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title: "維摩經略疏 · 14 囑累品(一〇)"
description: "《維摩經略疏》是隋代高僧智顗講述、唐代湛然整理略出的佛教注疏典籍。該書針對《維摩詰經》進行系統注釋，闡揚諸法實相、不二法門等大乘教義，並結合天台宗一心三觀的觀行思想。智顗作為天台宗實際創立者，其注疏融合中國佛教義學與實踐特色。此疏不僅是研究《維摩經》和天台止觀的重要文獻，更展現了隋唐佛教義學的蓬勃發展，對漢傳佛教哲學體系建構具有深遠影響。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cme55xk2f03nbjo04ix8mxi6t"
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### 釋囑累品

> 嘱累品

此品流通文中第二。前明天帝發誓弘經、此辨如來金口所囑。囑是付囑為義。以無相之實法、付囑弘護之人。累是煩勞荷負之義。今將此大法專為己任、令外難消轉、內行宣通，故稱囑累也。

> この章は、法を伝える経文の流れの中の第二の部分です。前章では帝釈天が経典を広く弘めようと誓ったことを明らかにし、ここでは如来が自らの黄金の口をもっておおせつけになったことを述べています。 「囑」という字は「付嘱する」という意味です。すなわち、形のない真実の法を、それを弘め守る人々に託すことをいいます。「累」は「煩わしく責任を負う」という意味です。今、この偉大なる法を自らの使命として受け止め、外からの障害を消し去り転じ、内なる修行を明らかにし広めること、これを「嘱累」と呼ぶのです。

就文為三：一佛付囑彌勒、二付囑阿難、三大眾聞經歡喜。付彌勒中為二：初佛付囑、二彌勒受旨。就佛付囑為三：一正付囑此經、二釋、三簡得失。正付囑中為二：一付囑尊經、二命神通守護。「以無量僧祇所集付汝」者，若按迦旃延所解三藏中，明三阿僧祇習學佛法，百劫種相佛道現前。此是三藏小乘淺近之法，修學研行劫數為少。若按《釋論》彈於此義，佛法無量豈是三祇所學能遍？乃經無量億僧祇習塵沙佛法諸深法門，乃可圓滿大乘深妙，是故學劫亦多。今言無量劫所習，故知是大乘妙典付之彌勒。

> 本文を三つに分ける。第一に、仏が弥勒に付嘱する。第二に、阿難に付嘱する。第三に、大衆が経を聞いて喜ぶ。弥勒への付嘱は二つに分かれる。初めに仏が付嘱し、次に弥勒がその旨を受ける。仏の付嘱を三つに分ける。第一に、この経を正しく付嘱する。第二に、その理由を説く。第三に、得失を簡別する。正しく付嘱する中で二つある。第一に、尊い経を付嘱する。第二に、神通力による守護を命じる。 「無量の僧祇劫に集めたものを汝に付す」とは、もし迦旃延が解した三蔵の教えに従えば、三阿僧祇劫において仏法を習学し、百劫において相を具え、仏道が現前すると明かしている。これは三蔵の小乗における浅近な法であり、修行や研鑽の劫数が少ないことを示す。もし『釈論』に従ってこの義を論難するならば、仏法は無量であり、三祇劫の学びで尽くせるものではない。無量億の僧祇劫において、塵沙のごとき仏法や深い法門を習得して初めて、大乗の深妙な教えが円満する。ゆえに学ぶ劫もまた多いのである。今ここで「無量劫に習った」と言うのは、この教えが大乗の妙典であり、それを弥勒に付嘱することを示している。

第二、「當以神力廣宣令無斷絕」，即是命令守護。但以此大法付囑彌勒者，正明次紹尊位，智斷方圓與物有緣，神通具足堪能弘護，令不斷絕。若末代眾生去聖既久，非唯神根闇濁，亦乃障礙多興。如多寶處必饒怨賊，道高魔盛妨難則生。若不得聖力冥扶則外難侵逼，若蒙神光加被亦使心解開通。內因外緣既整，法寶則無斷絕，是故命以神力加諸眾生堪聞之者。此中應引優波毱多為魔所惱，令無數人不得悟道，遂令受化之者為魔所惑，用神力縛於魔，一切聞經得益不可稱計，亦恐是用神力弘經之意。

