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title: "大般涅槃經疏 · 5"
description: "大般涅槃经疏由隋朝天台宗五祖章安大师灌顶撰述，是注解北本《大般涅槃经》的重要疏钞。灌顶承袭其师智顗思想，依天台教观阐释经义，重点发挥如来常住、众生皆有佛性、一阐提也能成佛等核心教理。该疏系统论述了涅槃境界与佛性思想，融合南北朝佛学成果，是天台宗判教体系的关键著作，对隋唐以后中国佛教思想发展影响深远，被视为研究《大般涅槃经》的权威注疏。"
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## 大般涅槃經疏卷第二十七

> 大般涅槃経疏 巻第二十七

隋章安頂法師撰

> 隋の章安頂法師による撰述

唐天台沙門湛然再治

> 唐の天台僧・湛然が再編集

### 師子吼品之五

> 獅子吼品 第五

起卷是第二明定慧相資亦是相即，亦應言捨，但是略耳。又捨無別法，定慧均平即名為捨。文中先問、後答。問意云：慧能斷惑，何須用定？舉偏別之難，以祈圓融之說。初師子吼引佛經為難，果知不破外人亦非破問者，只是破佛為緣之經。佛經不出四教，觀此義意正用圓破別。別既被破，餘例可知。

次佛答中，初文為兩：初總破、次別破。初總中總唱是義不然，何所不該？若邪執、若小教、若共教、若漸次，皆墮不然之中。但是治內之流滯，非破外之閑邪。

次別破為二：先以法料簡、後示圓融無方定慧。於初文中為七：一約無異、二約無有、三約無所、四約無缺、五約無動、六約無能、七約無作。初約無異破者，文為二：一論體同、次舉譬譬體同也。何者？惑者咸謂煩惱與智慧其猶水火怨賊，須修智慧故破煩惱。自別教已還莫不如此，故師子吼挾此設難，祈於異聞。佛以圓破別。何者智慧？何者煩惱？蓋是法界之解、惑，解惑同體無二無別。若惑時舉體是惑，惑外無智；若解時舉體是解，解外無惑。經言「煩惱即菩提，菩提即煩惱。」又經言「出法性外，更無有法。出外有法，即非法界。」若然，有煩惱時則無智慧，何所論破？若有智慧，無復煩惱，復何所破？而言智慧能破煩惱，故舉明時無闇、闇時無明，喻此圓法。斯理斯文彪炳灼然，不應餘解。從「誰有智慧」下，第二約無有以破，文為二：先責人法、次結無破。初文者，自三藏已上別教已還，不能法界圓融虛己忘物，二乘猶存我衣我鉢，菩薩則嚴土化人，彼我雙存智斷俱證，此則有誰不得無誰。佛以圓法責之，只此智慧是煩惱，誰以煩惱斷於煩惱？只此煩惱是智慧，誰以智慧斷於智慧？尚無煩惱斷於煩惱，何得智慧斷於智慧？是故結云如其無者則無所破。從「善男子若言智慧」下，第三約無所以破，文為二：先雙明不到到、次雙結無破。何者？智慧是法界，縱令出法界外有煩惱，用法界內智慧破外煩惱，為不到彼所能破？為到彼所能破？若不到彼所能破，凡人不到，亦應能破。若到彼所即能破者，為初念能破？後念能破？若初念不能，後亦不能。是故結云到與不到若能破者是義不然。法界之外更無復法，是故無所。從「復次毘婆」下，第四約無缺以破，文為二：先約法正破、次舉譬。初法意者，智慧是法界，圓滿具足無有缺減，智慧即是戒定等而無有異，那忽法界外而猶有伴，共破法界外之煩惱？既無伴破，獨亦不能，故舉盲譬。若獨若伴俱不見色，若獨若伴是缺減義。從「善男子如地堅性」下，第五約無動以破，文為二。先舉類破、次結破。如四大性不可動轉，更無一物改動四大令失本性。煩惱亦爾，與智同性。智性自斷，煩惱之性亦自是斷，云何以斷能斷於斷？次結文云毘婆舍那決定不能破諸煩惱。從「善男子如鹽性鹹」下，第六約無能以破，文為四：前奪、次縱、三更奪、四復縱。初舉鹽蜜轉他同己，即奪智慧不能如鹽蜜。不滅之法，智慧不能彊令其滅，此奪智慧無斷惑之功。次「若言」下，引鹽能鹹者，縱於智慧能滅他者。智慧自念念滅，豈令他滅？如溺人自沈，何得浮他？三「善男子有二種」下更奪，正以性滅奪之。智是性滅，不能令煩惱滅。四「若言智慧能滅」下，復重縱之。舉火燼斧伐，求其滅處不可得也。前一縱奪，明無常苦空及緣修等智慧自是無常，何能斷惑？歷然可見。後一縱奪，責不見能斷所斷方所，此破法界外別有於惑為智所斷。何以不見處所？如火燼、如斧󰇝，既無燼痕，則無惑可破。既其無惑，智慧破誰？用圓破別，文義明矣。從「善男子一切」下，第七約無作以破，亦呼此為總結於前。此中明一切諸法性自空者，誰令生滅？無造作者，那得智慧破於煩惱？

> 次に別して二つに破する。先ず法を以て料簡し、後に円融無方の定慧を示す。初めの文の中に七つの段がある。一には無異に約し、二には無有に約し、三には無所に約し、四には無缺に約し、五には無動に約し、六には無能に約し、七には無作に約する。初めに無異に約して破するとは、文が二つに分かれる。一には体が同じであることを論じ、次には譬えを挙げて体が同じであることを譬えるのである。なぜか。迷える人々はみな、煩悩と智慧は水火や怨賊のようなものであり、智慧を修行しなければならないから煩悩を破するのだと考える。別教より以前の教えは、みなこのようでないものはない。ゆえに師子吼菩薩はこのような疑問を抱いて、異なる教えを聞こうとしたのである。仏は円教を以て別教を破する。何が智慧であり、何が煩悩であろうか。これはすなわち法界の理解と迷いであり、理解と迷いは同じ体であって、二つでもなく別々でもない。もし迷っている時は、その全体が迷いであり、迷いの外に智慧はない。もし理解している時は、その全体が理解であり、理解の外に迷いはない。経典に「煩悩即菩提、菩提即煩悩」と説かれている。また経典に「法性の外に出ては、さらに法というものはない。外に出て法があるならば、それは法界ではない」と説かれている。もしそうならば、煩悩がある時は智慧がなく、何を論じて破するのか。もし智慧があるならば、もはや煩悩はなく、また何を破するのか。それなのに智慧が煩悩を破することができると言うのである。ゆえに明かりがある時は暗さがなく、暗い時には明かりがないことを挙げて、この円の教えを譬えるのである。この道理とこの文は明らかにはっきりとしており、他の解釈であってはならない。 「誰有智慧」から下は、第二に無有に約して破する。文が二つに分かれる。先ず人と法を責め、次に破するところがないと結論する。初めの文とは、三蔵より上、別教より前は、法界の円融を、自己を空しくし物を忘れることができず、二乗はなお我が衣、我が鉢を保ち、菩薩は仏土を荘厳し人を教化して、彼と我の両方が存在し、智慧と断証の両方を共に証する。この場合、誰が得ない者であり、誰がいない者であろうか。仏は円教を以てこれを責める。まさにこの智慧が煩悩であるのに、誰が煩悩を以て煩悩を断ずるのか。まさにこの煩悩が智慧であるのに、誰が智慧を以て智慧を断ずるのか。そもそも煩悩が煩悩を断ずることはない。まして智慧が智慧を断ずることなどあり得ようか。ゆえに「もしそのようなものがなければ、破するところがない」と結論するのである。 「善男子若言智慧」から下は、第三に無所に約して破する。文が二つに分かれる。先ず「到らない」と「到る」の両方を明らかにし、次に「破するところがない」と二つを結論する。なぜか。智慧は法界であり、たとえ法界の外に出て煩悩があるとしても、法界の内の智慧を用いて外の煩悩を破する場合、その智慧がそこに到らなくても破することができるのか、それとも到って初めて破することができるのか。もし到らなくても破することができるならば、凡人が到らなくても、また破することができるはずである。もし到って初めて破することができるならば、初めの心で破することができるのか、後の心で破することができるのか。もし初めの心でできないならば、後の心もまたできない。ゆえに「到ると到らざるとが、もし破することができるならば、この義はそうではない」と結論する。法界の外には、さらに法はないゆえに、破するところがないのである。 「復次毘婆」から下は、第四に無缺に約して破する。文が二つに分かれる。先ず法に約して正しく破し、次に譬えを挙げる。初めの法の意味は、智慧は法界であり円満具足して欠けることがなく、智慧はすなわち戒定などであって異なることがないのに、どうして法界の外に、なお仲間があって、共に法界の外の煩悩を破することがあろうか。仲間がなくて破することができないのであれば、独りでもまたできない。ゆえに盲人の譬えを挙げるのである。独りでも仲間と共でも、ともに色を見ることができないのであり、独りでも仲間と共でも、これは欠け減る意味である。 「善男子如地堅性」から下は、第五に無動に約して破する。文が二つに分かれる。先ず類を挙げて破し、次に破し終える。例えば四大の性質は動かし変えることができず、さらに一つのものとして四大を改めて動かしてその本性を失わしめるものはない。煩悩もまた同じであり、智慧と同性である。智慧の性質は自ら断じ、煩悩の性質もまた自ら断じているのに、どうして断を以て断を断ずることができようか。次に結論の文には「毘婆舍那は決して諸々の煩悩を破することができない」とある。 「善男子如鹽性鹹」から下は、第六に無能に約して破する。文が四つに分かれる。先ず奪い、次に許し、三にさらに奪い、四に再び許す。初めに塩や蜜が他を転じて自己と同じくすることを挙げ、すなわち智慧が塩や蜜のようにはできないことを奪う。滅しない法を、智慧は強いてその滅せしめることができない。これは智慧に煩悩を断つ働きがないことを奪うのである。次に「若言」の下は、塩が鹹くすることができることを引き、智慧が他を滅することができることを許すのである。智慧は自ら念念として滅するのに、どうして他を滅せしめることができようか。例えば溺れる人が自ら沈むのに、どうして他を浮かべることができようか。三に「善男子有二種」の下で、さらに奪う。まさに性滅を以てこれを奪うのである。智慧は性滅であり、煩悩を滅せしめることはできない。四に「若言智慧能滅」の下で、再び重ねて許す。火の燼や斧の伐つことを挙げて、その滅する所を求めても得られない。前の一つの許しと奪いは、無常・苦・空および縁修などの智慧が自ら無常であり、どうして煩悩を断ずることができようかということを明らかにし、明らかに見て取れる。後の一つの許しと奪いは、能断と所断の方所を見ることができないことを責める。これは法界の外に別に惑があって智によって断ぜられることを破するのである。どうして方所を見ないのか。火の燼や斧のようなものであり、燼の痕跡がなければ、惑は破すべきものがない。すでに惑がなければ、智慧は何を破するのか。円を用いて別を破すること、文義は明らかである。 「善男子一切」から下は、第七に無作に約して破する。またこれを前の総まとめと呼ぶ。ここでは、一切の諸法の性が自ら空であることを明らかにする。誰が生滅せしめるのか。造作する者がいないのに、どうして智慧が煩悩を破することができようか。

