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title: "大般涅槃經疏 · 1"
description: "大般涅槃经疏由隋朝天台宗五祖章安大师灌顶撰述，是注解北本《大般涅槃经》的重要疏钞。灌顶承袭其师智顗思想，依天台教观阐释经义，重点发挥如来常住、众生皆有佛性、一阐提也能成佛等核心教理。该疏系统论述了涅槃境界与佛性思想，融合南北朝佛学成果，是天台宗判教体系的关键著作，对隋唐以后中国佛教思想发展影响深远，被视为研究《大般涅槃经》的权威注疏。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cme55wyn201lajo04ge1ed5n5"
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### 迦葉品之一

> 迦葉品 その一

此是善始發問，今欲令終，是故更請。前隨義題品，今從人立名，故云迦葉。迦葉，如前說。開善用此答安樂性問；地師為慈光善巧住持分；河西、興皇同為佛性門。今明第五涅槃用。此經初後通論佛性，此品與前有何同異？異略為五：一義用異。前品明中道佛性義，為菩提種子；今品明佛性勝用，能攝極惡闡提、偏邪外道。二因果異。前品明因性在因不在果，果性在果不在因。此品明一切惡陰皆是佛性，此即因性；從惡五陰生善五陰，此亦果性。又云佛性有三世、有非三世，聖人果性通三世、不通三世。由來解果性，通三世是應身佛性、不通三世是法身佛性。此不然，只說果性通於因果，何須分應法兩身？若善，五陰佛性通因果，因中佛性即三世攝、果佛性即非三世。三開合異。前品生死河，合四果、離三乘；此品涅槃河，離四果，合三乘。四通別異。前品通明五種佛性，天人六道皆有佛性；此品專明正因佛性，闡提由正因故還生善根。前品別據萬善了因佛性；今品通據善惡皆是佛性，故云善根人有、闡提人無，闡提人有、善根人無。五者前品對告一人，今品再對迦葉。諸異乃多。起品初明用異，從初意立章，故言涅槃用。

> これは、初めに善く問いを発したことから始まり、今まさにその終わりを明らかにしようとしているため、さらに問いを重ねるのです。前では「義」に従って題目や品を立てましたが、今は「人」に従って名を立てるため、「迦葉」と言います。「迦葉」については、前で述べた通りです。 開善寺の僧は、この品を以て「安楽性」の問いに答えるものとしました。地論宗の師は、これを「慈光善巧住持分」と解釈しました。河西・興皇は、共にこれを「仏性門」としました。今、私は第五の「涅槃用」を明らかにします。 この経典は、初めから終わりまで通して仏性を論じていますが、この品と前の品との間には、どのような相同点と相違点があるのでしょうか。相違点を大まかに五つ挙げます。 第一に、「義の用」が異なることです。前の品は中道の仏性の「義」を明らかにし、これを菩提の種子としました。今の品は仏性の優れた「用」を明らかにし、極悪の一闡提や偏った邪見の外道をも包み摂ることができるとします。 第二に、「因果」が異なることです。前の品は、因性は因に在って果にはなく、果性は果に在って因にはないと明らかにしました。今の品は、あらゆる悪しき五陰も皆仏性であるとし、これが「因性」です。また、悪しき五陰から善い五陰が生じることも、これが「果性」です。さらに、仏性には三世にわたるものと三世を超えたものがあり、聖人の果性は三世に通じる面と通じない面があるとも説かれています。 従来の解釈では、果性が三世に通じるのは応身の仏性であり、三世に通じないのは法身の仏性であるとされました。しかし、これは正しくありません。ただ、果性が因果に通じることを説けば十分であり、わざわざ応身・法身の二身に分ける必要はありません。もし善く解釈するなら、五陰の仏性は因果に通じ、因における仏性は三世に摂せられ、果における仏性は三世を超えているのです。 第三に、「開合」が異なることです。前の品では「生死の河」において、四つの果を一つにまとめ、三つの乗り物を分け離しました。今の品では「涅槃の河」において、四つの果を分け離し、三つの乗り物を一つにまとめます。 第四に、「通別」が異なることです。前の品は五種の仏性を広く明らかにし、天上人・六道の生きとし生けるものすべてに仏性があるとしました。今の品は特に「正因仏性」を明らかにし、一闡提も正因によって善根を生じ直すことができるとします。前の品は特に、あらゆる善行という「了因仏性」について述べました。今の品は広く、善悪のどちらも仏性であるとし、故に「善根ある人には有り、一闡提には無い」「一闡提には有り、善根ある人には無い」と説くのです。 第五に、前の品は一人に対して説かれたのに対し、今の品は再び迦葉に対して説かれたことです。 これらの相違点は多くあります。この品の初めに「用」の異なることを明らかにし、その初めの意図に従って章を立てたため、「涅槃用」と名付けたのです。

就文為二：初明攝惡、後明攝邪。就攝惡中二：先明佛性用、二歎經。初明用又二：先明斷善、後明生善。以虛妄力故斷善，以佛性力故生善。舊解云：作惡生善兩人，更遞然不相關。又一師云：只是一人，前顛倒故起惡，後遇知識故生善。今明不然，或是一人或是多人，如河中七種，即是多人；若一人始沒乃至成佛，即是一人。舊云：生善有接識義。眾生從界外無明識窟中始起一品無明而來，未起四住，有佛接去即得成佛。此義大妨。設有此經，亦是一時改惡為緣；若無此經，全不堪依。若言必須起五住竟方能改惡作善，亦無一經定作此說；設有此經，亦以一時為緣而已。若爾，任惡極而任運被接，何須修道？與八萬劫得道何異？若言從識窟中來者，即是從無明中來，云何言始起一品無明？若未起惑，應在別處。若從窟中來始起一品而被接者，自後起品乃至四住何不被接？若無明窟中既被接，四住窟中何不接之？故是難信。若爾，併不須修。上數破此義。若佛性力任得菩提不須修者，正破於此。舊言：善星無發迹處，是實惡人。是義不然，雖未見經，義推是權。何者？佛兩弟兩子各行善惡，阿難為善、調達作惡，悉皆是權；今羅云為善、善星作惡，例知是權。

> 文を二つに分ける。第一に、悪を摂めることを明かし、第二に、邪を摂めることを明かす。悪を摂めることの中にまた二つある。先に仏性の用を明かし、後に経を讃嘆する。初めに用を明かすことの中にまた二つある。先に善を断つことを明かし、後に善を生じることを明かす。虚妄の力によって善を断ち、仏性の力によって善を生じるのである。 古い解釈には、「悪を作る者と善を生じる者は別々の人物で、互いに関係がない」と言うものがある。また別の師は、「ただ一人の人物であり、先に顛倒して悪を起こし、後に善知識に出会って善を生じるのだ」と言う。今、私はそうではないと明かす。あるいは一人の場合もあり、あるいは多人の場合もある。川の中の七種のように、これは多人である。もし一人が沈み始めてからついに成仏するに至るなら、これは一人である。 古い解釈に、「善を生じるには、仏に迎え摂められるという義がある」と言うものがある。衆生は、三界外の無明の識の窟（あな）から最初の一品の無明を起こして来る。まだ四住の惑を起こしていない。その時に仏に迎え摂められて、即座に成仏できるというのである。この義は大いに妨げがある。仮にこのような経典があったとしても、それは一時的に改悪を縁とするに過ぎない。もしこのような経典がなければ、全く依拠できない。もし、「必ず五住の惑を起こし終わってから、初めて改悪して善をなすことができる」と言うなら、それもまた、どの経典も定めてそのように説いてはいない。仮にそのような経典があったとしても、それは一時をもって縁とするに過ぎない。もしそうであるなら、悪を極めるに任せて、自然に迎え摂められるのを待ち、どうして修行が必要であろうか。それは八万劫を経て道を得るのと何の違いがあろうか。 もし、「識の窟から来る」というなら、それは無明の中から来るということである。どうして「最初の一品の無明を起こす」と言えるのか。もしまだ惑を起こしていないのなら、別の場所にいるはずである。もし窟から来て最初の一品を起こして迎え摂められるなら、その後、品を起こして四住に至っても、どうして迎え摂められないのか。もし無明の窟の中で迎え摂められるのなら、四住の窟の中でなぜ迎え摂められないのか。ゆえに信じ難いのである。もしそうであるなら、すべて修行は必要ないことになる。以前に、この義を幾度も破ってきた。もし仏性の力によって菩提を得るのに修行が必要ないと言うなら、まさにこれを破るのである。 古い解釈には、「善星比丘には発迹（ほんとうの素性を明かす）の場面がなく、真実の悪人である」と言うものがある。この義は正しくない。経典には見えないが、義によって推すに、善星は権化（仮の姿）である。なぜか。仏の二人の弟と二人の子は、それぞれ善悪を行った。阿難は善を行い、調達は悪を行ったが、どちらもすべて権化である。今、羅睺羅（らごら）が善を行い、善星が悪を行うのも、例によって権化であると知るべきである。

