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title: "大般涅槃經疏 · 1"
description: "大般涅槃经疏由隋朝天台宗五祖章安大师灌顶撰述，是注解北本《大般涅槃经》的重要疏钞。灌顶承袭其师智顗思想，依天台教观阐释经义，重点发挥如来常住、众生皆有佛性、一阐提也能成佛等核心教理。该疏系统论述了涅槃境界与佛性思想，融合南北朝佛学成果，是天台宗判教体系的关键著作，对隋唐以后中国佛教思想发展影响深远，被视为研究《大般涅槃经》的权威注疏。"
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### 憍陳如品之一

> 憍陳如品 第一

憍陳如，翻火器，姓也。阿若，翻無知，名也。其義甚多，且出四意：在先得道，是最初上座，左面右面。前佛滅度持法領法，于今未來耆年長德，為最後座首。佛欲善始令終。故對其人。二初轉法輪最先對之布衍甘露，後轉法輪復更對之以開祕藏。三本行理外最初翻邪，今因其人最後破外。四初對之令五人見諦，後對之令十仙見理，以是義故，從人得名。若作付法對陳如者，若領受言教應在阿難，若住持紹繼應在迦葉，弘闡大旨應在文殊。而諸大弟子，或已滅度、或復未來，耆年長德見佛始終，必藉上座堪任付囑，故對告之，流通遺命。開善云：翻經未盡只，有序、正。正又為三：初開宗略說、二辨宗廣說、此品是第三攝邪歸正說。光宅云：翻雖未盡，三段且足，此品即是流通段也。又云：此品答第三十七，今欲問諸陰，而我無智慧。興皇云：若是答問，得前少意、失後諸文。若言流通，得命阿難文，又失其餘。若評諸師，各得一意。若引曇無讖言：此經義足，而文未盡。若引《居士請僧經》云：三品未來。又引下文命阿難，則有二事：一令化須跋、二應付囑。命化已竟未見付囑，當知未盡。言有流通者，一攝邪歸正流通、二付囑流通。雖無付囑之文，而有攝邪，故言有流通分。今明此品猶是涅槃用，其義則寬。現在有攝邪攝惡之用，將來有救惡救邪之用，欲為正說、流通兩塗，皆得欲作翻盡不盡，二義無妨。今明涅槃用，前品是攝惡用、此品是攝邪用。就文為二：第一結正觀行、第二破諸邪說，修行之要莫過此兩。正觀是自行上求，破邪是利他下化。正觀是行善，破邪是止善。正觀是解生，破邪是惑滅。正觀是智德，破邪是斷德。即四悉意。初明正觀，又二：第一正辨觀行、第二總結褒貶。此初，雙明常無常觀，皆憑陰為境。不論餘法者，總有四義：一化道始終、二隨物所宜、三結一經首末、四諸法初後。一化道始終者，《法華》云「昔於波羅柰，轉四諦法輪，分別說諸法，五眾之生滅。」五眾即五陰，生滅即無常。今入涅槃，還滅五無常，得五皆常。二隨所宜者，可見。三言結一經首末者，此經開宗便言我今施汝常命色力，今最後經還結此意。辨五陰是常，欲明命色安辨即是五陰。四言結諸法始終者，凡觀行之體，無不先以五陰為始、種智為終。故《大品》等經多言色空受想等空，乃至種智。五陰即其始，涅槃即其終，略其中間。他解：色是閡法、心是緣法，佛無閡無緣，故無色心。若有色者，應覆之以屋、著之以衣。所言色者，辨智明淨，譬之於色。今明此解違經，經云「因滅是色獲得常色」，亦應滅於閡色獲無閡色，亦應滅於緣心獲無緣心。何得猶存緣心，復呼緣心而為色耶？若以色譬智慧，受想行識復譬何等？豈可以小乘牛迹乘於大海？又一師云：據實論之，佛無色心。引經云「爾時過意界，住在智業中。」雖引此經，還成自害。智業是何，豈非佛心？又言凡夫名陰，佛豈然乎？佛名五分何者？陰名蓋覆。佛無蓋覆，故非是陰。例如因名萬行、果名萬德。此亦違經。經云「獲得常色，受想行識亦復如是。」豈非常陰常色心耶？上文云「我今施汝常命色力安無閡辨」，即常住陰覆蓋法界，何所妨害而言非陰？夫法身者，非常陰非無常陰，界入亦爾；而能常陰、能無常陰。此中正對陳如說於前義，破無常色獲得常色，即常色陰。云何違經言無色陰？若作圓說，即無常色仍是常色，受等亦爾，即無常陰是於常陰，界入亦爾。雖別圓二種，同明常陰常界入等。二結成褒貶，其文可見，因此破邪。

> 憍陳如は、漢訳で「火器」と訳されるのが姓であり、「阿若」は「無知」と訳されるのが名です。その意味は非常に多くありますが、ここでは四つの意を示します。第一に、彼は最初に悟りを得た者であり、最も初期の上座（長老）です。仏の左右に仕え、前の仏が滅度された後も法を保持し統率し、現在から未来にわたって年長の徳ある者として、最後の座の首となります。仏は善き始まりをもって善き終わりを成し遂げようとされたので、この人物に対して説かれました。第二に、初めて法輪を転じた際に最初に彼に対し甘露の教えを広め、後に再び法輪を転じた際にも彼に対し秘蔵を開くためでした。第三に、元々は理の外にあって最初に邪を翻した者であり、今この人物をもって最後に外道を破るためです。第四に、最初に彼に対して五人に見諦（真理を見る）を得させ、後に彼に対して十人の仙人に理を見させるためです。これらの理由により、人に基づいて名が付けられています。もし付法（法の継承）を憍陳如に託すとすれば、教えを受けるべきは阿難であり、住持（教えを維持し継承する）は迦葉であり、大旨を弘め説くのは文殊であるべきです。しかし、諸々の大弟子たちの中にはすでに滅度した者もいれば、まだ未来の者もいます。年長の徳ある者は仏の最初から最後を見届けており、必ず上座に託して付嘱を担わせるにふさわしいので、彼に対して告げて遺命を流通させたのです。 開善寺の僧は言う：「経典の翻訳はまだ完全ではなく、序分と正宗分のみがあります。正宗分はさらに三つに分かれます。初めに宗旨を開いて略説し、次に宗旨を弁じて広説する。この品は第三の、邪を摂めて正に帰する説です。」光宅寺の僧は言う：「翻訳は完全ではないが、三段は備わっており、この品は流通分に当たります。」また言う：「この品は第三十七の問い『今、諸陰について問いたいが、私には智慧がない』に答えるものです。」興皇寺の僧は言う：「もし問いに答えるならば、前半の意を得ても後半の諸文を失います。もし流通分と言うならば、阿難に命じる文を得ても、その他を失います。」諸師を評すれば、各々一つの意を得ています。もし曇無讖の言葉を引けば「この経は義は十分だが、文は完全ではない」。もし『居士請僧経』を引けば「三品が未来にある」。また下文で阿難に命じることを引けば、二つの事がある。一つは須跋を教化させること、二つは付嘱することである。教化を終えても付嘱が見えないから、まだ完全でないことが分かる。流通分があると言うのは、一つは邪を摂めて正に帰する流通、二つは付嘱の流通である。付嘱の文はないが、邪を摂めることがあるので、流通分があると言う。今、この品は涅槃の用であると明かす。その意味は広い。現在には邪を摂め悪を摂める用があり、将来には悪を救い邪を救う用がある。正説とも流通とも、どちらの解釈も可能であり、翻訳が完全か不完全かという二つの意味も妨げない。今、涅槃の用を明かすに、前の品は悪を摂める用であり、この品は邪を摂める用である。文を二つに分ける。第一に正観の行を結び、第二に諸々の邪説を破る。修行の要はこの二つに過ぎない。正観は自己の修行として上を求めることであり、破邪は他者を利する下化である。正観は行善であり、破邪は止善である。正観は解が生じることであり、破邪は惑が滅することである。正観は智徳であり、破邪は断徳である。すなわち四悉檀の意である。 初めに正観を明かす。さらに二つに分ける。第一に正しく観行を弁じ、第二に総括して褒貶を結ぶ。この初めは、常と無常の観を並べて明かし、いずれも五陰を境として拠り所とする。他の法について論じないのは、総じて四つの意味があるからである。一に化導の始終、二に物に随って宜しきに従う、三に一経の首末を結ぶ、四に諸法の初めと後である。一に化導の始終とは、『法華経』に「昔、波羅奈において四諦の法輪を転じ、諸法を分別して説き、五衆の生滅」とある。五衆は五陰であり、生滅は無常である。今、涅槃に入り、五つの無常を滅して、五つすべてを常とする。二に物に随って宜しきに従うとは、見て明らかである。三に一経の首末を結ぶとは、この経の開宗において「我、今、汝に常の命・色・力を施す」と言い、今、最後の経においてもこの意を結ぶ。五陰は常であると弁じるのは、命・色・安・弁がすなわち五陰であることを明かそうとするからである。四に諸法の始終を結ぶとは、凡そ観行の体は、必ず先に五陰を始めとし、種智を終りとする。故に『大品般若経』などの経は多く「色は空、受・想等も空、乃至、種智」と言う。五陰はその始めであり、涅槃はその終りであり、中間を略す。 他の解釈では、色は障碍のある法であり、心は縁に依る法である。仏には障碍も縁もないので、色も心もない。もし色があるならば、家で覆い、衣を着せるべきである。言うところの色とは、弁智の明浄を色に譬えたものである。今、この解釈は経に違する。経は「因ってこの色を滅して常色を得る」と言う。また、障碍のある色を滅して障碍のない色を得るべきであり、また、縁に依る心を滅して縁に依らない心を得るべきである。どうして縁に依る心をなお残し、さらにその心を呼んで色とするのか？もし色を智慧に譬えるならば、受・想・行・識はさらに何に譬えるのか？どうして小乗の牛の足跡をもって大海を測ることができようか？またある師は言う：「実に論ずれば、仏には色も心もない」と。経を引いて「その時に意の界を過ぎて、智業の中に住す」と言う。この経を引いても、自らを害することになる。智業とは何か、それは仏の心ではないのか？また、凡夫はこれを陰と名づける。仏はどうであろうか？仏は五分（戒・定・慧・解脱・解脱知見）と名づけるが、陰とは覆い隠すという意味である。仏には覆い隠すことがないので、陰ではない。例えば、因を万行と名づけ、果を万徳と名づけるようなものである。これもまた経に違する。経は「常色を得、受・想・行・識もまた同じくこれである」と言う。どうして常陰・常色心ではないのか？上文に「我、今、汝に常の命・色・力・安・無礙弁を施す」とある。すなわち常住の陰は法界を覆うのであり、何の妨げがあって陰ではないと言うのか？法身とは、常陰でもなく、無常陰でもなく、界や入もまた同じである。しかし、常陰となり、無常陰となることができる。ここで、まさに憍陳如に対して前の義を説き、無常の色を破って常の色を得る。すなわち常の色陰である。どうして経に違して色陰がないと言うのか？もし円教として説くならば、すなわち無常の色はなお常の色であり、受等もまた同じで、すなわち無常の陰は常の陰であり、界や入もまた同じである。別教と円教の二種はあるが、同じく常陰・常界入などを明かす。 二に、褒貶を結成する。その文は見て明らかである。これによって邪を破る。