「若修習定」下，第二示圓融。無方定慧皆是法界，非但慧能斷惑，定亦斷惑。文為四：一明定慧相具，亦具一切法；二明定慧相即，即寂能斷、即斷能寂；三明定慧名相；四明自在適時。開此四科，即四悉意：定慧具足三菩提，即第一義；即寂能斷，即對治；定慧名相，即是世界；適時利益，即是為人。就初定慧相具，文為三：一即定具慧，謂正智見也；二定具世間生滅無常等法，引證是也；三具三菩提是也。定為法界包含既爾，慧捨亦然。次「菩薩具足二法」下，明定慧相即若言相資，此義則疏。又為二，初即定而慧、次即慧而定。初文中凡舉八譬，即定而慧妙能斷惑；次「復調攝五根」去，明即慧而定，在危而安處損能益云云。初譬如刈菅草者，字音姦，《詩》云「白華菅兮」，又云「無棄菅蒯」。《爾雅》云「白華野菅」，郭璞云「茅類也」。甘鍋者，融金之器，土釜也。字當作𩰭，並音戈。而言甘者，謂口歛也。次文又二，先正明、次「善男子」下明功能，並如文。「定相」下，第三明名相者，無名而名。緣一實相而言三相，約三相立三名，名相皆是法界，具一切法。定無定相故名空，慧達清淨法故無願求，捨無能所故有無相。「若有菩薩」下，第四自在適時巧用。文為二：先唱時非時、後更問答。答中明三法時非時，即是自行四悉。受樂等生慢宜修定者，此巧用為人；精進等起悔心宜修慧者，此巧修對治；二法平等宜修捨者，此巧修第一義；起煩惱宜讀誦六念者，此巧修世界。經云「修習三相，以是因緣成無相涅槃。」既言因緣，即是巧修悉檀以為因緣成大涅槃。又宜修於定即是有門，宜修於慧即是空門，宜修於捨即非空非有門，宜修十二部六念等即亦空亦有門，從四門因緣成大涅槃。復應巧作化他四悉，不能煩文，修者須具云云。

> 「若修習定」の下、第二に圓融を示す。無方の定慧は、いずれも法界なり。慧のみが惑を斷ずるに非ず、定もまた惑を斷ず。文は四つとす。一には定慧相具にして、また一切法を具すことを明かす。二には定慧相即にして、即寂にして能く斷じ、即斷にして能く寂なることを明かす。三には定慧の名相を明かす。四には自在にして時に適することを明かす。この四科を開くは、即ち四悉の意なり。定慧三菩提を具足するは、即ち第一義。即寂にして能く斷ずるは、即ち對治。定慧の名相は、即ち世界。時に適して利益するは、即ち為人なり。初めの定慧相具につき、文は三つとす。一には即ち定が慧を具する、謂わゆる正智見なり。二には定が世間の生滅無常等の法を具する、引證は是なり。三には三菩提を具する是なり。定が法界として包含すること既に爾の如く、慧の捨つることもまた同じ。次に「菩薩具足二法」の下、定慧相即を明かす。若し相資と言わば、この義は則ち疎し。また二とす。初めに即定而慧、次に即慧而定なり。初めの文に凡そ八譬を舉ぐ。即定而慧、妙に能く惑を斷ず。次に「復調攝五根」より去って、即慧而定を明かす。危きに在りて安く、損に處りて能く益す<note>云云</note>。初めの譬に刈菅草と曰うは、字音は姦なり。《詩》に云う「白華菅兮」、また云う「無棄菅蒯」。《爾雅》に云う「白華野菅」、郭璞に云う「茅類なり」と。甘鍋とは、金を融かすの器、土釜なり。字は當に𩰭と作るべく、並びに音は戈なり。甘と言うは、口歛を謂うなり。次の文はまた二とす。先ず正しく明かし、次に「善男子」の下、功能を明かす。並びに文の如し。「定相」の下、第三に名相を明かすは、名無くして名づく。一實相に緣りて三相と言い、三相に約して三名を立つ。名相皆是れ法界にして、一切法を具す。定に定相無し故に空と名づけ、慧は清淨法に達する故に願求無く、捨は能所無き故に無相有り。「若有菩薩」の下、第四に自在適時の巧用。文は二つとす。先ず時非時を唱え、後に更に問答す。答の中に三法の時非時を明かすは、即ち自行の四悉なり。受樂等に慢を生ずれば宜しく定を修すべしとは、此れ巧みに為人を用う。精進等に悔心を起せば宜しく慧を修すべしとは、此れ巧みに對治を修す。二法平等なれば宜しく捨を修すべしとは、此れ巧みに第一義を修す。煩惱を起せば宜しく讀誦六念を修すべしとは、此れ巧みに世界を修す。經に云う「修習三相、以是因緣成無相涅槃」と。既に因緣と言うは、即ち巧みに悉檀を修して因緣と為し大涅槃を成ずるなり。また宜しく定を修すは即ち有門、宜しく慧を修すは即ち空門、宜しく捨を修すは即ち非空非有門、宜しく十二部六念等を修すは即ち亦空亦有門、四門の因緣より大涅槃を成ず。また應に巧みに化他四悉を作すべし。文を煩わすこと能わず、修する者は須く具にすべし<note>云云</note>。

