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title: "大般涅槃經疏 · 3"
description: "大般涅槃经疏由隋朝天台宗五祖章安大师灌顶撰述，是注解北本《大般涅槃经》的重要疏钞。灌顶承袭其师智顗思想，依天台教观阐释经义，重点发挥如来常住、众生皆有佛性、一阐提也能成佛等核心教理。该疏系统论述了涅槃境界与佛性思想，融合南北朝佛学成果，是天台宗判教体系的关键著作，对隋唐以后中国佛教思想发展影响深远，被视为研究《大般涅槃经》的权威注疏。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cme55wu9b01ebjo049djwb9co"
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## 大般涅槃經疏卷第二十五

> 「大般涅槃経疏 第二十五巻」

隋章安頂法師撰

> 隋の章安頂法師による撰述

唐天台沙門湛然再治

> 唐の天台僧・湛然が再編集

### 師子吼品之二

> 獅子吼の章 第二

起卷是第二勸修，初勸修、後論義。上云十住聞見至佛眼見，若欲聞見、眼見，應當受持十二部經，故有勸修。「師子吼言」下，第二論義，六番問答：初一番明見義、中間四番明能見之行、後一結成。初文者，先問、次答。初問文者，上云如來妙絕凡夫。云何見聞？是故興問。次「善男子」下，答中二：初明實不可知；次「若欲觀察」下，明亦有可知。上就究竟證為眼見、分證為聞見，今約凡夫修習中取聞見、得道力強眼見。色身則弱，上〈德王品〉說：見佛初生、出家，不達妙本，悉是曲見。今覩如來生行七步，知是方便，則得見佛。各有所據，不得一槩。於中三：先標章、次解釋、三結。初標如文。就解釋，文有六番：初身口二業、次形聲兩勝、三身通心通、四受身說、法五身口忍、六身形聲說。前五可見。第六文中，於聞見文末云為梵王說中道者，約顯露教；說四諦五人得初果，約密教；說中道無量菩薩得無生忍乃至補處。又鈍根聞生滅四諦，中根聞無生四諦，則不聞說中道。利根聞說無量無作四諦，即說中道。明中道有五番，或雙捨論中道、或相成論中道、或雙照論中道。私云：兩捨是兩教，相成是別教，雙照是圓教，在文可尋。「如來心相」下，第三結成，如文。

> 初めの部分は第二の「勸修」である。初めに「勸修」、後に「論義」である。先に「十住までは聞見であり、佛に至って眼見である。もし聞見・眼見を得たいと望むなら、十二部経を受持すべきである」と述べたので、勸修が設けられたのである。 「師子吼言」から下は、第二の「論義」である。六度の問答がある。初めの一つの問答は「見」の意味を明かし、中間の四つの問答は「見」をもたらす行いを明かし、最後の一つでまとめるのである。 初めの文では、先に問い、次に答えがある。初めの問いの文は、先に「如來は凡夫を超えて妙なる存在である」と述べた。では、いかにして見たり聞いたりするのか。このように疑問が生じたのである。 次に「善男子」から下は、答えの中に二つある。初めに実際には知ることのできないことを明かし、次に「若し觀察せんと欲せば」から下は、また知ることができることを明かすのである。先ほどは究竟の証を得たものを眼見とし、分証を得たものを聞見としたが、今は凡夫の修習の立場から言えば、聞見を取るのが適切であり、悟りの力が強ければ眼見となる。色身の方は弱い。先の『徳王品』では、佛の誕生や出家を見ても、その奥深い根源に達せず、すべて曲がった見方になると説かれた。今、如來が生まれて七歩歩まれたのを見て、それが方便であると知れば、佛を見ることができるのである。それぞれ拠り所があり、一律に決めることはできない。 この中に三つある。初めに章を掲げ、次に解釈し、三つ目にまとめる。初めの章立ては本文の通りである。解釈の部分の文章には六つの段階がある。初めに身と口の二つの業、次に形と声の二つの勝れた点、三つ目に身の通達と心の通達、四つ目に身を受けて説法すること、五つ目に身と口の忍耐、六つ目に身形と声説である。初めの五つは明らかである。 六番目の文について述べる。聞見の文の末尾で「梵王のために中道を説く」とあるのは、顕露教の立場である。「四諦を説き、五人が初果を得た」とあるのは、密教の立場である。「中道を説き、無量の菩薩が無生法忍乃至は補処を得た」とあるのは、さらに鈍根の者は生滅四諦を聞き、中根の者は無生四諦を聞くが、中道を説くのを聞かない。利根の者は無量無作の四諦の説法を聞き、すなわち中道を説くのである。中道を明かすには五つの段階がある。あるいは双捨して中道を論じ、あるいは相成して中道を論じ、あるいは双照して中道を論じるのである。 私が思うに、両捨は二つの教えであり、相成は別教であり、双照は円教である。本文を検討すれば分かるだろう。 「如來心相」から下が、第三の結成である。本文の通りである。

「爾時師子吼」下，第二有四番問答，明能見之行。初番先問、次答。問又二：先舉僧寶問、次舉佛說難。初文者，即四依人問，心是內本、行是外迹。言初二種者，以初二濫後二，故不可知。「如佛所說」下，第二正舉佛難。直置僧寶尚已難知，況乃如來。但見色身聞說法，云何依此二事知是如來？佛答又二：先答僧、次答佛。初答僧為三：一結問。「以難知」下，次以四緣故知。「具足四事」下，三結成，可知。「戒有二種」下，第二答佛問。復有六番：初番，持戒究竟不究竟？「復有二種」下，第二番，為利不為利？後四番，悉如文，可尋。

> 「爾時師獅子吼」より下、第二に四番の問答が有り、能見の行を明かす。初番は先ず問い、次に答え。問いにはまた二点あり：先ず僧宝を挙げて問い、次に仏の説を挙げて難ず。初めの文とは、即ち四依の人の問いである。心は内の本、行は外の跡である。「初二種」と言うは、初二が後二と紛らわしいから、知ることが難しいのである。「如佛所説」より下、第二に正しく仏の説を挙げて難ず。ただ僧宝のみを置いても既に知り難いのに、況や如来をや。ただ色身を見、説法を聞くのみで、どうしてこの二つの事によって如来であると知ることができようか。 仏の答えにはまた二点あり：先ず僧に答え、次に仏に答える。初めの僧への答えは三つ：一に問いを結ぶ。「以難知」より下、次に四つの縁によって知るとする。「具足四事」より下、三に結成する。知るべきである。 「戒有二種」より下、第二に仏の問いに答える。また六番有り：初番は、戒を保つこと究竟か究竟でないか。「復有二種」より下、第二番は、利益の為か利益の為でないか。後の四番は、全て文の通りで、尋ねることができる。

「師子吼言」下，是次番問答。前云持菩薩戒得見佛性，為作要求、為不要求？要求者，是市易法；若不要求，行而無願。未知云何，故有此問。佛答有兩：初發起十四句。法性自爾而相隣接，任運法爾，非作要求。若心不悔，持戒不淺。次「持戒」下，心任運成，得見佛性，住大涅槃云云。

> 「師子吼の言」の下は、二度目の問答である。 先に、菩薩戒を持てば仏性を見ることができると説かれたが、 それは「要件（条件）」としてなのか、それとも「要件ではない」のか。 もし要件であるならば、それは売買のような取引の法である。 もし要件でないならば、行いながらも願いを立てないことになる。 そうであるならば、どういうことなのか、という疑問がここで生じる。 この問いに対して、仏の答えは二つある。 まず初めに十四句を発して、法性はおのずからそうあり、隣り合って連なり、 自然のままに法のまま進むのであって、条件を課してそうなるのではないと説く。 心に悔いがなければ、戒を持っていても浅はかになることはない。 次に「持戒」以下の部分では、心が自然と共に働き、 そのまま仏性を見ることができ、大いなる涅槃に安住するのである<note>云々</note>。

第三番問答，問中又三：先領旨、次作難、三結。初如文。次難中，初難戒是眾行之本，有果而無因，應是真是常。涅槃居在諸行之末，有因而無果，應是無常。後偏結一邊，可見云云。佛答，先歎、次答。歎中為三：一歎因深、二歎持力、三誡聽。初如文。次文中善得時長釋迦日短者，以緣宜故也，例如日月燈明六十小劫，此間食頃云云。二佛答。初答持戒無因之問，有法、譬、合。法中為二：一唱有因、二遮無盡。初有因者，以聽法善友等為作戒因。從「信心因於聽法」下，二遮恐無窮之難，故指二法互為因果。次「譬如」下，凡舉三譬：初為遮無窮作譬。諸師多言：尼乾淨行不以瓶著地，三木為拒以支一瓶，瓶由拒立、拒藉瓶成。二梁武云：尼乾口啖牛糞、身裸穢根，有何淨行而可稱耶？拒者，今之渴烏取水者是，亦名轆轤，井上施之更互上下，即是互為因果之義。而言尼乾者，指其家有此拒。次舉十二因緣譬，若克定三世譬此不便，取輪迴不窮，更互義成。三舉小乘中八相為譬，大生直名為生、小生言生生。成論人破毘曇大小生義，解此文云：一期之壽是大生，念念生滅是小生，由一期有念念、由念念有一期。解文不了，而復不許用毘曇義。此不應然，破立適時，借譬何爽。私謂：古人以一期與念念更互相生，何以不得？然不及剎那，八相只一剎那是生是生生。故一剎那中，大相是因、小相是因因，小相是果、大相是果果，是則更互為因、更互為果。如一信心，即此信心是聽法心，即聽法心是於信心，雖同一念而更互相因，既互相因即互成果。「信心聽法」下，合譬，答前初難，明戒有因。從「是果非因」下，答後難，明涅槃是果而無因答。後又三：初唱兩章門，一是果、二非因。次「何故名果」下，釋是果章門。是出世果，故言上果。是習果故，故是沙門。婆羅門果是佛果故，故言斷生死。是絕待果故，故言無煩惱。煩惱名過過者，體是死因，一過復得苦果，故言過過。又無明能迷理，復能障智，故是過過。從「涅槃無因」下，二釋非因章門。無生滅者，無世間因。無所作者，無報因。非有為者，無生因。常不變等三句，是無相待因。三「善男子」下，結無因義。

