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title: "大般涅槃經疏 · 1"
description: "大般涅槃经疏由隋朝天台宗五祖章安大师灌顶撰述，是注解北本《大般涅槃经》的重要疏钞。灌顶承袭其师智顗思想，依天台教观阐释经义，重点发挥如来常住、众生皆有佛性、一阐提也能成佛等核心教理。该疏系统论述了涅槃境界与佛性思想，融合南北朝佛学成果，是天台宗判教体系的关键著作，对隋唐以后中国佛教思想发展影响深远，被视为研究《大般涅槃经》的权威注疏。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cme55wrcs01cxjo04gc2fonlc"
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### 師子吼品之一上

> 獅子吼の章 その一

諸師咸言：此品譬能問者得名，非為不爾。不一向然。此俱譬能問能答，雙題品目。何者？菩薩與佛皆二莊嚴，下文中有師子王及師子子，若師子子足滿三年則能哮吼。又若能師子吼讚於大悲，能吼無量師子吼。徵文據義，二種雙明，講者因何只作一解？惑者云：題中只稱師子吼菩薩品，云何強作兩種釋之？答：依題則失文，依文不失題，廣能兼略。師子擬王、菩薩擬子，吼通兩處，二義炳然更何所惑？又師字自邊，安匝言師。居左位事理皆匝，則自行圓滿。又師字訓帥，帥帥也。師有他化之能，故知師者擬佛明矣。子者訓資，弟子之禮受稟於師，若從師者日新月益，故知子字者擬菩薩明矣。吼通兩處者，吼是口密，通有六位云云。今明究竟與分吼通兩處，身口意密皆有六位。口密通六，此是世界。𭁏約子者，此從為人。𭁏約吼者，此從對治。𭁏約師者，從第一義。故題具多意。地人呼此品是入證分。開善云：答安樂性問。河西、興皇，同為佛性門。今悉不用。若是入證，入證則無說。若說入證，非菩薩說。若答安樂性問，安樂性問為是誰問，而今以此品答之？若明佛性，佛性誰說，而以此品用目說人？諸說乖舛，故皆不用。今明此品是第四問答涅槃義，是師子子問、是師子王答。若從其文，應言問答佛性義。前章皆稱涅槃，相從稱為涅槃義。涅槃只是佛性，佛性只是涅槃，涅槃名總、佛性名別，總攝於別。

> 諸々の師方は口を揃えて、「この品は、問いを発した者（獅子吼菩薩）にちなんで名づけられたのである」と説く。もちろんそれも間違いではない。しかし、必ずしもそうと決まったわけではない。この品は、問う者と答える者の両方を譬えによって示し、両者を併せて品の題目としているのである。なぜそう言えるのか。 菩薩も仏も、共に二種の荘厳（智慧と福德）を備えている。経文の中には、獅子王と獅子の子の譬えが出てくる。獅子の子であっても、満三年を経れば、吼えることができる。また、獅子吼とは大悲を讃えることであり、無量の獅子吼を吼える者もある。経文を調べ、その意味に照らせば、二つの解釈が明らかに示されているのに、講師たちはなぜ一つの解釈だけをとるのか？ 疑問を抱く者はこう言うだろう。「題目にはただ『獅子吼菩薩品』とあるだけだ。なぜ無理に二通りの解釈をするのか？」 これに答える。題目だけに従えば、経文の意味を見失う。しかし経文に従えば、題目から外れることはない。広い意味は狭い意味を兼ね含むものだ。「獅」の字は獅子王を指し、「子」の字は菩薩を指す。「吼」は両方に通じる。この二つの意味は明白であって、何の迷いも生じない。 さらに「師」という字について考える。この字は自分の側にあり、「匝（めぐる）」の音を添えて「師」と書く。左の位に置けば、事も理も共に円満であり、自己の修行が完成していることを表す。また「師」は「帥（ひきいる）」とも訓じ、統率する者である。「師」には他者を教化する能力がある。ゆえに「師」という字が仏を指すことは明らかである。 「子」は「資（たすける）」と訓じ、弟子として師から教えを受け継ぐ礼を意味する。師に従う者は日々に新しく、月々に進歩する。ゆえに「子」という字が菩薩を指すことは明らかである。 「吼」が両方に通じるとは、吼とは口の秘密（口密）であり、これには六つの位がある<note>云云</note>。今、究竟の位（完全な仏）と分証の位（部分的な悟り）の両方を「吼」で表す。身・口・意の三つの秘密は、それぞれ六つの位を持つ。口の秘密が六位に通じるのは、世界悉檀（世間一般の見解による説明）である。 「子」を中心に解釈するのは、为人悉檀（相手の性質に応じた説明）による。 「吼」を中心に解釈するのは、対治悉檀（相手の欠点を矯正する説明）による。 「師」を中心に解釈するのは、第一義悉檀（最高の真理による説明）による。 ゆえに、この品の題目は多くの意味を含んでいるのである。 地論宗の人々は、この品を「入証分」（悟りに入る部分）と呼ぶ。開善寺の僧は「安楽性（安楽の性質）に関する問いに答えたもの」と解釈する。河西と興皇寺の僧は、共に「仏性を明かす門」とする。しかし、今はこれらの解釈をすべて採用しない。 もし「入証分」であるならば、入証には言葉がないはずだ。「入証」を説くというなら、それは菩薩の説くところではない。もし「安楽性の問い」に答えたものならば、その安楽性の問いとは誰の問いであり、この品がそれに答えたというのか？もし「仏性」を明かすものならば、仏性を説くのは誰であり、この品で説者を指すのにふさわしいのか？これらの説はすべて矛盾しており、よって採用しない。 今、私はこの品が、第四番目の問答として涅槃の意味を明かすものであり、それは獅子の子が問い、獅子王が答える形をとると説く。経文に従えば、「仏性の意味を問答したもの」と言うべきである。しかし前の章がすべて「涅槃」と称しているので、それに従って「涅槃の意味」と呼ぶ。涅槃とはすなわち仏性であり、仏性とはすなわち涅槃である。「涅槃」という名は総称であり、「仏性」という名は別称である。総称は別称を包括する。