> 第二に、「當に神力を以て廣く宣（の）べ、斷絕せしむること無かれ」とは、即ち守護を命ずる意味です。この大法を彌勒に付屬するのは、正に次に尊位を繼ぎ、智斷が圓滿で衆生と縁があり、神通を具足して弘め護るに堪え、絕え間なく續けさせることを明示しています。 もし末代の衆生が聖人から遠く離れて久しいならば、ただ神根が暗く濁っているだけでなく、障礙も多く起こります。例えば寶物が多い場所には必ず怨みを持つ盜賊が多く、道が高ければ魔も盛んで妨げや困難が生じます。もし聖なる力の冥く扶けることを得なければ、外部からの難が迫り來ますが、もし神光の加護を蒙れば、心の解き開かれることをも得させます。內因と外緣が整えば、法寶は斷絕することがありません。故に神力をもって、聞くに堪える衆生を加えよと命じられたのです。 ここで、優波毱多が魔に惱まされ、無數の人々が悟りを得られず、教化される者たちが魔に惑わされるという事例を引くべきでしょう。彼が神力で魔を縛ったことで、一切の者が經を聞いて得た利益は計り知れません。これもまた、神力をもって經を弘めるという意図を示しているのではないでしょうか。

第二釋者，從「所以者何未來世」去，即為二：初明末代亦有得道之機、次明不聞斯經則失善利。前明末代有得道之機者，但凡夫緣悟不同，或見法王面前得益，或因去世渴仰生悟，故經言「應以滅度得度者而現滅度」，如為治狂子故，實在而言死，留諸香藥，色味芬芳，悔懊心生，服藥即愈。若不見佛，剋責精進，愧不值佛世，因是入道得出煩惑。故佛去世後一百年，十萬出家九萬得道，當知佛後之機亦復無量。此應引毱多佛在之時求出家，覓智齊身子。佛言不得，即退還外道法中。佛因記之，此人得道之機在佛滅後。後為阿難弟子，度人無量，得道恒沙，時人敬譽為無相佛。即是釋未來世中天人龍鬼有發心之緣，樂于大法必得度脫，不可不弘如此勝教使其聞也。

> そこで、なぜ未来世なのかというと、その理由は二つあります。第一に、末世にも悟りを得る機会がある者たちがいること、第二に、この経典を聞かなければ善い利益を失うこと、です。 まず、末世にも悟りの機会がある者たちがいることについてです。凡夫には縁による悟り方に違いがあり、ある者は法王（仏）の面前で利益を得、またある者は仏の入滅後に慕い求める心から悟りを生じます。経典に「滅度によって度すべき者には滅度を現ず」とあるように、例えば狂った子を治すために、実際は生きているのに死んだと偽り、香りや味の良い薬を残しておけば、子は悔やみ悲しんで薬を飲み治るようなものです。 もし仏に出会えなくても、自らを責め精進し、「仏の世に遇えなかった」と愧じる心から、道に入り煩悩を脱することもできるのです。だから仏の滅後百年には、十万人の出家のうち九万人が悟りを得ました。これにより、仏後の機根（縁を持つ者）もまた無量であることが分かります。 この例として、毱多尊者が仏の在世時に出家を願い出たが、舎利弗と同等の智慧を得ることはできないと言われ、外道の教えに戻ってしまった話があります。しかし仏は、「この者の得道の機は仏の滅後にある」と予言しました。後に彼は阿難尊者に師事し、無量の人々を度し、河の砂の数ほどの悟りを得る者を導き、人々から「無相仏」と敬われました。 これは、未来世において天・人・龍・鬼などの衆生が発心する縁があり、大法を喜んで必ず度脱されることを示しています。ゆえに、このような勝れた教えを彼らに聞かせぬわけにはいきません。

第二、從「若使不聞是經則為大失」者，但聞三藏方便之說，則失大乘毒鼓之利。《普賢觀》云「法將滅五百歲時，一心修此法華三昧，即得六根清淨。」故知末代亦能有入大乘之機，若不聞此經永失法利，故須宣通。

> 第二に、「もしこの経典を聞かなければ、大きな損失となる」という点についてです。三蔵（経・律・論）の方便としての教えだけを聞くならば、大乗の毒鼓の利益を失ってしまいます。『普賢観経』には「法が滅びようとする五百歳の時に、一心にこの法華三昧を修行すれば、即座に六根清浄を得る」と説かれています。それゆえ、末法の時代にも大乗に入る機縁を持つ人々がいることがわかります。もしこの経典を聞かなければ、永遠に仏法の利益を失ってしまうのですから、広く説き伝える必要があるのです。