> 第三番目の問答において、問いの部分はさらに三つに分かれる。まずは教えを理解したことを述べ、次に疑問を提示し、最後に結論を述べる。初めの部分は経典の通りである。次の疑問の中で、まず戒律はすべての修行の根本でありながら結果があって原因がないならば、それは真実であり常住であるべきだと難じる。涅槃はすべての修行の最終に位置しながら原因があって結果がないならば、それは無常であるべきだと論じる。最後に一方に偏って結論づけることは、理解できる<note>云云</note>。 仏の答えは、まず賞賛し、次に答える。賞賛の中では三つに分かれる。一つは因の深さを賞賛し、二つは戒を保つ力の強さを賞賛し、三つは聞くよう戒める。初めは経典の通りである。次の文で「善く得る時は長く、釈迦の日は短し」というのは、縁が適切だからである。例えば日月燈明が六十小劫の間説法し、この間が食事の一瞬に当たるようなものである<note>云云</注>。 二番目の仏の答え。まず、戒律を保つことに因がないという問いに答える。法、譬え、総合がある。法の中では二つに分かれる。一つは因があると唱え、二つは無限に続くことを遮る。初めに因があるとは、法を聞くことや善き友などが戒を作る因となることである。「信心は因って聽法より」から下は、二番目に無限の難問を恐れて、二つの法が互いに因果となることを指し示す。次に「譬えば」から下は、全部で三つの譬えを挙げる。初めの譬えは無限を遮るためのものである。多くの師は言う、ニガンタ（ニガンタ・ナータプッタ：ジャイナ教の祖）の修行者は瓶を地に置かず、三本の木を支えとして瓶を置く。瓶は支えによって立ち、支えは瓶によって成り立つ、と。二番目に梁の武帝は言う、ニガンタは口で牛の糞を食べ、裸で穢れた根を持つ。どのような清らかな行いがあって称賛できるだろうか。支えとは、現在の水を汲む装置（渴烏）であり、井戸の轆轤（ろくろ）のことである。井戸の上に設置され、互いに上下する。これが互いに因果となる意味である。ニガンタと言うのは、その家にこのような支えがあることを指す。次に十二因縁の譬えを挙げる。もし三世代に限定するとこの譬えは適さないが、輪廻が無限に続くことから、互いに因となり果となる意味が成立する。三番目に小乗の八相を譬えに挙げる。大きな生は単に「生」と呼ばれ、小さな生は「生生」と呼ばれる。成実論の学者は毘曇（アビダルマ）の大小生の意味を批判して、この文を次のように解釈する。一生の寿命は大生であり、一念ごとの生滅は小生である。一生によって一念ごとの生滅があり、一念ごとの生滅によって一生がある。この文の解釈は明らかでない上に、毘曇の意味を用いることを許さない。これは正しくない。破し立てることは時期に適うべきであり、譬えを借りることが何の妨げになろうか。私見では、古人が一生と一念ごとの生滅が互いに生じ合うとしたのは、どうして許されないことがあろうか。しかし、それでも刹那には及ばない。八相はただ一刹那において「生」であり「生生」である。ゆえに一刹那において、大相は因であり小相は因の因、小相は果であり大相は果の果である。このように互いに因となり、互いに果となる。例えば一つの信心、この信心即ち法を聞く心、即ち法を聞く心は信心である。同じ一念でありながら互いに因となり因となるから、互いに果を生じる。「信心聽法」から下は、総合の譬えであり、先の初めの難問に答えて、戒律には因があることを明らかにする。「是れ果にして因に非ず」から下は、後の難問に答えて、涅槃は果でありながら因がないという問いに答える。後にまた三つに分かれる。初めに二つの章門を唱える。一つは果であること、二つは因でないこと。次に「何を以ての故に果と名づく」から下は、果である章門を釈する。それが出世の果であるから、「上の果」と言う。それが習果（修行の結果としての果）であるから、沙門（修行者）である。婆羅門の果は仏果であるから、生死を断つと言う。それが絶待の果（相対を超えた果）であるから、煩悩がないと言う。煩悩を「過過（過ちの上の過ち）」と呼ぶのは、その本体が死の因であり、一つの過ちが再び苦しい果を得るから「過過」と言う。また無明は理を迷わせ、さらに智慧を妨げるから、「過過」である。「涅槃に因無し」から下は、二番目に非因（因でないこと）の章門を釈する。「生滅なし」とは、世間の因がないこと。「作す所無し」とは、報いの因がないこと。「有為に非ず」とは、生じる因がないこと。「常にして變ぜず」などの三句は、相対する因がないことである。三「善男子」から下は、因がない意味を結論づける。

次第四番問答。問為三：初領旨仰非、次舉六無為難、三結。次畢竟無，但是語勢，非是正意，正取有時無故為難。言有因者，有習因、了因；言無因者，無生因、報因。故舉有時無以之為難。如池沼之雨旱、如日月之籠散，因之有無，似同於此。少無者，以少故無，非是全無。不受無者，只是不受為無，非無彼法；不受惡亦如是，不對亦爾。後之三無，俱是互無之意。三結，如文。佛答為二：先明無因、次明有因。初答無因為三：先非五就一、次六喻併非、三結無因。初非五就一者，汝以畢竟無以為正難，尚不全是，有少分是，是故就之，況以五喻寧得會耶？次併非六喻。六是世法，不可對於出世之法而復重非畢竟無者，以其墮斷無我無我所，故與涅槃乖。涅槃有我，故重說之。三「善男子」下，結意如文。「是因非果」下，二答涅槃是因而非於果。文為二：初標章、次釋。標者，明涅槃是因，以佛性為因即是了因。復簡出非因，即非生因；標其非果，非沙門小果。前云沙門果者，指佛果為沙門婆羅門果。「因有二種」下，釋文為三：一明有生了二因、二舉三譬譬之、三三番舉法門合之。合中悉用親為生因、疏為了因。此雖明不可思議之法，略須分別。前一番事理相對，六度是事為生因、佛性是理為了因；次定散相對；後橫豎相對云云。而初文中云菩提者，此欲明因取果，又舉果成因。問：涅槃無因，而義說生因了因，亦應義說生了二果。答：了因所成即是了果，生因所出即是生果，何不得並別有二果？生果即是無常，了果即是於常，世人謂屈此並。此乃不思議法門，何所不得？且用首楞嚴通之，譬如術人於眾前死，得財物已而復還生。今經二鳥雙游即是其義。「近是」下，文云佛身二種，一常、二無常云云。「師子吼」下，第三，有一番問答，結成本宗。此問從前眼見聞見如來佛性生。夫佛性之性絕色非色，云何可見？佛答此為二者，皆悉再答，悉開兩意，故有可見、不可見，如文。

