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title: "大般涅槃經疏 · 3"
description: "大般涅槃经疏由隋朝天台宗五祖章安大师灌顶撰述，是注解北本《大般涅槃经》的重要疏钞。灌顶承袭其师智顗思想，依天台教观阐释经义，重点发挥如来常住、众生皆有佛性、一阐提也能成佛等核心教理。该疏系统论述了涅槃境界与佛性思想，融合南北朝佛学成果，是天台宗判教体系的关键著作，对隋唐以后中国佛教思想发展影响深远，被视为研究《大般涅槃经》的权威注疏。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cme55x1or01xhjo04tjp3udl6"
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## 大般涅槃經疏卷第三十

> 大般涅槃経疏 第三十巻

隋章安頂法師撰

> 隋の章安頂法師による撰述

唐天台沙門湛然再治

> 唐の天台僧・湛然が再編集

### 迦葉品之三

> 迦葉品 第三

起卷是第四辨行法，又五：一修行、二通別、三名體、四人數、五結住。初文又四：一不淨觀、二念處觀、三因緣觀、四煗法觀。然得住人但具二方便，何用四耶？不淨、因緣是念、煗前方便，開則列四，合只是念、煗。初又二：先明緣起中云智不具足有五事者，即前信、戒、施、聞、慧；次正明四法，而以不淨當名。若依《雜心》三度門，此中賸有著我多者說十八界；依《地持》五度門，則足因緣。次「如法行已」下，是念處觀。觀有總別，總深、別淺云云。「得是觀」下，第三因緣觀。「如是觀已」下，第四煗法觀。通論前二方便亦皆得住，別論正據煗法。空解成時決定不退，名為住人。次「迦葉白」下，明通別料簡煗法，先問、次答。初問又二：初問人，通舉煗觸為問；次引佛說為證。佛答為二：初非其問，汝之所據非我所說。次「如是煗法」下，正答，又二：初明地別、次明人別。初地別者，色有欲無。次人別者，我弟子有，外道則無。文云「煗法以色有欲無」，仍作三義釋之：一多用色定發煗法觀，從多為言；二據中間，三界皆能發於煗法，而色界居中言色界有；三據勝處為語，色發煗為易，欲界為難。「色界雖有」下，第二明人別，簡除外道，唯佛弟子。外六行觀者，攀上勝妙出，厭下苦麁重。佛弟子十六行者，即十六諦，亦是苦法忍苦法智、苦比忍苦比智等。此中既未斷惑，只是十六諦觀。私謂：緣此諦觀而修欣厭，是佛弟子亦修欣厭，若外道修唯約地也。

> まず、修行の区分について述べる。修行には五つの種類がある。第一に修行そのもの、第二に通達と別別の修行、第三に名称と本質、第四に修行者の数、第五に修行の完成である。最初の項目はさらに四つに分かれる。一、不浄観、二、念処観、三、因縁観、四、煖法観である。しかし、既に悟りを得た者は、二つの方便を備えているだけでよいのに、なぜ四つも必要なのか。不浄観と因縁観は、念処観と煖法観の前段階の方便である。詳しく述べれば四つとなるが、まとめれば念処観と煖法観の二つに過ぎない。 最初の項目はさらに二つに分かれる。まず因縁について述べる中で、「智慧が十分でない五つの条件」とは、すなわち信、戒、布施、学問、智慧である。次に四つの修行法を正式に示し、その中でも不浄観を名目としている。もし『雑心論』の三つの解脱門に従えば、この中に「我執が強い者には十八界を説く」という教えが含まれており、また『地持経』の五つの解脱門に従えば、因縁観が加わることになる。 次に「法の如く修行し終えて」以下の部分は、念処観である。この観法には総合的な観察と個別的な観察があり、総合的な観察は深く、個別的な観察は浅い<note>云云</note>。「この観法を得て」以下の部分が、第三の因縁観である。「かくの如く観察して」以下の部分が、第四の煖法観である。総じて言えば、前の二つの方便もまた悟りを得る手段であるが、特に言えば、煖法観こそが悟りの直接の根拠となる。空の理解が成就した時、決して退転しないことを「悟りを得た人」と名づける。 次に「迦葉が白して言う」以下の部分は、通達と別別の観点から煖法観を解釈する。まず問いがあり、次に答えがある。最初の問いは二つに分かれる。一つ目は修行者について問うもので、総じて煖法観に触れて問う。二つ目は仏の説法を引用して証拠とする。仏の答えは二つに分かれる。最初にその問いを否定し、「あなたの根拠は私の説いたものではない」と言う。次に「かくの如き煖法は」以下の部分で、正式に答える。これもまた二つに分かれる。最初に修行の境地の違いを明らかにし、次に修行者の違いを明らかにする。最初の境地の違いとは、色界には煖法観があり、欲界にはないということである。次に修行者の違いとは、仏の弟子には煖法観があり、外道にはないということである。経文には「煖法観は色界にあって欲界にはない」とあり、これを三つの意味で解釈する。第一に、多く色界の禅定を用いて煖法観を発するため、その多くを取って言う。第二に、中間の境地に基づいて言えば、三界すべてが煖法観を発することができるが、色界が中間にあるため、色界にあると言う。第三に、優れた境地に基づいて言えば、色界では煖法観を発しやすく、欲界では難しい。「色界にはあるが」以下の部分は、第二の修行者の違いを明らかにし、外道を除外して、仏の弟子のみとする。外道の六種の観法とは、上の境地の優れたもの、勝れたもの、超脱したものを観想し、下の境地の苦しみ、粗雑さ、重苦しさを厭離することである。仏の弟子の十六種の観法とは、すなわち十六の真実の教えであり、また苦法忍、苦法智、苦比忍、苦比智などである。ここでまだ煩悩を断ち切っていないので、単に十六の真実の教えを観察するだけである。私見では、この真実の教えを縁として欣求と厭離を修めることは、仏の弟子も欣求と厭離を修めるが、外道が修めるのは単に境地に基づくものに過ぎない。

「迦葉白佛」下，第三定名體，先問、次答。問中二：先問名、次問體，如文。佛答中，先答後問、後答前問。初答體為二：初正答；次料簡中先問、次答。初引佛明馬師無信，即是無煗。次佛答：我亦不取信心為煗，信是煗因，煗者從觀四諦智生。言十六者，即四諦下之十六也。「如汝所問何因緣」下，次答名，又二：前正答、次重論。初又二：初牒煗略答，明從譬得名。次「譬如」下，第二廣答，又二：先譬、次合，如文。次重問答。初問中二：先領旨、次「若是有為」下正問。所言報得色五陰者，若依數師，實用煗法得色界報，但不為受身，為無漏業即是滅報。論師解：煗焦生死不復受報，但是色定得報，故從之受名。佛答中二：先然其問。「如是煗法」下正答，有三：法、譬、合。意同數解，以想心為愛，愛故受生；厭故觀行，為無漏相。

> 「迦葉が仏に申し上げる」以下の第三段は、（煗法の）名と体を定めるものです。まず問い、次に答えがあります。問いの中には二つあり、先に名を問い、後に体を問います。本文の通りです。仏の答えの中では、先に後の問いに答え、後に前の問いに答えます。初めに体に答える部分は二つに分かれます。第一に正式な答え、第二に簡略な説明です。その中で、先に問い、次に答えがあります。最初に、仏が馬師には信心が無いと明かした話を引きます。これはすなわち煗法が無いということです。次に仏の答え「私もまた、信心を煗法とは取らない。信心は煗法の因であり、煗法は四諦を観察する智慧から生じる」と言います。「十六」と言うのは、すなわち四諦の下にある十六の行相のことです。「あなたが問うところの、何の因縁によって」以下は、次に名に答える部分です。さらに二つに分かれ、前に正式な答え、後に再び論じる部分があります。初めの正式な答えはさらに二つに分かれます。先に煗法を挙げて簡略に答え、譬えから名を得たことを明かします。次に「譬えば」以下の第二は広く答える部分で、さらに二つに分かれ、先に譬え、次に合わせる部分があります。本文の通りです。次に、改めて問答があります。初めの問いの中には二つあり、先に主旨を受け、次に「もし有為であるならば」と正式に問います。言うところの「報によって得る色の五陰」とは、もし数論の師（毘曇師）によれば、実際に煗法を用いて色界の報を得ますが、身を受けるためのものではなく、無漏の業であるために報を滅ぼすのです。論師の解釈では、煗法は生死を焦がし、再び報を受けることはありませんが、色定（色界定）によってのみ報を得るので、それに従って名を受けます。仏の答えの中には二つあり、先にその問いを是認します。「このような煗法は」以下の正式な答えには三つあり、法・譬え・合わせる部分です。意図は数論の解釈と同じであり、想いや心を愛とし、愛であるから生を受ける。厭うからこそ行を観察し、無漏の相とするのです。

