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title: "大般涅槃經疏 · 4"
description: "大般涅槃经疏由隋朝天台宗五祖章安大师灌顶撰述，是注解北本《大般涅槃经》的重要疏钞。灌顶承袭其师智顗思想，依天台教观阐释经义，重点发挥如来常住、众生皆有佛性、一阐提也能成佛等核心教理。该疏系统论述了涅槃境界与佛性思想，融合南北朝佛学成果，是天台宗判教体系的关键著作，对隋唐以后中国佛教思想发展影响深远，被视为研究《大般涅槃经》的权威注疏。"
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## 大般涅槃經疏卷第二十三

> 大般涅槃経疏　巻第二十三

隋章安頂法師撰

> 隋の章安頂法師による撰述

唐天台沙門湛然再治

> 唐の天台僧・湛然が再編集

### 德王品之六

> 徳王品 第六

起卷第九功德。開善云：第一至第六，始不聞聞至金心；第七第八，始於善友至慧解脫；第九第十，始於信心至三十七品，此卷即是第三周。又有師言：不爾，而此十德，兩兩莊嚴前之五行，乍淺乍深。今皆不然，前五行是修，今十德是證，證中功德淺深非一。若爾，何以前深後淺？答？亦有此義。如初功德已言不與聲聞辟支佛共，最後而言三十七品，聞道品名謂其初淺，論其義理超絕二乘云云。於中先標、次釋、三結。初標如文。次釋中為二：初明五事、次論義。初又三：一列、二釋、三歎。初文二：先徵。次列名者，信由內發得見聖性，直起中懷不為緣由，戒是信成。友全具菩提，聞於不說，如此五事多就理明，豈可言淺？在文可見。

> 第九巻の功徳について、開善大師はこう述べている。「第一から第六までは、『始めて聞かざるを聞く』から『金剛心』に至るまでであり、第七、第八は、『始めて善き友』から『慧解脱』に至るまでである。第九、第十は、『始めて信心』から『三十七品』に至るまでであり、この巻はまさに第三周にあたる。」また、ある師はこう言う。「そうではない。これらの十の功徳は、一対ずつ、先の五行を荘厳するものであり、ある時は浅く、ある時は深い。」しかし、今、これらはすべて正しくない。先の五行は修行であり、今の十徳は悟りの証であり、証における功徳には浅深があり、同一ではない。もしそうならば、なぜ先は深く後は浅いのか？ 答え：「このような意味もある。例えば、初功徳においてすでに『声聞や辟支仏と共有しない』と言い、最後には『三十七品』と言っている。道品の名を聞けば、それは初歩的で浅いものだと思うかもしれないが、その義理を論じれば、実は二乗を超えている<note>云云</note>」と。 この中で、まず標示し、次に解釈し、最後に結んでいる。初めの標示は本文の通りである。次に解釈の部分は二つに分かれる。まず五つの事柄を明かし、次に論義を行う。最初の五つの事柄はさらに三つに分かれる。一に列出、二に解釈、三に賛嘆である。初めの文は二つに分かれる。まず問いを発し、次に名目を列出する。信心は内から発して聖なる性を見ることを得させ、真っ直ぐに心の内側から起こり、因縁によるものではない。戒は信心によって成る。善友は菩提を完全に具え、説かざるところを聞く。このような五つの事柄は、多くは理に基づいて明かされており、どうして浅いと言えようか。それは本文において見ることができる。

「云何為信」下，第二解釋，即為五章。初信又三：前出信體、次釋信德、三結。初信體者，信何等法？凡舉五種：一信三寶、二信因果、三信二諦、四信一乘、五信三諦。一師云：信第一義是信真，信善方便是信俗。一師云：前已二諦竟，何容重說？依《華嚴經》云「若歎菩薩作二智名，若歎佛者作二身名，只是一體隱顯為異。」有言：第一義諦善方便者，即是二身，亦是二智。今明此文自稱第一義諦，何容改諦為智，復改為身？今作三諦，自異二諦，不成重說。而文約一乘顯其信意，為眾生故分別說三，知無異趣是故說一。準此一條，例通四法。三寶亦爾，為眾生故分別二體，知歸至極故說一體。因果亦爾，為眾生故說因致果，到於彼岸無施無受。二諦三諦亦復如是。次「如是信者」下，釋信德。釋有四意，相次而來。此信堅固無能壞者，何故不壞？得聖人性以為根本，即是見性之信，深固難拔。以根深故即能增長，近大涅槃成就戒等。初一切諸法從於聖性，近大涅槃即是豎高，戒聞智慧等即是橫廣。雖有橫豎深廣之異，而亦不見橫豎之相，彌著彌亡。如此明信，那忽云淺？三結，如文。云何直心？釋第二事，又三：標、釋、結。初標如文。次釋中，文為兩：初以不諂為直、後以懺悔為直。初明不諂中二：先釋、次論義。初中二：初正釋、次釋疑。初文者，以解因緣故不諂。次「雖見惡」下，釋疑，左右解之，初見惡不說，後見善則歎。疑者云：見惡應說而不說者，乃是不直，何名直心？即釋云：恐生煩惱。即復疑云：既見惡不說，見善亦應不說，乃是直心。次明不爾，即釋云：讚佛性故令得菩提。次論義中有問答。初問有六，而為三雙：初兩從現病生，彼明三種五種病人；次兩從初功德生；後兩從此文生。就初兩中，初一又為三：先非佛旨；次領初開經時說；「若言遇不遇」下，第三正難，既能自發菩提之心，何須歎於佛性令得菩提？是取第三病人為難。初中第二又兩：先領旨仰非；次正難，明闡提人亦應發心。何故爾？其既有性，應自發心，何俟須歎？此是取第二病人為難。「如佛所說」下，是第二兩難，從初功德生。第二十卷中明五難：初兩難據四種罪人、中兩難據闡提、後一難據不定。佛答中，明佛性非內非外、非常非無常，所以不斷。今還因此生問：先領旨仰非、次正難。正言不斷佛性，云何言斷善根？只此佛性即是善根，既其斷善，即斷佛性。云何復言佛性非內非外？「如佛往昔」下，後難。若佛性不斷，何故不遮令不墮地獄？既不斷佛性但斷善根，由有佛性應能遮惡。答未了，故更論義。「若因佛性」下，第三，復有兩難：近從此生，若歎佛性令發心者，何須復說十二部經？直歎佛性其義自足。有法、有譬合。「諸佛如來」下，即是後難。從第八功德，佛答貪心非有非無、非因非果，或即因中有果、或因中無果。今還取此為難。若爾，乳應無酪、樹無五丈。若乳有酪、樹有五丈者，當知因中有果，不得汎言或無。