就品又為二：初明佛性、後歎經。初文又四：一明佛性、二明中道、三明縛解、四明修道。佛性是基本，由佛性故中當通達，不識故縛、識之則解。欲得解縛，應須修習。初文有問有答。問為四：一勸問、二求問、三許問、四正問。勸問中，先舉諸法門、後正勸。初舉諸法中有六門：一舉三寶、次舉四諦、三舉實諦、四舉四德、五舉五佛性、六舉因果等。有乘無乘是舉了因性。何者？萬善一乘皆屬了因。有性無性是舉果性、果果性。有眾生無眾生是舉正因性。有有無有、有真無真舉境界性。何者？夫二諦是智所緣境，境又生智，故是境界性。有因無因者，𭁏舉因果。一解云：先兩句明習因因果，又三句明報因因果。有作無作是煩惱因，業非煩惱；是善惡業報，是煩惱業果。二解云：上兩句明出世因果，下三句明世間因果。復次舉法門勸者，總論是舉二諦法門，有佛即世諦、無佛即真諦，乃至有報是世諦、無報是真諦。文但二諦，若準恣汝所問，寧只二諦？二門四門等一切諸法，豈止二諦？且通三諦乃至四門。通三諦者，有佛俗、無佛真、非有佛非無佛中道，乃至報亦如是。通二門者，有佛是有門、無佛是空門，乃至有報無報亦如是。若準恣汝所問應有四門，兩門如上，亦有佛亦無佛是兩亦門，非有佛非無佛是雙非門，乃至亦有報亦無報、非有報非無報亦如是。問：佛勸問諸法門，何不依佛所勸而別問佛性？答諸法門雖別，通入佛性。若問佛性，總能攝別。何者？依有乘無乘五句之勸，即是問五種佛性。又依三寶，是問云何為佛性果。依苦集二諦，即問境界佛性。依道滅，即問緣了。依實無實，即問正性。依因果，即問因性、因因性、果性、果果性。依作無作，即是問因性。依業無業，即問緣性。復次依乘無乘，是問云何為佛性體。依報依三寶四諦等，即是問何義故名佛性。依四德，即是問何故名佛性。依有因無因，即問菩薩何眼不了了見。依有果無果，即問佛以何眼能了了見。依有作無作等二句，即問眾生何故不見。依報無報，即問正性。佛有十八條勸，菩薩依此勸門起六種問，同異若此，而人不見。私謂：勸別問別，實稱佛言，但未為得意。總勸別問，收法不遍，未為得意。總勸總問，亦稱佛意，但恐時眾不曉總中之別，故佛別勸而設總問，深得佛旨、時會易曉，故佛別勸而師子吼總問，良由此也。