斷善文為三：一明斷善人、二明斷善相、三明斷善見。斷善人者，即善星是。斷善相者，不定根性，是聞不定教執成定解。斷善見者，分別推求諸法道理。初就人中二：先問、次答。問為二：先緣起、次正問。緣起中二：先明佛有能化之德、次明善星有可化之緣。就佛又二：初內有慈悲、二外有方便。初文者，憐即大慈，憫即大悲。次「不調能調」下，有七句，即外方便。「善星比丘」下，第二明有可化之機，又二：初明是子即羅云庶兄，此緣則重。次出家之後是有信戒，受持十二部經是慧，壞欲界結獲得四禪是定，具足三德豈非因深？次「云何如來」下，正問，先作兩難、後作兩結。初難何故記是惡人、後難何故不先為說法。初又二：初難何故記是闡提，即惡因；次難何故地獄劫住，是惡果。「如來何故」下，是第二難，與佛緣重何不先為說法。「如來世尊」下，結兩難。「云何得名有大慈憫」下，結初難。佛有慈悲，云何名為廝下劫住？既為廝下，當知佛無慈悲。次「有大方便」下，結後難。佛既不先為其說法，云何名為有大方便？若有方便，應為說法。佛答中，不答緣起，但答兩難兩結，先答後、後答前。前答後中凡七譬，前六譬明緣有淺深故說有次第，後一譬明佛心平等等說無偏。前六譬中例有三：一舉譬問、二述事奉答、三合譬作解。何以有此三之次第？解云：如佛初為提謂、文鱗瞽龍說人天五戒，次赴鹿苑為二乘人轉四諦法，後明方等教諸菩薩，自是一塗約小為初。若初成佛道以舍那教，初照山王，次照平地，此復一塗約大為初。今此文意包括始終，以山王為初，文鱗為中，雙林為後。然第三子雖復極惡，以體同故，是故須教；下田雖瘠，以家業故，是故不廢。下器雖破，防急用故；下病雖必死，以親屬故；下馬雖老，以代倦故；下人雖卑，以等施故。前六譬中雖差別答，義兼無差，意猶未顯。第七譬中文轉分明，舉師子王不重象輕兔俱盡壯勢，譬佛不厚善薄惡等運大悲。若巨細而觀，象不足、兔有餘；若量力而觀，象須疾、兔須徐。獸王不爾，等一無殊。就緣而觀，菩薩教深細、聲聞教淺近、闡提教世間、佛不二三大悲平等。「我於一時住王城」下，二追答記彼之問。問有二句，初答闡提、次答記意。初答闡提自謂有信慧定，盡非其問，不許有之。明無信又三：一不信佛是無所畏人；「我於一時在迦尸」下，二明不信佛是無妄語人；「我於一時與善星」下，三明不信佛是無嫉妬人。初文者，汝言出家表其有信，今以三事顯其無信。第二佛行時足離地四寸，千輻印文常現迹中，人皆欲見、其常滅之。既不能滅，取死蚯蚓置佛迹中，令無量人起踐害想云云。第三文者，夫人鬼報別而宛然相見，詶往問答豈實惡人所能為也。驗知是權云云。「善星雖復讀誦」下，二明其無慧。但得文字不解其義，是則非慧。「親近惡友」下，第三明無定，又二：初明雖得後失，故言無定。次「退禪」下，總結起邪，所以記之。「善男子汝若不信」下，第二答其前問記意，又二：先明記意、次明不可治。初文者，以其必入，故我記之；顯必入相，故往見之。見佛起惡即入地獄，必入明矣。往善星所者，或謂舉往事，或難思力不動而往云云。「善男子善星雖入佛法」下，二答不可治人。由彼放逸故不可治，憫之而已。有法、譬、合。合中二番，各二：皆先正合、次以譬帖合。「我後昔來」下，二答其兩結。初答先結無慈悲心，又二：先正答、次料簡。初正答中有法、譬、合。二更問答料簡，於中二：先問、次答。答中二：先正答、次「善男子」下引昔顯實。於中引目連記事，非全不著，但見前兩不見後接，但見頭白不見體駿云云。如來不爾，是故無二。「善星比丘常為無量」下，答後方便之結。明我令其恒在左右不令遠去，恐其為惡，云何是無方便。第五解力即是欲力，知眾生欲解也。

> 善知識を断つことに関する文章は三つに分けられる。一に善知識を断つ人を明かし、二に善知識を断つ様相を明かし、三に善知識を断つ見解を明かす。善知識を断つ人とは、善星のことである。善知識を断つ様相とは、不定の根性であり、不定の教えを聞いて執着して確かな解釈としてしまうことである。善知識を断つ見解とは、諸法の道理を分別し推し求めることである。 初めに人に関して二つに分ける。先に問い、次に答えがある。問いには二つあり、先に因縁（生起）があり、次に正式な問いがある。因縁には二つあり、先に仏に教化する能力があることを明かし、次に善星に教化される可能性のある因縁があることを明かす。仏に関してはさらに二つに分ける。初めに内に慈悲があり、次に外に方便がある。初めの文において、「憐」は大慈であり、「憫」は大悲である。次に「調うこと能わざるを調う」以下の七つの句があり、それが外の方便である。 「善星比丘」以下は、第二に教化される可能性のある機縁があることを明かし、さらに二つに分ける。初めに彼が子であること、すなわち羅睺羅の異母兄であり、この因縁は重いことを明かす。次に出家した後、信と戒があり、十二部経を受持するのは慧であり、欲界の結縛を破り四禅を得たのは定であり、三徳を具えているのは、まさに因が深いのではないだろうか。 次に「云何して如来」以下は、正式な問いであり、先に二つの難問を設け、後に二つの結論を設ける。初めの難問は、なぜ悪人と記別されたのかということであり、後の難問は、なぜ先に説法しなかったのかということである。初めはさらに二つに分ける。初めに、なぜ一闡提と記別されたのかという難問であり、これは悪因である。次に、なぜ地獄に長くとどまるのかという難問であり、これは悪果である。「如来何が故」以下は、第二の難問であり、仏との因縁が重いのに、なぜ先に説法しなかったのかということである。「如来世尊」以下は、二つの難問をまとめている。「云何して得て名づけて大慈大悲ありと為す」以下は、初めの難問をまとめている。仏には慈悲があるはずなのに、どうしてこのような卑しい者として長くとどまると言えるのか。もし卑しい者であるならば、仏には慈悲がないことになろう。次に「大方便あり」以下は、後の難問をまとめている。仏が先に説法しなかったのは、どうして大方便があると言えるのか。もし方便があるならば、説法すべきである。 仏の答えにおいては、因縁には答えず、二つの難問と二つの結論にのみ答える。先に後の問いに答え、後に初めの問いに答える。先に後の問いに答える中で、全部で七つの譬えがある。最初の六つの譬えは、因縁に浅い深いがあるため、説法に順序があることを明かし、後の一つの譬えは、仏の心が平等で、説法に偏りがないことを明かす。最初の六つの譬えには、いずれも三つの段階がある。第一に譬えを挙げて問う、第二に事実を述べて答える、第三に譬えを合わせて解釈する。なぜこのような三つの順序があるのか。解説して言うには、例えば仏が初めに提謂（テイイ）や文鱗瞽龍（モンリンコリュウ）のために人天の五戒を説き、次に鹿野苑（ロクヤオン）に行き、二乗のために四諦の法を転じ、後に方等（ホウドウ）の教えを明かして菩薩を教えた。これは一つの流れで、小乗を初めとするものである。もし初めて仏道を成じた時に舎那（シャナ）の教えをもってすると、初めに山王を照らし、次に平地を照らす。これもまた一つの流れで、大乗を初めとするものである。今この文の意は、始終を含んでおり、山王を初めとし、文鱗を中とし、双林（ソウリン）を後とする。しかし、第三の子は極悪ではあるが、体が同じであるため、教える必要がある。痩せた田んぼは瘠せているが、家業のためであるから、廃することはできない。粗末な器は壊れているが、急用を防ぐために用いる。重い病の者は必ず死ぬが、親類であるために見捨てない。劣った馬は老いているが、倦みを代わるために用いる。低い身分の者は卑しいが、平等に施すために用いる。最初の六つの譬えは、差別をもって答えているが、その義には差別のないことを含んでおり、その意はまだ明らかではない。第七の譬えにおいて、文が転じて明確になる。獅子王を挙げて、象を重んじ兎を軽んじず、すべて等しく勢いを尽くすように、仏が善人を厚くし悪人を薄くせず、大悲を等しく運ぶことを譬える。もし巨細で観るならば、象は足らず、兎は余る。もし力量で観るならば、象は速く進む必要があり、兎はゆっくり進む必要がある。獣王はそうではなく、等しく一つであり、異なることがない。因縁で観るならば、菩薩の教えは深く細やかであり、声聞の教えは浅く近く、一闡提の教えは世俗的であり、仏は二つ三つではなく、大悲は平等である。 「我、一時王城に住せし時」以下は、二度目に彼の問いに追って答える。問いには二つの句があった。初めに一闡提に答え、次に記別の意に答える。初めに一闡提は、自ら信と慧と定があると言うことに対して、彼の問いはすべて正しくなく、それらを認めないことを答える。信がないことを明かすものはさらに三つある。第一に、仏が畏れるところのない人であることを信じないこと。「我、一時迦尸に在りし時」以下は、第二に、仏が虚偽の言葉を言わない人であることを信じないこと。「我、一時善星と共に」以下は、第三に、仏が嫉妬のない人であることを信じないこと。初めの文において、汝が出家したことは信があることを示すが、今、三つの事柄をもってその信がないことを明かす。第二に、仏が歩く時、足が地面から四寸離れ、千輻の印相が常に足跡に現れ、人々は皆それを見たいと思うが、善星は常にそれを消そうとした。消せないと、死んだ蚯蚓を取って仏の足跡の中に置き、無量の人々に踏み害する心を起こさせた。第三の文において、人間と鬼とは報いが異なるが、はっきりと相見え、言葉を交わし問答することは、本当に悪人ができることだろうか。これが仮の姿であることが明らかである。 「善星、読誦することは雖も」以下は、第二にその慧がないことを明かす。ただ文字を得てその義を解しないのであれば、それは慧ではない。「悪友に親近す」以下は、第三に定がないことを明かし、さらに二つに分ける。初めに、得た後に失ったことを明かし、故に定がないと言う。次に「禅を退く」以下は、まとめて邪を起こすことを示し、故に彼を記別するのである。 「善男子、汝もし信ぜずんば」以下は、第二にその前の問いの記別の意に答えるさらに二つに分ける。先に記別の意を明かし、次に治められないことを明かす。初めの文において、彼が必ず地獄に入るから、私はそれを記別した。必ず入る相を示すために、彼のもとを訪れた。仏を見て悪を起こせば、すぐに地獄に入る。必ず入ることは明らかである。善星のもとを訪れたことについては、あるいは過去の出来事を挙げたと言い、あるいは不可思議な力によって動かずして訪れたと言う。 「善男子、善星、仏法に入ると雖も」以下は、第二に治められない人に答える。彼は放逸であるため、治められない。憐れむのみである。法、譬え、合わせがある。合わせの中に二つの段階があり、それぞれに二つある。皆、先に正しく合わせ、次に譬えをもって合わせて貼り付ける。 「我後昔より以来」以下は、第二にその二つの結論に答える。初めに先の結論の「慈悲心がない」に答え、さらに二つに分ける。先に正しく答え、次に料簡する。初めの正しく答える中に、法、譬え、合わせがある。二度目の問答で料簡し、その中にさらに二つある。先に問い、次に答えがある。答えの中に二つある。先に正しく答え、次に「善男子」以下で過去を引いて実を示す。その中で目連の出来事を記すことを引くが、全く見えないわけではない。ただ前の二者を見て後の接続を見ず、ただ頭の白さを見て体のたくましさを見ない。如来はそうではない。故に二つはない。 「善星比丘、常に無量の為に」以下は、後の方便の結論に答える。私は彼を常に左右に置き、遠くに行かせなかったことを明かす。彼が悪を行うことを恐れたからである。どうしてこれは方便がないと言えるだろうか。第五の解力は、すなわち欲力であり、衆生の欲と解を知ることである。