「爾時外道」下，第二破邪，又二：初緣起、次正破。就緣起中二：初謀議、次求佛角力。謀議有五番，可見。「爾時多有」下，次欲求角力。「爾時眾中闍提」下，第二正破十仙，即為十章。此是其一。闍提首那，宗迦毘羅，執因有果因果同時。故《百論》云「迦毘羅弟子，誦僧佉經二十五諦。」今此具出，故知是也。此章為二：一論義、二歸伏。論義為四：一定義宗、二受定、三正難、四通釋。初定宗者，我聞瞿曇涅槃常者，為定爾不？次答如是如是，即是受定。然涅槃何曾定是常、無常、亦常亦無常、非常非無常耶？欲以常破之，故言如是如是。「婆羅門言」下，第三正難，又三：先非佛義、次正難、三取意結。初如文。次正難中有五難，不出兩意：初四難同令無常，後一難非但無常亦無樂淨我。初明修無常想得常涅槃，不應無常因得於常果。舊當此難。彼云涅槃是果，修於習因還生習果。涅槃之果既其是常，復以何等為此常因？乃至我淨亦復如是。彼若答言我之涅槃自是常果，墮自然義云云。「瞿曇又說解脫欲貪」下，第二難，明解脫欲貪得於涅槃。所脫欲貪既無常者，能脫涅槃亦是無常。此難最拙。「瞿曇又說從因故生天」下，第三直明從因生故故是無常。涅槃是果，即從因生，不得是常。「瞿曇亦說色從緣生」下，第四開作兩難：若涅槃即陰，陰既無常，涅槃亦爾。若離五陰，與五陰異，猶如虛空，即不可得。云何眾生能得涅槃？「瞿曇亦說從因生」下，第五難，明涅槃既是無常不得是常者，何但無常亦無樂淨我。「若瞿曇說亦常無常」下，第三取意結。難意云：佛見難常既不可通，恐佛移宗向亦常亦無常，即成二語。若二語者，即不名佛。「佛言」下，第四通釋，文為二：初答正難、次答結難。初文又二：初答第一難、次答第三難。所以不答餘三難者，其難涅槃令是無常，故餘從例。不答第二所斷欲貪者，欲貪無常，云何能令斷亦無常？不答第四者，涅槃是常，何論即離？不答第五者，涅槃是常，寧無樂淨？今先答初難。佛先問之令出彼義，其向拒抗不出其義，佛因餘難遂出其義。我性是常，大等諸法何妨無常。若爾，即是能生之因是常，所生之果無常。佛便並通，如汝法中因常果無常者，何妨我法因是無常而果是常云云。此二十五諦與《百論》中有同有異，總為三：一者名異體同。論云「從冥生覺，從覺生我心。」此中云「從性生大，從大生慢。」即是名異體同者，冥是八萬劫外冥然不知。此中言性是萬法性，冥伏在於八萬劫外不可得知。論云覺者，即是覺知八萬劫事。此中言大，只是能大，覺知慢我，易見。二者名體俱同，即是五大五塵、五情五業，并心平等。三名體俱異者，論云「神我為主即是一根。」此云「染麁黑者亦是一根。」此即大異，染、麁、黑三，云何為一？解云：三不並起。貪等後前，隨取其一，足二十四。問：此闍提既其宗於迦毘羅義，何故不同？解云？當佛世時，不見三師但見其徒，其徒改本，故說不同，有染等異。如莊嚴云：佛果無有續、待、因成三假。後招提琰是彼學士，即改云佛果無因成，不妨有續待。開善云：二諦同體。後龍光是其學士，即改二諦各各有體云云。五業中云男女二根，論以大小便為二根，各有所據。論就一體，經就二人云云。但此性諦，或謂即是神我，或謂是冥初，皆有其義。冥初據二十五諦之初，以是冥諦。又言是常，乃是神我，未測何異。於中云從慢生十六法者，此未即生一十六法，無有染黑麁三一時而起，隨從其一生，此不定故，先不說言。十六法者，即是五大、五知根、五業根、心平等根。列五根名，乃云觸者謂身為觸。問：平等根者，論家所明意識以託五根起者為五知根，心既遍緣故名平等。文言是二十五法皆性生者，其實性生二十四法，能所合數故二十五。準彼義者，性即是常，所生無常，佛以彼義而並通，云何妨我義因是無常而果是常。從「汝等法中有二因不」下，第二答彼第三難，亦先一一覈出彼義。文言了因所了即同了不者，謂了因所了之果，必與了同不。如燈是了因，了出缾盆之果。此之了因與缾盆等了果同不？彼云不同。何故爾？如燈名了因，因人息之火滅，豈令缾滅？涅槃亦爾。雖從了出涅槃果常，汝不得云從因生果即是無常。若答汝義既有二因，了因所了之果不同能了之因，我亦如是，此之涅槃從了因有，了因無常涅槃果常。「是故如來所說有二」下，第二破其取意結難。明佛無二言，隨根說法，有時說有、有時說無，意欲令解中道正法，寧是二語？後文更取眼色生識釋所說意。佛之二語為了一語者，謂眼色雖二而同生識，識是一故，故言一語。