> 「『信』とは何か」という問いの下、第二の解釋は五つの章に分かれる。まず「信」について三つを述べる：最初に信の本質を示し、次に信の徳を説き、三つ目にまとめる。信の本質とは、いかなる法を信じるのか。五つを挙げる：第一に三寶、第二に因果、第三に二諦、第四に一乘、第五に三諦を信じる。ある師は「第一義を信じることは真を信じることであり、善巧方便を信じることは俗を信じることである」と説く。別の師は「既に二諦を説き終えたのに、なぜ再び説くのか」と言う。『華嚴經』に依れば「菩薩を讃える時は二智という名を用い、佛を讃える時は二身という名を用いる。ただ一體であり、隱顯が異なるだけである」とある。あるいは「第一義諦・善方便とは、二身であり、また二智である」とも言う。今ここでは、この文が自ら第一義諦と稱しているのに、なぜ諦を智に改め、さらに身に変えるのか。今、三諦を立てるならば、二諦とは異なり、重説にはならない。しかし文は一乘に基づいてその信の意を示し、衆生のために分けて三を説き、異なる趣がないことを知らせるために一を説く。この一例に準じて、四法すべてに通じる。三寶もまた同様で、衆生のために分けて二體を説き、歸依する極致を知らせるために一體を説く。因果もまた同様で、衆生のために因を説いて果に至らせ、彼岸に到れば與えることも受け取ることもない。二諦・三諦も亦た同じである。 次に「かくの如く信ずる者は」以下は、信の德を釋する。釋には四つの意があり、順を追って來る。この信は堅固にして壞すべき者なく、なぜ壞れないのか。聖人の性を得てこれを根本とする、すなわち見性の信であり、深く固く拔き難い。根が深いが故に増長し、大涅槃に近づき戒などを成就する。初めに一切の諸法は聖性に由り、大涅槃に近づくことはすなわち竪に高く、戒や聞慧などはすなわち横に廣い。橫竪・深廣の異なりがあるけれども、橫竪の相を見ることもなく、彌々著しく彌々亡ぶ。このように信を明らかにするのに、どうして淺いと言えるのか。三つ目にまとめる。文の如し。 「直心とは何か」とは、第二の事柄を釋するもので、また三つに分かれる：標、釋、結。初めの標は文の如し。次に釋の中では、文を二つに分ける：初めに諂わざることを直とし、後に懺悔することを直とする。初めの不諂を明かす中で二つ：先ず釋し、次に論議する。初めの中では二つ：初めに正しく釋し、次に疑いを釋く。初めの文は、因緣を解するが故に諂わない。次に「惡を見るも」以下は疑いを釋き、あれこれと解する。初めに惡を見て説かず、後に善を見れば歎ずる。疑う者はいう：惡を見て説くべきに説かないのは、直ではない。どうして直心と言えるのか。すなわち釋して言う：煩惱を生じさせることを恐れるからである。また疑う：惡を見て説かないならば、善を見ても亦た説かないのが直心であるべきだ。次にそうではないと明かし、釋して言う：佛性を讃えるが故に菩提を得させるからである。次に論議の中に問答がある。初めの問いに六つあり、三つずつの雙とする：初めの二つは現病から生じ、彼は三種・五種の病人を明かす。次の二つは初めの功德から生じ、後の二つはこの文から生じる。初めの二つの中、初めの一つはまた三つに分かれる：先ず佛の旨に非ずとし、次に初めて經を開いた時の説き方を領し、「遇うも遇わざるも」以下、第三に正しく難じ、自ら菩提心を發することができるのに、なぜ佛性を歎じて菩提を得させる必要があるのか。これは第三の病人を取って難とする。初めの中の第二はまた二つ：先ず旨を領して仰いで非とし、次に正しく難じ、一闡提も亦た心を發すべきであると明かす。なぜか。彼が既に性を持つならば、自ら心を發すべきであり、歎じるのを待つ必要があるのか。これは第二の病人を取って難とする。「佛の説かれたる如く」以下は、第二の二つの難であり、初めの功德から生じる。第二十巻に五つの難を明かす：初めの二つの難は四種の罪人に據り、中の二つの難は一闡提に據り、後の一つの難は不定に據る。佛の答えの中では、佛性は内でも外でもなく、常でも無常でもないので斷たれないと明かす。今またこれに因って問いを生じる：先ず旨を領して仰いで非とし、次に正しく難じる。正しくは佛性は斷たれないと言うのに、どうして善根を斷つと言うのか。ただこの佛性こそ善根であり、既にその善根を斷つならば、すなわち佛性を斷つことになる。どうしてまた佛性は内でも外でもないと言うのか。「佛が往昔に」以下、後の難。もし佛性が斷たれないならば、なぜ地獄に墮ちるのを遮らせないのか。既に佛性は斷たれずに善根だけを斷つならば、佛性があるが故に惡を遮るべきである。答えが未だ了せず、故に更に論議する。「もし佛性に因って」以下、第三に、また二つの難がある。近くはこの文から生じ、もし佛性を歎じて心を發させるならば、なぜ十二部經を説く必要があるのか。ただ佛性を歎ずればその義は自ら足りる。法・譬え・合えるがある。「諸佛如來」以下は、すなわち後の難。第八の功德から、佛は貪心は有でもなく無でもなく、因でもなく果でもなく、あるいは因の中に果が有り、あるいは因の中に果が無いと答える。今またこれを取って難とする。もしそうならば、乳には酪が無く、樹には五丈が無いはずである。もし乳に酪が有り、樹に五丈が有るならば、因の中に果が有ると知るべきであり、一概に「無し」と言うべきではない。