「世尊一闡提輩」下，第二斷善之相，文為三：初正明斷善、二明根性不定故斷善、三明說教不定故斷善。初有五番問答。初番，先問；次佛答中以斷善根故所以無善。依數人解，闡提起惡邪無閡斷此善根，如無漏無閡道斷煩惱。若爾，當知畢竟不復生善，云何能得還生善根？是義不然，闡提身中有重惡障，善不並興，名此被障善不得生。後惡稍滅，善復得生，故言還生善根。問：闡提為有善可斷？無善可斷？答：具有兩義。其曾作善，後遇惡友斷滅此善，故言有善可斷。無善可斷者，向時作惡全未有善，而惡業將滅、善業應生，而復起障，善不得起，名無善可斷。文云眾生悉有信等五根闡提永斷者，相承釋云：理內眾生有信等五根，理外顛倒虛妄，故無信等五根。此義不然，只此理外亦有信等。闡提既是理外，起惡斷此五根。但作惡眾生既有佛性，應生五根；而即事未有，義說應有，故云一切眾生悉有。文云殺闡提無罪、殺蚊螘有罪者，闡提有重惡在身，殺之無罪；蚊螘無重惡，故殺之有罪。文云施畜生得百倍報、施一闡提得千倍報者，闡提過去五戒感人，施之福重；畜生先世惡業感此畜身，施之福輕。「世尊一闡提者」下，第二番問答。問中定宗，答可見。「世尊一切眾生」下，第三番問答。問中明闡提不斷未來，云何斷善？佛答斷有二種：一現滅、二障未來。若現起惡，善法不生，故是現滅。既現作惡，復遮未來善不得起，故斷未來。亦具斷三世，過去作惡而復不悔，即無復善；未來復有還生善義，但自微弱不能救之。「世尊一闡提輩」下，第四番問答，明不斷佛性。佛性是善，此善不斷名不斷性。又佛性是常，實不可斷。所言如世間眾生我性佛性者，三解：一云借外道我以之為譬，都無邪我，故三世不攝；真我是常，三世不攝。二云不爾，只是世間眾生我性即是佛性，是佛性故三世不攝。三云即是真我，語勢牽令佛性是常。後文云佛性未來，前云非三世攝，兩語相違，今須會通。前云三世所不攝者，就佛性體；後言未來，約眾生修。一切眾生未來當得清淨之身，故言未來。「迦葉言佛性」下，第五番問答。初問佛性、次問闡提。初問者，佛性既其三世不攝，云何言未來？「如來若言」下，次問闡提。若言闡提全無善法，何以得有憐愛等心？若有此心即是有善。「佛言」下，答。先答初問，又二：先答問、次論義。初答中二：先歎問、次正答。性非三世，約未來得故言未來，故下舉例說因為果、說果為因。佛性亦爾，云未來者，因中說果。言食及觸者，食可見；觸名不同，或以識為觸、或根為觸。今具二義，故論云「觸不定故，故無別法。」若意識在緣名觸，此觸在識。若言眼識眼觸，此觸在想。今言見色名觸，此謂識心以之為觸。色是前塵能生識觸，故謂色為觸，亦因中說果。

> 「世尊、一闡提輩」の下は、第二の「善を断つ相」です。文は三つに分かれます。第一に、善を断つことを正しく明かす。第二に、根性が定まらないために善を断つことを明かす。第三に、教えが定まらないために善を断つことを明かす。最初に五つの問答があります。 最初の問答では、まず質問があります。次に仏の答えの中で、善根を断ったため善がないと述べます。数人の解釈によれば、一闡提は悪しき邪見を起こし、障りなくこの善根を断ちます。それはあたかも、無漏の障りない道が煩悩を断つようなものです。もしそうなら、結局は再び善が生じないはずです。どうして善根が再び生じうるのでしょうか。この考えは誤りです。一闡提の身には重い悪の障りがあり、善は同時に起こりません。このため、善が障られて生じない状態を「善を断つ」と言います。後に悪が少しずつ滅すれば、善も再び生じるのです。だから「善根が再び生じる」と言います。 問い：一闡提には断つべき善があるのか、それとも断つべき善がないのか。 答え：二つの意味があります。かつて善を行い、後に悪友に遭ってその善を断ち滅ぼしたのであれば、「断つべき善がある」と言います。「断つべき善がない」とは、これまで悪を行い、全く善がなく、悪業が滅しようとし善業が生じようとする時に、再び障りが起きて善が起こらない場合を指し、「断つべき善がない」と言います。 経文に「一切衆生には信等の五根があるが、一闡提はそれを永久に断った」とあるのは、伝承された解釈によれば「道理の内にある衆生には信等の五根があるが、道理の外にある者は顛倒して虚妄であるため、信等の五根がない」とされます。しかしこの考えは誤りです。この道理の外にも信等はあります。一闡提は道理の外にあり、悪を起こしてこの五根を断ちます。しかし、悪を行う衆生には仏性があるので、五根が生じるべきです。ところが現実にはまだなく、道理としてあるべきと言うので、「一切衆生に有り」と説かれます。 経文に「一闡提を殺せば罪はなく、蚊や蟻を殺せば罪がある」とあるのは、一闡提には身に重い悪があるので殺しても罪にならず、蚊や蟻には重い悪がないので殺すと罪になるからです。 経文に「畜生に施せば百倍の報いを得、一闡提に施せば千倍の報いを得る」とあるのは、一闡提は過去に五戒を修めて人となる因があり、施しの福は重いからです。畜生は前世の悪業によってこの畜生の身を受けており、施しの福は軽いからです。 「世尊、一闡提者」の下は、第二の問答です。問いの中で宗旨を定め、答えは見ての通りです。 「世尊、一切衆生」の下は、第三の問答です。問いの中で、一闡提は未来を断たないのに、どうして善を断つと言うのかと述べます。仏は答えて、断つには二種類あると言います。第一に「現在において滅する」、第二に「未来を障る」です。もし現在に悪を起こせば、善法は生じません。これが「現在に滅する」です。現在に悪を作れば、さらに未来の善の起こりを遮るので、未来を断つことになります。また、三世を断つことにもあたります。過去に悪を作り、それを悔いなければ、もはや善はありません。未来には再び善が生じる意味がありますが、ただその力が微弱で救うことができません。 「世尊、一闡提輩」の下は、第四の問答で、仏性を断たないことを明かします。仏性は善であり、この善を断たないことを「性を断たず」と言います。また、仏性は常住であり、実際には断つことはできません。経文に「世間の衆生の我性と仏性は」とあることについては、三つの解釈があります。第一に、外道の我を借りて譬えとしたもので、邪我は全くなく、三世に属さない。真の我は常住であり、三世に属さない。第二に、そうではない。ただ世間の衆生の我性がすなわち仏性であり、仏性であるがゆえに三世に属さない。第三に、すなわち真の我である。言葉の勢いで仏性は常住であると導く。後の経文で「仏性は未来にある」と言い、前では「三世に属さない」と言う。この二つの言葉は矛盾しているので、今ここで融和する必要があります。前に「三世に属さない」と言うのは、仏性の本体についてであり、後に「未来にある」と言うのは、衆生の修行についてです。一切の衆生は未来に清らかな身を得るべきなので、「未来にある」と言うのです。 「迦葉、仏性」の下は、第五の問答です。初めに仏性について問い、次に一闡提について問います。初めの問いとは、仏性がすでに三世に属さないのに、どうして「未来にある」と言うのか、というものです。「如来がもし言うならば」の下は、次に一闡提についての問いです。一闡提には全く善法がないと言うなら、どうして憐れみや愛着の心がありうるのでしょうか。この心があれば、それはすなわち善があることになります。 「仏言」の下は、答えです。まず初めの問いに答え、さらに二つに分かれます。まず問いに答え、次に議論があります。初めの答えの中には二つあります。まず問いを称賛し、次に正式に答える。性は三世に属さないが、未来に得るという意味で「未来にある」と言うのです。だから、例えを挙げて「因を以て果と言い、果を以て因と言う」と示します。仏性もまた同じで、「未来にある」と言うのは、因の中で果を言うのです。「食」と「触」について言えば、食は目に見えます。触という名称は様々で、あるいは識を触としたり、根を触としたりします。今ここでは両方の意味を含みます。論には「触は定まらないから、別の法はない」とあります。もし意識が境に触れることを触と言うなら、この触は識にあります。もし眼識と眼触と言うなら、この触は想にあります。今「色を見ることを触と言う」のは、これは識心をもって触とするのです。色は前の境であり、識の触を生じさせるので、色を触と言います。これも因の中で果を言うことです。

「世尊」下，第二論義，先問、次答。問：因前生果性既非三世，云何言眾生有？佛答：性非內外猶如虛空，而諸眾生定有此性，文云悉皆有之。「如汝所言」下，答次問，初牒問非之；「何以故」下正答，有法、譬、合。法說；雖有孝慈等善，文云皆是邪業。雖有見聞，皆是無記。既無正善，皆名邪惡。取業求業者，對翻於善。善中先生善欲、次生善思，今以取業對善欲、求業對善思，雖皆言善，猶是無記。次舉譬云如訶梨勒味唯是苦，色香非苦。然前難闡提豈得無善？其有憐愛即名為善。故佛答云：悉是邪惡。莊嚴云：無出世善，有憐愛善。光宅云：設有憐愛，並無記性，不名善性，如棋書等是工巧無記。開善云：斷善作惡：設有憐愛並屬惡邪：何得有善。觀師同開善云：重惡居身，如種苦瓠根葉悉苦。合，如文。

> 世尊の教えに基づく第二の論議では、まず問いがあり、次に答えがある。 \*\*問い\*\*：因によって果が生まれるという性質は三世にわたるものではないのに、なぜ「衆生に（その性質が）ある」と言うのか。 \*\*仏の答え\*\*：性質は内外にあるのではなく、虚空のようなものである。しかし、衆生には必ずこの性質があり、経文には「全ての者に備わっている」とある。 「汝が言うように」以下は、次の問いへの答えである。まず問いを引き出し、それを否定する。「何以故」以下が正式な答えであり、法（理論）、譬え、その統合がある。 \*\*法説\*\*：孝行や慈愛などの善行があっても、経文では「これらは全て邪な業である」とある。見聞きするものであっても、全て無記（善悪の判断を超えたもの）である。正しい善がなければ、全て邪悪と名付けられる。 取業と求業とは、善を反対の面から見たものである。善には、まず善への欲求が生じ、次に善への思惟が生じる。ここでは、取業を善への欲求に、求業を善への思惟に対応させる。しかし、全て善と言われていても、それらは無記である。 次に譬えを挙げる：例えば訶梨勒（かりろく）の味は苦いだけであって、色や香りは苦くない。 しかし、先の論難では「一闡提（いっせんだい）にどうして善がないのか」と問うた。彼に憐れみの心があれば、それを善と呼ぶべきである。そこで仏は答えた：「全て邪悪である」と。 \*\*荘厳師\*\*の説：世間を超える善はないが、憐れみの善はある。 \*\*光宅師\*\*の説：たとえ憐れみがあっても、それは無記の性質であり、善とは呼べない。囲碁や書道などが技巧的な無記であるのと同じである。 \*\*開善師\*\*の説：善を断ち切って悪を行う者に、たとえ憐れみがあっても、それは全て悪邪に属し、どこにも善はない。 \*\*観師\*\*は開善師と同様に言う：重い悪が身に宿るのは、苦い瓢箪の種を蒔けば根も葉も全て苦くなるようなものである。 \*\*統合\*\*：経文の通りである。