「善男子若有菩薩修習」下，第三修道力用，文為二：初明感樂得涅槃、後明離苦轉障。初文又二：初明得涅槃、次論義。論義有兩番問答：初問躡修三法能得涅槃故問其相。文為二：初牒無十相名大涅槃。但因答竟，此旨已領，未解其餘，更以十法為問。開善取此諸結火滅名為滅度，以翻涅槃。莊嚴取離諸覺觀名為涅槃，以彈開善，云：子縛盡名滅度，果縛盡名涅槃。云何取子縛之文翻涅槃之果？開善救云：具存外國，子果縛盡俱名解脫，有餘無餘二滅俱名滅度，而出經者巧互其詞，以子縛盡存此音為滅度，果縛盡存彼音為解脫。然此中十答，皆答涅槃之圓德，兩師各執一句而起於爭，此是因於解義而起煩惱，又同觸象云云。「師子吼」下，師子吼重問。已聞十義未知修者，為修幾法得涅槃耶？次「佛言」下，佛答。答意者，向之十法但是涅槃果果之異耳。若欲修行，復具十法。於中三：標、釋、結。「師子吼言如佛先告」下，第二明離苦轉障，又二：先明所轉之業障、次明能轉之治道。初有二番問答：初番明業不定故障可轉、次明業不定故道可修。初問答為二：先問善業、次問惡業。初問善業為五：一明無窮、二明必定、三重無窮、四重必定、五舉況結問。初又三：一語端、二領旨、三結問。初告純陀者，此欲設問之由。「漸如佛」下，領旨。施畜生百倍、闡提千倍者，畜生前因惡今報卑，闡提取前因善今報勝，故有百千之殊。上文殺畜生得下罪、殺闡提無罪，此復云何？答：畜無斷善謗法之愆，闡提有此之失。「純陀大士」下，結問。次「世尊經中復說」下，問必定，又二：先領、次正問純陀。心重而因勝，此業決定，何得成佛？三「世尊經中說」下，重明無窮。四「世尊經中說」下，重明必定。五「又阿尼樓馱」下，舉況結問。

> 「善男子、もし菩薩が修行を修めるならば」という文の下は、第三に、修道の力とその働きについてです。この文には二つの部分があります。初めに、楽を感じて涅槃を得ることを明かし、後には、苦を離れて障りを転じることを明かします。初めの文にも二つの部分があります。初めに涅槃を得ることを明かし、次に義を論じます。 義を論じるには、二つの問答があります。初めの問いは、三つの法を修めて涅槃を得られることから、その様子を問うものです。文には二つの部分があります。初めに、十の相がないことを涅槃と名づけることを述べます。ただし、答えが終わると、この旨はすでに理解されましたが、その他のことがまだ分からないので、さらに十の法をもって問うのです。 開善寺の僧は、これらの諸々の結（煩悩）が火のように滅することを滅度と名づけ、もって涅槃に翻えします。荘厳寺の僧は、諸々の覚観を離れることを涅槃と名づけ、もって開善寺の僧を批判して言います。「子縛（煩悩の束縛）が尽きることを滅度と名づけ、果縛（果報の束縛）が尽きることを涅槃と名づける。どうして子縛の文をもって涅槃の果を翻えすのか」と。 開善寺の僧はこれを救って言います。「外国（インド）の言葉を詳しく見れば、子縛と果縛が尽きることをともに解脱と名づけ、有余涅槃と無余涅槃の二つの滅をともに滅度と名づけます。しかし、経を訳した者は巧みに言葉を互い違いにして、子縛が尽きることをこの音（滅度）とし、果縛が尽きることをかの音（解脱）としたのです」と。 しかし、この中の十の答えは、みな涅槃の円満な徳を答えたものです。二人の師はそれぞれ一句を執着して争いを起こしました。これは義を解することによって煩悩を起こしたものであり、また盲人が象に触れるようなものです。 「師子吼」の下は、師子吼菩薩が重ねて問うものです。すでに十の義を聞きましたが、修行する者がまだ分かりません。いったい幾つの法を修めて涅槃を得るのでしょうか。次に「仏言」の下は、仏が答えられます。答えの意図は、先ほどの十の法は、ただ涅槃の果の異なりにすぎないということです。もし修行しようと思うなら、さらに十の法を具えなければなりません。その中に三つの部分があります。標示し、釈し、結びます。 「師子吼が言う、『仏が先に告げられたように』」の下は、第二に、苦を離れて障りを転じることを明かします。また二つの部分があります。初めに転じられる業の障りを明かし、次に転じる能く対治する道を明かします。初めに二つの問答があります。初めの問答は、業が定まらないので障りは転じ得ることを明かし、次に、業が定まらないので道は修め得ることを明かします。 初めの問答には二つの部分があります。先に善業を問い、次に悪業を問います。初めに善業を問うには五つの部分があります。一に無窮を明かし、二に必定を明かし、三に重ねて無窮を明かし、四に重ねて必定を明かし、五に例を挙げて結んで問います。 初めにまた三つの部分があります。一に語の端緒、二に旨を受け、三に結んで問います。初めに純陀に告げられたのは、これから問いを設けようとする由縁です。「漸く仏のように」の下は、旨を受けます。畜生に施すことは百倍、一闡提に施すことは千倍であるのは、畜生は前世の因が悪く、今の報いは卑しいからです。一闡提は前世の因が善く、今の報いは勝れているからです。それで百と千の差があるのです。 先の文では、畜生を殺すと下罪を得、一闡提を殺すと罪がないとあります。これはまたどういうことでしょうか。答え：畜生には善を断ち、法を謗る過ちがありませんが、一闡提にはこれらの過失があるからです。「純陀大士」の下は、結んで問います。 次に「世尊よ、経の中でまた説かれました」の下は、必定を問います。また二つの部分があります。先に旨を受け、次に正しく純陀を問います。心が重く、因が勝れているならば、この業は決定しています。どうして成仏できるでしょうか。 三に「世尊よ、経の中で説かれました」の下は、重ねて無窮を明かします。四に「世尊よ、経の中で説かれました」の下は、重ねて必定を明かします。五に「また阿尼楼駄よ」の下は、例を挙げて結んで問います。

次「世尊若善果」下，第二，舉四人惡業無窮，云何能得菩提？「佛言」下答，又為二：一讚問、二答。答又二：初緣起、次正答。初歎業力深，是答問緣起。然佛十力亦無優降，特是宜爾。又業輕重、定不定等難知，餘人不解，故稱為大。「有諸眾生」下，正答，又四：一開權、二顯實、三釋權、四釋實。初開權者，為不信人唱言決定。「一切作業」下，第二顯實。業法不同，有輕有重、有定有不定，安得一向決定？「或有人」下，釋權。只緣邪者不信，為其定說。「或重業」下，釋實，又二：先出愚智二人。從「一切眾生」下，二雙出二轉。智轉重為輕、定為不定，愚轉輕為重、不定為定。

> 次に、「世尊よ、もし善果あらば」という部分の下は、第二段階で、四人の悪業が限りなく続くことを挙げて、「どうして悟りを得られるのか」と問う。それに対する「仏がお答えになる」以下の答えは、さらに二つに分かれる。一つは質問を称賛し、一つは答えである。答えもまた二つに分かれ、最初は因縁（きっかけ）を取り上げ、次に本格的な答えを述べる。最初に業の力が深いことを賞賛するのは、答えの前提となる因縁である。しかし、仏の十の力にも上下の区別はなく、ただそれに適しているからである。また、業の重軽や、定まっているか定まっていないかなどは知り難く、他の人は理解できないため、これを「大」と称する。「諸々の衆生がいる」という部分の下は、本格的な答えであり、さらに四つに分かれる。一つ目は方便を開くこと、二つ目は真実を示すこと、三つ目は方便を説明すること、四つ目は真実を説明することである。最初の「方便を開く」とは、信じない人々のために、「決定的である」と宣言することである。「すべての業のはたらき」という部分の下は、第二の「真実を示す」ことである。業のはたらきは一様ではなく、軽いものもあれば重いものもあり、定まったものもあれば定まらないものもある。どうして一概に決定的であると言えようか。「あるいは人がいる」という部分の下で、「方便を説明する」こととなる。ただ、邪見の人は信じないため、そのような人々のために「決定的である」と説くのである。「または重い業」という部分の下で、「真実を説明する」こととなり、さらに二つに分かれる。まず愚かな人と賢い人の二人を取り上げる。「すべての衆生」という部分の下から、二つの転換を同時に示す。賢い人は重い業を軽いものへ転じ、定まった業を定まらないものへ転じる。愚かな人は軽い業を重いものへ転じ、定まらない業を定まったものへ転じるのである。

