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title: "大般涅槃經疏 · 4"
description: "大般涅槃经疏由隋朝天台宗五祖章安大师灌顶撰述，是注解北本《大般涅槃经》的重要疏钞。灌顶承袭其师智顗思想，依天台教观阐释经义，重点发挥如来常住、众生皆有佛性、一阐提也能成佛等核心教理。该疏系统论述了涅槃境界与佛性思想，融合南北朝佛学成果，是天台宗判教体系的关键著作，对隋唐以后中国佛教思想发展影响深远，被视为研究《大般涅槃经》的权威注疏。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cme55wvpr01h3jo04fwnr9n41"
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## 大般涅槃經疏卷第二十六

> 大般涅槃経疏巻第二十六

隋章安頂法師撰

> 隋の章安頂法師による撰述

唐天台沙門湛然再治

> 唐の天台僧・湛然が再編集

### 師子吼品之三

> 獅子吼品 第三

起卷第三明縛解。眾生雖有佛性，為惑所覆不能得見，須修萬行解生惑盡，佛性理彰，故明縛解。文有五番問答。初問答中，初問為二：先領旨唱無；次「是五陰」下，生滅為難。若正性不生不滅，故無縛解。緣性念念不住，又無縛解。此惑體性即起即滅，云何此惑能縛眾生？既其無縛，即亦無解。有法、有譬、有合。答為二：初誡許；次正答，又二：初明縛、後明解。就初縛為三：一死陰、二中陰、三生陰。就初死陰中三：有法、譬、合。初法如文。次譬中云日既西沒，雖殘光東照終不歸東。人命將盡，雖有餘氣終不更生。此陰滅已彼陰續生，此乃即死明生。「眾生」下，合，又二：先正合；次如燈生闇滅，重更引譬。次「如蠟印印泥」下，第二明中陰，又二：先譬、後合。蠟譬死陰，泥譬中陰。印滅文成者，譬死陰若滅中陰即起。文非泥出者，此身非是中陰所出，又非無因，亦不餘來，藉於死陰而得現也。不可求其處所，但因緣故有。問：亦有不受中陰者不？答：通論皆受。如大理獄責定行刑，中陰亦爾，覈定善惡，惡墜、善升。若有別從猛利善惡，如五逆者徑墜、十善者徑升，𥎞矛離手遂到彼方，則不論中陰。「現在陰滅」下，第二合譬，初正合、次二眼三食。初又二：初正合、次舉譬帖合。二料簡二眼三食者，自無摶食，既是改報，寧得有飯而摶。既有想陰則有思食；有身故則有觸食；以有意故則有識食。《俱舍》中廣明中陰等，古人有四食章等，於此非要。「父母交會」下，第三明生陰。通論六道並有生陰，且就人道，初明起三煩惱、次明具四顛倒，所以為縛，不得難言念念滅故故無有縛。三煩惱者，一愛；二瞋；三謂己有，此是我見亦即是癡。

> 巻第三 束縛と解脱を明かす。衆生には仏性があるが、煩悩に覆われてそれを見ることができない。ゆえに様々な修行を積み煩悩を滅し尽くせば、仏性の道理が明らかになる。そこで束縛と解脱について明かすのである。本文は五つの問答からなる。 最初の問答では、まず問いが二つある。初めに宗旨を承けて「無し」と唱える。次に「この五陰は」以下で、生滅を挙げて難詰する。もし正しい本性が不生不滅であるならば、束縛も解脱もない。因縁によって生じる性質は瞬間ごとに止まらず、やはり束縛も解脱もない。この煩悩の体性は生じてはすぐに滅するのだから、どうしてこの煩悩が衆生を束縛できようか。束縛がなければ、解脱もまたない。ここには法・譬え・総合がある。 答えは二つ。初めに戒めとして許し、次に正しく答える。これもまた二つ。初めに束縛を明かし、後に解脱を明かす。束縛の説明は三つに分かれる。第一に死の五陰、第二に中有、第三に生の五陰である。 死の五陰の説明は三つある。法・譬え・総合である。初めの法は本文の通り。次の譬えでは、「太陽が西に沈めば、残光が東を照らしても、ついに東に戻ることはない。人の命が尽きようとするとき、余命わずかでも、ついに再び生き返ることはない」と説く。この五陰が滅すれば、かの五陰が続いて生じる。これは即ち死において生を明かすものである。 「衆生は」以下の総合は、また二つ。先に正しく総合し、次に「灯が生じれば暗闇が滅する」という譬えを再び挙げる。 次に「蠟の印を泥に押すように」以下、第二の中有の説明である。これも二つ。先に譬え、後に総合。蠟は死の五陰に譬え、泥は中有に譬える。印が滅して文が成るとは、死の五陰が滅すれば中有が生じることに譬える。文は泥から出でないとは、この身は中有から出たものではない。また無因でもなく、他から来たのでもない。死の五陰を借りて現れるのである。その場所を求めることはできないが、因縁によってあるのである。 問う：中有を受けない者もいるのか。 答える：広く論じれば、皆が受ける。例えば、重罪の牢獄で刑の執行が定められるように、中有もまた同様で、善悪が確定され、悪は堕ち、善は昇る。もし、鋭利な善悪、例えば五逆の者は直接堕ち、十善の者は直接昇る。槍を手放せばすぐにその場所に至るようなもので、この場合は中有は論じられない。 「現在の五陰が滅すれば」以下は、第二の総合の譬えである。初めに正しく総合し、次に二つの眼と三つの食について述べる。初めはまた二つ。先に正しく総合し、次に譬えを挙げて総合を付ける。二つの眼と三つの食についての簡別は、自らは固形の食物を摂らない。これは報いが変わるからであり、どうして飯があってそれを固形として摂ることができようか。想陰があるから思食があり、身があるから触食があり、意があるから識食があるのである。『倶舎論』には中有について広く述べられている。古人には四食の章などがあるが、ここでは重要ではない。 「父母が交合すれば」以下、第三に生の五陰を明かす。広く論じれば六道すべてに生の五陰があるが、ひとまず人道について述べる。初めに三つの煩悩が起こることを明かし、次に四つの顛倒が具わることを明かす。これによって束縛となるのであり、瞬間ごとに滅するから束縛はないと難詰してはならない。三つの煩悩とは、第一に愛、第二に瞋、第三に「我がある」と思うこと。これは我見であり、すなわち痴でもある。

「是人若得」下，第二明解，又四：初明近聽思行，皆如文。「師子吼言空中無刺」下，第二番，先問、後答。初問又二：初作逆喻，舉空中無刺。後舉陰無繫者，云何繫縛？上〈德王〉云「心本無貪，云何貪欲能繫於心？」即是此義。答為二，謂法、譬。初法者，就理為論，謂續故不斷、壞故不常，不斷不常非縛非解。若未達斯理即有縛解。舉屋舉拳，約掌合時論縛、掌離時論開，本不合時論不縛不開，繫縛等三即此意也。縛即論假、脫即論真、不縛不脫即論中道，乃是三諦相即之相。「師子吼言如眼」下，第三番，先問、次答。此問躡前答文作難。前云名色縛眾生、眾生縛名色。名色只是眾生，云何自縛？如刀不自割。故後復難：若其眾生只是名色者，還是名色縛於名色，云何名色能縛眾生？答，如文。「師子吼言若有名色是繫縛」下，第四番問答。問，如文。答中有法、譬、合。初法說中，羅漢子爛故無縛，報在故有縛。而言未見佛性者，大乘望之，子果俱縛，小乘不爾。次譬合，如文。「師子吼言燈之與油」下，第五番，亦先問、次答。初問意者，佛前言燈喻眾生、油喻煩惱；今難此語，有兩解。一云：燈覽眾法，明油器等共成一燈，明名燈明、器名燈器。二云：明與油異，正取明為燈。燈是火性、油是濕性，正取後意為難。燈之與油二性各異，眾生煩惱本來不異，云何為喻？佛答為二：初舉八喻、後合燈喻。八喻為二：初列章、次解釋。從小向大為順喻，從大向小為逆喻。現者，取現事為現喻，前逆順亦是現事，除逆順邊取餘現事。非者，都非其類。先者，先喻後合。後者，先法後譬。渧，此是帝音。滴，此是的音。先後可解。此中應作養音，上看下為養，下看上為樣音。遍喻者，盡其始末。