「得煗法人」下，第四明人數。言七十三者，三解。一莊嚴云：欲界十善相應心名電光定，時得時失故名電光，此人名具煩惱性，而不開品數。若論方法，定有九品，惑亦九品，以九定斷九惑，足電光人合成十人。色界四禪、無色三空，一一地中皆有九品惑九品定，七九六十三。足前十人，合七十三。二開善云：無別電光異方法，亦無方法異電光，只電光定以對九惑而成九定。初一品定只是實法，未賴於假，猶與惑抗行，未能伏惑。第二品定與初品定作相續假，共為力用，方乃能伏初一品惑。第三品定伏第二品惑，乃至第九品定即伏第八品惑，餘有欲界一品惑在，牽於初禪，一品定起而共伏之。并四禪三空，一一皆有九惑九定，乃至不用處第九品定伏第八品惑，猶餘第九品惑在，更將非想定來伏不用處第九品惑，八九七十二。復取非想定足之，合為七十三。引欝頭藍弗得非想定，即其義也。此中云欲界初禪乃至無所有處，前文得非想定斷不用處惑，皆是良證。三數人解者，亦二不同，事障未來、性障根本。一云：分為九品解，一品解對一品惑。復有十善相應心，即具煩惱性，足前成十。具煩惱人與初品定共斷一品惑，後去一品解對斷一品惑，四禪三空一一九定九惑，亦成七十三人。第二解云：性障根本者，未來禪九品定斷欲界九品惑，取欲界具煩惱性一人，足九品合成十人。如是八人皆有未來，二禪未來定斷初禪九品惑，三禪未來九品定斷第二禪九品惑，乃至非想未來定斷不用處九品惑，亦得七十三人。問：前云煗是色界法，何得通三界作七十三人？答：初學之人須依四禪，據後利時則通三界。又昔在凡夫外道曾得七十三定，今入佛法中作煗法觀。

> 「煗法を得た人」の下、第四に人数を明かす。七十三と言うのは、三つの解釈がある。一に荘厳師は言う：「欲界の十善に対応する心を電光定といい、時に得られ時に失われるから電光と名づける。この人のことを煩悩の性質を備えたものとするが、品数の区分は設けない。方法について言えば、定には九品あり、煩悩にも九品ある。九つの定で九つの煩悩を断じ、電光の人を加えて合わせて十人となる。色界の四禅、無色の三空、それぞれの地に九品の煩悩と九品の定があり、七九六十三。先の十人を加えて、合わせて七十三となる。」 二に開善師は言う：「別に電光とは異なる方法はなく、また方法とは異なる電光もない。ただ電光の定が九つの煩悩を対象として九つの定を成すのである。最初の一品の定は、ただ実法であって、まだ仮に頼ることはなく、煩悩と対抗して行われ、まだ煩悩を伏することができない。第二品の定は、初品の定と相続の仮を成し、共に力を為して用いられ、ようやく初品の煩悩を伏することができる。第三品の定は第二品の煩悩を伏し、乃至第九品の定は第八品の煩悩を伏す。残る欲界の一品の煩悩があり、初禅に引きつけられ、一品の定が起きて共にこれを伏す。併せて四禅三空、それぞれに九煩悩・九定がある。乃至無所有処の第九品の定は第八品の煩悩を伏すが、なお第九品の煩悩が残っている。さらに非想定を持って来て無所有処の第九品の煩悩を伏す。八九七十二。さらに非想定を取ってこれに加え、合わせて七十三とする。欝頭藍弗が非想定を得たというのは、まさにその意味である。ここで欲界・初禅乃至無所有処と言い、前文で非想定を得て無所有処の煩悩を断じるとあるのは、いずれも良い証拠である。」 三に数論師の解釈もまた二つの違いがある。事障は未来にあり、性障は根本にあるという。一つには「九品の解に分けられ、一品の解が一品の煩悩を対象とする。また十善に対応する心があり、すなわち煩悩の性質を備え、先のものに加えて十となる。煩悩を備えた人と初品の定とが共に一品の煩悩を断じ、その後、一品の解が一品の煩悩を対象として断じる。四禅三空、それぞれに九定・九煩悩があり、また七十三人となる。」と言う。第二の解釈では「性障根本とは、未来禅の九品の定が欲界の九品の煩悩を断じ、欲界の煩悩の性質を備えた一人を取り、九品に加えて十人とする。このように八人、皆未来を持つ。二禅の未来の定は初禅の九品の煩悩を断じ、三禅の未来の九品の定は第二禅の九品の煩悩を断じ、乃至非想の未来の定は無所有処の九品の煩悩を断じ、また七十三人を得る。」と言う。 問う：「前に煗は色界の法であると言ったのに、どうして三界に通じて七十三人とするのか？」答える：「初めて学ぶ人は四禅に依らねばならないが、後の機が利く時には三界に通じるからである。また昔、凡夫や外道の時に、かつて七十三の定を得ていた人が、今、仏法に入って煗法の観を行うのである。」

「如是等人」下，第五結得住人，不復斷善根、不犯四重。「是人二種」下，合第四觀方之人，又二：前列觀方人體、次更問答論初果義。初又二：此先牒前、次正合。初文者，牒前第二暫出還沒人。若遇惡友即恒為此人，若遇善友則進為住人，復成觀方，是故先還論於前人。次「觀四方者」下，第二出觀方人體。或謂從苦忍去至於初果，方是此中人。文意不然，凡有五人：一頂法、二忍法、三世第一法、四苦忍至十五心、五初果至第十六心。以此五人皆觀四諦，並名觀方。然前煗法亦觀四方，且從得住立名，沒觀方義；頂法已上方受其名。明此五位即為五章，文悉可見。但前二文皆云性是五陰，實論頂法唯是行陰。而言五者，以其未免陰之所蓋，是故通以五陰為言。而能觀四諦世第一法言五根者，以最深勝，近生真解，顯是根義。別本亦云陰。次得苦忍即是真解。緣一諦者，得於平等真空一諦。〈師子吼〉中則以四方用譬四果，今譬四諦者，各有所據。而《婆沙》云「東方是苦，乃至北方為道。」次「迦葉白佛」下，第二論義，即初果義。三番問答。初番中先問，有四：一問斷惑、二問觀方、三問名義、四問譬喻。見思共有九十八使，見諦有八十八，思惟有十。八十八先盡，但有十使，故言輕也。有經言「須陀洹夢八十八頭蛇死」，即表此意。如四十里水者，如《池喻經》云云。佛答四問為四：先答斷惑之問，為二：初正答、次明所為。初又二：先倡兩章門、次釋。初又二，一重章門、二攝一切煩惱章門。「譬如」下，次釋兩章門。先釋攝章，有譬、有合。此三煩惱能攝一切，如王行多從世人，但言王來王去，三是惑本遍攝諸惑。「何因緣」下，次釋初重章門，凡有五句：一常所起故、二微難識故、三難斷除故、四為惑困故、五是三對治諸怨敵故。初言常所起者，恒存有我即是我見，皆信邪神即戒取，猶豫未了即疑心。次難識者，我見似正見，戒取似正戒，疑心似正解。三四可見。五是三對治怨者，我見乖見慧，戒取乖正戒，疑心乖正定。「有諸眾生」下，第二明所為，即是為引物，故略言此三。若言斷無量煩惱者，眾生或當生於退意，故不說多。次答觀方，又二：先牒問、次「善男子」下正答。答中言五根者，即信首五根。言訶內外煩惱者，以三毒為內，疑及諸見為外。次答第三名義，又二：初正答、次重顯。初正答中二：先牒問；次正答中正答二：先釋修無漏名、次「二種」下釋逆流名。流有二種：一生死流，須陀洹人即逆此流，眾生順之；二者道流，須陀洹人順入此流，小《般若》云「名為入流而無所入。」次論義重顯。初問通義：若逆流者，後三果人亦皆逆流，盡名須陀洹不？佛答又二：初正答、次明根別。初正答中二：先明下名通上、次明上名通下。下名通上又二：初明修無漏名通、次明逆流名通。所以下名通上者，以初得故名須陀洹，後得者名斯陀含云云。「須陀洹者亦名菩薩」下，是第二上名通下，又為二：初明菩薩名通下、次明佛名通下。佛只是覺，能見理故。今須陀洹覺知諸法斷惑見理，豈不名佛？「是須陀洹」下，第二明根別，又二：先倡兩根、次別釋。別中釋二：先釋鈍根，極鈍七反生死，乍減無出，鈍中又有六五四三二也。次釋利根，即生至第四果。次答第四譬喻，又二：先牒問；次釋，於中二：標、釋。釋中堅持者，如魔說五諦，長者不信，是為堅持。

