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title: "金光明懺法補助儀 · 4 略明能請及所求離過"
description: "宋代天台宗高僧遵式大师集录的金光明懺法補助儀，是天台宗重要懺法文献之一。该典籍成书于北宋，旨在补充和完善《金光明经》的懺悔修行仪轨，为修行者提供具体实践指南。内容包含礼敬、供养、忏悔、发愿等仪程，强调通过懺悔消除业障、获得吉祥光明。其在佛教中地位崇高，被视为汉传佛教懺法的重要经典，对后世佛教仪轨及修行实践影响深远。"
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### 略明能請及所求離過第四

準請觀音三義。一為自故請。二為他故請。三護正法故請。今品準意正在護法。即天王護經。第三以福資請說。及以聽者。通論亦應具三。經云。當為己身及諸眾生。即自他也。廣令流布是妙經典。即護法也。皆本品文耳。又新本云。汝能流布是經自他俱益。此明文也。自請復三。一延請。二祈請。三願請。此配三業成機。品云。洗浴其身禮拜供養。身業延請也。誦呪召我。即口業祈請也。至誠發願。即意業願請也。為他護法三業亦爾。延請復三。標心約行證請。標心謂域意祈求專誠則感。新本云。實言邀請發所求願。約行者謂雖不標心其人三業淳淨。大聖自然應之。品云。我當終身不遠是人。證請者鬼神品云。若入是經即入法性。即於是典金光明中。而得見我釋迦牟尼。延請既爾祈願亦然。此三業之機。十界眾生二嚴未滿。為他護法咸須致請。二明所求離過者。問曰。百錄云。金光明懺法。但應折意悔罪。那忽有求。答其理實然。但由行法事出此品。以吉祥為主。故品意復是福資說聽。品內之文。多明財寶少說懺悔。唯新本云。供養諸佛自陳其罪。迴向發願等。然復品明增長財物。因是之故多招諂附。欲免斯過故示所求也。今作二意。一者若直懺淨心不餘圖。專依事理一心精進。若取相若觀空。意期滅罪此非所論也。二者若為護法及請說因緣標心所求。行者須精識其過。復有二意。一者約三請示起過處。謂行證二請必無諂詐。諂則非行自不成感。唯標心作法者。事有真偽過則生焉。二者正約標心揀過。復二。初略約三義顯正。次反此出過言正。三者一約能請之機。謂真欲通經。若請者若說者若聽者。隨有所乏法流斯壅。標心指事七日虔祈。欲假天資固宜遠過。請必須實。說必須了。聽必須勤。餘非能感也。二約能應之聖。即吉祥大天。天心不欺果有實語。雖不謀而應而毫釐不濫。真機一扣妙應遂通爾。三約與財之意。意在潤其處而致請。充其乏而益說。給其資而久聽。經云。是說法者。我當供給令心安住。晝夜歡樂正念思惟分別深義。請者及聽準此可知。故非庸昏之徒。飽食終日無所用心。天與其財也。次出過者。反前可知。更復略說。且出家之子。尚不應求事戒世禪。及二乘智慧。豈容全不資道。專為養軀。諂附行儀竊規財利。設遂多畜自犯嚴科。不淨八財招苦三惡。供養既無福應五百問云。尚不免地獄。何況得福施設竟自空。為擬欲感天恐應無日。二則天佐有德。不祐無道。畜財毀戒天捨人譏。徒欲虔祈逾近逾遠。尚今大鬼掃迹。寧得尊天衛身。天乎無親唯德是輔。豈苟徇庸鄙。而言終身不遠是人耶。三則既反天意。與財何為。意為通經不專濟命。尚令散積豈使益貪。且沙門染法猶訶。畜財誰賞。世有不達徒欲要求。天網恢恢疎而不漏。問曰。觀上所說恐不全爾。何者人情自隔天理本通。菩薩慈稱無緣。大士施元博濟。賊稱佛號尚獲金頭。僧奉天靈寧慳玉帛。答汝此問深不達也。譬如國之法。臣非法虞罪。去官奪祿而反責君曰。天子仁慈不應偏黨。尚恩覃草木惠及孤貧。何故於臣而慳爵祿。觀此所責是智臣乎。經稱能持一句及以首題。以財以護者。此攝俗子及顯持功。工商仕農求財是分。王臣長者濟國盈家。尚令必聽是經要求同行。地神品云。好行惠施心常堅固。深信三寶積而能散。素聞廉士之風。知足節量。夙仰道人之範。未見迹參。穢俗志混凡夫。而人歸天護者也。