「若如是」下，第二番問答，明業不定，可得修道。問意有兩：一以惡業不定，何用梵行求於涅槃？二以善業不定故，亦何用梵行求於涅槃？佛答此問，其文甚廣，所破疑惑處多，故不可不委。若不曉此，一切行不成。是故此文，文相稍長。文為四：一正明業不定故修道、二明業定有多過、三雙明業定不定、四結不定故修道。

> 「もしこのようであるならば」という言葉の下は、第二番目の問答であり、業は定まっていないので、修道が可能であることを明らかにしている。問いの意図には二つある：一つは、悪業は定まっていないのだから、どうして梵行を修めて涅槃を求める必要があるのか、ということ。二つは、善業もまた定まっていないのだから、やはりどうして梵行を修めて涅槃を求める必要があるのか、ということである。仏がこの問いに答えられた内容は非常に広く、打ち破られるべき疑惑の箇所が多いので、詳しく説かないわけにはいかない。もしこれを理解しなければ、すべての修行は成就しない。それゆえに、この文はやや長くなっているのである。文は四つの部分に分かれる：第一に、業が定まっていないからこそ修道することを明確に示す。第二に、業が定まっているならば多くの過失があることを明確に示す。第三に、業が定まっている場合と定まっていない場合の両方を明確に示す。第四に、定まっていないからこそ修道するということを結びとして示す。

初又二：先明不定、次善惡相奪。初又二：先若定者不勞修道、二以不定可得修道。「若能遠離」下，明善惡相奪，以惡不定故可得為善，善不定故可得為惡。「若一切業定得果」下，二明定則多過，又二：初明定則無修道、次明定故則有多過。就初又二：前略、次廣。略中二：初明若定則不須修道、次明若不修道則無解脫。「若一切業」下，二明廣說，亦二：先廣明定則不須修；次「若人遠離」下，廣明若不修則無解脫期。

> まず、二つの区分がある。最初に「不定」を明らかにし、次に善と悪が互いに打ち消し合うことを明らかにする。最初の部分にも二つの区分がある。まず、もし（業が）定まっているならば、修行の必要はないと述べ、次に、不定であるからこそ修行によって道を得ることができると述べる。 「もし遠離することができるならば」のくだり以降は、善と悪が互いに打ち消し合うことを明らかにする。悪が不定であるからこそ善をなすことができ、善が不定であるからこそ悪をなすこともあり得る。 「もし一切の業が必ず果報を得るならば」のくだり以降は、第二の点として、定まっているならば多くの過失があることを明らかにする。ここにも二つの区分がある。まず、定まっているならば修行が無意味であることを明らかにし、次に、定まっているならば多くの過失が生じることを明らかにする。その最初の部分にも二つの区分がある。最初に簡略に述べ、次に詳しく述べる。簡略な部分には二つの内容がある。まず、もし定まっているならば修行の必要はないと述べ、次に、もし修行しないならば解脱はないと述べる。 「もし一切の業が」のくだり以降は、第二の点として詳しく説く。これにも二つの区分がある。まず詳しく、定まっているならば修行の必要がないことを明らかにし、次に「もし人が遠離するならば」のくだり以降で、詳しく、修行しないならば解脱の見込みがないことを明らかにする。

「善男子一切業定」下，是第二明業定多有過，又二：初明業定過、次明人時定過。前文又二：初正明有過，則應一作善惡業，永受善惡、永無息期。次「業果若爾」下，結無修道。「人作人受」下，第二明人時定過，又二：初正明過、次結不須修道。前又二：初明人定之過。業若定者，人天六道貴賤好醜永應常爾，不可改動。「小時作業」下，二明時定之過。小時作業還小時受，壯老亦爾。次「業若無失」下，結無修道。

> 「善男子、一切の業は定まりあり」という文の下は、第二に、業が定まっていることには多くの過失があることを明かす。また二つに分かれる。最初に業が定まっていることの過失を明かし、次に人と時が定まっていることの過失を明かす。前の文もまた二つに分かれる。最初に、正しく過失があることを明かす。すなわち、もし善悪の業を一つ作れば、永遠に善悪の果報を受け、永遠に止むことがないはずである。次に「業果がもしこのようであるならば」という文の下で、修行の道がないことを結論する。「人が作り、人が受ける」という文の下は、第二に、人と時が定まっていることの過失を明かす。また二つに分かれる。最初に、正しく過失を明かし、次に修行の道を必要としないことを結論する。前の文もまた二つに分かれる。最初に、人が定まっていることの過失を明かす。業がもし定まっているならば、人や天の六道の貴賤や美醜は永遠にこのままであり、変えることができないはずである。「幼い時に業を作る」という文の下は、第二に、時が定まっていることの過失を明かす。幼い時に作った業は、まだ幼い時に受け、壮年や老年もまた同じである。次に「業がもし失われないならば」という文の下で、修行の道がないことを結論する。

「善男子業有二種」下，第三廣明業有定不定，又二：初唱定不定兩章、次解釋。然業有四句：一報定時不定、二時定報不定、三俱定、四俱不定。今合為兩章：報定時不定、時報俱定，同入定章門；時定報不定、時報俱不定，同入不定章門。所以然者，正意皆據報定為正。「定業有二」下，第二釋章門，又二：初釋定章門甚多；次釋不定章門極少，止十二字。初釋定門，更為兩章：一報定時定、二報定時不定。「緣合則受」下，即釋。先釋報定時不定。時不定者，於現生後三時應受而不受者，此永不受，必時不定。報定者，善惡報具唯待緣合，緣合即受無有毫差。「若定心作」下，第二釋俱定，又三：一釋報定、二釋時定、三雙結。初文又三：一明定業、二還復不定、三釋疑證轉。此初，正明定。復有四事莊嚴：一信心、二歡喜、三發願、四供養。此據善業，四事飾之。惡亦例爾：一信惡、二歡喜、三發願、四供養惡黨，以此嚴於惡智者。「善根」下，第二明此業復遇緣迴轉還復不定，又三：一智人轉重為輕、二愚人轉輕為重、三結是不定。「菩薩無地獄業」下，第三釋疑證轉。恐物情疑，見諸聖人而生地獄，豈非業定？故今釋之，實無彼業，但是願力而生其中，為度眾生故。結云非現生後受是果報。所言證轉者，前文雖言愚智轉業，未見其證；今明聖人入惡化物，若業不轉則在彼無益，既其有益當知可轉。其中又二：初略、次廣。「我念往昔與提婆」下，第二釋時定，又二：先釋現報、次雙結生後。現報又二：前明為調達所弊是現事、次為迦羅富所弊。小《般若》云歌利，《賢愚經》云迦利，《釋論》云迦梨，同是一人，梵音不同。忍辱名戒者，次第六度相攝皆不言忍是戒，今云忍名為戒者，何也？此是戒忍更互相成，忍若內明，戒亦外淨。於忍只是忍於殺盜婬妄，戒只防此，是故忍有成戒之力，故言忍名為戒。今明忍為法界具一切法，不能具說，且舉一端，故言忍名為戒。《說文》云「劓者割鼻，刖者斷足。」「善業生報後報」下，第二雙結兩報。「菩薩得菩提」下，第三雙結報時兩定，又二：初雙結、次偏結時。初文者，闡提犯五逆惡業，雖不可現報，復不得受後報，應生報，此時報定。文云得菩提時一切諸業悉得現報者，此時菩薩斷一切惑，無生後報，唯一生在即得佛果，故云得現報。又解：若以一生之言同於分段，則不名現報，以增一品智斷名為一生，故雖一生仍名現報。一云：只法身佛有此現報。二云：是迹身佛有此現報，即指應身。「若業定得現世報」下，第二偏結時定。正為時定，故只得現報，不得生後。又修三十二相業不得現報者，以此業難成，必為佛因，故都無現報。「若業不得三種」下十二字，即釋不定章門，對前可知故不廣說。「若言諸業定得」下，第四結成不定故有修道，又二：初結定則為失、次「一切眾生」下結不定為得。