> 「この人が得るならば」という以下の部分は、第二の段階で理解を示すものです。さらに四つに分かれます。第一に、近くで聞き、思い、行うことを明らかにします。これらはすべて経文の通りです。 「師子吼が言う『空中には刺がない』」という以下の部分は、第二の問答です。最初に問いがあり、次に答えがあります。最初の問いはさらに二つに分かれます。第一に逆の喩えを用いて、空中には刺がないことを挙げます。第二に、五陰には縛るものがないのに、どうして縛られるのかと問います。先の徳王品で「心は本来貪りがないのに、どうして貪欲が心を縛れるのか」と言ったのも、同じ意味です。 答えは二つに分かれ、法説と譬喩があります。最初の法説では、道理に基づいて論じます。すなわち、続くから絶えず、壊れるから常ではない、絶えず常でもなく、縛られず解かれもしない、とします。もしこの道理に達していなければ、縛りと解きがあります。家を挙げ拳を挙げ、掌が合う時に縛りを論じ、掌が離れる時に解きを論じ、もともと合っていない時には縛りも解きもないと論じます。縛り・解き・縛りも解きもない、という三つはこの意味です。縛りは仮を論じ、解きは真を論じ、縛りも解きもないは中道を論じます。これはまさに三諦が互いに即する相です。 「師子吼が言う『眼のように』」という以下の部分は、第三の問答です。最初に問いがあり、次に答えがあります。この問いは、前の答えの文を踏まえて難詰します。前の答えでは「名色が衆生を縛り、衆生が名色を縛る」と言いました。名色はただ衆生であり、どうして自らを縛るのでしょうか。刀が自らを切らないのと同じです。そのため、後にさらに難じます。もし衆生がただ名色であるならば、やはり名色が名色を縛ることであり、どうして名色が衆生を縛れるのでしょうか。答えは経文の通りです。 「師子吼が言う『もし名色があれば、これが縛りである』」という以下の部分は、第四の問答です。問いは経文の通りです。答えには法説・譬喩・総合があります。最初の法説では、阿羅漢は「子」が尽きているため縛りがなく、果報が残っているため縛りがあります。しかし仏性を見ていないと言われるのは、大乗の立場から見れば、「子」と「果」の両方が縛りであり、小乗はそうではないからです。次に譬喩と総合、経文の通りです。 「師子吼が言う『灯と油』」という以下の部分は、第五の問答です。最初に問いがあり、次に答えがあります。最初の問いの意図は、仏が先に「灯は衆生に喩え、油は煩悩に喩える」と言ったことへの難詰です。ここには二つの解釈があります。一つは、灯は様々な法を集めて成り立ち、明るさや油や器具などが共に一つの灯を成す。明るさを灯明と言い、器具を灯器と言います。二つは、明るさと油は異なり、正しく明るさを取って灯とします。灯は火の性質、油は湿った性質であり、後者の意味を取って難詰します。灯と油は二つの性質が異なるのに、衆生と煩悩はもともと異ならない。どうして喩えとできるのでしょうか。仏の答えは二つに分かれます。最初に八つの喩えを挙げ、後に灯の喩えを統合します。八つの喩えは、まず項目を列挙し、次に解釈します。小から大へ向かうを順喩、大から小へ向かうを逆喩と言います。「現」とは、現在の事柄を取って現喩とします。前の順逆もまた現在の事柄ですが、順逆の部分を除いて、他の現在の事柄を取ります。「非」とは、まったくその類ではないこと。「先」とは、先に喩え、後に統合すること。「後」とは、先に法説、後に譬喩であること。「渧」は「テイ」の音、「滴」は「テキ」の音です。「先」「後」は理解できるでしょう。この中で「養」の音とすべき箇所があり、上が下を見るのが「養」、下が上を見るのが「様」の音です。「遍喩」とは、その始まりから終わりまでを尽くすことです。

「師子吼言眾生五陰」下，大段第四明修道。既其有縛，云何得脫？故論修道而脫其縛。文有四問答：初明道可修、二正明修道、三修道之用、四勸修。此四次第者，諸法雖畢竟空，而道可修，是故正修。修能斷惑，是故有勸。初番有三問答。初問五陰眾生人法皆空，何故有修？佛答：諸心念念相續不斷。雖念念滅，煩惱連接，所以有修。是故第二更問：心念念滅，何有修道？佛答：雖念念滅，得論修道，如燈雖念念滅而能破闇。「汝言念念滅」下，更復取意解。汝言無增長者，不爾。後舉六譬，皆明有增長，如文。第三番問，更躡前六譬為難。雖念念滅而能破闇等。修道亦爾，初雖未圓，久能破惑。師子吼承此更難：如初果人善法五陰，亦應相似相續生淨國土，那忽至於惡國生殺羊家？佛答：雖生惡國不失名者，名謂無漏，無漏恒在，陰則不爾。善陰惡陰由業所得，非無漏法之取招也。故佛答不相似，雖生惡國不作惡者，由無漏力持故。答中先法，兼出六譬。香山譬初身，師子譬見諦無漏，雪山譬惡五陰，飛鳥走獸譬諸惡法。又香山譬善陰，雪山譬惡陰，雪山鳥獸並不敢住譬在善惡兩國之中皆不生惡法。此關習報兩因之義，習因種類相似常生終不為惡，報因牽於異類之果故生惡國。有人譬須陀洹身，貲產巨富譬見諦無漏斷惑之功。唯有一子者，四果中之初果也。又見思兩道中唯是見道，故言一子。先已終亡者，見諦無漏而不現前，出觀則無。其子等者，思惟無漏因見諦生，故言其子有子。復在他土者，思惟無漏望於見諦名為他土。奄便終亡者，須陀洹人七生終沒。孫聞是已還收產業者，思惟道中還承接前見諦之功。雖知財貨非其所有者，見諦無漏，非思惟中無漏。無遮護者，見思雖別，同一無漏。

> 師子吼が「衆生の五陰は…」と述べた後の大きな段、第四番目は「修道」を明らかにすることです。すでに束縛があるのなら、どうすれば解脱できるのでしょうか。そこで修道を論じて、その束縛から脱することを説きます。この文には四つの問答があります。第一に、道は修められるものであることを明かす。第二に、正しく修道することを明かす。第三に、修道の働きを明かす。第四に、修めるよう勧める。この四つの順序は、諸法は畢竟空であるけれども、道は修められるものであるため、正しく修めるのです。修めることで煩悩を断つことができるので、勧める意味があるのです。 最初の段落には三つの問答があります。最初の問いは、五陰と衆生は人も法も共に空であるのに、なぜ修めることがあるのかというものです。それに対する仏の答えは、諸々の心は念念相続して絶えない。念念に滅しても、煩悩は連鎖しているので、修めることがあるのだと説きます。そこで第二の問いが起こります。心は念念に滅するのに、どうして修道があるのか。仏の答えは、念念に滅しても、修道を論じることは可能である。例えば灯明が念念に滅しながらも闇を破るようなものだ、と説きます。「汝が言うところの念念滅は…」以下の部分は、さらに解釈を補足したものです。あなたが「増長がない」と言うのはそうではない。後に六つの譬えを挙げて、いずれも増長があることを示します。本文の通りです。 第三番目の問いは、先の六つの譬えを踏まえてさらに問いを重ねます。「念念に滅しても闇を破ることができる」などの譬えのように、修道もまた同じで、初めは未だ円満でなくとも、長く続ければ煩悩を破ることができる。師子吼はこれを受けてさらに問います。例えば初果の人の善法の五陰もまた、相似相続して清浄な国土に生まれるべきではないか。それなのにどうして悪い国土に生まれて羊を殺す家に生まれることがあるのか。仏の答えは、悪い国土に生まれても「名」を失うことはない。「名」とは無漏のことであり、無漏は常に存在するが、五陰はそうではない。善い五陰と悪い五陰は業によって得られるものであり、無漏法が招くものではない。だから仏は「相似ではない」と答えたのです。悪い国土に生まれても悪を行わないのは、無漏の力が支えているからです。答えの中では最初に法を示し、併せて六つの譬えを挙げます。 香山の譬えは初めの身を表し、師子の譬えは見諦の無漏を表し、雪山の譬えは悪い五陰を表し、飛鳥や走獣は諸々の悪法を表します。また、香山は善い五陰の譬え、雪山は悪い五陰の譬えであり、雪山の鳥獣は皆あえて留まらないとは、善悪両方の国土の中にあっても、いずれの悪法も生じないことを譬えています。これは習因と報因の二つの因に関する意味です。習因は種類が相似して常に生じ、決して悪とならない。報因は異類の果報を引き寄せるため、悪い国土に生まれるのです。 「ある人」の譬えは須陀洹の身を表します。財産が非常に豊かであることは、見諦の無漏が煩悩を断つ功徳を表します。ただ一人の子だけがいるのは、四果の中の初果を表します。また、見道と修道の二つの道の中で、見道だけを指すので「一人の子」と言うのです。先にすでに亡くなったとは、見諦の無漏が現前しない状態であり、観を出れば無漏はないことを意味します。その子に子があるとは、思惟の無漏が見諦から生じることを意味します。また他の地にあるとは、思惟の無漏が見諦に対して「他の地」と呼ばれることです。たちまち亡くなったとは、須陀洹の人が七生を終えて命終することです。孫がこれを聞いて財産を取り戻すとは、思惟道において先の見諦の功徳を受け継ぐことです。財貨が自分の所有ではないと知っていてもとは、見諦の無漏は思惟の中の無漏ではないということです。妨げるものがないとは、見諦と思惟は別であっても、同じ無漏であることを意味します。