「爾時世尊」下，佛答為二：初讚、次答。初又二：初讚問、次舉五句歎其功用。初六種二人，歎其能開發大眾、能令得解，非但能除見世者疑，亦使未來無有滯閡，實為希有，是故歎之。初兩人：一者本不造惡、二者作已能悔，即是前二健兒。第二知恩報恩。他與我恩，我復須報。第三，聽受新法、二者直溫故不忘。書云「溫故而知新，可以為師矣。」第四，造創新好、二者治葺故壞。第五，樂說樂聽。若無說者，聽何所聽？若無聽者，說為誰說？第六，能難能答，正意在此二人。前之五雙乃為弄引。「善問是汝身，善答即我是。若無汝精問，何得我善解？無我巧答，何得汝能問？」自有人身左能右能，口辯通敏能主能客；自有人專一無二。昔莊嚴門下有淨藏法師，唯能並難，答無所以。有善解釋不便論義者，即彭城正公云云。今推前六雙，成後五句。能問能答能聽能說，成後轉于法輪句。造新修故，成枯十二因緣大樹。取有是新、無明是故，不生生是新、世諦死時是故。以新破新名造新，以故破故名修故。作恩念恩成度海句，世恩為他、舟航念恩，自運舟航故成度海句。不作惡悔惡成摧魔幢句，魔以惡為幢，今能倒之，復自能建，故前後相成。歎生善，即初一句；歎滅惡，即後四句。既言因此善問即能轉於無上法輪，寧非生善？後四句復為二：初兩句歎能滅惡、次兩句歎摧惡。於初二句又二：上句即歎枯十二因緣大樹者，十二因緣枝條森聳喻之大樹，今枯此樹，使華葉不生。能度無邊生死大海者，即此生死海中勇浪可畏，今得度此永免驚懼，無復可畏。能與魔王共戰者，此明其始。摧波旬所立勝幢者，此明其終，舉終攝始。外國亦戰得勝樹幢麾，不勝者即倒此麾，今魔戰敗即摧其幢。

> 爾時世尊のくだりで、仏の答えは二つに分かれます。最初に称賛し、次に回答する。最初はさらに二つに分かれ、初めに質問を称賛し、次に五つの句を挙げてその功徳をたたえます。初めの六つの二組の人は、大衆を目覚めさせ、理解させることができることを称賛され、現世の疑いを除くだけでなく、未来にも滞りがないようにする。これはまことに稀有であり、故に称賛されます。 最初の二組は、一つはもともと悪を造らない人、もう一つは造った後に悔いる人で、これは前述の二人の勇士です。第二の組は恩を知り恩に報いること。他者が私に恩を与えれば、私もまた報いる必要があります。第三の組は、新しい教えを聴き受ける人と、古いものを温めて忘れない人。書に「温めて新しきを知れば、師となるべし」とあります。第四の組は、新しい良いものを創造する人と、古いものを修理して整える人。第五の組は、喜んで説く人と喜んで聴く人。説く者がいなければ、聴く者は何を聴くのでしょう？聴く者がいなければ、説く者は誰のために説くのでしょう？第六の組は、難問を出す人と答える人で、真意はこの二組にあります。前述の五組はむしろ導入です。 「よく問うのはあなたの役割、よく答えるのは私の役割。あなたの精緻な問いがなければ、どうして私の優れた解説があるでしょう？私の巧みな答えがなければ、どうしてあなたの問いがあるでしょう？」自ら左右両方をこなせる人、口が達者で主客両方を務める人もいれば、一つのことだけに専念する人もいます。かつて荘厳門下に浄蔵法師という人がおり、難問を出すことばかり得意で、答えは不得手でした。逆に解説が上手で論議が不得手な人もおり、それが彭城の正公です<note>云云</note>。 今、前述の六組を手がかりに、後の五つの句を完成させます。問う・答える・聴く・説く能力が、後の「法輪を転ずる」句を形作ります。新しく造り古いものを修めることで「十二因縁の大樹を枯らす」句を形作ります。取るは新しい無明、無明は古いもの。生まれないことが新しく、世諦の死時が古い。新しいものを新しく破ることを「造新」といい、古いものを古く破ることを「修故」といいます。恩を施し恩を思うことで「海を渡る」句を形作ります。世の恩は他者のための船、恩を思うことは自ら船を操ること、故に「海を渡る」句が成ります。悪を造らず悪を悔いることで「魔の幢を摧く」句を形作ります。魔は悪を幢としますが、今それを倒し、自らも立てることができる。故に前後が呼応します。 善を生み出すことを称賛するのが初めの一句、悪を滅ぼすことを称賛するのが後の四句。「この善問により、すなわち無上の法輪を転ずることができる」と言うのは、善を生むことではないでしょうか？後の四句はさらに二つに分かれ、初めの二句は悪を滅ぼすことを称賛し、後の二句は悪を摧くことを称賛します。初めの二句のうち、上の句は「十二因縁の大樹を枯らす」を称賛します。十二因縁は枝葉が茂り、大樹に例えられます。今この樹を枯らし、花や葉を生じさせません。「無辺の生死の大海を渡る」は、この生死の海の激しい波が恐ろしい中、今それを渡り、永遠に怖れから免れ、恐れることはありません。「魔王と共に戦う」は、その始まりを示し、「波旬の立てた勝幢を摧く」は、その終わりを示し、終わりをもって始まりを包括します。外国でも戦いに勝てば幢や旗を立て、負ければこれを倒します。今、魔が戦いに敗れれば、その幢を摧くのです。