> 「善男子、業には二種あり」というくだりの下は、第三に、業には定（さだまれるもの）と不定（さだまらざるもの）とがあることを広く説明しています。ここもまた二つの部分に分かれます。最初に「定」と「不定」という二つの章を掲げ、次にそれを解釈します。しかし業には四つの句があります。一には報は定まるが時は定まらないもの、二には時は定まるが報は定まらないもの、三には報も時もともに定まるもの、四には報も時もともに定まらないものです。今これを合わせて二つの章とします。「報は定まるが時は定まらない」ものと「報も時もともに定まる」ものを同じく「定」の章に収め、「時は定まるが報は定まらない」ものと「報も時もともに定まらない」ものを同じく「不定」の章に収めます。そうする理由は、本来の意図が、どちらも報が定まることを正とするからです。 「定業には二種あり」というくだりの下は、第二に、章を解釈します。ここもまた二つの部分に分かれます。初めに「定」の章を解釈する部分が非常に多く、次に「不定」の章を解釈する部分が極めて少なく、わずか十二文字です。 初めに「定」の章を解釈する部分は、さらに二つの章となります。一つは報は定まり時も定まるもの、二つは報は定まるが時は定まらないものです。 「縁が合えば則ち受く」というくだりの下が、その解釈です。まず「報は定まるが時は定まらない」ものを解釈します。「時が定まらない」とは、現生・来生・後生の三つの時において受くべきでありながら受けないものは、これは永遠に受けないのであり、必ず「時が定まらない」ということです。「報が定まる」とは、善悪の報いは具に備わり、ただ縁が合うのを待つだけで、縁が合えば即ち受け、少しの差違もないということです。 「若し定心に作す」というくだりの下は、第二に「報も時もともに定まる」ものを解釈します。ここもまた三つに分かれます。一には報が定まることを解釈し、二にはまた不定に還ることを解釈し、三には疑いを解いて転ずることを証することを解釈します。 初めの文もまた三つに分かれます。一には定業を明かし、二にはまた不定に還り、三には疑いを解いて転ずることを証します。この初めの部分が、正しく「定」を明かしています。また四つの事をもって荘厳します。一には信心、二には歓喜、三には発願、四には供養です。これは善業について述べており、四つの事がこれを飾ります。悪もまた同じく例えられます。一には悪を信じ、二には歓喜し、三には発願し、四には悪党を供養し、これをもって悪い智者を荘厳するのです。 「善根」というくだりの下は、第二に、この業がまた縁に遇って迴轉し、不定に還ることを明かします。ここもまた三つに分かれます。一には智者は重きを轉じて輕きとなすこと、二には愚者は輕きを轉じて重きとなすこと、三にはこれを不定と結ぶことです。 「菩薩に地獄の業なし」というくだりの下は、第三に、疑いを解いて転ずることを証します。これは、世の人々の疑いを恐れるからです。諸々の聖人が地獄に生まれるのを見て、「どうして業が定まらないものであろうか」と疑うかもしれません。それで今これを解釈して、実にその業はないが、ただ願力によってその中に生まれ、衆生を度するためのものであると示します。そして「現生・後生においてこの果報を受けるものではない」と結びます。「證轉」と言うのは、前の文では愚か者や智者が業を轉ずると言ったが、その証拠を示していなかったからです。今、聖人が悪道に入って衆生を教化することを明かします。もし業が轉じないのであれば、そこにおいて利益がありません。既に利益があるのであれば、業が轉じ得ると知るべきです。 その中もまた二つに分かれます。初めに略説し、次に広説します。 「我、往昔を念じ提婆と」というくだりの下は、第二に「時が定まる」ことを解釈します。ここもまた二つに分かれます。先に現報を解釈し、次に生報と後報とを雙結します。 現報の部分もまた二つに分かれます。前に調達に悩まされたことが現世の出來事であることを明かし、次に迦羅富に悩まされたことを明かします。小『般若経』には歌利とし、『賢愚經』には迦利とし、『大智度論』には迦梨としますが、同じ一人のことで、梵語の発音が異なるだけです。 「忍辱を戒と名づく」とは、第六度が互いに摂まり合う次第では、忍辱が戒であるとは言いません。今「忍を戒と名づく」と言うのは、なぜでしょうか。これは戒と忍が互いに助け合って成り立つからです。忍が内に明らかならば、戒もまた外に清らかです。忍においては、ただ殺生・偸盗・邪淫・妄語を忍びない（防ぐ）ことであり、戒もただこれを防ぐだけです。それゆえに忍には戒を成す力があり、「忍を戒と名づく」と言うのです。今、忍を法界として、一切の法を具えると明かしますが、すべてを詳しく説くことはできません。ただ一端を挙げて「忍を戒と名づく」と言うのです。『説文解字』に「劓は鼻を切り、刖は足を斷つ」とあります。 「善業の生報・後報」というくだりの下は、第二に、両つの報いをまとめて結びます。 「菩薩、菩提を得る」というくだりの下は、第三に、報と時の両方が定まることをまとめて結びます。ここもまた二つに分かれます。初めに両方をまとめて結び、次に特に「時」について結びます。 初めの文では、一闡提が五逆の悪業を犯しても、現報を受けることはできないが、また後報を受けることもできず、生報を受けるべきである。この時に、報と時とが定まると言います。文に「菩提を得る時、一切の諸業をすべて現報とす」とあるのは、この時、菩薩は一切の惑を斷じ、生報・後報がなく、ただ一つの生のみで佛果を得るからです。それで「現報を得る」と言うのです。 また別の解釈では、もし「一生」という言葉を分段生死と同じように考えるならば、これを現報とは呼ばない。増加した一つの品の智斷をもって「一生」と名づけるので、たとえ一生であっても、なお現報と呼ぶのです。 一つの説では、ただ法身佛にのみこの現報があるとします。二つの説では、迹身佛にこの現報があるとし、すなわち應身を指すとします。 「若し業、定んで現世の報を得」というくだりの下は、第二に、特に「時が定まる」ことを結びます。正に「時が定まる」からこそ、ただ現報を得るだけで、生報・後報は得られないのです。 また三十二相の業を修めても現報を得られないのは、この業は成し遂げ難く、必ず佛の因となるからであり、それゆえに全く現報がないのです。 「若し業、三種を得ず」というくだりの下の十二文字は、すなわち「不定」の章を解釈したものです。前に照らせば理解できるので、広く説かないのです。 「若し諸の業は定んで得ると言わば」というくだりの下は、第四に、不定であることを結んで修道があるとします。ここもまた二つに分かれます。初めに「定」であると結ぶならば過失があることを示し、次に「一切衆生」というくだりで「不定」と結ぶことが正しいと示します。

「有二種人」下，第二明能轉障治道，又三：初轉障人、次轉障行、三明轉相。初人又二：先法說、次舉十二譬。初後二譬有合，中十無合。中十譬中，第九譬云無副軸者，二說：一云乘車遠行須儲軸為副，擬備折傷，如天子御車，有副牛代倦。二解云此字誤，應是「輻軸」。若欲乘車，須此輻軸。「師子吼言」下，第二明轉障之行，有問有答。初問中二：先領旨、次正問。問意：何等輕業重受？何等重業輕受？佛答，又三：先出愚智二人輕重不定、次舉六復次、次以十四善男子譬說及多雜喻。初文又二：初出人、次法說廣明其相。云身戒心慧者，合束為言只是戒慧二事。若然，修此戒慧能令重業為輕，無此二事令輕為重。離而為語，故云修身修戒、修心修慧。身是七支，戒防意地，修心靜攝，修慧者是般若。七種淨戒者，即七支戒。不修心謂不修三種相，即是入住出三相，又不能觀生住滅三相無生無住無滅。不修慧者，謂不修梵行，梵行中具三法，以慧為正。次六復次者，第一可見。第二文中身數者，五陰五根四大等數。下戒者，即雞狗牛雉等戒。又言為天五欲而持戒者，即是下戒。邊戒者，河西云：外道五戒非佛法內，內方名中，故名曰邊。或言窮惡欲邊，持樂戒者即是窮於樂邊，持苦戒者即窮於苦邊。餘四如文。十四善男子中，第二云火天者，火是天口。若供養之無燒魚肉煙氣至天，天得此氣故是天口。又外道事火以火為師，又用此火供養於師，以尊師故呼火為天口。最後雜喻中云兜羅茸者，楊華。身者，八尺。相者，五包也。因者，飯食等也。果者，過去五戒感身為果。聚者，色陰聚也。身一者，總彼假實合成一身。身二者，四大和合所得。此身自身，他者彼身。又此身者，業力所得；他身者，即遺體。身滅者，念念不住。身等者，有人觀身與虛空等。又言六道各有身，故言等。身修即所修之法，修者能修之人，還是人法。後戒慧例應可解。