「師子吼言如佛說偈」下，第二正明修道，又二：初明修道、次明修道因緣。初又二：先釋、次論義。初舉偈問者，上兩句修道、下兩句得果，能修三品不退得果，三品是因，近大涅槃是果。初牒偈問、次一一請答。答中三番解釋：初番真偽對辨、次番偏為破惡、後番偏為生善。就真偽為二：先偽、次真。初偽，為三品，下下一向不能持戒，下中畏於惡道之苦是故持戒，下上為度眾生苦惱是故持戒。此三並偽，今取此人尚不可得。次真者，知諸法空而能持戒，為諸眾生而求佛果。果不可得，眾生尚無，況有佛果，名真持戒。次能破十六惡律儀者，此就滅惡更釋三品。魁膾者，舊云：是販魚肉典軍之人。又云：是行杖者。無身三昧者，空定滅色，故言無身。無邊心者，即識處定。淨聚者，即不用處。世邊者，非想，此定能知八萬劫，以此為邊。又非想在三界表，故言世邊。世斷者，八萬劫外既不能知，便謂為斷。世性者，即是冥初，是世之本性。世丈夫者，以此定力能見劫初水中丈夫，即韋紐天。非想非非想者，即是存亡觀為定體。「修習戒者為身寂靜」下，第三就生善釋三品。諸有者，即是三有、二十五有。諸界者，即是三界及十八界等。諸諦者，即二十五諦及以六諦。「師子吼言不生不滅」下，第二論義。因前修道，故見佛性、得菩提涅槃。今難涅槃及以佛性，凡七番問答：初三番難涅槃、次四番難佛性。初云若不生滅為涅槃者，只凡夫人亦不生滅，應是涅槃。凡人一期從生至老不更生故，故名不生；而復未滅，亦是不滅。此不生滅是涅槃不？又云：若以三相中生相為難，只此一念生已生故故是不生，復未滅故故是不滅。是涅槃不？答中，先印述之、後解。既非涅槃，為始終故。亦須更通上之兩解，成始終義。初生為始、命盡為終；一念三相生相亦爾，初起為始、念滅為終。「世尊」下，第二難，明生死法亦無始終。十二因緣輪轉不住，何有始終？佛答者，生死之法有因有果，十二因緣輪轉不住，過去二因、現在五果，故非涅槃。第三番難，明涅槃之中亦有因果。戒定慧等能得涅槃，豈非因果？佛答：涅槃有因而非果，又復是果而非所得。又佛性為涅槃因，復不能生涅槃之果云云。第二有四番問答論佛性義。初番就共有不共有為難，先標兩章門、後釋如文。佛答又二：先法、次譬。初法中言不一不二，不一故非共、不二故非各。雖爾，終是一切眾生同共有之。地人云：一切眾生同梨耶識法界體性。若爾，一人得時應多人得。成論師云：眾生各有佛性，但成佛時權智齊等同一法身，力無畏等亦復如是。若爾，佛性可數即是無常，正當此難。然佛性平等，非一非二、非共非各，亦如今之持戒修行之人，不可一、不可異，人人各修豈得是一？我解彼解、彼解我解，是故不異。又如五種佛性並不一異，眾生等有豈可異？五種不同豈可一云云？問：眾生於五佛性中為具幾許？答：盡有盡無。眾生無觀智之了則不能發境，發境之智既無亦無觀境。因既無因，寧別得果及以果果？既無因果，云何非因非果？盡有者，必當得故、從緣現故，故言盡有，今時雖無必當有之。次譬，如文。第二番，難忍辱草譬。若一者，一人修已，餘人亦得。佛答：佛性是一，隨多人修，各各得之，不相妨閡。第三番，問：如多人在路，於後為妨。佛性亦爾，前人修時亦妨後者。佛答者，如路橋醫並是少分，聖道之路則不如是，橋等亦然。第四難，天人六道其相非一，云何共有一佛性耶？佛答：置毒乳中，隨其五味毒能遍殺。佛性亦爾，偏一切處云云。

> 「師子吼が言うには、『仏が偈で説かれたように』」の下、第二に、修行を明らかにする。また二つあり、初めに修行を明らかにし、次に修行の因縁を明らかにする。初めにまた二つあり、先に解釈し、後に議論する。 初めに偈を挙げて問う。上の二句は修行、下の二句は果を得ることである。三つの品（階位）を修めることができれば、退転せずに果を得る。三つの品は因であり、大涅槃に近づくことは果である。初めに偈を掲げて問い、次に一つ一つ請うて答えさせる。 答えの中に三つの解釈がある。初めの解釈は真と偽を対比して明らかにする。次の解釈は専ら悪を破るためのものである。後の解釈は専ら善を生じさせるためのものである。 真偽について二つある。先に偽、次に真である。初めの偽は、三つの品についてである。下の下（最下位）は、一向に戒律を守ることができない。中の下（中下位）は、悪道の苦しみを恐れて戒律を守る。下の上（下上位）は、众生の苦しみを救うために戒律を守る。この三つは全て偽である。今、このような人を得ることさえもできない。 次に真について。諸法が空であると知りながら戒律を守ることができ、諸众生のために仏果を求める。果は得ることができず、众生さえも存在しないのに、どうして仏果があろうか。これを真の戒律を守るという。 次に、十六の悪律儀を破ることができることについて。これは悪を滅ぼすために、さらに三つの品を解釈する。魁膾（かいかい）とは、昔の人は魚や肉を売る人、軍を率いる人だと言った。また、杖を執行する人だとも言う。無身三昧（むしんさんまい）とは、空の定によって色を滅することから、無身と言う。無辺心（むへんしん）とは、識処定（しきじょじょう）のことである。浄聚（じょうじゅ）とは、無所有処定（むしょゆうじょじょう）のことである。世辺（せへん）とは、非想定（ひそうじょう）のことである。この定は八万劫を知ることができることから、これを辺とする。また、非想定は三界の外にあることから、世辺と言う。世断（せだん）とは、八万劫の外は知ることができないことから、これを断と謂う。世性（せしょう）とは、冥初（めいしょ）であり、これが世の本性である。世丈夫（せじょうぶ）とは、この定力によって劫の初めの水中の丈夫（男神）を見ることができる。すなわち、韋紐天（いちゅうてん）のことである。非想非非想（ひそうひひそう）とは、存亡の観を定の体とすることである。 「修習戒者為身寂静（戒律を修習する者は、身が寂静となる）」の下、第三に、善を生じさせるために三つの品を解釈する。諸有（しょう）とは、三有（さんう）、二十五有（にじゅうごう）のことである。諸界（しょうかい）とは、三界および十八界などである。諸諦（しょたい）とは、二十五諦および六諦である。 「師子吼言不生不滅（師子吼が言うには、『不生不滅』）」の下、第二に、議論する。前の修行によって、仏性を見て菩提（ぼだい）と涅槃（ねはん）を得る。今、涅槃および仏性について問い難ずる。全部で七つの問答がある。初めの三つは涅槃を問い難ずる。次の四つは仏性を問い難ずる。 初めに、もし不生不滅を涅槃とするならば、凡夫人もまた不生不滅であり、涅槃であるべきである。凡人は一生、生まれてから老いるまで再び生まれないことから、不生と言う。そして、まだ滅していないことから、不滅でもある。この不生不滅は涅槃であろうか？また、もし三つの相の中の生相をもって問い難ずるならば、ただこの一念は、生まれた後は生まれないことから不生であり、まだ滅していないことから不滅である。これは涅槃であろうか？ 答えの中で、まず是認して述べ、後に解釈する。涅槃ではないので、始終があるためである。また、上の二つの解釈を通じて、始終の意味を成立させる必要がある。初めの生が始めであり、命が尽きることが終わりである。一念の三つの相の生相もまた同じで、初めに起きることが始めであり、念が滅することが終わりである。 「世尊」の下、第二の問い難じ。生死の法にも始終がないことを明らかにする。十二因縁（じゅうにいんねん）は輪廻してとどまらない。どうして始終があろうか？仏が答えられる。生死の法には因と果がある。十二因縁は輪廻してとどまらず、過去の二因、現在の五果があることから、涅槃ではない。 第三の問い難じ。涅槃の中にもまた因果があることを明らかにする。戒・定・慧などは涅槃を得ることができる。どうして因果ではないのか？仏が答えられる。涅槃には因があるが果ではない。また、果ではあるが得るものではない。また、仏性は涅槃の因であるが、涅槃の果を生じることはできない。<note>云云</note> 第二に、四つの問答があり、仏性の義を論じる。初めの問答は、共有と不共有をもって問い難ずる。先に二つの章門（主張）を掲げ、後に本文のように解釈する。仏の答えはまた二つあり、先に法、次に譬えである。 初めの法の中で「不一不二（一ではなく二でもない）」と言う。一ではないので共有ではなく、二ではないので各別ではない。そうではあるが、結局は一切众生が共に有するものである。 地論宗の人は言う。一切众生は同じ梨耶識（あらやしき）の法界体性を有する。もしそうなら、一人が得た時には、多数の人も得るべきである。成実論師は言う。众生はそれぞれ仏性を有する。しかし、成仏する時には権智（ごんち）が斉しく等しく、同一の法身となる。力・無畏などもまた同じである。もしそうならば、仏性は数えることができるはずであり、すなわち無常である。まさにこの問い難じに当たる。 しかし、仏性は平等であり、一でも二でもなく、共有でも各別でもない。今の戒律を守り修行する人のようであり、一つとも言えず、異なるとも言えない。一人一人がそれぞれ修行するのに、どうして一つでありえようか？私の理解と彼の理解、彼の理解と私の理解は異ならないことから、異ならないのである。また、五種の仏性のようであり、一でもなければ異でもない。众生は等しく有するのに、どうして異なりえようか？五種が同じでないのに、どうして一つでありえようか？<note>云云</note> 問う。众生は五種の仏性の中で、いくつを具えているのか？ 答える。全部有するという見方と、全部無いという見方がある。众生には観察の智慧が無いので、境界を顕現させることができない。境界を顕現させる智慧が無ければ、観察の境も無い。因が無いので、どうして果や果の果を得ることができようか？因果が無いのに、どうして非因非果と言えるのか？全部有するとは、必ず得る時が来るからであり、縁に従って顕現するからである。故に全部有すると言う。現在は無くても必ず将来は有するのである。 次に譬えは、本文の通りである。 第二の問答。忍辱草（にんにくそう）の譬えを問い難ずる。もし一つなら、一人が修めた後、他の人も得るはずである。仏が答えられる。仏性は一つである。多くの人がそれぞれ修行することに従って、それぞれが得るのであり、互いに妨げ合うことはない。 第三の問答。問う。多くの人が道にいる場合、後から来る人の妨げになる。仏性もまた同じで、先の人が修行する時は、後の人の妨げにもなる。仏が答えられる。道や橋、医者のようなものはごく一部の例えである。聖道の道はそのようではない。橋なども同じである。 第四の問い難じ。天・人・六道の姿は同じではない。どうして共に一つの仏性を有すると言えるのか？仏が答えられる。毒を乳に仕込めば、五味に従って毒は全てを殺すことができる。仏性もまた同じで、一切の場所に遍く存在する。<note>云云</note>