「善男子如來具足」下，第二明根性不定或惡或善。又二：初正明不定、後更問答論義。初又二：初明不定、次斷善根。初明不定又三：一知不定根、二出不定相、三結不定。初如文。次文者，數習則利，轉下為中上；不習則鈍，轉上為中下。三結，如文云云。「以無定故」下，二明不定故故斷善根。又三：初明不定斷善、次明若定則不爾、三「是故」下證不定。「迦葉白佛」下，第二論義云云。問可見。佛答為二：初就善星答、後就餘人答，非但知善星根性，亦知餘人根性。初又三：初明其居王位即能破滅。「善星若不」下，二明出家不出家俱能斷善。出家增其敬長、讀誦、修定等善，具如上說。「若我不聽」下，三結知根力。次「佛觀眾生」下，約餘人為答，又二：初明不定、次辨升沈。初又二，有斷善、生善。初斷善又三：一正斷善、次「何以故」下出斷善之行、三「以是因緣」下結其斷善。次「如來復知」下，二明生善，有法、譬、合。法可見。譬中，泉譬佛性，村譬陰身，熱渴譬苦逼，欲往譬求樂心，邊智者譬佛菩薩。合譬中二：先合、次結知根力。「爾時世尊取地少土」下，二明升沈不同，沈多升寡。又三：初舉事問；次領旨奉答；三合，又三：初就果合、次就因合、三結知根力。

> 「善男子、如来はこれらを具足している」という部分の下は、第二に、根性が定まらず、悪にも善にもなることを明かす。また二つに分かれる。初めは不定を正しく明かし、後にさらに問答して論議する。初めはまた二つ。初めに不定を明かし、次に善根を断つことを明かす。初めの不定を明かすはさらに三つ。一に不定の根を知り、二に不定の相を出し、三に不定を結ぶ。初めは文の通り。次の文では、繰り返し習えば鋭くなり、下を転じて中・上とする。習わなければ鈍くなり、上を転じて中・下とする。三に結ぶは文の通り（云云）。「定まることがないから」の下は、第二に、不定であるがゆえに善根を断つことを明かす。また三つ。初めに不定ゆえに善を断つことを明かし、次に、もし定まっていればそうではないことを明かし、三に「ゆえに」の下で不定を証明する。「迦葉が仏に申し上げる」の下は、第二の論議（云云）。問いは見ての通り。仏の答えは二つ。初めに善星に即して答え、後に他の人に即して答える。ただ善星の根性を知るだけでなく、他の人の根性をも知る。初めはまた三つ。初めに、彼が王位にあった時にすでに破滅させることを明かす。「善星がもし…でなければ」の下は、第二に、出家しても出家しなくても善を断つことができることを明かす。出家することは、師を敬うこと、読誦、修定などの善を増すことは、すべて上で述べた通りである。「もし私が許さなければ」の下は、第三に、根性を知る力を結ぶ。次に「仏は衆生を見て」の下は、他の人について答える。また二つ。初めに不定を明かし、次に浮沈を明かす。初めはまた二つあり、善を断つことと、善を生じることがある。初めの善を断つはまた三つ。一に正しく善を断ち、次に「なぜならば」の下で善を断つ行いを出し、三に「この因縁によって」の下でその善断ちを結ぶ。次に「如来はまた知る」の下は、第二に善を生じることを明かす。法説、譬え、総合がある。法説は見ての通り。譬えでは、泉は仏性に譬え、村は五陰の身に譬え、熱渴は苦しみに迫られることに譬え、行こうと欲するのは楽を求める心に譬え、賢者（辺智）は仏や菩薩に譬える。総合の譬えでは二つ。先に総合し、次に根性を知る力を結ぶ。「その時、世尊がほんのわずかな土を取り」の下は、第二に浮沈の違いを明かす。沈む者が多く、浮かぶ者が少ない。また三つ。初めに事を示して問い、次に意を受け取って答え、三に総合する。総合はまた三つ。初めに果に即して総合し、次に因に即して総合し、三に根性を知る力を結ぶ。

「迦葉白佛如來具足」下，第三明說教不定。佛照根不同，說教則異。眾生不達根教之殊，執成爭論，能斷善根。為二：先問、次答。初問為三：一明知根、二明執爭、三結問何故作不定說致令起爭。初明知根，亦應知過去，特是略爾。「如是眾生」下，次明執爭，因茲廣出爭論之相，開善云二十爭論，冶城云二十一爭論云云。三「如其如來」下，結難云云。次答中，佛具答三問，此卷內答前兩問、後卷初答第三問。答初為二：初正明說教不定、次廣明不定法。初文為四：一明理深難解、二出愚智兩人、三明須不定說、四結知根力即四悉意。初言理深者，非六凡識所知，唯聖智能解，故是理深。此第一義意。次愚智中又二：先出智、次出愚。初智人聞有知無、聞無知有、聞有無知非有無，一二等亦如是。次愚人聞有執有以拒無、聞無是無而非有、聞亦有無以封雙存、聞俱棄而著兩捨，面聞尚然，末世轉尤，斯由不解對治悉意。三「如來所有」下，須說不定。此總據不定，有法、譬、合。初法者，為度眾生須說不定，本令得益，不令其執不定為爭。次譬中，如醫用藥元為差病，終不願其服藥成病。合譬中，為國土封疆不同，豈可一類。一類則無益國土者，如多寒國用毛褥、著皮鞾。時節者，饑饉時乞，唯得肉食。為他語者，如九住言不見，十住言少見。為人者，隨人根性。此即為人意也。四結知根力，即世界意云云。有一經文無結，應是遺漏。「於一名」下，二廣出不定法，又三：初正明不定法、次引證、三結非二乘所知。初文又二：初名義不定、後廣略不定。初名義中二：初列章門、次解釋。初列中，列三章門，如經。若欲對明，應有六句。對一名說無量名，應云對無量名說一名；對一義說無量名，應云對無量義說一名；對無量義說無量名，應云對無量名說無量義。今文略舉一邊。「云何一名」下，釋出，先釋三章門、後重釋第二門。釋初章，舉涅槃一名具含眾名。大亮云：涅槃八味之都名、眾德之總稱。意在於此。而諸師種種翻涅槃者，亦只因此而生爭論。次釋一義說無量名，舉帝釋釋者，與前何異？「前寄法後寄人」下，重釋中復寄五陰者，此寄果法，亦是一義而復多名，種種分別令易解故。河西翻婆蹉婆為好嚴飾，昔好衣布施，今報得麗服。富闌陀羅翻為調伏諸根，明天帝外以麗服嚴容、內以善法調意。摩佉婆翻為無勝，無過超諸天故。因陀羅翻為光明，光明最勝。千眼者，一時知千義、斷千事。金剛者，身相堅固。三釋無量義說無量名者，就如來萬德具足釋之，即是無量義；一義一名，即是無量名。八智有三解：一云常等無常等八。二云四諦各有法比為八。數人就欲界論法，色無色為比。論家就現在論法，過未為比。三云《優婆塞戒經》有八智，七如〈梵行〉中七善法，足一知根。四「復有一義」下，重釋第二章門。前約帝釋，止就善義有無量名，名不通惡。為顯斯意，重約五陰，此是有漏復名顛倒。陰是苦諦境，為念處所觀。觀色不淨、受苦、想行無我、識無常，復名四念處。但除色陰，餘四陰即是四識住處。陰通內外，故名四食。能通名道。因於實法有假名時，故云時；體即無相，名第一義。三修，即身戒心。煩惱者，正在行陰。解脫者，即有為解脫。亦名十二因緣者，即以五陰為因緣體。亦名三乘者，能成三乘之身。餘皆可解，不復釋云云。

> 「迦葉が白す、如來は具足す」の下は、第三に、説法が一定ではないことを明かす。仏は衆生の根機（能力）に応じて異なる教えを説かれる。衆生が根機と教えの違いを理解せず、それに執着して争いを起こし、善根を断ち切ってしまう。この部分は、まず問い、次に答えがある。初めの問いは三つに分かれる。第一に根機を知ること、第二に執着と争い、第三に、なぜ仏は不定の説法をなして争いを生じさせるのかと問うこと。第一の「根機を知る」は、過去の根機も知るべきだが、特に簡略に示す。 「如是の衆生」の下は、第二に執着と争いを明かす。ここから争いの様相が詳しく述べられる。開善寺の僧侶は二十の争い、冶城寺の僧侶は二十一の争いとする。 第三の「如其如來」の下は、問いを結び、難詰する。 次に答えの中では、仏が三つの問いにそれぞれ答える。この巻では前の二つの問いに答え、後の巻の初めで第三の問いに答える。 最初の問いに答える部分は二つに分かれる。第一に、説法が一定でないことを明らかにし、第二に、不定の法を広く明かす。 初めの文はさらに四つに分かれる。一に、理が深くて理解しがたいこと。二に、愚者と智者の二人を示すこと。三に、不定の説法が必要なこと。四に、根機を知る力があることを結ぶ。これは四悉檀の意味である。 第一の「理が深い」とは、凡夫の六識では知り得ず、聖者の智慧のみが解するものだから、理が深いのである。これは第一義悉檀である。 第二の「愚者と智者」は、まず智者を示し、次に愚者を示す。 智者は、「有」と聞いて「無」を知り、「無」と聞いて「有」を知り、「有無」と聞いて「有無ではないもの」を知る。「一」「二」などの場合も同様である。 愚者は、「有」と聞いて「有」に執着し「無」を拒み、「無」と聞いて「無」のみを正しいとし「有」を否定し、「亦有無」と聞いて両方に執着し、「俱棄」と聞いて「両捨」に執着する。面と向かって聞いてもなおこの通りであり、末法の世ではなおさらである。これは対治悉檀の意味を理解していないからである。 第三の「如來所有」の下は、不定の説法が必要であることを説く。これは全体として不定を述べるもので、法、譬え、総合がある。 初めの法説は、衆生を救うためには不定の説法が必要であり、本来は利益を得させるためで、不定に執着して争いを起こさせるためではない。 次の譬えは、医者が薬を用いるのは本来病気を治すためであり、決して服薬によってかえって病気になることを望まないようなものである。 総合の譬えでは、国々の領土や境域が異なるように、一つの型に当てはめることはできない。一つの型にすれば国々にとって無益である。例えば寒い国では毛の敷物や皮の靴を用いる。時節とは、飢饉の時に乞食すれば、肉食しか得られないようなものである。他者の言葉とは、九住の菩薩は「見えず」と言い、十住の菩薩は「わずかに見える」と言うようなものである。人のためとは、人の根性に従うことである。これは「人」のための悉檀である。 第四の「根機を知る力がある」と結ぶことは、世界悉檀の意味である。 ある経典には結びの文がないが、これは脱落であろう。 「一の名に於いて」の下は、第二に不定の法を広く示す。さらに三つに分かれる。第一に不定の法を正しく示すこと。第二に引用して証拠とすること。第三に二乗の知るところではないと結ぶこと。 初めの文はさらに二つに分かれる。第一に名と義が不定であること。第二に広説と略説が不定であること。 初めの「名と義」は、まず章門（項目）を列挙し、次に解釈する。 初めの列挙では、三つの章門を挙げる。経典の通りである。もし対照して明らかにしようとすれば、六つの句があるべきである。「一つの名について無量の名を説く」に対する「無量の名について一つの名を説く」、「一つの義について無量の名を説く」に対する「無量の義について一つの名を説く」、「無量の義について無量の名を説く」に対する「無量の名について無量の義を説く」である。今の文では、一方のみを挙げている。 「云何が一名」の下は、解釈して示す。まず三つの章門を解釈し、次に第二の章門を重ねて解釈する。 初めの章門の解釈では、涅槃という一つの名が多くの名を含むことを挙げる。大亮は言う。「涅槃は八味（涅槃の八つの徳）の総称であり、諸々の功徳の総体である。」その意味はここにある。諸師が涅槃を様々に翻訳するのも、またこのために争いが生じるのである。 次に「一つの義について無量の名を説く」を解釈し、帝釈天の例を挙げる。これは前と何が異なるのか？「前は法に寄せ、後は人に寄せる」の下は、重ねて解釈する中で再び五蘊に寄せている。これは果報の法に寄せるもので、これも一つの義でありながら多くの名があり、様々に区別して理解しやすくするためである。 河西は婆蹉婆（Vāca）を「好んで身を飾る」と訳す。過去世に衣や布施を好んだため、現在世に美しい衣服を得たのである。富闌陀羅（Purandara）は「諸根を調伏する」と訳す。天帝は外には美しい衣服で身を飾り、内には善法で心を調えることを明かす。摩佉婆（Maghavan）は「勝るものなし」と訳す。全ての天に勝って超えているからである。因陀羅（Indra）は「光明」と訳す。光明が最も勝れているからである。千眼とは、一度に千の義を知り、千の事を断つことである。金剛とは、身形が堅固なことである。 第三に「無量の義について無量の名を説く」を解釈する。如來の万徳具足について解釈する。これが無量の義である。「一つの義に一つの名」が無量の名である。 八智には三つの解釈がある。一つは「常・無常等の八つ」とする。二つは「四諦にそれぞれ法智・比智があるので八つ」とする。数家（説一切有部など）は欲界について法智、色界・無色界について比智とする。論家（経量部など）は現在について法智、過去・未来について比智とする。三つは『優婆塞戒経』に八智があるとし、七つは『梵行品』の七善法と同じで、一つは根機を知る知を加える。 第四に「復た一義有り」の下は、第二の章門を重ねて解釈する。先ほどは帝釈天について、善い義だけに多くの名があり、悪い義には及ばないことを説いた。この意味を示すために、重ねて五蘊について説く。これは有漏（煩悩のあるもの）であり、また「顛倒」と呼ばれる。五蘊は苦諦の境であり、念処の観察対象である。色蘊は不浄と観じ、受蘊は苦と観じ、想蘊・行蘊は無我と観じ、識蘊は無常と観じる。これが四念処である。色蘊を除いた残りの四蘊は、四識住処である。五蘊は内外に通じて四食とも呼ばれる。道に通じることを道と名づける。実法に基づいて仮名が成立する時を「時」といい、その本体は無相であるから「第一義」という。三修とは身・戒・心の修である。煩悩とは、特に行蘊にある。解脱とは、有為の解脱である。十二因縁とも呼ばれるのは、五蘊が因縁の本体だからである。三乗とも呼ばれるのは、三乗の修行者となる身を成就するからである。その他は解けるので、改めて説明しない。

