無明。不起取有。則三界二十五有生死皆息。所謂此無。故彼無。此滅。故彼滅。從無明滅。則行滅。乃至老死憂悲苦惱。純大苦蘊積集皆滅矣。

> 上句は「色」の本質を明かし、下句は「仮和合」を明かす。この二句は総じて「生法」に属し、すなわち一切の煩悩の根源である。「稟」は受け継ぐこと、「体」は四大からなる色身を指す。最初の一念の顛倒から、父母の赤白二つの穢れを受け取って身とする。それゆえ「遺体」と名づける。「仮眾緣」とは、「仮」は仮に借りる意であり、また頼ることも意味する。「眾緣」とは四大・六根・十二因縁を指す。『円覚経』に説くには、「四縁が仮に和合して、妄りに六根が現れる。六根と四大は、内外が合わさって成る」と。四大とは地・水・火・風であり、その体はそれぞれ異なり、内部に実の性質はなく、また主宰するものが自ら和合して身を成すこともない。必ず過去の因と眾緣という三つの条件が揃うのを待って成る。因縁が備わらなければ、色は即座に留まらない。十二因縁とは、すなわち「これがあるゆえにあれがあり、これが生じるゆえにあれが生じる」と説くものである。無明を縁として行があり、行を縁として識があり、識を縁として名色があり、名色を縁として六入があり、六入を縁として触があり、触を縁として受があり、受を縁として愛があり、愛を縁として取があり、取を縁として有があり、有を縁として生があり、生を縁として老死があり、憂悲苦悩が起こり、このように純らなる大苦蘊が積み集まって生じる。しかし、この十二の法は、転々と果を感じるゆえに「因」と名づけ、互いに頼り合って存在することを「縁」という。因と縁が相続すれば、生死の輪廻は際限なく続く。もし無明を破って、取と有を起こさなければ、三界二十五有の生死はすべて止む。すなわち「これがないゆえにあれがなく、これが滅するゆえにあれが滅する」と説くものである。無明が滅すれば行が滅し、さらには老死・憂悲苦悩・純大苦蘊の積集に至るまで、すべてが滅するのである。

記曰。身假眾緣所成。緣合則起而為生。緣散則滅而為死。是以法從緣故不有。緣起故不無。既從緣有。故無真宰常主。止觀云。從頭足支節。一一諦觀。了不見有我。何處有人。及與眾生。業力機關。假為空聚。從眾緣生。無有主宰也。十二因緣者。亦名緣起。又名緣生。謂先無其事。而從彼生。名之為因。素有其分。而從彼起。名之為緣。一曰無明。即昏暗之義。謂過去世煩惱之惑。覆葢本性。無所明了也。二曰行。行即行業。謂過去世身口造作一切善不善業也。此二支是過去因。三曰識。識即識心。謂由過去惑業相牽。致令此識投托母胎。一剎那間。染愛為種。納想成胎。即攬父母精血二滴。合成一滴。大如豆子。住胎藏中。與三事和合。一命。二煖。三識。是中有報風依風。名為壽命。精血不臭不爛。名為煖。是中心意。名為識。如是三事。缺一則腐敗不住。此是入母胎中初七日位。名歌羅邏。狀如凝酥。從此以後。隨母氣息上下。七日一變。止觀云。人托胎時。神識始與精血合。帶絲在臍。臍能連持。謂臍既為諸腸胃之源。在胎之時。以母之臍。注子之臍。故母所食。從臍而入。以資於子。氣息亦爾。子初在胎。依於母息。故俗名子以之為息。四曰名色。名即是心。謂心但有名字。而無形質也。色即色質。謂從托胎後。至第五箇七日。名形位。生諸根形。四支分別。是名為色。以父母精血為身根種。識在其中。故合名名色。五曰六入。謂從入胎已後。至第六箇七日。名髮毛爪齒位。至第七箇七日。名具根位。謂六根開張。有入六塵之用。故名六入。六曰觸。觸即觸對。謂從出胎。乃至三四歲時。眼耳鼻舌身意之六根。雖觸色聲香味觸法之六塵。而未能了知。生苦樂之想。故名為觸。七曰受。受即領納之義。謂五六歲。至十二三歲時。六根觸對六塵。即能納受前境。好惡等事。雖能了別。然未起貪愛婬染之心也。此五支是現在果。八曰愛。愛即貪愛。謂從十四五歲。至十八九歲時。貪種種勝妙資具。及婬欲等境。然猶未能廣徧追求。故名為愛。九曰取。取即求取。謂從二十歲後。貪愛轉盛。於色聲香味觸。五塵之境。四方馳求。故名為取。十曰有。有即後有。因果之不亡也。謂因求取諸境。起善惡業。積集牽引當生欲界。色界。無色界。三有之果也。此三支是現在因。十一曰生。生即受生。謂今生所作善惡之業。來世於三界六道中受生也。十二曰老死。老即根熟。死即根壞。謂來世受生已。至五陰身熟。名老。熟已壞滅。名死。此二支是未來之果。斯十二支。是三世因果。循環不斷之法。以由過去世無明行為因。感斯現在識名色六入觸受為果。由斯果故。起愛取有。為現在之因。由斯因故。招感未來世生老死之果。果復造因。因復感果。三世相續。無有間斷。如車輪轉。故曰輪廻。