「十六大國」下，第二明修道因緣，又二：初明道緣、二明道因。初道緣又三：一處緣、二時緣、三人緣。非處、非時、非善知識，皆不能得，故云待處、待時、待伴。就處又二：先城處、二樹處。城處又二：先問、次答。問意：言十六大國，有六大城，如來何故在此小城？答為二：先訶、次正釋。初訶問者，佛所居處不應言小，舉三譬況，如來世尊是人中之尊，居止之處其處則尊，君子居之何陋之有。「我念往昔」下，第二正釋，又二：一報地恩、二驅邪黨。初報恩又三：一報發心、二報四無量、三報弘誓，如文。次驅邪黨又二：初遍六大城、後明至此降伏。既了邪窮正盡，即寂滅涅槃。六城為六，初即至王城，然外道潰亂誘引眾生令墮三惡，故須來此而驅遣之。又國主有請，佛不違言，故往王城。外道自知其術淺薄，仍奔舍衛，佛因化三迦葉及通慧二人。「時彼城中有一長者」下，是第二往舍衛逐外道。就文為三：一明往之緣起、二共試神力正論往彼。然諸外道在王舍城不敢拒抗，行至舍衛仍求面論。珊檀那者，是王舍城人，此翻護彌。祇陀，此翻勝氏。須達多者，是舍衛人，此翻善溫。問：佛名聞十方，須達亦是六大居士，何以聘婚夜宿始聞佛名？答：初非不聞孟浪飄瞥，今道機時熟，聞則毛衣遍竪。

> （「十六大国」の後に、修行の因縁を明かす第二段がある。これも二つに分かれる。初めに修行の縁を明かし、次に修行の因を明かす。修行の縁にはさらに三つある。一に場所の縁、二に時節の縁、三に善知識の縁である。適切な場所でなく、適切な時でなく、善知識でなければ、いずれも得られない。だから「場所を待ち、時を待ち、仲間を待つ」と言うのである。場所について、さらに二つある。先に城の場所、次に樹の場所である。城の場所について、さらに先に問い、次に答えがある。問いの意図は、「十六大国に六大城があるのに、なぜ如来はこの小さな城におられるのか」というものである。答えは二つに分かれる。先に問いを叱り、次に正しく説明する。初めの問いを叱るとは、仏のお住まいを小さく言うべきではないということである。三つの譬えを挙げて、如来世尊は人の中の尊い方であり、お住まいになるところはその場所が尊くなる。君子が住めば、何の鄙びたところがあろうか。「我、往昔を念ず」以下は、第二の正しい説明である。これも二つに分かれる。一に地の恩に報いること、二に邪な者を追い払うことである。初めの恩に報いることはさらに三つ。一に発心に報いること、二に四無量心に報いること、三に弘誓に報いること。文の通りである。次に邪な者を追い払うことはさらに二つ。初めに六大城を巡り、後にここに至って降伏させることを明かす。邪が尽き、正が極まれば、すなわち寂滅涅槃である。六城を六つとして、初めに王城に至る。しかし外道は混乱し、衆生を誘い惑わして三悪道に堕とそうとする。だからここに来て彼らを追い払う必要があるのである。また国王が請えば、仏は願いを違えられない。だから王城に赴かれる。外道は自らの術が浅いことを知り、なおも舎衛に奔った。仏はそこで三迦葉と通慧の二人を教化された。「時にその城中に一人の長者あり」以下は、第二に舎衛に往き外道を追うことである。文を三つに分ける。一に往く縁起を明かし、二に共に神力をもって試し正しく論じて彼のところに往くことを明かす。しかし諸々の外道は王舎城では対抗できず、舎衛に行ってなお面と向かっての論を求めたのである。珊檀那とは王舎城の人であり、この訳は「護弥」という。祇陀はこの訳は「勝氏」という。須達多は舎衛の人であり、この訳は「善温」という。問う。仏の名は十方に聞こえている。須達も六大居士であるのに、どうして結婚の縁で一夜を過ごして初めて仏の名を聞くのか。答える。初めから聞いていないわけではないが、粗略でうわべだけのことであった。今や道の機が熟し、聞けば汗毛が逆立つのである。）

### 師子吼品之四

> 獅子吼品 第四

起卷是第二至城共試神力。文為三：一試緣、二正試、三眾益。初又四：一求試、二王不許、三重求、四王許。所以求者，前於王城已被斥逐，今復更來舍衛城中，奪名失利不可容忍，訴王求試。就初為二：一褒美於王巧言令色、二貶挫於佛動容劇謗。年既幼穉者，佛既三十成道，于時只可年三十餘。苦行止六年而已，故言學淺。真實不生王種中者，彼言佛是幻化，必非王種。劫奪他人父母者，佛教令人離俗出家，即是劫奪父母之兒，亦是斷他父母子胤。不許妻娶，亦是劫奪家他父母云云。「王言大德」下，二是王不許。「六師答言云何無妨」，是第三重求。「王言善哉」下，是第四王許。王雖私許，又須咨佛。「佛言善哉」下，是第二正試，又二：初命王多造；二正現神變，如《賢愚經》云云。三時眾得益。此中不明交論往復，直爾示於希有奇異，外道覩變自知不逮，仍奔至於婆枳多城。問：何不交論？答：三輪之中宜神通輪，當是時也。時眾及以外道徒屬得益，其外道師猶未信伏。「爾時六師內心」下，是第三，佛復向彼城。問：佛有大悲不惱眾生，云何處處追逐六師不得停足？答：欲摧異見，救無量人令出邪濟，除生死縛，得大涅槃。此非哀憫，更以何等為慈悲耶？「於是六師復相集」下，是第四向毘舍離。如來復往，為菴羅女及離車等種種說法。此即耆婆之母瓶沙夫人，既有麗色，誡諸比丘觀身念處。次為離車說不放逸，破其憍慢。國法每選智能為主，餘者參議，是故翻之為邊地主，亦云傳參國事。「是時六師」下，第五復至波羅奈城。「六師聞已」下，第六復至瞻婆城。

> ここでは第二巻に入り、城に到って神力の競い合いを示す段階である。文は三つに分かれる。第一に試しを求める因縁、第二に実際の試し、第三に大衆が利益を得る。第一段はさらに四つに分かれる。一に試しを求める、二に王が許さない、三に重ねて求める、四に王が許す。なぜ試しを求めるのか。かつて王舎城で追放されたのに、今また舎衛城にやって来て名声と利益を奪おうとするのは、我慢できないことであり、王に訴えて試合を願い出たのである。 初めの部分は二つに分かれる。一に王を巧みな言葉と媚びた態度で褒め称える、二に仏を激しく誹謗して貶める。「年が幼く未熟である」とは、仏は三十歳で悟りを開き、当時は三十歳あまりで、苦行もわずか六年に過ぎない。よって学びが浅いと言うのである。「王族の生まれではない」とは、彼らが言うには仏は幻化の存在であり、決して王家の血筋ではないと。「他人の父母を奪う」とは、仏教は人に世俗を離れて出家するよう教えるため、それは父母から子を奪うことであり、また父母の子孫を絶つことでもある。妻を娶ることを許さないことも、他者の父母を奪うことと変わりない、と＜注＞諸説あり＜/注＞。 「王が『大徳よ』と言う」以下は、第二段、王が許さない。「六師が答えて『何の支障がありましょうか』と言う」は、第三段、重ねて求める。「王が『善きかな』と言う」以下は、第四段、王が許す。王はこっそりと許したが、さらに仏に諮らねばならない。「仏が『善きかな』と言う」以下は、第二の実際の試しであり、さらに二つに分かれる。初めに王に多く造らせるよう命じる、次に実際に神変を示す。『賢愚経』に詳しい＜注＞諸説あり＜/注＞。三つ目に、その時に大衆が利益を得る。 ここでは問答のやり取りは明らかにされず、ただ直接に希有で奇異なことを示し、外道はその様子を見て自分たちが及ばないことを悟り、逃げ出して婆枳多の町に至る。 問う。なぜ問答しないのか。 答える。三輪の中では神通輪が適切だからである。その時がそうであった。大衆と外道の弟子たちは利益を得たが、外道の師たちはまだ信じ伏していなかった。 「その時、六師は内心で」以下は第三段。仏は再びその町に向かう。 問う。仏は大いなる慈悲を持ち、衆生を悩ませないのに、なぜあちこちで六師を追い立てて立ち止まる暇を与えないのか。 答える。邪な見解を打ち壊し、無数の人々を救って邪悪な渡し場から脱出させ、生死の束縛を除き、大いなる涅槃を得させるためである。これは哀れみでなくて、何が慈悲であろうか。 「そこで六師は再び集まり」以下は第四段、毘舎離に向かう。如来もまたそこに行き、菴羅女や離車族などのために様々な説法をする。これは耆婆の母である瓶沙夫人であり、美しい容貌があったため、比丘たちに身体を観じて念処を修めるよう戒めた。次に離車族のために怠らないことを説き、その驕り高ぶりを破った。その国の法では毎回智能ある者を王に選び、残りは参議とした。よって「辺地主」と訳され、また「伝参国事」とも言う。 「その時六師は」以下は第五段、再び波羅奈城に至る。 「六師が聞いて」以下は第六段、再び瞻婆城に至る。

