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title: "大般涅槃經疏 · 2"
description: "大般涅槃经疏由隋朝天台宗五祖章安大师灌顶撰述，是注解北本《大般涅槃经》的重要疏钞。灌顶承袭其师智顗思想，依天台教观阐释经义，重点发挥如来常住、众生皆有佛性、一阐提也能成佛等核心教理。该疏系统论述了涅槃境界与佛性思想，融合南北朝佛学成果，是天台宗判教体系的关键著作，对隋唐以后中国佛教思想发展影响深远，被视为研究《大般涅槃经》的权威注疏。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cme55wstf01drjo04qcd8z89g"
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## 大般涅槃經疏卷第二十四

> 大般涅槃経疏 第二十四巻

隋章安頂法師撰

> 隋の章安頂法師による撰述

唐天台沙門湛然再治

> 唐の天台僧・湛然が再編集

### 師子吼品之一下

> 獅子吼品 その一（下）

「復次善男子」下，二別舉遍義應遍一切。別舉四種遍有中道：一顛倒上下、二生死、三斷常、四因果。他解：此四是《中論》八不，不上不下是不來不出，不因不果是不一不異，餘兩可知。一師云：法門無量，何必如此。今明初以上下屬當凡夫顛倒，橫計上下，不見中道。諸佛體之不上不下，得見中道。次生死約六度遍行，既不斷於無明愛惑、惑心求佛，是二中間則有生老病死，不見中道。諸佛體之不生不死，得見中道。三斷常，約二乘厭生死，是背常入涅槃，是向斷，不見中道。諸佛體之非常非斷，於二乘法得見中道。四者十二因緣觀智是因、得菩提是果、修因克果次第淺深、此約別教地前不見中道。諸佛體之知非因果、於菩薩法能見中道。上文云「一切諸法中悉有安樂性」，《普賢觀》云「毘盧遮那遍一切處」。譬如耆婆執草成藥，佛亦如是，遍一切法無非中道。中道即是佛性。汝問何義？其義如是。略屬當竟，今更帖文。初云道有三種者，先唱三章門。次「下者」下，解釋。下者，外道邪見謬謂梵天以為涅槃；實非涅槃，還是生死，故名為下。所言上者即是凡夫，未免八倒，無常計常，常是上法當得上果，故名為上。所言中者，第一義空智慧，無常見無常，如理而見，不同外道故不名下、不同凡夫故不名上，而是兩邊之上故言是上，又言與佛不異故言是上。

「復次生死本際」下，第二明不生不死中道之義。文為二：初明中道、次舉解惑。初為三：一唱中道、二明能破生死、三結是。「佛性無明有愛」下，但中間只是行識名色六入等，何以云有生老死耶？解云：後文云現在世識名未來生，現在六入等名未來老死，中間即是生死義。言中道者，兩因夾一果，一果居中，如此論中方是妙中，破生死義。云何只以因緣因果不生不滅名為中道？今作易解。無明與愛即現過見，煩惱道也。點煩惱道即是般若，中間是苦道即是法身，法身即中道。若是中道則無生死，無生死故名破生死。「以是義故」下，第三結為佛性。既是中道，寧非佛性？「以諸眾生」下，第二舉解惑，有法、譬、合。法中初明惑者，不見則是無常；後明解者，能見則非無常。正用此語兼答第三難。難云：以何義故名常樂我淨？以見佛性故常樂我淨。「譬如」下，為惑解者作譬，與上貧女譬同。合如文。

> 「復次、生死本際」以下、第二に不生不死の中道の義を明かす。文は二つに分かれる。初めに中道を明かし、次に惑と解を挙げる。初めは三つに分かれる。一に中道を唱え、二に生死を破することを明かし、三に結ぶ。 「佛性無明有愛」以下であるが、ただ中間の行・識・名色・六入などは、なぜ生・老・死があると言うのか。答えて言う。後の文に「現在世の識を名づけて未来の生とし、現在の六入などを名づけて未来の老死とす」とある。中間こそが生死の意味である。 中道とは、二つの因が一つの果を挟み、一つの果が中に在ること。このように論じるところこそ、妙なる中道であり、生死を破する意味である。どうしてただ因縁・因果の不生不滅を中道と名づけるだけか。ここで分かりやすく解釈する。 無明と愛は、すなわち現在と過去にわたる見の煩悩の道である。煩悩の道を指して般若とすることは、中間は苦の道であり、すなわち法身、法身はすなわち中道である。もし中道であれば生死はなく、生死がないからこそ「生死を破す」というのである。 「以是義故」以下、第三に結んで仏性と為す。すでに中道であるなら、どうして仏性でなかろうか。 「以諸衆生」以下、第二に惑と解を挙げる。法と譬えと組み合わせとがある。法の中では、初めに惑える者について明かす。見ざればすなわち無常である。後に解ける者について明かす。能く見ればすなわち無常ではない。まさにこの言葉を用いて、兼ねて第三の難問に答える。難問は「何の義をもって常・楽・我・浄と名づけるのか。仏性を見るがゆえに常・楽・我・浄である」というものである。 「譬如」以下、惑える者と解ける者のために譬えを為す。これは先の貧女の譬えと同じである。組み合わせは文の通りである。

「復次眾生起見」下，是第三不斷不常明中道，又三：一唱章門、二釋、三結。初章門中，明凡夫菩薩二乘，前後舉非、中間明是。次「佛性雖常」下，即釋也。又三：先釋凡夫，為無明所覆故起斷常。次「又未能度」下，釋二乘，只為兔馬不盡河底。二乘智偏沈空取證，不見佛性無常無斷。「是觀十二因緣」下，第三釋菩薩章。十二因緣即是觀境，菩薩觀境生智，合取境智皆名中道。

「善男子佛性者」下，第四約因果明中道，為三：一明有因有果、二明非因非果、三明亦是因果亦非因果。只應明非因非果，何得云因果？若不明因果，何所辨非？初文有法、譬。法說中論兩因兩果，兩因者謂因、因因，兩果者謂果、果果。尋此文意，不得以因家之因為因因，而得以果家之果為果果。得以因家之果為因因，得以果家之果為果果。何故爾？𭁏因是境，重因是觀。𭁏果是菩提，重果是涅槃。境但是因，不從因至於因，但因非因因，觀智從因至於因故。得是因因，菩提但是果，不從果至於果，但果非果果，涅槃從果至於果故。得是果果，譬說中意，是則不然。譬中以無明為因因。無明當體是因，而復為行作因，故是因因。識當體是果，復為行作果，故是果果。以譬例法，境是因因，菩提應是果果。而不例者，境體非因，不從因至於因，但是因非因因。觀智體非果，不從果至於果。若然，譬與法乖。答：取少分譬。私謂：亦非全取無明行識以為境智菩提涅槃之譬，但是先舉無明行等亦有因果、因因、果果之名，故下文中具舉四句：佛性涅槃為初二句，十二因緣為第三句。言少分者，名同義異，故云少分。若欲將境智為二因、菩提涅槃為二果，是則境體是因，復為智作因，故名因因。智體是因，復為二果作因，例二果亦爾。準因作之，亦應可見。「以是義故」下，第二明非因非果即中道正性。此中十不賸，《中論》中有不因不果。從「是因非果」下，第三明亦是因果亦非因果。開善作五性：是因非果即境界性，是果非因即果果性，是因即了因，是果即菩提果，非因非果即正性。而彼家用眾生為正性，與非因非果義不相應。莊嚴作四性：是因即了因，是果即涅槃，是因即正因，是果即菩提。非因非果非復是性，但非前義。觀師亦作五性：是因非果即境界性，是果非因即果果性，是因是果即了因性及菩提性。言了因者，以望境界為果、望菩提是因。若爾，菩提性亦應兩望，望了因是果、望果果是因。非因非果即正性。興皇但名正法正性，不許稱為正因。今經中有正因之名，何以不許？然此五性乃是開合之異。正性不二，緣性則二。二是因果，開因出因因，開果出果果，合四為二，所謂因果；合二為一，合緣為正，正無復數。「以是義故」下，第三結歎甚深，又為三：一略歎、二廣歎、三總結。初略歎者，簡凡小不見，唯佛能見。

