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優婆塞戒経 (優婆塞戒經)


優婆塞戒經卷第五

優婆塞戒経 巻第五

北涼中印度三藏曇無讖譯

北涼・中インド三蔵・曇無讖訳

雜品之餘

雑品の余り

善男子!若復有人於身、命、財慳悋不施,是名為慳。護惜慳人不施之心不生憐愍,留待福田,求覓福田,既得求過,觀財難得,為之受苦;或說無果、無施、無受;護惜妻子眷屬等心,積財求名,見多生喜,觀財是常,是名慳垢。是垢能污諸眾生心,以是因緣,於他物中尚不能施,況出自物?智人行施,不為報恩,不為求事,不為護惜慳貪之人,不為生天人中受樂,不為善名流布於外,不為畏怖三惡道苦,不為他求,不為勝他,不為失財,不以多有,不為不用,不為家法,不為親近。智人行施,為憐愍故,為欲令他得安樂故,為令他人生施心故,為諸聖人本行道故,為欲破壞諸煩惱故,為入涅槃斷於有故。

善男子(よき人よ)!もしも人が、自らの身体・寿命・財産を惜しんで施しを行わなければ、それを「慳(けち)」と言います。この慳は、施しを行わない心を守り、他者への憐れみの心を生み出さず、施すにふさわしい人を待ち求めます。ふさわしい人を見つけてもその欠点を探し、財産を得るのは難しいと思い、そのために苦しみます。また、「施しには果報がない」「施す者もなければ受ける者もいない」と言い、妻や子供などの家族を守ろうとして財を積み、名声を求め、財が増えるのを見て喜び、財は永遠に続くものだと考えます。これらを「慳の汚れ」と呼びます。この汚れは、すべての衆生の心を汚します。そのため、他人の物でさえ施すことができず、ましてや自分の物を施すことなどできません。

智慧ある人が施しを行うのは、恩返しのためでもなく、願い事を叶えるためでもなく、慳貪な人を守るためでもなく、天界や人間界で楽しみを得るためでもなく、世間に善い名声を広めるためでもなく、三悪道の苦しみを恐れるためでもなく、他人の求めに応じるためでもなく、他人に勝つためでもなく、財産を失うためでもなく、財産が多いからでもなく、使わないからでもなく、家の慣わしのためでもなく、親しくなるためでもありません。

智慧ある人が施しを行うのは、憐れみの心からであり、他者を安楽にしたいからであり、他者に施しの心を起こさせたいからであり、聖者たちが本来歩む道だからであり、すべての煩悩を打ち破りたいからであり、涅槃に入り「有」を断ちたいからなのです。

「善男子!菩薩布施,遠離四惡:一者、破戒,二者、疑網,三者、邪見,四者、慳悋。復離五法:一者、施時不選有德無德,二者、施時不說善惡,三者、施時不擇種姓,四者、施時不輕求者,五者、施時不惡口罵。復有三事,施已不得勝妙果報:一者、先多發心後則少與,二者、擇選惡物持以施人,三者、既行施已心生悔恨。善男子!復有八事,施已不得成就上果:一者、施已見受者過,二者、施時心不平施,三者、施已求受者作,四者、施已喜自讚歎,五者、說無後乃與之,六者、施已惡口罵詈,七者、施已求還二倍,八者、施已生於疑心。如是施主,則不能得親近諸佛賢聖之人。

「善なる者よ、菩薩が施しを行う際には、四つの悪から遠ざかるべきである。一つ目は戒律を破ること、二つ目は疑いの網に絡まること、三つ目は邪見に陥ること、四つ目は吝嗇(けち)になることである。また、五つの行いからも遠ざかるべきである。一つ目は施す時に、受ける人が徳があるか無いかを選ばないこと、二つ目は施す時に善悪を言い立てないこと、三つ目は施す時に家柄を選ばないこと、四つ目は施す時に求める者を軽んじないこと、五つ目は施す時に悪口を言って罵らないことである。さらに、施しを行っても素晴らしい果報を得られない三つのことがある。一つ目は、初めに大きな心を起こしておきながら、実際にはわずかしか与えないこと、二つ目は、悪い品物を選んで人に施すこと、三つ目は、施しを行った後に心に悔やみの念を生じさせることである。善なる者よ、また、施しを行っても最上の果報を得られない八つのことがある。一つ目は、施した後に受ける側の過ちを見ること、二つ目は、施す時に心を平らかにしないこと、三つ目は、施した後に受ける側に何かを求めること、四つ目は、施した後に自分を喜んで褒め称えること、五つ目は、後がないと言ってから与えること、六つ目は、施した後に悪口を言って罵ること、七つ目は、施した後に倍返しを求めること、八つ目は、施した後に疑いの心を生じさせることである。このような施主は、諸仏や賢聖の人々に親しく近づくことができないのである。」

「若以具足色、香、味、觸施於彼者,是名淨施;若能如法得財施者,是名淨施;觀財無常不可久保而行布施,是名淨施;為破煩惱故行布施,是名淨施;為淨自心因緣故施,是名淨施;若觀誰施,誰是受者,施何等物,何緣故施,是施因緣得何等果——如是布施即十二入,受者、施主、因緣、果報皆十二入,能如是觀行於施者,是名淨施。若行施時,於福田所生歡喜心,如諸福田所求功德,我亦如是求之不息,施於妻子、眷屬、僕使,生憐愍心,施於貧窮,為壞苦惱;施時不求世間果報,破憍慢施,柔濡心施,離諸有施,為求無上解脫故施,深觀生死多過罪施,不觀福田非福田施:若能如是行布施者,報逐是人,如犢隨母。

もし、色・香・味・触を完全に備えたものを施すならば、それを清浄な布施といいます。 また、法にかなった方法で得た財物を施すならば、それを清浄な布施といいます。 財物が無常であり、永く保つことができないと観察して布施を行うならば、それを清浄な布施といいます。 煩悩を打ち破るために布施を行うならば、それを清浄な布施といいます。 自らの心を清める因縁のために施すならば、それを清浄な布施といいます。 さらに、だれが施し、だれが受け手であり、何を施し、何の因縁で施し、その施しの因縁がどのような果報をもたらすのかと観察するならば、その布施はすなわち十二入(十二処)です。受け手も施し主も因縁も果報もすべて十二入にほかなりません。このように観察して布施を行うならば、それを清浄な布施といいます。 布施を行うとき、福田(功徳を生む対象)に対して喜びの心を起こし、諸々の福田が求める功徳を、私もまた同じように求めやまず、妻子や眷属、召使などには憐れみの心をもって施し、貧しい人々には苦しみを滅ぼすために施し、施すときに世間の果報を求めず、驕り高ぶりを破って施し、柔らかな心で施し、様々な生存(有)を離れるために施し、無上の解脱を求めて施し、生と死の多くの過ちを深く観察して施し、福田であるかどうかにこだわらずに施す――このように布施を行うならば、その果報は施した人に従い、まるで子牛が母牛に従うようにあります。

「若求果施,市易無異。如為身命耕田種作,隨其種子獲其果實;施主施已,亦復如是,隨其所施獲其福報。如受施者,受已得命、色、力、安、辯,施主亦得如是五報;若施畜生得百倍報,施破戒者得千倍報,施持戒者得十萬報,施外道離欲得百萬報,施向道者得千億報,施須陀洹得無量報,向斯陀含亦無量報,乃至成佛亦無量報。

もし結果を求めて施しをするならば、それは商売と変わりません。例えば、命や身体のために田畑を耕し種を蒔けば、その種に応じて果実を得るように、施しを行う者もまた、施したものに応じて福報を得ます。施しを受けた者が、それによって命、色、力、安、弁を得るように、施し主もまた、これと同じ五つの報いを得ます。もし動物に施せば百倍の報い、戒を破った者に施せば千倍の報い、戒を守る者に施せば十万倍の報い、外道で離欲した者に施せば百万倍の報い、道に向かう者に施せば千億倍の報い、須陀洹に向かう者に施せば無量の報い、斯陀含に向かう者もまた無量の報い、そして仏に至るまで同様に無量の報いを得るのです。

「善男子!我今為汝分別諸福田故,作如是說得百倍報至無量報。若能至心生大憐愍,施於畜生,專心恭敬施於諸佛,其福正等無有差別。言百倍者,如以壽命、色、力、安、辯施於彼者,施主後得壽命、色、力、安樂、辯才各各百倍;乃至無量,亦復如是。是故我於契經中說:我施舍利弗,舍利弗亦施於我,然我得多,非舍利弗得福多也。