「爾時六師周遍六城」下，二明至拘尸皆被追逐不知何去。正言拘尸陜小，且自保而住，不意佛來。就此文為三：一邪教、二正教、三邪正論義。初是外道至拘尸城，廣談佛過，令人起邪。文云「母既是幻，子不得非。」此有何意？意言：人之生法自有常儀，何因乃從右腋而生？豈非幻母而生幻子？二佛至說正。撥邪歸正則邪正各行。

> 「爾時六師周遍六城」の下、二番目に、拘尸に至るも皆追い払われ、どこへ行くべきか分からなくなることを明かす。そもそも拘尸は狭く、自らを守って留まろうとしたが、仏が来られるとは思ってもみなかった。この文を三つに分ける。一、邪なる教え。二、正しい教え。三、邪と正が論義すること。初めは外道が拘尸城に至り、仏の過ちを広く語って、人々に邪を起こさせる。文に「母がすでに幻であれば、子もまた非であることは免れない」とある。これはどういう意味か。人の生まれ方には本来、一定の作法がある。なぜ右脇の下から生まれることがあるのか。これは幻の母が幻の子を生んだことに他ならないのではないか。二、仏が至って正しい教えを説く。邪を払い正に帰すれば、邪と正はそれぞれに進む。

「爾時六師復作」下，第三邪正合論。凡七番問答，前六番正論、後一番降伏。此即初番。先立邪義，以見者為我，即十六知見中一。佛破有三：初令六根俱用，其上舉向為譬，今還難之。人在向中見色聞聲俱取六塵，汝以我在眼中只能見色不能遍取諸塵者，當知汝非。次令老少不殊，如在向中乃至一百年見外分明，我在眼中百年見物亦應分明。若老我在眼不及少者，何得用向而為譬耶？第三令內外俱見。人在向中內外俱見，我在眼中何不見內？「六師復言若無我者」下，第二番，進問此非正難。為前難甚，故更問我。「佛言有色」下答，又三：一示因緣、二破邪我、三結正我。此即初示，藉諸因緣而得見色，曾非我見但橫見言有。「六師若言」下，第二破其邪我，又三：初標唱不然。次「何以故」下別出諸過。我以自在為義，只應唯作婆羅門種，何故復受六道不同？色既無我，受想行識悉無有我。「以無我」下，三結過六師。「如來」下，第三結示正我，又二：初略示、次對辨。初文意者，前既破色受等無我，其即更問如來為是色等已不？今懸取其意，答云：如來我者無復色縛，亦無受想行識之縛，具於四德。汝所言我，不免四縛。次更結，亦與外對辨。外道言我從因緣故，是故無常。如來我者，非因緣得，故常樂我淨。「六師言瞿曇」下，第三番，外道改宗，或云部別。以偏一切處為我，不取色為我。「佛言」下，如來破之。有二意：初直就遍破、後更就一異檢。初文又兩復次：初復次責遍。我既遍者，不應初不見，應常見也。次責我遍者，應遍五道，何故畏三惡道，為人天身持於戒善？次就一異者，又二：初先唱兩章門、次一一釋。就一責，如文。就多責者，一一身中各有一我，我是自在，云何利鈍愚智不等？「瞿曇眾生我」下，第四番，外道重救。我則是一，又亦恒遍，眾生修業自有差別，業果不同。佛破云：我既遍而且常，豈得善惡迭謝？便應罪福俱有，故言行惡應有善、行善應有惡，若不俱有即是不遍。又我是自在，應善惡自行云云。「瞿曇譬如一室」下，是第五番，外道復救以然燈譬。雖同一明而燈體各異，我終是遍，但善惡用異，如一室中然百千燈云云。佛破又二：先唱不然。次三種破：一從緣破、二就明出異處破、三就明闇共住破。初破云：汝燈譬於法、明譬我者，明由於燈。多油炷者，燈則明盛。若爾，我由於業，業滅我死。業既陜小，我則不遍。第二責處者，明從燈出。若爾者，我從業出，則業有我，非我有業。第三明初燈時與闇共住。若爾，汝之常我，皆應在於無常我中，無常之我亦應在於常我之中。「瞿曇若無我者」下，第六番，外更請問。佛答又二：一破邪我。我既是常，云何能作？常何有作？設令有作，何不作善而或作惡？既善惡不定則無常也。次明正我，即是如來常住無閡。第七一番，外道歸伏，如來結章，如文。

> 「爾時六師復作」の下、第三に邪と正を合わせて論じる。全体で七つの問答があり、最初の六つは正しい論議、最後の一つは降伏である。これがその最初の番である。先に邪義を立て、「見る者」を我とする。これは十六知見の一つである。仏の破し方は三つある。まず、六根すべてを使わせる。先に「向かって」を譬えに挙げたので、今度はそれで難じる。人が向かって中で色を見、声を聞き、六塵をすべて取るのに、汝は我を眼中に在ってただ色だけを見、諸塵を遍く取ることができないとするなら、汝はそうではないと知るべきである。次に、老少に差別がないようにさせる。向かって中では百年経っても外を分明に見る。我が眼中に在って百年物を見るのも、また分明であるべきだ。もし老いた我が眼に在って若い時のようでないなら、どうして向かってを譬えとすることができようか。第三に、内外ともに見るようにさせる。人は向かって中で内外ともに見る。我が眼中に在ってどうして内を見ないのか。「六師復言若無我者」の下、第二番。進んで問うが、これは正しい難問ではない。先の難問が厳しいので、改めて我について問うのである。「佛言有色」の下、答え。また三つある。一に因縁を示し、二に邪我を破し、三に正我を結ぶ。これが初めの示すところで、諸の因縁によりて色を見るのであり、かつて我が見るのではなく、ただ横さまに見ると言うだけである。「六師若言」の下、第二にその邪我を破す。また三つある。初めに「そうではない」と標する。次に「何以故」の下、別に諸々の過ちを出す。我は自在を義とする。ただ婆羅門種のみを作るべきであるのに、どうしてなお六道の不同を受けるのか。色に我がないならば、受・想・行・識もすべて我がない。「以無我」の下、三に六師の過ちを結ぶ。「如來」の下、第三に正我を示し結ぶ。また二つある。初めに略示し、次に対弁する。初めの文の意は、先に色・受などを破して我なしとしたので、そのまま「如来は色などであるか」と問うことを取って、今その意を懸けて答えていう。如来の我とは色の束縛がなく、また受・想・行・識の束縛もなく、四徳を具える。汝の言う我は、四つの束縛を免れない。次にさらに結び、また外道と対弁する。外道は「我は因縁に従うから無常である」という。如来の我は因縁によって得るものではないから、常・楽・我・浄である。「六師言瞿曇」の下、第三番。外道が宗旨を改める。あるいは部派が別であるという。あらゆる場所に遍くあるものを我とし、色を我としない。「佛言」の下、如来がこれを破す。二つの意がある。初めは直接遍く破し、後はさらに一と異について検する。初めの文にまた二つの復次がある。初めの復次は遍くあることを責める。我がすでに遍くあるならば、初めに見えないはずはなく、常に見えるべきである。次に我が遍くあることを責めて、五道に遍くあるべきであるのに、どうして三悪道を畏れ、人天の身となるために戒善を保つのか。次に一と異について検するものは、また二つある。初めに二つの章門を唱え、次に一つ一つを釈する。一について責めることは、文の通り。多について責めることは、一々の身の中にそれぞれ一つの我がある。我は自在であるのに、どうして利・鈍・愚・智が等しくないのか。「瞿曇衆生我」の下、第四番。外道が重ねて救う。我は一つであり、また恒に遍く、衆生が業を修めること自体に差別があり、業の果も同じではない。仏が破していう。我がすでに遍くしかも常であるなら、どうして善悪が交代して謝することがあろうか。すなわち罪福がともに有るべきである。だから「悪を行えば善があるべき、善を行えば悪があるべき」という。もしともに有ることがないなら、すなわち遍くないのである。また、我は自在であるから、善悪が自ら行うべきである<note>云々</note>。「瞿曇譬如一室」の下、第五番。外道が再び救い、灯明の譬えを用いる。同じ明かりであっても灯体は各々異なり、我は終に遍くあるが、ただ善悪の用が異なる。一室の中に百千の灯を灯すようなものである<note>云々</note>。仏の破し方はまた二つ。先に「そうではない」と唱える。次に三種の破し方。一に縁に従って破す。二に明かりが出る所を異にして破す。三に明かりと闇が共に住むことを破す。初めの破し方。汝は灯を法に譬え、明かりを我に譬える。明かりは灯に由る。油と炷（芯）が多ければ、灯は明るく盛んになる。もしそうなら、我は業に由り、業が滅すれば我も死ぬ。業が狭小であれば、我は遍くないのである。第二に処を責める。明かりは灯から出る。もしそうなら、我は業から出るのであり、すなわち業に我があるのであって、我に業があるのではない。第三に、初めの灯の時、明かりと闇が共に住む。もしそうなら、汝の常我はすべて無常我の中にあるべきであり、無常の我もまた常我の中にあるべきである。「瞿曇若無我者」の下、第六番。外がさらに問う。仏の答えはまた二つ。一に邪我を破す。我がすでに常であるなら、どうして作ることができようか。常に作ることがどうしてあろうか。仮に作ることがあるとしても、どうして善を作らず、あるいは悪を作るのか。善悪が定まらないならば、すなわち無常である。次に正我を示す。すなわち如来は常住で滞りがない。第七の一番、外道が帰伏し、如来が章を結ぶ。文の通り。