> 「さて、外道」という以下の部分は、第二段の邪見を破る説法です。ここはさらに二つに分かれます。初めに因縁（話のきっかけ）を述べ、次に本格的に論破します。因縁の中にも二つあります。初めに謀議（策略を話し合うこと）、次に仏に角力を求めることです。謀議は五つのやり取りがあり、それは明らかです。「その時、大勢の」という以下の部分は、次に角力を求めようとする場面です。「その時、会衆の中の闍提（じゃだい）」という以下の部分は、第二段の十人の仙人を本格的に論破する説法で、十の章に分かれています。これはその一つです。 闍提首那（じゃだいしゅな）は、迦毘羅（かびら）の教えを宗とし、「因（原因）には果（結果）があり、因と果は同時である」と主張します。故に『百論』には「迦毘羅の弟子は、僧佉（そうきゃ）経の二十五諦を誦する」とあります。今、ここにその内容が詳細に示されているので、それが彼であると分かります。 この章は二つに分かれます。第一に論義（議論）、第二に帰伏（帰依し伏すること）です。論義は四つに分かれます。第一に宗旨を定めること、第二にその定めを受け入れること、第三に本格的に問い詰めること、第四に疑問を解き明かすことです。 第一に宗旨を定めるとは、「私は、瞿曇（くどん：仏陀の尊称）が涅槃は常住であると説かれるのを聞きましたが、それは確かにそうなのでしょうか？」と問うことです。次に「その通りです、その通りです」と答えるのが、第二の定めを受け入れることです。しかし、涅槃がどうして「常」「無常」「常であり無常」「常でも無常でもない」と定められるものでしょうか。常という概念で彼を論破しようとして、「その通りです、その通りです」と答えたのです。 「婆羅門（ばらもん）が言うには」という以下の部分は、第三の本格的な問い詰めです。さらに三つに分かれます。先ず仏の教えを否定し、次に本格的に問い詰め、三つ目に意図をくみ取って結論づけます。初めの部分は経文の通りです。次に本格的な問い詰めの中には五つの難問がありますが、その内容は二つの意味に過ぎません。初めの四つの難問は、いずれも涅槃を無常とさせようとするものです。最後の一つの難問は、無常であるだけでなく、楽・浄・我でもないと主張するものです。 最初の難問は、「無常という想いを修して、常住の涅槃を得る」ということは、「無常の因から常住の果を得る」ことになり、道理に合わないと問うものです。これは古来からある難問です。彼（闍提）は「涅槃は果であり、習因（修行の原因）を修めれば、また習果（修行の結果）が生じる。涅槃という果が既に常住であるなら、その常住の因は何なのか？ 我・浄・楽についても同様である」と主張します。もし相手が「我々の涅槃はそれ自体が常住の果である」と答えるなら、それは自然（じねん）の理屈に堕ちてしまいます（と注釈がある）。 次の第二の難問は、「欲望や執着からの解脱が涅槃を得る」と説くことについて、「解脱されるべき欲望や執着が無常であるならば、解脱する側の涅槃もまた無常のはずだ」と問うものです。この難問は最も拙劣です。 第三の難問は、「原因によって天に生まれる」と説くことから、直接的に「原因から生じるものは無常である」と論じます。涅槃は果であり、原因から生じる以上、常住であることはできません。 第四の難問は、「色は縁（条件）から生じるとも説く」ことから、二つの難問を展開します。もし涅槃が五蘊（ごうん：心身を構成する五つの要素）そのものであるなら、五蘊が無常である以上、涅槃もまた無常です。もし五蘊を離れ、五蘊とは別のものであり、虚空のようであるなら、それは捉えどころがなく、どのようにして衆生が涅槃を得ることができるというのでしょうか。 第五の難問は、「原因から生じるとも説く」ことから、涅槃は無常であり、常住ではないと論じます。さらに、無常であるだけでなく、楽・浄・我でもないとします。 「もし瞿曇が『常であり無常である』とも説くなら」という以下の部分は、第三の意図をくみ取って結論づけるものです。その難問の意図は、「仏が難問に直面し、『常』という主張が通用しないと見て、『常であり無常』という立場に移ろうとするなら、それは二つの異なる言葉（二語）になる。もし二つの異なる言葉を説くなら、それは仏とは言えない」というものです。 「仏が言うには」という以下の部分は、第四の疑問を解き明かす段階です。経文は二つに分かれます。初めに本格的な難問に答え、次に結論づける難問に答えます。初めの部分はさらに二つに分かれます。先ず第一の難問に答え、次に第三の難問に答えます。残りの三つの難問に答えなかった理由は、それらが涅槃を無常とさせる難問であり、最初の答えに準じるからです。第二の難問（断つべき欲望・執着について）に答えなかったのは、「欲望や執着が無常であるなら、どうしてそれを断つことも無常と言えるのか？」という難問だからです。第四の難問に答えなかったのは、「涅槃が常住なら、五蘊と同一か別かという論議は無意味だから」です。第五の難問に答えなかったのは、「涅槃が常住なら、どうして楽・浄・我が無いことがあり得るのか」という難問だからです。 ここで先ず、最初の難問に答えます。仏は先に彼に問いかけて、その教義を引き出そうとします。彼は最初は拒んで教義を明かしませんが、仏が他の難問をきっかけに、ついにその教義を引き出します。「我（が：永遠の自我原理）の性（本質）は常住であり、『大』などの諸法が無常であっても何の妨げにもならない。もしそうなら、生み出す原因（因）は常住で、生み出される結果（果）は無常ということになる。」仏はこの点を論じ、「あなたの教えでは、因が常で果が無常であっても構わないなら、私の教えで因が無常で果が常住であっても、何の妨げにもならないではないか」と述べて、論点を統一的に解き明かします。 この二十五諦は『百論』の説と、同じ点もあれば異なる点もあります。全体として三つに分類できます。第一に、名前は異なるが本質は同じものです。『百論』には「冥（みょう）から覚（かく）が生じ、覚から我心（がしん）が生じる」とあります。ここでは「性（しょう）から大（だい）が生じ、大から慢（まん）が生じる」とあります。これが名前は異なるが本質が同じというものです。「冥」とは八万劫（はちまんごう：非常に長い時間）の彼方で、冥然として知ることのできない状態です。ここで言う「性」とは、万物の根本原理であり、八万劫の彼方に伏在して知ることができません。『百論』で言う「覚」とは、八万劫の事柄を覚知することを意味します。ここで言う「大」とは、大きく機能するという意味で、覚知や慢、我などを説明するのは容易です。 第二に、名前も本質も同じもの、すなわち五大（五大元素）、五塵（五つの感覚対象）、五情（五つの感覚器官）、五業（五つの行動器官）、および心平等根（心の根源）です。 第三に、名前も本質も異なるものです。『百論』では「神我（しんが：永遠の主体）が主であり、これが一つの根本（一根）である」とします。ここでは「染・麁・黒（ぜん・そ・こく）の三つが一つの根本である」とします。これは大きな違いです。染・麁・黒の三つがどうして一つなのでしょうか？ 解釈すると、この三つは同時には生じません。貪りなどの後に先に現れたものがあり、その中の一つを取って、二十四諦とします。 問い：この闍提は迦毘羅の教義を宗としているのに、なぜ異なるのでしょうか？ 答え：仏陀の在世当時、三人の師（迦毘羅など）は見られなかったが、その弟子たちは見られた。その弟子たちが師の教えを改変したため、異なる説が生まれ、染などの違いが生じたのである。例えば、荘厳（僧侶の名前）は「仏果には、続・待・因成の三仮（さんけ：三つの仮説）はない」と説いた。後に招提琰（しょうだいえん）という彼の弟子が、「仏果に因成がないのは構わないが、続と待はある」と改変した。また、開善（かいぜん）は「二諦（にたい：真実の二つの側面）は同一の本体を持つ」と説いた。後に龍光（りゅうこう）という彼の弟子が、「二諦は各々別々の本体を持つ」と改変した。 五業の中で「男女の二根」について、『百論』では大小便を二根としていますが、それぞれ根拠とするところがあります。『百論』は一つの身体に基づいて論じ、経典は男女の二人に基づいて論じています。 ただ、この「性諦（しょうたい）」は、あるいは神我のことであり、あるいは冥初（みょうしょ）のことであるとも言われ、いずれも意味があります。冥初は二十五諦の最初にあるため、冥諦（みょうたい）です。また、常住であると言われるのは神我のことですが、その違いははかり知れません。その中で「慢から十六の法が生じる」とありますが、これはすぐに一つの十六法が生じるという意味ではありません。染・黒・麁の三つが同時に生じることはなく、その中の一つに従って生じます。これは一定しないため、先に述べなかったのです。 十六の法とは、すなわち五大、五知根（五つの感覚器官）、五業根（五つの行動器官）、心平等根です。五根の名前を列挙する中で、「触（しょく）とは身体を触ることである」と述べています。 問い：平等根とは、論者が明かすところの意識であり、五根に基づいて生じるものを五知根とします。心はあらゆる対象に遍く関わるため、平等と呼ばれます。 経文に「二十五の法はすべて性から生じる」とありますが、実際には性が二十四の法を生じ、能生（生み出す側）と所生（生み出される側）を合わせて二十五と数えます。彼の教義に従えば、性は常であり、生じるものは無常です。仏はその教義を用いて論じ、「どうして私の教義で因が無常で果が常住であることを妨げるのか」と述べます。 「あなたの教えには二つの因があるか」という以下の部分は、第二に彼の第三の難問に答えるものです。ここでも先ず一つ一つ彼の教義を明確にしていきます。「了因（りょういん）の了（あきらか）にしたところのものは、了（あきらか）と同じであるか否か」とは、了因によって明らかにされた結果（果）は、必ず了因と同じであるかどうかを問うものです。例えば、灯りは了因であり、瓶や盆という結果を明らかにします。この了因は、瓶や盆などの結果と同じでしょうか？ 彼は「異なる」と答えます。なぜか？ 灯りは了因と呼ばれ、この原因となる火が消えれば、瓶は消えません。涅槃も同様です。了因から涅槃という常住の結果が現れたとしても、あなたは「原因から結果が生じるから無常である」と主張することはできません。もしあなたの教義に二つの因があり、了因によって明らかにされた結果が能了（あきらかにする側）の因と異なるなら、私も同様です。この涅槃は了因から生じますが、了因は無常であり、涅槃という結果は常住です。 「是故如來所說有二」という以下の部分は、第二に、彼の意図をくみ取って結論づける難問を論破します。仏には二つの異なる言葉（二語）はなく、衆生の根機に応じて説法し、時に「有」と説き、時に「無」と説くのは、中道の正しい法を理解させようとする意図であり、どうして二つの異なる言葉と言えるでしょうか。後の経文では、さらに「眼（げん）と色（しき）から識（しき）が生じる」という例を挙げて、説法の意図を説明します。仏の「二語」が「一語」を明らかにするためのものとは、「眼と色は二つだが、共に識を生じ、識は一つである」という意味で、だから「一語」と言うのです。

從「婆羅門言」下，二歸伏，又六：一請、二說、三述、四印、五歸、六許。初，更請佛說。「爾時世尊」下，二佛即答。云苦諦者，亦二亦一，乃至道諦亦復如是。此有二解。一愛法師云：以實法苦樂為二，而相續道中終以苦識研成此樂，故是一義，故言亦二亦一。道諦例爾。又有師解：佛說四真諦，首那因此四諦悟道，不應只是相續假義。所以有此文者，如《大品．差別品》中善吉問佛：為以苦諦得度？為以苦智乃至道智得度？佛答云：不以苦諦苦智乃至道智，我說四諦平等名為得道。又云：四諦平等即是涅槃。是則苦諦是境、苦智是智，世諦道中有境智二；若見無生，則不見有境智之別，皆是一相，故亦二亦一。「婆羅門言」下，三述。言苦諦一切凡夫是二、聖人是一者，若依愛師，寧解此文？後用凡夫分別，故見有境智之二；聖忘境智，皆是一真，故言聖一。四印、五歸，如文。