> 第四番の問答に入ります。問いは三つあります。第一に、宗旨を理解して誤りを正すこと、第二に、六つの無為を挙げて問い詰めること、第三に、結論を述べることです。「畢竟無」というのは、あくまで言葉の勢いであって、真の意図ではありません。真の意図は「時として有る」という点を「無」と捉えて問いを立てることにあります。「因がある」とは、習因と了因を指し、「因がない」とは、生因と報因がないことを指します。そこで、「時として有る」という点を挙げて、それを「無」と見なして問いを立てるのです。 例えば、池や沼が雨で満ちたり干上がったりするように、また月や太陽が雲に隠れたり晴れたりするように、因があることとないことは、これと似ています。「少無」とは、量が少ないから無いのであって、まったく無いわけではありません。「不受無」とは、ただ受け入れないことを「無」と言うのであって、その対象となる法が無いわけではありません。悪を受け入れないのも同じで、対しないことも同様です。後の三つの「無」は、いずれも互いに無いという意味です。三つの結論は、本文の通りです。 仏の答えは二つあります。まず「因がない」という点を明かし、次に「因がある」という点を明かします。初めの「因がない」という答えは三つに分かれます。第一に、五つの譬えを否定して一つの論点に絞ること、第二に、六つの譬えをすべて否定すること、第三に、「因がない」という結論を示すことです。 第一の「五つを否定して一つに絞る」とは、あなたは「畢竟無」を正面からの問いとしていますが、それは完全に正しいわけではなく、一部正しいところがあるので、その点に着目します。ましてや五つの譬えをもってしても、どうして正しく理解できるでしょうか。 第二に、六つの譬えをすべて否定します。六つは世間の法であり、出世間の法と対比させることはできません。さらに「畢竟無」を重ねて否定するのは、それが断無の見解に陥り、「我」も「我所」もないとするため、涅槃にそぐわないからです。涅槃には「我」があるので、重ねて説くのです。 第三に、「善男子」以下の部分で、結論の意図を本文の通りに述べます。 「是因非果」以下の部分は、第二に、涅槃は因であって果ではないと答えるものです。本文は二つに分かれます。第一に標章を立て、第二に解釈します。標章とは、涅槃は因であることを明かし、仏性を因とするのがすなわち了因であると示します。さらに、因でないものを取り除く、すなわち生因ではないと示し、果でないことを標し、沙門の小果ではないことを示します。前に「沙門果」と言ったのは、仏果を沙門婆羅門の果と指したものです。 「因有二種」以下の部分は、解釈の文が三つに分かれます。第一に、生因・了因の二因を明かし、第二に、三つの譬えを挙げて例示し、第三に、三つの法門を挙げてこれに合わせます。合わせるにあたっては、すべて親しいものを生因とし、疎遠なものを了因とします。これは不可思議な法を明かすものですが、大まかに分別する必要があります。最初の一対は事と理を対比したもので、六波羅蜜は事であって生因となり、仏性は理であって了因となります。次は定と散を対比し、その次は横と縦を対比します<note>云々</note>。 初めの文で「菩提」と言うのは、因によって果を得ることを明かし、また果を挙げて因を成立させるためです。 問う：涅槃には因がないのに、義理として生因・了因を説くならば、同じく義理として生果・了果の二つの果を説くべきでしょうか。 答える：了因によって成就するものはすなわち了果であり、生因によって生じるものはすなわち生果です。どうして並べて二つの異なる果があると言えないでしょうか。生果はすなわち無常であり、了果はすなわち常です。世の人々はこの並立を歪めていると言います。これは不可思議な法門であり、どうして許されないことがありましょう。かりに首楞厳経の教えで通してみましょう。例えば、幻術師が人々の前で死に、財物を得てからまた生き返るようなものです。今経の二鳥が双遊するというのは、まさにこの意味です。 「近是」以下の文では、仏身には二種、一には常、二には無常があると説かれています<note>云々</note>。 「師子吼」以下の部分は、第三に、一つの問答があり、これによって本旨を結びつけます。この問いは、前に述べた「眼見・聞見の如来仏性」から生じています。そもそも仏性の性質は色や非色を超えているのに、どうして見えると言えるでしょうか。仏はこれに答えて、両方とも二度答える形を取り、それぞれ二つの意味を開示するため、可見と不可見があることを示します。本文の通りです。

「佛性非內非外」下，是品中第二大段。前作佛性說，此作中道說。文為三：一略標中道、二廣破邊執、三結歎佛性。初標中道有三句。初句云非內非外者，舊解云：不定在眾生身內，故言非內；復不離眾生，即此識神而得成佛，故言非外。觀師解云：非在眾生身內故言非內，亦不在眾生身外故言非外。今皆不然，舊說取捨如步屈蟲，次說如鳥除二翅。何者？眾生五陰是因緣生法，即是空，不在俗諦，故非外；此法即假，不在真諦，故非內；此法即中，故不俱在二諦。此法遍一切處，故不獨在中道諦，此法不可思議，不縱不橫、不並不別，豈作單能說之？上文云一切覺者名為佛性，諸師單說非一切覺則非佛性，不名中道。三點具足名一切覺，是名佛性，乃是中道。只以即空非外不在俗諦，只依此意，任運破諸師所說。標第二句，云雖非內外而不失壞，此還成上意。舊云：非外故不失、非內故不壞。若定在外，應東西散失；若定在內，應同於死身有臭壞，故言非失非壞。觀師云：其本無成所以不壞，其本無得所以非失。今明二師解初句未成、釋後句無託。此句釋成上非內非外，而復即中，故言不壞；而復雙照，故言不失。標第三句，云故名眾生悉有者，觀師云：雖非內外亦不有無，而假名為有。今相釋上不失不壞，即遍一切處故名悉有。

> ここに「仏性は内にあらず外にあらず」とあるのは、本品の中でも第二大段落にあたります。 前の段落では仏性について説き、この段落では中道について説かれています。 その内容は三つに分けられます。第一に中道を簡略に示し、第二に偏った考えを広く破し、第三に仏性を総括して称賛します。 まず中道を示すのに三つの句があります。 初句の「内にあらず外にあらず」について、古い解釈では「必ずしも衆生の体内にあるとは限らないので『内にあらず』と言い、また衆生から離れて存在するわけではなく、まさにこの認識作用（識神）によって成仏できるので『外にあらず』と言う」としています。 観師の解釈では「衆生の体内にないから『内にあらず』であり、衆生の体外にもないから『外にあらず』である」としています。 しかし今、私（天台智顗）はこれらの説をいずれも正しいとは思いません。 古い解釈はまるで尺取虫のように取ったり捨てたりに終始し、後の解釈は鳥の両翼を除くように二つの可能性を消し去ってしまっています。 なぜでしょうか。衆生の五陰は因縁によって生じたものであり、それはすなわち空です。ですから俗諦の範囲にはないので「外にあらず」と言えます。また、この五陰はすなわち仮であり、真諦の範囲にのみあるわけではないので「内にあらず」と言えます。そして、この五陰はすなわち中であり、二諦のいずれか一方のみに属するわけでもありません。さらに、この法はあらゆる場所に遍満しているので、中道諦のみに限定されることもありません。この法は不可思議であり、縦でも横でもなく、並列でも別個でもありません。どうして単純な一方的な言葉で語ることができましょうか。 先の文に「一切を覚する者を仏性と名付ける」とあります。諸師は一方的に説くため、「一切を覚する」という意味を欠き、それは仏性ではなく、中道とは呼べません。 三つの点（三点：真諦・俗諦・中道）を具足して初めて「一切を覚する」となり、これを仏性と名付け、これこそが中道なのです。 まさに「即空であることから外にあらず（俗諦にない）」というこの意味によって、自然に諸師の説は破られるのです。 第二句を示します。「内外にあらずといえども、失われず壊れず」とは、これは上記の意味を更に裏付けるものです。 古い解釈では「外にあらざるゆえに失われず、内にあらざるゆえに壊れない」とします。もし定んで外にあれば、東西に散らばり失われるはずであり、定んで内にあれば、死体のように腐敗して壊れるはずだから、「失われず壊れず」と言うのだとします。 観師は「それは本より成るところがないから壊れず、本より得るところがないから失われない」と解釈します。 今、私は、二師の解釈は、第一句をまだ十分に解明できておらず、そのため後句を解釈する拠り所もないと考えます。 この句は、上の「内にあらず外にあらず」を説明し、そしてそれがすなわち中であることを示すので「壊れず」と言い、また中が俗諦・真諦の両方を照らすことを示すので「失われず」と言うのです。 第三句を示します。「故に名付けて衆生ことごとく有り（悉有）」とあります。 観師は「内外にあらず、有無にもあらざれども、仮に名付けて有りという」と解釈します。 今、私の解釈は、上の「失われず壊れず」ということは、すなわちあらゆる場所に遍満するということであるから、「ことごとく有り」と名付けるのだ、とします。

「師子吼言」下，第二廣破邊執，文為二：先破因中有果執成上非內、次破因中無果執成上非外。此執若除，不失不壞佛性中道悉皆可解。就破因中有果，更為四：一據佛教、二據世情、三據緣因、四據正因。初據教者，近據前文，故名一切眾生悉有佛性；遠據前品，貧女寶藏、力士額珠。此皆內有，寧言非內？世情者，世人求酪取乳、求油取麻，若無油酪，人何故取？舉緣因者，內若無正，何須外緣？如穀無芽，不須水土。舉正因者，由外有緣，使正得生。此皆據於因中有果，顯眾生中悉有佛性，性應在內。就初，據教有六番問答。初引品初及〈如來性品〉為問。佛答明乳即是空，故不定說有；但言酪從乳生，乳即是假，故從因緣有，如文。第二番問答，問一切法各有時節，乳中有酪待時而生，如穀有芽春來方出。佛答為三：初作即空奪破，故言乳時無酪。二作縱答，如其有者，何故不得二種名字？如文。三從「因有二種」下，更示乳即是假，是故言有。第三番問答，若乳無酪，何不從角而生？此舉非因作難。佛一往縱答，角亦生酪。第四番問答，即取此為難。求酪之人何不取角？佛答乳是正因：是故取之；角是緣因，是故不取。第五番舉非果為難。佛先縱答，乳亦生樹，如文。次則奪答，若一因生者，可得如難；須兩因乃生，乳非樹之正因，因緣各異，何得生樹？尋文可見。第六番問答，直問眾生佛性復有幾因。佛答亦具二因：正謂眾生，緣謂六度。莊嚴家據此文，明假名是正因佛性。觀師不用，云緣因不但唯有六度，復有境界及道品等，皆是緣因。正因何得但是假名？亦有五陰及心神等。今明莊嚴覽陰成眾生，此據外；觀師取五陰，此即據內。豈可然耶？上文云佛性非內非外、不失不壞，今謂眾生是正因時，眾生假名，為定在內、為定在外？內外求不可得，還是非內非外，雖非內外而有六度。生其陰軀則不失不壞，一切眾生悉有於陰，還是向義，不應餘解。雖作此消文，可更思之。