三、從「菩薩有二相」去，是簡得失。就此為二：一簡得失、二廣舉非釋。得失中為三：一標相、二略解釋、三約人釋。若是三藏教中，多就因緣歷別事相之中以明諸法。若依此學者，是新發意人。諸大乘經別圓之說，無依無倚離諸心識。言深經者，即是貪欲即是道，恚癡亦復然。如是三法中具一切佛法，若離是三法而求菩提者，譬如天與地。指此三毒之性能通達三毒實相不可得，猶如虛空而能出生一切佛法。彼經云「深達此法者，亦不破於戒。深達此法者，亦不著無礙。」行人多謂三毒是道，而著此無礙毀於正戒正見，何謂是達於三毒之性？其達此者無毀無著，乃稱經意。實相之法非因非果說為因果，故言是因非果如佛性，是果非因如大涅槃。今三毒之性亦非因非果而說為因果，說為因者即言三毒是道具足一切佛法，說為果者一切眾生常寂滅相不可復滅。若能聞此貪欲之中辨因果二道無毀無著，不生恐畏，當知是久行菩薩。如此菩薩但好實相深法，不復樂於文華才藻綺飾之言釋於貞幹之法。以此往推，知是久行菩薩也。若樂言辨，發言藻麗文字章節，乃當一往悅於聽者，終成添水之乳，翳於實相，非久行所行。以此簡之，知是新發意菩薩。如即時人，數論分別問答，言有眉眼。亦聞大乘無倚之說，謂為晃蕩，不生信樂。此中應引須達請佛為老母說法，老母十方背佛，佛十方現形，要不信受。後阿難化為輪王，方便引接，心地歡喜信伏心生，還歸於佛聞法修道。何故如是？此是往日沙彌和尚多說實相甚深之語，聞不能解，不生信慕。闍梨多說因緣諸法事相教化，事會其心，心生愛翫。由是緣故，今聞我語了不入心，機在阿難迴心入道。阿難雖復令其生信，終歸於我乃能得道。故知文飾之法乃是悅耳之緣，非究竟之旨。方便引入為進悟之漸，故所不論耳。實相深法能作得道之要，毒鼓之譬此之謂也。約此明新發心、久行二種之人，但看飾辭直語則知得失。