次就答中，次第答三雙六問。初答前舉三病二問，次答舉初功德兩問，後答此中兩問。但答前兩問不次第答，直解三種病人竟即是答第一兩問了。依理只應解於初後二種病人，而今復解中間者，不用此為答，只為中間舉來。今還次第為釋，彼不舉來，今亦不解。「一闡名信」下，二、答第三難。前言若不斷佛性亦應不斷善根，只善根即是佛性、佛性即是善根。今答佛性中道，不同善根。何者？一闡名信、提名不具，佛性非信亦復非具，云何可斷？佛性非善非惡，闡提但能斷善，云何斷性？其中諸句例爾。古來云：闡提具含眾惡。不知的翻。唯河西翻為極欲，言極惡欲之邊。此乃於總惡之內取一事為翻。例如涅槃名含眾德，亦無的翻，而翻為滅度者，亦是總中取此一事為翻。又善法者，名生已得。依數人義，善有二種：一生得善、二方便善。世間慈孝名生得善，闡提亦無，故言已斷。「如汝所言」下，答第四難，前難云何不遮墮？今牒問作答，明闡提佛性非有非無，即事求而頗得故非有，而有是理故非無。又善巧方便則非無，無巧方便則非有。故舉箜篌，喻此有無，先譬、次合。初譬中所言王者譬眾生，箜篌譬眾生身，音聲譬佛性，大臣譬佛菩薩能善說之，斷絃譬就此身盡命終，皮木坼裂譬五根四大求之頗得，即無方便故非有也。合譬者，佛性無有住處即非有，以善方便故可得見即是非無。「如汝所說若乳無酪」下，第三、答第五第六兩難，明應有定性。答意非定有性，因緣故有。若乳定有酪，即應自生，不假頗求樹汁；既其假緣，當知因中無果。然前作六難，今但舉一訶者，何也？答：與奪適時，皆為利益。正言此難是計性義，與外道同，寄正訶邪，云是癡人，實不訶德王。此答即兼答第五，歎善自足何須說十二部經。今明既無定性，因緣而有，是故須說十二為緣。次以懺悔明直心者，若有失不悔則非直心，犯愆發露乃名直心。文為三：初「設有過」下，正懺悔；次「於師同學」下，即是發露；三「慚愧自責」下，即斷相續心。結，如文。

> 先に挙げた問いに答えるにあたり、三つと六つの問いを順に解決していく。まず初めに挙げた三つの病と二つの問いに答え、次に最初の功徳に関する二つの問いに答え、最後にこの中の二つの問いに答える。ただし、初めの二つの問いに答える際は順序通りではなく、まず三種類の病人を直接説明することで、第一の二つの問いに答えたことになる。本来は最初と最後の二種類の病人についてのみ解釈すれば良いのだが、ここで真ん中のものを説明するのは、それが答えのためではなく、単に提示されたからである。今ここで順を追って説明するのは、もし提示されなければ説明しなかったであろうからである。 「一闡名信」から下は、第三の難問に答える部分である。先に「もし仏性を断てないのなら、善根も断てないはずだ」と述べたが、これは善根がすなわち仏性であり、仏性がすなわち善根であるからである。しかし今ここで答えよう。仏性は中道であり、善根とは同じではない。なぜか。一闡は信と訳され、提は不具と訳される。仏性は信でもなく不具でもない。どうして断つことができようか。仏性は善でも悪でもない。闡提は善を断つことができるだけで、どうして性を断つことができようか。他の句も全てこれに準じる。 古来より「闡提はあらゆる悪を具えている」と言われるが、正確な翻訳は不明である。ただ、河西では「極欲」と翻訳し、「極めて悪欲の極み」という意味である。これは全ての悪の中から一事を取り上げて翻訳したものである。例えば「涅槃」という言葉は多くの徳を含むが、正確な翻訳はなく、「滅度」と翻訳するのも、全体の中から一事を取り上げたに過ぎない。また、善法とは「生まれながらにして得るもの」という意味である。数人の教えによれば、善には二種類ある。一つは生得善、もう一つは方便善である。世間の慈悲や孝行は生得善と呼ばれる。闡提にはこれさえもないので、「すでに断った」と言うのである。 「汝の言うが如く」から下は、第四の難問に答える部分である。先に「なぜ堕ちることを防がないのか」という難問があった。今、その問いを取り上げて答えを述べる。闡提の仏性は有でもなく無でもないことを明らかにする。すなわち、事実に即して求めれば得られないので非有であり、道理として存在するので非無である。また、善巧方便があれば非無であり、巧方便がなければ非有である。そこで箜篌を例えに挙げて、この有無を譬える。先に譬え、次にそれを関連づける。初めの譬えの中で、王は衆生を譬え、箜篌は衆生の身体を譬え、音声は仏性を譬え、大臣は仏や菩薩が巧みに説くことを譬え、弦を断つことはこの身体が命を終えることを譬え、皮や木が裂けることは五根や四大が求めても得られないことを譬える。すなわち、方便がなければ非有であるということだ。関連づけの部分では、仏性は住む場所がないので非有であり、善巧方便によって見ることができるので非無であると述べる。 「汝の説く如く、もし乳に酪が無いならば」から下は、第三に第五と第六の二つの難問に答える部分であり、定まった性質があるべきだという主張を明らかにする。答えの意図は、定まった性質があるわけではなく、因縁によって存在するということである。もし乳に酪が定まって存在するならば、自ずから生じるはずであり、わざわざ他の木の汁を借りる必要はない。因縁に頼るということは、因の中に果が無いことを知るべきである。しかし、先に六つの難問を挙げたのに、今は一つだけを取り上げて問い詰めるのはなぜか。答えは、時宜に応じて与えたり奪ったりするのは、全て利益のためである。この難問は性質を計る考え方であり、外道と同じである。正しい立場から邪を問い詰め、「これは愚か者である」と言うのであって、実際に徳王を非難するわけではない。この答えは第五の難問にも兼ねて答えており、善を讃えて自ら満足するならば、なぜ十二部経を説く必要があるのかという疑問に応える。今ここで明らかにするのは、定まった性質はなく、因縁によって存在するので、十二因縁を説く必要があるということである。 次に、懺悔によって直心を明らかにする。もし過ちがあっても悔いなければ直心ではない。過ちを犯したならば隠さずに告白することを直心という。文章は三つに分かれる。初めに「もし過ちがあれば」から下は、正しく懺悔する部分。次に「師や同学に対して」から下は、過ちを告白する部分。三に「慚愧し自ら責める」から下は、悪を繰り返す心を断つ部分。結びは、文の通りである。