> まず、この部分を二つに分けます。第一に仏性を明かし、第二に経典を称賛します。第一の文も四つに分かれます。一に仏性を明かし、二に中道を明かし、三に束縛と解放を明かし、四に修行の道を明かします。 仏性は基本です。仏性があるからこそ、中道を理解し通達できるのです。仏性を知らなければ束縛され、知れば解放されます。解放を得たいならば、修行を積むべきです。 最初の文には問いと答えがあります。問いは四つです。一に勧めて問わせ、二に求めて問い、三に許して問い、四に正しく問います。勧めて問わせる部分では、まず諸々の法門を挙げ、その後で直接勧めます。 初めに諸々の法門を挙げる中に六つの門があります。一に三宝を挙げ、二に四諦を挙げ、三に真実の諦を挙げ、四に四つの徳を挙げ、五に五つの仏性を挙げ、六に因果などを挙げます。 「乗がある、乗がない」は、了因の性を挙げています。なぜなら、あらゆる善と一乗はすべて了因に属するからです。 「性がある、性がない」は、果の性と果果の性を挙げています。 「衆生がある、衆生がない」は、正因の性を挙げています。 「有がある、有がない」、「真がある、真がない」は、境界の性を挙げています。なぜなら、二諦は智慧が対象とする境であり、境はまた智慧を生むので、これが境界の性だからです。 「因がある、因がない」は、因果を挙げています。 ある解釈では、最初の二句は習因の因果を明かし、後の三句は報因の因果を明かすとします。 「作がある、作がない」は煩悩の因であり、業は煩悩ではありません。これは善悪の業報であり、煩悩と業の結果です。 別の解釈では、上の二句は世間を超えた因果を明かし、下の三句は世間の因果を明かすとします。 次に、法門を挙げて勧めることについて、総じて言えば、これは二諦の法門を挙げているのです。「仏がいる」は世俗諦、「仏がいない」は真諦です。「報がある」は世俗諦、「報がない」は真諦まで同様です。 文は二諦のみを示していますが、「あなたの問うままに任せる」という基準に従えば、どうして二諦だけでありましょうか。二門、四門など、あらゆる諸法が、二諦だけで済むでしょうか。さらに三諦、さらには四門にも通じます。 三諦に通じるなら、「仏がいる」は俗諦、「仏がいない」は真諦、「仏がいるのでもなく、仏がいないのでもない」は中道であり、報についても同様です。 二門に通じるなら、「仏がいる」は有門、「仏がいない」は空門であり、報の有無についても同様です。 もし「あなたの問うままに任せる」という基準に従えば、四門がなければなりません。上の二門に加えて、「仏がいるのでもあり、いないのでもある」は両亦門、「仏がいるのでもなく、いないのでもない」は双非門であり、「報があるのでもあり、ないのでもある」、「報があるのでもなく、ないのでもない」についても同様です。 問い：仏は諸法の門について問うよう勧めているのに、どうして仏の勧めに従わず、別に仏性について問うのでしょうか？ 答え：諸法の門は個別ではありますが、すべて仏性に通じています。もし仏性について問えば、総体として個別を収めることができるのです。なぜなら、「乗がある、乗がない」という五句の勧めに従うことは、五種の仏性を問うことだからです。また、三宝に従うことは、「何が仏性の果であるか」を問うことです。苦諦と集諦に従うことは、境界佛性を問うことです。道諦と滅諦に従うことは、縁因と了因を問うことです。真と非真に従うことは、正因を問うことです。因果に従うことは、因性、因因性、果性、果果性を問うことです。「作がある、作がない」に従うことは、因性を問うことです。「業がある、業がない」に従うことは、縁性を問うことです。 さらに、「乗がある、乗がない」に従うことは、「何が仏性の本体か」を問うことです。「報」や「三宝」「四諦」などに従うことは、「どのような意味で仏性と名付けるのか」を問うことです。「四つの徳」に従うことは、「なぜ仏性と名付けるのか」を問うことです。「因がある、因がない」に従うことは、「菩薩はどのような眼で明らかに見ることができないのか」を問うことです。「果がある、果がない」に従うことは、「仏はどのような眼で明らかに見ることができるのか」を問うことです。「作がある、作がない」などの二句に従うことは、「衆生はなぜ見ることができないのか」を問うことです。「報がある、報がない」に従うことは、正因を問うことです。 仏は十八の項目で勧められましたが、菩薩はこの勧めの門に従って六種の問いを起こしました。その異同はこのようなものですが、人々はそれを見ません。 私（註釈者）が思うに、勧めが個別で問いも個別であることは、確かに仏の言葉にかなっていますが、まだ意を得たとは言えません。総合的な勧めに対して個別に問うのは、法を遍く収めていないので、意を得たとは言えません。総合的な勧めに総合的に問うのも、仏の意にかなっていますが、恐らくは当時の聴衆が総合の中の個別を理解できないことをお考えになり、仏が個別に勧めつつも総合的な問いを立てさせたのです。これは深く仏の意図を得ており、その時の集まりも容易に理解できました。ゆえに仏は個別に勧め、獅子吼菩薩が総合的に問うたのです。まさにこれが理由です。

此從「今恣汝問」下，即是正勸。正勸中有正勸、敦勸佛殷勤令眾得益。

> ここから「今、汝に問うことを恣にせよ」の下は、まさに正当な勧めです。正当な勧めの中には、直接の勧めと、念を押す勧めがあり、仏が切に人々に利益を得させようとされる様子が示されています。