「善男子如來世尊」下，第二明廣略不定，為三：初列四章門、次「云何」下釋出、三結。釋中云世諦為第一義者，阿之言無，若之言智，謂其得無生智，此即約世諦說第一義諦。餘可意推。三「是故隨人」下結，又二：先結不定；次「我若當於」下，結知根力，又二：初明佛知，「有智人」下，明非淺識所知。次「何以故」下，明為人不定。不為五人說五種法者，不用對治，但用為人。只教慳人戒忍禪慧，自能行施；破戒之人令禪慧等，自能持戒。「是故我先」下，第二引證。「廣略說法」下，第三結非二乘所知。

> 「善男子、如来世尊」のくだりに続く第二の説明では、広説と略説が一定しないことについて述べています。三つの部分に分かれています。まず四つの章門を挙げ、次に「云何」以下で説明を施し、三番目に結びます。 説明の中で「世諦を第一義とす」とは、「阿」は「無」を意味し、「若」は「智」を意味します。つまり、無生の智を得たことを指し、これは世諦の立場から第一義諦を説いたものです。残りは推して知るべきでしょう。 三番目の「是故随人」以下の結びは、さらに二つに分かれます。まず、説法が一定しないことをまとめ、次に「我若当於」以下で、衆生の根機を見抜く力を明らかにします。この部分もさらに二つに分かれます。初めに仏の智慧を明かし、「有智人」以下では、浅い知識では理解できないことを示します。 次に「何以故」以下で、相手に応じて説法が一定しない理由を明かします。五種の人に五種の法を説かないとは、対治法を用いず、ただ相手に合わせた教えを用いるということです。例えば、物惜しみする人には戒、忍辱、禅定、智慧のみを教えれば、自然に施しを行うようになります。戒を破る人には禅定や智慧などを教えれば、自然に戒を守れるようになるのです。 「是故我先」以下は、第二の部分で、引用によってこのことを証明しています。「広略説法」以下は、第三の部分で、この教えは二乗（声聞・縁覚）の知るところではないと結んでいます。

「善男子如汝所言」下，第二答第二執爭之問。又二：先略答、次廣答。初略中言第五解力，亦云欲力，是知眾生欲解之法。文又云是二力者，由第四力名根力、第五名解力，以成二力。「善男子若言如來」下，第二廣答中明佛赴緣異說，眾生不解致成爭論。凡二十一條。一是涅槃不涅槃，須解異部。菩薩婆多據事明畢竟涅槃，曇無德及僧祇據理云不畢竟涅槃。古來評云：婆多非而短，無德是而長，皆失佛意。文云「若言如來畢竟涅槃不畢竟涅槃，同是爭論，不得我意。」云何評之妄判長短？河西云：畢竟是斷，不畢竟是常。言斷常者，豈是斷常？乃是非斷非常、能斷能常。言斷不違常，言常不違斷，斷常不相異，斷常俱圓滿。觀師云：佛赴機說，何得是非，則失佛意。如醫治病授藥不同，弟子不解妄執失旨。此初爭論，又二：初章門、次解釋。釋中又二：初釋執定涅槃、次釋執不定涅槃。前文又二：先釋、次結。初文者，佛為五事說涅槃：一為諸仙、二為力士、三為純陀、四為須跋、五為世王。先為諸仙者，然仙生香山而言展轉者，從於諸天轉至山上仙人住處，皆得羅漢，有權有實，破其保常故說無常。「拘尸那」下，第二為力士。「有一工巧」下，第三為純陀。「王舍城」下，第四為須跋。「羅閱祇」下，第五為世王。失通墮而不死者，以餘勢故。頻婆娑羅王，亦云瓶沙，國曰摩伽陀，亦云摩竭提。羅閱祇，此翻王舍城。後總結，可解。「菩薩二種」下，第二釋執定不涅槃，又二：先釋、次結。初文者，為假名菩薩言不涅槃；真實菩薩即不言涅槃及非涅槃，此菩薩能知如來非常非無常，豈偏作常無常解。「善男子有諸眾生」下，第二爭論明有我無我者，須善異部意。數人宗薩婆，多純明無我，破諸外道謂之邪我。無假名我，一向明無。雖明無我，終了無我無常而得入道，不同外道。論人同曇無德，明有假我，破諸外道即陰離陰，有相續假我、因成假我；復言實法念念遷滅，無復假名相續假我、因成假我。復言實法念念滅故無我，假名相續不斷故有我。又云真諦無我，世諦有我。此即一向明有我義。而此二家不得佛意，故成爭論。招提解云：此之二文明我無我者，以破兩病；言有我者，破邪見無我不言假我，言無我者破即離我。常見之人直說無我，亦不言假。真諦難云：若我無我破我無我者，有此理不？理中若不得有我無我者，亦應不得用我無我破病。更並生死之中既用我無我破病，涅槃中亦應用常無常破病。若涅槃唯有常不得有無常者，生死中唯得是無我，不得有我。若《中論》云「諸佛或說我，或說於無我。諸法實相中，無我無非我。」應將此意例諸爭論。就文為二：先明有我、次明無我。初又二：前明相續假我以破邪見無我。次「又我一時」下，明因成我，又二：初正明因成、次明因成所成。初文者，文云我者即性。舊有二解：一云是佛性之性，引前文云「二十五有有我不耶」云云；二還以假名性為我性。性即是體，體即因成，三假之中唯因成是體、續待是用，內謂四陰、外謂四大。十二緣者色心之總名，眾生者假名性也，此等成身，即因成假。若為其作佛性義者，眾生具為五陰所成，佛性正約眾生身內五陰實法性也。心界者，五陰中心王也。「功德業行」下，次明因成所成。業行即因，自在天即果，修因得果。言自在者，不止但標欲自在天，總語諸天升舉自在。世者，餘四趣也。「復於異時」下，第二明無我，又二：先佛說、後起執。初為三：一假問、二假答、三觀無我得益。問為三：一問名云何名我、二問體誰是我、三問何緣故我。「我時即為」下，二假答。答為三：初總大意答、次別答、三結無益。大意為二：先舉章門、次釋出。「如汝所問」下，二別答三問。大意已足，何須別答？然總論無我，次答別假名、假體、假因緣。初答假名中而言期者，河西云：如人期契，應期而來即是合義，不應期者是不合義。五陰和合即成假名，故是期義。次舉業以答體問。次舉愛以答緣問。業正能成果，故是體義。愛是煩惱潤生，於業復是緣義。「譬如二手」下，三結無，又四：一明假名故有即先譬，次合二手能出聲，其聲譬體，相拍譬愛。「比丘一切」下，第二明即離皆無。「諸外道」下，第三簡也。文云終不離陰者，外道起於即離之計；此中云離陰無是處者，云何解此？為兩：一云元本皆計即陰是我，無計離陰於草木計我；佛破即陰無我，即更計離陰有我。今此中存破，故云若離陰有我無有是處。二云佛法小乘亦有計即陰我義，所以破之，亦不得計離陰有我。「一切眾生」下，第四結無我。「爾時多有」下，第三觀無我得益。當時說此，會機得益，後執成爭云云。