「善男子以是因緣」下，第二明樹處，又二：先結前生後、次正明處。初如文。「東方雙者」下，第二正明樹處，為三：一表理、二護法、三法味利益。初表理，理即四德。何意以東譬常無常等？一解云：趣取一事，無的所在，亦可以東譬樂無樂。二河西云：二株枯乾，表應化身滅；二株敷榮，表法身常存。然菩提樹亦一觚生、一觚枯，至佛法滅二株皆枯。若爾，何必定破常無常等？然佛隨緣化，應有所以。河西云：東方雙表常無常者，外道所事大自在天在東方住，教行於西。今佛法常破其無常，故言東方雙者表常無常。南方表我者，南是右方，右手作便，譬我用自在。西方表樂者，西方行佛教即得樂，表佛法樂。北是淨方，又是出家之處，故表佛法中淨。又云：自在天面向東，則右手在南，皆是為破外道四倒，表佛法四德，故作此配。「此中眾生為雙樹故」下，第二護法，先舉事、後明理。事者，佛在樹下入於涅槃，四天大王常護此樹，不令外人侵毀其枝葉。昔召伯治理有善政，常聽訟於小棠之下。及其既沒，百姓思其仁、愛其樹，而作勿剪勿伐之詩。況復如來娑羅樹耶！從「華果常茂」下，第三明法味利益，先譬、次合釋。華果者，華敷嚴飾見者生愛，譬法身湛然常住無變，故用華表我。果表樂者，其味甘甜色香具足，見聞嗅觸嘗食遍樂；法身亦爾，一切眾生皆同此樂。

> 「善男子、かくのごとき因縁によりて」の下は、第二に樹の場所を明かす。また二つあり。先に前を結び後を生じ、次に正しく場所を明かす。初めの部分は原文の通り。「東方の双樹は」の下は、第二に正しく樹の場所を明かす。三つに分かれる。一に理を表し、二に法を護り、三に法味の利益を説く。初めの「理を表す」とは、理とはすなわち四つの徳である。どうして東を以って常・無常などに譬えるのか。一説には、とりあえず一事を取り上げたもので、確かな根拠があるわけではない。東を楽・無楽に譬えてもよいのである。二つ目に、河西は言う。「二本の樹が枯れ乾くのは、応化身が滅することを表す。二本の樹が茂り栄えるのは、法身が常に存在することを表す。しかし菩提樹も一方は生い茂り、一方は枯れる。仏法が滅びるときには、二本とも枯れるのである。それならば、なぜ必ず常・無常などを破る必要があろうか。しかし、仏は因縁に従って教えを説かれるので、当然理由があるはずである。」河西は言う。「東方の双樹が常・無常を表すのは、外道の拝む大自在天が東方に住み、教えを西方に広めたからである。今、仏法の常をもってその無常を破る。ゆえに『東方の双樹は常・無常を表す』と言うのである。南方が我を表すのは、南が右の方であり、右手が自由に動くことを、我の自在に譬えるからである。西方が楽を表すのは、西方で仏教を行えば楽を得るからで、仏法の楽を表す。北は清らかな場所であり、また出家の場所でもあるから、仏法の清らかさを表す。」また言う。「自在天は東を向いているので、右手は南にある。これらはすべて外道の四つの倒錯を破り、仏法の四つの徳を表すために、このように配当したのである。」 「この中の衆生は双樹のゆえに」の下は、第二に法を護ることを説く。先に事を挙げ、後に理を明かす。「事」とは、仏が樹の下で涅槃に入られた時、四天王が常にこの樹を守り、外部の者がその枝葉を損なうことを許さなかったという故事である。かつて召伯は善政を行い、小棠の木の下で訴訟を聞いた。彼の死後、人々はその徳を思い、その木を愛し、「切り折るな、伐るな」と詠んだ詩を作った。ましてや如来の娑羅樹においてはなおさらである。「花果常に茂る」から下は、第三に法味の利益を明かす。先に譬え、次に合わせて解釈する。「花果」について、花が咲き飾ることは、見る者に愛着を起こさせる。これは法身が清らかで常住し、変わらないことを譬える。ゆえに花をもって我を表す。果実が楽を表すのは、その味が甘く、色香も優れ、見たり、聞いたり、嗅いだり、触れたり、味わったりするすべてに楽があるからである。法身もまた同じで、すべての衆生が等しくこの楽を受けるのである。

「師子吼言如來何故」下，第二時緣，又二：初二月時、次十五日時。前二月時，有問答。答為二：初舉喻明事、次合譬明理。初文者，若依夏時即是二月，若依周時即是四月。眾生悅時，皆保常故，破著悟道。又云六時中者，二解。河西云：外國二月為一時，年有六時，是則春夏冬三時各有前後。《金光明》云「若二二說，足滿六時。三三而說，一歲四時。」今此正取二二，足滿六時。招提云：舉春冬兩時各有孟仲季，故言六時，文中舉孟冬對陽春云云。「言二月者」下，第二合譬明理。二法身者，即是真應。河西云：常身無常身俱為照世。果喻四果。一云：是小乘四果，大能兼小故也。二云：是四德。「師子吼言」下，第二明日時，亦先問、次答。問者，《長阿含》說八日出家，八日入涅槃。此云十五日，蓋由感見不同，亦是如來身密自在。次佛答，為二：初就本、次就迹。初本者，欲明妙本圓極，故以十五日為譬。「如十五日」下，即是就迹。

> 「師子吼が『如来はなぜ…』と問う」以下の部分は、第二の「時の縁」についてです。さらに二つに分かれます。第一に二月の時、第二に十五日の時です。 まず、二月の時には問答があります。答えは二つに分かれます。初めに譬えを挙げて事を明かし、次に譬えを合わせて理を明かします。 最初の文について、夏暦に従えば二月にあたり、周暦に従えば四月にあたります。この時、衆生は心が和らぎ、皆無常を常であると執着するため、その執着を破り悟りへ導くのです。 また「六時の中において」という点については、二つの解釈があります。河西という僧は「外国では二月を一時とし、一年に六時がある。すなわち春夏冬の三時、それぞれに前後がある」と述べています。『金光明経』には「二つずつ二つと説けば、六時が満たされる。三つずつ三つと説けば、一年は四時となる」とあります。今ここでは、二つずつの説き方によって六時が満たされることを採用します。 招提という僧は「春と冬の二時には、それぞれ孟・仲・季がある。故に六時という。文中では孟冬を挙げて陽春と対比している」と述べています<note>云云</note>。 「二月と言うのは」以下の部分は、第二の「譬えを合わせて理を明かす」です。二つの法身とは、真身と応身のことです。河西によれば「常住の身と無常の身、共に世を照らすものである」とされます。 果については、四果の譬えです。一つの説では「これは小乗の四果である。大乗は小乗を包括できるからである」とし、別の説では「これは四徳である」とします。 「師子吼が言う」以下の部分は、第二の「日時を明かす」です。まず問いがあり、次に答えがあります。 問いとは、『長阿含経』では八日に出家し、八日に涅槃に入ると説かれています。ここでは十五日とされていますが、これは感得の違いによるものであり、また如来の身密が自在であることによるものです。 次に仏が答えます。二つに分かれます。初めに「本」について述べ、次に「迹」について述べます。 初めの「本」とは、妙なる本地が円満にして究極であることを明らかにしたいため、十五日を譬えとするのです。「十五日の如く」以下の部分は、すなわち「迹」について述べています。