> 第三に、「菩薩には二つの相がある」という観点から、得失を簡別する。これを二つに分ける。第一に得失を簡別し、第二に広く非を挙げて解釈する。得失の中でさらに三つに分ける。第一に相を示し、第二に略して解釈し、第三に人に寄せて解釈する。 三蔵教では、多くは因縁や個別の事相に依って諸法を明かす。この教えに従う者は、新発意の菩薩である。諸大乗経典の別教・円教の説は、何にも依らず何にも頼らず、心識を離れている。深い経典で言う「貪欲こそが道であり、瞋恚や愚痴もまた同じである」とは、これら三つの法の中に一切の佛法が具わっているということである。もしこの三つの法を離れて菩提を求めるならば、それは天と地ほどの隔たりがある。この三毒の性質に通達すれば、三毒の実相が得るべくもなく、虚空の如くでありながら、一切の佛法を生み出すことができる。あの経典には「この法に深く達する者は、戒も破らない。この法に深く達する者は、無礙にも執着しない」とある。修行者は往々にして三毒が道であると思い、この無礙に執着して正しい戒や正見を壊してしまう。それがどうして三毒の性質に達したと言えようか？真に達した者は、壊すことも執着することもなく、それこそが経典の意にかなう。実相の法は原因でも結果でもないが、因果として説かれる。だから「これは因であって果ではない、仏性のようなものである。これは果であって因ではない、大涅槃のようなものである」と言う。今、三毒の性質もまた原因でも結果でもないが、因果として説かれる。因として説けば「三毒は道であり、一切の佛法を具えている」となり、果として説けば「一切の衆生は常住の寂滅相であり、再び滅するものではない」となる。もしこの貪欲の中に因果の二つの道があり、壊さず執着せず、恐れを生じないと聞くならば、これは久行の菩薩であると知るべきである。このような菩薩はただ実相の深い法を好み、もはや華やかな文章や才覚、飾り言葉で清らかな真理を説明することを好まない。このことから推して、久行の菩薩であると知る。もし言葉巧みで、文章が華美で飾り立てられているならば、それは一応は聞く者を喜ばせるが、結局は水を加えた乳のようなもので、実相を覆い隠し、久行の菩薩の行うところではない。これによって簡別すれば、新発意の菩薩であると知る。例えば現代の人々が、数の論や分別問答において、言葉に目鼻があるかのように語ることである。また大乗の無依の説を聞いて、取るに足らないものと思い、信じ喜ぶことをしない。ここで、スダッタが仏に請うて老母のための説法を願い、老母が十方で仏に背き、仏が十方に姿を現しても、ついに信じ受け入れなかった話を引くべきである。後にアーナンダが転輪聖王に化身して、巧みに導き、心から歓喜して信じ従う心を生じ、ついに仏に帰依して法を聞き修行した。なぜこうなったのか？これは昔、沙弥の和尚が実相の非常に深い言葉を多く説いたが、聞いても理解できず、信じ慕うことを生じなかったからである。一方、阿闍梨は因縁や諸法の事相による教化を多く説き、それが彼女の心に適い、愛好する心を生じた。このような因縁によって、今私の言葉を聞いても全く心に入らず、機がアーナンダに向いて心を入れ、道に入った。アーナンダは彼女に信を生じさせたが、結局は私のもとに帰依して初めて得道したのである。故に知るべきである、文飾の法は耳を喜ばせる緣に過ぎず、究極の宗旨ではない。巧みに導き入れることは悟りへと進むための方便であり、したがってここでは論じない。実相の深い法は、得道の要となることができる。毒鼓の譬えはこのことを言うのである。これによって新発心と久行の二種の人を明らかにする。ただ飾り言葉か率直な言葉かを見れば、得失が分かるのである。

第二、從「復有二法所未聞經」去，是明廣舉非。就此為二：前明二法釋前新學毀謗不近，後明二法釋前久學不應輕慢取相。前毀謗不近者，此中如喜根菩薩但說實相之法，明一切法中有安樂性。勝意稟三藏法，威儀無缺持戒頭陀，忽聞喜根所說與其學習相違，心大驚怪，毀呰誹謗不肯信受，即時作法擯此喜根。擯法亦成即入地獄。此是新發心人稟方便教，毀謗般若不信深經。如此之人須深淺知。二者，或時不謗此法，然於持法之人者無敬近心，或復有時說其過惡。此亦是失相，皆非久行調伏心者。

> 第二に、「復た二法有りて未だ聞かざる経」から始まる部分は、広く「非」を挙げることを明かすものです。この中で二つに分けられます。最初に、二つの法を示して、先に述べた新たに学ぶ者が誹謗して近づかない理由を説明します。次に、二つの法を示して、長く学んだ者が軽んじたり執着してはならない理由を説明します。 まず、誹謗して近づかない場合についてです。たとえば喜根菩薩は、ただ実相の法を説き、すべての法の中に安楽の性質があることを明らかにしました。勝意は三蔵の法を受け、威儀を欠かさず、戒律を守り頭陀行を実践していましたが、突然喜根の説くところが自分の学びと矛盾しているのを聞き、心に大いなる驚きと疑いを抱き、非難し誹謗して信じ受け入れようとせず、即座に作法をもってこの喜根を追放しました。追放の作法も成就し、すぐに地獄に落ちました。これは、新たに発心した人が方便の教えを受け、般若を誹謗し深い経典を信じない例です。このような人については、深く理解する必要があります。 二つ目に、時にはこの教えを誹謗しないものの、その教えを保つ人に対して敬い親しむ心がなく、あるいはその人の過ちや悪口を言うこともあります。これもまた誤りの一つであり、いずれも長く修行し心を調伏した者には当てはまりません。