「云何修戒」下，第三釋戒，文為二：一離惡戒，即牛狗等，並取其相而為護持。外道得通者，見牛狗等死後生天，便學彼行望得生天；餘皆例爾。次得善戒，如文。

> 「どのように戒を修するのか」という問いの下、第三番目に戒について解説します。ここでは二つの項目に分かれます。第一に、悪しき戒から離れることです。それは牛や犬などの戒めを指し、それらの姿形を取り入れて守り行うことです。外道で神通力を得た者たちは、牛や犬などが死んだ後に天に生まれるのを見て、その行いを真似て天に生まれようと望みます。その他の例もすべてこれに準じます。次に、善き戒を得ることについては、本文の通りです。

「云何菩薩親近」下，第四釋善友，為四：一辨明是、二辨非、三證非、四證是。初明是，為二：一菩薩是、二如來是。「剎多見佛得生天」者，二解。數義：必須上定乃得生天，今見佛力發昔修定，故得生天。二云：但令伏下界惡，隨有散善皆得生天。「雖有舍利」下，第二明非。既未識機，不能稱緣，是故云非。如來稱緣，知病識藥，是故名是。「我昔住於」下，第三證非。觀白骨者即背捨禪，數息即根本禪。舊云：金師子善取火色，故應教數息。今明不爾，金師之子善解調椎，宜扶其習，故教數息。私云：準《莊嚴論》云「善解韛囊，善知息相。澣衣之人，善取淨相，故教骨觀。」今明不爾，澣人厭穢，作背捨易。「若使眾生」下，第四證是，如文。

> 「では、菩薩が善き友（善知識）に親しむとはどのようなことか」という教えの、第四番目の「善き友（善知識）」についての解説には、四つの区分があります。第一に、善き友とは何かを明らかにする、第二に、善き友でないものを明らかにする、第三に、善き友でないことの証拠を示す、第四に、善き友であることの証拠を示す、の四つです。 初めに、善き友であることを明らかにする部分は、さらに二つに分かれます。一つは菩薩が善き友である場合、もう一つは如来（仏）が善き友である場合です。 「浄土をいくつも見て、仏に遇い、天に生まれることができる」という一節については、二つの解釈があります。 一つの解釈は、本来は高い禅定の境地に達して初めて天に生まれることができるが、ここでは仏の力によって過去に修めた禅定が発現し、その結果として天に生まれることができる、というものです。 もう一つの解釈は、低い世界の悪を抑えさえすれば、散乱した善行であっても、すべて天に生まれる因となりうる、というものです。 「舎利（遺骨）があったとしても」以下の部分は、第二の「善き友でないものを明らかにする」段階です。相手の機根（能力や性質）をまだ見極めておらず、その縁（状況）に適切に応じられないため、善き友ではないと言われています。これに対して如来は、相手の機根にぴったりと合い、病（苦しみの原因）を知り、薬（教え）を適切に処方するため、善き友であると言われています。 「私はかつて…に住していた」以下の部分は、第三の「善き友でないことの証拠を示す」段階です。白骨を観じる修行（白骨観）は不浄観や背捨禅（八背捨）に相当し、数息観（呼吸を数える禅定）は根本的な禅定に相当します。昔の説では、「金細工師の子は火の色（金の焼け具合）を見極めることが得意なので、数息観を教えるべきである」とされていました。しかし、ここではそうではないと説かれています。金細工師の子はふいご（皮囊）の扱いに長けているため、その習いに沿って数息観を教えたのです。 私（智顗）が私見を述べるならば、『荘厳論（大乗荘厳経論）』に「皮囊（ふいご）を巧みに扱う者は呼吸の状態をよく理解するので、数息観を教える。衣服を洗う者は清らかな状態をよく理解するので、骨観（白骨観）を教える」とあります。しかし、ここではそうではないと説かれています。衣服を洗う人は汚れを厭い、清らかな状態に心を向ける性質があるため、背捨禅（不浄を捨てる禅定）の修行が最も容易だからです。 「もし、すべての生きとし生けるものが…」以下の部分は、第四の「善き友であることの証拠を示す」段階です。本文に記されている通りです。