> 記に曰く、身は衆縁によって成るものである。縁が合わされば起きて生となり、縁が散じれば滅して死となる。ゆえに法は縁に従うゆえに有にあらず、縁起するゆえに無にあらず。すでに縁に従って有なれば、真の主宰・常主なし。止観に云く、「頭足支節の一つ一つを諦観して、我あることを見ず。いずこに人ありて、衆生とともにせん。業力の機關は仮に空聚と為す。衆縁より生じて主宰あることなし」と。 十二因縁は、また縁起と名づけ、また縁生と名づく。すなわち、先にその事なくして、彼より生ずることを因と名づけ、もとよりその分ありて彼より起ることを縁と名づく。 一に無明と曰う。すなわち昏暗の義なり。過去世の煩惱の惑が本性を覆い隱し、明らかに了解するところなし。 二に行と曰う。行はすなわち行業なり。過去世に身口において造作せる一切の善不善の業を謂う。この二支は過去の因なり。 三に識と曰う。識はすなわち識心なり。過去の惑業が相牽き、この識をして母胎に投托せしめ、一剎那の間に染愛を種と為し、想を納れて胎と成る。すなわち父母の精血の二滴を攬りて、合成して一滴と為し、大きさ豆の如し。胎藏の中に住して、三事と和合す。一に命、二に煖、三に識なり。この中に報風・依風ありて壽命と名づく。精血、臭くなく爛れざるを煖と名づく。その中の心意を識と名づく。かくの如き三事、一つ缺くれば腐敗して住せず。これは母胎に入りし初七日位にして、歌羅邏と名づけ、狀凝酥の如し。此の後、母の氣息に隨いて上下し、七日ごとに一変す。止観に云く、「人が托胎する時、神識は初めて精血と合し、絲を臍に帶ぶ。臍は能く連持す。臍はすでに諸腸胃の源と為るゆえ、胎に在る時、母の臍を以て子の臍に注ぐ。故に母の食する所は臍より入りて子を資くるなり。氣息もまたしかり。子、初めて胎に在る時、母の息に依る。故に俗に子を以てこれを息と名づく」と。 四に名色と曰う。名はすなわち心なり。心は但だ名字あるのみにして、形質なし。色はすなわち色質なり。托胎の後、第五の七日より形位と名づけ、諸根の形を生じ、四支を分別す。これを色と名づく。父母の精血を以て身根の種と為し、識その中に在り。故に合わせて名色と名づく。 五に六入と曰う。入胎の後、第六の七日より髮毛爪齒位と名づけ、第七の七日より具根位と名づく。六根開張して、六塵に入る用あり。故に六入と名づく。 六に觸と曰う。觸はすなわち触對なり。出胎の後、三四歳に至る時、眼耳鼻舌身意の六根は、色聲香味觸法の六塵に觸るといえども、未だ了知せず、苦樂の想を生ぜず。故に觸と名づく。 七に受と曰う。受はすなわち領納の義なり。五六歳より十二三歳に至る時、六根六塵に觸對して、すなわち能く前境を納受し、好悪等の事を了別すといえども、未だ貪愛婬染の心を起こさず。この五支は現在の果なり。 八に愛と曰う。愛はすなわち貪愛なり。十四五歳より十八九歳に至る時、種々の勝妙資具及び婬欲等の境を貪るといえども、未だ廣徧に追求する能わず。故に愛と名づく。 九に取と曰う。取はすなわち求取なり。二十歳の後より貪愛轉た盛んにして、色聲香味觸の五塵の境に於いて四方に馳求す。故に取と名づく。 十に有と曰う。有はすなわち後有にして、因果の亡せざるなり。求取諸境するが故に善悪の業を起こし、積集牽引して當に欲界・色界・無色界の三有の果を生ず。この三支は現在の因なり。 十一に生と曰う。生はすなわち受生なり。今生の所作善悪の業によって、來世に於いて三界六道の中に受生す。 十二に老死と曰う。老はすなわち根熟、死はすなわち根壞なり。來世受生の後、五陰の身熟するを老と名づけ、熟して壞滅するを死と名づく。この二支は未來の果なり。 この十二支は、三世因果、循環して斷絶せざる法なり。過去世の無明・行を因と為すによりて、現在の識・名色・六入・觸・受の果を感ず。この果によりて愛・取・有を起こし、現在の因と為す。この因によりて未來世の生・老死の果を招感す。果はまた因を造り、因はまた果を感ず。三世相續して、間斷あることなし。車輪の轉ずるが如し。故に輪廻と曰う。