> 「師子吼が言う」以下の部分は、第二に「辺執」を広く破る章です。文章は二つに分かれます。まず「因の中に果が有る」という執着を破り、前文の「非内」を成立させ、次に「因の中に果が無い」という執着を破り、前文の「非外」を成立させます。この執着が取り除かれれば、「不失」「不坏」「仏性」「中道」はすべて理解できるようになります。「因の中に果が有る」を破る部分は、さらに四つに分かれます。第一に仏教の教えに基づき、第二に世間の事情に基づき、第三に縁因に基づき、第四に正因に基づくものです。 第一の「教えに基づく」とは、近くは前文に基づいて「一切衆生は悉く仏性を持つ」と言い、遠くは前の品（貧女の宝蔵、力士の額の珠のたとえ）に基づきます。これらはすべて内に有るものであり、「内に非ず」と言えるでしょうか？ 第二の「世間の事情」とは、世の人が酪を得ようとして乳を取り、油を得ようとして麻を取ることです。もし油や酪が無ければ、人はなぜそれを取るのでしょうか？ 第三の「縁因に基づく」とは、内に正因が無ければ、なぜ外の縁因が必要なのでしょうか？ 例えば、穀物に芽が無ければ、水や土は必要ありません。 第四の「正因に基づく」とは、外に縁因があるからこそ、正因が生じるのです。これらはすべて「因の中に果が有る」ことに基づいて、衆生の中に悉く仏性が有り、その性は内にあるべきであることを示しています。 最初の「教えに基づく」部分には、六つの問答があります。 第一の問答では、この品の初めと「如来性品」を引用して問い、仏は「乳はすなわち空である」と答えるため、定めて「有り」とは言えません。ただ「酪は乳から生じる」と言うだけであり、乳はすなわち仮であるため、因縁から有るのです。経文の通りです。 第二の問答では、「一切の法にはそれぞれ時節がある。乳の中に酪は有り、時が来れば生じる。例えば穀物に芽が有り、春になって初めて出るようなものだ」と問います。仏の答えは三つあります。初めに「即空」によって否定する破り方で、「乳の時には酪は無い」と答えます。次に仮に許可する答え方で、「もし有るならば、なぜ二つの名前を得られないのか？」と言います。経文の通りです。三番目に「因には二種類が有る」以下で、さらに「乳はすなわち仮である」ことを示し、だから「有る」と言うのです。 第三の問答では、「もし乳に酪が無いならば、なぜ角からは生じないのか？」と問います。これは因でないものを挙げて難じるものです。仏は一方的に仮に許可して、「角も酪を生じる」と答えます。 第四の問答では、すぐにこれを取り上げて難じます。「酪を求める人は、なぜ角を取らないのか？」と。仏は「乳は正因であるから、それを取るのであり、角は縁因であるから、取らないのである」と答えます。 第五の問答では、果でないものを挙げて難じます。仏は初めに仮に許可して、「乳もまた樹を生じる」と答えます。経文の通りです。次に否定して、「もし一つの因で生じるならば、あなたの難じる通りになるだろう。しかし二つの因が有って初めて生じるのであり、乳は樹の正因ではない。因と縁はそれぞれ異なるのに、どうして樹を生じることができようか？」と答えます。経文を探せば明らかです。 第六の問答では、直接「衆生の仏性にはまたいくつの因が有るのか？」と問います。仏は「同じく二つの因を備える。正因は衆生であり、縁因は六度である」と答えます。 荘厳家はこの文に基づき、「仮名（＝衆生）は正因仏性である」と主張します。観師（=光宅寺の法雲）はこれを用いず、「縁因は六度だけではなく、また境界や道品などもあり、すべて縁因である。正因がどうして仮名だけであろうか？ 五陰や心神などもある」と言います。 今、荘厳家は五陰を集めて衆生を成すことを「外」と見なし、観師は五陰を取ることを「内」と見なします。これは妥当と言えるでしょうか？ 上の文に「仏性は内にも外にも非ず、失われず壊れない」とあります。今、「衆生が正因である」という時、衆生という仮名は、定めて内にあるのか、定めて外にあるのか？ 内外に求めて得られないなら、やはり「非内非外」です。「非内非外」でありながら、六度が有ります。その陰の身体を生じさせるならば「不失不坏」であり、一切衆生は悉く陰を有します。これは結局、先の意味に戻るのであって、他の解釈はすべきではありません。このように文を解釈しましたが、さらに考えていただきたいと思います。

「師子吼言我今定知」下，二據世情執有為難。佛答為二：初正破執、次示正義。初文二：初作三番、次更重破。初三番者，初番問取乳不取水，據乳有酪為問。佛答為二：先非問、次並難。初如文。次難中云汝言求酪取乳不取水者，並云如人求面而取於刀。不舉鏡者，欲作橫竪並之。又鏡亦得為刀，仙人孫博屈刀為鏡、伸鏡為刀云云。第二番即執刀有面為問。佛答：若定有面，何故顛倒，竪長橫短？若有己面，何故狹長？實不狹長而見狹長。若因己面見他面者，何故不見驢馬面？第三番仍併通。佛並眼光到刀中則見己面像，不見驢馬面像。又眼光到刀中，同刀竪而長、同刀之橫闊，是故見之。佛答為三：一奪破，光實不到；二縱破，假到則多過；三結奪。初奪如文。「光若到」下，縱破，有四過：一若光到火，火應燒眼；眼既不燒，知光不到火。二若光到遠，那忽生疑？三光若到者，不應見水精中物，水精閡眼不見外物；淵中魚石，水應閡眼，眼何得到？四光若不到能見者，何故不見壁外？若見壁外，應見外物。「是故」下，第三結奪。「善男子」下，二重破。上未委悉，故更重破。文亦為三：一縱、二奪、三結訶。初縱為三：一應責酪駒、二應壞子孫、三應含五丈。其既舉世情為執，佛亦用世情破之。若乳有酪，賣乳之人應責酪直。縱若有酪，亦應五味一時。若無醍醐，那獨有酪？賣騲馬者應責駒直。駒復有駒，駒駒無已；如其不然，知馬無駒。世人為子騁妻，妻若有子不得名女。女則無子，有子非女。若女有子，子復有孫，孫孫無窮，一腹所生併是兄弟。世豈然乎？如其不然，知女無子。子中有樹，應具五丈，已是亭亭雲外，交柯接葉布濩八方；如其不然，知子無樹。「乳色味異」下，二是奪破。色異者，乳白、酪黃。味異者，乳甜、酪酢。果異者，乳治熱、酪治冷。既無此等，云何有酪？「譬如服酥」下，第三結訶，明當服酥，今已患臭。亦當明當醪渜，今已飽飫得酪食用。何有是事？「譬如有人」下，第二示正義，文為四：一舉譬示正義、二引偈證、三下約眾生、四高推佛境。初舉三譬，又二：先譬、次合。初譬中示於無性，假緣而有，譬如文。「一切諸法」下合譬。「以是義故」下，第二引偈證成。但取初二句證無性足。若定有性，不應本無而今有，亦不應本有而今無。本有應常有、本無應常無，既其不定，云何而言乳有酪性？下二句相仍而來。此偈是第四出，以證今義。「若諸眾生」下，第三約眾生身空以示正義，自有法、譬、合。重譬如文。「眾生佛性諸佛境界」下，第四高推在佛，如文。觀上經文，縱奪破竟，明佛性即空。次舉三譬，明佛性是假。次引偈證，佛性即空即假。次明眾生身空，譬於佛性遍一切處。引諸佛境界，明佛性即中。觀文甚會。亦與上文佛性名為第一義空，空名智慧等，義甚相應。私謂：章安依經具知佛性遍一切處，而未肯彰言，以為時人尚未信有，安示其遍？佛性既具空等三義即三諦，是則一切諸法無非三諦、無非佛性。若不爾者，如何得云眾生身中有於虛空？眾生既有，餘處豈無？餘處若無，不名虛空。思之思之。