> 「婆羅門の言葉に」以下は、二つの帰伏である。さらに六つに分かれる。一に請い、二に説き、三に述べ、四に印し、五に帰し、六に許す。初めに、再び仏に説き請う。「その時、世尊は」以下は、二つ目として仏がお答えになる。苦諦について「二とも一ともいう」と説かれ、道諦についても同様である。これには二つの解釈がある。第一に愛法師の解釈では、実法における苦と楽を二つとするが、相続する道においては、結局は苦の識がこの楽を練り成すのであり、これが一つの義である。ゆえに「二とも一ともいう」とし、道諦もこれに準ずる。第二に、ある師の解釈では、仏は四つの真諦を説かれた。首那（シュウナ）はこの四諦によって悟りを得たのであって、単なる相続の仮の義であってはならない。この文がある理由は、『大品般若経・差別品』において、善吉（スブーティ）が仏に問うた。「苦諦によって度を得るのでしょうか。それとも苦智、乃至道智によって度を得るのでしょうか。」仏は答えて言われた。「苦諦や苦智、乃至道智によってではない。私は四諦の平等を説き、それを得道と名づける。」また言われた。「四諦の平等、すなわちこれが涅槃である。このように、苦諦は境であり、苦智は智である。世俗諦の道には境と智の二つがある。しかし無生を観ずるならば、境と智の区別はなく、すべてが一つの相である。ゆえに二とも一ともいうのである。」「婆羅門の言葉に」以下は、三つ目として述べる。「苦諦において、すべての凡夫は二であり、聖人は一である」とは、もし愛師に従えば、この文をどのように解釈するのか。後に凡夫の分別を用いるため、境と智の二つがあると見るのである。聖人は境と智の分別を忘れ、すべてが一つの真実である。ゆえに「聖人は一」という。四つ目の印と五つ目の帰は、文の通りである。

### 陳如品之一

> 陳如の章 その一

六許。佛告陳如聽其出家者，陳如是最後付囑。汝既上座，須知僧事。得羅漢果者，若依開善，此皆現迹。若依莊嚴，實得羅漢。以佛神力說法之功，即令此人從凡入聖，極為奇特。但前文明已得正見，此中復言出家之後方得羅漢，故知前明正見難測淺深，亦可始得初果，亦可只是方便，是故今方得羅漢果。私謂：迴邪入正即是正見，何論入位之淺深耶？

> 仏はお許しになり、陳如にその出家を聞し召された。陳如は最後の付託を受けた者である。あなたは既に上座であるから、僧の事柄を知らねばならない。阿羅漢果を得ることについて、開善寺の見解に従えば、これらはすべて現れの姿である。荘厳寺の見解に従えば、実際に阿羅漢を得たのである。仏の神通力による説法の功徳によって、この人を凡夫から聖者へと導くことは、まことに稀有なことである。しかし、前の本文ではすでに正見を得たと明らかにされており、ここで出家した後に阿羅漢を得たと述べられていることから、前に説かれた正見の深浅は測りがたく、初果を得たばかりの場合もあれば、単なる方便に過ぎない場合もあることがわかる。それゆえ、今になって初めて阿羅漢果を得るのである。私見では、邪を回して正に入ることを正見というのであり、位に入る深浅を論じる必要はなおさらないのではないだろうか。

「婆私吒」下，第二人，此是優樓僧佉學徒。文亦有二：初論義、後明歸伏。論義有四番，前二文各有問答，可尋。然問佛涅槃常耶？佛亦答言如是。至論涅槃何曾定常，復問無煩惱為涅槃耶？佛亦答如是。佛何曾云無煩惱為涅槃耶？前文不云已斷煩惱為涅槃，但以不生煩惱為涅槃。今對此外道宜作此說，為其是計斷見之人。但第三番所舉四無，意以滅無為難。若法滅無，云何復有常樂？未生即是未來之無，滅無即是過去之無。佛答云同於互無，此亦對於外道故說。若論正理，非全互無。所以然者，本以牛馬互無名為互無，今明生死之中本有涅槃，是故正理非全互無。其中第四番，彼仍復難：若是互無，亦應無常。雖牛中無馬而言有馬，馬中無牛亦爾，牛馬終是本無今有。涅槃亦爾，涅槃中無生死而有涅槃者，即是本無今有，亦是無常。佛今若之，雖同互無而復不同，為異無中有三種無：一是互無、二是先無後有、三已有還無。當知涅槃同是異無，即無此三事，是故常樂。文中有三：此先法說、次舉三病三藥為譬、三舉譬明果。次文中云「蜜能治冷」，依醫者說，蜜性乃冷。是土宜異，不必皆爾。又譬中云三種病中無三種藥、三種藥中無三種病者，舊以此文證無同體。若使慧中得有無明，藥乃有病，乖於此說。然莊嚴舊解，明無漏中實有有無之惑，此言無者但無取相等惑。若招提解：以真無漏實不得報，無勞說於無明以入解體。而《勝鬘》中說無明住地緣無漏業為因者，此說相似無漏及被導無漏，不言真無漏。「婆私吒言如來為我說常無常」下，第二歸伏。其文云色是無常解脫色常者，有二解：一者色既無常，我解脫色則無復色，故所以常。二云解脫即色，色即是常。故前文云「獲得解脫常住之色」。後解為勝。此中寄陳如懺悔文。言禰瞿曇姓者，舊為禰音，謂彼呼汝為禰，故言禰瞿曇姓。今依冶城西房，從法師說為苨音。但翻此在北，北人多云苨，亦云禰我之音。《大集經》中亦用此字，彼經即是人旁作爾。文云瞿曇姓者，若佛弟子稱佛為瞿曇，如前〈現病品〉偈中云「瞿曇大聖德，願起演說法」者，此謂稱歎之詞。明佛雖復七世已來釋種王世，而其本族起自瞿曇大姓，世胄殊遠非始今日。若外道意稱瞿曇者，此不論德，直以姓為言，此是經略之謂。如世人言不呼人位但呼姓者，遂為輕略。又云我亦不能久住毒身今欲入滅者，謂本有神通即得聖果，用邊際智故入涅槃。前文云得阿羅漢施三衣者，準理得羅漢已具足衣鉢，今言無者，若善來羅漢，即有三衣。既自得羅漢，是故須衣。又此人本是出家外道，不俟剃髮。何以知之？前文闍提云婆羅門，今婆私吒但言梵志，梵志即是出家外道，所以更須施其應器。

> 「婆私吒よ」の次、第二番目の人物は、優樓僧佉の弟子である。この文にも二つの部分がある。初めに議論があり、後に帰伏が示される。議論は四つの段階から成り、最初の二つの文にはそれぞれ問答があるので、確認できる。さて、「仏の涅槃は常であるのか」と問うたところ、仏もまた「その通りである」と答えた。しかし涅槃について考えれば、どうして常と決まっているだろうか。さらに「煩悩のないことが涅槃なのか」と問うたところ、仏もまた「その通りである」と答えた。仏はどこで「煩悩を断じたものが涅槃である」と言っただろうか。前文では「すでに煩悩を断ったものが涅槃」とは言わず、「煩悩を生じないことが涅槃」と述べているのだ。今、この外道に対しては、このように説くのが適切である。なぜなら、彼は断見を執する者だからである。ただし、第三番目の段階で挙げられた四つの「無」は、消滅・無を難じる意図がある。「もし法が滅して無となるなら、どうして常・楽があるだろうか」と。未だ生じていないものは未来の無であり、滅して無となったものは過去の無である。仏は「互いに無であることと同じだ」と答えた。これもまた、外道に対して説かれたものである。正理について言えば、完全な互無ではない。なぜなら、本来、牛と馬が互いに無であることを「互無」と言うが、今、生死の中に本来涅槃があることを明らかにするからであり、それゆえ正理は完全な互無ではないのである。その中の第四番目の段階で、彼はさらに難じた。「もし互無であるなら、無常であるべきだ。牛の中に馬がいないと言いながら、馬があると説く。馬の中に牛がいないのも同様である。牛と馬は結局、本来無かったものが今有るようになったものだ。涅槃もまた同じである。涅槃の中に生死は無いが、涅槃があると言うならば、それは本来無かったものが今有るようになったものであり、無常でもある。仏は今、これに対して、互無と同じでありながら、また同じではない、と説く。」異なる「無」の中に三種の無がある。一つは互無、二つ目は先に無く後に有るもの、三つ目は既に有ったものが還って無くなるものである。知るべきである。涅槃は同じく異なる「無」であるが、この三つの事柄が無いがゆえに、常・楽なのである。文の中に三つの部分がある。まず法による説明、次に三つの病と三つの薬の譬えを挙げ、三つ目に果報を明らかにするための譬えを挙げる。次の文に「蜜は冷えを治す」とあるが、医者の説によれば、蜜の性質は冷性である。これは土地の特性によるもので、必ずしも全てがそうとは限らない。また、譬えの中に「三種の病の中に三種の薬は無く、三種の薬の中に三種の病は無い」とある。古くはこの文をもって、同体でないことの証拠とした。もし智慧の中に無明があり得るなら、薬に病があることになり、この説に反する。しかし、荘厳の古い解釈では、無漏の中に実に有無の惑いが存在することを明らかにし、ここで「無」と言うのは、ただ取相等の惑いが無いことを意味するとする。また、招提の解釈では、真の無漏は実際に果報を得ることがないため、無明が解脱の本体に入り込むことを説く必要はないとする。そして『勝鬘経』の中で「無明住地が無漏業を縁として因となる」と説くのは、これは相似の無漏や導かれた無漏について述べたものであり、真の無漏について言ったものではない。 「婆私吒が言う『如来よ、私のために常・無常を説いてください』」の次、第二の帰伏の部分である。その文に「色は無常であるが、解脱の色は常である」とあることについては、二つの解釈がある。一つは、色は無常であるが、私が色から解脱すれば、もはや色は無くなるので、常であるというもの。二つ目は、解脱はすなわち色であり、色はすなわち常であるというもの。前文に「獲得した解脱は常住の色である」とあるため、後の解釈が勝れている。 この中に、陳如の懺悔文が仮託されている。「禰瞿曇姓」と言うのは、古くは「禰」（ねい）と読んだ。これは彼らが「汝」を「禰」と呼んだため、「禰瞿曇姓」と言うのである。今、冶城西房の法師の説に従えば、「苨」（に）と読む。ただ、これを北方に翻訳した場合、北方の人々は多く「苨」と言い、「禰」を「われ」という意味で用いることもある。『大集経』にもこの字が使われており、その経典では人が旁に「爾」と書かれている。「瞿曇姓」という文について、もし仏の弟子が仏を「瞿曇」と呼ぶならば、例えば前の〈現病品〉の偈に「瞿曇大聖德よ、願わくば起ちて法を説きたまえ」とあるのは、これは称賛の言葉である。仏は七代にわたり釈迦族の王統であられたが、その本族は瞿曇という大姓から起こり、家系は遠大であり、今日に始まったものではないことを明らかにしている。もし外道の意図で「瞿曇」と呼ぶならば、これは徳を論じるものではなく、ただ姓を呼んでいるに過ぎず、これは軽略した呼び方である。世間の人が、人の地位を呼ばずにただ姓を呼ぶことが、軽んじて略することとなるのと同じである。また、「私も毒身に長く留まることはできません。今まさに入滅しようと思います」と言うのは、本来神通があってすぐに聖果を得た者が、辺際智を用いて涅槃に入ることを意味する。前文に「阿羅漢を得て、三衣を施された」とあるが、理から言えば、阿羅漢を得た者は衣鉢を具えている。今、「無い」と言うのは、もし善来阿羅漢であれば、即座に三衣を有するからである。自ら阿羅漢を得た以上、衣を必要とするのである。また、この人はもともと出家した外道であり、剃髪を待つ必要はない。どうしてそれが分かるのか。前文で闍提は「婆羅門」と言われたが、今、婆私吒はただ「梵志」と言われる。梵志はすなわち出家した外道であり、それゆえ改めて応器を施す必要があるのである。