> 「如是等人」の下は、第五に住の人を結び、再び善根を断たず、四重罪も犯さないことを示しています。「是人二種」の下は、第四に観方の人をまとめており、さらに二つに分かれます。まず観方の人の本質を示し、次に問答を重ねて初果の意味を論じます。初めも二つに分かれ、先に前文を引用し、次に正しくまとめます。初文は、第二の一時的に出てもまだ戻る人を引用しています。もし悪友に遭えば、常にこのような人であり、善友に遭えば進んで住の人となり、再び観方となるため、先に戻って前の人を論じるのです。 次に「観四方者」の下は、第二に観方の人の本質を示します。あるいは苦忍から初果に至るまでが、この中の人だと解する向きもあります。しかし文の趣旨はそうではなく、全部で五人います。一に頂法、二に忍法、三に世第一法、四に苦忍から十五心まで、五に初果から第十六心までです。この五人はいずれも四諦を観じるので、そろって観方と名づけられます。ただし、前の煗法も四方を観じますが、あくまで住として名づけられ、観方の意味は欠けています。頂法以上で初めてその名を受けるのです。この五位を明かすことが五章となり、その文はすべて見て取れます。ただ前の二文は、いずれも「性は五陰」と述べていますが、実際には頂法はただ行陰のみです。それでも五と言うのは、未だ陰の覆いを免れていないからであり、そのため通して五陰と述べるのです。そして四諦を観じる世第一法を五根と言うのは、最も深く勝れていて、真の理解を近く生じ、根の意味を顕かにするからです。別の版本では陰とも言います。 次に苦忍を得れば、すなわち真の理解です。一諦を縁とするのは、平等な真空の一諦を得るからです。『師子吼』では四方を用いて四果に譬えますが、今は四諦に譬えるのは、それぞれ拠るところがあるからです。また『婆沙』には「東方は苦、乃至北方は道」とあります。次に「迦葉白佛」の下は、第二の論議、すなわち初果の意味です。三度の問答があります。初めの問答では先に問いがあり、四つあります。一に煩悩を断つことを問い、二に観方を問い、三に名義を問い、四に譬喩を問います。見思には合わせて九十八使あり、見諦には八十八、思惟には十があります。八十八を先に尽くせば、ただ十使だけとなり、そのため軽いと言うのです。ある経典には「須陀洹が八十八頭の蛇が死ぬ夢を見る」とあり、この意味を表しています。四十里の水については、『池喩経』に詳しい<note>云云</note>。仏は四つの問いに答えて四つとします。先に煩悩を断つ問いに答え、二つに分かれます。初めに正しく答え、次にその目的を明かします。初めもまた二つ、先に二つの章門を掲げ、次に解釈します。初めもまた二つ、一に重い煩悩の章門、二に一切の煩悩を摂める章門。「譬如」の下は、次に二つの章門を解釈します。先に摂める章門を解釈し、譬えと合の文があります。この三つの煩悩は一切を摂めることができ、王が行くときに多くの従者がいるので、人はただ王が来るとか王が行くと言うようなものです。三つは煩悩の根本であり、あらゆる煩悩を広く摂めます。 「何因縁」の下は、次に初の重い章門を解釈し、合わせて五句あります。一に常に起こるから、二に微かで識別し難いから、三に断ち除き難いから、四に煩悩に悩まされるから、五に三つの対治の怨敵だからです。初めに「常に起こる」とは、常に我ありと存在するのが我見であり、皆が邪神を信じるのが戒取、ためらい迷って明らかでないのが疑心です。次に「識別し難い」とは、我見は正見に似て、戒取は正戒に似て、疑心は正解に似ているからです。三、四は見ての通りです。五に三つの対治の怨敵とは、我見は見慧に背き、戒取は正戒に背き、疑心は正定に背くからです。「有諸衆生」の下は、第二にその目的を明かし、これは衆生を導くためであえてこの三つだけを簡略に述べるのです。もし無量の煩悩を断つと言えば、衆生はあるいは退転の心を起こすかもしれないので、多くは言わないのです。 次に観方に答え、また二つに分かれます。先に問いを引用し、次に「善男子」の下で正しく答えます。答の中で五根と言うのは、すなわち信を先頭とする五根です。「内外の煩悩を呵責する」とは、三毒を内とし、疑や諸々の見解を外とするのです。次に第三の名義に答え、また二つに分かれます。初めに正しく答え、次に重ねて顕かにします。初めに正しく答える中で二つ、先に問いを引用します。次に「正答」の中では二つ、先に「修無漏の名」を解釈し、次に「二種」の下で逆流の名を解釈します。流には二種類あります。一つは生死の流れで、須陀洹人はこの流れに逆らう者であり、衆生はこれに従います。二つ目は道の流れで、須陀洹人はこの流れに順に入る者です。小『般若経』には「入流と名づけるが、入るところは無し」とあります。次に論議で重ねて顕かにします。初めに通じる意味を問います。もし逆流なら、後の三果の人も皆逆流であり、すべて須陀洹と名づけるべきではないか。仏の答えはまた二つ、初めに正しく答え、次に根の違いを明かします。初めに正しく答える中で二つ、先に下の名が上に通じることを明かし、次に上の名が下に通じることを明かします。下の名が上に通じることではまた二つ、初めに修無漏の名が通じることを明かし、次に逆流の名が通じることを明かします。下の名が上に通じる理由は、最初に得た者だから須陀洹と名づけ、後で得た者は斯陀含などと名づけるからです。<note>云云</note>。「須陀洹者亦名菩薩」の下は、第二に上の名が下に通じることであり、また二つに分かれます。初めに菩薩の名が下に通じることを明かし、次に仏の名が下に通じることを明かします。仏とはただ覚りであり、理を見ることができるからです。今、須陀洹人が諸法を覚り知り煩悩を断ち理を見るなら、どうして仏と呼ばないことがありましょうか。 「是須陀洹」の下は、第二に根の違いを明かし、また二つに分かれます。先に二つの根を掲げ、次に個別に解釈します。個別の解釈では二つ、先に鈍根を解釈し、最も鈍い者は七度の生死を経ますが、減じることはあっても超えることはなく、鈍い中にも六、五、四、三、二があります。次に利根を解釈し、すなわち今生で第四果に至ります。次に第四の譬喩に答え、また二つに分かれます。先に問いを引用し、次に解釈します。その中では標と釈があります。釈の中で「堅持する」とは、例えば魔が五諦を説いても長者が信じないことであり、これが堅持です。