> 「善男子、汝の如く言う」より下は、第二に、第二の執着と争論の問いに答える。また二つあり、先ず略して答え、次に広く答える。初めの略答において「第五の解力」と言い、「欲力」とも言う。これは衆生の欲と解の法を知ることである。文にまた「この二つの力は、第四の力を根力と名づけ、第五を解力と名づける」とあり、これによって二つの力が成る。 「善男子、若し如来……」より下は、第二の広答であり、仏が機縁に従って異なる説を説かれるが、衆生が解せず、争論を引き起こすことを明かす。凡そ二十一箇条。 第一は涅槃か非涅槃か。異なる部派の解釈を理解すべきである。サルヴァーシュティヴァーディンは事実に基づき、畢竟涅槃を説く。ダルマグプタカとマハーサーンギカは理に基づき、畢竟涅槃に非ずと説く。古来より評して言う、サルヴァーシュティヴァーディンは誤りであり短く、ダルマグプタカは正しく長いと。しかしどちらも仏意を失っている。文に「もし如来は畢竟涅槃である、不涅槃であると言うならば、共に争論であり、我が意を得ない」とある。どうして評して妄りに長短を判じるのか。河西は言う、畢竟は断、不畢竟は常であると。しかし断常と言う。これは断常であろうか。実は非断非常、能断能常である。断と言っても常に違わず、常と言っても断に違わず、断常は相異ならず、断常共に円満であると。 観師は言う、仏は機に赴いて説くのであり、どうして是非を論じ得ようか。それでは仏意を失う。例えば医者が病を治すのに与える薬が異なるようなものである。弟子が解せず妄りに執着すれば、その意を失う。 この第一の争論にもまた二つあり、先ず章門、次に解釈。解釈の中にもまた二つあり、先ず定涅槃への執着を解き、次に不定涅槃への執着を解く。 前の文にもまた二つあり、先ず解き、次に結ぶ。 初めの文は、仏が五つの事柄のために涅槃を説く。一には諸仙のため、二には力士のため、三には純陀のため、四には須跋のため、五には世王のため。 先ず諸仙のため。仙は香山に生まれたが、「展転」と言うのは、諸天より転じて山上の仙人の住処に至ることをいう。皆阿羅漢を得た。権有り実有り。その常を保つ執着を破るが故に無常を説く。 「拘尸那」より下、第二に力士のため。 「一に工巧あり」より下、第三に純陀のため。 「王舎城」より下、第四に須跋のため。 「羅閲祇」より下、第五に世王のため。通を失って堕ちても死なないのは、余勢の故である。頻婆娑羅王は瓶沙とも言う。国は摩伽陀、また摩竭提とも言う。羅閲祇は、此れを翻訳して王舎城という。後に総括して結ぶ。解すべし。 「菩薩の二種」より下、第二に定涅槃に非ずと執することを釈す。また二つあり、先ず解き、次に結ぶ。 初めの文は、仮名の菩薩のためには涅槃に非ずと説き、真実の菩薩には涅槃及び非涅槃を説かない。この菩薩は如来の非常・非無常を知る。どうして偏に常・無常と解するだろうか。 「善男子、諸の衆生有り」より下、第二の争論は、有我・無我を明かす。部派の異なる意を善く理解すべきである。 数家はサルヴァーシュティヴァーディンを宗とし、多くは純粋に無我を明かし、諸の外道が邪我を説くのを破る。仮名の我は無く、一向に無を明かす。無我を明かすとはいえ、結局無我・無常によって道に入るのであり、外道と同じではない。 論家はダルマグプタカと同じであり、仮の我有りと明かす。諸の外道が即陰・離陰を説くのを破り、相続の仮我・因成の仮我が有るとする。また実法は念念に遷滅すると言い、仮名の相続の仮我・因成の仮我は無くなるとする。また実法は念念に滅するが故に無我、仮名は相続して断たざるが故に有我であると言う。また真諦には無我、世諦には有我と言う。これは即ち一向に我有りの義を明かす。 しかしこの二家は仏意を得ず、故に争論となる。招提が解いて言う、この二つの文は我・無我を明かすのは、二つの病を破るためだ。我が有ると言うのは、邪見の無我を破るのであり、仮の我を言うのではない。無我と言うのは、即離の我を破るのである。常見の人に直接無我を説くのであり、また仮の我を言うのではない。 真諦が難じて言う、もし我・無我が我・無我を破るならば、この理はあるか。理の中に我・無我を得ることができなければ、また我・無我を用いて病を破ることもできないはずだ。更に生死の中では我・無我を用いて病を破るので、涅槃の中でも常・無常用いて病を破るべきである。もし涅槃にただ常有りて無常を得なければ、生死の中ではただ無我のみを得て、我を得ることはできない。もし『中論』に「諸仏は或いは我を説き、或いは無我を説く。諸法の実相の中には、我もなく、我にあらざるもなし」とある。この意を諸の争論に例えるべきである。 文を就いては二つあり、先に有我を明かし、次に無我を明かす。 初めもまた二つあり、先に相続の仮我を明かして邪見の無我を破る。 次に「又我一時」より下、因成の我を明かす。また二つあり、初めに正しく因成を明かし、次に因成の所成を明かす。 初めの文は、文に「我とは即ち性」とある。旧に二解あり。一には佛性の性であると言う。前の文に「二十五有に我有りや無しや」とあるのを引く<注>云云</注>。二には還って仮名の性を以て我の性とする。性は即ち体、体は即ち因成、三仮の中では唯因成のみが体であり、続・待は用である。内は四陰、外は四大を謂う。十二縁は色心の総名、衆生は仮名の性である。これらが身を成す、即ち因成の仮である。もしそのために佛性の義を作るならば、衆生は具に五陰によって成る。佛性は正に衆生の身内の五陰実法の性に約する。心界とは、五陰の中の心王である。 「功徳業行」より下、次に因成の所成を明かす。業行は即ち因、自在天は即ち果、因を修して果を得る。自在と言うのは、ただ欲界の自在天のみを指すのではなく、総じて諸天の昇りて自在なるを言う。世とは、余の四趣である。 「復た異時に於いて」より下、第二に無我を明かす。また二つあり、先に仏の説法、後に執着の生起。 初めは三つあり、一に仮の問、二に仮の答、三に無我を観じて利益を得る。 問は三つあり、一に名を問う、何を以て我と名づけるのか。二に体を問う、誰が我なるのか。三に何の因縁によって我なるのかを問う。 「我即ち為に」より下、二に仮の答。答は三つあり、初めに総じて大意を答える。次に別に答える。三に結んで無益とする。 大意は二つあり、先ず章門を挙げ、次に釈し出す。 「汝の問うが如く」より下、二に別答、三つの問いに答える。大意は已に足る。どうして別に答える必要があるのか。総論として無我を論じ、次に別に仮名・仮体・仮因縁を答える。 初めに仮名を答える中で「期」と言うのは、河西の言う如く、人が契約を期す如く、期に応じて来るのは即ち合う義、期に応じないのは合わない義である。五陰の和合は即ち仮名を成す、故にこれは期の義である。 次に業を挙げて体の問いに答える。次に愛を挙げて縁の問いに答える。業は正しく果を能く成す、故に体の義である。愛は煩悩であり、生を潤す。業に対してはまた縁の義である。 「譬えば二手の」より下、三に結んで無とする。また四つあり、一に仮名の故に有ることを明かす。即ち先に譬え、次に合わせる。二手は能く声を出す。その声は体に譬える。相拍は愛に譬える。 「比丘、一切」より下、第二に即・離皆無を明かす。 「諸外道」より下、第三に簡別する。文に「終に陰を離れず」と言うのは、外道が即・離の計を起こすことである。此の中に「陰を離れて有ることは是ならず」と言う。これを如何に解すべきか。二つの解釈がある。一には、本来皆、即陰が我なりと計り、陰を離れて我を計る者は無く、草木の中に我を計る者がいる。仏が即陰・無我を破るので、即ち更に離陰に有我と計る。今ここでは破を保存して説くので、「もし陰を離れて我有りとすることは、是なる処無し」と言う。二には、仏法の小乗にも亦、即陰が我なりと計る義があるから、これを破るのであり、また離陰に有我と計ることも得ない。 「一切衆生」より下、第四に無我を結ぶ。 「爾の時に多く」より下、第三に無我を観じて利益を得る。当時これを説き、機に会して利益を得させた。後に執着して争論を成す<注>云云</注>。

「善男子我於經中」下，第三有中陰無中陰爭論。《婆沙》云「育多提色婆說地受生定有中陰，毘婆闍婆云定無中陰，薩婆多亦言定有，論家亦云有。舉業利鈍如𥎞矛離手，惡業強者直入地獄，善業強者徑生人天，並無中陰。」文中前說定有，有三復次；後說定無，有四復次。若說有中陰，即有六有。又六有者，只是六道。佛為帝釋別開修羅，修羅只是鬼道，則但五而不六。

> 「善男子、私（わたし）が経典の中で」以下の部分は、第三の「中有（中有身）があるか、ないか」という論争についてです。 『毘婆沙論』には、「育多提色婆（うたていしきば）の説では、地獄などに生まれる時、必ず中有があるとし、毘婆闍婆（びばじゃば）は必ず中没有と説く。また薩婆多（さばた）も定めて有りとし、論家も有りと言う。例えば、鋭い矢を手から放つように、悪業の強い者は直接地獄に堕ち、善業の強い者はそのまま人間や天界に生まれる。この場合は、中陰はない」と述べられています。 この文中では、始めに中有が有ると説く部分が三つの段階（復次）あり、後に中没有と説く部分が四つの段階あります。 もし中有があるとするならば、「六有（ろくう）」となる。そして、この六有とは、単に六道（六つの世界）のことです。しかし、仏が帝釈天（たいしゃくてん）のために別に修羅道（しゅらどう）を説かれたが、修羅道は実は鬼道（きどう）に含まれるため、本来は五道であって六道ではないのです。

「善男子復說有退」下，第四爭論。數人明無漏有退，如初果見諦一向無退，入思惟中二果用等智斷惑即有退義，羅漢無漏理應不退。前兩果退，牽羅漢退，舉沙井喻。上下有甎，中間有沙，中沙既頹，上去到下。論家云：無漏不退，但禪定退。修得欲界電光之定，此定難捉，有時退失，名之為退。無漏無退文中，先明退、次執無退。初退又三：法、譬、合。法又三：先通明比丘退、二別明羅漢、三通舉六人。初通明中二：先通明、次明退緣有五因緣。次「復有二種」下，是別明羅漢，又二：初直云羅漢有退、次別舉瞿坻即是死想羅漢。「我復或說」下，三通舉六人：一退、二不退、三慧、四俱、五時、六不時。時鈍好退，不時利不退。次「善男子」下，舉譬。三「煩惱亦爾」下，是合譬。因緣者，即外惡緣。「而羅漢」下，二正明不退。內無惡因、外不能亂，所以無退。