「爾時眾中復有先尼」，是第三外道。外道先尼非止一人，今此非是前卷先尼，如佛弟子中同名迦葉者眾。此章有四：一緣起、二破執、三論義、四歸伏。然佛說不定，自有先明正義使外道得解；自有先須默然待彼立義，然後破之以申正理。今宜先默然，故三問不答。然不答凡有三義：一者根緣所宜，雖復不答，是默然答。二者定問有無皆是邪意，故《大論》中有十四難佛皆不答，有邊無邊、有常無常、如去不如去等，所以不答。三者佛欲對彼自立之義，出其綱宗然後乃破。如來上答恒被彼難，竟未得破，所以默然。有此三意。「先尼言若一切眾生」下，第二破執。其中有二：先立宗、次正破。此下是立宗，凡有三義：一者立我是遍、二者立我是一、三者立我是作者。我即眾生、士夫、壽命，我既被破，人及士夫、眾生自去。作者、知者既被破已，起者即是作者之類亦皆被破。今問外計，為是即陰、為是離陰？今謂計我是作者者，作即行陰，計行為我。若計是知者見者，並是計即陰為我。其計我是作者，所作之業雖復不同，而同是作者。「佛言先尼」下，第二明正破，有二：初正破前三、次別破餘三見者知者受者。就初文為三：初破遍、次破一、後破作。初有四番：此初第一，先定彼義。「佛言若我周遍」下，第二正破，明若我遍者，應在五道，何須修善欲受天報離惡道耶？惡與生天，我應常在，不須修善。先尼言我有二種：一作身我、二常身我者，先尼本計常身之我，為被破故，轉成二我。「佛言如汝說我」下，第三佛更逐破。若常身我在作身中，作身無常，常身之我亦應無常；若常身我不在作身，則非遍義。先尼因此更舉舍譬。舍主譬常身，舍譬作身。舍既被燒，主即出去。如作身無常，常身即去。「佛言如汝說我」下，第四便逐破之。明常身我既其遍在，常即無常，在常此常，在無常中寧不無常？如是遍在色與非色，在非色既即非色，在色寧得不即是色？舍與主異，有燒不燒，不得俱明。舍主可爾，常身作身此則不然，何以得云作身無常我即出去？今當問汝：出何處去？常身既常，常體恒遍，出無去處。「汝意若謂一切眾生」下，第二次破一義，凡有八番。此下初番，我既是一，父我子我，二我何異？次先尼救云，謂一人一我，非一切人同共一我，故有父子二我不同。此即破竟，便轉義宗。「佛言若言一人」下，第二佛便逐破。若一人一我，我有眾多則不名常。先尼若言一切眾生業報應同，汝言一人各一我者，我既是遍，無處不有，如張人我亦來在於王人我中，王人之我亦來在於張人我中。若爾者，我既互通，即無愚智亦無貴賤。亦如天得我既在佛得眼見，佛得之我亦在天得。佛得之我既因眼見，天得之我亦應因佛得眼見。天得、佛得是人名也。先尼救云：我遍一切法，而諸法不相遍，故天得、佛得二作不同。「佛言法與非法」下，第三佛復逐破。法與非法，非業作耶？以定先尼。或釋先尼所計我是作者，業字應作我字。義則可然，不須改字，隨下文業字。既計我是作者，所言業作即是我作。次先尼答可見。「佛言法非法」下，第四又破。既同是我作，故天得作時即佛得作。二作既同，報應不異，下舉業平等果亦應同。次先尼舉燈明救。「佛言汝說燈明」下，第五逐破彼譬。明在炷邊，復照於堂，譬有邊表之處，我亦應有眼識處所。我既遍於法與非法，法與非法亦應遍我，是則相與俱遍。「先尼言汝引燈喻」下，復救於譬。「善男子我所引喻者則是非喻」下，第六又破彼譬。如是喻者則是非喻，故知燈明不得喻我。若喻我者，則於彼不吉，於佛為吉。先尼言：汝先責，我又救，明佛亦不平。「佛言如我不平」下，第七明我之不平破汝不平，令汝得平，即是我平，同諸聖人得平等者始是大平。先尼救云：一切眾生平等有我，即是我平。「汝亦說言」下，第八佛更逐破平等之義。既言當受五道之身，我豈得等？「汝意若謂我是作者」下，第三破作者，有六：「善男子」，此初文者，約受苦破。若我是作者，那自作苦？若苦非我作，一切諸法應非我作。「眾生苦樂」下，第二明憂喜。「汝說我常」下，第三明有十時。「若我作者」下，第四明有盛衰，眾生亦有盛衰。眾生既即我，我應盛衰，豈是常邪？「我若作者」下，第五明不應利鈍。那得此人於書利、於棋鈍，彼人於棋利、於書鈍？餘例皆爾。「我若作者」下，第六明汝自說無我，而疑我有無。