> 師子吼が「私は今、はっきりと知りました」と言った後の下の部分は、世間の情に基づいて「有」に執着することを難じたものです。それに対する仏の答えは二つの部分から成ります。第一に、執着を直接破る。第二に、正しい道理を示す。第一の部分はさらに二つに分かれます。第一に、三つの問答を行う。第二に、さらに改めて破る。 最初の三つの問答のうち、最初の問答では「乳を取って水を取らない」ことを取り上げ、乳に酪があるという前提で問いを立てます。仏の答えは二つに分かれます。第一に問いを否定する。第二に、並べて難じる。最初は本文の通りです。次の難問で「あなたは酪を求めるのに乳を取り、水を取らないと言う」と述べた後、並べて「人が顔を求めるのに刀を取るようなものだ」と述べます。鏡の例を挙げないのは、縦と横を並べて論じようとしたからです。また、鏡は刀にもなり得ます。仙人の孫博は刀を曲げて鏡とし、鏡を伸ばして刀としました<note>云云</note>。 第二番目の問答は、刀に顔があると執着することを問うものです。仏の答えは「もし必ず顔があるなら、なぜ顎が逆さに映り、縦が長く横が短いのか？もし自分の顔があるなら、なぜ細長いのか？実際には細長くないのに細長く見える。もし自分の顔によって他人の顔を見るなら、なぜロバや馬の顔を見ないのか？」。 第三番目の問答では、さらに問答を続けて統合します。仏は「眼光が刀の中に達すると、自分の顔の像は見えるが、ロバや馬の顔の像は見えない。また、眼光が刀の中に達すると、刀の縦の長さに合わせて長く、刀の横の広さに合わせて広くなるので、それを見ることができる」と並べて論じます。仏の答えは三つに分かれます。第一に、否定して破る。光は実際には到達しない。第二に、仮に認めて破る。仮に到達したとしても多くの過失がある。第三に、結論づけて否定する。最初の否定は本文の通りです。「光若し到らば」以下の部分は、仮に認めて破るもので、四つの過失があります。一に、もし光が火に届くなら、火は眼を焼くはずだ。眼が焼かれない以上、光が火に届かないことを知る。二に、もし光が遠くに届くなら、どうして疑問が生じるのか？三に、もし光が届くなら、水晶の中の物を見ることができないはずだ。水晶は眼を遮り外界の物を見せない。淵の中の魚や石は、水が眼を遮るはずで、どうして眼はそこに到達できるのか？四に、もし光が届かなくても見えるなら、なぜ壁の外を見ることができないのか？もし壁の外を見ることができるなら、外の物を見るはずだ。「この故に」以下は、三番目の結論づけて否定する部分です。 「善男子」以下の部分は、第二に改めて破ります。上の説明で詳細を尽くしていなかったため、改めて破ります。本文は三つの部分から成ります。第一に仮に認める、第二に否定する、第三に結論づけ叱る。第一の仮に認める部分は三つに分かれます。一に、酪の代金を請求すべき、二に、子孫を滅ぼすべき、三に、五丈の木を含むべき。相手が世間の情に基づいて執着するなら、仏もまた世間の情を用いて破ります。もし乳に酪があるなら、乳を売る人は酪の代金を請求すべきです。仮に酪があるなら、五味も同時にあるべきです。もし醍醐がなければ、どうして酪だけがあるのか？雌馬を売る人は子馬の代金を請求すべきです。子馬がまた子馬を産めば、子馬は尽きることがありません。もしそうでなければ、馬に子馬がいないことを知る。世の人は子のために妻を迎えますが、妻に子がいれば女子とは呼べません。女子であれば子はなく、子がいれば女子ではありません。もし女子に子がいれば、子にはさらに孫ができ、孫孫は無限に続き、一人の腹から生まれた者すべてが兄弟となります。世の中にそんなことがありましょうか？もしそうでなければ、女子に子がいないことを知る。子の中に木があれば、五丈の木が備わっているはずで、すでに高くそびえ雲の上にあり、枝を交え葉を重ねて八方に広がっているはずです。もしそうでなければ、子に木がないことを知る。 「乳の色味異なり」以下の部分は、第二に否定して破ります。色が異なるとは、乳は白く、酪は黄色いこと。味が異なるとは、乳は甘く、酪は酸っぱいこと。効能が異なるとは、乳は熱を治し、酪は冷えを治すこと。これらの違いがないのに、どうして酪があると言えるのか？ 「譬えば酥を服するが如し」以下の部分は、第三に結論づけ叱ります。当に酥を服すべき時に、今や既に臭いを患っている。また、当に醪渜（どぶろくのようなもの）を飲むべき時に、今や既に飽き飽きして、酪を食用として得ている。そんなことがどうしてあり得るのか？ 「譬えば人有り」以下の部分は、第二に正しい道理を示します。本文は四つの部分から成ります。一に、譬えを挙げて正しい道理を示す。二に、偈を引いて証明する。三に、下って衆生について論じる。四に、高く推して仏の境地とする。最初に三つの譬えを挙げます。さらに二つに分かれます。第一に譬え、第二に合成（たとえ話の適用）。最初の譬えでは無自性を示し、仮の縁によって存在することを示します。譬えは本文の通りです。「一切の諸法」以下は、合成の譬えです。「この義を以ての故に」以下の部分は、第二に偈を引いて証明します。最初の二句だけを取って、無自性を証明するのに十分です。もし定まった自性があれば、本来無かったものが今有るということはあり得ず、本来有ったものが今無いということもあり得ません。本来有るものは常に有るべきであり、本来無いものは常に無いべきです。それが不定である以上、どうして乳に酪の自性があると言えるのか？下の二句は、それに続いて来るものです。この偈は第四の出典から来ており、現在の義を証明するために用いられています。 「若し諸の衆生」以下の部分は、第三に衆生の身が空であることについて正しい道理を示します。自ら法（理論）、譬え、合成の部分があります。重ねて譬えがあるのは本文の通りです。 「衆生の佛性は諸佛の境界なり」以下の部分は、第四に高く推して仏の境地とします。本文の通りです。 以上の経文を観察すると、縦に仮定し否定して破り終えた後、佛性は即ち空であると明かします。次に三つの譬えを挙げて、佛性は即ち仮であると明かします。次に偈を引いて証明し、佛性は即ち空であり即ち仮であるとします。次に衆生の身が空であることを明かし、佛性が一切の場所に遍満することを譬えます。諸佛の境界を引いて、佛性は即ち中であると明かします。経文を観察すると、非常によく合致しています。また、上の「佛性は第一義空と名づけ、空は智慧と名づく」などの義とも非常に対応しています。 私的に思うに、章安は経に基づいて佛性が一切の場所に遍満することを十分に知っていたが、それをはっきりと言おうとはしなかった。それは、当時の人々がまだその存在を信じておらず、どうしてその遍満を示すことができようか？佛性が既に空などの三つの義、すなわち三諦を備えているならば、これによって一切の諸法は三諦に非ずということはなく、佛性に非ずということもない。もしそうでなければ、どうして「衆生の身中に虚空有り」と言えるのか？衆生に既に有るなら、他の所にどうして無いのか？他の所に無ければ、虚空とは呼べない。よく考え、よく考えるべきである。

「師子吼」下，第三據緣能發。因中之果若都無者，何用緣耶？又有五番問答。初番問意：若乳無酪性，何用緣因？虛空無性，不俟二因。答如文。第二番，轉緣因作了因名。問中有三譬，次引乳譬合，如文。佛答為四：一明性即是了因、二明了應自了、三應能兩了、四舉正因為決。初言性即是了者，了本了其令出，若己有性，性自是了，何須他了？乳已有酪性，性自是了，何須酵渜而了出之？次「若是了因」下，正言酵渜為了，應能自了；若不自了，何能為乳而作了因？初若自了者，應能自了而出於酪，不須了乳令乳出酪。「若言了因有二」下，第三應能兩了。只酵渜自能了出於酪，復能了乳出酪。「若有二者」下，第四舉正為決。欲明酵渜能兩了者，乳亦應能作於兩正，自作酪正、復為酵渜作正。第三番問意：前雖四難，正執第三自了了他故。言我共八人者，如數他為七，己足為八，此是自數他數。他亦如是，自了了他。佛答為二：先破執、二示正義。初破又二：初破若爾，則非了因。次「何以故」下釋。夫智能自數己色復數他色，色不能自數數他。了因如色，何能自了復能了他？別有一法自了了他，故言了因即非了因。「一切眾生」下，第二示正義，欲明非本定有，藉緣能有。第四番，更復轉難。還引佛言，明有乳有酪故知是有。佛答為二：先汎舉三答：轉答，即隨問答；默答，即置答；疑答，即不定答。後正用轉答，如文。「師子吼」下，第五番，不許當有之說，故設此難。問為二：先仰非；次正問，為三：法、譬、合。佛答為二：先譬、次合。譬為四：一明過去有、二明未來有、三重明過去有、四重明未來有。未來有即是當有，答問即足。而復更明過去者，當由異部不同、眾計非一。薩婆多計三世皆有，曾有、當有、正有。曇無德計過去未來是無，唯現在為有。已上破有竟。今若用之，但是假名隨俗之用。且法王所為，豈可以人情測？前云種橘芽甜熟酢，後之酢味本在前甜，證過去有。今時此橘初酢後甜者，或是國土物異，或是取爛熟時為後，此時味酢。「眾生佛性」下合譬，正明當有即眾生當得。