「迦葉白佛」下，第二番，先問、次答。先問中有兩定、兩結難。初兩定，如文。「若先得道」下，結兩難。先結初難。若初得道則名須陀洹者，得苦忍真解亦應名須陀洹，不應名向云云。次結次難。舉外道昔斷煩惱得上定伏下結，後迴心時，齊所伏而斷即成那含；既是初果，應名須陀洹。佛答有二。此答初難。本以初果名須陀洹，苦忍之時未得初果，由是向故，是故非也。「如汝所問」下，答後問，又二：初牒問、後正答，可見。

> 「迦葉が仏に白して」の下、第二番。まず問い、次に答えがある。問いの中に、二つの確定と二つの結難がある。初めの二つの確定は、文の通りである。「もし先に道を得れば」の下で、二つの結難を結ぶ。まず初めの結難を結ぶ。もし初めて道を得た者を須陀洹と名づけるならば、苦忍の真の解脱を得た者もまた須陀洹と名づけるべきであり、向と名づけるべきではない<note>云々</note>。次に次の結難を結ぶ。外道が昔煩悩を断じて上定を得て、下の結びを伏せていた例を挙げ、後に心を回らした時に、伏した所に従って断じたならば、直ちに那含となる。これは初果であるから、須陀洹と名づけるべきである。仏の答えは二つある。これは初めの結難に対する答えである。本来、初果を須陀洹と名づけるが、苦忍の時には未だ初果を得ておらず、向であるがゆえに、そうではないのである。「汝の問う所の如く」の下で、後の問いに答える。また二つに分かれる。初めに問いを繰り返し、後に正しく答える。可見。

「迦葉言得阿那含」下，第三番，先問、次答。問云：那含亦具八智十六行。佛答又二：初明行異、次明境異。此先明行異。所言十六行，即觀十六諦。言有漏者，即似解。有共不共者，三解。一毘曇師云：前十五心共觀，十六不共一時併觀苦。觀苦時只得觀苦，不通餘諦。乃至道亦爾，故言共。若得十六心一時獨觀十六諦者，故言不共。第二愛師言：有漏十六與凡夫共，無漏十六不與凡共。此解不然，經本云「有漏有共有不共」，何以無漏釋之？第三河西云：以七方便中前三方便亦觀十六，是則名共；後四方便則是不共。若初果次第行則備作七方便觀，捨共得不共。若超越人，但作後四方便仍證三果，故言不爾。無漏十六行亦有二種，一向二得者，論家解云：初果前未有果，故言捨向得果。那含前已有二果，超越者雖不取證，皆從中過，故云不爾。若依數義，超越之人懸得那含，亦不從前二果而過，則從方便道入十六心，十五心是那含向、十六心證那含果，亦是捨向得果。解此不便，彼亦釋云：若初果定爾，那含不定；若超越者亦爾，次第者不爾。既其不定，故言不爾。八智亦二者，即四諦各有比、現，故為八，非十智之八。若依數師，則向中但有七智，果唯一智。此亦不便。「須陀洹人緣於四諦」下，第二明境別。所言初果緣四諦那含緣一諦者，初果入道之初，方便之時具游十六行觀，故備緣四諦。那含在思惟道，擇法覺支隨得一諦為緣，故言一諦。遍觀己行者，合第五譬，即是斯陀含果。若攝諸賢聖者，即攝得那含向，復攝得斯陀含向并自地果。攝此三事，何故攝阿那含向？那含本取觀已即住，汝在向時猶行非住，所以攝得，已上向屬下果攝故。若得那含，便名行已復住，例如羅漢內屬那含果攝。若依此例，斯陀含向應屬初果攝。而不然者，以初果但明正位、不說進行，又見思道異，故不相攝。今斯陀含果位則有一果兩向。文云為斷四惑三毒及慢者，乃應具言十使，以思惟道中五見及疑皆攝入慢，所以不述。文有二：先正合、次舉譬帖。「行已復住」下，合第六譬阿那含人，又四：第一章門、第二解釋、第三簡中滅、第四釋復住。此初章門中又四：一列二人、二列五人、三列六人、四列七人。此初先列二人，即經生、不經生，經生者即上行人。問：依莊嚴即有十一那含，於九人中即更明信解與見得人，足成十一。開善師但云有九，又彈莊嚴云：此簡利鈍，非是二人。今只問此文於九，何故但出其七，不言身證及轉世人？答有三義：一者不言轉世與身證者，以轉世人竟不出觀，故不說；身證人乃入滅盡定，大乘不說此定，故無二人。二者只是廣略不同。三者身證與轉世，目足論所明，我大乘所無。

> 「迦葉、阿那含を得たりと言う」の下、第三番。先ず問い、次に答え。問い：「那含もまた八智・十六行を具えるか」。仏の答え、また二つ。初めに行の異なることを明かし、次に境の異なることを明かす。これ、先ず行の異なることを明かす。 言うところの十六行とは、即ち十六諦を観ずること。有漏と言うのは、即ち似解。「共・不共有り」とは、三種の解釈。 一、毘曇師の説：「前の十五心は共に観じ、第十六は共ならず、一時に併せて苦を観ず。苦を観ずる時はただ苦を得るのみで、他の諦に通じない。道に至るまでまた同じである。故に共と言う。もし第十六心を得て一時に独り十六諦を観ずるならば、故に不共と言う」。 第二、愛師の説：「有漏の十六は凡夫と共にし、無漏の十六は凡夫と共にせず。この解釈は然らず。経本に『有漏は共・不共有り』とあるのに、何をもって無漏で解釈するのか」。 第三、河西の説：「七方便の中の前三方便もまた十六を観ず、これを名づけて共と為す。後の四方便は則ち不共なり。もし初果が次第に行ずれば、備えて七方便の観を作し、共を捨てて不共を得る。もし超越の人があれば、ただ後の四方便を作して、なお三果を証す。故に然らずと言う」。 無漏の十六行にもまた二種あり。一向・二得とは、論家の解釈：「初果の前には未だ果無し、故に向を捨てて果を得ると言う。那含の前には已に二果有り、超越の者は証取せずと雖も、皆これに中りて過ぎ行く。故に然らずと言う」。もし数義に依れば、超越の者は懸かに那含を得て、亦た前の二果より過ぎ行くに依らず。則ち方便道より十六心に入り、十五心は那含に向かう、十六心にて那含の果を証す。亦是に向を捨てて果を得る。これを解するに便ちあらず。彼もまた釈して云く：「もし初果は定めて然り、那含は定めず。もし超越の者も亦た然り、次第の者は然らず。其れ定まらず、故に然らずと言う」。 「八智も亦た二有り」とは、即ち四諦に各々比・現有り。故に八と為す。十智の八に非ず。もし数師に依れば、則ち向中にはただ七智有り、果は唯一智。これ亦た便ちあらず。 「須陀洹人は四諦に縁ず」の下、第二に境の別を明かす。言うところの「初果は四諦に縁じ、那含は一諦に縁ず」とは、初果は入道の初め、方便の時に具えて十六行の観に遊ぶ。故に備えて四諦に縁ず。那含は思惟道に在り、択法覚支は随いて一諦を得て縁ずることを為す。故に一諦と言う。 「遍く己が行を観ず」の下、第五の譬えを合わせる。即ち斯陀含果なり。 「もし諸の賢聖を摂すれば」、即ち阿那含向を摂得し、復た斯陀含向と并せて自地の果とを摂得す。此の三事を摂す。何故に阿那含向を摂するか？那含は本より「観已して即ち住す」を取る。汝が向に在る時は猶お行にして住に非ず。故に摂得す。已上、向は下の果の摂に属す。故に。もし那含を得れば、便ち「行已して復た住す」と名づく。例せば羅漢の内に那含果の摂に属するが如し。もし此の例に依らば、斯陀含向は初果の摂に属すべきなり。然らずとするは、初果はただ正位を明かすのみで、進行を説かず。又、見・思の道は異なる。故に相摂せず。今、斯陀含果位は則ち一果二向有り。文に云く「四惑・三毒及び慢を断ずるが為」とは、乃ち応に具に十使を言うべきに、思惟道中に五見及び疑は皆、慢に摂入せらる。故に述べず。文に二有り：先ず正しく合し、次に譬えを挙げて貼す。 「行已して復た住す」の下、第六の譬え、阿那含人を合す。又、四あり：第一、章門、第二、解説、第三、中滅を簡ぶ、第四、復住を釈す。此の初め、章門の中に又、四あり：一に二人を列す、二に五人を列す、三に六人を列す、四に七人を列す。此れ、初めに先ず二人を列す。即ち経生・不経生なり。経生とは即ち上の行人なり。 問う：「荘厳に依れば即ち十一の那含有り。九人の中に於いて更に信解と見得の人の明かし有り。足して十一を成す。開善師はただ九有りと云い、又、荘厳を弾じて云く、『此れは利鈍を簡ぶのみ。二人に非ず』と。今、ただ此の文を九に問えば、何故にただ其の七を出だし、身証及び転世の人を言わざるか」。 答う：「三義有り。一には、転世と身証を言わざるは、転世の人は竟に観を出でず、故に説かず。身証の人は乃ち滅尽定に入る。大乗は此の定を説かず。故に二人無し。二には、ただ広略の同じからざるのみ。三には、身証と転世は、目足論の明かす所、我が大乗に無き所なり」。