「善男子よ、私は今、あなた方のために諸々の福田を分別して示すゆえに、このように百倍の報いから無量の報いに至ると説くのだ。もし真摯な心で大いなる憐れみを起こし、畜生に施しを行い、心を込めて諸仏に恭敬し施すならば、その福徳は等しく、何ら差別はない。『百倍』とは、例えば寿命、容色、体力、安楽、弁才を相手に施した場合、施主は後に寿命、容色、体力、安楽、弁才において、それぞれ百倍を得ることをいう。さらに無量に至るまで、また同じような道理である。それゆえ、私は経典の中でこう説いたのだ——『私は舎利弗に施しをし、舎利弗もまた私に施しをする。しかし、私が多くを得るのであって、舎利弗の得る福徳がより多いわけではない』と。」

「或有人說『受者作惡,罪及施主』,是義不然!何以故?施主施時,為破彼苦,非為作罪,是故施主應得善果;受者作惡,罪自鍾之,不及施主。施主若以淨妙物施,後得好色,人所樂見,善名流布,所求如意,生上種姓,是不名惡,云何說言施主得罪?施主施已,歡喜不悔,親近善人,財富自在,生上族家,得人、天樂至無上樂,能離一切煩惱結縛,施主乃得如是妙果,云何說言得惡果報?施主若能自手施已,生上姓家,遇善知識,多財饒寶,眷屬成就,能用能施,一切眾生喜樂見之,見已恭敬、尊重、讚歎,施主受報得如是事,云何說言得惡果報?施主若已淨物施已,以是因緣多饒財寶,生上種姓,眷屬無量,身無病苦,心無憂怖,所有財物王、賊、水、火所不能侵,設失財物不生愁惱,無量世中身心安樂,云何說言受惡果報?若未施時生於信心,施時歡喜,施已安樂,求時、守時、用時不苦,若以衣施得上妙色,若以食施得無上力,若以燈施得淨妙眼,若以乘施身受安樂,若以舍施所須無乏,施主乃得如是善報,云何說言得惡果也?

「ある人が言う『受ける者が悪をなせば、その罪が施主に及ぶ』というのは、道理に合わない。なぜか?施主が施す時は、相手の苦しみを除くためであり、罪をなすためではない。ゆえに施主は善い果報を得るべきである。受ける者が悪をなせば、その罪は自らに帰し、施主には及ばない。 施主がもし清らかで妙なる物を施せば、後に美しい色形を得、人々に見られて喜ばれ、善い名声が広まり、願い求めることが叶い、高貴な家に生まれる。これを悪と言えるだろうか。どうして施主が罪を得ると言えるのか。 施主は施した後、喜び悔いることなく、善き人々に親しみ、財産も自在で、高貴な家に生まれ、人天の楽、さらには無上の楽を得て、一切の煩悩の束縛から離れることができる。施主はこのような素晴らしい果報を得るのに、どうして悪い果報を得ると言えるのか。 施主がもし自らの手で施した後、高貴な家に生まれ、善知識に出会い、多くの財宝に恵まれ、眷属も整い、物を用いることも施すこともでき、一切の衆生が喜んで見ることを好み、見れば尊敬し、尊重し、賛嘆する。施主は報いとしてこのようなことを受けるのに、どうして悪い果報を得ると言えるのか。 施主がもしすでに清らかな物を施したなら、この因縁によって多くの財宝に恵まれ、高貴な家に生まれ、無量の眷属を持ち、身に病苦なく、心に憂いや怖れもなく、所有する財物は王・賊・水・火によっても侵されず、たとえ財物を失っても愁い悩むことなく、無量の世の中、心身ともに安楽である。どうして悪い果報を受けると言えるのか。 もし施す前に信心を生じ、施す時に喜び、施した後に安楽であり、求める時、守る時、用いる時に苦しみがなければ、衣を施せば上妙の色を得、食物を施せば無上の力を得、灯明を施せば清らかな妙なる眼を得、乗り物を施せば身に安楽を受け、家屋を施せば必要なものに欠けることがない。施主はこのような善い報いを得るのに、どうして悪い果報を得ると言えるのか。」

「復次,施主若施佛已,用與不用,果報已定。施人及僧,有二種福:一、從用生,二、從受生。何以故?施主施時,自破慳悋,受者用時,破他慳悋,是故說言從用生福。又復從用人能轉用、僧能增長,施已不求世之果報,不以能起煩惱因施,是故能得無上淨果,名曰涅槃。若有人能日日立要,先施他食,然後自食,若違此要,誓輸佛物,犯則生愧;如其不違,即是微妙智慧因緣,如是施者,諸施中最,是人亦得名上施主。若能隨順求者意施,是人於後無量世中所求如意。若有淨心、財物、福田悉清淨者,是人則得無量果報。若給妻子、奴婢衣食,恒以憐愍歡喜心與,未來則得無量福德。復觀田倉多有鼠雀,犯暴穀米,恒生憐愍;復作是念:『如是鼠雀,因我得活。』念已歡喜,無觸惱想,當知是人得福無量。若為自身造作衣服、瓔珞、環玔嚴身之具,種種器物,作已歡喜,自未服用,持以施人,是人未來得如意樹。

「また、施主が仏に供養を捧げたならば、それが実際に使われようと使われまいと、その果報はすでに定まっています。人や僧に施しを行う場合、二種類の福徳があります。第一に、実際に使われることから生じる福、第二に、受け取られることから生じる福です。なぜなら、施主が施す時、自らの慳吝(けちん)を打ち破り、受け取る者が使う時、他者の慳吝を破るからです。それゆえ、使われることから福が生じると説かれています。さらに、使う人はその物を転用することができ、僧はそれを増大させることができます。施しを行いながら、世間の果報を求めず、煩悩を起こすきっかけのために施すのではないからこそ、無上の清らかな果報である涅槃を得ることができるのです。

もし人が、日々決意を固めて、まず他者に食事を施してから自分が食べ、もしこの決意に背いたならば、仏に捧げる物を失うと誓い、過ちを犯せば恥じ入るならば、その誓いを破らないことは、微妙な智慧の因縁となります。このような施しは、あらゆる布施の中で最も優れており、その人もまた、最高の施主と呼ばれるにふさわしいのです。

もし施しを求める人の意に従って施すことができれば、その人は後の無数の世において、求めるままに叶えられるでしょう。清らかな心と、清らかな財物と、清らかな福田(施しを受けるにふさわしい対象)がすべて揃っていれば、その人は無量の果報を得ることができます。

妻や子、使用人や召使に衣服や食物を与える時も、常に憐れみと喜びの心をもって与えれば、未来において無量の福徳を得るでしょう。また、田んぼや倉庫に鼠や雀がいて、穀物を荒らすのを見ては、常に憐れみの心を起こし、『これらの鼠や雀も、私のおかげで生きているのだ』と念じ、その思いに喜びを感じ、いら立ちや煩わしさの思いを起こさなければ、その人は無量の福徳を得ると知るべきです。

もし自分のために衣服や首飾り、腕輪、指輪などの装身具や様々な道具を作り、完成して喜んだなら、自ら身につけたり使ったりする前に、それを他人に施すならば、その人は未来において如意樹(思いのままに果報をもたらす木)を得るでしょう。」

「若有說言『離於布施得善果』者,無有是處;『離財得施,離受有施,不離慳惜成布施』者,亦無是處。若不求施,若乏時施、少求多施、求惡施好、教他索施、自往行施,當知是人未來之世多獲寶藏,非寶之物悉變成寶。為戲笑施、非福田施、不信因果施,如是布施不名為施。若人偏為良福田施,不樂常施,是人未來得果報時不樂惠施。若人施已生於悔心,若劫他物持以布施,是人未來雖得財物,常秏不集。若惱眷屬得物以施,是人未來雖得大報,身常病苦。若先不能供養父母,惱其妻子、奴婢,困苦而布施者,是名惡人,是假名施,不名義施;如是施者,名無憐愍,不知恩報,是人未來雖得財寶,常失不集,不能出用,身多病苦。若人如法以財布施,是人未來得無量福,有財能用;若有不以如法財施,是人未來雖得果報,恒賴他得,他若喪沒,尋便貧窮。有智之人,深觀人、天、轉輪王樂雖復微妙,皆是無常,是故施時不為人、天。