> 「善男子、仏性とは」以下の部分は、第四に因果に基づいて中道を明かすもので、三つに分けられる。一に因と果があることを明かし、二に因でも果でもないことを明かし、三に因であり果であり、因でも果でもないことを明かす。本来なら因でも果でもないことだけを明かせばよいのに、なぜ因果を説くのか。もし因果を明かさなければ、何をもって「非」を論じるのか。初めの文には法説と譬喩がある。法説では二種の因と二種の果を論じる。二種の因とは「因」と「因因」であり、二種の果とは「果」と「果果」である。この文の意図を探るならば、因の側の因を因因とすることはできず、果の側の果を果果とすることはできる。因の側の果を因因とし、果の側の果を果果とすることができる。なぜそうなるのか。第一の因は「境」であり、重ねての因は「観」である。第一の果は「菩提」であり、重ねての果は「涅槃」である。境はただ因であり、因から因へと至ることはない。ただの因であって因因ではない。観智は因から因へと至るから、因因であると言える。菩提はただ果であり、果から果へと至ることはない。ただの果であって果果ではない。涅槃は果から果へと至るから、果果であると言える。譬喩説の意図はこれとは異なる。譬喩では無明を因因とする。無明はその自体が因であり、さらに行の因となるから因因である。識はその自体が果であり、さらに行の果となるから果果である。譬喩を法説に当てはめれば、境は因因となり、菩提は果果となるべきである。しかしそうならないのは、境の自体は因ではなく、因から因へと至らない。単なる因であって因因ではないからである。観智の自体は果でなく、果から果へと至らない。もしそうなら、譬喩と法説は矛盾する。答えていう「一部の譬えを取ったのである」。私見では、無明・行・識を完全に境・智・菩提・涅槃の喩えとしたわけではなく、まず無明・行などにも因果・因因・果果という名称があることを示したにすぎない。だから後の文で四句を完全に挙げて、仏性・涅槃を初めの二句とし、十二因縁を第三句としている。「一部」と言うのは、名称は同じだが意味が異なるからである。もし境と智を二因とし、菩提と涅槃を二果としようとするなら、境の自体は因であり、さらに智の因となるから因因と名付けられる。智の自体は因であり、さらに二果の因となる。二果についても同様である。因に準じてこれを作せば、理解できるはずである。「この義をもってのゆえに」以下の第二は、因でも果でもないこと、すなわち中道の正しい本性を明かす。この中に十不が含まれ、『中論』には不因不果がある。「是因非果」以下の第三は、因であり果であり、因でも果でもないことを明かす。開善寺の僧は五つの性を立てる。是因非果を境界性、是果非因を果果性、是因を了因、是果を菩提果、非因非果を正性とする。しかし彼の宗派は衆生を正性とするが、これは非因非果の義と相応しない。荘厳寺の僧は四つの性を立てる。是因を了因、是果を涅槃、是因を正因、是果を菩提とする。非因非果はもはや性ではなく、ただ前述の義を否定するだけである。観師も五つの性を立てる。是因非果を境界性、是果非因を果果性、是因是果を了因性および菩提性とする。了因については、境界から見れば果であり、菩提から見れば因である。もしそうなら、菩提性も両方から見るべきで、了因から見れば果であり、果果から見れば因である。非因非果を正性とする。興皇寺の僧はただ正法正性と名付け、正因と称することを許さない。しかし今の経典には正因という名称がある。なぜ許さないのか。しかしこの五性は開いたり閉じたりする違いにすぎない。正性は不二であり、縁性は二である。二は因果であり、因を開いて因因を出し、果を開いて果果を出す。四つを合わせて二とし、すなわち因果とする。二つを合わせて一とし、縁を正に合わせて、正に数はない。「この義をもってのゆえに」以下の第三は、結びとして甚深さを称讃する。さらに三つに分かれる。一に略して称讃、二に広く称讃、三に総括して結ぶ。初めの略して称讃するとは、凡夫や小乗仏教の者が見ることのできないことを簡別し、ただ仏だけが見ることができるとする。

「以何義故」下，二廣釋甚深，有六：一明因緣甚深、二明凡夫不見故甚深、三唯佛能見、四重明甚深難見、五重明能見、六雙明見與不見。初中云不常不斷者，諸句例作中道以明甚深。雖念念滅即是不常，而無所失即是不斷，不斷不常即中道甚深。雖無作者即不有，而有作業即不無，即不可思議中道甚深。「一切眾生」下，二明凡夫不見。「十住」下，三唯佛能見。菩薩少見，如來具見。然十住既少見於終，亦應少見其始。今互顯沒者，正言十地一轉即便作佛，去終處近，故言能見其終；始則杳然，故言不見。舊云：十住破元品無明，當果不起，故云知終；生死久遠，其始難知。興皇云：自性無所有為易，因緣所起不有而有則難。今言十住有治，道能分斷則分見其終，而不能分見其始。譬如健人破賊，而不知賊起根元。私謂：亦可云初住所斷，斷其始故，故云見始。並始斷故，亦云見始。故知賢位非但不見中道，亦不見於無明，故從初斷始邊名為見始。等覺菩薩餘一品在，在者名終，由未斷終故不見終，斷之終故亦名見終。故知等覺非但不見最後真如，亦不見於終品無明，故唯佛斷、唯佛方見。諸佛見始見終者，究竟知無始終，究竟鑑其始終。文中從惑起邊，是故反此。始謂元品，終謂終末，最麁著故。見謂知見，有智能治，故名為見。初住智淺，但見終末，故云見終；未有治於元品之智，故云不見。「一切眾生」下，四重明不見。「是故我」下，五重明能見。「觀十二緣智」下，六雙明見不見，又二：先唱四章門、次釋四章。三種不見，唯上上能見，可將此義類前定樂行等三皆不見，於義明矣。問：十住少見者，為唯第十住少見？九住至初住亦少見耶？舊解為二：一云唯第十住分見，九住至初住皆不分見。二云初住至十住皆少分見，而須兩望：初至九住望二乘為少見，望十住為不見。有人難前解云：二乘不見，各得菩提。九住既不見，得何等菩提？進不同佛？退非二乘，應當別得一箇菩提云云。今明若指住是地，而言十住皆分見者，此是別義。若住非地，十地則見、十住不見，此亦別義。若言十住即十地，地住皆少見者，此即圓義。若言十住非十地，十住亦少見者，此亦圓義。若言十住非十地，而言九住不見、十住少見者，此是別接通義。人不識此，於文於義往往不通云云。「以是義故」下，第三總結甚深。即五佛性、十二因緣名為佛性者結因性，第一義空結因因性，中道者結正因性，即名為佛結果性，涅槃結果果性。文義具足，此結甚妙。