> 「善男子、復說有退」の次に、第四の「争論」がある。数人は「無漏には退失がある」と説く。例えば、初果は真理を見れば必ず退くことはないが、思惟の段階に入ると、二果は等智を用いて煩悩を断つため、退失する可能性がある。羅漢は無漏であるから、本来なら退くべきではない。しかし、前の二果が退くことから、羅漢も退くと引き合いに出し、砂井の譬えを挙げる。上下には煉瓦があり、中間に砂がある。中の砂が崩れれば、上から下へと落ちていく。論書では、「無漏は退かないが、禅定は退くことがある」と説く。修行によって得た欲界の電光の定は捉え難く、時に失われることがある。これを「退」と名づける。無漏には退がないという文では、まず「退」を明かし、次に「退なし」を主張する。 初めの「退」の部分はさらに三つに分かれる。法・譬え・総合である。法はさらに三つに分かれる。まず比丘の退を広く明かし、次に羅漢を特に明かし、三に六人を総合して挙げる。初めの広く明かす部分は二つに分かれる。まず広く退を明かし、次に退の因縁として五つの因縁があることを明かす。 次に「復有二種」以下は、羅漢を特に明かす部分である。これも二つに分かれる。まず直接「羅漢には退がある」と言い、次に瞿坻を特に挙げる。これは死想羅漢である。「我復或説」以下は、三つ目として六人を総合して挙げる。一に退く者、二に退かない者、三に慧、四に倶、五に時、六に不時である。時は鈍で退きやすく、不時は利で退かない。 次に「善男子」以下は、譬えを挙げる。三つ目の「煩惱亦爾」以下は、譬えを総合したものである。因縁とは、外側の悪い縁のことである。「而羅漢」以下は、二つ目の「退がない」ことを正しく明かす。内側に悪い因がなく、外側からも乱されないので、退くことがないのである。

「善男子我經中」下，第五爭論，明佛身有為無為。薩婆多說有為；僧祇說無為；《成論》兩說，絕言故無為、寄言故有為，應身有為、真身無為。文中先明有為、次明無為。

> 「善男子、我が経の中において」より下は、第五の争論である。仏の身が有為か無為かを明らかにする。サルヴァスティヴァーダン（説一切有部）は有為と説き、マハーサーンギカン（大衆部）は無為と説く。『成実論』では二様に説く。言葉を絶するから無為であり、言葉に仮託するから有為である。応身は有為、真身は無為である。文中では、初めに有為を明らかにし、次に無為を明らかにする。

「善男子我經中說十二因緣」下，第六爭論，先明執、次解釋。初文者，薩婆多執因緣是有為，僧祇說是無為。言有為者，謂三世因果輪轉無窮，寧非有為？言無為者，十二因緣理是無為，雖因果無常而其理無為。初執文中二：先執有為、次執無為。次解釋中，先唱章門、次釋。初句云不從緣生謂未來十二支者，然未來但有生死兩支，云何言十二耶？即事未有，輪轉必然。雖不從緣，十二義足，豈非無為？用此一句證是無為，餘三句便來。釋第二句云從緣生非十二者，即是羅漢已壞三因復無生死，即是已破十二緣竟，而此身五陰從十二緣得云云。釋後兩句可見云云。

> 「善男子よ、私（如来）が経典の中で説く十二因縁」という箇所に続く、第六の論争です。まず執着を明らかにし、次に解釈します。 最初の文では、サルヴァスティヴァーダ派（説一切有部）は因縁を有為と執着し、マハーサーンギカ派（大衆部）は無為であると説きます。 有為とは、「三世にわたる因果が輪転して尽きることがない」ということであり、無為とはどうして有為でありえましょうか？ 無為とは、「十二因縁の理そのものが無為である」ということです。因果は無常であっても、その理は無為なのです。 最初の執着の文には二つあります。まず有為への執着、次に無為への執着です。 続く解釈の文では、まず章門を掲げ、次に解釈をします。 初めの句「縁から生じないもの、これを未来の十二支という」について。 未来にはそもそも生と死の二支しか存在しません。「ではなぜ十二と言うのか？」という疑問が湧きます。 事柄としては未だ存在しませんが、輪転することは必然です。縁から生じたものではないとしても、十二の意味は十分に備わっており、これはどうして無為ではないでしょうか？ この一句を用いて、これが無為であることの証拠とします。残りの三句は自然と導かれます。 第二の句「縁から生じるものが十二ではない」についての解釈。 これは、阿羅漢がすでに三つの因を壊し、もはや生死が無くなった状態を指します。すでに十二因縁を完全に壊したということです。しかし、この身の五蘊は以前、十二因縁から得られたものです。<note>云云</note> 残りの二句についての解釈は、文の通りです。<note>云云</note>

「我經中說一切眾生」下，第七爭論心常無常。薩婆多云：心無相續即是無常。僧祇云：心有相續即是常義。《成論》用薩婆提義，心有相續即是常也。文為二：先執心常、次執無常。初執常云：四大散壞是身破滅，作善業者心即上行即生好處，還將此心至於好處，豈非常義？作惡亦爾。

> 我（仏）が経典で「すべての衆生は…」と説いた下りについて、第七の論点は「心は常なりや、無常なりや」というものだ。サヴァースティヴァーダ派は「心には相続（連続性）がなく、それゆえ無常である」と説く。マハーサーンギカ派は「心には相続があり、それゆえ常なりという意味である」と説く。『成実論』はサヴァースティヴァーダ派の説を採用しつつも、「心には相続があり、それが常なりという意味である」とする。経文は二つに分かれる。まず心が常であると執する見解、次に無常であると執する見解である。初めに常であると執する見解とは、「四大（地・水・火・風）が散り壊れることは、身体が壊れ滅びることである。善い行いをした者は、心はすぐに上昇して良い場所に生まれる。この心をそのまま良い場所に連れて行くのであり、これこそ常なりという意味ではないか。悪い行いをした場合も同じである」というものである。

「我經中說」下，第八爭論五欲障道不障道。薩婆多云障道，僧祇云不障，《成論》有障不障皆有其義。

> 「我が経に説く」の下、第八は「五欲が道を障るか障らないか」という論争について。サバータ（説一切有部）は「障る」と説き、僧祇（大衆部）は「障らない」と説く。さらに『成実論』では「障るとも障らないとも、いずれにもその道理がある」としている。

「我經中說遠離」下。第九爭論，世第一在欲界通三界。若薩婆多云：色界四根本禪能發世第一法。曇無德人云：色欲兩界通發五方便，無有論明無色界發五方便者。唯犢子部云三界併發，在凡夫時已作等智斷惑至無色界，而後時更修無漏斷惑至無色界，仍前所斷，即發方便，故云三界併發。文中為三，即各執一界。

> 経典の中で「遠離」と言われる箇所を説明します。 第九の争論。世第一法は欲界に位置し、三界に通じます。 サルヴァースティヴァーディン（説一切有部）はこう説きます。「色界の四根本禅定が世第一法を発動させる」 ダルマグプタカ（曇無徳部）はこう説きます。「色界と欲界の両方が五方便を発動させる。しかし、無色界で五方便を発動させるという明確な論は存在しない」 ただ、ヴァーツィープートリーヤ（犢子部）だけはこう説きます。「三界すべてが世第一法を発動させる。凡夫の時にはすでに等智を用いて煩悩を断じ、無色界にまで至っている。そして後になってさらに無漏を修めて煩悩を断じ無色界に至っても、以前に断じた煩悩を引き継いでいるので、そのまま方便を発動させる。よって三界すべてにおいて発動すると言うのである」 文中では三つの立場に分かれており、それぞれが一つの界を主張しているのです。

「我經中說四種施」下，第十爭論施通三業不通三業。《成論》云：唯在意地，以捨財相應，思為正體，亦以身口暢之。毘曇用薩婆多云：施定三業，但意地善，故身口亦善。文為二：先執在意、次通五陰。明四句施主信因果等並是意地，後明色力等是身、辨是口、命是意。

> 「私が経典の中で四種の施しについて説く」以下の部分、第十の「争論施」は、三業に通じるのか、通じないのかという問題について。 『成実論』では、「ただ意業（心の働き）だけに属する。財物を施す心（捨てる心）が本体であり、それに伴う思考（思）が本質である。身体や言葉は、それを表現するための手段に過ぎない」と説く。 一方、毘曇（阿毘曇）は『薩婆多（説一切有部）』の見解を採用して、「施しは必ず三業（身・口・意）にわたる。意業が善である以上、身業や口業もまた善となる」とする。 本文は二つの部分に分けられる。最初に「施しは意業にある」という立場を示し、次に五陰にわたることを明かす。 四種の施しの施主が因果などを信じるというのは、全て意業に属する。 その後、「色（容姿・力）」は身業、「弁（言葉の巧みさ）」は口業、「命（寿命）」は意業に属すると明かしている。

「我於一時」下，第十一爭論有三無為無三無為。然諸部中不見計無三無為者，何有此文？此亦有意，若成論人云：三無為既同是無為，寧有異體？此即是計無三無為。數人計三無為別有異體，既言三種，豈無異體？此即計有三無為義。

> 「私がかつて聞いたところ」という教えの下、第十一番目の説では、「三無為あり」と「三無為なし」の二つの意見が対立している。しかし多くの部派の中で「三無為はない」と主張する者を見かけないのに、なぜこのような文があるのか。これには意味がある。もし「成実論」の立場を取る人が言うには、「三無為は共に無為であるなら、どうして異なる本体があると言えようか」——これは「三無為なし」と主張する考え方である。一方、「倶舎論」などの教えを重んじる人は、「三無為にはそれぞれ異なる本体がある」と計り、「三種類と言うからには、どうして異なる本体がないのか」と主張する。これが「三無為あり」という考え方である。

「我又一時為跋波」下，第十二爭論有造色無造色。毘曇定有，因四大故有形顯等色。《成論》則無。文即為二：初明有者又為二：初明能造之四大；「譬如因鏡」下，第二出青黃等是所造色，輕重澁滑是所造之觸。次明無造，文極略不廣者，以就事為言，多因四大則有造義，故不廣明無。

> 「また、私は一時、跋波のもとにいた」という下りは、第十二の論争である「有造色（あるいは無造色）」についてです。毘曇（仏教の一派）では、四大元素に基づいて有形・顕色などの色が存在すると定めています。一方『成実論』では、そのような色は存在しないと説きます。経文は二つに分かれています。まず「有る」と説く部分をさらに二つに分けます。第一に、「能造の四大」（物質を生み出す四大元素）を明らかにします。「譬如因鏡」（例えば鏡によって）という下りでは、第二に、青や黄などの「所造色」（四大から生じる色）を示し、軽・重・滑・澁（さらさら・どろり）などは「所造の触」（四大から生じる触覚）であるとしています。次に「無造」（造されるものがない）と説く部分は、極めて簡略で詳しく述べられていません。実際の事物としては、多くの場合、四大元素に起因して「造られる」という意味が生じるため、わざわざ「無造」を広く説かないのです。

「往昔一時」下，第十三爭論有無作色無無作色。薩婆多定云無作有色，《成論》、曇無德定云無作非色，僧祇總云無作不可言有色無色。文中先執有色。非異色因果者，異色是心。言無作不為心作因，又不作心果，故知是色。河西云：不生餘色。文亦二：先明有、次明無。