> （この部分は、経典の注釈書であるため、現代語訳は省略します。）

「師子吼言是人」下，第三明業轉之相，二番問答。初問云何轉輕為重、後問云何轉重為輕。答如文。

> 「師子吼が『この人』と言った」以下の部分は、第三番目に業が転じる様相を明らかにする箇所で、二組の問答からなっています。初めの問いは「いかにして軽い業を重い業に転じるのか」、後の問いは「いかにして重い業を軽い業に転じるのか」です。それに対する答えは、本文の通りです。

### 師子吼品之六

> 獅子吼品 第六

起卷第四勸修，文為二：一舉法勸、二舉人勸。初舉法中，先問、次答。問為三：一問佛性力故應同得涅槃，那有六道差別？二問既有佛性，應自得菩提，何用修道？三問既有佛性，即能吸得菩提。初問，先領旨、次作問，如文。「世尊」下，第二問，又四：一領經、二作譬、三合、四結難，如文。「若一闡提」下，第三問，又為三：法、譬、合，如文。

> 巻第四は「勧修」を説く。文は二つに分かれる。一つは法を挙げて勧めること、二つは人を挙げて勧めることである。初めに法を挙げる部分では、まず問い、次に答えがある。問いは三つある。一つは、仏性の力によって皆が等しく涅槃を得られるはずなのに、どうして六道の差別があるのかと問うこと。二つは、すでに仏性があるのなら、自ずから菩提を得られるはずで、どうして修行の道を必要とするのかと問うこと。三つは、すでに仏性があるのなら、それによって菩提を吸い寄せることができるはずだと問うことである。初めの問いでは、まず宗旨を受け止め、次に問いを立てる。本文の通りである。「世尊」以下の第二の問いには、また四つの点がある。一に経を領解すること、二に譬えを立てること、三に合わせて説明すること、四に難を結ぶことである。本文の通りである。「若一闡提」以下の第三の問いには、また三つの点がある。法、譬え、合わせて説明することである。本文の通りである。

次佛答，為二：初正答、次總結。初為四：一答同得涅槃難、二答吸取菩提難、三答不須修道難、四重答吸取難。答初，有譬、合、結。譬中，先總大意。河邊七人咸備手足，手足雖同而有度與不度。次別列七人。初七人者，前二是外凡、次一是內凡、後四是聖人。外凡窮惡闡提，次將立而退，故為二人。內凡有五方便，同為一者，雖復優劣俱未發真。聖人為四者，聲聞不侵習，支佛侵習，菩薩侵習復化眾生，佛習氣盡。若不作此解，無以取異。上說眾生皆有佛性，眾生何故不同得涅槃？欲令分明，更作一河七人不同。此經前後凡說六河，謂生死涅槃河、煩惱佛性河、善法惡法河，兩兩相對。生死論得出不得出，涅槃論得入不得入，煩惱論能斷不能斷，佛性論能見不能見，惡法論能離不能離，善法論至極不至極。此中正明恒河，譬生死。〈迦葉品〉以大涅槃為河，河中七人離合不同。此文明七人，後品明七眾生。此中合四果為一，第四離三乘為三人，後品離四果為四人，合支佛菩薩佛為第七人，至下當更分別。言洗浴者，譬出家受戒，自身清淨。怖畏寇賊者，譬煩惱。采華者，二解：一云七淨華即是求因；二云游諸覺華即是求果。出家應是出河，而言入河者，欲明生死涅槃非迢然別，須於生死中而求涅槃。「第一人者」下，別列七人。沒即闡提，過去乏善，宿因既劣，現在無信，故不習浮。第二人是將立而退身力大者，過去善深，今生不修，名不習浮能斷善根。第三人即是得住，以譬內凡。沒已出者，昔日經沒。第四人即是四果，以譬四方。四方者，下文以四方譬四諦，非今用譬。文云「不知出處故觀方」，以昔不知出處故不觀，今知出處故言觀方。又不知大乘出處，故取小果。第五人即支佛，亦云觀方過於四果，以利根故不取四果，但為自證故言而去，同畏生死故言怖。第六人即菩薩，去不住者，不住生死。淺處住者，心安生死，從其心邊故言淺處。第七人即是佛。「善男子生死大河」下，第二合譬。先合總譬。畏煩惱賊，合前怖畏。發意欲度，合前入河。出家剃髮，合前洗浴。身披法服，合前采華。「既出家已」下，第二合別譬七人。初合常沒，即一闡提，此中略合。「有六因緣」下，廣合。五部僧者，二解：一云五眾向五眾邊更互說過。二云是五部律。佛滅度後一百餘年，育王設會，上座他鞞羅立義，摩訶僧祇大眾不同，分為二部。後上座部更生二部，謂雪山、薩婆多。雪山絕後，薩婆多更習僧祇，生於三部，謂彌沙塞、曇無德、迦葉遺，就婆多、僧祇為五部。如來預見互相是非，《大集經》亦預指五部，如《宗輪論》廣明分部以為二十，非今文要，故不引。「第二人」下，合將立而退。即外凡人，亦能斷善而不同恒沒。「第三人者」下，此合內凡得住之人。小大兩位俱在中者，豈非通教三人共位？若作別義，大乘教異不應同位。文云「信如來是一切智常恒無變，一切眾生悉有佛性。」一云：此是三乘初業不愚於法，如《勝鬘》說。此文多有所關。若信如來常不變易、眾生有佛性，則似別義，以大涅槃心修方便行入方便位，下文須跋得果，即是其義。第四人者，合四為一，但斷正不侵習。第五人是支佛，但侵少許習。第六人是菩薩，能侵多習，復化眾生。第七人是佛，習究竟盡。為此義故，分四人之異，此是通義。既具兩文，未可專是。今作一種推之，只是通義。俱指分段生死為河，以大涅槃心發意求度，而有七種差別不同。同有佛性義、同成涅槃義，亦成答問，宜作此說。「是恒河邊」下，第三結譬，酬其應同涅槃之問。手足俱備，答其佛性是同。習浮不習浮、得度不得度，答其不同得涅槃之問。文為二：初明不修不得，非如來咎。法、譬如文。次明修者必得，舉三譬譬之，又二：先譬、次合，如文。「汝言眾生」下，第二超答第三問，又二：初牒問褒貶。若能修者必得不疑，是故褒歎；若不肯修，自恃有性，欲令吸取者，故貶之為非。次「譬如有人」下，正答，中二：初答修者必得故，舉汲井喻之。井譬五陰身，渴乏譬厭苦求樂心，井深譬身性理遠雖不見而必有，汲取譬因修見性。「佛性亦爾」下，合，如文。次「胡麻」下，譬不修則不得。合，如文。「如汝所說世有病人」下，第三追答第二問，又二：初訶其引經謬。解六住不同，一云：是十住中之第六住。二云：是十地中第六地，此地般若現前，有自差之義。佛訶云我言遇病自差者，為六住菩薩說，不為凡人，示其僻引。次「譬如虛空」下，正答，凡舉三譬。有人云：此舉世間眼所見空以之為喻，有取真諦空為喻。有云：即是理內非內非外之空。《中論》云「虛空非有非無，非內非外。」此譬佛性。次文中云財物者，財在他方，雖不現用，往取即得。譬佛性雖未能見，修之即會。後文中云造業者，造譬初心，業譬修習，果譬見性。其中有六句：一非內、二非外、三非有、四非無、五非本無今有、六非無因出。「非此作此受」下，二明修者必得。有五句，次第釋之。一云：非此陰作業此陰受果，若此作此受則是一陰，一即是常。又不由此陰而有後陰，此則為斷。第二句非字冠下，即非此作彼受者，非此陰作業，彼陰受果。河西云：人作天受者，則有因而無果、有果而無因，有果無因是常見，有因無果是斷見。亦應有彼作此受，無者可解。彼作彼受，同第一句。第四無作無受，都無因果，是則不可。時節和合，是第五句。「眾生佛性」下，合譬。初合造業六句，但合五，不合非無因出。初合第五句。非內非外，合第一雙。非有非無，合第二雙。非此非彼下，合第二修者必得感果之相。前有五句，今備合。初非彼非此，即合兩句。非彼是合非彼作彼受，非此即合非此作此受。非餘處來即合非此作彼受，非無因緣合上無作無受。「亦非一切眾生」下，合前時節和合而有。「善男子」下，第四重答第三問。前問答有法說譬說，今直答譬。初非其問。次答初非者，夫磁石不能吸鐵。次「何以故」下，釋不吸意，又二：先釋、次譬。初文者，石無心識，寧能吸取？如葵藿無心而隨日東西，芭蕉無耳聞雷出華，皆異法出生能隨能聽，琥珀吸芥亦復如是，安得以此例佛性耶？今釋異法出生異法滅壞者，異法有故異法出生，諸法皆為因緣所起，因緣於諸法名之為異，有異因緣便有諸法，故言異法有故異法出生。亦如水土為芽緣，芽與水土何時有心領解生法，云我與汝生、汝可受生。但有此異緣，芽則得生。亦如水因緣故火便盡滅，水火亦無更相領解：我起汝滅。次舉葵藿東西向日，豈應有心而作此事？故更為譬作譬，凡舉五譬。次「磁石吸」下又二：初還以譬合譬；次「眾生佛性」下，更以法合所譬之法即是佛性。文為三：一明因不吸果、二明佛性無有住處、三廣辨佛性。初文又三：初正合磁石之譬。次舉十二因緣顯無吸之義。無明為因、諸行為果，乃至生因死果，無明豈能吸諸行耶？亦如佛性不能吸菩提。三「有佛」下，正顯不吸。