> 「何の義をもってか」の下、第二に広く甚深を釈するに六種あり。一に因縁の甚深を明かし、二に凡夫の見ざるがゆえに甚深と明かし、三に唯仏のみ能く見る、四に重ねて甚深にして見難きを明かし、五に重ねて能く見るを明かし、六に双じて見ると見ざるとを明かす。初めの文に「常ならず断ならず」というは、諸句すべて中道を例として甚深を明かす。念念に滅すれども即ち是れ常ならず、而も失う所無きは即ち是れ断ならず、断ならず常ならざるは即ち中道の甚深なり。作者無きが故に有に非ず、而も作業有るは即ち無に非ず、即ち是れ不可思議の中道甚深なり。「一切衆生」の下、第二に凡夫の見ざることを明かす。「十住」の下、第三に唯仏のみ能く見ることを明かす。菩薩は少見し、如来は具にみる。然るに十住は既に終わりを少見するがゆえに、亦まさに始めを少見すべし。今互いに顕し没するは、正に十地一転すれば即ち作仏するに至り、終わりに近きがゆえに能くその終わりを見ると言い、始めは杳然として、故に見ずと言う。旧えに云く、十住は元品の無明を破し、当果起こらず、故に終わりを知ると云い、生死は久遠にして、その始めを知ること難し。興皇に云く、自性無所有なるは易く、因縁所起の有ならずして有なるは則ち難し。今、十住に治有るは、道分断を能くするが故に分ちてその終わりを見、而して分ちてその始めを見ず。譬えば健人が賊を破りて、而も賊の起る根元を知らざるが如し。私に謂く、また初住所断は、その始めを断ずるが故に、始めを見ると云うべし。並びに始め断ずるが故に、また始めを見ると云う。故に知る、賢位は中道を見ざるのみにあらず、亦無明を見ず。故に初断の始めの辺より名づけて始めを見ると為す。等覚菩薩は一つの品を余せり、在る者を終わりと名づく、未だ終わりを断ぜざるが故に終わりを見ず、之を断ずる終わりなるが故にまた終わりを見ると名づく。故に知る、等覚は最後の真如を見ざるのみにあらず、亦終わりの品の無明を見ず。故に唯仏のみ断じ、唯仏のみ方に見る。諸仏の始めを見終わりを見るとは、究竟して始め無く終わり無きを知り、究竟して其の始終を鑑みるなり。文の中、惑より起こる辺を以て、是の故にこれに反す。始めは元品を謂い、終わりは終末を謂い、最も麁着想著するなり。見は知見を謂い、智有りて能く治するが故に見と名づく。初住の智は浅く、但だ終末を見るが故に終わりを見ると云い、未だ元品を治するの智有らざるが故に見ずと云う。「一切衆生」の下、第四に重ねて不見を明かす。「是の故に我」の下、第五に重ねて能見を明かす。「十二縁の智を観ず」の下、第六に双じて見と不見を明かす。また二あり、先ず四章門を唱え、次に四章を釈く。三種の不見、唯だ上上のみ能く見る。此の義を以て前に定むべき、楽行等の三も皆見えずと類すれば、義に於いて明らかなり。問う、十住の少見は、唯だ第十住のみ少見するか。九住より初住に至るまでも亦少見するか。旧解に二あり、一に云く唯だ第十住のみ分見し、九住より初住に至るまでは皆分見せず。二に云く初住より十住に至るまでは皆少分見し、而も両望を須いる。初より九住に至るまでは二乗に望めば少見と為し、十住に望めば不見と為す。或る人、前の解を難ず、二乘は不見なれども各おの菩提を得る。九住は既に見ず、何の菩提を得るや。進んで仏に同じからず、退いて二乗に非ず、当に別に一の菩提を得べきなり<note>云云</note>。今明かす、若し住を地と指し、而も十住皆分見すと云うは、此は別義なり。若し住は地に非ず、十地は則ち見、十住は見ず、此も亦別義なり。若し十住即ち十地と云い、地と住と皆少見すと云うは、此は即ち円義なり。若し十住は十地に非ずと云い、十住も亦少見すと云うは、此も亦円義なり。若し十住は十地に非ずと云い、而も九住は不見、十住は少見すと云うは、此は別接通の義なり。人此を識らざれば、文に於いて義に於いて往々通ぜず<note>云云</note>。「是の義を以ての故に」の下、第三に総じて甚深を結す。即ち五仏性なり、十二因縁を仏性と名づくるは因性を結し、第一義空は因因性を結し、中道なるは正因性を結し、即ち名づけて仏と為すは果性を結し、涅槃は果果性を結す。文義具足し、此の結妙なり。

「爾時師子」下，第二論義。此義起上結眾生行業甚深甚深，若眾生與佛平等不二，何用修道？初似是一問，佛為兩答則成二問。下佛答中，一答佛與佛性平等、二答修道，故知兩問。地人云：眾生是佛，具足在妄，便不用修道。正當此難。若成論人云：佛果在當，則不當此難。而不得言即是佛，此應作無差別差別答。無差別故即是佛，差別故未具足。如父生子姓無差別，用未具足故須莊嚴，莊嚴故後則具足。然但明佛性，何關具足不具足？具足既藉緣而具，佛性亦應藉緣而具。若言佛性在當，此據果性果果性。若言佛性在現，此取因性因因性。若言佛性非當非現，此取正因性。若各以為是，如盲觸象。若見此意，無當現之爭。佛答為三：一非問、二正答、三引證。非問，如文。正答為兩：一答無差別亦有差別、二答何用修道。初答為三：一正答、二引偈、三舉乳酪而譬。此意者，據體不殊，約緣成異。初文有法、有譬。法說中云未具足者，但有其理，事用未足，故言不具，非謂悉無名為不具。「譬如」下，二譬，為二：先譬、次合。初譬又二：先舉惡譬、次引善惡例。初文者，必定當墮。如害母者悔，身雖未墮，必去不疑。眾生亦爾，有佛性理，未來必得。次佛復引云行十善者名見天人，行十惡者名見地獄，亦是當報。「一切眾生」下，二合譬。一切眾生未有相好，以當得故。一解云：當得相好之果。一解云：當得果佛性。佛性云何是當？若是當者，為三世攝，即是無常，則不應言當果佛性。二引偈答者，略釋偈意，已如前文。此偈四出：初答常無常、二答得無得。下二十六答破定性，今答有無不定以明中道。若但以有無別解，俱不會偈旨，常無常等亦應如是。此中準經應作差、無差、亦差亦無差、非差非無差，不一不異、不思議釋，乃會偈旨。餘常無常等亦復如是。今長行釋本有云三世皆本有，如文。準此而言，生死與涅槃各應本有、各應今無。若生死本有者，具足無量煩惱；生死本無者，本無涅槃。涅槃本有者，涅槃本有非適今；涅槃本無者，久已成佛無諸煩惱。生死雖復本有今無、本無今有，悉束為有，以涅槃望生死，生死有所得故。涅槃雖復本有今無、本無今有，悉束為無，以生死望涅槃無所得故。又即本有是今無，不離有而論無；即本無是今有，不離無而論有。此前三句，即是差別三世所攝。本有之有非有，今無之無不無，不有不無，三世有法無有是處。此一句是無差別，不為三世所攝。更約本末重明四句，自有兩本兩末；一本一末；末而不本、本而不末；非本非末。上文云寄生一子舍主驅逐。舍主是境，豈非生死為本？一子正觀，豈非涅槃為末？文云大般涅槃本自有之。又如來藏依持建立，豈非涅槃為本？迷理起惑，豈非生死為末？若各有其本則各有其末，為是義故兩本兩末。又生死無終，將涅槃之始為生死之終；涅槃無始，將生死之終為涅槃之始。二河相望互作終始，是為一本一末。又生死若本若末皆束名為末，以其虛妄無根本故，故末而不本。涅槃若本若末皆名為本，以其真實無偽故，本而不末。末本非本、本末非末，非本非末，三世不攝。分別本末四句既成，例具不具、得無得、常無常，皆悉不定，不可思議亦復如是。四句不定不可思議，即是三諦不並不別，如前說。「譬如有人」下，第三舉乳酪譬以證當有。此謂約有心論有佛性，不即心為佛性。何異眾生有佛性之理，後得佛時不取眾生為佛心。佛心亦爾，只云有心為佛性，心不即為佛性。