「施しを離れて善い結果が得られる」と言う者は、それは決して正しくない。 「財を離れて施しがあり、受け取る者を離れて施しがあり、吝嗇を離れずに施しが成り立つ」というのも、決して正しくない。 施しを求めず、乏しい時に施し、少ない求めに多く施し、悪い求めに良いものを施し、他人に施しを求めさせ、自ら出向いて施すなら、その人は未来の世に多くの宝蔵を得、宝でないものも全て宝に変わることを知るべきである。 遊び半分に施し、功徳のない対象に施し、因果を信じずに施す、そのような布施は施しとは呼ばない。 もし人が特定の良い対象にだけ施しを好み、常に施すことを喜ばなければ、その人は未来に果報を得ても、喜んで施しをしようとはしない。 もし人が施した後に後悔の心を生じ、あるいは他人の物を奪って施すなら、その人は未来に財物を得ても、常に消耗して蓄積されない。 もし家族や従者を苦しめて得た物を施すなら、その人は未来に大きな報いを得ても、身体は常に病に苦しむ。 もし先に父母を養うことができず、妻や子、奴婢を苦しめ、困窮させて布施するなら、それは悪人と呼ばれ、名ばかりの施しであり、真の施しとは言えない。 そのような施しは、憐れみがなく、恩を知らず報いることもない。その人は未来に財宝を得ても、常に失い蓄えられず、使い道もなく、身体は多くの病に苦しむ。 もし人が法に従って財を布施するなら、その人は未来に無量の福を得、財を得て自由に使うことができる。 もし人が法に従わない財で施すなら、その人は未来に果報を得ても、常に他人に頼って得るものとなり、その頼る人が亡くなれば、すぐに貧窮に陥る。 智慧ある人は、人間や天界、転輪聖王の楽しみが、いかに微妙であっても、全て無常であると深く観察する。ゆえに布施をする時、人間や天界のためにはしない。

「善男子!施有二種:一者、財施,二者、法施。財施名下,法施名上。云何法施?若有比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷,能教他人具信、戒、施、多聞、智慧,若以紙墨令人書寫、若自書寫如來正典,然後施人令得讀誦,是名法施。如是施者,未來無量得好上色。何以故?眾生聞法斷除瞋心,以是因緣,施主未來無量世中得成上色。眾生聞法慈心不殺,以是因緣,施主未來無量世中得壽命長。眾生聞法不盜他財,以是因緣,施主未來無量世中多饒財寶。眾生聞已開心樂施,以是因緣,施主未來無量世中身得大力。眾生聞法斷諸放逸,以是因緣,施主未來無量世中身得安樂。眾生聞法斷除癡心,以是因緣,施主未來無量世中得無礙辯。眾生聞法生信無疑,以是因緣,施主未來無量世中信心明了;戒、施、聞、慧,亦復如是。是故法施勝於財施。

「善き人よ。施しには二種類ある。一つは財施、もう一つは法施である。財施は下位の施しであり、法施は上位の施しである。では、法施とは何か。比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷が、他人に信仰心、戒律、施し心、多聞、智慧を身につけるよう教えること。あるいは紙や墨を用いて誰かに如来の正しい教典を書き写させ、自分で書き写し、それを人に与えて読誦させること。これを法施という。このような施しを行った者は、未来において無量のすぐれた容姿を得る。なぜか。衆生が法を聞いて怒りの心を断ち切るからである。この縁により、施主は未来無量の世においてすぐれた容姿を得る。衆生が法を聞いて慈しみの心で殺生をしないから、施主は未来無量の世において長寿を得る。衆生が法を聞いて他人の財産を盗まないから、施主は未来無量の世において多くの財宝を得る。衆生が法を聞いて心を開き喜んで施しを行うから、施主は未来無量の世において強い体力を得る。衆生が法を聞いて放逸を断つから、施主は未来無量の世において安楽を得る。衆生が法を聞いて愚痴の心を断つから、施主は未来無量の世において自由自在な弁舌を得る。衆生が法を聞いて疑いなく信じる心を生じるから、施主は未来無量の世において明らかな信心を得る。戒律、施し心、多聞、智慧についても、これと同じである。ゆえに、法施は財施よりも勝れているのである。」

「或有說言『子修善法,父作不善,因子修善,令父不墮三惡道』者,是義不然!何以故?身、口、意業,各別異故。若父喪已墮餓鬼中,子為追福,當知即得;若生天中,都不思念人中之物。何以故?天上成就勝妙寶故。若入地獄,身受苦惱,不暇思念,是故不得;畜生、人中,亦復如是。若謂餓鬼何緣獨得?以其本有愛貪慳悋,故墮餓鬼;既為餓鬼,常悔本過,思念欲得,是故得之。若所為者生餘道中,其餘眷屬墮餓鬼者,皆悉得之。是故,智者應為餓鬼勤作福德。若以衣食、房舍、臥具資生所須,施於沙門、婆羅門等貧窮,乞士為其呪願,令其得福,以是施願因緣力故,墮餓鬼者得大勢力,隨施隨得。何以故?生處爾故。諸餓鬼等所食不同——或有食膿,或有食糞,或食血污、嘔吐、涕唾——得是施已,一切變成上妙色味。雖以不淨蕩滌汁等施應食者,然有遮護,竟不得食;如是施主,亦得福德。何以故?以施主心慈憐愍故。若有祀祠,誰是受者?隨其祠處而為受者:若近樹林則樹神受,舍河、泉井、山林、堆阜,亦復如是。是人祀已,亦得福德。何以故?令彼受者生喜心故。是祀福德,能護身財。若說殺生祀祠得福,是義不然!何以故?不見世人種伊蘭子生栴檀樹、斷眾生命而得福德!若欲祀者,應用香、花、乳、酪、酥、藥。為亡追福,則有三時:春時二月,夏時五月,秋時九月。

ある人が言う、「子が善い行いを積めば、父が悪い行いをしても、子の善行によって父は三悪道に堕ちることはない」と。しかし、これは正しくない。なぜか?身・口・意の業はそれぞれ別だからである。

父が死んで餓鬼道に堕ちたならば、子が追善のために功徳を積めば、その恩恵を受けることができる。しかし、父が天界に生まれたならば、人間の物など一切思い出さない。なぜか?天界には素晴らしい宝が備わっているからである。地獄に堕ちれば、苦しみに苛まれて追善を思い出す暇もない。畜生や人間の世界も同様である。

では、なぜ餓鬼だけが供養を受けられるのか?餓鬼は元々、貪りや吝嗇の心が強くて餓鬼道に堕ちたのである。餓鬼となってからは、常に自らの過ちを悔い、施しを得たいと願っている。だからこそ、供養を受け取ることができるのだ。

もし追善の対象となる者が他の道に生まれていても、その縁者が餓鬼道に堕ちているならば、その餓鬼が施しを受け取るのである。ゆえに、賢い者は餓鬼のために精進して福徳を積むべきである。

衣服や食べ物、家屋、寝具などの生活必需品を、修行者やバラモン、貧しい人々や乞食に施し、彼らが祝福の祈りを唱えてくれれば、その施しと祈りの力によって、餓鬼は大きな力を得て、施しに応じて福徳を受けることができる。なぜか?餓鬼の生まれつきの性質によるものである。

餓鬼たちの食べ物は様々である――膿を食べる者もいれば、糞を食べる者、血や汚物、嘔吐物、鼻水を食べる者もいる。しかし、施しを受ければ、それらはすべて素晴らしい味と香りに変わる。

たとえ不浄な洗い汁などでも、それを食べるべき者に施せば利益がある。しかし、施しが妨げられて結局食べられないこともある。それでも施し主には福徳が生まれる。なぜか?施し主の心に慈しみがあるからである。

では、祖先祭祀を行う場合、誰が供物を受け取るのか?祭祀の行われる場所によって異なる。林の近くで行えば木の神が受け、川や泉、井戸、山や森、丘などでも同様である。そのように祀れば、人間も福徳を得ることができる。なぜか?受け取る側の神々に喜びが生まれるからである。この祭祀の福徳は、身と財産を守ってくれるのだ。

もし「殺生をして祭祀を行えば福徳が得られる」と言う者がいるなら、それは正しくない!なぜか?世の中で、イラン草を植えて栴檀の木が生えた例を誰も見たことがないように、命を絶って福徳が得られる道理はないからである。祭祀を行うならば、香や花、乳、酪、酥、薬を用いるべきである。

亡き人のために追善を行うには、三つの時節がある。春は二月、夏は五月、秋は九月である。

「若人以房舍、臥具、湯藥、園林、池井、牛、羊、象、馬種種資生布施於他,施已命終,是人福德隨所施物任用久近,福德常生,是福追人,如影隨形。或有說言『終已便失』,是義不然!何以故?物壞不用,二時中失,非命盡失。若出家人效在家人歲節之日喜飲食者,隨世法故,非真實也;亦信世法、出世法故。若能隨家所有,好惡常樂施者,名一切施。若以身分及以妻子、所重之物施於人者,是則名為不思議施。若有惡人、毀戒、怨家、不知恩義、不信因果、強乞索者、大勢力人、健罵詈者、得已瞋恚、詐現好相、大富貴者,施如是等十一種人名不思議。善男子!一切布施,有三根本:施於貧窮,以憐愍故;施於怨家,不求報故;施福德人,心喜敬故。