第二、舉輕慢取相。《大品》明菩薩若於同住新發心人生輕蔑相，謂此人無所知曉。起此一念慢心，却損無數劫功德，更還受罪。如其罪報竟，方能發心，乃復今日德行。以此而言，輕慢之心大為過罪，非唯障得無生忍，乃更受罪殃，故簡為非。次復有菩薩雖解深法，而取相分別階梯漸次，取相分別生決定想，復是動念之法，非究竟道。何以故？諸法實相清淨湛然尚無一相，何況有二？無言無示，言之者失理、示之者乖宗。以此分別思量之心，何能契會寂滅之法？如三時四時五時、半滿、四宗六宗等義，皆名法師探採經意而制立名目，判釋義門欲言當理，皆非一極無言之術。今家正意則不如是，圓融法界冥契真極，不欲令心與眾生乖諍，雖復立此四教，直欲通釋諸經之文欲窮源底，終不定執四教之義。或時三教二教一教無教八教，出沒不恒、多少無定，轉變自在隨人消釋，不令此心介爾有著，自執己見非他所解。若作如此，但是諍論非入道方法。南岳師說偈「狗見影便鬪，鬪之不肯罷，遂至渴而死云云。」今約此簡，非約營道之意。但行人心路不同，雖復種種不出二修：一聖說法、二聖默然。須識己心便宜方便，若有沈塞，於默然之道不得開心，應須聽法，或近善知識，能開人心。或從經卷尋求義理，曉發此心。或時聽法紛動，不能靜攝尋經討義於事紛結，覺於心補無深利益，即應冥目束體，自靜其心入默然道。語默兩行調伏其心，研麁和適善能取與簡擇真偽，如是時中任修寂靜，如是時中任修智慧。譬如天地，或晴或雨調節陰陽，是則萬物得生。若純雨不晴則種子爛壞，若純晴不雨芽𭉨乾枯，並不能發生萬物，要須調適然後乃善。行者如是，一向默然則沈昏闇塞，若純用分別諸見競興，此則權實不合、導師不生。善巧運為豁然入道，夜見電光則入聖法。是為學道之者善識是非、簡別邪正也。故《大論》言「時雨數數墮，五穀數數生。法雨數數雨，善法數數生。」若不將聖說聖默數數調御，實相穀不生也。若偏著知見，終無入理。故云雖讀百千經，邪見長諸非，吾我毒甚盛。雖謂懷常子，石女終不生。若於聖說法中能聞即悟，通達諸法自在明了，即是信行。聞不得悟，四念思惟，深徹深照得其邊底，是名法行。聖默然中亦有信行法行，如是禪觀之時隨觀一境，則遍通諸境，心地開明無纖芥之疑礙，如空中風，是名法行。若策觀之時不能得悟，加功慊到婁婁不曉，若從善知識聞、若經卷中見、豁如空中無雲表裏洞徹、此是信行人。又從受化為語、如聞而行是聖默然、如行而聞是聖說法。