「行般涅槃復有二種」下，第二釋章門。上雖有四，今但釋兩：先釋二人、次釋五人。六七兩章門並略不釋。此初，釋二人。於二人中，第一現滅人，雖在章門，前章已釋。又現在身得那含已，亦更進修即得羅漢，竟不滅此身，於現身上即得兩果，極是利根，易解故不釋，但釋上行之人。又二：初明生數、次辨行別。此即初文。言行般，即上流，貪著色無色人也。或受二身者，初禪死，生二禪。四身者，遍四禪受生。二身為利，四身為鈍。利鈍亦不正關生數，今約多少明之。利根那含，初禪死生二禪，即得羅漢果。鈍人，本從初禪生二禪，不得羅漢復更生三禪，不得已復生四禪，爾時始名得羅漢果。今約四禪，故作此說。「復有二種」下，第二明行別，并言二種，即是四句，約進定兩行有無。

> 「行般涅槃には更に二種あり」という以下は、第二に章門を説明する。上では四つ挙げたが、今ここでは二つのみを説く。まず二人を解き、次に五人を解く。第六と第七の章門は、いずれも省略して説明しない。ここでは最初に、二人について解く。二人のうち、第一の「現に身を滅す者」は、章門にはあるが、前の章で既に説明した。また、現世の身で那含（不還果）を得た後、さらに修行を進めて直ちに羅漢を得る者は、この身を滅ぼすことなく、現世の身で二つの果を得る。これは極めて利根の者であり、理解しやすいので説明を省き、ただ「上へ行く者」についてのみ説明する。さらに二つに分かれる。最初に生を受ける回数を明かし、次に行の違いを弁別する。これがその最初の文である。 「行般」と言うのは、上流（色界・無色界に留まる者）であり、色界と無色界に貪着する人である。 「あるいは二つの身を受ける」とは、初禅で死に、二禅に生まれることである。「四つの身」とは、四禅すべてに生を受けることである。二身は利根の者、四身は鈍根の者を示す。しかし、利根・鈍根は必ずしも生を受ける回数に直接関わるわけではなく、ここでは回数の多い少ないで説明している。 利根の那含は、初禅で死に二禅に生まれ、そのまま羅漢果を得る。鈍根の者は、元々初禅から二禅に生まれても羅漢を得られず、さらに三禅に生まれ、やむなく再び四禅に生まれて、その時初めて羅漢果を得る。今ここでは四禅に基づいて、このように説くのである。 「復た二種あり」という以下は、第二に行の違いを明かすものであり、「二種」と言うのは、すなわち四つの句であり、進と定という二つの行の有無に関するものである。

從「欲色界眾生有二業」下，釋第二五人章門，即為五。此先釋中陰滅人。何者是耶？即已離欲、未及色界，於中即得阿羅漢果。又三：初明用業、二釋中陰名、三明入滅。此初明用業中言二業者，業即散業，受生即上界定業。「又捨欲界身」下，第二釋中陰名，在兩生中間故。私謂：是於色界中陰而入涅槃，既不受正生，故言利根。「是中涅槃」下，第三明入滅之心。言四種心者，二解：一云前兩是那含果空有二心，後兩即羅漢果空有二心。一非學非無學者，即那含緣世諦心；二者學，即那含緣真諦心；三無學，即羅漢緣真諦心；四非學非無學，即羅漢緣世諦心。以那含得滅即是羅漢果，就兩故明之。二解云：此四句同就那含果上明之，一非學非無學即被導心；二學即緣真心；三無學即修舊心；四非學無學即失念心。有師云：此解不可。其見文云「阿那含四心」，應言那含自有此四心，前解當理，初二心是那含、後兩心是羅漢。問：既其二果共四心者，何得云那含四心？解云：今云那含四心者，此是帶本為語，此中是釋中滅人，只滅已是羅漢。又言：一是二非，還應兩解。若前解者，則言羅漢兩心是涅槃，那含兩心非涅槃。羅漢得無餘極果，所以是涅槃。那含未得無餘，非極果，故非涅槃。若後解，則世諦兩心是，真諦兩心非，更須釋之。

> 「欲色界の衆生には二つの業がある」という部分から、第二の「五人」という章の門を説明するもので、五つに分かれる。これはまず「中陰で滅する人」を説明する。 それは何か。すでに欲界を離れたが、まだ色界に達しておらず、その中間において阿羅漢果を得る者である。さらに三つに分かれる。第一に業を明かし、第二に中陰の名を説き、第三に涅槃に入ることを明かす。 この第一の業を明かす部分で「二業」と言うのは、業とは散動の業であり、受生とは上の界の定業である。 「また欲界の身を捨てる」以下の第二は、中陰の名を説く部分で、二つの生の中間にあるからである。 私には思われるに、これは色界の中陰において涅槃に入るのであり、正しい生を受けることはないから「利根」と言うのである。 「この中で涅槃する」以下の第三は、涅槃に入る心を明かす部分である。 「四種の心」と言うのは、二つの解釈がある。一つは、初めの二心は那含果の空と有の二心であり、後の二心は羅漢果の空と有の二心であるというもの。 「非学非無学」とは那含が世諦を縁ずる心であり、「学」とは那含が真諦を縁ずる心であり、「無学」とは羅漢が真諦を縁ずる心であり、「非学非無学」とは羅漢が世諦を縁ずる心である。那含が滅を得ることはすなわち羅漢果であるから、両方について明かすのである。 第二の解釈は、この四句は全て那含果について明かしたものであり、「非学非無学」とは導かれる心、「学」とは真諦を縁ずる心、「無学」とは旧い心を修めること、「非学非無学」とは念を失う心であるという。 ある師は言う、「この解釈は正しくない。その文に『阿那含の四心』とあるのを見れば、那含は自ずからこの四心を持つと言うべきである。前の解釈が理にかなっており、初めの二心は那含、後の二心は羅漢である」と。 問う、「二つの果が共に四心あるのであれば、なぜ那含の四心と言うのか。」 解いて言う、「今、那含の四心と言うのは、本来を帯びて語っているのである。これは中陰で滅する人を説くものであり、滅することはすでに羅漢である。」 また、「一つは是、二つは非」というのも、やはり二つの解釈があるべきである。前の解釈によれば、羅漢の二心は涅槃であり、那含の二心は涅槃ではないと言う。羅漢は無余の極果を得ているから涅槃であり、那含は未だ無余を得ておらず極果ではないから涅槃ではない。後の解釈によれば、世諦の二心が是であり、真諦の二心が非であるということで、さらにこれを詳しく説く必要がある。