もし人が、家屋や寝具、薬湯、庭園、池や井戸、牛、羊、象、馬など、さまざまな生活の資材を他者に施し、その施しを行った後に命を終えたならば、その人の功徳は施した物が使われている期間に応じて常に生じ続け、その福徳は影が形に従うようにその人を追うものです。

「命が終われば、その福徳も失われる」と言う者もいますが、それは正しくありません。なぜなら、物が壊れたり使われなくなったりした時に初めて(福徳は)失われるのであって、命が尽きたからといって失われるわけではないからです。

もし出家者が在家者に倣って、節句や年中行事のたびに飲食を喜んで施すならば、それは世俗の慣習に従っているにすぎず、真実の施しとは言えません。また、世俗の道と出世の道の両方を信じるならば、その家にあるものに応じて、良いものも悪いものも常に喜んで施す者を「一切施し」といいます。

もし自分の肉体や妻、子ども、大切な品物を他者に施すならば、それは「不可思議な施し」と呼ばれます。

また、悪人、戒律を破った者、恨みを持つ者、恩義を知らぬ者、因果を信じぬ者、無理に物を乞う者、大きな力を持つ者、激しくののしる者、施しを受けて怒る者、よい顔を装う者、大いなる富貴の者——こうした十一種類の人々に施すことを「不可思議な施し」といいます。

善き人よ、あらゆる布施には三つの根本があります。貧しい者に施すのは憐れみのゆえ、恨みある者に施すのは報いを求めないゆえ、功徳ある者に施すのは心から敬い喜ぶゆえです。

「善男子!若人多財,無量歲中供養三寶,雖得無量福德果報,不如勸人共和合作。若人輕於少物、惡物,羞不肯施,是人增長來世貧苦。若人共施,財物、福田、施心俱等,是二得果無有差別;有財、心俱等,福田勝者,得果報勝;有田、心俱下,財物勝者,得果則勝;有田、財俱下,施心勝者,得果亦勝;有田、財俱勝,施心下者,得果不如。

「善き人よ、たとえ人が多くの財産を持ち、無限の歳月にわたって三宝に供養を捧げたとしても、得られる福徳の果報は計り知れない。しかし、それは他の人々に呼びかけて共に協力して行うことには及ばない。もし人がわずかな物や質の悪い物を軽んじて、恥ずかしがって施すことを惜しむならば、その人は来世において貧しさと苦しみを増すことになる。もし人が共に施しを行うならば、財物、福田(功徳を生む対象)、施す心が全て等しい場合、その二人が得る果報には差がない。財物と施す心が等しく、福田に優劣がある場合は、福田が勝る者が果報に勝る。福田と施す心が共に劣り、財物が勝る場合は、財物が勝る者が果報に勝る。福田と財物が共に劣り、施す心が勝る場合は、施す心が勝る者が果報に勝る。福田と財物が共に勝り、施す心が劣る場合は、得られる果報は劣るのである。」

「善男子!智者施時不為果報。何以故?定知此因必得果故。若人無慈,不知恩義,不貪聖人所有功德,惜財、身命,貪著心重,如是之人不能布施。智者深觀一切眾生求財物時,不惜身命,既得財物,能捨施人,當知是人能捨身命。若人慳悋不能捨財,當知是人亦惜身命。若捨身命求得財物以布施者,當知是人是大施主。若人得財貪惜不施,當知即是未來世中貧窮種子。是故我於契經中說:四天下中,閻浮提人有三事勝,一者、勇健,二者、念心,三者、行淨。不見果報,能預作因,不惜身命,求得財已,能壞慳悋,捨已思施,既捨施已,心不生悔,復能分別福田、非福田,是名勇健。

「善き人よ、智慧ある人が施しをするのは、報いを求めてのことではない。なぜなら、この因(行い)が必ず果(結果)を生むと確かに知っているからである。もし人に慈しみがなく、恩義を知らず、聖人の功徳を慕わず、財産や命を惜しみ、執着心が強いならば、そのような人は施しを行うことができない。智慧ある人は深く観察する。すべての生きとし生けるものが財物を求める時には身命を惜しまず、いったん財物を得たならばそれを手放して人に施すことができる。そのような人は身命を捨てられる人だと知るべきである。もし人が物惜しみして財を施さなければ、その人はまた身命を惜しむ人だと知るべきである。もし身命を惜しまずに財物を得て布施するならば、その人は大いなる施主であると知るべきである。もし人が財を得ても貪り惜しんで施さなければ、それは未来世における貧窮の種であると知るべきである。

それゆえ、私は経典の中でこう説いている。四つの天下の中で、閻浮提(人間界)の人々には三つの優れた点がある。第一は勇健(勇気と強さ)、第二は念心(よく考える心)、第三は行いが清らかであることである。すなわち、結果を見ずして、あらかじめ因をなすことができる。身命を惜しまず、財を得たならば、物惜しみの心を打ち破り、我が物と思うことなく施そうと考える。施した後も心に悔いず、さらに福田(功徳を生む対象)と非福田とをよく区別できる。これを勇健という。」

「善男子!施已生悔,因於三事:一者、於財貪愛,二者、諮承邪見,三者、見受者過。復有三事:一者、畏他呵責,二者、畏財盡受苦,三者、見他施已受諸衰惱。善男子!智人三時不生悔心,復有三事:一者、明信因果,二者、親近善友,三者、不貪著財。信因果者,復有二事:一者、從他聞法,二者、內自思惟。親近善友,復有二事:一者、深信,二者、智慧。不貪著財,復有二事:一、觀無常,二、不自在。善男子!施主若能如是觀察,如是行施,當知是人能具足行檀波羅蜜。是故我先說:有布施非波羅蜜,有波羅蜜非是布施,有亦布施亦波羅蜜,有非布施非波羅蜜。

「善男子よ、施しをした後に悔いるのは、三つの理由による。第一は財産に対する貪りの愛着、第二は邪見に従うこと、第三は受ける側の欠点を見ることである。また別の三つの理由がある。第一は他人の非難を恐れること、第二は財産が尽きて苦しむのを恐れること、第三は他人が施しをした後に様々な災いを受けるのを見ることである。善男子よ、智慧ある人は施しをした前後、悔いる心を起こさない。それには三つの理由がある。第一は因果を明らかに信じること、第二は善き友に親しく学ぶこと、第三は財産に執着しないことである。因果を信じる者には、さらに二つのことがある。第一は他人から教えを聞くこと、第二は自ら内省して考えることである。善き友に親しく学ぶことには、さらに二つのことがある。第一は深い信頼、第二は智慧である。財産に執着しないことには、さらに二つのことがある。第一は無常を観ずること、第二は自在ではないことを観ずることである。善男子よ、施主がこのように観察し、このように施しを行うならば、その人は布施波羅蜜を完全に成就することができると知るべきである。それゆえに私は先にこう述べた。布施ではあるが波羅蜜ではないものがあり、波羅蜜ではあるが布施ではないものがあり、布施でもあり波羅蜜でもあるものがあり、布施でも波羅蜜でもないものがあると。」

「善男子!智有三種:一者、能捨外物,二者、捨內外物,三者、施內外已兼化眾生。云何教化?見貧窮者,先當語言:『汝能歸依於三寶不?受齋戒不?』若言能者,先授三歸及以齋戒,後則施物;若言不能,復應語言:『若不能者,汝能隨我說一切法無常、無我、涅槃寂滅不?』若言能者,復當教之,教已便施;若言『我今能說二事,唯不能說諸法無我』,復應語言:『汝若不能說諸法無我,能說諸法是無性不?』若言能者,教已便施。若能如是先教後施,名大施主。善男子!若能如是教化眾生及諸怨親,無所選擇,名大施主。善男子!智者若有財寶物時,應當如是修行布施;如其無財,復當轉教餘有財者,令作是施;若餘施主先知此法不須教者,應以身力往佐助之。

「善男子よ。智慧には三種ある。 第一に、外の物を施すことができること。 第二に、内と外の物をともに施すことができること。 第三に、内外を施した上で、さらに人々を教化することである。 では、どのように教化するのか。貧しい人を見かけたなら、まずこう言いなさい。 『あなたは、仏法僧の三宝に帰依できますか。また、斎戒を受けることができますか』 もしできると言うなら、まず三帰依と斎戒を授け、その後に物を施しなさい。 もしできないと言うなら、さらにこう言いなさい。 『もしできないのなら、私の言葉に従って、『すべてのものは無常であり、我といわれる実体はなく、涅槃は静寂である』と説くことができますか』 もしできると言うなら、それを教え、教え終わった後に施しをしなさい。 もし『私は二つのこと(無常と涅槃寂滅)は説けても、ただ『諸法に我なし』ということだけは説けません』と言うなら、さらにこう言いなさい。 『もし諸法に我なしと説けなくても、『諸法には決まった実体がない』と説くことはできますか』 もしできると言うなら、それを教え、教え終わった後に施しをしなさい。 このように、まず教えてから後に施すことができる者を、大施主と呼ぶのである。 善男子よ。このようにして、人々や怨みのある者も親しい者も、選り好みなく教化することができる者を、大施主と呼ぶのである。 善男子よ。智慧ある者は、もし財宝や物がある時には、このように布施を修行すべきである。 もし財がない場合には、かえって他の財のある人々にこの方法を教え、そのように施しを行わせなさい。 もし、他の施主がすでにこの方法を知っていて教えを必要としないならば、自らの身体を用いて、その人の布施を助けてあげなさい。」