「師子吼言何等比丘」下，是第三明人緣。於中又二：先出人、次論義。初明人中有問答。言莊嚴者，此人具德具行、多知多見、巧示巧說，故能莊嚴雙樹。亦是德行具足，堪可依憑，故得是緣。佛答為二：初明因中六人。六人者，或是略說、或是物宜、或是對上六師，故舉六耳。問：何不取菩薩莊嚴雙樹？答：菩薩游化無定，不常隨佛；此六人者常隨侍佛，得是人緣。又此比丘即是菩薩云云。文云身子聞涅槃不憂、聞常住不喜者，《阿含》中云「身子聞佛欲涅槃，不忍見佛去世，乃前入滅。」云何言聞涅槃不憂？佛答中述其德果，知正是菩薩之義，不可作小乘意釋。「若有比丘能說」下，第二明果人，即如來是。前出人竟。

> 「師子吼が言う『何等の比丘』」以下の部分は、第三に人縁を明かす段である。ここではさらに二つに分かれる。まず人を挙げ、次に議論を行う。初めに人を明かす中で問答がある。「荘厳」と言うのは、この人が徳と行を備え、多くを知り多くを見、巧みに示し巧みに説くので、双樹を荘厳する事ができるのである。また、徳行を具えていて、頼りにするに足るため、この縁を得るのである。 仏の答えは二つに分かれる。初めに因の位にある六人の者を明かす。六人とは、あるいは略説であり、あるいは機に応じたものであり、あるいは先の六師に対応するために挙げられたものである。問う：なぜ菩薩を取って双樹を荘厳させないのか。答え：菩薩は遊行教化に定まった場所がなく、常に仏に従うわけではない。この六人は常に仏に従い仕え、この人縁を得るのである。また、これらの比丘はすなわち菩薩である<note>云云</note>。 経文に「身子（シャーリプトラ）は涅槃を聞いても憂えず、常住を聞いても喜ばない」とあるのは、『阿含経』に「身子が仏が涅槃に入ろうとされているのを聞き、仏が世を去られるのを見るに忍びず、先に入滅した」とある。どうして涅槃を聞いて憂えないと言うのか。仏の答えの中でその功徳の果を述べているのは、まさに菩薩の意味であり、小乗の解釈をしてはならない。「もし比丘ありて能く説く」以下の部分は、第二に果の位にある人、すなわち如来を明かす。以上で人を挙げる段は終わる。

次「惟願」下，是論義，有三番問答。初雖非正難，亦得稱問。「佛言」下，答，為二：先明本、次辨迹。本為兩：一略無住；二廣無住，又二：先法、次譬。初法中二：先釋住、此釋無住。於中云名虛空者，妙體非有，故言虛空。金剛三昧即是如來者，舊解云：十地窮學乃未是佛，相續道中轉金剛心即名為佛。今依此文云是如來。此名通於因果，例如首楞嚴通因果。檀波羅蜜等者，非謂六行能成於果。上文云六波羅蜜滿足之身，道品亦然。「譬如虛空」下，二就譬說無住，又二：先譬、次合。初譬如文。次合中反以差別簡空，空即無住。於中云六住菩薩煩惱因緣墮三惡道者，或言六心、或言六地。私云：恐是六地。「善男子如來今於此」下，第二明迹。方便道中還歸寂定，眾生不見謂佛入涅槃。「師子吼」下，第二番問答。如來何故不常利生而入寂耶？佛廣答其意。不共法藏者，不與二乘人共。其中或為滅惡、或為生善，即四悉意須入寂定。「師子吼言」下，第三番問答。問：云何名涅槃為無相耶？佛答，為三：初直明十無相、次明有相之失、三明無相之得。

> 次に「惟願」から下文は、法義の論議であり、三つの問答がある。最初の問いは正しい難問ではないが、それでも問いと呼べる。 「佛言」以下の答は二つに分かれる。まず本来の姿を明かし、次にその働きの跡を示す。 「本」は二つ。一つは簡略に「無住」を説き、二つ目は詳しく「無住」を説く。詳説はさらに二つに分かれ、まず法（理）を説き、次に譬えを用いる。 法のうち初めに「住」を釈し、次に「無住」を釈す。その中で「虚空と名付ける」というのは、妙なる体は「有」ではないから虚空というのである。 「金剛三昧即ち是れ如来」については、古来の解釈では「十地において学を窮めてもまだ仏ではないが、相続する道において金剛心を転ずれば、即ちこれを仏と名付ける」と説く。今はこの文に従って「是れ如来」とする。この名称は因果に通じており、例えば首楞厳が因果に通じるのと同様である。 「檀波羅蜜等」とは、六つの行（波羅蜜）がそのまま果を成すと言うのではない。上文に「六波羅蜜滿足の身」とあり、道品もまた同じである。 「譬えば虚空の如し」以下は、第二に譬えを用いて「無住」を説く。さらに二つに分かれ、先に譬えを挙げ、次にそれを合わせて説明する。初めの譬えは文の通りである。次に合わせて説明する中で、逆に差別をもって空を簡別する。空とは即ち無住である。その中で「六住菩薩、煩惱の因縁により三悪道に堕つ」というのは、あるいは「六心」と言い、あるいは「六地」と言う。私見では、おそらく「六地」であろう。 「善男子、如来今此に於いて」以下、第二に「迹」を明かす。方便の道において、また寂定に帰する。衆生はそれを見ず、仏が涅槃に入ったと謂う。 「師子吼」以下、第二番目の問答。如来はなぜ常に衆生を利益せずに寂滅に入るのか。仏はその意味を広く答える。「不共法蔵」とは、二乗の人と共にしないものである。その中には、あるいは悪を滅するため、あるいは善を生むためがあり、即ち四悉檀の意味から寂定に入る必要があるのである。 「師子吼言」以下、第三番目の問答。問い：どのように涅槃を「無相」と名付けるのか。 仏の答えは三つに分かれる。初めに直接十の無相を明かし、次に有相の過失を明かし、三に無相の功徳を明かす。

「師子吼言何等比丘」下，第三明修道之用。文為三：初明三法、次辨二法相資、三明力用。初文，前略問答、後廣問答。略問答如文。然三法不同，若聖行以戒定慧為三法，今文以定慧捨為三法，定慧為正，捨是調停。而言時時者，非專一品，應時時調均令得自在。「師子吼言云何名」下，第二廣問答。問中二：初通問云何為定慧捨相耶？次別問三法，為二：初廣約定問、次以慧捨例。初問定為三：初據本有、次就一境、三就一行。初本有中言皆有者，謂一切眾生皆有三昧。數師明十大地中有三摩提是定數。此定本有，何須修習？河西云：取造事心專，不必十大地中定數。次心在一境者，若但行一境為定者，更復緣餘便非是定；若不餘緣，云何得名一切智人？三就一行為問者，若一行是三昧行，餘行時即非三昧；若不行餘行，非一切智。次慧捨二事，例亦如是問。佛答中，先答別問、次答通問。先答別問中二：先答定、次答慧捨。先答定中，前問定有三，今先答第二問，以第三問例，次追答第一本有之問。今初，第二云如是餘緣亦是一境，謂心專一緣此是定境，以定緣之無境不定，非謂猶是問境之一，蓋是定心緣境非是散心。以定一於一切，名一切智。若是散心緣境，為境所牽；若定心緣境，設改緣易觀，非境牽心，故得是定。行亦如是者，即兼答第三一行之問。若以散心而行諸行，行牽於心；若以定心行於諸行，令諸行一。「又言眾生」下，追答第一本有之問。善三昧者，不取大地。通三性定，乃取善修之定。次「以住如是」下，答慧捨，又二：先答其慧相；不見三昧慧異，答其捨相。「復次若取色相」下，第二答前通問。文為四：一略標三法體、二釋三法名、三更廣三法體、四明功用。初略標體為三，先標定體。言取色相者，非定執色相之心，乃是禪定門戶入住出相。不能觀色常無常者，正作靜攝，不作照知，故不能觀。次「若能觀色」下，出於慧體。常無常俱照，故非偏慧。三「三昧慧等」下，明捨體。二事合調，故云平等。又三：先法、次譬、三合法，如文。次譬者，偏定是遲，偏慧是疾，二法均平，故以駕駟為喻。三「菩薩亦爾」下，合。合中云十住菩薩智慧多三昧少者，河西云：十住進求勝地，方建大乘嚴土化人，智用偏起，故不見性。二乘自調自淨，志求證得，定多智少，亦不見性。於二平等則能見性。今明入空多則是遲相、入假多是疾相，空假雙亡是平等相，能見性者，是別教意。即空即假即中，乃不遲不疾，是善駕駟，即圓教意，乃能見性。