> 「ときに獅子吼菩薩が」の下は、第二の論議です。この意味は、前に結んだ衆生の行業が非常に深遠であることから起こります。もし衆生と仏が平等で異ならないのであれば、どうして修行の道が必要なのでしょうか。初めは一つの問いのように見えますが、仏が二つに答えたことから、二つの問いとなります。後の仏の答えの中に、一つは仏と仏性が平等であること、二つは修道について答えており、それゆえに二つの問いであると分かります。 地論宗の人々は「衆生は即ち仏であり、煩悩の中に完全に具わっているので、修道を用いる必要はない」と言います。これはまさにこの難問に対するものです。成実論の人々が「仏の果報は未来にある」と言うなら、この難問には当たりません。しかし、「即ち仏である」と言うことはできません。これには「無差別・差別」による答えを用いるべきです。無差別であるがゆえに即ち仏であり、差別があるがゆえに未だ具足していないのです。例えば、父が子を生めば姓に差別はありませんが、用が未だ具足していないがゆえに荘厳を必要とし、荘厳によって後に具足するのです。 しかし、ただ仏性を明らかにするだけで、具足・不具足に何の関わりがあるのでしょうか。具足がすでに縁に依って具わるのであれば、仏性もまた縁に依って具わるべきです。「仏性は未来にある」と言うなら、これは果性と果果性を取っています。「仏性は現在にある」と言うなら、これは因性と因因性を取っています。「仏性は未来でも現在でもない」と言うなら、これは正因性を取っています。それぞれが自分の見解を正しいとするのは、盲人が象を触るようなものです。もしこの意味を理解すれば、未来・現在の争いはありません。 仏の答えは三つです。一つは問いを否定すること、二つは正しく答えること、三つは引用して証明することです。問いを否定することは、文の通りです。正しく答えることは二つに分かれます。一つは「無差別でありながらも亦有差別」と答え、二つは「何用修道」と答えることです。 初めの答えは三つに分かれます。一つは正答、二つは偈を引用、三つは乳酪の譬えを挙げることです。この意味は、体としては同じですが、縁に従って異なるものとなります。初めの文には法説と譬えがあります。法説の中で「未だ具足せず」と言うのは、ただその理があるだけで、事の用が未だ十分でないことを意味し、全く無いことを「不具」と言うのではありません。 「譬如」の下、二つ目の譬えは、まず譬えを、次に合わせるという二つに分かれます。初めの譬えもまた二つで、まず悪の譬えを挙げ、次に善悪の例を引きます。初めの文は、必ず堕ちることが定まっているというものです。例えば母を殺した者が後悔しても、その身はまだ堕ちていなくても、必ず堕ちることは疑いありません。衆生もまた同じで、仏性の理があるので、未来に必ず得るのです。次に仏がまた引用して、十善を行う者は天人を見ると言い、十悪を行う者は地獄を見ると言います。これもまた未来の報いです。 「一切衆生」の下、二つ目の合譬です。一切衆生は未だ相好を持っていませんが、未来に得るべきものとして持っています。一つの解釈では、未来に相好の果報を得ると言います。別の解釈では、未来に果仏性を得ると言います。仏性がどうして未来のものであり得るのでしょうか。もし未来のものであるならば、三世に摂取され、すなわち無常となり、「未来の果仏性」と言うべきではありません。 二つ目に偈を引用して答えるとは、偈の意味を簡略に釈したもので、すでに前の文の通りです。この偈は四度出てきます。初めは常・無常を答え、二つ目は得・無得を答えます。後の第二十六では定性を破ることを答え、今は有・無が不定であることを答えて中道を明らかにします。もしただ有・無で別々に解釈するならば、いずれも偈の趣旨に合いません。常・無常などもまた、このようにすべきです。これに準じて経に従えば、「差・無差・亦差亦無差・非差非無差」、「不一不異・不可思議」と解釈して、はじめて偈の趣旨に合います。残りの常・無常などもまた、この通りです。 今、長行で「本有」を釈して「三世みな本有なり」と言うのは、文の通りです。これに準じて言えば、生死と涅槃はそれぞれ本有であり、それぞれ今無であるべきです。もし生死が本有であるならば、無量の煩悩を具足しています。生死が本無であるならば、本来涅槃がありません。涅槃が本有であるならば、涅槃は本来有るものであり、今になって有るのではありません。涅槃が本無であるならば、久しくすでに成仏して煩悩がありません。生死は「本有今無」「本無今有」であっても、すべて「有」と束ねられます。なぜなら、涅槃から生死を見れば、生死は有所得だからです。涅槃は「本有今無」「本無今有」であっても、すべて「無」と束ねられます。なぜなら、生死から涅槃を見れば、涅槃は無所得だからです。 また、即ち「本有」は「今無」であり、「有」を離れて「無」を論じません。即ち「本無」は「今有」であり、「無」を離れて「有」を論じません。この前三句は、すなわち差別であり、三世に摂取されます。「本有の有は有に非ず、今無の無は無に非ず、不有不無、三世の有法には有る所の處無し」という一句は、無差別であり、三世に摂取されません。 さらに本末に約して四句を重ねて明らかにします。それ自体に二本二末があります。一本一末。末にして本にあらず、本にして末にあらず。非本非末です。上文に「寄生一子舍主驅逐」とあります。舍主は境であり、どうして生死が本ではないのでしょうか。一子は正観であり、どうして涅槃が末ではないのでしょうか。文に「大般涅槃は本よりこれ有り」とあります。また如来蔵は依持であり建立であり、どうして涅槃が本ではないのでしょうか。理に迷い惑いを起こすのは、どうして生死が末ではないのでしょうか。もしそれぞれにその本があるならば、それぞれにその末があり、この義のために二本二末となります。また、生死に終わりはなく、涅槃の始めをもって生死の終わりとします。涅槃に始まりはなく、生死の終わりをもって涅槃の始まりとします。二つの河が互いに眺め合い、互いに終始とします。これが一本一末です。また、生死は本も末もすべて束ねて末と名付けます。なぜなら、それは虚妄であり根本がないからです。ゆえに、末であって本ではありません。涅槃は本も末もすべて本と名付けます。なぜなら、それは真実であり偽りがないからです。ゆえに、本であって末ではありません。末の本は本に非ず、本の末は末に非ず、非本非末は三世に摂取されません。本末の四句を分別してすでに成立すれば、例えて言うならば、具・不具、得・無得、常・無常もすべて不定であり、不可思議もまたこの通りです。四句が不定で不可思議であること、すなわち三諦は並ぶことも別れることもなく、前に説いた通りです。 「譬如有人」の下、第三に乳酪の譬えを挙げて「当有」を証明します。これは「心」について「仏性有り」と論じるものであって、「心を即ち仏性とする」のではありません。衆生が仏性の理を持っていて、後に仏を得る時に衆生を取って仏心としないのと、何の違いがあるのでしょうか。仏心もまた同じで、ただ「心をもって仏性と為す」と言うだけであって、心を即座に仏性とするのではありません。

「畢竟有二種」下，第二應須修道。正答前何用修道之問。眾生等有一乘正性，應須修於六度莊嚴，若不修不得正性。他云：一乘是萬善。今此文中則以一乘為中道正性，此一道清淨能運眾生作佛，故名一乘，豈同萬善？文中為二：先唱章門、次解釋。初章門有兩雙四隻。次釋中，先釋以六度為莊嚴，一乘為究竟；次釋世間出世間。初六度與一乘更無別體，但隨義異釋，其間有譬、有合。初譬云忉利、欝越果報雖勝，人不得見佛性。既為無明所覆不能得見，故須修道。「復次佛性」下，釋後兩隻，又二：先偏釋出世畢竟、後雙釋世出世兩畢竟。初又三：一出體、二釋名、三舉類。初如文。次釋名中云首楞嚴，翻為堅固。和闍黎，翻修治心。而此三昧有通有別，別在終心，通通諸地。「如一三昧」下，三舉類。覺名定覺，即七覺中定覺分。正名正定，即八正中正定。又云覺名定覺，即八大人中定覺。楞嚴亦爾，有五種名云云。「善男子一切眾生」下，第二雙釋世出世兩畢竟，下中即世間畢竟，上定即出世畢竟。於中二：先具釋三定、後重釋上定。初釋三定中，先釋上定即是佛性，或云了因、或云正因；中定即色界定；下定即心數定。數人云：十數並起呼為大地，通五品，謂善、惡、無記、不共、穢污等。成論云：法起十數，義說為十。或云欲界十居，止是十數，三塗、人、六天。「一切眾生悉有」下，重釋出世，即首楞嚴，《釋論》名為健相三昧。「善男子我於一時」下，第三引證答。此明如來觀機可不，或說佛與佛性無差、或時說異，或說修道、或說不修。例如知外道機，應須說我、應說無我云云。文為二：先正引昔證今、次更會通。初引昔證今，又二：先引昔、次證今。引昔又三：一明洗浴、二外道論義、三時眾得益。「是佛性」下，二證今。正言佛性非我而說為我，不應定執，詶修道之問。「如來有因緣」下，二是會通。如來自在，或以我為無我、無我為我。又一解、在因佛性，故言無我；在果佛性，故言有我云云。