「若窮無物,應誦醫方、種種呪術,求賤湯藥,須者施之,至心瞻病,將養療治,勸有財者和合諸藥:若丸、若散、若種種湯。既了醫方,遍行看病,案方診視,知病所在,隨其病處而為療治。療治病時,善知方便,雖處不淨,不生厭心,病增知增,損時知損;復能善知如是食、藥能增病苦,知如是食、藥能除病苦。病者若求增病食藥,應當方便隨宜喻語,不得言無;若言無者,或增苦劇。若知定死,亦不言死,但當教令歸依三寶,念佛、法、僧,勤修供養;為說病苦皆是往世不善因緣獲是苦報,今當懺悔。病者聞已,或生瞋恚,惡口罵詈,默不報之,亦不捨棄;雖復瞻養,慎無責恩,差已猶看,恐後勞復。若見平復如本健時,心應生喜,不求恩報;如其死已,當為殯葬,說法慰喻知識、眷屬。無以增病食、藥施人,若病差已,喜心施物便可受之,受已轉施餘窮乏者。若能如是瞻養治病,當知是人是大施主,真求無上菩提之道。

もし何も持っていないなら、医薬書や様々な呪術を唱え、安価な薬や処方を求め、それが必要な人には施しなさい。心を込めて病人を見舞い、世話をし、治療しなさい。財産のある人には、様々な薬を調合するよう勧めなさい。丸薬や粉末、様々な煎じ薬などを。医術をきわめたなら、広く病人を訪ね、処方に従って診察し、病の原因を見極め、その箇所に応じて治療しなさい。

治療する時には、巧みな方便をよく知り、たとえ不浄な場所にあっても嫌悪の心を起こしてはならない。病が悪化すればそれが分かり、快方に向かえばそれも分かる。また、どのような食べ物や薬が病を悪化させ、どのようなものが病を取り除くかを、よく知らねばならない。

もし病人が病を悪化させる食べ物や薬を求めてきたなら、適切な方法で、その場に応じて、やんわりと諭しなさい。決して「ない」と言ってはいけない。もし「ない」と言えば、病人の苦しみがさらに増すかもしれない。また、死が確実と分かっても、決して「もうすぐ死ぬ」とは言ってはならない。ただ、三宝に帰依し、仏・法・僧を念じ、心を込めて供養するよう教えなさい。そして「この病の苦しみは、すべて過去世の悪しき因縁による報いである。今こそ懺悔しなさい」と説きなさい。

病人がこれを聞いて怒り、悪口を言い、ののしっても、黙って答えず、見捨ててはならない。看病していても、決して恩を着せてはならない。病が治ってもなお見守り、再発を恐れなさい。もし平癒して元の健康な姿に戻ったなら、心から喜び、恩を求めてはならない。もし亡くなったなら、葬儀を行い、その知人や家族に法を説いて慰めなさい。

病を悪化させる食べ物や薬を人に施してはならない。もし病が治り、喜びの心で物を施されたなら、それを受け取ってもよい。受け取った後は、それをさらに他の貧しい人々に施しなさい。

このように病人を世話し、治療するなら、その人は真の大施主であり、本当に無上の悟りの道を求める者だと知りなさい。

「善男子!有智之人求菩提時,設多財寶,亦當讀誦如是醫方,作瞻病舍,具病所須飲食、湯藥,以供給之。道路凹迮,平治令寬,除去刺石、糞穢、不淨,嶮處所須——若板、若梯、若椽、若索——悉皆施之。曠路作井,種果樹林,修治泉潢,無樹木處,為畜竪柱,負擔息處,為作基埵。造立客舍,具諸所須瓶盆、燭燈、床臥、敷具。臭穢流處,為作橋隥,津濟渡頭,施橋船栰,不能渡者,自往渡之,老小羸瘦、無筋力者,自手携將而令得過。路次作塔,種花果樹。見怖畏者,輒為救藏,以物、善語,誘喻捕者。若見行者次至嶮處,輒前扶接,令得過嶮;若見失土破亡之人,隨宜給與,善言慰喻。遠行疲極,當為洗浴,按摩手足,施以床座;若無床座,以草為敷。熱時以扇、衣裳作蔭,寒時施火、衣服溫暖,若自為之,若教人為。販賣市易,教令依平,無貪小利,共相中欺。見行路者,示道、非道——道者,所謂多饒水草,無有賊盜——宣說非道,多諸患難。見人鞾量、衣裳、鉢盂朽故壞者,即為縫補、浣染、熏治;有患鼠、蛇、壁蝨、毒虫,能為除遣。施人如意、摘抓、耳鉤,縫治、浣濯招提僧物,謂坐臥具。廁上安置淨水、澡豆、淨灰土等。若自造作衣服、鉢器,先奉上佛,并令父母、師長、和上,先一受用,然後自服;若上佛者,以花、香贖。凡所食噉,要先施於沙門、梵志,然後自食。見遠至者,濡言問訊,施以淨水洗浴身體,與油塗足——香花、楊枝、澡豆、灰土、香油、香水、蜜毘鉢羅舍勒、小衣,作塗油者。洗已,復以種種香花、丸藥、散藥、飲食、漿水隨所須施;復施剃刀、漉水囊等,針縷、衣納、紙、筆、墨等。若不能常,隨齋日施。若見盲者,自前捉手,施杖示道;若見有苦、亡失財物、父母喪沒,當以財給,善語說法,慰喻勸諫,善說煩惱、福德二果。善男子!若能修集如是施者,名淨施主。

「善男子よ。智慧ある人が悟りを求める時、たとえ多くの財宝を持っていても、こうした医術の書を読んで唱えるべきであり、病人のための家を作り、病人に必要な飲食や薬湯を備えて与えなさい。道路が狭くでこぼこしているなら、平らに広げ、とげや石、汚物などの不浄なものを取り除き、険しい場所に必要な板、梯子、垂木、縄などをすべて施しなさい。原っぱに井戸を掘り、果樹林を植え、泉や水たまりを整え、木のない場所には柱を立て、荷物を降ろして休むための台を作りなさい。宿屋を建て、瓶や鉢、灯明、ベッドや寝具などの必要なものを備えなさい。悪臭の流れる場所には橋や階段を作り、渡し場には橋や船、いかだを施し、渡れない人がいれば自ら渡してやり、年老いた者や幼い者、痩せ細って力のない者は、自らの手で引いて渡らせなさい。道端に塔を建て、花や果樹を植えなさい。怖がっている者を見れば、すぐに救って隠し、金品や優しい言葉で捕まえようとする者を説得しなさい。もし旅人が危険な場所に差し掛かろうとしているのを見たら、前に出て支え、無事に通過できるようにしなさい。土地を失ったり破滅した人を見たら、状況に応じて物を与え、優しい言葉で慰め励ましなさい。遠くから来て疲れ果てている人には、洗い清め、手足をマッサージし、座る場所を施しなさい。もし座る場所がなければ、草を敷いてあげなさい。暑い時には扇や衣類で日陰を作り、寒い時には火や暖かい衣服を施しなさい。これを自ら行うもよし、人に教えて行わせるもよし。商売や売買では、公正であるように教え、小さな利益に貪らず、互いに騙し合わないようにさせなさい。道を歩く人には、良い道と悪い道を示しなさい——良い道とは、水や草が豊かで、盗賊がいない道のことです。悪い道には多くの苦難があると説きなさい。人の履物や衣服、鉢が古くなって壊れているのを見たら、すぐに縫い、洗い、染め、燻して整えなさい。鼠、蛇、南京虫、毒虫などの害があれば、退治してやりなさい。人に如意や耳かき、耳飾りなどを与え、僧侶の坐臥具を縫い、洗濯しなさい。便所には浄水や洗顔用の豆粉、清らかな灰などを備えなさい。自分で衣服や鉢を作る時は、まず仏にささげ、父母や師匠や和尚にも先に使っていただき、それから自分で使いなさい。もし仏にささげたものなら、花や香で請い戻しなさい。食べ物や飲み物は、まず沙門や修行者に施してから、自分で食べなさい。遠くから来た人を見たら、優しい言葉で挨拶し、清らかな水を施して体を洗わせ、足に油を塗りなさい——香花、楊枝、洗顔用の粉、灰土、香油、香水、蜜、下着、塗油用の布などを整えなさい。洗い終えたら、さらに様々な香花、丸薬、散薬、食べ物、飲み物、水などを必要なだけ施しなさい。また剃刀、水漉し袋、針と糸、衣の切れ端、紙、筆、墨などを施しなさい。もし常に施せないなら、斎日の度に施しなさい。もし目の見えない人を見たら、自ら前に出て手を引き、杖を与えて道を示しなさい。苦しんでいる人や財産を失った人、父母を亡くした人を見たら、財物を与え、優しい言葉で教えを説き、慰め、励まし、悩みと福徳の二つの結果について適切に説きなさい。善男子よ。もしこのように施しを修め集めることができるなら、それを清らかな施しの主というのです。」