> 第三、因縁によって発現するものについて。「獅子吼」の項に続いて述べる。もし因の中に果が全く存在しないのであれば、なぜ縁（助縁）が必要なのか。ここに五つの問答がある。 第一番目の問いは、もし乳に酪（チーズ）の性質が元々ないのであれば、なぜ縁因（助縁となる因）が必要なのか。虚空には性質がないから、二つの因（正因と縁因）を待つ必要はない。答えは本文の通り。 第二番目は、縁因を了因（顕了させる因）と名付けることに関する問い。問いの中に三つの譬えがあり、次に乳の譬えを挙げて符合させる。答えは本文の通り。仏の答えは四つに分かれる。一、性即ち了因であることを明かす。二、了因は自ら了すべきことを明かす。三、二つを了すべきことを明かす。四、正因を挙げて決する。 初めに「性即ち了因」とは、了因は本来、そのものを了して出でさせるものである。もし既に自ら性を持っているならば、その性自体が了因であり、どうして他の了因が必要であろうか。乳に既に酪の性があるならば、その性自体が了因であり、どうして酵渜（発酵種）を必要として了出させるのであろうか。 次に「もし了因ならば」以下、正に言えば、酵渜を了因とするならば、自らを了すべきである。もし自らを了せないならば、どうして乳のために了因となることができようか。初めに自ら了するならば、自らを了して酪を出し、乳を了して酪を出させる必要はないはずである。 「もし了因に二ありと言うならば」以下、第三に、二つを了すべきことを明かす。すなわち、酵渜は自らを了して酪を出し、かつ乳を了して酪を出させるのである。 「もし二あるならば」以下、第四に、正因を挙げて決する。酵渜が二つを了すことができるならば、乳もまた二つの正因をなすべきであり、自ら酪の正因となり、かつ酵渜のための正因となるべきである。 第三番目の問いは、先の四つの難問があるが、特に第三の自らを了し他を了すという主張に執着することに関する。「私が八人を共にする」とは、例えば他を数えて七とし、自らを加えて八とするようなもので、これは自ら数え他を数えることである。他もまた同様に、自らを了し他を了すという。仏の答えは二つ。先に執着を破り、次に正義を示す。初めの破はさらに二つ。初めに、もしそうならば、それは了因ではないことを破る。次に「何以故」の下で釈する。智慧は自らの色を数え、かつ他の色を数えることができる。しかし色は自らを数え他を数えることができない。了因は色のようなもので、どうして自らを了し他を了すことができようか。別に一つの法があり、自らを了し他を了すならば、了因は即ち了因ではないと言うのである。 「一切衆生」以下、第二に正義を示す。本来定まって存在するのではなく、縁に依って初めて存在することを明かすのである。 第四番目は、さらに転じて難問を出す。再び仏の言葉を引用し、乳と酪があるから有であることを知ると主張する。仏の答えは二つ。先に広く三つの答えを挙げる。転答（随問答）、黙答（置答）、疑答（不定答）である。その後、転答を用いることは本文の通り。 第五番目、「獅子吼」の下。未来における有を認めないので、この難問を設ける。問いは二つ。先に仰いで否定し、次に正式な問いであり、三つに分かれる。法、譬、合である。仏の答えは二つ。先に譬え、次に合わせる。譬えは四つ。一、過去に有ることを明かす。二、未来に有ることを明かす。三、重ねて過去に有ることを明かす。四、重ねて未来に有ることを明かす。未来に有ることは即ち当来に有ることであり、問いに答えるには十分である。さらに過去を明かすのは、部派によって異なり、衆の計らいが一つではないからである。サルヴァースティヴァーディン（説一切有部）は三世全てに有ると計らう。曾有、当有、正有である。ダルマグプタカ（曇無徳部）は過去未来は無く、ただ現在のみ有ると計らう。以上で有を破った。今これを用いるならば、ただ仮名であり、世俗に従った用に過ぎない。ましてや法王のなすところを、どうして人情で測ることができようか。先に、橘の種は芽の時は甘く熟すと酸っぱくなると言った。後の酸味は本来前の甘味にあり、過去の有を証明する。今、この橘が初め酸っぱく後に甘いものもあるのは、国土によって物が異なるか、または爛熟の時を後とするかであり、その時の味は酸っぱいのである。 「衆生仏性」以下、譬えを合わせる。未来における有は、すなわち衆生が未来に得るべきものであることを明かす。

「師子吼」下，第四據正因執有，凡四問答。初番又四：一法、二譬、三合、四結。初法中言正因佛性者，即中道正性。「尼拘陀」下，舉譬，又四：一正舉譬；二旁舉瞿曇姓；三合譬；四「猶如」下，以譬帖姓為難。難意：若尼拘陀子無樹性者，云何得名尼拘陀子？應名佉陀羅子。乳無酪性亦不名乳，應別生餘事。「佛性亦復」下合。佛答為二：初舉八事不可見。尼拘陀子若有樹性，何故不見？次「若言細障」下，更破二事，又二：先總非、次「何以故」下正破。破中又二：先破細、次破障。初破細者，夫樹相甚麁，何得不見？若本細，者後不應大；後若大者，初亦應大。次破障者，若尼拘陀子障尼拘陀樹不可見者，障常應障，常不可見。第二番問答。問中還舉兩因，了因了無，正云何無耶？良以了細成大，所以可見。佛答有五重：一明本有本無皆不須了。「若尼拘陀」下，二舉非果為難，難於本無。尼拘陀子本無尼拘陀樹麁相者，亦無佉陀羅之麁相，何故不生佉陀羅樹？「若細」下，三難麁應可見。四舉燒相為並若樹。樹本有性後生樹者，亦應本有燒相，後時可燒。子性被燒，不應生樹。五更取意破其先生後滅。文舉一切法生滅一時，且就尼拘陀子生滅一時者，云何先生而後方滅？既生滅一時，遂得先生後滅，亦應先滅後生。第三番問答，舉非因為問。等是無性，何不出油？次佛云：亦得出油。壓子汁出，汁即是油。第四更問。亦應得稱為胡麻油。佛答：隨緣各異，受名不同。不得名麻油，得名尼拘陀油。眾生佛性亦爾，眾生中有佛性，草木中無佛性而有草木等性。

> 「師子吼」の項における第四段は、「正因」に執着する見解を論じるもので、全部で四つの問答から成る。最初の問答はさらに四つに分かれる。一は法の説明、二は譬え、三は譬えを本義に合わせる説明、四は結論である。 最初の法の説明で「正因仏性」というのは、中道の正しい性質を指す。「尼拘陀」以下の部分で譬えが挙げられ、これも四つに分かれる。一は正しく譬えを挙げること、二は傍らに瞿曇という姓を挙げること、三は譬えを本義に合わせること、四は「猶如」以下で、譬えを姓に結びつけて難詰することである。 難詰の意図はこうだ。もし尼拘陀の種子に樹木の性質が元から無いのであれば、なぜそれを尼拘陀の種子と呼ぶのか。佉陀羅の種子と呼ぶべきではないか。乳に酪となる性質が無いならば、それも乳と呼ぶべきではなく、別のものから生じるはずである。 「佛性亦復」以下は、これに合わせた説明である。仏の回答は二つある。最初に、八つの事物は見ることができないと挙げる。尼拘陀の種子に樹木の性質があるなら、なぜそれが見えないのか。次に「若言細障」以下で、さらに二つの事柄（微細であることと、障礙があること）を破る。これも二つに分かれる。まず全体的に否定し、次に「何以故」以下で具体的に破る。 破る部分はさらに二つ。最初に微細であるという考えを破る。樹木の姿は非常に明白であるのに、なぜ見えないのか。もし元々微細であるなら、後に大きくならないはずである。後に大きくなるなら、最初からも大きいはずである。次に障礙があるという考えを破る。もし尼拘陀の種子が尼拘陀の樹を隠して見えなくするなら、その障礙は常に働き、常に見えないはずである。 第二の問答。問いでは再び二つの因（了因と正因）を挙げる。「了因」が無いものは分かるとして、「正因」がどうして無いと言えるのか。それは、微細なものが了因によって大きく成長するから、見えるようになるのである。仏の回答は五つの段階からなる。一に、「本来有る」も「本来無い」も、共に了因を必要としないと明かす。「若尼拘陀」以下、二に、非因果を挙げて難詰し、「本来無い」という考えを批判する。もし尼拘陀の種子に、元々尼拘陀樹の粗い姿が無いのなら、佉陀羅の粗い姿も無いはずで、なぜ佉陀羅の木を生じないのか。「若細」以下、三に、粗い姿は見えるはずだと難詰する。四に、焼ける性質を挙げて並べて論じる。もし樹木が元々性質を持ち、後に樹木が生じるなら、元々焼ける性質もあり、後に焼けるはずである。種子の性質が焼かれてしまえば、樹木は生じないはずだ。五に、さらに意味を捉えて「先に生じて後に滅する」という考えを破る。経文では、一切の法は生じることも滅することも同時であると挙げる。特に尼拘陀の種子について言えば、生じることと滅することが同時であるなら、どうして先に生じて後に滅するということがあり得るのか。生滅が同時であるなら、「先に生じて後に滅する」ということが許されるのなら、「先に滅して後に生じる」ということも許されるはずである。 第三の問答。非因（原因でないもの）を挙げて問う。どちらも性質が無いのなら、なぜ油が出ないのか。次に仏が答える。油を出すこともできる、と。種子を圧して汁を出せば、その汁が油である。第四の問答。さらに問う。それなら胡麻油とも呼べるのではないか。仏が答える。縁に従ってそれぞれ異なり、名前の付け方も異なる。麻油とは呼べないが、尼拘陀油と呼ぶことはできる。衆生の仏性もこれと同じである。衆生の中には仏性があり、草木の中には仏性は無いが、草木などの性質がある。