> 「畢竟には二種あり」以下の部分は、第二に、修行すべき道理を説いています。これは先の「何を用いて修道するのか」という問いに正式に答えるものです。一切の衆生には一乗の正しい本性が備わっており、六度（六波羅蜜）による荘厳（修行）を行わなければ、その正しい本性を得ることはできません。 他者の説では「一乗とはあらゆる善行のことである」とありますが、この経文では一乗を「中道の正しい本性」としています。この一つの道は清らかであり、衆生を運び仏へと導くことから「一乗」と名付けられているのであって、単なる万善と同列に論じることはできません。 この文章は二つに分かれています。最初に章門（主題）を掲げ、次にそれを解釈します。最初の章門には、二組・四つの項目があります。続く解釈では、まず六度を荘厳とし、一乗を究極のものとすることを説明し、次に世間と出世間について説明します。まず、六度と一乗は別々の実体があるわけではなく、意味の違いに応じて異なる解釈があるだけです。その中には比喩と、それに対応する説明があります。最初の比喩では、忉利天や欝単越の果報は優れていても、そこにいる人は仏性を見ることができないと説かれています。無明に覆われて見ることができないため、修道が必要なのです。 「復次、佛性」以下は、後の二つの項目を解釈しています。これもまた二つに分かれ、まず「出世間の畢竟」だけを解釈し、次に世間と出世間の二つの畢竟を共に解釈します。最初の部分はさらに三つに分かれます。一に体（本質）を示し、二に名（名称）を解釈し、三に類例を挙げます。最初の「体を示す」部分は経文の通りです。次に名を解釈する中で、「首楞厳」は「堅固」と翻訳され、「和闍黎」は「修治心」と翻訳されると述べられています。この三昧には通（共通）と別（特殊）があり、別の意味では最終的な心（等覚・妙覚）に限られ、通の意味では全ての菩薩の位に通じます。「如一三昧」以下は、第三の類例を挙げる部分です。「覚」とは「定覚」のことで、七覚支の中の定覚支のことです。「正」とは「正定」のことで、八正道の中の正定のことです。また、「覚」を「定覚」と言うのは、八大人覚の中の定覚のことです。楞厳も同様に、五種類の名称があります<note>云云</note>。 「善男子、一切衆生」以下は、第二の「世間と出世間の二つの畢竟を共に解釈する」部分です。下（下定）と中（中定）は世間の畢竟であり、上（上定）は出世間の畢竟です。この中はさらに二つに分かれ、まず三つの定（下定・中定・上定）を詳しく解釈し、次に上定を重ねて解釈します。最初の三定の解釈では、上定はすなわち仏性であり、あるいは了因（悟りの因）、あるいは正因（直接の因）とも言われます。中定は色界の定であり、下定は心数（心作用）の定です。毘曇宗（数人）は「十の心数が同時に生起するのを大地法と呼び、善・悪・無記・不共・穢汚の五品に通じる」と説きます。成実宗（成論）は「法が生起するとき、十の心数が働くが、それは義理に基づいて十と説くのである」と説きます。あるいは、欲界には十の居住地があり、これは十の数であると説きます。それは三悪道、人間界、六欲天です。 「一切衆生、悉有」以下は、出世間の畢竟（上定）を重ねて解釈する部分です。これは首楞厳三昧のことであり、『大智度論』では「健相三昧」と呼ばれています。 「善男子、我於一時」以下は、第三に、引用によって証明し問いに答える部分です。これは、如来が機根に応じて教えを観察し、時に仏と仏性に差別がないと説き、時に差異があると説き、時に修道を説き、時に修道しないことを説くことを示しています。例えば、外道の機根を知り、応じて「我」があると説いたり、「無我」であると説いたりするようなものです<note>云云</note>。この文章は二つに分かれ、まず過去の事例を引用して現在を証明し、次にその意味を統一的に解釈します。まず過去の事例の引用はさらに三つに分かれ、一に沐浴の話、二に外道との論義、三にその場の衆生が得た利益です。「是佛性」以下は、第二の現在を証明する部分です。仏性は「我」ではないが、それを方便として「我」と説くのであって、決して固定的に執着すべきではなく、修道の問いに答えたものです。 「如来有因縁」以下は、第二の統一的解釈の部分です。如来は自在であり、時に「我」を「無我」としたり、「無我」を「我」としたりするのです。また、一つの解釈として、因の位における仏性は「無我」と説かれ、果の位における仏性は「有我」と説かれます<note>云云</note>。