「善男子!菩薩二種:一者、在家,二者、出家。出家菩薩為淨施主,是不為難;在家菩薩為淨施主,是乃為難。何以故?在家之人多惡因緣所纏繞故。」

「善き男子よ、菩薩には二種類ある。一つは在家の者、もう一つは出家の者である。出家の菩薩が清らかな施主となるのは難しいことではない。しかし在家の菩薩が清らかな施主となるのは、実に難しいことである。なぜなら、在家の者は多くの悪しき因縁に絡め取られているからである。」

優婆塞戒經淨三歸品第二十

「優婆塞戒経 浄三帰品 第二十」

善生言:「世尊!如佛先說『有來乞者,當先教令受三歸依,然後施』者,何因緣故受三歸依?云何名為三歸依也?」

善生が尋ねました。「世尊よ、あなたは以前、『施しを求める者が来たら、まず三帰依を受けさせてから施しを与えなさい』とおっしゃいました。なぜ三帰依を受ける必要があるのでしょうか。また、三帰依とはどのようなものですか?」

「善男子!為破諸苦、斷除煩惱,受於無上寂滅之樂,以是因緣受三歸依。如汝所問云何三歸依者?善男子!謂佛、法、僧:佛者,能說壞煩惱因,得正解脫;法者,即是壞煩惱因,真實解脫;僧者,稟受破煩惱因,得正解脫。或有說言『若如是者,即是一歸』,是義不然!何以故?如來出世及不出世,正法常有,無分別者;如來出已,則有分別,是故應當別歸依佛。如來出世及不出世,正法常有,無有受者,佛弟子眾能稟受故,是故應當別歸依僧。正道解脫,是名為法;無師獨覺,是名為佛;能如法受,是名為僧。若無三歸,云何說有四不壞信?得三歸者,或有具足,或不具足。云何具足?所謂歸佛、法、僧。不具足者,所謂如來、歸依於法。善男子!得三歸者,無不具足,如比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷戒。

「善男子よ。さまざまな苦しみを滅し、煩悩を断ち切って、最高の静かな楽しみを得るために、この因縁によって三帰依を受けるのです。あなたが『どのような三帰依か』と問うたのに答えるならば、善男子よ。それは仏・法・僧です。仏とは、煩悩を破る因を説き、正しい解脱を得る方です。法とは、すなわち煩悩を破る因であり、真実の解脱です。僧とは、煩悩を破る因を受け継ぎ、正しい解脱を得る人々です。ある者は『それならば一つの帰依でよいではないか』と言うかもしれませんが、その考えは正しくありません。なぜなら、如来が世に現れようと現れまいと、正法は常に存在し、区別するものはないからです。しかし如来が現れて初めて区別が生まれるのです。それゆえ、別々に仏に帰依すべきなのです。如来が世に現れようと現れまいと、正法は常に存在しますが、これを受ける者がいません。仏の弟子たちがこれを受け継ぐことができるからこそ、別々に僧に帰依すべきなのです。正しい道による解脱、これを法と名づけます。師なくして独り目覚めた方、これを仏と名づけます。法のままに受けることができる者、これを僧と名づけます。もし三帰依がなければ、どうして四不壊信があると言えるでしょうか。三帰依を得る者には、完全にそなわる場合と、そなわらない場合があります。どのような場合に完全かというと、仏・法・僧に帰依することです。完全でない場合とは、例えば如来そのものにではなく、法にのみ帰依することです。善男子よ。三帰依を得る者は、皆完全にそなわっています。それは比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の戒と同じです。」

「善男子!如佛、緣覺、聲聞各異,是故三寶不得不異。云何為異?發心時異,莊嚴時異,得道時異,性分各異,是故為異。何因緣故說佛即法?能解是法,故名為佛;受分別說,故名為僧。若有說言『佛入僧數』,是義不然!何以故?佛若入僧,則無三寶及三歸依、四不壞信。善男子!菩薩、法異,佛、法亦異。菩薩二種:一者、後身,二者、修道。歸依後身,名歸依法,歸依修道,名歸依僧。觀有為法多諸罪過,獨處修行,得甘露味,故名為佛;一切無漏無為法界,故名為法;受持禁戒,讀誦解說十二部經,故名為僧。

「善男子(ぜんなんし)。例えば仏(ほとけ)と縁覚(えんがく)と声聞(しょうもん)は、それぞれ異なっています。ですから、三宝(さんぼう)も異ならざるを得ません。では、どのように異なるのでしょうか。発心(ほっしん)する時が違い、荘厳(しょうごん)する時が違い、得道(とくどう)する時が違い、その性質(せいしつ)もそれぞれ異なるのです。これが異なる理由です。

では、なぜ『仏がすなわち法(ほう)である』と言うのでしょうか。その法を理解し、悟るからこそ仏と呼ばれます。その法を受けて教えを分別(ぶんべつ)して説くから、僧(そう)と呼ばれます。もし『仏は僧の仲間に含まれる』という人がいたら、それは道理に合いません。なぜなら、もし仏が僧の中に入ってしまうと、三宝(さんぼう)や三帰依(さんきえ)、四不壊信(しふえしん)が成立しなくなるからです。

善男子よ。菩薩(ぼさつ)と法は異なり、仏と法もまた異なります。菩薩には二種類あります。第一は最後の身(最後身・さいごしん)を生きる菩薩、第二は修行の道にある菩薩です。最後身の菩薩に帰依することを法に帰依すると言い、修行の道にある菩薩に帰依することを僧に帰依すると言います。

有為(うい)の世界には多くの過ち(かち)や罪(つみ)があると観察し、独りで修行して甘露(かんろ)の味(あじわい)を得る、これを仏と言います。一切の無漏(むろ)で無為(むい)の法界(ほっかい)を法と言います。戒律(かいりつ)を守り、十二部経(じゅうにぶきょう)を読

「若有問言:『如來滅已,歸依佛者是何歸依?』善男子!如是歸依,名為歸依過去諸佛無學之法。如我先教提謂長者:『汝當歸依未來世僧。』依過去佛,亦復如是。福田果報有多少故,差別為三。若佛在世及涅槃後,供養果報,無有差別;受歸依者,亦復如是。如佛在世,為諸弟子立諸要制,佛雖過去,有犯之者亦獲罪報;歸過去佛,亦復如是。猶如如來臨涅槃時,一切人、天為涅槃故,多設供養,爾時如來未入涅槃,猶故在世,懸受未來世供養事;歸過去佛,亦復如是。譬如有人父母在遠,是人或時瞋罵得罪,或時恭敬讚歎得福;歸過去佛,亦復如是。是故我說:『我若在世及涅槃後所設供養,施者受福等無差別。』

「もし誰かが『如来が滅した後、佛に帰依するとは、どのような帰依なのか』と問うならば、善男子よ、そのような帰依は、過去の諸佛の無学の法に帰依するという意味である。かつて私が提謂長者に『汝は未来の僧伽に帰依すべきである』と教えたように、過去の佛に帰依することもまた同様である。福田としての果報には大小の差があるため、三つに区別される。佛が在世の時も涅槃の後も、供養による果報に差はない。帰依を受ける者もまた同様である。佛が在世の時に弟子たちのために様々な重要な制約を定めたように、佛が過ぎ去った後でも、それに違反する者は罪の報いを受ける。過去の佛に帰依することもまた同様である。例えば、如来が涅槃に入ろうとする時、一切の天人は涅槃のために多くの供養を設けるが、その時如来はまだ涅槃に入っておらず、なお在世して、未来の供養の事をあらかじめ受けている。過去の佛に帰依することもまた同様である。例えば、ある人の父母が遠くにいる時、その人が時に怒って罵れば罪を得、時に敬って讃嘆すれば福を得るように、過去の佛に帰依することもまた同様である。ゆえに私は『私が在世の時も涅槃の後も、設けられた供養は、施す者が受ける福に何ら差はない』と説いたのである。」