> その時、会座の中にまた先尼がいた。これは第三の外道である。外道の先尼は一人だけではない。今ここに出てくる先尼は、前の巻に出てきた先尼とは別人である。例えば、仏弟子の中に同名の迦葉が大勢いるようなものである。この章には四つの部分がある。第一に因縁、第二に執着を破ること、第三に論義、第四に帰伏である。しかし、仏の説法は一定ではない。まず正しい義を明らかにして外道を悟らせることもあれば、まず黙って相手の主張を待ち、その後破って正しい理を示すこともある。今はまず黙っておくのが適切である。それ故、三度の問いに答えなかったのである。答えなかったのには三つの意味がある。第一に、根源的な因縁に適っているならば、たとえ答えなくとも、それは黙って答えたことになる。第二に、「有る」「無い」と問いを定めること自体が邪な考えである。だから『大智度論』に十四の難しい問いがあり、仏は全て答えなかった。「有辺か無辺か」「常住か無常か」「如来は去るか去らないか」などである。これらの問いに答えなかったのはそのためである。第三に、仏は相手の立てた義に対して、その綱領を引き出してから破ろうとしたのである。これまで如来の答えは常に相手に難破され、まだ破ることができなかった。それで黙ったのである。これら三つの意味がある。 「先尼が言う、もし全ての衆生が」 以下は、第二の、執着を破ることである。その中に二つある。先に宗旨を立て、次に正しく破る。以下が宗旨を立てる部分で、凡そ三つの義がある。第一に「我は遍く存在する」と立てること、第二に「我は一つである」と立てること、第三に「我は作者である」と立てること。我はすなわち衆生、士夫、寿命である。我が既に破られれば、人や士夫、衆生は自然に無くなる。作者や知者が破られれば、起者などの作者の類も全て破られる。ここで外道の考えを問うが、「陰そのものか」「陰を離れているか」のどちらかである。今思うに、我が作者であると考える者は、作はすなわち行陰であり、行陰を我とするのである。もし我を知者・見者と考えるならば、それは全て即陰を我とすることである。我が作者であると考える者が作り出す業は、同じ作者であってもその内容は異なるのである。 「仏、先尼に告げたまわく」 以下は、第二に正しく破ることである。二つある。初めに先の三つの主張を正しく破り、次に残りの三つの見方（見者・知者・受者）を別に破る。先の文には三つある。初めに「遍く」を破り、次に「一つ」を破り、後に「作者」を破る。初めには四つのやり取りがある。この最初は、まず彼の義を定める。 「仏言わく、もし我が周遍ならば」 以下は、第二に正しく破る。もし我が遍く存在するならば、五道に在るべきであり、何故、善を修めて天の報いを受け、悪道を離れようとする必要があろうか。悪も天に生まれることも、我は常に在るべきであり、善を修める必要はない。 「先尼言わく、我に二種有り。一には作身の我、二には常身の我」 先尼は元来、常身の我を考えていたが、破られたために、二種の我に転じたのである。 「仏言わく、汝の我の説く如く」 以下は、第三に仏がさらに追及して破る。もし常身の我が作身の中に在るならば、作身は無常であり、常身の我もまた無常であるべきである。もし常身の我が作身の中に無いならば、それは遍く存在するという義にはならない。先尼はこのため、さらに家の譬えを挙げた。家主は常身の譬えであり、家は作身の譬えである。家が焼かれれば、家主は外へ出る。作身が無常であるように、常身は去るのである。 「仏言わく、汝の我の説く如く」 以下は、第四に追及して破る。常身の我が遍く存在するならば、常は無常となる。常に在るものの内にあれば常であり、無常の中に在れば無常とならないだろうか。このように色と非色とに遍く存在するならば、非色の中にあれば非色そのものであり、色の中にあれば色そのものである。家と家主とは異なり、焼けるものと焼けないものとがあり、同時に論じることはできない。家と家主の譬えは成立しても、常身と作身の場合はそうではない。どうして「作身が無常ならば、我は去る」と言えようか。今、汝に問う。どこへ出ていくのか。常身が常であるならば、常体は常に遍満しており、出ていく場所はない。 「汝の意、もし全ての衆生と思うならば」 以下は、第二に一つの義を破る。凡そ八つのやり取りがある。以下の最初がそうである。我がもし一つであるならば、父の我と子の我とは、二つの我に何の違いがあろうか。次に先尼が救いを求めて言う、「一人一人に一つの我があり、全ての人が同じ一つの我を共有するわけではない。だから父と子の二つの我は異なる」と。これは破られたので、すぐに宗旨を変えたのである。 「仏言わく、もし一人と言うならば」 以下は、第二に仏が追及して破る。もし一人一人に一つの我があるならば、我は多数となり、常住とは言えない。先尼が「もし全ての衆生の業の報いは同じであるべきだ」と言うならば、汝が「一人一人に各々一つの我がある」と言うのは、我が遍く存在し、無いところがないということである。張三の我も王五の我の中に来たり、王五の我も張三の我の中に来る。もしそうなら、我は互いに通じ合い、愚かも賢もなく、貴いも賤しいもないことになる。例えば、天得の我が仏得の眼によって見えるなら、仏得の我も天得の内に在る。仏得の我が眼によって見えるなら、天得の我もまた仏得の眼によって見えるべきである。天得と仏得は人の名前である。先尼がこれを救おうとして言う、「我は一切の法に遍く存在するが、諸法は互いに遍くはない。だから天得と仏得という二つの作は異なる」と。 「仏言わく、法と非法とは」 以下は、第三に仏が再び追及して破る。法と非法とは、業によって作られるものではないのか。先尼の考えを定めるためである。あるいは解釈する人が、先尼の「我は作者なり」という考えに基づいて、「業」の字を「我」の字とすべきと言う。意味としてはそうでも、字を改める必要はなく、下の文の「業」の字に従えばよい。先尼が我は作者と考えるならば、言うところの業作とはすなわち我が作ることである。次に先尼の答えは見ての通りである。 「仏言わく、法非法」 以下は、第四にさらに破る。既に同じく我が作るものなら、天得が作る時は即ち仏得が作ることになる。二つの作が同じなら、報いも異ならない。次に、業が平等なら果も同じであるべきだと言う。先尼は灯明の譬えを挙げて救おうとする。 「仏言わく、汝の灯明の説く如く」 以下は、第五に彼の譬えを追及して破る。灯明が炷のそばにあって、堂を照らすように、辺表のあるところを譬える。我もまた眼識のところに在るべきである。我が既に法と非法に遍く存在するならば、法と非法もまた我に遍く存在し、互いに遍く存在することになる。 「先尼言わく、汝の灯明の譬えを引く如く」 ここでまた譬えを救い直す。 「善男子、我が引く所の譬えは則ち是れ非譬なり」 以下は、第六にまた彼の譬えを破る。このような譬えは非譬である。だから灯明をもって我を譬えることはできない。もし我を譬えるなら、彼にとっては不吉であり、仏にとっては吉である。先尼が言う、「汝は先に責め、私は救った。仏もまた公平でない」と。 「仏言わく、我の不平の如く」 以下は、第七に我の不平をもって汝の不平を破り、汝を平らならしめる。これが我の平であり、聖人たちが得た平等と等しくなって、はじめて大平となる。先尼が救って言う、「全ての衆生は平等に我を持つ、これが我の平である」と。 「汝も亦言う」 以下は、第八に仏がさらに平等の義を追及して破る。既に五道の身を受けるべきと言うなら、我にどうして平等があろうか。 「汝の意、もし我は作者と思うならば」 以下は、第三に作者を破る。六つの部分がある。 「善男子」 この最初の文では、苦を受けることによって破る。もし我が作者なら、どうして自ら苦を作るのか。もし苦が我の作でないなら、一切の諸法は我の作ではないはずである。 「衆生の苦楽」 以下は、第二に憂喜を明かす。 「汝、我は常なりと言う」 以下は、第三に十時があることを明かす。 「もし我が作者ならば」 以下は、第四に盛衰があることを明かす。衆生にも盛衰がある。衆生が即ち我なら、我も盛衰があるべきで、どうして常でありえようか。 「我がもし作者ならば」 以下は、第五に利鈍があるべきでない。どうしてこの人は書に優れ、碁に劣り、あの人は碁に優れ、書に劣るということがあろうか。他の例も皆そうである。 「我がもし作者ならば」 以下は、第六に汝自ら無我を説きながら、我の有無を疑うことを明かす。

「汝意若謂離眼有見」下，第二破餘三義，故言別破。此中有三：初破見者、次破受者、三破知者。初破見者，自復有三：此初正破。若謂離眼有見者，此謂我是能見。衛世師執神使智知，而神異知，此義同僧佉所計神即能知，故言離眼有見。是義不然，若離眼有我而能見者，何須此眼？若離我見用眼能見者，如言華能燒村，但因華裹火擲在屋上，故云華燒者；神因眼見，亦復如是，終是眼見神不能見。「先尼言」下，第二救云：如人執鎌則能刈草，譬我因眼則能見色。就正義中乃是假我令眼能見，必無實我須因眼見。「善男子鎌人各異」下，第三重破。鎌人不同，可得刈草。若離根外無別有我，故不為例。「汝意若謂身作我受」下，第二破受者。「是我身作即是我作」下，乃自顯。「先尼言我有二種」下，第三破知者是我，於中有二：此先明執。「佛言善男子所言知者」下，正破。我因智知同華喻壞者，還是前義。華能裹火，火能燒屋，名華燒者。神雖能知，而復更用智為知者，終是智自能知，神不能知。前已破竟，故言同華喻壞。佛法正義亦有假我御智知義，但不同實我因智知能。

> あなたが「眼を離れて見るものがある」と考えるなら、という部分の下で、第二に残りの三つの意味を破るので、別破と言います。この中に三つあります。初めに見る者を破り、次に受ける者を破り、三番目に知る者を破ります。初めに見る者を破ることには、さらに三つあります。これが最初の正しい破り方です。「もし眼を離れて見るものがある」と言うのは、これは「私」が見ることができる、と主張することです。ヴァイシェーシカ派は、神（我）が知性（智）を使わせて知るとしますが、神と知は異なります。この考えはサーンキヤ派が計る「神すなわち知る能力」と同様であり、ゆえに「眼を離れて見るものがある」と言うのです。この考えは正しくありません。もし眼を離れて私があり、それで見ることができるのなら、なぜこの眼が必要なのでしょうか？もし私（見る主体）を離れて、眼の働きによって見ることができるのなら、例えば「花が村を焼いた」と言うようなものです。実際は花に火が包まれて屋根に投げ込まれたから「花が焼いた」と言うのです。神（我）が眼によって見るのもまた同じで、結局は眼が見るのであり、神が見るのではないのです。 「先尼が言うには」という箇所の下が、第二の救済の議論です。例えば人が鎌を持って草を刈るように、私（我）が眼によって色を見ると譬えています。正しい意味から言えば、これは仮の私（仮我）が眼に見させるのであって、必ずしも実在の私（実我）が眼によって見る必要はありません。 「善男子よ、鎌と人とは別である」という箇所の下が、第三の再び破る議論です。鎌と人とが異なるからこそ、草を刈ることができるのです。もし感覚器官（根）の外に別個の私（我）が存在しないのであれば、この譬えは当てはまりません。 「あなたの考えが、身体が作り、私が受ける」という箇所の下が、第二に受ける者を破る部分です。 「私の身体が作るというのは、すなわち私が作るということである」という箇所から、自分自身で明らかにしています。 「先尼が言うには、私には二種類がある」という箇所の下が、第三に知る者としての私（我）を破る部分です。この中に二つあります。これが最初に執着を明らかにする部分です。 「仏が言うには、善男子よ、いわゆる知る者とは」という箇所の下が、正しく破る部分です。「私が知性によって知ることは、花の譬えが破られるのと同じである」とは、先に述べた意味と同じです。花が火を包み、火が家を焼くので「花が焼いた」と言うのです。神（我）は知ることができるとされても、さらに知性を用いて知る者とするなら、結局は知性自体が知るのであり、神が知るのではないのです。これはすでに前に破り終えたので、「花の譬えが破られるのと同じである」と言うのです。仏法の正しい意味においても、仮の私（仮我）が知性を運用して知るという意味はありますが、実在の私（実我）が知性によって知る能力を持つということとは異なります。

