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title: "華嚴經內章門等雜孔目章 · 名號品初禮佛儀式章"
description: "《華嚴經內章門等雜孔目章》是唐代高僧智儼所集的佛教論著。智儼為華嚴宗二祖，此書成於初唐，旨在闡釋《華嚴經》的深奧義理。內容主要對經文進行科判、分章和釋義，系統梳理名相概念與修行法門，幫助學人深入理解華嚴一乘十玄門等核心思想。該書是研究華嚴宗早期思想的重要文獻，承襲智儼師承杜順的學脈，為後世法藏創立華嚴宗奠定理論基礎，在佛教義學史上具有承先啟後的地位。"
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禮佛有三種。所謂身口意。謂身業禮佛者。大分有三。一隨方儀禮。二佛制教禮。三成極禮。此三禮法。分別有三。一成過禮。身儀不正。與慢相相應。如碓上下。佛制有過。名成過禮。二相似禮。相雖順正。與雜覺相應。或與倚緣合名相似禮。三順實禮。禮相順儀。與正無分別智相應。或與實性相應。謂如如性也。名順實禮。口業禮義。準前可知。意業有七。一成過禮。謂對尊境。與雜覺相應。名成過禮。二相似禮。與求名利樂有相應。亦與惡欲等合。經文判入一闡提道。今雖似善。當得大苦。名相似禮。三敬德禮。敬上如來無量功德相如金山得順如實。名敬德禮。四滅過禮。自省者無知造過無邊。情無羞恥。今逢聖境。投欲洗之名滅過禮。五迴向眾生禮。自惟無始不了體同。遂加惡於他。流轉無始。今知即體無二。收過從己。欲度眾生歸於本性。唯我一人。能成此事。今所作業。是眾生物。何以故。乘眾生性成故。名迴向眾生禮。六迴向菩提禮。自惟。本性與諸佛果究竟覺。同一體無二。今乃則而不覺。流轉生死。今息相還原。運心所造。更不別有。從如實來。是如實法故。是迴向菩提禮。言迴向者。乃合不迴向。何以故。是彼本法。無別迴向故。七迴向實際禮。自惟。所修則是實際所有心。智則無我故。無二無別。名迴向實際禮。上之五禮。並各有二。一起心迴向。三乘所訶。二一實迴向。謂則如如性。無二無別。不可別修。無別起求。為則一故。本來無動。是實際義。是迴向義。上之五禮。一一準知。上言隨方禮者。隨方儀式發。恭跪搏頰叩頭擎拳等。各隨方儀名隨方儀禮。二佛制教禮者。佛初成道。為給孤獨長者。制其禮義。五輪著地庠審取正。名制教禮。佛目七眾若違此儀得違教罪。七眾以外不依此儀。無違教罪。但有依方敬儀之福。三成極禮。成極禮者。五體投地。良久乃起。或其心普遍。與法界等。或身普遍。與因陀羅及微細等。或身心經時三世九世等。名成極禮。一乘之禮。具前諸禮。何以故。為皆通見聞故。三乘諸禮佛所訶者。止佛不訶者。應為上件。諸禮佛儀。並準前條。仍一乘局見聞。

> 仏を礼拝するには三つの方法がある。すなわち、身・口・意である。 まず、身業による礼拝は、大きく三つに分けられる。 一、随方儀礼（その土地の習慣に従った礼） 二、仏制教礼（仏が定めた礼の作法） 三、成極礼（究極の礼） これらの三つの礼には、それぞれ三つの種類がある。 一、成過礼（過ちとなる礼）。身体の作法が正しくなく、慢心と結びついている。まるで杵が上下するように、無造作に行う礼である。仏の教えに反するため、これを「成過礼」という。 二、相似礼（似て非なる礼）。形は一応整っているが、雑多な考えや、何かに頼る心と結びついている礼である。 三、順実礼（真理に従った礼）。形は整い、正しい無分別の智慧と結びついている。あるいは、あるがままの真理（如如性）と一体となっている礼である。これを「順実礼」という。 口業による礼拝の意味も、これに準じて理解できる。 意業による礼拝には七つある。 一、成過礼。尊い対象に対して、雑多な思いと結びついて行う礼である。 二、相似礼。名誉や利益、楽しみを求める心と結びついている。