「善男子!若男、若女,若能三說三歸依者,名優婆塞、名優婆夷。一切諸佛雖歸依法,法由佛說故得顯現,是故先應歸依於佛。淨身、口、意,至心念佛,念已即離怖畏、苦惱,是故應當先歸依佛。智者深觀如來智慧解脫最勝,能說解脫及解脫因,能說無上寂靜之處,能竭生死苦惱大海,威儀庠序,三業寂靜,是故應當先歸依佛。智者深觀,生死之法是大苦聚,無上正道能永斷之;生死之法渴愛飢饉,無上甘露味能充足;生死之法怖畏嶮難,無上正法能除斷之;生死錯謬,邪僻不正,無常見常,無我見我,無樂見樂,不淨見淨,無上正法悉能斷除。以是因緣,應歸依法。

「善男子よ。もし男であれ女であれ、三度にわたって三帰依を唱えることができる者は、優婆塞と呼ばれ、優婆夷と呼ばれます。すべての仏は法に帰依しておられますが、法は仏が説かれたことによってはじめて現れるものですから、まず仏に帰依するべきです。身と口と意を清め、心から念仏し、念じ終わればただちに怖れや苦悩から離れます。ですから、まず仏に帰依するべきなのです。智慧ある人は、如来の智慧と解脱が最もすぐれていることを深く見つめます。如来は解脱と解脱の因を説くことができ、無上の寂静の境地を説くことができ、生死の苦悩の大海を涸らすことができ、威儀は整い、三業は寂静です。ですから、まず仏に帰依するべきなのです。智慧ある人は深く見つめます。生死の法は大きな苦の集まりであり、無上の正道だけがそれを永遠に断ち切ることができます。生死の法は渇愛と飢えに苦しむことであり、無上の甘露の味だけがそれを満たすことができます。生死の法は怖れと険しい難所であり、無上の正法だけがそれを除き断つことができます。生死は誤り歪んで正しくなく、無常を常と見、無我を我と見、無楽を楽と見、不浄を浄と見ますが、無上の正法はすべてそれを断ち除くことができます。こうした理由から、法に帰依するべきなのです。」

「智者應觀外道徒眾,無慚無愧,非如法住,雖為道行,不知正路,雖求解脫,不得正要;雖得世俗微善之法,慳悋護惜,不能轉說,非善行性作善行想。佛、僧寂靜,心多憐愍,少欲知足,如法而住,修於正道,得正解脫,得已復能轉為人說。是故應當次歸依僧。

賢い人は、外道の仲間たちをよく観察すべきです。彼らには恥じる心も悪いことを恥じる心もなく、正しく法に従って生きていません。修行の道を歩んではいるものの、正しい道を知らず、解脱を求めながらも真の要を得ることができません。また、世俗的なわずかな善い行いを得ても、それを惜しんで守り、他人に説き伝えることができません。本来善行ではないものを善行と思い込んでいます。

一方で、仏や僧侶は心が静まり、慈悲深く、欲望が少なく、足ることを知り、正しい法に従って生きています。彼らは正しい道を修め、正しい解脱を得て、その後にまた他の人々のために説き示します。ですから、僧侶に帰依することを第一とすべきなのです。

「若能禮拜如是三寶,來迎去送,尊重讚歎,如法而住,信之不疑,是則名為供養三寶。若有人能歸三寶已,雖不受戒,斷一切惡,修一切善,雖復在家,如法而住,是亦得名為優婆塞。若有說言『先不歸依佛、法、僧寶,當知是人不得戒』者,是義不然!何以故?如我先說:『善來比丘是竟未得歸依三寶,而其戒律悉得具足。』或有說言『若不具受,則不得戒,八戒齋法,亦復如是』,是義不然!何以故?若不具受不得戒者,求有優婆塞云何得戒?實是得戒,但不具足;八戒齋法若不具受,雖不名齋,可得名善。善男子!若能淨潔身、口、意業受優婆塞戒,是名五陰。云何五陰?不受邪見,不說邪見,信受正見,說於正見,修行正法,是名五陰。

このような三宝を礼拝し、来るものを迎え去るものを見送り、敬い称賛し、教えに従って安住し、疑わずに信じることができれば、これを三宝への供養と言います。 ある人がすでに三宝に帰依したならば、たとえ戒を受けていなくても、一切の悪を断ち、一切の善を修めるならば、たとえ在家のままであっても、教えに従って安住するならば、その人を優婆塞(在家信者)と呼ぶことができます。

もし「はじめに仏・法・僧の三宝に帰依しなければ、その人は戒を得られない」と言う人がいても、それは正しくありません。なぜなら、私が先に述べたように、「善来比丘」はまだ三宝に帰依していなかったにもかかわらず、その戒律は完全に具わっていたからです。 また、「すべての戒を完全に受けなければ戒を得られない。八戒斎法もまた同じである」と言う人もいますが、これも正しくありません。なぜなら、もし完全に受けなければ戒を得られないのであれば、在家の修行を求める優婆塞はどうやって戒を得られるのでしょうか。実際には戒を得ることはできますが、完全ではないのです。八戒斎法についても、完全に受けなければ、斎とは呼べなくても、善行と呼ぶことはできます。

善き男子よ! もし身・口・意の三業を清らかにして優婆塞戒を受けるならば、これを五陰(五つの正しい行い)と言います。では五陰とは何か? 邪見を受け入れず、邪見を語らず、正見を信じ受け入れ、正見を説き、正法を修行すること、これを五陰と言います。

「受三歸已,造作癡業,受外道法、自在天語,以是因緣失於三歸。若人質直,心無慳貪,常修慚愧,少欲知足,是人不久得寂靜身。若有造作種種雜業,為受樂故修於善事,如市易法,其心不能憐愍眾生,如是之人,不得三歸。若人為護舍宅、身命祠祀諸神,是人不名失歸依法;若人至心信其能救一切怖畏,禮拜外道,是人則失三歸依法。若聞諸天有曾見佛功德勝己,禮拜供養,是人不失歸依之法;或時禮拜自在天王,應如禮拜世間諸王、長者、貴人、耆舊有德,如是之人亦復不失歸依之法。

三帰を受けた後に、愚かな行いを造り、外道の法や自在天の言葉を受け入れ、その因縁によって三帰を失う者がいる。 しかし、もし人が正直で、心に慳吝や貪りがなく、常に慚愧の心を修め、少欲知足であれば、その人はやがて寂静の身を得るであろう。 様々な雑多な業を造り、楽しみを得るために善事を修め、それを商売の取引のように考える者は、その心に衆生を憐れむことがない。そのような人は三帰を得られない。 もし人が家屋や身の安全を守るために、諸々の神々に祭祀を行っても、その人は帰依の法を失ったとは言わない。 しかし、もし心からその神が全ての恐怖から救ってくれると信じて、外道を礼拝するならば、その人は三帰の法を失う。 もし諸天の中に、かつて仏を見たことがあり、その功徳が自分より勝る者があると聞いて、礼拝供養するならば、その人は帰依の法を失わない。 あるいは時に自在天王を礼拝する場合も、それは世間の王や長者、貴人、年長の徳ある人々を礼拝するのと同じであり、そのような人もまた帰依の法を失うことはない。

「雖復禮拜,所說邪法慎無受之。供養天時,當起慈心,為護身命、財物、國土、人民恐怖。所說邪見,何故不受?智者應觀外道所說云『一切物悉是自在天之所作』,若是自在之所作者,我今何故修是善業?或說『投淵、赴火、自餓捨命即得離苦』,此即苦因,云何說言得遠離苦?一切眾生作善惡業,以是業緣自受果報。復有說言『一切萬物,時節、星宿、自在天作』如是邪說,我云何受現在造業,亦受過去所作業果?智者了了知是業果,云何說言『時節、星宿,自在作』耶?若以時節、星宿因緣受苦樂者,天下多有同時、同宿,云何復有一人受苦、一人受樂,一人是男、一人是女?天、阿修羅有同時生、同宿生者,或有天勝,阿修羅負,阿修羅勝,諸天不如;復有諸王同時、同宿,俱共治政,一人失國,一則保土。諸外道等亦復說言『若有惡年、惡宿現時,當教眾生令修善法以攘却之』,若是年、宿,何得修善而得除滅?以是因緣,智者云何受於外道邪錯之說?