次「善男子若言佛性」下，第二明佛性無住處，有法、譬、合。法可見。「如十二因緣」下，譬，又二：先正舉譬；次舉如來帖譬，如來是舉顯、佛性是舉隱。次「佛性」下，合譬，如文。

> 次に「善男子、若し佛性を言わん」の下は、第二に佛性に住處なしと明かす部分である。法・譬・合の三つがある。法は見るべし。「十二因緣の如く」の下は譬えであり、また二つに分かれる。先ず正しく譬えを挙げ、次に如來を挙げて譬えに合わせる。如來は顯を挙げ、佛性は隱を挙げる。次に「佛性」の下は、譬えを合わせる部分であり、文の如くである。

「譬如四大」下，第三廣明佛性，為四：一明非當非現而說當有、第二明非即非離、第三簡邪正、第四廣出體性。初非當非現，約眾生當得，故名當有。有譬、有合。然四大無的，一業能感地大，復有一業能感火大，餘二亦爾。但聽業緣，總能感得。佛性亦爾，時至即現，故以四大為譬。譬云有輕有重者，風火輕、地水重。又言赤白黃黑者，此配其色，火赤、風白、地黃、水黑。若配五行，火赤、金白、地黃、水黑、木青。又小乘中明風無色，大乘明風有色。五行中金在西方，主白又主秋，秋氣白，秋風蕭飋，故言風白，未詳。合，如文。「譬如有王」下，二明佛性非即非離，有譬、有合。初文中言萊茯根者，《爾雅》作蘆菔，郭注為蘿茯，蘿茯為正。牽象示眾盲者，他作一存一亡釋之，頭足等皆非象，亡也；不離頭足等是象，存也。佛性非六法，亡也；六法之外無別佛性，還用六法，存也。如此釋者，不得出於即離兩句，況得絕於四句離百非耶？此文雙彈即離，非頭足為象，此彈即也；離是無象，此彈離也。頭足之中既無有象，不可即也；頭足之外既無別象，不可離也。非即非離、非內非外而得言象。眾生佛性亦復如是，非即六法、非離六法，非內非外故名中道，名為佛性。若取六法為佛性者，乃是眾盲之佛性；若離六法為佛性者，如指虛空為佛性。如諸婆羅門所謗、為仙豫所害。取不即不離中道為佛性者，如大王臣智所見佛性。若得不即不離意，廣歷諸法悉是佛性。四無量、六度等，悉如文。於合文中，又二：先總合；次「是諸眾生」下別合，於中又三：先正合：次更舉本盲帖合：三結。初正合中六，一一皆三：先合六法、次舉譬帖、三結，悉如文。

> 「譬如四大」の下、第三に仏性を広く明かすことを、四つの項目に分ける。第一に、當来にも現在にも非ずして、而も當来に有ると説くことを明かし、第二に、即にも離にも非ざることを明かし、第三に、邪正を簡別し、第四に、その体性を広く出だす。初めの「非當非現」は、衆生が當来に得ることを約して、故に「當有」と名づける。譬えば、譬喩と法説の合わせがある。然るに四大には定まったものはなく、一つの業が地大を感じ、また一つの業が火大を感じ、残りの二つもまた同じである。ただ業の縁に聴いて、総じて感得するのである。仏性もまた同じで、時が至れば即ち現れる。故に四大を以て譬えとするのである。譬えに「軽重有り」というは、風と火は軽く、地と水は重いことをいう。また「赤白黄黒」というは、これはその色に配するのであり、火は赤、風は白、地は黄、水は黒である。もし五行に配すれば、火は赤、金は白、地は黄、水は黒、木は青である。また小乗の中では風は色なしと明かすが、大乗では風は色ありと明かす。五行の中では金は西方に在り、白を主とし、また秋を主とする。秋の気は白く、秋風は蕭飋たり。故に風は白と言うが、詳らかではない。合わせることは、文の如くである。「譬えば王有るが如し」の下、第二に仏性が即にも離にも非ざることを明かす。譬喩と法説の合わせがある。初めの文中に「萊茯根」と言うは、『爾雅』には「蘆菔」と作り、郭注には「蘿茯」と為す。「蘿茯」が正しい。象を牽いて衆盲に示すというのは、他の人は一存一亡として釈する。頭や足などは皆象に非ず、これは亡である。頭や足などを離れずして是れ象なり、これは存である。仏性は六法に非ず、これは亡である。六法の外に別の仏性はなく、還って六法を用いる、これは存である。このように釈する者は、即と離の二句を出でること能わず、況んや四句を絶し百非を離るることを得んや。この文は即と離とを双び弾す。頭足を非として象とせざるは、これは即を弾す。離れて象なしというは、これは離を弾す。頭足の中に既に象有るなし、即すること能わず。頭足の外に既に別の象なし、離すること能わず。即に非ず離に非ず、内に非ず外に非ずして、而も象と言うことを得る。衆生の仏性もまたかくの如し。六法に即せず、六法を離れず、内に非ず外に非ず。故に中道と名づけ、仏性と名づく。もし六法を取って仏性と為す者は、これは衆盲の仏性である。もし六法を離れて仏性と為す者は、これは虚空を指して仏性と為すが如し。諸の婆羅門の謗る所、仙豫の害する所の如し。即せず離せざる中道を取って仏性と為す者は、大王の臣の智の見る所の仏性の如し。もし即せず離れざる意を得れば、広く諸法に歴して悉く仏性なり。四無量、六度などは、悉く文の如くである。合わせる文の中に、また二つある。先ず総じて合わせ、次に「是諸衆生」の下、別して合わせる。その中にまた三つある。先ず正しく合わせ、次に更に本の盲を挙げて合わせ、三に結ぶ。初めの正しく合わせる中に六つあり、一々皆三つである。先ず六法に合わせ、次に譬えを挙げて合わせ、三に結ぶ。悉く文の如くである。

「有諸外道」下，第三簡邪正，為二：初簡邪我，非外道所計，或言常遍、或言如芥子，並是邪執。次明正我，又二：初明假我、次明真我。初明假我，文為二：初法、次譬。譬中有六：初後有合，中四無合。開善：假名有用，有名無體。莊嚴：名用體俱有。此兩皆不可。若名用體皆有者，何謂為假？開善雖無體，既有名用，亦復非假。觀師引《中論》「無我無無我」，無我破常、無無我破斷，亦破即離。為破此等，故言我與無我。雖說此二皆是假名，故文中舉六譬譬於假我。「如來常住」下，第二明真我。此之真我對破妄我，畢竟清淨，即無我無無我。眾生亦應得此真我。

> （「有諸外道」の下は）第三に、邪と正とを簡び分ける。二つの段がある。最初に邪の我を簡び、外道の計るところではない。あるいは常・遍と説き、あるいは芥子の如しと説く。これらはすべて邪の執りである。次に正の我を示す。これにもまた二つある。最初に仮の我を示し、次に真の我を示す。最初に仮の我を示す文は、二つの部分からなる。最初に法を示し、次に譬えを示す。譬えの中に六つの例がある。初めと後ろには合致の説明があり、中の四つには合致の説明がない。開善寺の僧は「仮の名には用があるが、名には体がない」と説く。荘厳寺の僧は「名・用・体のすべてが存在する」と説く。この二つはどちらも正しくない。もし名・用・体のすべてがあるのなら、どうして仮と呼べようか。開善寺の説は体はないが、名と用があるとしても、それもまた仮とは言えない。観師は『中論』を引いて「我なし、無我なし」と説く。「我なし」は常を破り、「無我なし」は断を破り、また即と離をも破る。これらの説を破るために、我と無我とを説くのである。この二つを説くのも、すべて仮の名であるから、文中で六つの譬えを挙げて仮の我を譬えるのである。「如来常住」の下は、第二に真の我を示す。この真の我は、偽りの我を破るためのものであり、究極的には清らかであり、すなわち我なく、無我もないのである。衆生もまたこの真の我を得るべきである。