「先尼言若無我者」下，第三論義。上佛句句破先尼義。邪義既除，今更與佛共論此義，為定有我、定無我耶？一者亦是難佛無有我義，二者復立我義難佛無我義。佛義不立，有我義顯。自有五番：此先尼第一問，若無我者誰能憶念？佛答：若以憶故知有我者，今以忘故知應無我。汝以有念證有我者，既有忘失證知無我。若暫時憶顯有我者，亦應暫忘顯無有我。我既自在，云何念惡而不念善？又云念所不念正在定中，應當思惟憶念定境，何故更緣其餘事耶？又云不念所念者，正作惡時復存善法，既其有我何得不定？「先尼誰見誰聞」下，第二問，若無我者誰能見聞？佛答意者，根塵和合故有見聞，實不由我而能見聞。自舉二譬。「先尼言若無我者」下，第三問意，以名責之，云何名為我見我聞？世人並云我見我聞、我苦樂憂喜等。佛答有二意：一者却反還之，言我見聞知有我者，如他作罪云不見聞，亦應無我。「次如四兵」下，復舉假名合我見聞。「先尼言如汝所說」下，第四更問，若內外和合者誰出聲耶？佛即答言：因無明者，即是因十二因緣和合成身，以有身故覺勸動風，風擊脣舌出聲說我。如《大論》云「風名阿優陀，觸臍而上去，至牙齒脣舌，鼓動故出聲。」風鈴熱鐵，亦復如是。「先尼言如瞿曇說」下，第五問，明若隨理者全無有我，如來何緣得有常樂？由有我故有常等法，若無我者何得此法？佛答意者，得常我者須滅身後爾乃得之，豈即此身得常我耶？

> 「先尼が『もし我がないのなら』と言った」以下の部分は、第三の論議です。先に仏が一句ごとに先尼の考えを打ち砕き、誤った見解は除かれました。そこで今、さらに仏とこの義について論じ、はたして我は確かに存在するのか、確かに存在しないのかを問うものです。これは一つには「我なし」という仏の説を難じ、二つには自らの「我あり」という説を立てて、仏の「我なし」説を批判するものです。 仏の説が成立しなければ、「我あり」という説が明らかになる。全部で五つのやり取りがあります。 これが先尼の第一の問いです。「もし我がないのなら、誰が記憶できるのか」と。仏の答え：「もし記憶があるという理由で我があると証明するなら、今度は忘れるという理由で我がないと証明されるべきだ。あなたは記憶があることで我の存在を証明しようとするが、忘れることがあることこそ、我がないことを示している。もし一時の記憶が我の存在を示すなら、一時の忘却もまた我の不在を示すはずだ。我が自在な存在なら、なぜ悪いことは記憶して善いことは忘れるのか。また、『記憶すべきでないものを記憶する』とは、まさに定（瞑想）の中にあるときに、本来なら定の対象を思惟・記憶すべきなのに、なぜ他の事柄に心を向けるのか。また『記憶すべきものを記憶しない』とは、悪を行っているときに善い法を保っていることだ。もし我が存在するなら、どうして定まらないことがあるのか。」 「先尼が『誰が見、誰が聞くのか』と言った」以下は、第二の問いです。「もし我がないのなら、誰が見聞きできるのか」と。仏の答えの意図は、感官（根）と対象（塵）が和合することで見聞が生じるのであり、実際には我によって見聞きするのではない、というものです。自ら二つの譬えを挙げられました。 「先尼が『もし我がないのなら』と言った」以下は、第三の問いです。その意図は、「我が見る」「我が聞く」という名前に基づいて問い質すことです。世の人々は「我が見る」「我が聞く」「我が苦楽・憂喜を感じる」などと言います。仏の答えには二つの意味があります。一つは、問いを逆に返すことです。「あなたが『我を見聞きする』ことで我があると主張するなら、例えば他人が罪を犯した時に『見なかった、聞かなかった』と言うなら、それもまた我がないことになる」と。次に「例えば四種の兵士のように」と、仮の名称（仮名）を挙げて「我が見聞きする」という表現を説明されました。 「先尼が『あなたの説くように』と言った」以下は、第四の問いです。「もし内（身心）と外（対象）の和合によって生じるなら、誰が声を発するのか」と。仏は即座に答えられました。「無明を因とする」とは、すなわち十二因縁の和合によって身が成り立ち、その身があるゆえに覚醒の働きや動く風が生じ、風が唇や舌を打って声を発して「我」と言うのです。例えば『大智度論』に「アユータという風があり、臍に触れて上昇し、歯・唇・舌に至り、鼓動するゆえに声が出る」とあります。風鈴や熱せられた鉄もまた同じようなものです。 「先尼が『ゴータマ（瞿曇）の説くように』と言った」以下は、第五の問いです。理（真理）に従えば完全に我は存在しないのだから、如来（仏）がどうして常住・楽などを有するのでしょうか。というのも、我があるからこそ常住などの法があるのであり、もし我がないのなら、どうしてこのような法を得られるのでしょうか。仏の答えの意図は、常住・我を得るには、この身を滅した後に初めて得られるのであって、どうしてこの身のままで常住・我を得られるというのか、というものです。

「先尼言唯願大慈」下，第四歸伏。復有四番：此初請佛說。佛廣為說，因說慢義，欲彈斥彼本慢之心。「先尼言如是如是」下，第二領旨，如來因此重說，又二：先誡、次說。言非自非他非眾生者，明法與眾生同一平等。「先尼言我已解已」下，第三自獲得解，如來因更責出其相。「世尊所言色者」下，第四出己所解，又二：先自述、次佛命善來得慧眼淨。言法眼者，即是初果。言慧眼淨，是第四果。但其與佛言論之時已得初果，後命善來得第四果。

> 先尼が「唯願わくば大慈」と言う下りは、第四の「帰伏」です。ここには四つの段階があります。まず、最初の段階は先尼が仏に説法を請うことです。仏は広く説き、その中で「慢」の意味を説き、彼の根本にある慢心を打ち砕こうとされました。 「先尼言わく『如是々々』」の下りは、第二の「領旨」です。ここで如来は再び説き、さらに二つに分かれます。先ず戒め、次に説きます。「非自・非他・非衆生」と言うのは、法と衆生が同一で平等であることを明かしています。 「先尼言わく『我已に解せり』」の下りは、第三の「自得解」です。如来はここで更にその相を示して咎められます。 「世尊の所言の色者」の下りは、第四の「出己所解」です。これも二つに分かれ、先ず自ら述べ、次に仏が「善来」と告げて慧眼浄を得させます。「法眼」とは初果のこと、「慧眼浄」とは第四果のことです。しかし、先尼は仏と対論していた時に既に初果を得ており、後に「善来」と告げられて第四果を得たのです。

「外道眾中復有姓迦葉」下，第四外道，文為三：初緣起、次論義、後歸伏。此初三問皆默以為緣起，是故不答，如來欲令彼出己義。

> 「外道の中にまた迦葉を姓とする者がいた」という部分から、第四の外道に関する項が始まります。この文は三つの部分から成ります。最初は因縁の説明、次に議論、最後に帰依です。この冒頭の三つの問いにはすべて黙って応じず、それが因縁となっています。なぜ答えなかったかと言えば、如来は彼らに自らの考えを述べさせようとしたからです。

「梵志復言」下，第二論義，自有五番。此初，彼先立義，明身異命異。如人捨身未及後身受中陰時，爾時身命異先身命，非因所得。次「善男子我說身命」下，如來破，明萬法從緣。不但身命，諸法悉然。陰死之時，此命假緣續其中陰。「梵志復言我見世間」下，第二番出彼立義。彼明有法不從緣生。「如來復責梵志言我見大火」下，第三彼因立事。言凡明絕焰是不從緣。如來復破，明亦從緣。其中榛木之字，或以為臻音，或以為愁申反，今以臻音為正。《詩》云「樹之榛栗」，《傳》云「榛栗棗羞」。《說文》云「榛以梓實如小栗」。「梵志言絕焰去時」下，第四重申，明不因薪炭。佛即破之，明因風而至。「瞿曇若人捨身」下，第五復出彼難，明兩身中間誰為因緣？佛即答言：終以煩惱而為其緣，言有因緣。身即是命，命即是身，此據一期果報，一業所得有因緣故。身異命異者，據色心連持，謂之為命，五陰名身，其義異也。