たとえ礼拝しても、その説く邪法を決して受けてはなりません。天に供養する時には、慈悲の心を起こして、身命、財物、国土、人民の恐怖を護るべきです。 その説く邪見を、なぜ受け入れないのか?賢者は、外道の説く「すべてのものは自在天の作ったものである」という言葉をよく観察すべきです。もし自在天が作ったものならば、今なぜ私がこの善業を修行するのでしょうか?あるいは「淵に身を投じ、火に赴き、飢えて命を捨てれば、苦しみから離れられる」と説く者もあります。これはまさに苦しみの原因であり、どうして苦しみから離れると言えるのでしょうか?すべての生きとし生けるものは善悪の業を作り、その業の縁によって自ら果報を受けるのです。 また「すべての万物は、時節や星宿、自在天が作ったものである」というような邪説を、私はどうして受け入れましょうか?現在に業を作り、過去に作った業の果報も受けるのです。賢者はこの業と果報をはっきりと知っています。どうして「時節や星宿、自在天が作る」などと言うのでしょうか? もし時節や星宿の因縁によって苦楽を受けるならば、世の中には同じ時、同じ星宿のもとに生まれた者が多くいます。それなのに、どうして一人は苦しみ、一人は楽しみ、一人は男で、一人は女なのでしょう?天と阿修羅には同時に生まれ、同じ星宿のもとに生まれたものがいますが、あるいは天が勝ち阿修羅が負け、あるいは阿修羅が勝ち諸天が及ばないことがあります。また、多くの王たちが同時に生まれ、同じ星宿のもとに生まれ、ともに国を治めていながら、一人は国を失い、一人は国土を保つことがあります。 諸々の外道たちはまた「もし悪い年や悪い星宿が現れた時には、衆生に善法を修行させてそれを除き去るべきである」とも説きます。しかし、もし年や星宿が原因ならば、どうして善を修行することで除き滅ぼせるのでしょうか?これらの因縁により、賢者がどうして外道の邪な誤った説を受け入れられましょうか?

「善男子!一切眾生,隨於業行,若修正見,受於安樂,修邪見者,受大苦惱。因修善業,得大自在,得自在已,眾生親近。復為宣說善業因緣,善業因緣故得自在,一切眾生皆由修善業因緣故得受安樂,非年、宿也。善男子!阿闍世王、提婆達多,皆由造惡業因緣故墮於地獄,非因年、宿得是報也!欝頭藍弗邪見因緣,未來當墮大地獄中。

「善男子よ。一切の衆生は、自らの行いに従って、正しい見解を修めれば安楽を受け、邪な見解を修めれば大きな苦しみを受けます。善い行いを積むことによって大いなる自在を得、自在を得れば、人々が親しく集まります。そして、さらに善い行いの因縁を説き示します。善い行いの因縁によって自在を得るのです。一切の衆生は、善い行いの因縁を修めることによって安楽を受けるのであって、年や宿星のせいではありません。

善男子よ。アジャータシャトル王やデーヴァダッタも、悪い行いの因縁によって地獄に堕ちたのであって、年や宿星のせいでその報いを受けたのではありません。ウドラカ・ラーマプトラも、邪な見解の因縁によって、未来に大地獄に堕ちることになるでしょう。」

「善男子!一切善法,欲為根本,是欲因緣,得三菩提及解脫果,入出家法,破大惡業及諸有業,能受持戒,親近諸佛,能一切捨施於乞者,能作定性壞惡果報,滅大惡罪,得決定聚,離於三障,善能修集壞煩惱道;是欲因緣,能受三歸,因三歸已,即能受戒,既受戒已,行見、修道,過於聲聞。若有畏於師子、虎、狼、惡獸等類,歸依於佛尚得解脫,況發善心求出世者不得解脫?阿那邠坻教告家內在胎之子,悉受歸依,是胎中子實不成就。何以故?是法要當口自宣說。雖不成就,亦能護之。

「善き人よ、すべての善い行いの根本は願い(欲)である。この願いを因縁として、悟り(三菩提)や解脱の果報を得る。また、出家の道に入り、大きな悪業やあらゆる生存を縛る業を破り、戒律を受けて保ち、諸仏に親しく近づき、すべてを施して乞う者に与え、確かな性質を定めて悪しき果報を壊し、大きな悪しき罪を滅ぼし、確固たる悟りの集まり(決定聚)を得て、三つの障りから離れ、煩悩の道を善く修め壊すことができる。

この願いを因縁として、三帰依を受けることができる。三帰依によって戒律を受けることができ、戒律を受けたならば、見道・修道を実践し、声聞を超えることができる。

もし獅子や虎、狼などの恐ろしい獣を畏れて仏に帰依すれば、それでもなお解脱を得る。ましてや、善い心を起こして世を超え出ようと願う者が解脱を得られないことがあろうか?

アナータピンディカ(給孤独長者)は、家の中で胎内にいる子までも教え諭し、すべて帰依させた。しかし胎内の子は実際には成就しなかった。なぜか? この教えは自らの口で宣言しなければならないからである。成就しなかったとしても、その子を守ることはできたのだ。」

「善男子!諸外道說『一切世間皆是自在天之所作』,亦復說言『未來之世過百劫已,當有幻出,所言幻者,即是佛也』。若自在天能作佛者,是佛云何能破歸依自在天儀?若自在天不能作佛,云何說言『一切皆是自在天作』?外道復說『大梵天王、大自在天、毘紐天主悉皆是一』,復說『生處各各別異,自在天者,名自在天,名常,名主,名有,名曰律陀,名曰尸婆,是一一名,各有異事,亦求解脫亦即解脫』。是義不然!何以故?若自在天能生眾生,造作諸有,作善惡業及業果報,作貪、瞋、癡繫縛眾生。復言『眾生得解脫時,悉入身中,是故解脫是無常法』。是義不然!何以故?若無常者,云何得名為解脫也?如婆羅門子還得壽命,是故不得名自在天。是三種天亦不得一。何以故?阿周那人毘紐大天為作解脫,以是義故亦不得一。若言解脫是無常者,當知即幻,非佛名幻。若能了了正見真我,是名解脫。

「善男子。諸々の外道は『この世のすべては自在天の創造である』と説き、また『未来の世に百劫が過ぎた後、幻のように現れる者がいる。その幻とはすなわち仏である』とも言います。もし自在天が仏を生み出せるのなら、どうして仏が自在天に帰依する儀式を打ち破れるでしょうか?もし自在天が仏を生み出せないのなら、『すべては自在天の作ったものだ』という主張は成り立ちません。外道はさらに『大梵天王、大自在天、毘紐天主はすべて同一である』と説き、また『生まれる場所はそれぞれ異なる。自在天とは、名を自在天といい、常といい、主といい、有といい、律陀といい、尸婆という。これらの名称にはそれぞれ異なる事柄がある。また解脱を求めると同時に解脱そのものでもある』と説きます。この考えは正しくありません。なぜなら、もし自在天が衆生を生み、様々な生存の状態を作り出し、善悪の業とその報いを作り、貪り・怒り・無知で衆生を縛るのなら、さらに『衆生が解脱を得るとき、すべてが自在天の身の中に入る。ゆえに解脱は無常の法である』と言うからです。この考えも正しくありません。なぜなら、もし無常であるなら、どうして解脱と名づけられるのでしょうか?例えばバラモンの子が命を取り戻したようなもので、そのようなものは自在天とは呼べません。これらの三つの天もまた同一ではありません。なぜなら、阿周那の国の人々は毘紐大天を解脱をもたらすものとしているからです。そのため、それらは同一とは言えません。もし『解脱は無常である』というなら、それは幻であると知るべきであり、幻が仏であるわけではありません。真の自己をありありと正しく見ること、これを解脱といいます。」

「復有說言『見微塵者,是名解脫』,復有說言『見性異、我異,是名解脫』。是義不然!何以故?若能修道見四真諦,是人乃得見性、見我。若人能受三歸依者,是人乃能真見四諦。是三歸依乃是一切無量善法,乃至阿耨多羅三藐三菩提之根本也。

「また、こう言う者もいる『微塵を見る者、これを解脱と名づける』と。また別に『性質(性)と自我(我)とは異なると見る、これを解脱と名づける』と言う者もいる。これらの説は誤りである。なぜなら、もし人が道を修行して四つの聖なる真理(四真諦)を観ずることができれば、その人ははじめて性質(性)を見、自我(我)を見るからである。もし人が三帰依を受けることができるなら、その人は真に四つの聖なる真理を見ることができるのである。この三帰依こそが、あらゆる無量の善い法(善法)の根本であり、さらには無上正等正覚(阿耨多羅三藐三菩提)に至るまでの根本なのである。」

「菩薩二種:一者、在家,二者、出家。出家菩薩淨三歸依,是不為難;在家修淨,是乃為難。何以故?在家之人多惡因緣所纏繞故。」

菩薩には二種類あります。一つは在家の菩薩、もう一つは出家の菩薩です。出家の菩薩が三帰依を清らかに守ることは、それほど難しいことではありません。しかし、在家のままでそれを清らかに修めることは、実に難しいのです。なぜなら、在家の人は多くの悪い因縁に絡め取られているからです。


19 雜品
21 八戒齋品

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