「爾時師子」下，第三答上第四問，為二：先申問、次正答。初申問，長有金剛力士語。正答為兩：初正答、後結歎。初正答中凡舉七譬，大為三意：初三譬，譬有而不見；中間一譬，譬平等皆有；第三三譬，譬待緣故見。三意次第而來。雖復云有而復不見，未知定有故不見？定無故不見？次一譬譬其定有。既其定有，何故不見？次答須待因緣然後乃見。初三譬，一一皆先譬、次合。初是盲人譬，譬底下凡夫如盲故不見。色譬佛性。數人解色，有二十種：青黃赤白、高下邪正方圓長短、光影明闇、烟雲塵霧。或加虛空為空一顯色，如眼膚翳。第二眼病譬，譬諸菩薩眼有少翳不得見色，譬諸菩薩有煩惱故不見佛性，不同前盲。合譬中先舉十地菩薩；後更舉四人，凡夫、二乘、十住、如來。如來全見，菩薩少見，兩全不見。「譬如初月」下，第三譬，亦譬眾生未斷惑者不見、斷惑者見。如初日月則不可見，漸漸可見。佛性亦爾，本有此理，眾生煩惱不能得見，惑稍稍盡稍稍得見。文云大悲十力等一切眾生悉有性者，舊云當有，即事未有，引下文云「破一闡提然後乃得」。地人解云：真神佛性如敝帛裏金，大慈大悲十力相好此事具有，為惑所覆；若除煩惱，即得見之，除敝帛已即得黃金。觀師云：此二解相害。若當有此經文云大悲十力四無所畏眾生有之。既言悉有，寧得言當？若言現有，如金為所覆者，夫佛性雄猛何不排惑？若執當現，便是爭論。只具此理，不可推當；修道乃得，不可言現。彼三解偏據，未會圓旨。何者？佛性非一二三，而為眾生作四門分別：或言第一義空，迦毘羅城空；或言不空者，即是智慧貧藏額珠；或言亦空亦有，如水酒瓶；或言非有非無，名為中道。欲使因四悟於不四，捨執四以求通。論人指當，此執則無。地人或覆，此執即有。觀師所說，此執亦有亦無門。今明佛性如王見象，眾師所覩全同盲觸云云。合最後譬中言三種破煩惱者，舊有二解。一云：二國煩惱，見思二，或是界內穢土煩惱；習氣是兩國中間淨土煩惱；無明是界外煩惱。七地菩薩斷二國中間煩惱，莊嚴所用。二解云：見諦為一煩惱，思惟為二煩惱，習氣是三煩惱。無明元品品數與習氣是同，故不別說。初地至三地斷見諦，四地至六地斷思惟，七八地者並斷習氣無明。此是開善解。又一師難此二解：文云三種破煩惱竟，不出破煩惱。意但出三種名，與經乖較。若論破意，應如《釋論》三觀治三種病，亦如《瓔珞本業》從假入空名二諦觀，從空入假名平等觀。二觀為方便，得入中道第一義諦觀，用是三觀能破煩惱。又世諦破性病，真諦破假病。此二諦但說伏為斷，若非真非有即是中道觀，雙除性假二病，名斷煩惱。今明是義不然，前二解乖經，觀師破其違經，今難其義僻。若三種破煩惱已見佛性，破見思穢土煩惱，及破中間淨土煩惱，為見性不見性？若見性者，二乘之人亦破見思，何故不見？若不見性，與經相違。開善云：破見為一、破思為二。須陀洹人乃至四果悉破見思，為見性不？若見性者，無有此義；若不見者，與經相違。又二諦觀、平等觀皆是方便，不入中道亦不見性，復與經違。世諦破性、真諦破假，是伏非斷，又不見性，此亦違經。唯非真俗斷煩惱者乃得見性。雖唱三種破煩惱名，二種破者則不見性，唯一種破得見。經稱三種破於煩惱皆見佛性，若一種破見、二破不見者，寧得相應？今明七地修方便、八地道觀雙流，破無明見佛性者，此以別接通，是一種破煩惱得見佛性。若入理般若名為住，破四住惑出生功德名十行，破塵沙惑未見佛性，十迴向伏無明，登地破無明見佛性。此是別教次第破惑，又是一種破煩惱見佛性。若圓觀法界，煩惱即菩提，初法心時便成正覺入銅輪位，登初住時破無明見佛性。三種破惑其義炳然，而皆見性，與經文會，諸德寧知？又一空一切空，三諦皆空，此觀破五住惑，能見佛性。又一假一切假，三諦皆假，此觀亦破五住惑，能見佛性。又一中一切中，三諦皆中，此觀亦破五住惑，能見佛性。如此三種，數之與義正與經合，諸德亦未能知，前三種破惑是就別意，後三種觀是約圓意。「善男子十二因緣」下，二有一譬，譬平等皆有，先譬、後合。前譬就外，今譬就內，即為四：一唱等有、二出因緣體、三明有具不具、四結等有。初明平等皆有，而言亦內亦外者，此唯在人，非謂外物。心則為內、色則為外，具有色心故云內外。又云：在胎為內、出胎為外。私謂：文中自云內外貪求及為內外事。然此文中非謂以十二緣而為觀境，但取十二以為佛性。例如十二緣支支別辨，為令眾生識於三世輪迴之相，豈可無明之時唯有無明？故知乃至老死常具十二。故下合云佛性亦爾，豈可在眾生時唯是眾生？況一切眾生一一無不念念具足十界百界依正因緣，故界界中無非佛性。故內外之言，意兼多義。「何等十二」下，二出因緣體具解十二支。過去具有因果，何以取二因而不取果？然過去之果自酬前因，是故不取。是則二因生今五果，取今三因生後二果。識支二解：一云初受胎七日為識，爾時有色，色未顯現、識義已顯，故受識名。二云但取託胎初念雖即有色，色乃未足。而名識者，識是報主，是故言識。亦至第二念即是色支。此解稍勝。入胎五分釋第四名色支，亦云五胞，二手二脚及頭。四根未具者，但有身意，未有眼耳鼻舌。言名色者，二解：一云色陰是色，四陰名名。二云：只此色與眾生之名，故言名色。次具足四根，即第五支，既具四根，六根都具，故言六入。從此已去有麁細相生，若細相生，即是胎內識心，未有想受；若麁相生，即是初出胎時，未能捉火觸毒，如一兩月小兒未別苦樂。下第六觸支，若細生相，是胎內想心未知苦樂；若麁相生，即一兩歲已能捉火觸毒而未有所知，手內有物未辨貴賤。染習一愛，第七受支，五果之後若細相生，即胎內受心。言一愛者，於一樂緣而生想著。若麁相生，即三四歲但知食愛，未知五欲。習近五欲，第八愛支，即三因之初。若細相生，即胎內行心之初。就行心為三：初名愛、中名取、後名有。若麁相生，即八九歲，稍知欲愛。內外貪求，第九支，即十餘歲稍復長大，轉能貪求，行中稍增。「為內外事」下，第十支起，即十餘歲，身成長大盡屬百年。「現在世識」下，第十一支，即未來二果之初，還同現在識支時節，即初託胎一念。「現在名色」下，第十二支，還同現在名色等時，即未來老死支。識名色六入等，並是未來二果，未來二果還是現在識名。色六入等，但轉名名之。三具不具中，約色界言無三受者，二解：一云於三受中不具苦受，故言無三。亦無苦受家想，故言無三種觸。亦無苦受家行，故言無三種愛。若色無色不具十二，云何文云亦得名為具足十二？然歌羅邏死及色無色界生，雖復不具十二，而苦輪未息。往還三界，終具十二。二解：據第四禪至無色界，無復苦樂，亦無中容之捨，故言無三受。無色既無色，不具十二。「以定得故」下，第四總結皆具十二。既未息苦輪，始終長望，故云皆具。佛性亦爾。第二合譬，六道四生皆有十二，譬諸眾生等有佛性。「雪山有草」下，第三三譬，明待緣方見。即為三。初文譬、合。合中二：先正合、次明理。明理又三：初唱九章門，門門有三句，合二十七句。第二解釋，釋中長出三事非章，所列合三十六句。後兩善男子，是第三總結云云。第二舉黑鐵譬、第三舉種子譬。前二譬皆先譬後合，後譬無合文。「是大涅槃」下，第二結歎，如文。