次釋第二受身涅槃，又二：初正釋、次論義。此初正釋，即生滅之人生初禪滅。次論義，先問、次答，可見。次釋第三行滅。常修行者，即是鈍根。言三昧者，慧心靜故，作三昧名。次釋第四不行滅。不待自勤然後得滅，故是利也。次釋第五上流人，又二：初單就色界、次遍就上二界。此即初文。所言得第四禪已退生初禪者，解云：實無聖人得上界定，生上界已退生下者。有此言者，以曾懸修得上定已而退故生下，非身在上界而退。又言以道流故上生者，即是方便，非實煩惱受生。「是四禪」下中第二遍上二界，從此分流生於兩界，樂論義者即生尼吒，樂三昧者生不用處。問：自有人從於初禪即生尼吒，即得入滅。復有人生不用處，方得入滅。有人未至阿尼吒即滅，未至不用處即滅，此屬何人？答云：此屬見得、信解兩人，不名上流。凡四義相對：初據樂定樂慧、二明修五差不修五差、三明樂寂靜樂論義、四修熏禪不修熏禪。此之四義還成兩意：第三成第一樂智慧樂三昧，第四還成前有五差無差之異。前三如文。於第四中所言熏者，二解：一數師云兩無漏心挾熏一有漏心；二者論師云以慈悲心而熏此定。所以不釋後兩章門者，前六人本加現滅人，上章門已解現滅人竟，故今不釋。前七人本加上行人至無色處滅，上已兼釋第五人竟，故不須解。

> 次に第二の「受身涅槃」を釈す。これにも二つある。まずは正式な解釈、次に議論である。これが最初の正式な解釈であり、すなわち「生まれ変わる者」が初禅において涅槃に入ることである。 次に議論。まず問いがあり、次に答えがある。これは明らかである。 次に第三の「行滅」を釈す。「常に修行する者」とは、すなわち鈍根の者である。「三昧」と言うのは、智慧の心が静まるゆえに、三昧という名がつけられたのである。 次に第四の「不行滅」を釈す。自ら精進を待たずして滅を得るゆえに、これは利根である。 次に第五の「上流人」を釈す。これにも二つある。まずは色界のみについて、次に上の二界全体について述べる。これが最初の文である。 「第四禅を得てから退いて初禅に生まれる」と言うことについて、解釈によれば、実は聖人が上界定を得て、その上界から退いて下界に生まれることはない。このような言葉があるのは、かつて修行して上の定を得ながら退いたゆえに下界に生まれるのであって、身が上界にあるまま退くのではないからである。また「道の流れによって上に生まれる」と言うのは、すなわち方便であって、実際の煩悩による受生ではない。 「是四禅」から下は、第二の「上の二界全体」についてである。ここから流れが分かれて二つの界に生まれる。議論を好む者は尼吒（ニータ）に生まれ、三昧を好む者は不用処に生まれる。 問い：ある者は初禅からすぐに尼吒に生まれ、そのまま涅槃に入る。またある者は不用処に生まれてから涅槃に入る。また、ある者は阿尼吒に至らずして涅槃に入り、不用処に至らずして涅槃に入る。これらはどのような人であるか？ 答え：これは「見得」と「信解」の二人に属するものであり、「上流」とは言わない。 以上、四つの対比がある。第一に楽定と楽慧を比較し、第二に五つの差を修するか修さないかを明らかにし、第三に寂静と論義のどちらを好むかを明らかにし、第四に熏禅を修するか修さないかを明らかにする。この四つの意味は、結局二つの意味にまとめられる。第三は第一の楽智慧・楽三昧を成立させ、第四は第一の五差と無差の違いを成立させる。前三つは文の通りである。 第四の「熏」と言うことについて、二つの解釈がある。第一に、数師（サーンキヤ学派）は「二つの無漏心が一つの有漏心を挟んで熏じる」と説く。第二に、論師は「慈悲の心をもってこの定を熏じる」と説く。 後の二つの章門を説かないのは、前の六人の本に「現に滅に入る人」が加えられており、上の章門ですでに「現に滅に入る人」を解き終えたからである。ゆえに今は説かない。前の七人の本に「行じて無色処に至って滅に入る人」が加えられており、上ですでに第五人を兼ねて解き終えたからである。ゆえに解釈の必要はない。

「迦葉白」下，第三論義料簡中滅，先問、次答。問中有二：初問中滅既是利根，何不現滅即得羅漢？二問何故欲界有中，色界則無？佛答為二。此答初問，以三義故故不現滅：一羸劣、二乏眾緣、三喜作世俗怱務等事。餘皆可見。初如文。二乏眾緣事，出《婆沙》，彼云「天須菩提，非今解空須菩提。」「如汝所問」下，答第二問，又二：初明緣別、次明根別。初緣別中又二：初明欲界多在緣；二明性勇健故，色界中為無外諸苦，所以不得。欲界既有外諸煩惱，以厭此故即修道品，名修為勇。若依數解，上界全無初入道者。論師亦有同前云無，或云上界亦有初入。故《普曜經》云「八萬諸天得法眼淨」，是則上界亦證初果。而有此文者，以信法行人初在方便，可得出觀上生故言得果，非元發始從凡至聖。次明根性勇健。次「有三種」下，明根不同，如文。

> 迦葉が問うた後の、第三の論義の中で「中滅」についての考察。まず問いがあり、次に答えがある。問いには二つある。最初の問いは、「中滅は利根であるなら、なぜ現世で滅せずに直ちに阿羅漢を得ないのか」というもの。二つ目の問いは、「なぜ欲界には中有があり、色界には無いのか」というもの。仏の答えは二つに分かれる。これは最初の問いに対する答えであり、三つの理由によって現世で滅しないことを示す。一に羸劣（弱々しいこと）、二に衆縁（助縁）が乏しいこと、三に世俗の急務などを好んで行うこと。その他は本文の通りである。初めの理由は本文に示される通り。二番目の「衆縁が乏しい」という事については、『婆沙論』に出ている。そこでは「天須菩提は、今の空を解する須菩提ではない」と述べられている。 「あなたの問うところのように」以下は、第二の問いへの答えであり、さらに二つに分かれる。初めに縁（条件）の違いを明かし、次に根（能力）の違いを明かす。初めの縁の違いの中ではさらに二つある。初めに欲界には多くの縁があることを明かし、次に「性が勇健である」という理由から、色界には外の諸苦が無いために中滅を得られないことを明かす。欲界には外の諸煩悩があるので、それに厭離して修道の品々を実践する。これを「修」といい、「勇」というのである。 もし数の解釈に従えば、上界（色界・無色界）には最初に道に入る者は全くいない。論師の中にも同じく「無し」と言う者もいれば、「上界にも最初に道に入る者はいる」と言う者もいる。ゆえに『普曜経』には「八万の諸天が法眼浄を得た」とある。これは上界においても初果を証したことを示す。しかしこのような文があるのは、信法行人が初め方便の位にあり、観を出て上界に生まれることが可能であるため「果を得た」と言うのであって、最初から凡夫から聖者へと至るという意味ではない。次に根性の勇健について明かす。「次に三種あり」以下は、根の違いについて述べたもので、本文の通りである。