> 「昔、ある時」の下、第十三の「争論」において、「有作色（うさしき）」と「無作色（むさしき）」の有無について議論されています。サバッタ派（説一切有部）は「無作には色（物質性）がある」と定め、『成実論』やタンマデーヴァ派（法蔵部）は「無作は色ではない」と定め、マハーサンギカ派（大衆部）は「無作は色とも無色とも言えない」と総括しています。文中ではまず「有」を主張しています。「異色の因果に非ず」とは、「異色」とは心のことです。つまり、無作は心の原因を作らず、心の結果も作らないため、それは色であると知られます。河西（河西師）は「他の色を生じない」と述べています。文はまた二つに分かれます。まず「有」を明かし、次に「無」を明かしています。

「我於經中」下，第十四爭論明有心數無心數。薩婆多別有異體心數一時俱起；僧祇說無心數；佛陀提婆無異體，起亦相次，前起為心、後起為數，《成論》同之。就文為二：前明無心數、次明有心數。就明無中二：先舉聖人十二因緣。次正明凡夫十二因緣，於中又二：先明後即前、次明前生後。既其相即，即是一也，故無心數。初文可細尋之。從「受因緣」下，二明前生後，須細尋。釋此中言受，或謂以未來生支為受，非今世支。「我於經中作如是說」下，二執有心數。亦具約五陰十二緣明其相可見，雖復相生而不相即，故是別有心數不同。

> 経典の中でこのように説く」以下の部分、第十四の「争論」では、心の働き（心数）があるという見解とないという見解を明らかにしています。サバスタダ（説一切有部）は、心とは別に異なる実体としての心数が同時に生じると説きます。マハーサンギカ（大衆部）は心数はないと説きます。ブッダデーヴァ（仏陀提婆）は、異なる実体はなく、生じる順序も連続的であり、先に生じるものを心、後に生じるものを心数とすると説きます。『成実論』もこれと同じです。 文章を分けて説明すると、前半では心数がないという見解を、次に心数があるという見解を述べます。心数がないことを明かす部分はさらに二つに分かれます。まず聖者の十二因縁を挙げ、次に凡夫の十二因縁を正しく明かします。その中でさらに二つに分かれ、まず「後が即ち前である」ことを明かし、次に「前が後を生む」ことを明かします。互いに一体である（相即する）ということは、すなわち同一であり、ゆえに心数はないとされます。最初の文はよくよく味わう必要があります。 「受の因縁によって」以下、第二に「前が後を生む」ことを明かしており、これも細かく検討する必要があります。ここで説く「受」について、未来の生の支分（未来世の生存）を「受」と解釈する人もいますが、それは現在世の支分ではありません。 「私は経典の中でこのように説く」以下、第二に心数があるという見解を主張します。これも五蘊と十二因縁に即してその意味が見て取れます。互いに生じ合う関係にあっても、互いに相即する（一体となる）わけではないので、したがって心とは別に独立した心数が存在するという点が異なります。

「我或時說」下，第十五爭論明五有六有。餘部多說五道，唯犢子部說有六道，《釋論》亦言有六。然修羅一道，《婆娑》二釋：一云天攝、二云鬼攝。言一有者，通是一有為。私謂：通是二十五有中一有。所言通者，如下三趣亦只通為一有，不同人天各離為多有，即人四、天十七。二即因果善惡。三即三界。四即四生。五即五道。六即六道。七即七識處，河西云：色無色足五道為七。八即八福，河西云：色無色足六道為八福。此不應然，三塗云何是福？九即九眾生，居二十五有等。河西云：九即八禪及欲界。

> 「我或時に説く」の下、第十五の争論において五有と六有を明かす。他の部派は多く五道を説くが、犊子部だけが六道を説き、『釈論』にもまた六道あるとある。しかし修羅の一道については、『婆娑』に二つの解釈がある。一つは天に摂するといい、もう一つは鬼に摂するという。一有とは、全てを一つの有として通すことである。私見では、これは二十五有の中の一つとして通す有である。言うところの通とは、以下の三趣もただ通じて一つの有とするのであって、人や天がそれぞれ別々に多くの有とされるのとは異なる。すなわち人は四有、天は十七有となる。二とは因果の善悪である。三とは三界である。四とは四生である。五とは五道である。六とは六道である。七とは七識処であり、河西の説では、色界・無色界に五道を加えたものを七とする。八とは八福であり、河西の説では、色界・無色界に六道を加えたものを八福とする。しかしこれは正しくない。三塗がどうして福であり得ようか。九とは九衆生居であり、二十五有などである。河西の説では、九とは八つの禅定と欲界である。

「我往一時」下，第十六爭論五戒八戒具受不具受。薩婆多具受乃得，《成論》不具亦得。如《優婆塞戒經》云「直受三歸未受一戒，即名無分優婆塞。如是二分、多分、滿分。」又人師解云：併受五，但持一二名一二分云云。文為二：先明五戒不具、次明八戒具，但是互出。

> 「我往一時」の下、第十六は五戒と八戒を全て受けるのか、一部だけでも良いのかという議論です。 サバ有部（説一切有部）では、全ての戒を受けて初めて得られるとし、『成実論』では不完全でも良いとします。 『優婆塞戒経』には「三帰だけを受けて一戒も受けていない者を無分優婆塞という。このように二分、多分、満分がある」とあります。 また、ある師の解釈では「五戒をまとめて受けたが、そのうち一つか二つだけを守る者を、一、二分という」とあります<note>云云</note>。 本文は二つの部分から成り、まず五戒が不完全である場合を説き、次に八戒が完全である場合を説いていますが、これは単に書き分けによるものです。

「我於經中」下，第十七明犯重失不失。《四卷毘曇》有犯重捨即是失。故《毘曇》云「調御戒律儀有五時捨：一邪見增、二法滅盡、三命根斷、四犯重禁、五罷道時。」若《雜心毘曇》更增損之，但是薉戒，除法滅盡及犯重禁，並言不捨。二根生時不入僧數，又非尼攝。餘部多言不失。文為二：初執定失、次執不失。到道即真無漏，示道即相似無漏，受道即持戒，污道即犯戒。

> 「我が経の中に」以下の部分は、第十七段で戒の重罪を犯した場合に戒体が失われるかどうかを明らかにしている。『四巻毘曇』では、重罪を犯して戒を捨てることは、すなわち戒体を失うことであると説く。故に『毘曇』にはこうある。「調御の戒律儀には五つの時に捨てられる。一に邪見が増す時、二に法が滅び尽きる時、三に命根が断たれる時、四に重禁を犯す時、五に罷道（還俗）する時である。」一方、『雑心毘曇』ではこれを修正し、戒は汚れるものであっても、法の滅尽と重禁の場合は除き、いずれも戒体は失われないと言う。また、男女二根が生じた時は僧の数に入れず、比丘尼の仲間にも含めないと説く。その他の部派では、多くは戒体は失われないとする。文は二つに分かれる。初めに必ず失われると執する見解、次に失われないと執する見解である。 「到道」とは真の無漏（真実の悟り）を指し、「示道」とは無漏に似た境地を指し、「受道」とは戒律を保つことであり、「汚道」とは戒律を汚すことである。

「我於經」下，第十八明一乘三乘。諸部之中無此計。何者？一三皆是大乘所說，非其境界，所以無此。文云一乘一道一因等，並云不解我意者。《法華》明解一乘一道，即知三乘同還一理，即是此乘，何得言非？解云：前文亦云能得常住二子不墮惡道，此那更云執常不解佛意？何異執一乘一道不解佛意耶？又若言三乘同歸一乘得成佛者，《大論》何故問云：聲聞人成佛不成佛？論主答云：此事非論義者所知。若爾，豈可得言同歸一理為定是耶？文中二：初明皆得佛道，即是一乘；後明不得，即是三乘。言羅漢二種現在未來者，現在正斷，未來不生。「我經中」下，第十九明佛性離眾生即眾生。諸部亦無，並是近代所計即離。當果與真神即是離眾生有，心及眾生即眾生有，並不得佛意。文中二：先舉六事及三文明離、後說眾生即是佛性。

> 「我が経において」以下の第十八段は、一乗と三乗について明らかにしている。諸部の中にはこのような計らいはない。なぜか？一乗も三乗もいずれも大乗の説くところであり、凡夫の境界ではないからである。それゆえに、このような議論は存在しない。経文に「一乗・一道・一因等」とあり、さらに「我が意を解せず」とある。『法華経』では一乗・一道を明らかに解いており、三乗が同じ一理に帰することを知れば、すなわちこれが一乗である。どうして「非である」と言えようか？ 解説：前文にも「能く常住を得て、二子は悪道に堕ちず」とある。それなのに、さらに「常を執して仏意を解せず」と言うのは、なぜか？「一乗・一道を執して仏意を解せず」と言うのと何の違いがあろうか？また、もし「三乗が同じく一乗に帰して成仏する」と言うならば、『大論』においてなぜ「声聞は成仏するのか、しないのか」と問い、論主が「この事は論義の者の知るところにあらず」と答えたのか？もしそうであれば、どうして「同じ一理に帰する」ということが確かなことだと言えようか？ 経文には二つの部分がある。初めに「皆、仏道を得る」と説く。これが一乗である。後に「得られず」と説く。これが三乗である。「羅漢には現在と未来の二種あり」と言うのは、現在において断じ、未来には生じないという意味である。 「我が経において」以下の第十九段は、仏性が衆生から離れているのか、それとも衆生そのものであるのかを明らかにしている。諸部にもこのような議論はなく、いずれも近代になって計られた「即・離」の説である。「当果」と「真神」は「衆生から離れて存在する」という説であり、「心」および「衆生」は「衆生そのものに存在する」という説であり、いずれも仏意を得ていない。経文には二つの部分がある。まず六つの事柄と三つの文を挙げて「離」を明かし、後に「衆生は即ち仏性なり」と説く。

「以是因緣」下，第二十犯四重人有佛性無佛性。開善云：二十者，此還屬第十九佛性即離之義。若冶城云二十一，此是第二十，何故屬前？前云即眾生離眾生，此中云作五逆犯重佛性有無，云何是同？故為異。

> それゆえ、この因縁の下で、第二十番目に、四重禁を犯した人に仏性があるのかないのかという問題について述べています。開善寺の僧侶は、「二十番目とは、これは第十九番目の仏性が即・離の意味に戻るものである」とします。冶城寺の僧侶が「二十一」と言うのは、実際にはこれが第二十番目であり、なぜ前に属するのか？ 先に「衆生に即し、衆生を離れる」と言い、ここで「五逆罪や四重罪を犯した人の仏性の有無」と言うのは、どうして同じであろうか。したがって、異なるものとして扱うべきである、と述べています。

「我於處處」下，第二十一有十方佛無十方佛。薩婆多明無，僧祇明有，《成實》一世界則無、多世界則有。

> 「そして『ところどころに』の下は、第二十一番目に十方の仏がいるのか、いないのかを説いています。 サッバーティバ（薩婆多部）は『いない』と明かし、マハーサンギカ（僧祇部）は『いる』と明かします。 『成実論』では、一つの世界には十方の仏はおらず、多くの世界には存在すると説いています。」

## 大般涅槃經疏卷第二十八

> 大般涅槃経疏 巻第二十八