> 「そのとき獅子吼菩薩が」以下の部分は、第三段。上における第四の問いへの答えで、二つに分かれる。まず問いを述べ、次に正しく答える。初めの問いの中には、長く金剛力士の言葉がある。正しい答えは二つに分かれる。初めが正しい答え、次に結びの嘆賞である。初めの正しい答えの中に、七つの譬えを挙げて、大きく三つの意趣とする。初めの三つの譬えは、「有るのに見えない」ことの譬え。中の一つの譬えは、平等に全てに有ることの譬え。第三の三つの譬えは、縁を待つから見えることの譬え。三つの意趣は順序立てて来ている。「有ると言ってもまた見えない」のは、定まって有るから見えないのか、定まって無いから見えないのか分からない。次の一つの譬えで、それが定まって有ることを譬える。では、定まって有るなら、なぜ見えないのか。次に答えて、因縁を待ってから初めて見えるのだとする。初めの三つの譬えは、それぞれまず譬えがあり、次に合わせる。第一は盲人の譬え。下の凡夫を盲人のように譬えて、見えないとする。色は仏性を譬える。数人が色を解するに、二十種ある。青・黄・赤・白、高・下・邪・正・方・円・長・短、光・影・明・闇、烟・雲・塵・霧である。あるいは虚空を加えて「空一顕色」とし、目の霞のようだとする。第二は眼病の譬え。諸菩薩には少しばかりの翳りがあって色を見ることを得ないことを譬える。諸菩薩には煩悩があるために仏性を見ないこと、“前の盲人の譬え”とは異なることを譬える。合わせる譬えの中では、まず十地の菩薩を挙げ、後にさらに四人、凡夫・二乗・十住・如来を挙げる。如来は完全に見、菩薩は少し見、その二つは全く見ない。「初月の如き」以下の第三の譬えは、また、衆生で未だ煩悩を断じていない者は見えず、煩悩を断じた者は見えることを譬える。例えば新月（初月）の日は見えず、次第に見えるようになる。仏性もまた同じである。本来この理が有るが、衆生の煩悩がために見ることを得ず、煩悩が少しずつ尽きるにつれて、少しずつ見ることを得る。経文に「大悲・十力等は、一切の衆生が悉く有する性質」とあるのは、旧訳では「未来に有る」とし、「現在の事柄としては無い」とする。次の経文「一闡提を破ってから後に、初めて得る」を引き合いに出す。地論宗の人はこう解する「真神の仏性は、粗い布の中の金のようなもの。大慈・大悲・十力・相好、これらの事柄は、現に有る。煩悩に覆われているが、もし煩悩を除けば、直ちにそれを見る。粗い布を除けば直ちに黄金を得るのと同じである」。観師（慧観）は言う「この二つの解釈は互いに害し合っている。もし『未来に有る』（当有）ならば、この経文に『大悲・十力・四無所畏を衆生は有する』とある。既に『悉く有る』と言うのに、どうして『当に有る』（未来に有る）と言えるか。もし『現に有る』（現有）と言い、金が覆われているようだとするなら、仏性は雄猛なはず、なぜ煩悩を排しないのか。『未来に有る』と『現に有る』（当現）にこだわれば、それは論争になってしまう。ただこの理を具えているだけであり、『未来に有る』と推測することはできない。修道によって得られるのであり、『現に有る』と言うことはできない」。彼らの三つの解釈は偏って拠っており、円満な宗旨には叶っていない。なぜか。仏性は一でも二でも三でもないが、衆生のために四つの門を作って分別する。あるいは「第一義空」と言い、迦毘羅城の空のようだと言う。あるいは「不空」と言い、すなわち智慧の貧者の蔵にある宝珠のようだと言う。あるいは「亦空亦有」と言い、水と酒の瓶のようだと言う。あるいは「非有非無」と言い、中道と名付ける。四つの門によって「四つでないもの」（不四）を悟らせ、四つへの執着を捨てて、悟りを求めることを欲するのである。論者が「未来に有る」（当）を指し示すのは、この執着は無い。地論宗の人が「覆われている」とするのは、この執着は有る。観師の説は、この執着は「亦有亦無」の門に当たる。今、仏性を王が象を見ること（王見象）のように明らかにすれば、多くの師たちが見ているのは、全く盲人が触れているのと同じである。合わさる最後の譬えの中に「三種の煩悩を破る」と言うのは、旧訳では二つの解釈がある。一に「二つの国の煩悩」とは、見惑と思惑、あるいはこの世界（界内）の穢土の煩悩である。習気は二つの国の中間の浄土の煩悩。無明は世界の外（界外）の煩悩。七地の菩薩は二国中間の煩悩を断ずる。これは荘厳寺で用いる解釈である。二つ目の解釈は「見諦」を一つの煩悩とし、「思惟」を二つ目の煩悩とし、「習気」を三つ目の煩悩とする。無明の元の品々の数は習気と同じであるから、別に説かない。初地から三地までは見諦を断じ、四地から六地までは思惟を断じ、七地・八地は並んで習気と無明を断ずる。これは開善寺の解釈である。さらに一人の師がこの二つの解釈を難じて言う「経文に『三種の煩悩を破り終わる』とある。しかし、煩悩を破ることを出てこない。ただ三種の名前を出しているだけで、経と乖違している。もし破る意図を論じるならば、『大智度論』の三観が三種の病を治すようであり、また『瓔珞本業経』の『従仮入空を二諦観と名付け、従空入仮を平等観と名付ける。二観を方便として、中道第一義諦観に入るを得る。この三観を用いて、よく煩悩を破る』のようであるべきだ。また、世諦は性病を破り、真諦は仮病を破る。この二諦は、伏することを断と説くのが適切である。もし『非真・非有』ならば、すなわち中道観であり、性と仮の二病を双除し、煩悩を断ずると名付ける」。今それを明らかにすれば、この義は正しくない。前の二つの解釈は経に乖き、観師はその経に違うことを破った。今、その義の僻遠を難じる。もし三種の煩悩を破って既に仏性を見たなら、見思と穢土の煩悩を破り、及び中間の浄土の煩悩を破るのは、見性したのか、していないのか。もし見性したなら、二乗の人もまた見思を破る。なぜ見ないのか。もし見性しないなら、経に違う。開善寺は「見を破って一とし、思を破って二とする」と言う。須陀洹の人から乃至四果（阿羅漢）に至るまで、全て見思を破る。はたして見性か？ もし見性なら、そのような義は無い。もし見ないなら、経に違う。また、二諦観・平等観は全て方便であり、中道に入らなければ、また見性しない。また経に違う。世諦が性を破り、真諦が仮を破るのは、「伏」であって「断」ではない。また見性しない。これも経に違う。ただ、真と俗ではない、煩悩を断ずるもののみが、見性を得る。三種の煩悩を破る名を唱えるけれども、二種の破り方では見性せず、ただ一種の破り方でのみ得る。経では「三種の煩悩を破って皆、仏性を見る」と称する。もし一種の破り方で見、二種の破り方では見ないなら、どうして相応するだろうか。今、七地は方便を修し、八地は道観の双流によって無明を破って仏性を見る、と明らかにする。これは別教をもって通教に接続するものであり、これが一種の煩悩を破って仏性を見るのである。もし理の般若に入ることを住と名付け、四住の惑を破って功徳を出生することを十行と名付け、塵沙の惑を破ってもまだ仏性を見ず、十回向で無明を伏し、登地して無明を破って仏性を見る。これは別教の次第に惑を破ることであり、また一種の煩悩を破って仏性を見ることである。もし円観で法界を見れば、煩悩即ち菩提であり、初発心の時に便ち正覚を成し、銅輪位に入り、初住に登る時、無明を破って仏性を見る。三種の惑を破る、その義は明らかであり、しかも皆、見性する。それは経文に会する。諸の尊徳はどうして知るだろうか。また、一空・一切空、三諦は皆空。この観は五住の惑を破り、よく仏性を見ることができる。又一仮・一切仮、三諦は皆仮。この観もまた五住の惑を破り、よく仏性を見ることができる。又一中・一切中、三諦は皆中。この観もまた五住の惑を破り、よく仏性を見ることができる。このような三種、その数と義とは、正に経と符合する。諸の尊徳もまた、知ることができない。前の三種の惑を破ることは、別の意趣に関わり、後の三種の観は、円の意趣に関わる。「善男子よ、十二因縁は」以下の部分は、第二。一つの譬えがあり、平等に全てに有ることを譬える。先に譬え、後に合わせる。前の譬えは外に就き、今の譬えは内に就く。すなわち四つとなる。一に「等しく有る」と唱えること。二に因縁の体を取り出すこと。三に「有る」「具わらない」を明らかにすること。四に「等しく有る」と結ぶこと。初めに平等に全てに有ることを明らかにする。そして「また内また外」と言うのは、これはただ人においてのことである。「外物」のことではない。心は内となり、色は外となる。色心を具え持つから「内外」と言う。また、胎内に在るを内とし、胎外に出るを外とする。私に謂う。文中に自ら「内外貪求」及び「内外事の為」とある。しかし、この文中では十二縁を以て観境とするのではない。ただ十二を取って仏性とするのだ。例えば十二縁の支々を別々に明かすのは、衆生に三世輪廻の相を識らせるためである。どうして無明の時に、ただ無明だけがあると言えるだろうか。故に知る、乃至老死に至るまで、常に十二を具えている。故に、後の合わせて「仏性もまた同じ」と言うのである。どうして衆生の時に、ただ衆生だけであると言えるだろうか。況や、一切の衆生、一人一人、ことごとく念々に十界・百界の依・正の因縁を具足しないものは無い。ゆえに、界々において仏性にあらざるは無い。それ故、「内外」の言葉は、その意味は多くの義を含んでいる。「何等の十二か」以下の部分は、第二。因縁の体を取り出し、十二支を詳しく解釈する。過去には因果を具える。なぜ二因を取り、果を取らないのか。しかし、過去の果は自ら前の因に報いるのである。それ故、取らないのである。すなわち、この二因が今の五果を生み、今の三因が後の二果を生むことを取るのである。識支については二つの解釈がある。一に、最初の受胎から七日目までを識とする。その時に色はあるが、色はまだ顕現せず、識の義はすでに顕れている。それ故、識の名を受ける。二に、ただ託胎の初めの一念を取る。すぐに色があるが、色はまだ十分ではない。しかし、それを識と名付けるのは、識は報いの主だからである。それ故、識と言う。また、第二念に至れば、すなわち色支となる。」この解釈がやや勝れている。入胎して五分（五つの段階）。第四の「名色支」を明かす。また、「五胞」とも言う。二手・二脚及び頭である。四根が未だ具わらないとは、ただ身と意があるだけで、まだ眼・耳・鼻・舌がない。「名色」と言うことについて、二つの解釈がある。一に、色陰は色であり、四陰を「名」と名付ける。二に、ただこの色と衆生の名ということで、「名色」と言う。次に四根を具える。すなわち第五支である。既に四根を具えれば、六根が全て具わる。故に「六入」と言う。ここから後の生には、細い相と粗い相の生がある。もし細い相の生ならば、すなわち胎内の識心であり、未だ想・受がない。もし粗い相の生ならば、すなわち初めて胎外に出る時であり、未だ火を捉えたり毒に触れたりすることができない。例えば、一二ヶ月の小児は、未だ苦楽を区別しない。下の第六の触支。もし細い相の生ならば、胎内の想心であり、未だ苦楽を知らない。もし粗い相の生ならば、すなわち一二歳で、すでに火を捉え、毒に触れることができるが、未だ有所知がない。手の中の物についても、未だ貴賤を弁別しない。染習して一つの愛を起こす。第七の受支。五果の後、もし細い相の生ならば、すなわち胎内の受心である。「一愛」と言うのは、一つの楽の縁について、思いを生じて執着することである。もし粗い相の生ならば、すなわち三四歳で、ただ食べることの愛を知るだけで、未だ五欲を知らない。五欲に習近する。第八の愛支。すなわち三因の初めである。もし細い相の生ならば、すなわち胎内の行心の初めである。行心について三つとする。初めを愛と名付け、中を取と名付け、後を有と名付ける。もし粗い相の生ならば、すなわち八九歳で、やや欲愛を知る。内外に貪求する。第九の支。すなわち十余歳で、ややさらに長大し、転じてよく貪求するようになる。行の中において、少し増す。「内外事の為」以下の、第十の支が起きる。すなわち十余歳で、身が成長し長大し、全て百年に属する。「現在世の識」以下の、第十一支。すなわち未来の二果の初めであり、現在の識支の時節と同じである。すなわち最初に託胎する一念である。「現在の名色」以下の第十二支は、また現在の名色などの時と同じであり、すなわち未来の老死支である。識・名色・六入などは、並んで未来の二果である。未来の二果は、また現在の識・名色・六入などと同じであるが、ただ名を転じて名付けるだけである。三つ、具わると具わらざるとにおいて、色界について「三受無し」と言うのは、二つの解釈がある。一に、三受の中において苦受を具えていないから「三無し」と言う。また苦受の家の想も無いから「三種の触無し」と言う。また苦受の家の行も無いから「三種の愛無し」と言う。もし色界・無色界が十二を具えていないなら、どうして経文に「また十二を具足すると名付けることを得る」とあるのか。しかし、かの羯羅邏の死、及び色界・無色界の生は、たとえ十二を具えていなくとも、苦輪は未だ息んでいない。三界を往還して、終には十二を具える。二つ目の解釈は、第四禅から無色界に至っては、苦も楽もなく、また中容の捨も無い。故に「三受無し」と言う。無色界は色が無いので、十二を具えない。「定んで得るを以ての故に」以下の、第四。総じて皆、十二を具えることを結ぶ。未だ苦輪を息んでいないなら、始終長く望むので、皆具わると言う。仏性もまた同じである。第二、合わせる譬え。六道・四生は皆、十二を有する。諸衆生が等しく仏性を有することの譬えである。「雪山に草有り」以下の、第三の三譬え。縁を待って初めて見えることを明かす。すなわち三つとなる。初めの譬えと合わせる。合わせの中では、先に正しく合わせ、次に理を明かす。理を明かすことは、また三つとなる。初めに九つの章の門を唱える。門門に三句有り、合わせて二十七句となる。第二に、解釈する。解釈の中には、長く三つの事柄が出てきて、章には無い。列挙するなら三十六句となる。後の二つの「善男子よ」は、第三の総結である。第二に黒鉄の譬えを挙げ、第三に種子の譬えを挙げる。前の二つの譬えは、皆、先に譬え、後に合わせる。後の譬えには合わせの文は無い。「是の大涅槃は」以下の、第二の結びの嘆賞。文のままである。