「爾時會中」下，即是第二求問，先經家敘、次正發言。「歛」字亦為「撿」字，皆是恭敬之貌。次正發言。「爾時佛告」下，即是第三許問，先勸供養、次正許。初勸中三：先正勸、次釋、三結。初勸供中備勸三業，尊重是意、讚歎是口、迎送是身。「所以者何」下，二釋勸，文有法、譬、合。法中先明過去德、次明現在德。「善男子如師子」下，譬說，又二：先為佛作譬、次為菩薩作譬。佛譬中，先譬法身、次譬應迹。法身又為三：先總、次別、後結。初一句總譬。「自知身力」下五句別譬。諸德身即六度。力即十力。牙齒即智慧，斷截煩惱。四足即四如意。地即尸羅。巖穴即禪定。境尾即大悲大悲。俯救如尾下垂。聲即八音說法。三「若有能具」下，總結。「晨朝出穴」下，二明應身方便，又三：一正應，晨朝是暗終明始，譬惡滅善生之機，而能應之。次出穴，即是從法身起，頻伸為滅惡、欠呿為生善、四望即四無閡、發聲即說法，有十一事。三「一切禽獸」下，即是眾生得道。水性譬凡夫愛染，陸行譬二乘高原，飛譬降眾魔，香象譬制外道。「如彼野干」下，第二為菩薩作譬。野干者，先舉非、次明是。三年譬三行，然下合文於五行中略說此三。又梵行是化他。化他中，同其斷惑是病行、同其生善是嬰兒行，梵行兼之故不具說。「如來正覺」下，合譬，初合佛譬、次合菩薩譬。初文二：先合妙本為眾生、次合應迹。合初小不次第，備合十一事。合前欲壞實非師子詐作師子，合云為諸眾生而師子吼。前文云欲試身力，合云示眾十力云云。從「聖行」下，第二合應，但不合晨朝。「師子吼者」下，第三合前眾生得益。前有四句，今合直言決定說，所以降魔制外，兼釋師子吼義。次「聲聞緣覺」下，合菩薩譬，亦前合舉非、次合明是，如文。開譬合譬明佛、菩薩，二義宛然，豈可單釋品耶？「諸善男子」下，第三結勸供養。

> 「爾时会中」とは、第二の問いを求める部分である。まず経家が前置きを述べ、次に正式に発言する。「歛」の字は「撿」の字とも書き、いずれも恭敬の様子を表す。次に正式に発言する。「爾時佛告」からは、第三の問いを許す部分である。まず供養を勧め、次に正式に許す。初めの勧めには三つの段階がある。まず正式に勧め、次に説明し、三に結びとする。初めの供養を勧める部分では、三業すべてを勧めている。尊重は意業、讚歎は口業、迎送は身業である。「所以者何」からは、第二の勧めの説明である。本文には法・譬・合がある。法においては、まず過去の功徳を明かし、次に現在の功徳を明かす。「善男子如師子」からは譬えの説明で、さらに二つに分かれる。まず仏の譬えを説き、次に菩薩の譬えを説く。仏の譬えでは、まず法身の譬えを説き、次に応迹の譬えを説く。法身の譬えはさらに三つに分かれる。まず総説、次に別説、後に結びである。初めの一句は総じて譬える。「自知身力」からの五句は別々に譬える。諸々の功徳の身とは六波羅蜜である。力とは十力である。牙歯とは智慧であり、煩悩を断ち切る。四足とは四如意足である。地とは尸羅（戒）である。巌穴とは禅定である。境尾とは大悲である。低く俯いて救うことは尾を垂らすようなものである。声とは八音による説法である。「若有能具」からは、第三の総括である。「晨朝出穴」からは、第二の応身の方便である。さらに三つに分かれる。一に正しく応じる。晨朝は闇が終わり明かりが始まる時であり、悪が滅し善が生じる機縁を譬え、それに応じることができる。次に「出穴」は法身から起こることを譬える。頻伸は悪を滅するため、欠呿は善を生じるため、四望は四無碍を表し、発声は説法を表す。ここに十一の事がある。「一切禽獸」からは、第三に衆生が道を得ることを説く。水性は凡夫の愛染を譬え、陸行は二乗の高原を譬え、飛ぶことは衆魔を降すこと、香象は外道を制することを譬える。「如彼野干」からは、第二に菩薩のための譬えである。野干とは、まず否定し、次に肯定する。三年とは三行を譬える。下の合わせた文では五行の中からこの三つを略説する。また梵行は他者を教化することである。他者を教化する中で、彼らの惑を断つことは病行、彼らに善を生じさせることは嬰児行であり、梵行はこれらを含むため、特に説かない。「如来正觉」からは、譬えを合わせる。初めに仏の譬えを合わせ、次に菩薩の譬えを合わせる。初めの文は二つに分かれる。まず妙本が衆生のためにあることを合わせ、次に応迹を合わせる。初めの部分は小乗が順序正しくないことを合わせ、十一の事すべてを合わせる。前に「実の師子ではないのに、師子と偽る」ことを壊そうとすることを合わせ、ここでは「諸々の衆生のために師子吼する」と合わせる。前の文では「身の力を試みようとする」とあり、ここでは「衆生に十力を示す」と合わせる<note>云云</note>。「聖行」からは、第二に応を合わせる。ただし晨朝は合わせない。「師子吼者」からは、第三に前の衆生の利益を得ることを合わせる。前には四句あったが、今は合わせて「決定して説く」と直言する。これによって魔を降し外道を制することを示し、師子吼の義も兼ねて説明する。次に「声聞縁覚」からは、菩薩の譬えを合わせる。これも前に否定を挙げ、次に肯定を挙げて合わせる。本文の通りである。開譬と合譬によって仏・菩薩を明かす、この二つの義は明らかである。どうしてこの品だけを説明できようか。「諸善男子」からは、第三に供養を勧める結びである。