雖乃四大扶持。常相違背。

> たとえこの身体が四大によって支えられていても、常に互いに背き合っている。

上句假合。下句乖順。夫人攬外地水火風合集成身。共相扶翼。執持命根。住壽一期。然於其中。常相乖順。一大不調。百一病生。四大不調。則四百四病同時俱作。所言大者。謂此四法。無處不有。徧諸方域。故稱為大。萬事萬形。皆四大成。在外則為土木山河。在內則為四肢百骸。聚而為生。散而為死。生則為內。死則為外。內外雖殊。而大不異。堅性屬地。即髮毛爪齒皮肉筋骨等。此若不假水。則不和合。濕性屬水。即涕唾精液大小便利等。此若不假地。則便流散。熱性屬火。即身中煖氣。若不假風。則不增長。動性屬風。即出入息。及身之動轉。若無此風。則身不能動轉施為。然此四大。性本無患。以眾緣合集。增損相尅。病患由是而生。故地增則令身沉重。水積則涕唾乖常。火盛則頭胸壯熱。風動則氣息擊衝。即沉重。痰癊。黃熱。氣發。之病也。由此四病。則有四百四病生起。風病百一。黃病百一。痰癊病百一。總集病百一。如是諸患。無時不生。故曰常相違背。

> 上句は仮に合わせたものであり、下句は互いに背き合うことを意味します。人は外の地・水・火・風の四つの要素を受け取って身を組み立て、互いに支え合いながら命の根本を保ち、一生の間生き続けます。しかしその中で、常に互いに背き合っています。一つの大きな要素が調和を失えば、百一の病が生じます。四つの要素すべてが調和を失えば、四百四病が同時に起こります。「大」と言うのは、この四つの法がどこにでも存在し、あらゆる場所に満ちているからです。万物万象はすべて四大から成り立っています。外にあっては土・木・山・河となり、内にあっては四肢・百骸となります。集まれば生となり、散じれば死となります。生のときは内となり、死のときは外となります。内外は異なっても「大」に違いはありません。堅い性質は地に属し、髪・毛・爪・歯・皮・肉・筋・骨などです。これらが水の助けを得なければ、結び合わされることはありません。湿った性質は水に属し、鼻水・唾・精液・大小便などです。これらが地の助けを得なければ、流れ散ってしまいます。熱い性質は火に属し、体中の温かさです。風の助けがなければ、成長することはありません。動く性質は風に属し、呼吸や身体の動きです。この風がなければ、身体は動くことも働くこともできません。しかし、この四大は元来、害をもたらすものではありません。多くの因縁が集まり合い、増えたり減ったりしながら互いに克ち合うことで、病いが生じるのです。ですから、地が増せば身体が重くなり、水がたまれば鼻水や唾が常と変わり、火が盛んになれば頭や胸に激しい熱が起こり、風が動けば呼吸が激しくなります。つまり、沈重・痰癊・黄熱・気発の病です。この四つの病によって、四百四病が生じます。風の病が百一、黄の病が百一、痰癊の病が百一、総集の病が百一です。これらのさまざまな苦しみは、どの時にも生じないことはありません。だから「常に互いに背き合う」と言うのです。