「爾時師子」下，答第五問，先騰上兩問、後作兩答以答前問。答文為二：初唱十章；後解釋其八是八大人覺屬自行，後兩章是化他。八覺是小乘名教，云何是菩薩行？一解云：法門無定，在大即大。二解云：只八大人，自行為小；復有化他，故得是大。今明以大涅槃心修，即異小乘。「師子吼」下，第二解釋十法。有五番：初番有問答。答但以少欲知足共為一解，以義相帶故；餘者各解。就初釋少欲知足，復數番：初約善惡共解。後「有少欲」下，約小大共解。文為四句：初句少欲是須陀洹。前云少欲知足為善，今釋不少欲不知足為善。《法華》云「得少便為足」，自保守小謂是為足。今釋少欲是須陀洹，知足是中乘，皆是保非為極少欲知足，即知四果最極。對菩薩不少欲不知足，菩薩上求佛果無窮故不知足，下化無窮復不知足。餘如文。第八釋解脫。即是無上涅槃者，二解：靈味令正翻涅槃為解脫。此明涅槃與解脫異。開善云：涅槃翻滅度，解脫翻無累。觀師云：涅槃與解脫同是斷德，因滅煩惱故得解脫，得解脫故得大涅槃，即是不異。又云四暴河者，即前三漏長有見暴河，即通覽三界見為見暴河。「復次出家之人」下，第二番，約出家人釋十法。但有八文，前合少欲知足、後但釋解脫，不明涅槃，是故略耳。四樂者，大樂即出家人樂，應是戒樂；寂靜即禪定樂；永滅即智慧斷惑樂；畢竟即菩薩樂。四精進即四正勤。「復次菩薩」下，第三番，據菩薩釋十法。但有九者，菩薩以涅槃心修，故不說之。隨順天行為正定者，此明天行以定為體。今寄一並，若正定隨順天行，天行遂以定為體；應身隨順眾生，眾生應以應身為體。今明天行是理，以理為本，故言正定。「復次夫少欲者」下，第四番解十法，文亦可解。八解脫為正定者，數人云：八解脫以定為體。論人：八解脫以慧為體。私云：皆不爾云云。「復次善男子」下，第五番，但解九。五種樂者，河西云：一因樂、受樂、斷樂、遠離樂、菩薩樂。因樂者，因內外緣得樂。受樂者，從內外緣，身得增長、心得安隱，名為受樂。修習聖道斷除諸受，令道增長，名斷受樂。永離煩惱，身心無患，名遠離樂。以常樂故，名菩薩樂。五樂皆從淺至深，出《菩薩地經》。

「善男子如汝所言」下，答第六問，先牒問、後正答。答為二：先答、後勸。初答又為兩：先明了與不了、次明眼見聞見。初了不了中有五番，最後釋一切覺者，一心三智照一諦三諦，名一切覺。十住亦得此覺，比佛猶昧故不了了；地前十住全不見性，是故不論了與不了。次眼見聞見中有兩番：初以十住為聞見，佛地為眼見。次番以九地已還為聞見，第十住為眼見。此中應作四句：第十住亦聞見亦眼見，九地已下但有聞見，佛地但有眼見，文中自出此之三句。若眾生聞不信者，非聞見非眼見云云。若十住與十地異者，非唯初住不見，十住亦不見，即是別位。若十住與十地同者，豈第十住見，初住亦見。今文云住，又復云地，故知此中住地不異，即是圓位。而簡九地是聞者，以其見不了了，抑之為聞；第十住勝，加之以眼。蓋是圓位得作此釋，餘位不得云云。

> 「善男子、汝の言うが如し」の下は、第六の問いに答える部分である。まず問いを繰り返し、次に正しく答える。答えは二つに分かれる：まず答え、次に勧める。初めの答えはさらに二つに分かれる：先に「了」と「不了」を明らかにし、次に「眼見」と「聞見」を明らかにする。 「了」と「不了」の部分には五つの段階がある。最後に「一切覚者」の解釈として、一心三智が一諦三諦を照らすことを「一切覚」と名付ける。十住の位もこの覚りを得るが、仏と比べればまだ曇っているため、「了」とは言えず「不了」である。地前の十住は全く自性を見ないため、「了」と「不了」の議論はそもそも成立しない。 次に「眼見」と「聞見」の部分には二つの段階がある。初めは十住を「聞見」とし、仏地を「眼見」とする。次の段階では、九地以下を「聞見」、第十住を「眼見」とする。ここでは四句で説明すべきである：第十住は「聞見」でもあり「眼見」でもある。九地以下は「聞見」のみ。仏地は「眼見」のみ。本文中にこの三句は既に示されている。もし衆生が聞いても信じなければ、それは「聞見」でも「眼見」でもない<note>云々</note>。 もし十住と十地が異なるならば、初住だけでなく十住も見えないことになり、それは別の位である。もし十住と十地が同じであるならば、第十住が見えるのなら初住も見えるはずである。今の本文では「住」とも「地」とも述べており、ゆえにここでの「住」と「地」は異ならない。つまり円教の位なのである。しかし九地を「聞」と区別するのは、その見え方が不明瞭であるため「聞」と抑え、第十住は優れているので「眼」を加えたのである。これは円教の位だからこそこのような解釈が可能であり、他の位ではできない<note>云々</note>。

## 大般涅槃經疏卷第二十四

> 大般涅槃経疏 第二十四巻