「喻以䱜魚」下，第四釋行已復住到彼岸者合第七人。又有四人：一羅漢、二支佛、三菩薩、四佛。前三皆分到，佛究竟到。「如恒河中」下，第三結譬，又三：初正結譬、次明得失、三辨同異還成前意。初正結中又三：一通結七人、二更問答論義、三偏結到彼岸人。初文又兩：初結七人，即見佛性人；次結七法，法即佛性。此初，明七人悉皆不離佛性之水，有譬、有合。「是七眾生」下，第二明七法即佛性，一善、二不善、三方便、四解脫、五次第、六因、七果。前後可見，中間三者即婆沙三道，方便是似解、解脫是解脫道、次第是無閡道，故論文〈念處品〉云「如次無閡必生解脫」。然此七法為佛性者，即有二意：一次第合上七人、二總合。次第合者，若善法即合第二人，凡夫眾生有少善根。不善者即合第一常沒人，極重闡提無善可論，故言不善。方便道者即是第三得住人，具四念處、煗法二方便也。若解脫道即合第四觀方之人，從頂法去至十六心是真解脫人，故名解脫道。次第道者即合第五觀已行，從見諦道次入思惟得斯陀含，故云次第。因者即是行已復住，未得羅漢始是那含，故云因也。果者即是第七到彼岸人，羅漢、中乘、菩薩、佛四人。二總合七人者，於前善惡兩人，故是河中常沒及出已沒。若因者，即從得住至阿那含，並皆是因。果者，即羅漢等四人，盡皆是果。前方便道者，盡是因位。「迦葉菩薩言」下，第二論義，為二番問答。初問有二：前問涅槃無因，那得名果？次問云何涅槃復名沙門果？佛答為二：先答初問、次答後問。此先答初問，又二：先明七果，涅槃是遠離果；次明二因，涅槃有了因。汎論亦得義說不生名為生因，其實是了。文云三解脫門能為煩惱作不生生因者，令煩惱不生而善法得生，即是義說三解脫了因而為生因，而復能為涅槃作了因，此即正義。「如汝所問」下，答其後問具於三義：一斷乏、二樂靜、三上人。「迦葉言」下，第二番問答。初問者，更論前意。佛答云：翻那即道，沙門名乏。斷餘乏餘道名八正道，即兩非意。「阿羅漢人」下，第三偏結到彼岸四人，又二：前結羅漢支佛、次結菩薩佛。初文者，問支佛是果屬到彼岸，其向屬何所攝？答：前既云那含向，屬第五觀已即行。本取住為第六，向中猶行，那不屬第五行人？亦是本果為第七人，向猶是因，所以屬第六行已復住。問：本用得果為第七人，菩薩未得果，云何是第七人？答：經中解云「何故為菩薩？以行六波羅蜜。」波羅蜜者，翻度彼岸。又十地是十波羅蜜，云何非度彼岸人？今謂此答未遣難，別有意也云云。

> 「䱜魚に喩える」という下は、第四に、行を終えて再び住し、彼岸に至る者を釈して、第七の人に合する。また四人がある：第一は阿羅漢、第二は縁覚、第三は菩薩、第四は仏である。前三者は皆、分かれて到り、仏は究竟して到る。「恒河の中に」という下は、第三に譬えを結ぶ。また三つあり：初めは正しく譬えを結び、次に得失を明かし、三に同異を弁じて、前の意を還って成就する。初めの正しく結ぶ中にまた三つあり：一は通して七人を結び、二は更に問答して義を論じ、三は偏に彼岸に到る人を結ぶ。初めの文にまた二つあり：初めは七人を結ぶ。即ち仏性を見る人である。次に七法を結ぶ。法は即ち仏性である。これが初めであり、七人が皆、仏性の水を離れないことを明かす。譬えと合わせがある。「この七つの衆生」という下は、第二に七法が即ち仏性であることを明かす。一に善、二に不善、三に方便、四に解脱、五次第、六に因、七に果。前後は見るべし。中間の三つは、即ち婆沙の三道である。方便は似解、解脱は解脱道、次第は無礙道である。故に論の〈念処品〉に「次第の如く、必ず解脱を生ず」とある。しかし、この七法を仏性とするには、即ち二つの意がある：一は次第に上の七人に合わせる、二は総合する。次第に合わせるならば、善法は即ち第二の人に合する。凡夫の衆生は少なからぬ善根がある。不善は即ち第一の常に没する人に合する。極重の一闡提は善が無く論ずるに足りない。故に不善と言う。方便道は即ち第三の住を得る人に合する。四念処と煖法の二つの方便を具える。もし解脱道ならば、即ち第四の方を観ずる人に合する。頂法より十六心に至るまでは、真の解脱の人である。故に解脱道と名付ける。次第道は即ち第五の観已にて行ずる人に合する。見諦道より次第に思惟に入り、斯陀含を得る。故に次第と言う。因は即ち行を終えて再び住する者。未だ阿羅漢に至らず、始めて那含である。故に因と言う。果は即ち第七の彼岸に到る人。阿羅漢、中乗、菩薩、仏の四人である。二に七人を総合するとは、前の善悪の二人に対して、即ちこれ河中に常に没し、及び出でてまた没する者である。もし因ならば、即ち住を得るより阿那含に至るまで、並びに皆これ因である。果ならば、即ち阿羅漢等の四人、尽くこれ果である。前の方便道は、尽く是因の位である。「迦葉菩薩言」という下は、第二に論義。二番の問答となる。初めの問いに二つあり：前に涅槃には因が無いと問う。それでどうして果と名付けられるのか？次に涅槃がどうしてまた沙門果と名付けられるのかと問う。仏の答えは二つ：先ず初めの問いに答え、次に後の問いに答える。これ先ず初めの問いに答える。また二つあり：先ず七果を明かし、涅槃は遠離果である。次に二因を明かし、涅槃には了因がある。広く論じればまた義により、不生を説いて生因と名付けることもできるが、実はこれは了である。文に「三解脱門は、よく煩悩のために、不生を生ずる因を作す」とあるのは、煩悩を生ぜずして善法を生ずることを得る、即ち義により三解脱の了因を説いて生因と為し、またよく涅槃のための了因を作す、即ちこれ正義である。「汝の問う如く」という下は、その後の問いに答える。三つの義を具える：一に断乏、二に楽静、三に上人。「迦葉言」という下は、第二番の問答。初めの問いは、更に前の意を論じる。仏の答えに云く：那を翻じて道と為す。沙門は乏と名付く。余の乏を断ち余の道を断つを八正道と名付く。即ち両つの非の意である。「阿羅漢の人」という下は、第三に偏に彼岸に到る四人を結ぶ。また二つあり：前に羅漢と縁覚を結び、次に菩薩と仏を結ぶ。初めの文について、問う：縁覚は果であり、彼岸に到るに属す。その向の位は何れの摂に属すか？答え：前に那含の向は、第五の観已にて即ち行ずるに属すと既に言った。本は住を取って第六と為す。向の中はなお行ずる。どうして第五の行人に属さないのか？また、本は果を用いて第七の人と為す。菩薩は未だ果を得ず。どうして第七の人であるのか？答え：経中に解いて云く「何を以って菩薩と為す？六波羅蜜を行ずるを以ってなり。」波羅蜜は、翻訳して彼岸に渡る。また十地は十波羅蜜である。どうして彼岸に渡る人でないのか？今、謂う：この答えは難を遣るに未だ足らず、別に意がある<note>云云</note>。