記曰。大論云。四大為身。常相侵害。一一大中。百一病起。冷病有二百二。水風起故。熱病有二百二。地火起故。火熱相。地堅相。堅相故難消。難消故能起熱病血肉筋骨脈髓等是地分。除其業報者。一切法皆和合因緣而生也。輔行云。四大不順者。行役無時。強健擔負。搪觸寒熱。外熱助火。火強破水。是增火病。外寒助水。水增害火。是為水病。外風動氣。氣吹火。火動水。是為風病。或三大增害於地。名等分病。或身分增害三大。亦是等分病。屬地病。飲食不節亦能作病。如薑桂辛物增火。蔗蜜甘冷增水。梨增風。膏膩增地。黃瓜為熱病而作因緣。即是噉不安之食。而生病也。古云。病從口入。禍從口出。此之謂歟。

> 先師の言葉にこうある。『大論』に曰く、四大は身を構成するが、常に互いを損なうものである。それぞれの大の中に、百一の病が生じる。冷病は二百二あり、これは水と風によって起こる。熱病も二百二あり、これは地と火によって起こる。火は熱の性質を持ち、地は堅い性質を持つ。堅い性質のために消化が難しく、消化が難しいがゆえに熱病を引き起こす。血肉・筋骨・脈・髄などは地の部分である。業報を除けば、すべての法は因縁が和合して生じるのである。 『輔行』に曰く、四大が調和しないのは、働きすぎて休む時がないこと、無理な重い荷を担うこと、寒熱にさらされることによる。外からの熱が火を助け、火が強まれば水を損なう。これが火の病を増す。外からの寒が水を助け、水が増せば火を害する。これが水の病である。外からの風が気を動かし、気が火を吹き、火が水を動かす。これが風の病である。あるいは、三つの大が増して地を害するものを、等分病と名づける。あるいは、身体の部分が増して三大を害するものも、同じく等分病であり、地の病に属する。 飲食が節度を欠いても病を起こすことができる。例えば、生姜や桂皮などの辛い物は火を増し、甘蔗や蜂蜜などの甘く冷たい物は水を増す。梨は風を増し、脂っこい物は地を増す。胡瓜は熱病の因縁となる。つまり、安全でない食物を食べることによって病気が生じるのである。 古人が言った。「病は口から入り、禍は口から出る」と。まさにこのことである。

無常老病。不與人期。

> 無常の老いと病は、人の都合を待ってはくれない。

上句明三相。下句明無主。三相本空。原無有我。何能作主任情與之期尅。除其識心達本者能之。昧者不覺也。無常者。謂本無今有。暫有還無。乃剎那不住之謂也。從出胎來。至壯至老至病。乃至命盡。於其中間。念念遷流不住。故曰無常。亦死之異名。老者根熟衰耄。形枯色悴。精神昏昧。髮白面皺。將死不久之謂也。病者。四大不調。四百從生。身力疲敗。飲食不安。精神減損。坐起須人。故名為病。若以法次第相因。則死在後。今以無常一法。體徧一切。該於生老病死諸法故也。

> 上の句は三つの相（無常・老・病）を明らかにし、下の句は主体（我）がないことを明らかにする。三つの相は本来空であり、もともと我というものはない。どうして主体となって生命を操り、感情に任せて期限を定めることができようか。心の分別を除き、本源を悟る者だけがこれを成し遂げられる。迷う者はこれに気づかない。 無常とは、本来なかったものが今あるようになり、しばらくあってまた消えていく、刹那もとどまらないことをいう。胎内から出た時から、壮年になり、老年になり、病にかかり、ついには命が尽きるまで、その間、瞬間瞬間に移り変わり、とどまることがない。これを無常という。これはまた死の別名でもある。 老とは、根源が熟して衰え老い、形が枯れて色が衰え、精神がぼんやりし、髪が白くなり、顔にしわが寄り、死が遠くない状態をいう。 病とは、四大（地・水・火・風）の調和が乱れ、四百の病がそこから生じ、身体の力は衰え弱まり、飲食もままならず、精神は減退し、座ったり立ったりにも人の助けが必要となる。これを病という。 もし法の順序に従って因縁をたどれば、死は最後に来る。しかし今、無常という一つの法が、すべてのものに遍く及ぶので、生・老・病・死のすべての法を含んでいるのである。

記曰。新新不住。念念不停。謂之無常。經云。無常力大。迅速過於山水。折論云。無常有三種。一念念壞滅無常。二和合離散無常。三畢竟如是無常。