> 『観音経』〈請観世音菩薩消伏毒害陀羅尼経〉を参考に、請願には三つの意味がある。第一に、自分のために請願すること。第二に、他人のために請願すること。第三に、正しい教えを守るために請願することである。この品の主旨からすると、特に正しい教えを守ることに重点が置かれている。つまり、天の王たちが経典を守護することである。第三の点として、福徳によって説法と聴聞を助ける。広く論じれば、これら三つをすべて備えるべきである。経典には「自らのため、そして諸々の衆生のためであるべきだ」とあり、これは自分と他人の両方を含む。「広くこの素晴らしい経典を流布させる」というのは、正しい教えを守ることである。これらはすべて本品の中に示されている。また、新訳には「汝がこの経典を流布できるなら、自他ともに利益を得る」とある。これが明確な証拠である。 自己のための請願にもさらに三つある。第一に「延請」（招請）、第二に「祈請」（祈願）、第三に「願請」（発願）である。これは三業（身・口・意の行為）を機縁として対応させたものである。品には「その身を洗い清め、礼拝し供養する」とあり、これは身業による延請である。「呪文を唱えて私を呼ぶ」は、口業による祈請である。「至心に誓願を発する」は、意業による願請である。他人のため、また正しい教えを守るための三業も同様である。 延請にもさらに三つの捉え方がある。「心に標を立てる」「行いに基づく」「証得に基づく」という請願である。「心に標を立てる」とは、心を集中して祈り求め、専念すれば感応が得られるということである。新訳には「真心を込めて招き請い、求める願いを発する」とある。「行いに基づく」とは、心に標を立てずとも、その人の三業が純真で清らかであれば、大いなる聖者が自然に応じるということである。品には「私は終生、その人から遠ざからない」とある。「証得に基づく請願」は、『鬼神品』に「もしこの経典に入れば、すなわち法性に入る。すなわちこの『金光明経』において、私、釈迦牟尼を見ることができる」とある。延請がこのようであるなら、祈願もまた同様である。この三業の機縁は、十界の衆生が二つの厳淨（福德と智慧）をまだ満たしていないために、他人のため、正しい教えを守るためには、すべて請願をしなければならないのである。 次に、求めることにおける過ちを避けることについて説く。 問う：『国清百録』には「金光明懺法は、ただ心を折って罪を悔いるべきである。どうして求めることがあろうか」とある。答える：道理としては確かにその通りである。しかし、修行の方法が本品に基づくものであり、吉祥が主眼であるため、本品の趣旨もまた福徳によって説法と聴聞を助けることにある。品の中の文は、財宝について多く述べ、懺悔については少ない。新訳だけが「諸仏に供養し、自らその罪を述べ、回向し発願する」と説く。しかし、品は财物の増長についても明らかにしている。このため、へつらいやこびへつらう心を招きやすい。その過ちを避けるために、ここで求めることの正しい在り方を示す。 今、二つの意味を提示する。 第一に、もし単に懺悔によって心を清め、他の企てを持たず、専ら事と理の一心不乱に努め、相を取るにせよ空を観るにせよ、罪の消滅を期する心だけであるなら、これは今論じる問題ではない。 第二に、もし正しい教えを守るため、および説法を請う因縁のために心に標を立てて求めるなら、修行者はその過ちを深く認識しなければならない。これにも二つの意味がある。 第一に、三種の請願によって過ちの生じる箇所を示す。すなわち、修行と証得に基づく請願には、へつらいや偽りは必ずない。へつらいは修行にならず、自然に感応は得られない。ただ心に標を立てて行う方法には、真実と偽りがあり、そこに過ちが生じるのである。 第二に、特に心に標を立てることに関して過ちを選別する。これにまた二つある。初めに、三つの意味によって正しい在り方を示す。次に、これに反することを過ちとして示す。 正しい在り方の三つとは、 第一に、請願する側の機縁について。本当に経典を広めようと願うこと。請う者も、説く者も、聴く者も、何かが欠ければ法の流れは滞る。心に標を立て、具体的な事柄を指して七日間誠心に祈る。