> 第二に、軽慢の心で形相に執着することを挙げる。『大品般若経』には、菩薩が同じく修行する新たに発心した人に対して軽蔑の念を抱き、「この者は何も知らない」と思うと説かれている。この一念の慢心を起こすだけで、無数の劫の功徳を損ない、さらに罪を受けることになる。その罪の報いが終わって初めて発心でき、ようやく今日の徳行を得るのである。このことから、軽慢の心は大きな過ちであり、無生法忍を得る妨げとなるばかりか、罪の苦しみをも受けることになる。ゆえに、これは非とされる。 次に、菩薩の中には深い法を理解していながらも、形相に執着して段階や順序を分別し、それに決定的な想いを抱く者がいる。これもまた心を動かすものであり、究極の道ではない。なぜなら、諸法の実相は清らかで澄み切っており、一つの相すら存在しないのに、どうして二つがあろうか。言葉もなく示すこともなく、言葉にすれば真理を失い、示せば宗旨に背く。このような分別思量の心で、どうして寂滅の法にかなうことができようか。三時・四時・五時、半満、四宗・六宗などの教義は、いずれも法師が経典の意を探って名目を立て、義理の門を判釈したものであり、道理にかなっていると言えども、一極の無言の術ではない。 我が天台宗の正しい意図はこれとは異なる。円融なる法界は真実の極みに冥合し、心をして衆生と争わせることを欲しない。四教を立てるのも、ただ諸経の文を解釈し、その源底を窮めようとするためであり、決して四教の義に固執するものではない。時に三教・二教・一教・無教・八教と、現れたり隠れたりして一定せず、多少も定まらず、自在に転変して人の解釈に従い、この心にわずかでも執着を許さず、自らの見解にこだわって他者の理解を否定しない。もしこのようにするならば、それはただの論争であり、悟りの道に入る方法ではない。 南岳大師の偈に「犬が影を見て争い、争いをやめず、ついには渇きて死す」とある。今、これに準じて簡別するのであり、営道の意に基づくものではない。 ただ、修行者の心の道筋は様々であるが、それらをまとめれば二つの修行に尽きる。すなわち、聖者の説法と聖者の沈黙である。自らの心の便宜と方便を識別すべきである。もし心が沈み塞がり、沈黙の道において心が開かれないならば、法を聴くか、善知識に近づいて心を開くべきである。あるいは経典から義理を求め、この心を発することもある。あるいは法を聴くことで心が動揺し、静かに集中できず、経典を調べて義を求めることがかえって心を煩わし、深い利益がないと感じるならば、目を閉じて身体を整え、自らの心を静めて沈黙の道に入るべきである。 語と黙の二つの行を共に修め、心を調伏し、粗雑を研ぎ澄まして調和させ、善く取捨し、真偽を簡別する。このような時に寂静を修し、このような時に智慧を修するのである。譬えば天地が晴れたり雨が降ったりして陰陽を調節し、万物が生じるようなものだ。もし雨ばかりで晴れなければ種子は腐り、晴ればかりで雨がなければ芽は乾き枯れて、万物を生じさせることができない。調和して初めて善くなるのである。修行者もまた同様で、ひたすら沈黙すれば沈み暗く塞がり、純粋に分別を用いれば諸々の見解が競い起こり、権実は調和せず、導師は生じない。巧みに運用して豁然として道に入り、夜に電光を見るようにして聖法に入るのである。これが学道の者が善く是非を識り、邪正を簡別するということである。 故に『大智度論』に「時雨が度々降り、五穀が度々生じる。法雨が度々降り、善法が度々生じる」とある。もし聖者の説法と聖者の沈黙を度々調御しなければ、実相の穀は生じない。もし偏って知見に執着すれば、ついに理に入ることはない。故に、「百千の経を読んでも、邪見は諸々の非を長じ、吾我の毒は甚だ盛んである。常の子を懷いていると言えども、石女はついに生まない」と言うのである。 もし聖者の説法において聞いてすぐに悟り、諸法に通達して自在に明らかになるならば、これを信行という。聞いても悟れず、四念処によって思惟し、深く徹して深く照らし、その辺底を得るならば、これを法行という。聖者の沈黙の中にも信行と法行がある。このように禅観する時、一つの境を観ずれば直ちに諸境に通じ、心地は開明して微細な疑いもなく、空中の風の如きを法行という。もし観を策励しても悟ることができず、努め励んでもなかなか分からないならば、善知識から聞き、あるいは経巻の中で見て、豁として空中に雲なきが如く表裏が徹見される、これを信行人という。また、教化を受けて語とするのは、聞いてそのまま行うことであり、これが聖者の沈黙である。行ってそのまま聞くのは、聖者の説法である。

第一、「彌勒白佛」者，正明奉命受旨。就此為三：一彌勒受旨、二諸菩薩受旨、三四王受旨。就初為二：初受旨、次述成。初中又二：初受誡旨、二受勸旨。從「奉持如來無數劫」去，是受勸旨。就此中為二，對上二種。一奉通經旨、二奉神力護持旨。此中自云「與其念力而建立之」，若依安樂行，有所說法冥空益其念力。亦如人說法時，思量祇至一條二條。此至說時，即見三五節意。或可是心入義門而能明識，或是冥空助念加被其人。第二、佛述成。第二、諸菩薩受旨發誓。第三、四王受旨發誓。

> 第一に「彌勒、佛に白す」とは、まさに命令を受け、旨を受けることを明らかにしている。これを三つに分ける。一に、彌勒が旨を受ける。二に、諸々の菩薩が旨を受ける。三に、四王が旨を受ける。初めの部分をさらに二つに分ける。初めに旨を受け、次にその内容を述べ成す。初めの中でもさらに二つに分ける。初めに戒めの旨を受け、二つ目に勧めの旨を受ける。「如来の無數劫にわたる修行を奉持する」からが、勧めの旨を受ける部分である。この中でさらに二つに分け、上の二種類に対応する。一に、経典を広める旨を奉じ、二に、神力を保ち護る旨を奉じる。ここで自ら「その念力を与えて、これを建立する」と言う。もし安楽行に従えば、法を説くとき、冥空の力がその念力を助ける。また、人が法を説くときに、考えがせいぜい一、二箇条にとどまるようなものである。しかし、実際に説くときには、三、五節もの意味が見えてくる。あるいは心が義の門に入って明確に識別できるようになるか、あるいは冥空の助けによって念力が加えられるかのどちらかである。第二に、佛が述べて成す。第二に、諸々の菩薩が旨を受けて誓いを立てる。第三に、四王が旨を受けて誓いを立てる。