「爾時世尊」下，二正是許問。

> その時、世尊は質問を許されました。

「師子吼白佛」下，第四正問。凡發六問，但為兩意：前三問問法、後三問問人。初三問者，舊解：初一問果性、次問因性、後雙問因果性。觀師云：此與文不相應，直依文者，初問佛性體、次問佛性義、後問佛性名。河西意亦爾。今將後人來問前法，初問理佛性體、次問分佛性義、後問究竟佛性名。「若一切眾生」下，問見不見人。初問，問不見性人；後兩問，問見性人。於中又二：初問何法有了不了、次問何眼有了不了。法據性體，眼約性用。佛答為兩：初歎問、次正答。歎問又兩：初歎、次論義。初歎又二：初歎二莊嚴、次歎解六義。汝自解六，為他故問。歎六義中，歎初後各二，中兩則略。「師子吼」下，第二論義，兩番問答。初問如文。答中為四：前三就勝劣義解，智莊嚴勝於福德；後一就平等解。有云：初番以空解為智慧、有解為福德。十地為智、五度為福，直言般若即是有中智慧，故屬福德；若識波羅蜜即是空解，屬智慧。次番又取九住已還為福德，十住及佛屬智慧。後以果地為智慧，因中為福德。此就法體相望，如此勝劣。若此土則福勝慧，若淨土慧勝福。令樹出衣食，但企尚智慧，故言慧勝耳。篤論，具足者善也。今明三番，應約三教而分別之。十地發真破無明故是智慧者，此別教意。十住菩薩與佛同為智慧者，通教意。因中為福果上為智者，六度因中都不斷惑故是福德，佛斷惑故是智慧。而文云常住者，此非全是六度菩薩。若消此文，應云利根人於三藏中宜聞常住，聞即得解，如初轉法輪時八萬天子得無生忍。最下既然，例餘亦爾。乃是密教意，但差別不定，不可執一。「汝今具足」下，就平等答，故云「汝之與我各具二莊嚴，故能問能答。」寧非平等無差別義？今謂此釋似約圓教。

> 「師子吼が仏に白す」の下、第四の正しい問いである。計六つの問いが発せられるが、ただ二つの意図がある。前三問は法を問い、後三問は人を問う。この前三問について、古来の解釈では、第一問は果の性を問い、次は因の性を問い、後は因果の性を併せ問う。観師は「これは文と対応せず、ただ文に従うならば、初めは仏性の体を問い、次は仏性の義を問い、後は仏性の名を問う」という。河西の意もまた同じである。今、後ろの人をもって前の法を問うとすれば、初めは理の仏性の体を問い、次は分の仏性の義を問い、後は究竟の仏性の名を問う。「もし一切衆生が」の下は、見る人と見ない人を問う。初問は、性を見ない人を問い、後二問は、性を見る人を問う。その中でまた二つに分かれる。初めは、いかなる法に了と不了があるかを問い、次は、いかなる眼に了と不了があるかを問う。法は性の体に拠り、眼は性の用に約する。仏の答えは二つ。初めに問いを称え、次に正しく答える。問いを讃えることまた二つ。初めに二つの荘厳を讃え、次に六つの義を解くことを讃える。「汝自ら六つを解く、他のために問う」と。六義を讃える中で、初めと後ろをそれぞれ二つずつ讃え、中の二つは略す。「師子吼」の下、第二の論義、二回の問答。初問は文の如し。答の中は四つ。前三は勝劣の義により解し、智慧の荘厳は福徳に勝る。後一は平等により解す。ある説では、初番は空解を智慧と為し、有解を福徳と為す。十地を智慧、五度を福と為し、ただ般若と言うのは有の中の智慧ゆえに、福徳に属す。もし波羅蜜を識れば、すなわち空解であり、智慧に属す。次の番はまた九住より已還を福徳と為し、十住及び仏を智慧に属す。後は果地を智慧と為し、因の中を福徳と為す。これは法の体を相望めて、かくの如く勝劣をなす。もし此の土ならば福が慧に勝り、もし浄土ならば慧が福に勝る。樹をして衣食を出ださしめ、ただ智慧を企尚するがゆえに、慧が勝ると言う。篤く論ずれば、具足する者は善なり。今、三番を明かすに、三教に約してこれを分別すべきである。十地が真を発して無明を破するゆえに智慧なりとは、これは別教の意。十住菩薩が仏と同一に智慧なりとは、通教の意。因の中に在りて福、果の上に在りて智とは、六度の因の中に在りて惑を断ぜず、ゆえに福徳なり、仏は惑を断ずるゆえに智慧なり。しかるに文に「常住」と云うは、これは全く六度の菩薩のみにあらず。若しこの文を消するに、利根の人が三蔵の中に在りて常住を聞くに宜しく、聞いて即ち解する、例えば初転法輪の時に八万の天子が無生忍を得るが如し。最下の已に然り、例えて余も亦た爾る。これは乃ち密教の意なり。ただ差別が不定なれば、一つに執すべからず。「汝今具足す」の下、平等をもって答える。故に云う「汝と我と各々二つの荘厳を具足す。故に能く問い能く答える。」平等の差別無き義に非ずや。今、この釋は円教に約すに似る。