「師子吼言」下，第二破因中無果執。既非外義，唯一番問。答問為三：一領旨、二正難、三結歎。領旨仰非者，領無果之旨，不復致疑。因中既其不得有果，眾生之中亦無佛性。此義可信，眾生即執定無為實。既其定無，不復得言一切有性，故云是義不然。不然者，豈非執無。「何以故」下，第二正難，又二：先難、次答。初文凡作七番：一據業行、二據斷善、三據發心、四據退轉不退轉、五據修萬行六度、六據退萬行、七據僧寶。初就行業為難者，人天無性，但有業緣，五戒得人、十善得天，天得作人、人得作天。菩薩亦爾，但以業緣而得成佛，非謂佛性。次就斷善作難者，若眾生有性善，不可斷墮於地獄，以佛性力應止地獄。夫佛性是常，常何可斷？既斷於善，即知無常，若無常者則無佛性。三據初發心難者，若本有性，應本發心；心既始發，知本無性。又佛性無發，發則非性。四據退不退為難者，若本有性，不應毘跋致，只應阿毘跋致，唯應不退，不應有退。既其有退，知無佛性。五據萬行難者，若本有性，何須萬行？修萬行者，知無佛性。六據退萬行為難者，佛性是常，何得有退？既見三惡而有退者，知無佛性。七據三寶為難者，如佛所說三寶是常，僧既是常只應常住，何得進修令後成佛？進修則無常，無常故無性，何故云一切眾生悉有？次「佛言」下，正答七難，但不次第。第一答第一業行問，第二答第三發心問，第三答第六退轉萬行問，第四答第二斷善問，第五答第五萬行問，第六答第七僧寶問，第七答第四退不退問。此答第一問，止有八字具答。問意舉人天由業不關佛性，亦應由業致佛不關佛性。佛答：人天不須佛性，只由於業致有往反，不關佛性。佛性常故作佛亦常，知有佛性。「汝言」下，第二，超答第三發心，先牒問、次正答。「汝言何故有退」下，第三，超答第六退轉萬行，明實無退，只是遲得謂之為退。而不答萬行，為下答可酬之。「此菩提心實非佛性」下，第四，追答第二斷善問，明菩提心非佛性。闡提不發菩提心，而佛性不斷。「善男子汝言」下，第五，答第五萬行之問，為二：一正答、二更取意難前無此言。一解云：前應有此問，翻者脫落。二解云：本無此問，直是取意。「善男子汝言僧寶」下，第六，答第七問，有四復次：初有二種和合、次十二部經和合、三十二因緣和合、四諸佛和合，皆明僧常乃是一體之僧，非今事僧。「善男子汝言眾生若有佛性」下，第七，追答第四退不退問，文為二：先牒問誡聽、次正答其難云若有佛性豈合跋致阿跋致異。答文為四：一明退轉行、二明不退願、三雙明退不退兩人、四重明不退行。佛答意者，不關佛性有退不退，只由志願彊弱不同，致退不退。雖退非失，遲得名退。初論退行，又為四：一明十三法、二明六法、三明五法、四明二法。初十三法，如文。次六法中有營世務者，出家學道經營俗法，巨有所妨。言俗法者，真修之外皆名為俗。春秋中臧文仲有三不仁，使妾編蒲席賣，為外邦所彈，曰：「汝國之大夫失德，與百姓爭利。」俗人尚誡貪，況驅馳耕販，必應休道。設使彈訶，何足以言。又句句應論觀慧，文煩不書，得意自在。夫觀解者，非但執來運斤名為俗務，坐馳五塵六欲即是世務。又專念空無相願亦是世務，又念蒼生塗炭慈悲慰拔亦是世務。若能無念念於無念，非念非無念，一心中覺，方非世務。私謂：如大師釋經，句句之中依文消竟，即句句觀解；於文非要，但為法行者隨語起觀，故處處明。二「云何」下，第二明不退之願。願作心師，有二解。一云：只是前後兩心，前心起惡後心隨流者，此非心師；前心起惡後心能止，是則心師。二解：以假人制心，不隨心作。所作假人，人是心師。今明太近，上文云諸佛所師所謂法也。心緣於法，法為心師，深淺自在。「善男子不可以」下，第三雙明退不退兩人，正酬其問，有譬、有合，如文。

> 「師子吼が言う」以下の部分は、第二に、因の中に果があるという考えを否定するものです。これは外道の説ではないので、問答は一回のみです。問答は三つに分けられます：第一に宗旨を汲む、第二に正しく問答する、第三に結びと賛嘆です。 宗旨を汲んで過ちを認めるとは、「果がない」という宗旨を汲み、それ以上疑問を挟まないことです。因の中に果があるはずがなく、衆生の中にも仏性はない。この理は信じられますが、衆生は執着して「無」を実体と決めつけます。既に「無」と決まっているなら、「すべてに性がある」とは言えません。だから「この義はそうではない」と言うのです。「そうではない」とは、「無」と執着することを指すのです。 「なぜならば」以下の第二は、正しく問答する部分で、さらに二つに分かれます：先に問い、次に答え。最初の文では、全部で七つの問いが立てられています：第一に業行に基づく、第二に善根を断つことに基づく、第三に発心に基づく、第四に退転・不退転に基づく、第五に万行・六度の修行に基づく、第六に万行から退くことに基づく、第七に僧宝に基づく。 最初に業行を問うのは、人天には仏性がなく、ただ業の縁があるだけであり、五戒で人となり、十善で天となる。天は人になることもでき、人は天になることもできる。菩薩も同じで、ただ業の縁によって仏となるのであって、仏性によるのではない。 次に善根を断つことを問うのは、もし衆生に善の本性があるなら、善は断たれず地獄に堕ちることもないはずである。仏性の力があれば地獄を止めるはずだからだ。そもそも仏性は常住であり、常住のものがどうして断たれようか？善を断つということは、すなわち無常を知ることであり、無常ならば仏性はない。 第三に初発心を問うのは、もし本来性があるなら、本来発心しているはずである。心が今始めて発したということは、本来は性がなかったと知るべきである。また、仏性には発心はない。発心するものは性ではない。 第四に退転・不退転を問うのは、もし本来性があるなら、退転すべきではなく、ただ阿毘跋致（不退転）であるべきだ。ただ退かないはずであり、退くことはないはずである。既に退くことがあるなら、仏性はないと知るべきである。 第五に万行を問うのは、もし本来性があるなら、なぜ万行が必要なのか？万行を修めるということは、仏性がないと知るからである。 第六に万行から退くことを問うのは、仏性は常住なら、どうして退くことがあろうか？三悪道を見て退くものがあるなら、仏性はないと知るべきである。 第七に三宝を問うのは、仏の説かれたように三宝は常住である。僧が常であるなら、ただ常住であるべきで、なぜ進んで修行して、後に仏となることを目指すのか？進んで修行するものは無常であり、無常だから性がない。それならなぜ「すべての衆生に仏性がある」と言うのか？ 次に「仏が言われた」以下では、七つの問いに正しく答えますが、順序通りではありません。第一に第一の業行の問いに答え、第二に第三の発心の問いに答え、第三に第六の退転・万行の問いに答え、第四に第二の善根断絶の問いに答え、第五に第五の万行の問いに答え、第六に第七の僧宝の問いに答え、第七に第四の退転・不退転の問いに答えます。 この第一の問いへの答えは、わずか八字で完全に答えています。問いの趣旨は、人天は業によるもので仏性に関わらないように、仏となるのも業によるもので仏性に関わらない、というものです。仏の答え：人天に仏性は必要なく、ただ業によって往復があるだけで、仏性には関係しない。仏性は常住だから、仏となるのも常住であり、仏性があると知るべきである。 「あなたが言う」以下の第二は、順序を飛ばして第三の発心の問いに答え、まず問いを提示し、次に正しく答える。 「あなたはなぜ退くことがあると言うのか」以下の第三は、順序を飛ばして第六の退転・万行の問いに答え、実際には退くことはなく、ただ遅くなることを退くと言うだけだと明かす。万行については答えていないが、後の答えで補うことができる。 「この菩提心は実は仏性ではない」以下の第四は、順に戻って第二の善根断絶の問いに答え、菩提心は仏性ではないと明かす。一闡提は菩提心を発さないが、仏性は断たれない。 「善男子よ、あなたが言う」以下の第五は、第五の万行の問いに答え、二つに分かれる：一に正しく答える、二にさらに意を取って、前にない問いを難じる。ある解釈では、前にこの問いがあったはずだが、翻訳者が脱落させたと言う。別の解釈では、元々この問いはなく、ただ意を取っただけだと言う。 「善男子よ、あなたが僧宝と言う」以下の第六は、第七の問いに答え、四つの復次（繰り返しの説明）がある：初めに二種の和合、次に十二部経の和合、三に十二因縁の和合、四に諸仏の和合。すべて僧が常であるのは、一体の僧（理の僧）であって、現在の事相の僧ではないことを明かす。 「善男子よ、あなたが『衆生に仏性があれば』と言う」以下の第七は、順に戻って第四の退転・不退転の問いに答え、文は二つに分かれる：先に問いを提示して聴くよう促し、次に正しく問いに答える。その難とは「もし仏性があるなら、どうして退転と阿跋致（不退転）の違いがあり得ようか」というもの。答えの文は四つに分かれる：一に退転の行を明かす、二に不退転の願いを明かす、三に退転と不退転の両者を同時に明かす、四に改めて不退転の行を明かす。 仏の答えの趣旨は、退転・不退転は仏性に関わるものではなく、ただ志や願いの強弱の違いによって、退いたり退かなかったりするということである。退いても失うわけではなく、遅くなることを退くと言う。最初に退転の行を論じ、さらに四つに分かれる：一に十三の法を明かす、二に六つの法を明かす、三に五つの法を明かす、四に二つの法を明かす。初めの十三の法は、文の通り。次の六つの法の中に「世の務めを営む」というものがある。出家して道を学びながら、俗世の法を営むことは、大きな妨げとなる。「俗法」とは、真の修行以外のすべてを俗と言う。春秋の時代、臧文仲に三つの不仁があり、妻妾に蒲の席を編ませて売っていたため、外国から非難され、「汝の国の大夫は徳を失い、百姓と利を争っている」と言われた。俗人ですら貪りを戒めるのに、ましてや耕作や商売に駆け回るなら、必ずや修道をやめるべきである。たとえ非難されようとも、言うに足らないことである。また、一句一句に観慧を論じるべきだが、文が煩雑なので記さない。意を得れば自在である。そもそも観解とは、単に道具を持って働くことだけを俗務と言うのではない。心を五塵・六欲に馳せることこそ世務である。また、空・無相・無願に専念することも世務である。また、蒼生の苦しみを思い、慈悲で慰め救うことも世務である。もし無念をもって念じ、念も無念でもなく、一心の中で覚ったなら、初めて世務ではないのである。私（章安）が思うに、大師（天台智顗）が経を解釈されるように、一句一句を文に従って解き明かしたなら、それ即ち一句一句の観解である。文にとって必須ではないが、ただ法を行う者が言葉に従って観を起こすために、あちこちで明かされるのである。 二「どのように」以下の第二は、不退転の願いを明かす。「心を師とせよ」という願いについて、二つの解釈がある。一つの解釈：ただ前後の二つの心であり、前の心が悪を起こし、後の心が流れに従うなら、これは心の師ではない。前の心が悪を起こしても、後の心がそれを止めるなら、これが心の師である。二つの解釈：仮の人格をもって心を制御し、心のままに行動しない。作られた仮の人格、その人が心の師である。今は、これはあまりに浅いと明かす。上の文に「諸仏の師とする所、これを法と言う」とある。心が法に縁り、法が心の師となる。深さ浅さは自在である。 「善男子よ、できないのである」以下の第三は、退転と不退転の両者を同時に明かし、まさにその問いに答えるものである。譬えがあり、その説明があり、文の通りである。