第二、命阿難宣經者，阿難迹居小道，復得羅漢之身，入無餘之時則生分永盡，何得奉宣大經？此意止令傳持無謬，結集法藏，故命宣經。若就本為語，能持十方一切佛法，豈容灰滅不能宣布此經。就此為三：一佛命、二問經名、三佛答二種名。要旨者，即是實相。實相總攝諸法，得要即得諸法也。

> 第二に、阿難に経典を説き示すよう命じたことについて。阿難は表面的には小乗の立場にあり、阿羅漢の果位を得ていたものの、無余涅槃に入ると生死の分断は永遠に尽きるため、どうして大乗経典を説き示すことができようか。この意図は、ただ経典を誤りなく伝え保持させ、法蔵を結集させるために、阿難に経典を説くよう命じたにすぎない。もし根本的な立場から言えば、阿難は十方のすべての仏法を保持する能力があるのであり、まさか灰身滅智してこの経典を宣布できないわけがない。この部分を三点に分ける。第一に仏の勅命、第二に経典の名称を問うこと、第三に仏が二種の名称を答えることである。要旨とは、すなわち真実の相（実相）である。実相はすべての法を統摂する。その要旨を得れば、すなわちすべての法を得ることになるのである。

三、大眾聞經皆大歡喜。

> 三、人々はこの教えを聞いて、皆が大いに喜びました。

## 維摩經略疏卷第十

> 維摩經略疏 巻第十

貞和三年三月二十九日，染江南之㝹毫，寫山上之鵝教，雖不遁講眾慇懃之芳命，猶恐繼門主奇妙之高跡而已。

> 貞和三年三月二十九日、江南の兎の筆を染め、山上の鵞の教えを写す。講衆の懇ろなる芳命を遁れざれども、なお門主の奇妙なる高跡を継ぐことを恐るるのみ。

旹元和二年丙辰九月上旬摺之

> 時は元和二年丙辰の年、九月上旬にこれを摺った。

本云此略疏十卷，依無古點。山門竹林房盛憲僧正，自江戶新本被送越之間，貴命因難辭。自去春二月初，至于當月十四日，點朱終功畢。問疾品已前本經無之，故諳令推量本經文句，分文若相違之處，後賢本經見合可校之。即課當山例講眾之初學點朱寫留，但忽卒至于武州，江戶遣之，故不能校合。朦氣多疾凌之，令點之，故謬錯有之乎。又第八卷之內，前後錯亂之處，質之押紙，付文二丁在之，後見可細尋之。

> 原本には、「この略疏十巻は、古い句読点がないものに従っている。山門竹林房の盛憲僧正が、江戸から新版を送ってくださったので、貴命をいただき辞退しがたく思った。 昨年の春2月の初めから、当月の14日までに、朱筆での句読点の作業を終えた。 「問疾品」以前は、もとの経典にはなかったので、暗記しているところをもとに経典の文句を推量して、文の区切りに誤りがあれば、後の賢者がもとの経典と照らし合わせて校訂してほしい。 そこで、当山の例講の初学者を集めて、朱筆を写し書きさせた。しかし、急に武州まで行くことになり、江戸にそれを送ったので、校合ができなかった。 また、眼のかすみや病気が多い中で、それに耐えて句読点を打ったので、誤りがあるかもしれない。 さらに、第八巻の中には、前後が錯乱しているところがある。それを尋ねる押紙をつけた二丁の文があるので、後ほど細かく調べてほしい。」という内容です。

寬永十八年辛巳六月二十一日於蓮乘院奧隱居閑亭快倫記之

> 寛永18年（1641年）6月21日、蓮乗院の奥にある隠居の閑亭において、快倫が記す。