「是七眾生不修身」下，第二明得失，又三：初更結中道不定、次正明得失、三總結大宗。初文又四，此第一明沒人。言七人皆不能修身戒心慧者，四種果人正是能修，云何不能？解云：初皆不修，後時佛菩薩修故得到彼岸，闡提不能修即不到彼岸。佛性亦有亦無，得此亦有亦無，即是兩破云云。今謂不應作此解。七人初皆未修，未修之時非是第七人，修已方名第七人。經文現云「七人皆不能修」，云何言初初非第七人。今明此是以別破通，故七人皆不能修身戒心慧。此中以通涅槃為河，明文在此，不須致惑。「是七人中」下，第二明出人。「若有說言」下，第三明偏執不可。「是七種人」下，第四正明中道不定。或一人具七，則始終為語。初雖作惡、後漸修行，成第二三及以第七。或七人各一，則當分為言。「若人心口」下，第二正明得失，又二：初單明失、次雙明得失。初又二：先就三法明失、次結於失。初為三：初就闡提、次就聖道、三就佛性，定皆不可。「是故我於契經」下，第二結失義，又四：初倡二人能謗。「若信心」下，第二倡信慧互無。「不信之人」下，第三結皆是謗。「是故我說」下，第四結互無。「若有說言」下，第二雙明得失，又二：先就闡提成佛不成佛、次就眾生有佛性無佛性，各有三句。初三者，前兩是謗、後一不謗。何故爾？各據一邊取有取無，故兩句成謗。若以從容中道之解，故一句不謗。有人云：闡提不捨惡心即得成佛，是謗義。復言闡提只即此身不得成佛，於異身中乃得成佛，復是謗義。有人云：闡提改惡修善，善心相續不斷，即非謗義。佛性義亦爾。有人云：眾生有佛性，身中已有相好常樂具足，斷惑即得者，亦是謗義。若言眾生全無佛性，亦名為謗。今時有說當果佛性，則墮此中。後之三句，初二是謗、後一不謗，如文。「夫佛性者不名」下，第三總結大宗，又四：一明佛性之理。「未得菩提」下，二明約法，因中說果。三引證，明如來或因中說果、果中說因。「是名如來」下，四結隨自意語。

> 「これらの七種の衆生は身を修めない」というくだりの下、第二に得失を明かす。さらに三節に分かれる。まず中道が定まらないことを再び結論づけ、次に得失を正しく明かし、三つ目に大綱を総括する。初めの部分はさらに四つに分かれ、これが第一に「人を没する」ことを明かす。 「七人みな身・戒・心・慧を修められない」と言うが、四種の果を得た人はまさに修める者である。どうして修められないと言えるのか。ある解釈では「初めはみな修めなかったが、後に仏や菩薩が修めたから彼岸に至れた。一闡提は修められないから彼岸に至れない。仏性は有りとも無しとも言える。この有り無しの両方を得るのが、両方を打ち破ることだ」と述べる。しかし私はこの解釈は正しくないと考える。七人は初めはみな未修の状態だが、未修の時点では第七人ではない。修めて初めて第七人となる。経文には明らかに「七人みな修められない」とあるのに、初めは第七人ではないと言うのはおかしい。私は、これは別の立場で通の立場を破るものであり、ゆえに七人みな身・戒・心・慧を修められないのだと説く。ここでは通の涅槃を川と見なす。明文があるので疑う必要はない。 「この七人の中で」のくだり、第二に「人を出す」ことを明かす。「もし誰かが説いて」のくだり、第三に偏った執着が許されないことを明かす。「これらの七種の人は」のくだり、第四に中道が定まらないことを正しく明かす。あるいは一人が七人を兼ねる場合、それは始終を通しての言葉である。初めは悪をなしても、後に徐々に修行し、第二、第三、第七人となる。あるいは七人がそれぞれ一人ずつなら、それはその立場に応じた言葉である。 「もし人の心や口が」のくだり、第二に得失を正しく明かす。さらに二節に分かれる。初めに単に失を明かし、次に得失を並べて明かす。初めはさらに二つに分かれる。まず三つの法について失を明かし、次に失を総括する。初めは三つに分かれる。まず一闡提について、次に聖道について、三つ目に仏性について、すべて確定してはならないことを明かす。 「ゆえに我は契経において」のくだり、第二に失の意味を総括する。さらに四つに分かれる。初めに二人の謗る者を掲げる。「もし信心が」のくだり、第二に信と慧が互いに欠けることを掲げる。「信じない人は」のくだり、第三にすべてが謗りであると総括する。「ゆえに我は説く」のくだり、第四に互いに欠けることを総括する。 「もし誰かが説いて」のくだり、第二に得失を並べて明かす。さらに二つに分かれる。まず一闡提が成仏するかしないかについて、次に衆生に仏性があるかないかについて、それぞれ三つの句がある。初めの三つでは、前の二つは謗り、後の一つは謗りではない。なぜか。それぞれが一方に偏って有るか無いかを取るから、二つの句が謗りとなる。もし中道の理解でゆったりと対応すれば、一つの句は謗りではないとされる。ある人は言う「一闡提が悪心を捨てずに成仏する」というのは謗りの意味である。また「一闡提はこの身では成仏できず、別の身において成仏する」というのも謗りの意味である。またある人は言う「一闡提が悪を改め善を修め、善心が途切れずに続く」のは謗りではないという。仏性の意味も同様である。ある人は言う「衆生に仏性があり、身の内にすでに相好や常楽が備わっていて、煩悩を断てば得られる」というのも謗りの意味である。もし「衆生にはまったく仏性がない」と言うのも、謗りと呼ばれる。今、当来の果報としての仏性を説く者は、これに陥る。後の三つの句では、初めの二つは謗り、後の一つは謗りではない。文の通りである。 「そもそも仏性というものは」のくだり、第三に大綱を総括する。さらに四つに分かれる。一に仏性の道理を明かす。「菩提を得ずして」のくだり、二に法について、因のうちに果を説くことを明かす。三に引用して証明し、如来が因のうちに果を説いたり、果のうちに因を説いたりすることを示す。「これを如来の」のくだり、四に自らの意に随った言葉であると総括する。

「迦葉菩薩言」下，第三明異同，又三：初明佛性同虛空、次明異虛空、三破外道執虛空佛性。言同異者，肇云「為好同者說同，雖同而異；為好異者說異，雖異而同。」前明佛性有同虛空、不同虛空，此乃法王正典，有同不同。破外道虛空者，此乃破世性眼所見之虛空。初明同義，先問、次答。答中有三：先明佛性同虛空非三世攝、次明同虛空非內非外、三明同虛空無罣閡。初文廣明三世相待是無，故不得有三世。三世既無，虛空即不為三世所攝，文云「虛空無故，非三世攝。」其相如何？空只是無，無即是常。佛性是有而復是常，故三世所不攝；虛空是無而常，亦非世攝。問：若爾，即應佛性是有，不為世攝。何因云常非三世耶？解云：佛性不全有，故不云有。「又虛空無故非內外」下，第二佛性同空非內非外。「如世間中」下，第三佛性同虛空無罣閡，不復細開。

> 「迦葉菩薩が申し上げました」の下、第三に同異を明かす。また三つあり：初めに仏性が虚空と同じであることを明かす、次に虚空と異なることを明かす、三に外道が虚空と仏性を同一視する執着を破る。同異について言うならば、肇公は「同を好む者には同を説く、同じでありながら異なる。異を好む者には異を説く、異でありながら同じ」と述べている。先に仏性には虚空と同じ側面と異なる側面があることを示したが、これこそが法王の正しい教えであり、同じであり、また同じでないのである。外道の虚空を破るとは、世間の肉眼で見る虚空を破るのである。 初めに同じ意味を明かすに、まず問い、次に答えがある。答えには三つある：先に仏性が虚空と同じく三世に捉われないことを明かす、次に虚空と同じく内にも外にもないことを明かす、三に虚空と同じく障害がないことを明かす。最初の文では、三世は相対的なものであり実体がないため、三世は存在しないと広く説く。三世がすでにないならば、虚空は三世に捉われることはない。経文に「虚空は無であるがゆえに、三世に捉われない」とある。その様子はいかなるものか。空とはただ「無」であること、無とはすなわち常なるものである。仏性は「有」でありながら常であり、ゆえに三世に捉われない。虚空は「無」でありながら常であり、同じく三世に捉われない。 問う：それならば、仏性は「有」であり、三世に捉われないはずである。なぜ「常であって三世ではない」と言うのか。解釈：仏性は完全な「有」ではない、ゆえに「有」とは言わないのである。「また虚空は無であるがゆえに内外にあらず」の下、第二に仏性が虚空と同じく内にも外にもないことを明かす。「世間の中にいるが如し」の下、第三に仏性が虚空と同じく障害がないことを明かすが、細かくは開かない。

## 大般涅槃經疏卷第三十

> 大般涅槃経疏 第三十巻