「師子吼」下，第四重明不退之行，先問、次答。通論六度皆是不退之行，今趣舉三十二相業，約求佛心便。上文明百福成一相；今文或一業成一相、或多業得多相；此就相似因果為語。一業一相、多業多相，示因果不差。佛實有四牙，而文但二牙者，二牙大、二牙白，兩白為一、兩大為一，故言二牙。又一解：若論牙則有四，若論邊則有二。今明二邊牙，故言二牙。

> 「師子吼」の章の第四段では、退転しない修行について詳しく説明されています。まず問いがあり、次に答えがあります。一般的に六波羅蜜のすべてが退転しない修行と言えますが、ここでは特に三十二相の業を取り上げ、仏を求める心に焦点を当てています。 前の段では、百の福徳によって一つの相が完成すると説かれていました。この段では、一つの業で一つの相となる場合や、多くの業で多くの相を得る場合があると述べられ、これは似たような原因と結果の関係について述べたものです。一つの業で一つの相、多くの業で多くの相というのは、原因と結果が誤りなく対応することを示しています。 仏には実際には四本の牙がありますが、経典では二本とされているのは、二本の大きな牙と二本の白い牙があり、白い牙を一つ、大きな牙を一つとして数え、合わせて二本としているからです。別の解釈では、牙そのものは四本あるが、辺（側面）としては二つであるとします。ここでは二つの辺にある牙について述べているため、二本の牙と表現されているのです。

「善男子一切眾生」下，第三結歎佛性。此文具五種佛性：眾生即正因，諸佛境界即果性、果果性，業果即了因，佛性即境界性。又一解：眾生是正因，諸佛境界是境界性，業是了因性，果是果性、果果性，後佛性是總結章耳。又一解：一切眾生明凡夫，諸佛明聖人，業即是因性、因因性，果即是果性、果果性，佛性即正因性。下總結四法，即指此為四。皆稱不可思議者，不可以定相取，即一性是五性、五性即一性，非一五性而一五性，不縱橫不並別，如是乃名不可思議。若得此意，望上兩番破義，無性即有性、有性即無性，非有性非無性而有性而無性，即是非內非外。雖非內外而不失壞，名諸眾生悉有佛性。若失此意，全非祕藏之宗，文理抗行焉釋涅槃？文云四法者，眾生、諸佛、境界、業果是為四法。文云眾生煩惱覆障故常者，只名此為常，以其煩惱起故是常。又一解云：只眾生中有佛性之理，是故名常。今謂此解淺近，常義亦不成。眾生煩惱障覆即是常者，眾生是生死，生死即涅槃，煩惱即菩提。既言即是，寧不是常？問：果果、了因、萬善如何是常？一解云：能了佛性故云是常。今謂此不然，皆不可思議，不可思議故常。明文在茲，何勞餘解。不可思議故常，此是圓義。無常覆障，破無常已，得受樂故，此是別義云云。

> 「善男子、一切衆生」以下の部分は、第三に仏性を讃嘆するものです。この文には五種の仏性が含まれています。すなわち、衆生は正因、諸仏の境界は果性と果果性、業果は了因、仏性は境界性です。また別の解釈では、衆生は正因、諸仏の境界は境界性、業は了因性、果は果性と果果性であり、最後の仏性は総括の章句であるとします。さらに別の解釈では、「一切衆生」は凡夫を明らかにし、「諸仏」は聖人を明らかにし、業は因性と因因性、果は果性と果果性、仏性は正因性であるとします。後に四つの法を総括して、この四つを指しています。これらすべてを「不可思議」と称するのは、一定の相（すがた）で捉えることはできないからです。すなわち、一つの性が五つの性であり、五つの性が一つの性です。一と五の性に非ずして、一と五の性であり、縦横にもならず、並び別にもならない。このようにして初めて「不可思議」と名づけられます。もしこの意味を会得すれば、先の二つの解釈における破義を顧みて、無性がすなわち有性であり、有性がすなわち無性であり、有性にも無性にも非ずして、有性でありかつ無性である。すなわち内にも外にも非ず。内にも外にも非ずといえども、それを失い壊すことなく、これを「諸衆生、悉く仏性有り」と名づけます。もしこの意味を失えば、まったく秘蔵の宗旨ではなくなり、文と理が背き合って、どうして涅槃を解釈できるでしょうか。 文中に「四法」とは、衆生・諸仏・境界・業果、この四つを指して法とします。文中に「衆生煩悩に覆障せらるるが故に常なり」とは、これをただ常と名づけるのであり、その煩悩が生じるが故に常であるというのです。また別の解釈では、「ただ衆生の中に仏性の理がある、この故に常と名づける」と言います。私は思うに、この解釈は浅はかであり、常の義も成立しません。「衆生煩悩に覆障せらるる、即ち是れ常なり」とは、衆生は生死であり、生死すなわち涅槃、煩悩すなわち菩提です。「即ち是れ」と言う以上、どうして常ではないことがありましょうか。 問う：果果・了因・万善は、いったいどうして常なのでしょうか。 一つの解釈では、「仏性を了（さと）る能うが故に、是れ常と云う」とします。私は思うに、これはそうではありません。すべて不可思議であり、不可思議であるが故に常なのです。はっきりとした文がここにあります。どうして余計な解釈が必要でしょうか。不可思議であるが故に常、これが円教の義です。無常が覆い隠し、その無常を破った後に楽を受けることができる。これが別教の義です<note>云云</note>。

## 大般涅槃經疏卷第二十五

> 「大般涅槃経疏 第二十五巻」