「云何具足多聞」下，釋第五章，文為五：前一就文言、後四就義理。十二文多而義奢，佛略文少而義要，義要故是多聞。又除十二唯此涅槃者，不言涅槃之理出十二外，正言十二文言浩博，除廣就略其理存焉，即是多聞，何必在言？故復除全體但取四偈，又除四偈但取常住，復除常住取寂默，故知損之又損遂至無為，但貴其理以為多聞，不取博言而為多聞。

> 「多聞を具足するとは何か」という下で、第五章を釈しています。文は五つに分かれます。最初の一つは言葉について述べ、後の四つは義理について述べています。 十二部経は言葉が多くて義理が広いのに対し、仏は言葉を簡略にし、義理を要約しました。義理が要約されているからこそ、それが多聞なのです。また、十二部経を除いてこの涅槃経だけを取るという意味ではなく、涅槃の理が十二部経の外にあると言っているのではありません。正確には、十二部経の言葉は広大であるため、その広いところを除いて簡略なところに帰すれば、その理がそこに存するのです。これこそが多聞であり、必ずしも言葉にある必要はありません。 そこでさらに、全体を除いて四つの偈だけを取り、また四つの偈を除いて「常住」だけを取り、さらに「常住」を除いて「寂滅」を取るのです。これによって、減らしに減らしてついには無為に至ることが分かります。大切なのは、その理を尊んで多聞とすることであり、言葉の多さを取って多聞とするのではないのです。

「次善男子若有」下，第三稱歎，又二：一法說歎、二譬說。歎法說為二：一唱三章門、二解釋。解釋為兩：一釋三事、二不存著，如文。譬為三：初為難施作譬，亦有合。次為難忍難作作譬，亦有合。三為無著作譬，有法、譬、合。

> 次に「善男子よ、もし…があれば」という文章の下、第三に称え讃える部分があります。これにはさらに二つの区分があります。一つは法（道理）による説明での称讃、もう一つは譬えによる説明です。 法による説明での称讃はさらに二つに分かれます。第一に三つの章（教えの要点）を掲げ、第二にそれを解説します。 解説は二つの部分から成ります。第一に三つの事柄を説明し、第二に執着しないこと（不存著）を述べます。これは本文の通りです。 譬えによる説明は三つに分かれます。第一に、施すことが難しいことの譬えを示し、それに対する合わせ（説明の統合）もあります。第二に、忍耐し難く、行い難いことの譬えを示し、これにも合わせがあります。第三に、執着しないこと（無著）の譬えを示し、ここには教え（法）、譬え、そしてその合わせがあります。

「爾時光明」下，第二論義，兩番問答。初問又二：先兩定、次兩難。先兩定者，一定自空、二定空空。若性自是空，此結初定為一難。若性自不空，此結後定為一難。「善男子」下，答，為二：先答初定者，性本自空。「何以故」下，明一切法不可得故。既不可得，豈不是空？次答後定，亦須修空然後見空。而其本性理本是空，但不能見，要修於空方乃見空。既答兩定，二難自遣。答初定中為三：一略標；次「何以故」下，廣釋；三「相似相續」下，舉得失致結，於中又三：初舉凡夫失、次菩薩得、三更訶凡夫失。「善男子一切諸法」下，答第二定。意明雖復本空，復須修習然後乃見。有無常性故滅能滅之，有空性故修空得空，當知本空。具有法、譬、合。譬有二：初「如一切法」下，舉內法為譬。「如鹽」下，舉外法為譬。「菩薩修空」下，合也。

> 「爾の時に光明」より下は、第二の論義であり、二度の問答がある。最初の問いはさらに二つに分かれる。まず二つの決定、次に二つの難問である。先の二つの決定とは、第一に自らの空を決定し、第二に空空を決定することである。 もし性質が自ずから空であるならば、これは最初の決定を結んで一つの難問とする。もし性質が自ずから空でないならば、これは後の決定を結んで一つの難問とする。「善男子」より下は、答えであり、二つに分かれる。まず最初の決定に答えるならば、性質は元より本来空である。「何以故」より下は、一切の法は得ることができないことを明かす。すでに得ることができないならば、どうして空でないことがあろうか。次に後の決定に答えるならば、また修行によって空を修めて、その後、空を見る必要がある。その本性の道理は本来空であるが、それを観ることができないため、空を修行することによって、初めて空を見るのである。すでに二つの決定に答えたことで、二つの難問は自然と消え去る。 最初の決定に答える中で、三つに分かれる。第一に略して標示する。第二に「何以故」より下、広く解釈する。第三に「相似相續」より下、得失を挙げて結びとする。その中でまた三つに分かれる。初めに凡夫の失を挙げ、次に菩薩の得を示し、三つ目にさらに凡夫の失を叱る。 「善男子一切諸法」より下は、第二の決定に答える。意味するところは、元より空であるとはいえ、さらに修習して、その後、見るのである。無常の性があるゆえに、滅はそれを滅ぼすことができる。空の性があるゆえに、空を修めて空を得る。まさに知るべきである、本来空であることを。法・譬喻・まとめを具えている。譬喻には二つある。初めに「如一切法」より下、内法を挙げて譬喻とする。「如鹽」より下、外法を挙げて譬喻とする。「菩薩修空」より下、まとめである。