「師子吼言」下，第二番問答。問為三：正難、釋難、結過。初正難者，我若二嚴則不應問，佛若二嚴則不應答，以問答非二嚴故。「所以者何」下，釋難，明諸法無有一種二種。「一種二種」下，結過，是凡夫相。佛答，還詶其三：一詶初難。只由具二莊嚴，一能問、二能答。二「若言」下，詶其釋難。只由解一二無一二故，能問一二，能答一二。眾生不解一二無一二，今示其一二，令知無一二，非是一二於一二，乃是無一二之一二，亦是言於無言，非是言於言。「善男子若言」下，詶其結過，翻其前難云云。前云是凡夫相，今云是十住相。先唱生死、涅槃兩章門；次釋一名涅槃，是常，常即無二；次釋二名生死愛無明，過現故為二，二則非一。此之一二，非凡夫相。解為兩：一云正須此語，其云一二是凡夫相，佛言一二非凡夫相。二解云凡夫不知一亦不知二，雖在生死不識生死，若知一二者非凡夫相。今解不爾，一者是常，此大涅槃常，故非凡夫相。二者生死無明與愛，此即二乘涅槃，未除無明沈空之愛，即是生死之二。此二非凡夫。菩薩能知此二此不二，無一二過，則非凡夫。福慧平等是圓教義，今師子吼難此圓義，圓教雙亡無一無二，那忽能問一二能答一二？佛還以圓教雙照答之。良以雙亡一二則能雙照一二，雙照一二即能雙答一二。還以雙照答其釋難，良以一二故能無一二，若無一二何能無一二？又以雙照答其結過。汝言一二是凡夫相？我言一二非凡夫相？雙照一二豈非凡夫相？不作圓教問答，此義難解。

> 「師子吼が言（もう）す」の下、第二番目の問答である。問いは三つから成る：正しく問うこと（正難）、問いを釈明すること（釋難）、過ちをまとめること（結過）である。初めの「正難」とは、もし私が二つの荘厳（智慧と福徳）を備えているなら、問うべきではない。もし仏が二つの荘厳を備えているなら、答えるべきではない。問答はこの二つの荘厳ではないからである。「所以者何（なぜならば）」の下、釋難であり、諸々の法には一種も二種もないことを明かす。「一種二種」の下、結過であり、これは凡夫の相である。 仏の答えは、その三つの問いにそれぞれ応じるものである。一つ目は、初めの難に応じる。ただ二つの荘厳を具えるからこそ、一方は問うことができ、一方は答えることができるのである。二、「若言（もし言うならば）」の下、その釋難に応じる。ただ「一にして二なし、二にして一なし」と理解するからこそ、一や二を問うことができ、一や二に答えることができるのである。衆生は「一にして二なし、二にして一なし」を理解しない。今、その一や二を示して、「一にして二なし」を知らしめるのである。これは一や二を、そのまま一や二として語るのではなく、無一・無二の一や二である。また、言葉で語れないことを言葉で語るのであり、言葉で語れることを言葉で語るのではない。「善男子、若し言わく」の下、その結過に応じて、先の難を裏返す<note>云云</note>。先には「これは凡夫の相である」と言ったが、今は「これは十住の相である」と言う。まず生死と涅槃という二つの門（章門）を掲げる。次に、一を涅槃と解釈し、それは常であり、常は無二であると説く。次に、二を生死の愛と無明と解釈し、これらは過ぎ去ったものと現在のものであるから二となり、二は一ではないと説く。この一と二は凡夫の相ではない。 解釈には二通りある。一つは、まさにこの言葉が必要であるというもので、「一や二は凡夫の相である」と言うのに対し、仏は「一や二は凡夫の相ではない」と言う。二つ目の解釈は、凡夫は一も知らず二も知らず、生死の中にありながら生死を認識しない。もし一や二を知るならば、それは凡夫の相ではないというものである。今の解釈はそうではない。一とは常であり、この大涅槃は常であるから、凡夫の相ではない。二とは生死の無明と愛であり、これはすなわち二乗の涅槃である。無明と空に沈む愛を除いていないので、これは生死の二である。この二は凡夫ではない。菩薩はこの二と、この不二とを知ることができ、一や二の過ちがないならば、凡夫ではない。福と慧の平等は円教の教義である。今、師子吼はこの円義を問い詰める。円教は一も二もともに亡（無）にするのに、どうして一や二を問い、一や二に答えることができようか。仏は、同じく円教の双照によってこれに答える。まさに、一・二を双亡にするからこそ、一・二を双照することができる。双照の一・二であるから、すなわち一・二に双答することができる。また、双照をもってその釋難に答える。まさに一・二があるからこそ、一・二を無にすることができるのである。もし一・二が無ければ、どうして一・二を無にすることができようか。また、双照をもってその結過に答える。あなたは「一や二は凡夫の相である」と言うが、私は「一や二は凡夫の相ではない」と言う。双照の一・二は、どうして凡夫の相であろうか。円教の問答として理解しなければ、この義は理解し難い。