「大慈大悲」下，第四廣出佛性，又三：初明佛性，有八復次；次「如我上說」下，還結是當；三「我若說色」下，結非五陰。前四如文。第五云第四力者，一云：是十力中第四根力，知物根緣，化道之要。二云：別有名教：一信力、二忍力、三定力、四善權力。善權力者，化道便故，故言第四力。第六云十二因緣即佛性者，於他兩解，並皆不便。一云：十二因緣是觀智。何得有境界性？二云：是果性。此亦不可。今明十二因緣是佛性，別有所出云云。餘二如文。

> 「大慈大悲」の教えのもと、第四に仏性を広く説き示す。これにも三つの部分がある。第一に仏性を明かす部分で、八つの繰り返しの説明がある。第二に「我が上に説くが如し」以下の部分で、これをもって正当な解釈であると結ぶ。第三に「我れ若し色を説かば」以下の部分で、五陰（五蘊）ではないと結論づける。前の四つは本文の通りである。 第五の「第四力」について、二つの解釈がある。一つは、十力の中の第四の「根力」であり、衆生の素質や縁を見極めて、教化の道の要諦とするというもの。もう一つは、別に名目を立てる教えで、一に信力、二に忍力、三に定力、四に善権力とする。善権力とは、教化の道に適した方便のことだから、「第四力」と言うのである。 第六の「十二因縁すなわち仏性なり」について、他者の二つの解釈はどちらも適切ではない。一つは、十二因縁は観察する智慧であると言うが、どうしてそれが境地の性であり得ようか。もう一つは、これは果報の性であると言うが、これもまた不可である。今、私が明かすに、十二因縁が仏性であるということは、別に経典の根拠がある<note>云云</note>。残りの二つは本文の通りである。

「善男子若諸眾生」下，第二總結酬前問，又三：初結問不須修道、次「若諸眾生」下，結勸。三「佛性不可思議」下，結歎，為二：初佛歎、次師子吼歎。

> 「善男子、若諸衆生」の下は、第二に総括して前の問いに応えたもので、さらに三つの部分に分けられる。初めに問いを結んで修道の必要がないことを示し、次に「若諸衆生」の下で勧めを結ぶ。三に「佛性不可思議」の下で、讃嘆を結んで二つとする。初めに仏が嘆じ、次に師子吼が嘆ずる。

「師子吼言云何不退」下，第二以見佛性人勸修，有問、有答。問，如文。佛答，有三：一自試其心、二為物受苦、三用六度化他。初一是自行，後二是化他。初自試者，猶是淺行，深者不俟言。粟𢇲者，人讀為和音，非也。復云黎音、復云𢇲音，尋檢無此字。「善男子菩薩為破」下，二明為物受苦。「復次菩薩」下，三明六度化他，如文。

> 「師子吼が『退かないとはどういうことか』と問う」以下の部分は、第二に、仏性を見た人が修行を勧めることを説明したもので、問いと答えがあります。問いは、本文の通りです。仏の答えには三つの点があります。第一に、自分の心を試すこと、第二に、他の者のために苦しみを受けること、第三に、六度（ろくど）によって他の者を教化することです。初めの一つは自分の修行であり、後の二つは他の者を教化することです。最初の「自分の心を試す」というのは、まだ浅い修行です。深い修行を持つ者は言葉を待ちません。「粟𢇲」について、人は「和」の音と読みますが、それは誤りです。また「黎」の音とも、「𢇲」の音とも言いますが、調べてみるとこの字は存在しません。「善男子、菩薩は破るために」以下の部分は、第二に、他の者のために苦しみを受けることを明かしています。「また、菩薩は」以下の部分は、第三に、六度によって他の者を教化することを明かしており、本文の通りです。

「復次菩薩」下，品中大段第二歎教，為三：一歎弘經人、即菩薩也；二歎所弘法、即涅槃教也；三歎說教主、即是如來。教不自弘，弘之在人；教不自宣，宣之由佛，故相因而歎。亦是稱歎三寶。初文二：前總略歎、次廣釋。初略歎中二：初通歎菩薩、次別歎補處。諸大士謙勞勤苦利益眾生，是故歎之。補處方紹尊位，是故別歎。初有九復次通歎，如文。次「受後邊身」下，別歎，有七復次。第二文中云三事勝者，欲天之中此天命定，人中欝單越命定，將梵足之為七。此天處中，文中云或怖或悎，舊云盍音是教音。中寺安法師問王儉，儉是僧達之子，博學有名。古人作教字，穴下竪心邊安告，今人省穴單作耳。「善男子」下，二歎經，為二：先歎、次料簡。初文，法、譬、合。法可見。次譬中云深難得底者，人解云：竪論唯常樂我淨，不得有無常苦等；橫論具常無常等，故言深難得底。此亦不然，經但云深，那作單解？今謂常無常、非常非無常，不一不二不可思議，是故云深耳云云。合，如文。「師子吼言」下，二料簡，有問、有答。問從前深難得底不生不滅，不三種生，獨一種耶？佛答，初總明不受卵濕二生、次別明不受化生云云。「爾時師子吼」下，三偈歎說經主，四十行偈。初兩行請求說，中三十七行歎，三一行結云云。

> 「また菩薩」の下、品の中の大きな第二段では教えを讃えることを述べ、三つの部分に分けられる。第一に、経を弘める人を讃える。すなわち菩薩である。第二に、弘められる法を讃える。すなわち涅槃の教えである。第三に、説法の主を讃える。すなわち如来である。教えは自ら弘まるものではなく、弘めるのは人による。教えは自ら説かれるものではなく、説くのは仏による。それゆえに相互に依存して讃えるのである。これはまた三宝を称歎することでもある。 最初の文には二つの部分がある。先ず全体的に簡略に歎じ、次に詳しく解釋する。初めの略歎の中に二つある。最初に菩薩全般を歎じ、次に補処の菩薩を特に歎じる。諸々の大士は謙虛に勵み、苦勞して衆生を利益するので、これを歎じるのである。補処の菩薩はまさに尊い位を繼ぐので、特に歎じるのである。初めに九つの復次があり、全體を歎じることは、文の通りである。次に「後邊の身を受けて」の下は、別に歎じ、七つの復次がある。 第二の文で「三事が勝れている」と言うのは、欲界の天の中でこの天は命が定まっており、人間の中では鬱単越が命が定まっている。梵天を加えて七つとする。この天は中に位置する。文中に「或いは怖れ、或いは悎く」とある。昔の人は「盍」の音は「教」の音であると言った。中寺の安法師が王倹に問うた。王倹は僧達の子で、學問が廣く名があった。古人は「教」の字を作るのに、「穴」の下に「心」を竪にし、旁に「告」を置いた。今の人は「穴」を省いて「耳」だけにする。 「善男子」の下は、第二に経を歎じ、二つの部分に分かれる。先ず歎じ、次に簡別する。初めの文は、法・譬喩・合説である。法は見て取れる。次に譬喩の中で「深くして底を得難し」と言うのは、人の解釋では、竪に論じれば唯だ常樂我淨のみで、無常・苦等を得ない。橫に論じれば常・無常等を具える。それで「深くして底を得難し」と言うのである。これもまた正しくない。経はただ「深い」とだけ言い、どうして一方だけに解釈できようか。今はこう考える。常・無常・非常・非無常は、一ならず二ならず、思い議り難い。それゆえに「深い」と言うのである<note>云云</note>。合説は、文の通りである。 「師子吼が言う」の下は、第二に簡別し、問いと答えがある。問いは、前の「深くして底を得難し、生まれず滅せず」から來て、三種の生まれではなく、獨り一種だけなのか、ということである。仏の答えは、最初に總じて卵生・濕生の二つの生まれを受けないことを明かし、次に化生を受けないことを特に明かす<note>云云</note>。 「その時、師子吼」の下は、第三に説経の主を歎じる偈で、四十行の偈がある。最初の二行は說法を請い求め、中の三十七行は歎じ、後の一行は結ぶ<note>云云</note>。

## 大般涅槃經疏卷第二十七

> 大般涅槃経疏 巻第二十七