「光明」下，第二番論義。還從鹽譬生問，為二：一問觀空是倒。何者？本來不空而修空見空，是於不空見空，寧非顛倒？例如實常而見無常、無常見常，皆是顛倒。亦有譬、合，還轉鹽譬來此為譬。二問空既是無，為何所見？若有可見即非是空，若無可見不應言見。佛答兩問，為二章：答初為三：一總標、二廣釋、三重結。初總標中有法、譬、合。佛答意云：見不空法能令其空，而非顛倒。但就理論無非空者，而於眾生乃是不空，只滅其謂情，故云能令不空作空，是故非倒。「善男子貪是有性」下，第二廣釋，又二：先廣釋非空作空、後廣釋非是顛倒。初文云非空者，於緣是有。又二：一明貪欲於其是有、次明色性於其是有。若不是有，云何貪著？今言非空使空者，此法皆空。「以是義故」下，第二廣釋非倒，又二：初標非倒。「一切凡夫」下，正是廣釋，又二：一不生貪相故非倒、次見佛性故非倒。問：入初地時已能見空，此文云住九地者見法有性，其義云何？解云：約二忍明義。初地至十地是無生忍，唯佛地是寂滅忍。今約二忍，九地望佛寂滅，則見法有性，雖比於佛非究竟空，亦分有空。故《華嚴》云「七地菩薩能入寂滅」，寂滅即空，赴緣異說不應迷執。「諸佛菩薩」下，第三重結。佛亦有時說有說無，當知為緣，故今皆說以為空也。「善男子汝言見空」下，第二答後難，又二：先牒問；「善男子」下，第二正答。正答又二：初正答、次引昔證。初文者，以無見為見，例如般若無知無所不知。「是故我」下，廣引昔證如文。

> 「光明」の下、第二番目の論義。ここでは、まず「塩の譬え」から問いを起こす。問いは二つある。 第一の問い：空を観じることは顛倒（転倒）ではないのか。なぜかと言えば、本来は空ではないものを、修行によって空と見なし、空でないものに空を見るのだから、これは顛倒ではないのか。たとえば、実際には常なるものを無常と見たり、無常なるものを常と見るのは、すべて顛倒である。ここにも譬えとその説明（合法）がある。先ほどの塩の譬えをそのまま用いて、このことを譬えるのである。 第二の問い：空とは「無」であるとすれば、何を見るというのか。もし見るものがあるなら、それは空ではない。もし見るものがないなら、「見る」と言うべきではない。 仏はこの二つの問いに答える。その答えは二章に分かれる。 第一の答えは三つに分かれる。一に総標（全体の指摘）、二に広釈（詳しい説明）、三に重結（改めてのまとめ）である。 総標の中には、法（教理）、譬（たとえ）、合（たとえのあてはめ）がある。 仏の答えの意図はこうである。「空でない法を見て、それを空にさせること。これは顛倒ではない。理論上は空でないものは何もないが、衆生にとっては空でない（実在する）ように見える。ただその執着の心（謂情）を滅するだけであり、だから『空でないものを空にする』と言うのであって、ゆえに顛倒ではない」と。 「善男子、貪（むさぼり）は有る性である」以下の文から、第二の広釈に入る。これもまた二つに分かれる。 まず、「空でないものを空にする」ことを広く説明する。 次に、「顛倒ではない」ことを広く説明する。 最初の文で「空でない」とは、縁（条件）によっては有る（存在する）ということである。これもまた二つに分かれる。 一つは、貪欲が、縁によっては有る（存在する）こと。 もう一つは、色の本性（法の性質）が、縁によっては有る（存在する）ことである。 もし有るのでなければ、どうして貪り執着するだろうか。今、「空でないものを空にする」と言うのは、これらの法がすべて空であることを示している。 「この義をもって」以下、第二の広釈で顛倒ではないことを説く。これもまた二つに分かれる。 まず、「顛倒ではない」と標示する。 「一切の凡夫」以下が、実際の広い説明である。これもまた二つに分かれる。 一に、貪る相を生じないから顛倒ではない。 二に、仏性を見るから顛倒ではない。 問う：初地（第一の菩薩の位）に入れば、すでに空を見ることができる。ところがこの文では、九地の者が法に有る性（存在性）を見ると言う。これはどういう意味か。 答える：二つの忍（智慧の境地）によって意味を明かす。 初地から十地までは無生忍（無生の智慧）であり、仏地のみが寂滅忍（涅槃の智慧）である。 今、この二つの忍について言えば、九地から仏の寂滅を見るとき、法に有る性があるように見える。仏と比べれば究極の空ではないが、部分的な空はある。 ゆえに『華厳経』には「七地の菩薩は寂滅に入ることができる」とある。寂滅とは空である。縁に応じて説き方が異なるので、これに執着してはならない。 「諸仏菩薩」以下、第三の重結（改めてのまとめ）である。 仏も時に「有」と言い、時に「無」と言う。これはすべて、機縁に応じた説法であると知るべきである。だから今ここでは、すべてを「空」と説くのである。 「善男子、汝が空を見るというのは」以下、第二の難問（第二の問い）への答えである。これもまた二つに分かれる。 まず、問いをそのまま掲げる（牒問）。 「善男子」以下、第二の正式な答えである。 正式な答えもまた二つに分かれる。 まず、直接の答え。 次に、昔の教えを引いて証拠とする。 最初の答えとは、「無見をもって見とする」というものである。たとえば般若（智慧）は無知でありながら、すべてを知るようなものである。 「この故に我（仏）は」以下、昔の教えを広く引いて証拠とする。この点は経文の通りである。