「善男子」下，第二正答五問兼答一問。答初問又二：先牒問誡聽，如文。次「佛性者」下，正答。初問又二：一明佛性體、二簡不見者。初明體又三：一標名、二釋相、三結體。標者，佛性名第一義空，第一義空名為智慧。智慧是有，即空而有、即有而空。空則三諦皆空，一空一切空，乃是第一義空。名智慧者，三諦皆照，一照一切照乃是智慧，當知空有非空非有，即三而一即一而三，即非三非一即空，故盡一切相。即智故照一切境，即非空非智，故云一切中，是故名為第一義空。第一義空名為智慧、名為佛性，如此標名，貴在得意，不可言盡。次「所言空者」下，釋相者為二：先釋空、次釋智。初釋空，則三諦皆空。文云「空者不見空與不空。」不見空者，不見空邊、不見不空，是不見中無邊無中，是第一義空。次釋智，智則三諦皆照。文云「智者見空及與不空。」見空是見邊，見不空是見中。見邊見中，是第一義智慧。若此空智，非前非後、不淺不深，即空即智、即智即空，亦即非空非智而空而智，是為佛性之相。文又釋不空者即是四德，空者即是二邊無有四德。對非顯是，解釋分明。三結體者，佛性名中道。中道之法常恒無變，如文。從「無明覆故」下，第二簡不見者，又二：先簡二邊異故不見、次簡起中道見故不見。初文者，無明所覆，此簡生死有邊，異故不見第一義空，次簡二乘偏證空邊，異故不見第一義空，如文。次從「善男子」去，是簡起中道見故不見。有人解云：兩種不見一種見，而皆言不見者，以隨情故。是義不然，前唱中道見凡有三種，全未見而言見中道者，此乃名同而於名起見，後結以是義故不見佛性，當知三種並不見性。將後驗前，前是唱中道見。凡夫惑心雖作中道想，而因苦果苦，是定苦行，是故不見第一義空。二乘自行勝於凡夫，化他邊劣於菩薩，雖作中道之想，名定苦樂行。二乘偏空，故不見第一義空。菩薩慈悲甘苦如樂，是定樂行，即是偏假，故不見第一義空。如此三種雖同名中道，與上名相違，相違故無圓遍之義，是故不見。「如汝所言」下，正答第二問。舊云：此答因性。觀師云：此具明五性，豈獨因耶？就文為兩：初答第二問、後論義。初答問為二：先牒問、次正答。初具提其問。其問何義？義者，名之所以。有何所以稱為佛性？佛答為三：初總舉圓義、二別舉遍義、三結歎。初總答意者，善得圓旨是其所以。佛是圓人、性是圓法，人法合稱，故言佛性。又一切諸佛是圓人，菩提是圓果，兼得涅槃之果果也。既言果與果果，即知此果從因，因生此果、果從因生。中道者，非因非因因、非果非果果，皆顯現者，悉由佛性為種子，故知此中道即是佛性。佛性既為種子，種子能生兩因兩果；此兩因果又是種子，能顯中道。即是更互以為種子。不作此釋，無奈此文何。通塗雖爾，別說即是佛性以為種子。問：佛性既為四性種子，何獨是於菩提種子？答：特是略出，又是旁正。如十二因緣非無旁義，正發觀智生於菩提，種子義彰。餘之三性，其義則旁。譬如胡瓜，正能發熱，是熱病緣。