あるいは、悪い欲望などとも結びついている。経典では、このような者は一闡提（善根を断った者）の道に入るとされている。今は善いように見えても、やがて大きな苦しみを受けることになる。これを「相似礼」という。 三、敬徳礼。如来の限りない功徳を敬い、その姿を金色の山のように尊び、あるがままの真理に従う礼である。これを「敬徳礼」という。 四、滅過礼。自らを省みて、無知ゆえに限りない過ちを積み、恥じる心もなかったことを悟る。今、聖なる境遇に出会い、その過ちを洗い清めたいと願う礼である。これを「滅過礼」という。 五、回向衆生礼。自ら思うに、無始の昔から、全ての存在は本来同じ本質であることを理解せず、他者に対して害を加え、流転し続けてきた。今、その本質には違いがないこと（一体無二）を悟り、過ちを自分のものとして受け止め、全ての生きとし生けるものを本来の本性に導きたいと願う。この偉業は、私一人にしか成し遂げられない。今行うこの修行は、全ての生きとし生けるもののためのものである。なぜなら、その本性によって成立しているからである。これを「回向衆生礼」という。 六、回向菩提礼。自ら思うに、自分の本性と諸仏の究極の悟り（究竟覚）は、同じ一つで別のものではない。しかし、今はその理に迷い、悟りを得ず、生死を流転している。今、この迷いを静め、本来の姿に還り、心を込めて修行する。この行いは、修行から得た別のものではなく、あるがままの真理から来たものであり、真理そのものである。これを「回向菩提礼」という。「回向」とは、本来は「回向しないこと」と一体である。なぜなら、この行いは元々の本質（本法）そのものであり、別に「回向」というものがあるわけではないからである。 七、回向実際礼。自ら思うに、修行そのものがすでに実際（絶対的な真理）であり、そこにある心や智慧は「我」というものがないため、一つであり、違いも区別もない。これを「回向実際礼」という。 以上の五つの礼には、それぞれ二つの種類がある。 一、心を起こして行う回向（三乗の教えでは非難されるもの） 二、一実（唯一の真実）の回向。すなわち、あるがままの真理そのものと一つであり、二つではなく区別もないため、別に修行したり、別に求めたりすることはできない。元々一つであり、動くことがないこと、それが実際の意味であり、回向の意味である。以上の五つの礼も、それぞれこのように理解できる。 先に述べた「随方儀礼」とは、その土地の習慣に従って、恭しく跪いたり、額を地面に擦り付けたり、拳を合わせたりするなど、様々な作法で行う礼である。 二番目の「仏制教礼」とは、仏が成道された後、給孤独長者のために定めた礼の作法である。五つの体の部分（両膝、両肘、額）を地面に付け、ゆっくりと落ち着き、正しく姿勢を取る。これを「制教礼」という。仏は、七衆（比丘・比丘尼・式叉摩那・沙弥・沙弥尼・優婆塞・優婆夷）に対して、この作法に違反すれば違教の罪があると説かれた。七衆以外の者がこの作法に従わなくとも、違教の罪はないが、その土地に従った敬い方による功徳はある。 三番目の「成極礼」とは、五体を投げ出し、長い間そのままの姿勢でいることである。あるいは、その心が普遍的に、法界と等しくなること。あるいは、身体が普遍的に、帝釈天の因陀羅網や微細な世界と等しくなること。あるいは、身心が三世や九世にわたることなどを言う。これを「成極礼」という。 一乗の教えにおける礼拝は、以上の全ての礼を具えている。なぜなら、それらは全て「見聞」を通して成り立つからである。 三乗の教えにおける礼拝で、仏が非難されたもの、あるいは非難されなかったものについては、上記の通りである。これらの礼拝の作法は、全て以上の基準による。ただし、一乗の教えは特に「見聞」に限定されるものである。