次明第十功德，亦先標、次釋。釋中舊用三十七品為體。興皇云：涅槃佛性為體。舊以菩薩行因，道品是因，故以前文為體。興皇云：前諸功德未以涅槃為體，最後義深故取後文為體。問：此中何不用六度而用道品？一解云：但是略耳。一解云：《釋論》云「六度是遠因，道品是近因。」今明不爾，道品攝度、捨覺攝檀，餘皆可見。《婆沙》文中以十一法攝於道品，十一與六名體相當，但餘二念通於諸度。就文為二：初明功德、次論義。初又二：先明道品入涅槃；次簡得失，信者為得、不信者為失。初功德云不聞聞者，常住祕藏即是中道。不聞聞者外道經書毘伽羅論即俗諦，不聞聞十一部經即真諦。三諦一心中不聞而聞，今第十功德亦如是。三十七品即真諦，入大涅槃即中道，為諸眾生分別演說即俗諦。此亦一心三諦，始終不異。若能信者入大涅槃，意謂此解方近於理云云。興皇以最後功德涅槃為體，第九已上皆不如此。此解大失，已如前難。論義為二：一問、二答。答為二：先舉惡人為誡、次舉善人為勸。惡人為三：先法說；次舉五譬；三還合五譬，先別合、後總合。初譬栴檀貿凡木者，二車並載，一炭一檀。值冬炭，售檀者遂乃燒香為炭，雖得易售而無所直。持戒者貧寒饑渴，見破戒者富𥈇飲啖，即毀於戒甘嗜飲食，所利無幾所失者大。次譬中云金易鍮石者，昔人乘馬腰著金帶，見乘驢者著驢絛帶，即便問之：「市中何物貴？」彼即答云：「驢絛甚貴。」其即易之。人為色聲而棄正法，其猶如是。餘三譬，如文。別合，如文。「善男子當爾之時」下，二舉善人。

> 次に第十の功徳を明かします。まず標を示し、次に解釈します。解釈の中では、従来は三十七道品を体としていました。興皇は「涅槃・仏性を体とする」と述べました。従来の説では、菩薩が修行の因をなすこと、道品が因であることから、前の文を体としていました。興皇は「前の諸功徳は未だ涅槃を体としておらず、最後の義が深いため、後の文を体とする」と述べました。 問う：「ここでなぜ六度を用いず、道品を用いるのか。」 一つの解釈：「ただ省略したに過ぎない。」 別の解釈：「『釈論』に『六度は遠因、道品は近因』とある。」 今ここではそうではないと明かす。道品は六度を含み、捨覚は檀那を含む。残りもすべて見て取れる。『婆沙』の文では十一法をもって道品を摂する。十一と六は名と体が相当するが、残りの二念は諸度を通じる。 文を二つに分ける。初めに功徳を明かし、次に論義を行う。初めはさらに二つ。先に道品が涅槃に入ることを明かし、次に得失を簡別する。信じる者は得、信じない者は失である。 初めの功徳に「聞かざるを聞く」というのは、常住の秘蔵はすなわち中道である。「聞かざるを聞く」とは、外道の経書・毘伽羅論はすなわち俗諦、聞かざるを聞く十一部経はすなわち真諦である。三諦を一心に、聞かざるを聞く。今の第十の功徳もまた同じである。三十七品はすなわち真諦、大涅槃に入るはすなわち中道、諸々の衆生のために分別して説き演ずるはすなわち俗諦。これも一心三諦であり、始終異ならない。もし信じることができれば大涅槃に入る。この解釈がようやく理に近い。<note>云云</note> 興皇は最後の功徳を涅槃を体とし、第九以上はすべてこのようではないとする。この解釈は大きな誤りであり、すでに前のように論難した。 論義は二つ。一に問い、二に答え。答えは二つ。先に悪人を挙げて戒めとし、次に善人を挙げて勧めとする。悪人は三つ。先に法説。次に五つの譬えを挙げる。三に五つの譬えを合わせて、先に別に合わせ、後に総じて合わせる。 初めの譬え、栴檀をもって凡木と貿う。二つの車にともに載せる。一つは炭、一つは檀。冬に炭が値し、檀を持つ者はついに香を焚いて炭とする。得るのに易しく売れても、何の値打ちもない。戒を持つ者は貧しく寒く飢え渇く。破戒の者が富み、飲み食いするのを見て、すなわち戒を破り、飲食を甘んじて嗜好する。得る利益は少なく、失うものは大きい。 次の譬えに「金をもって鍮石と易う」とある。昔、人が馬に乗り、腰に金の帯を着けていた。驢馬に乗る者がいて、驢馬の絛帯を着けているのを見て、すなわち問うた。「市の中で何の物が高価か。」彼がすなわち答えて「驢絛が非常に高価だ」と言った。その人はすなわちそれを易えた。人は色や声のために正法を捨てる。そのようなものである。残りの三つの譬えは、文の如くである。別に合わせることも、文の如くである。 「善男子、当爾之時」以下は、二に善人を挙げる。

次「光明」下領解者，是品中第二領解段，如文。

> 次に、「光明」の下に、理解の文がある。これはこの品において第二番目の理解の段である。本文のとおりである。

三「是名」下，總結。

> 「これを名づく」という言葉の下で、全体をまとめています。