> 「善男子」の次に、第二に五つの問いに答え、兼ねて一つの問いに答える。 初めの問いに答えるのがさらに二つに分かれる。まず問いを引用して聞くことを戒める。これは経文の通りである。次に「佛性者」から、正式に答える。 初めの問いはさらに二つに分かれる。一に仏性の体を明かし、二に見ることのできない者を簡別する。 初めに体を明かすのはさらに三つに分かれる。一に名を掲げ、二に相を解き、三に体を結ぶ。 名を掲げるとは、仏性は第一義空と名づけられ、第一義空は智慧と名づけられる。智慧は有である。空でありながら有であり、有でありながら空である。空とは三諦がすべて空であり、一つの空がすべての空であること、これが第一義空である。智慧と名づけられるのは、三諦すべてを照らし、一つの照らしがすべての照らしであること、これが智慧である。知るべきである。空と有は、空でもなく有でもなく、三つでありながら一つ、一つでありながら三つであり、三つでもなく一つでもなく、空であるがゆえにすべての相を尽くす。智慧であるから一切の境を照らし、空でも智慧でもないから、すべては中であると言う。ゆえにこれを第一義空と名づける。第一義空は智慧と名づけられ、仏性と名づけられる。このように名を掲げることは、その意を得ることを貴ぶのであり、言葉で尽くせるものではない。 次に「所言空者」から、相を解く部分は二つに分かれる。先に空を解き、次に智を解く。 初めに空を解くならば、三諦はすべて空である。経文に「空とは空と不空を見ないことである」とある。空を見ないとは、空の辺際を見ず、不空を見ないとは、中の辺際を見ず、辺際も中もないこと、これが第一義空である。 次に智を解くならば、智は三諦すべてを照らす。経文に「智者は空および不空を見る」とある。空を見ることは辺際を見ることであり、不空を見ることは中を見ることである。辺際を見、中を見ること、これが第一義の智慧である。このような空と智は、前でも後でもなく、浅くも深くもなく、空即智、智即空であり、また空でも智でもなく、空であり智である。これが仏性の相である。 経文はさらに不空を解いて、それはすなわち四徳であり、空はすなわち二辺であって四徳はないと説く。対立するものを示すことで顕れるものを明らかにし、解釈は明瞭である。 三に体を結ぶとは、仏性は中道と名づけられる。中道の法は常に恒に変わることなく、経文の通りである。 「無明覆故」から、第二に見ることのできない者を簡別する部分はさらに二つに分かれる。先に二辺が異なるために見えないことを簡別し、次に中道の見解を起こすために見えないことを簡別する。 初めの文では、無明に覆われている。これは生死の有辺を簡別し、異なるために第一義空を見ないことである。次に二乗が偏って空辺を証することを簡別し、異なるために第一義空を見ないことである。経文の通りである。 次に「善男子」からは、中道の見解を起こすために見えないことを簡別する。ある人は解釈して「二種の見えない者と一種の見える者がいるが、すべて見えないと言うのは、情に随うからである」と言う。この説は正しくない。先に中道の見解は凡そ三種あると唱え、全く見ていないのに中道を見ると言うのは、これは名が同じであるがゆえに名に対して見解を起こすに過ぎない。後に「この義により仏性を見ない」と結んでいる。知るべきである。三種とも性を見ないのである。後をもって前を検証すれば、前は中道の見解を唱えている。凡夫は惑いの心で中道を思い描くが、因は苦で果も苦であり、これは定まった苦行である。ゆえに第一義空を見ない。二乗は自らの修行は凡夫より勝るが、他を教化する点では菩薩に劣る。中道を思い描くが、定まった苦楽行と名づけられる。二乗は空に偏るから、第一義空を見ない。菩薩は慈悲により苦を甘んじて楽の如くに受け入れ、これは定まった楽行であり、つまり仮に偏るから、第一義空を見ない。この三種は同じく中道と名づけられるが、上に述べた名の相と違う。相違するから円満に遍くという義がなく、ゆえに見えないのである。 「如汝所言」から、第二の問いに正式に答える。 古くは「これは因の性に答えている」と言った。観師は言う「これは五性を明らかにしている。どうして因だけに限られようか」と。文を二つに分ける。初めに第二の問いに答え、後で議論を行う。初めの答えは二つに分かれる。先に問いを引用し、次に正式に答える。初めにその問いを詳細に提示する。その問いは何を意味するか。その意味とは、名がそう呼ばれる所以である。どのような所以があって仏性と称するのか。仏の答えは三つに分かれる。初めに総じて円の義を挙げ、二に別して遍の義を挙げ、三に結んで讃嘆する。 初めの総答の意味は、円の趣旨をよく得ることがその所以である。仏は円い人であり、性は円い法である。人と法を合わせて称するから、仏性と言う。また、一切の諸仏は円い人であり、菩提は円い果であり、さらに涅槃の果果をも兼ねる。果と果果と言うからには、この果が因から生じることを知る。この果は因から生じる。中道は、因でもなく因因でもなく、果でもなく果果でもない。すべてが顕現するのは、すべて仏性を種子とすることによる。ゆえにこの中道こそ仏性であることを知る。仏性が種子となれば、種子は二因・二果を生じることができる。この二つの因果はまた種子となり、中道を顕すことができる。これは互いに種子となるのである。このように解釈しなければ、この経文に対処できない。通途としてはこのようであるが、別説としては仏性が種子となる。問う「仏性は四性の種子となるが、なぜ特に菩提の種子と言うのか」。答える「これは特に略して出したものであり、また傍と正があるからである。例えば十二因縁も傍の義が無いわけではないが、正しくは観智を発して菩提を生じる。種子としての義が明らかである。残りの三性は、その義は傍らである。例えば胡瓜は、正しく熱を発するので、熱病の縁となるようなものである」。

## 大般涅槃經疏卷第二十三

> 大般涅槃経疏　巻第二十三