天の助けを借りようとするなら、まさに過ちから遠ざかるべきである。請願は真実でなければならず、説法は明らかでなければならず、聴聞は勤勉でなければならない。これら以外は感応を引き起こすことはできない。 第二に、応じる聖者について。すなわち、吉祥大天である。天の心は欺くことなく、その言葉には必ず結果が伴う。思案せずとも応じるが、その感応は少しの濁りもない。真実の機縁が一度打ち鳴らされれば、素晴らしい応答が直ちに通じるのである。 第三に、財を与える意図について。その意図は、その場所を潤して請願を促し、不足を満たして説法を助け、資材を供給して長く聴聞を可能にすることにある。経典には「この説法者に対して、私は供養して心を安らかにさせ、昼夜にわたって歓喜し、正しく念想し、深い意味を分別させる」とある。請願する者と聴聞する者も、これに準じて理解すべきである。だから、凡庸で愚かな者たちが、一日中食べては何も考えずにいるのを、天が財を与えるのではない。 次に、過ちを示す。先に述べたことの反対と考えればよい。さらに簡単に述べる。 出家した者ですら、世俗の戒律や世間的禅定、二乗の智慧を求めるべきではない。ましてや、全く道に資することなく、専ら体を養うために、へつらいの行儀でこっそりと財利を狙うなど、あってはならない。たとえ多くの蓄財を得たとしても、厳しい戒律に自ら反することになる。清浄でない八種の財は、三悪道の苦しみを招く。供養しても福徳はなく<note>『五百問論』には「地獄を免れない。まして福徳を得ることなどありえない」とある</note>、施しも結局は空しい。天の感応を得ようとしても、その日は来ないだろう。 第二に、天は徳ある者を助け、道なき者を助けない。財を蓄えて戒律を破れば、天は見捨て、人々は非難する。無駄に誠心に祈れば祈るほど、かえって遠ざかる。今や大きな鬼さえもその跡を絶つのに、どうして尊い天が身を守ってくれようか。天は無情で、ただ徳ある者だけを助ける。どうして凡庸で卑しい者に従って、「終生その人から遠ざからない」と言うことがあろうか。 第三に、すでに天の意に反しているのに、財を与えて何になろう。その意図は経典を広めることであって、専ら命を助けることではない。散財させることさえあるのに、どうして貪欲を増長させることがあろうか。ましてや沙門は財の汚れさえも戒める。財を蓄えることを誰が賞賛するだろうか。世の中には理解せずに無駄に願い求める者がいるが、天の網は広大で、目は粗いが漏れることはない。 問う：上記の説を見るに、すべてがそうとは限らないのではないか。なぜなら、人情が自ら隔てているだけで、天の道理は本来通じている。菩薩の慈悲は「無縁の慈悲」と称され、大士の施しは元より広く普遍的に与えられる。盗賊が仏の名を唱えても金の頭を得たという話もある。僧が天の霊を祀れば、どうして宝玉を惜しむことがあろうか。 答える：あなたのこの問いは、深く道理を理解していない。例えば国の法で、臣下が法を犯して罪を虞れ、官位を奪われ俸禄を失った後、君主を責めて「天子は慈悲深いはずなのに、偏ってはいけない。恩恵は草木にまで及び、慈しみは孤児や貧者にまで施される。どうして臣下に対して爵位や俸禄を惜しむのか」と言うようなものだ。このような非難をする者が、賢明な臣下と言えるだろうか。経典には「一句、および経題の首をよく受持する者」に、財を与え守護すると説かれている。これは在家の人々を摂受し、受持の功徳を示したものである。工商や農民、仕官などは財を求めるのが本来の分であり、王臣や長者は国を救い家を豊かにする。彼らにも必ずこの経典を聴くことを勧め、同じく行うことを求めるのである。『地神品』には「よく布施を行い、心は常に堅固で、三宝を深く信じ、蓄えてはよく施す」とある。昔から廉潔な士の風範を聞き、足ることを知って節度をわきまえ、常に道人（修行者）の模範を仰いでいた。しかし、その足跡が汚れた世俗に混じり、心が凡夫と同様であるなら、人が帰依し天が守護する者とは言えない、ということを示しているのである。