> 「梵志がまた言う」以下の部分は、第二の論議であり、五つの問答からなります。これが最初で、梵志がまず自らの立場を述べ、身と命は異なると説きます。例えば、人がこの身を捨てて、次の身を受ける前の中陰（中有）の時、その時の身と命は、以前の身や命とは異なり、前世の因によって得られたものではありません。 次に「善男子よ、私は身と命を説く」以下で、如来がこれを破し、あらゆる法は縁によって生じると説かれます。身と命だけでなく、すべての法がそうです。命終の時、この命は仮の縁によって中陰に続くのです。 「梵志が再び言う、私は世の中に見る」以下は、第二の問答で梵志が自らの立場を述べます。彼は、縁に従わない法があると説きます。 「如来が再び梵志を責めて言う、私は大火を見る」以下は、第三の問答で、梵志が事柄を例に挙げます。彼は、光のない炎は縁によらないと言います。如来は再びこれを破し、それもまた縁によると説かれます。その中の「榛木」という字は、あるいは「シン」と読まれ、あるいは「サシン」と反切で読まれますが、現在は「シン」の音が正しいとされています。詩経には「榛の栗を植える」とあり、注釈には「榛栗棗羞」とあります。説文解字には「榛は梓で実は小さな栗に似る」とあります。 「梵志が言う、炎が去るとき」以下は、第四の問答で、梵志が薪や炭に依らないことを説きます。仏は即座にこれを破し、風によって来ると説かれます。 「瞿曇よ、もし人が身を捨てるならば」以下は、第五の問答で、梵志が再び問いを出し、二つの身の中間で何が因縁となるのかを問います。仏はこれに答え、「終に煩悩をもってその縁とする」と説かれ、因縁があると言います。「身即ち命、命即ち身」というのは、この一生の果報について語ったもので、一つの業によって得られるものであり、因縁があるからです。「身と命は異なる」というのは、色と心が連続して続くことを「命」と呼び、五蘊（色・受・想・行・識）を「身」と呼ぶため、その意味が異なるのです。

「梵志言唯願為我」下，第三歸伏，又有三番。此初請說。次佛答，又二：先答、次牒。計之亦名印述。「世尊我已知已」下，第二領解。次佛重徵。次「世尊火即煩惱」下，第三委陳已解。經五日已得羅漢果者，說其證果賒促、機悟早晚。

> 「梵志が『願わくば我がために』と言った」以下の部分は、第三段の「帰伏」にあたります。ここにはさらに三つの区分があります。 まず最初は、説法を請う段階。 次に、仏がそれに答える段がありますが、これには二つあり、まず「答える」、次に「受け止めて述べる」です。これらを合わせて「印述」とも呼びます。 次に「世尊、我はすでに知り了せり」以下の部分は、第二段の「領解」にあたります。 その次に、仏が再び問いかけます。 そして「世尊、火はすなわち煩悩なり」以下の部分が、第三段の「詳細に自分の理解を述べる」です。 「五日を経て阿羅漢果を得た」とは、その悟りの証しを得るまでの時間の長短や、機根に応じて悟りが早いか遅いかを説いたものです。

「外道眾中復有富那」下，第五外道，彼之所執即是邊見。雖有其執，恐有屈滯，不敢述之，故且舉問。就文有二：初論義、後歸伏。此初論義，自有四番。此即初番，舉六十二見問。六十二見，有二解：一云身見邊見共六十二。何者？身見五十六，邊見有六。約於五陰各有四執，即色、離色、亦即亦離、不即不離。餘四例然，則為二十。欲界、色界則為四十，無色無色但說四陰。四四十六，故知身見有五十六。邊見六者，謂三界中各有斷常，以足身見成六十二。故《大品》云「譬如我見攝六十二見。」二直就邊見自六十二，現在世中即色為我則色滅我斷，離色為我則色滅我常。亦即亦離、亦斷亦常、不即不離則不斷不常。四陰亦然，則我二十。去來例然，則成六十。雖有六十不出斷常，故以斷常而標其首，為六十二。今文中云常無常者則是過去，有邊無邊則據未來。此言邊者非謂闊陜竪論分際，故是彼邊。如去不如去者，據佛滅後，乃計如來即色涅槃畢竟永滅，此是如去。若身不滅，是不如去。亦如去亦不如去等云云。足前成六十。復云是身是命，即常見。身異命異，即斷見。合成六十二見。而此文云如來滅後者，他人不見此。既不許約如來作二十計，即自解云：我如色來，即如色去、不如色去？故云如去不如去。佛即答之：我不作此說。「梵志言今者見何罪過」下，第二問此有何過而不為說？佛答，明此是見取之過，故不作說。「瞿曇若見如是罪過」下，第三問如來何所見著、何所說耶？佛答之，先遣見著之言、後明就見能說。「瞿曇云何」下，第四重責見說。佛乃廣答，又二：先正答、後更反責以出其相。

> 「外道の徒の中にまた富那あり」以下の部分は、第五の外道であり、彼らの執着はすなわち辺見である。その執着があるとはいえ、論理に行き詰まることを恐れて、あえて述べず、ひとまず質問を挙げたのである。文の構成は二つあり、初めは議論、後は帰伏である。この初めの議論には、四つのやり取りがある。これはその第一であり、六十二見を挙げて問うものである。 六十二見には二つの解釈がある。一つは、身見と辺見を合わせて六十二とするものである。なぜか。身見が五十六、辺見が六である。五蘊のそれぞれについて四つの執着がある。すなわち、「色そのもの」「色を離れたもの」「色そのものでもあり離れたものでもある」「色そのものでもなく離れたものでもない」である。残りの四蘊も同様に数えると、二十となる。これが欲界と色界では四十となる。無色界は無色であるから四蘊だけを説き、四四十六となる。よって身見は五十六であることがわかる。辺見の六とは、三界のそれぞれに断見と常見があることである。これらを身見に加えて六十二となる。ゆえに『大品経』には「例えば我見が六十二見を摂するように」と説かれている。 二つ目は、辺見そのものだけで六十二とするものである。現在世において、「色が我である」とすれば、色が滅すれば我も断ずる。「色を離れて我がある」とすれば、色が滅しても我は常である。「色そのものでもあり離れたものでもある」とすれば、断でもあり常でもある。「色そのものでもなく離れたものでもない」とすれば、断でもなく常でもない。四蘊も同様であるから、我について二十となる。過去世と未来世も同様に数えると、六十となる。六十ではあるが、断常の範疇を出ない。ゆえに断常をその標題として、六十二とするのである。 今の文で「常・無常」と言うのは過去世であり、「有辺・無辺」と言うのは未来世に基づく。「辺」というのは、広さや狭さという意味ではなく、限界を縦に論じるものであり、ゆえにそれは辺見である。「如去・不如去」は、仏の滅後に基づき、如来は即身で涅槃に入り、ついに永遠に滅する、と計るのが如去である。もし身が滅しないのであれば、それは不如去である。「如去でもあり不如去でもある」などは<注>云々</注>。これらを前に加えて六十となる。さらに「これが身であり命である」というのは常見であり、「身と命とは異なる」というのは断見である。これらを合わせて六十二見となる。 しかし、この文で「如来の滅後」と言うのを、他の人はこのように見ない。如来について二十の計らいを認めないのであれば、自ら次のように解釈する。「我は色の如く来たり、色の如く去るのか、色の如く去らないのか」と。ゆえに「如去・不如去」と言うのである。仏はこれに答えて、「私はこのような説き方はしない」と言われた。 「梵志が言う『今、何の罪過を見るか』」以下は、第二の問いである。「これは何の過ちがあって、説かないのか」と問う。仏は答え、これは見取という過ちであるため、説かないのだと明かされる。 「瞿曇、もしこのような罪過を見るならば」以下は、第三の問いである。「如来は何に執着して見て、何を説かれるのか」と問う。仏はこれに答え、まず「見て執着する」という言葉を退け、その後、見解に基づいて説くことができることを明かされる。 「瞿曇、どのようなものか」以下は、第四の問いであり、再び「見て説く」ことを問う。仏はここで広く答え、さらに二つに分かれる。まず直接答え、その後、逆に問い返してその様相を明らかにされる。

「富那言請說一喻」下，第二歸伏。譬云如大村外者，此譬佛果涅槃。有娑羅林者，有人譬金剛心，今譬眾生心。中有一樹者，譬佛性。足一百年者，是一數之圓名，譬中道佛性圓滿端正。文云「一樹先林而生」，一樹既譬佛性，可云佛性在眾生前。無眾生而已，有眾生即有佛性。今何以云先林而生？若言佛性眾生有先有後、若共若離，皆悉不可，並須破之。性執破已，方得假說有前有後，此之前後則不相乖。既不相乖，乍可義說佛性在前。何以故？佛性本有。以本有故，故義云先，即不失理。林主修治者，即修持人。其樹陳朽皮膚悉脫者，譬煩惱諸惡一切都盡。唯真實在，即是萬德。

> 「富那、請いて一喻を説け」の下は、第二の帰伏である。譬えに言う「大村の外の如き」とは、この譬えは仏果の涅槃を指す。「娑羅林あり」とは、ある人はこれを金剛心に譬え、今は衆生の心に譬える。「中に一樹あり」とは、佛性に譬える。「足ること一百年」とは、一つの数における円満な名称であり、中道の佛性が円満にして端整なることを譬える。文に「一樹、林に先だって生ず」とあるが、一樹はすでに佛性に譬えられる以上、佛性は衆生に先立つと言える。衆生が無ければそれまでだが、衆生が有れば即ち佛性が有る。今、なぜ「林に先だって生ず」と言うのか。もし佛性と衆生に先後あり、あるいは共にあり、あるいは離れると言うならば、すべて許されず、これを破すべきである。性に関する執着を破して後、はじめて仮に先後有りと説くことを得る。この先後は互いに背くことがない。背くことがないがゆえに、かりに義として佛性が先にあると言える。なぜならば、佛性は本來有るものだからである。本來有るがゆえに、義として先と説いても、道理を失わない。「林主、修治す」とは、修め持つ人である。「其の樹、陳朽して皮膚悉く脫す」とは、煩悩のもろもろの惡がすべて盡きることを譬える。ただ真実のみが在り、これ即ち萬の德である。

## 大般涅槃經疏卷第三十二

> 大般涅槃経疏 第三十二巻