> 師子吼が「どのような比丘が」と問うた箇所から、第三に修行の働きを明かす。文は三つから成る。初めに三つの法を説き、次に二つの法が互いに支え合うことを示し、第三にその力用を明かす。 初めの文では、まず簡略な問答があり、後に詳しい問答がある。簡略な問答は本文の通りである。三つの法には違いがある。聖行では戒・定・慧を三法とするが、この経文では定・慧・捨を三法とする。定と慧が本筋であり、捨はその調和を図るものである。「時時」というのは、一つの状態に留まることなく、時々に応じて調え、自在を得させることを意味する。 「師子吼が『どのように名づけるか』と言った」以下、第二に詳しい問答である。問いには二つある。初めに「どのように定・慧・捨の相であるか」と総じて問い、次に三法を個別に問う。個別の問いは二つあり、初めに定について詳しく問い、次に慧と捨を例に准じる。 初めに定を問うことは三つある。第一に本来備わっていることを根拠とし、第二に一つの境に就き、第三に一つの行に就く。初めに「本来備わっている」について「皆有」と言うのは、すべての衆生に三昧があることを意味する。数の師は十大地の中に三摩提があり、これは定の数であると説く。この定は本来備わっているものであり、なぜ修行が必要なのか？河西は「事を成す際に心が専らになることを取るのであって、必ずしも十大地の中の定の数ではない」と言う。 次に「心が一つの境にある」ことについて。もしただ一つの境を行ずることが定であるならば、さらに他の縁に移れば定ではなくなる。他の縁に移らなければ、どうして一切智人と名づけられるのか？ 第三に一つの行について問う。もし一つの行が三昧行であるならば、他の行を行ずる時は三昧ではない。他の行を行わなければ、一切智ではない。 次に慧と捨の二つの事も、同じように問う。 仏の答えでは、まず個別の問いに答え、次に総合の問いに答える。個別の問いに答える中で二つあり、先に定に答え、次に慧と捨に答える。 先に定に答える中で、前の定の問いは三つあったが、今は先に第二の問いに答え、第三の問いは例に准じて答え、次に第一の本来備わっているという問いに追って答える。 今、初めに第二の問いについて。このように「他の縁もまた一境である」とは、心が一つの縁に専らになることを、これが定の境であると言う。定の心で縁するので、境が定まらないものはない。いわゆる問いの境が一つであるということではない。定の心が境を縁するのであって、散心ではない。定によってすべてを一つにするから、一切智と名づける。もし散心で境を縁すれば、境に心を引かれる。もし定心で境を縁すれば、たとえ縁を改め観を変えても、境が心を引くのではなく、それゆえに定となる。 「行もまたこのようである」とは、第三の一つの行についての問いを兼ねて答えたものである。もし散心で諸々の行を行ずれば、行が心を引く。もし定心で諸々の行を行ずれば、諸々の行を一つにする。 「また『衆生』と言った」以下は、第一の本来備わっているという問いに追って答える。善い三昧とは、大地の説を取らない。三性に通じる定ではなく、善に行じ修めた定を取るのである。 次に「住することの如く」以下は、慧と捨に答える。また二つある。先に慧の相に答え、次に「三昧と慧とに異なりを見ず」は、その捨の相に答える。 「またもし色相を取るならば」以下、第二に前の総合の問いに答える。文は四つある。一に三法の体を略して標し、二に三法の名を釈し、三に三法の体をさらに広く示し、四にその功用を明かす。 初めに体を略して標すことは三つある。先に定の体を標す。「色相を取る」とは、色相に執着する心ではなく、禅定の門戸である入・住・出の相である。「色の常・無常を観ずることができない」とは、正に静かに摂する働きをしており、照らし知ることをしないので、観ずることができないのである。 次に「もし色を観ずることができるならば」以下、慧の体を示す。常と無常を共に照らすので、偏った慧ではない。 第三に「三昧と慧とが等しい」以下、捨の体を明かす。二つの事を合わせて調えるから「平等」と言う。 また三つある。先に法、次に譬え、三に法を合わせることは、本文の通りである。 次に譬え。偏った定は遅く、偏った慧は速い。二つの法が均等であるので、四頭立ての馬車に例える。 第三に「菩薩もまた同じ」以下、合わせる。合わせる中で「十住の菩薩は智慧が多く三昧が少ない」と言うのは、河西によれば「十住は勝れた地を求めて進み、まさに大乗を建立し、土を荘厳し人を教化するために、智慧の働きが偏って起こるので、性を見ないのである。二乗は自ら調え自ら浄め、証得を志して求めるので、定が多く智慧が少なく、また性を見ない。この二つが平等であれば、性を見ることができる」と言う。 今述べるに、空に入ることが多ければ遅い相であり、仮に入ることが多ければ速い相である。空と仮を共に亡ずることが平等の相であり、性を見ることができると説くのは別教の意である。即空・即仮・即中こそ、遅くもなく速くもなく、善く四頭立ての馬車を御するものであり、これが円教の意であり、まさに性を見ることができるのである。

「奢摩他」下，第二釋名。先釋定名。一本云陀亦云舍，皆梵音輕重，翻名不同。一翻為止，止息惡緣。或名為定。此名多訓，故留本音，不可偏判。毘婆舍那，此翻為觀，亦云見。憂畢差，翻為捨相，亦平等不爭等。

> 第一に「奢摩他」の下で、第二に名称を解釈します。まず定の名称を説明します。ある本には「陀」とも「舎」とも書かれ、いずれも梵語の音を軽重で写したもので、翻訳名は異なります。一つの翻訳では「止」とし、悪い因縁を止め静めます。あるいは「定」とも名付けます。この名称は多くの解釈があるため、原音を残し、偏って判断してはいけません。毘婆舍那は、これを翻訳して「観」とし、「見」とも言います。憂畢差は、翻訳して「捨相」とし、また「平等」や「争わない」などの意味もあります。

「奢摩他有二種」下，第三更廣三法體，皆增數辨之。初廣定中增至十法。能大利益者，《百論》云「達分三昧」。因果俱樂者，河西云：謂佛所得定，入出自在，始終常樂。念覺觀者，善惡覺觀俱是過患。觀生滅者，人多於生滅起斷常觀。十一切處者，但列地水風不明火者，有人言：經本誤失火字。河西云：行人觀身內四大，非觀外四大。身內三大顯，骨肉等是地、洟唾等是水、氣息是風，此三顯現。火大劣，有少煖，所以但三。而言不用處者，明自下地至不用處。招提云：火大不恒，假薪而有、無薪不發，三大恒有，所以用之。不用處者，明此觀成，窮不用處，故數為一。「慧有二種者」下，廣出慧體。般若正是慧。毘婆正是觀，亦名見。闍那正是智。釋般若云名一切眾生者，顯般若是慧，能知一切眾生數故。又釋毘婆是總相，亦言是三昧，所以三昧慧能總知也。常塗解云：慧是不癡，故在凡夫；見名小勝，故在聖人；智是決斷，最勝在諸佛。別相總相破相，亦據優劣。興皇云：凡夫分別是別相，二乘聖人總前諸法無常是總相，諸佛菩薩皆破此故是破相。今明不然，斯乃論一心三智，破相是照空、別相是照假、總相是照中，三智一心中得論不思議慧。不云捨者，異體非故。

> 「奢摩他には二種あり」の下、第三にさらに三つの法の体を広く説き、いずれも数を増やして弁別する。初めに定を広げて十法に至る。大いに利益するものとは、『百論』に「達分三昧」とある。因果ともに楽なるものとは、河西の説によれば、仏の得たる定は、入るにも出るにも自在であり、始終常に楽であるという。念・覚・観とは、善悪の覚観はすべて過患である。生滅を観ずるとは、人が往々にして生滅に断常の観を起こすことをいう。十一切処とは、ただ地・水・風を列挙して火を明かさない。ある人の言うには、経本に誤って火の字を失ったのだと。河西の説によれば、行者は自身の内なる四大を観じて、外の四大を観じない。内の三大は顕わであり、骨肉などは地、洟唾などは水、氣息は風であり、これら三つは現れている。火大は劣り、わずかに暖かさがあるだけなので、ただ三つとする。そして「不用処」というのは、下の地から不用処に至るまでを明かす。招提の説によれば、火大は恒ならず、薪に仮って存在し、薪がなければ起こらない。三大は恒に存在するので、これを用いる。不用処とは、この観が成就すれば、窮まりなく不用処に至ることを明かすので、数えて一つとする。「慧には二種あり」の下、広く慧の体を説き出す。般若は正に慧である。毘婆は正に観であり、また見ともいう。闍那は正に智である。般若を解釈して「一切衆生の名」というのは、般若が慧であり、一切衆生の数を知ることができることを顕わす。また毘婆は総相であり、また三昧ともいう。ゆえに三昧の慧は総じて知ることができるのである。常途の解釈では、慧は不癡であるから凡夫にあり、見は名が少し勝るから聖人にあり、智は決断であり最も勝るから諸仏にあるという。別相・総相・破相も、優劣に基づく。興皇の説では、凡夫の分別は別相であり、二乗の聖人が諸法の無常を総じるのは総相であり、諸仏菩薩はみなこれを破するので破相であるという。今はそうではないと明かす。これは一心の三智を論じたものであり、破相は空を照らし、別相は仮を照らし、総相は中を照らす。三智を一心中に得て、不可思議の慧を論じるのである。「捨」を言わないのは、異体ではないからである。

四功用，如文。

> 四つの働きは、経典に記された通りです。

## 大般涅槃經疏卷第二十六

> 大般涅槃経疏巻第二十六