---
title: "請觀世音菩薩消伏毒害陀羅尼三昧儀 · 2 作禮法"
description: "北宋天台宗高僧遵式大师集录的《請觀世音菩薩消伏毒害陀羅尼三昧儀》，是一部重要的观音忏法仪轨。该仪轨以《请观音经》为核心，结合密咒与天台观想法，详细规定了礼拜、供养、持咒、忏悔等修行次第，旨在通过观世音菩萨的慈悲愿力消除业障、祛除病厄与灾祸。此仪轨体现了宋代天台宗显密圆融的特色，是汉传佛教观音信仰的重要实践指南，至今仍在佛教修持中具有深远影响。"
url: "https://rushiwowen.co/ja/r/cme5gnz0n0050kz042bshfd7p"
---

### 第二作禮法

> 第二の礼拝法

百錄云。各執香爐一心一意。向彼西方五體投地。使明了音聲者唱。輔行云。五體投地。理須雙膝前詣雙肘續施。後方額扣肝膽委地。想佛足下施手承足如對目前。疏云大聖常欲濟拔為無瘡之者。毒不能入故令三業為機理解者。疏云地是一實相地。若與薩婆若相應心合。名為投地。若離薩婆若而起五陰。此是平倚。毒害不消沈淪生死。今明五體表五陰。左脚是色。右脚是受。左手是行。右手是想。頭是識。何故爾。戒是色法。無作冥密如陰。表左脚也。定是受者。定是心神之法為陽。表右脚也。想是推晝前境如陽。表右手也。行是思數如陰。表左手也。五識在頭能了別。故識對頭也。若依薩婆若地者。得五分法身戒。是防護七支故。是色陰定是三昧正受故。是受陰慧。是悟虛智即想陰。解脫是行。行能招累。解脫無累故對行陰。解脫知見是識陰。能了別故。以五分法身伐生死五陰。經云。因滅是色獲得常色。受想行識亦復如是。是以名五體投地。令毒害消伏。則出生死翛然累表也。

> 『百録』にこうある。 「それぞれ香炉を手に取り、心を一つに西方に向かい、五体投地をせよ。音声の明らかな者に唱えさせよ。」 『輔行』に言う。「五体投地とは、理屈としては両膝を前に進め、両肘を次に着き、その後で額を地面に打ち、肝心を地に委ねることである。仏の足下を思い、手を差し出してその足を受けること、目の前にあるかのようにせよ。」 疏に言う。「大聖は常に救い濟おうと望むが、傷のない者には毒が入らない。ゆえに三業を機とせよ。」 ＜理解すべきこと。疏に言う。地とは一実相の地である。もし薩婆若（一切智）に相応する心と合するならば、これを投地と名づける。もし薩婆若を離れて五陰を起こすならば、これは平らな所に倚るに過ぎない。毒害は消えず、生死に沈淪する。今、五体は五陰を表す。左足は色、右足は受、左手は行、右手は想、頭は識である。なぜそうなるのか。戒は色法であり、無作は窮屈であること、陰のようである。ゆえに左足を表す。定は受である。定は心神の法であり、陽である。ゆえに右足を表す。想は前の境界をおしはかるもの、陽のようである。ゆえに右手を表す。行は思の数であり、陰のようである。ゆえに左手を表す。五識は頭にあり、弁別することができる。ゆえに識は頭に対応する。もし薩婆若の地に依るならば、五分法身の戒を得る。戒は七支を防護するもの、ゆえに色陰である。定は三昧の正受、ゆえに受陰である。慧は虚を悟る智慧、すなわち想陰である。解脱は行であり、行は累を招く。解脱には累がないので、行陰に対応する。解脱知見は識陰であり、弁別できるからである。五分法身によって生死の五陰を伐つ。経に言う。因によってこの色が滅し、常の色を得る。受・想・行・識もまた同じである。ゆえにこれを五体投地と名づける。毒害を消し伏せれば、生死を出で、悠然と累を離れるのである。」＞

一心頂禮本師釋迦牟尼世尊。

> 一心に本師である釈迦牟尼世尊を敬い礼拝いたします。

一心頂禮西方無量壽世尊。

> 一心に礼拝いたします、西方の無量寿の世尊よ。

一心頂禮過去七佛世尊。

> 一心に過去七仏の世尊に、心から礼拝いたします。

一心頂禮十方一切諸佛世尊。

> 心から、あらゆる方向にいらっしゃるすべての仏さま（世尊）を礼拝いたします。

一心頂禮消伏毒害陀羅尼破惡業障陀羅尼六字章句陀羅尼。

> 一心に礼拝します。 毒害を消し去る陀羅尼、 悪い業の障りを打ち砕く陀羅尼、 六字の章句からなる陀羅尼を。

一心頂禮十方一切尊法。

> 一心に十方のすべての尊い教えを礼拝いたします。

一心頂禮觀世音菩薩摩訶薩。

> 心を一つにして、観世音菩薩摩訶薩に敬礼いたします。

一心頂禮大勢至菩薩摩訶薩。

> 一心に大勢至菩薩摩訶薩を礼拝いたします。

一心頂禮十方一切菩薩摩訶薩。

> 一心に、あらゆる方向にいらっしゃるすべての大菩薩たちに心からの敬礼を捧げます。

一心頂禮舍利弗等聲聞緣覺賢聖僧。

> 一心に舎利弗をはじめとする声聞や縁覚の賢聖僧の方々を敬礼いたします。

禮佛想云　能禮所禮性空寂　感應道交難思議　我此道場如帝珠　釋迦牟尼影現中　我身影現釋迦前頭面接足歸命禮　至禮無量壽佛即云無量壽佛影現中云云禮法想云　真空法性如虛空　常住法寶難思議我身影現法寶前　莫不皆悉歸命禮　禮僧準上禮佛作想但改為菩薩等　惟禮觀音云為求滅障接足禮此是懺悔之主別須三禮表破三障及勤重故耳。

> 礼仏の想い：礼する者と礼される対象、その本性は空にして静か。感応道交、思いはかり知れず。我がこの道場は帝珠のごとく、そこに釈迦牟尼の影が現れる。我が身の影は釈迦の前に現れ、頭を面し足に接して、命に帰して礼を捧げる。阿弥陀仏を礼する際には、「無量寿仏の影、ここに現ず」と唱え、同様に観想する。法を礼する想い：「真の空なる法性は虚空のごとし。常住の法宝、思いはかり知れず。我が身の影、法宝の前に現れ、ことごとく皆、命に帰して礼を捧ぐ。」僧を礼する場合は、上の仏を礼する想いに準じ、ただ「菩薩」などと改める。ただし、観音を礼する時は、「滅障を求めて足に接し礼す」と唱える。これは懺悔の主たる行いであり、特に三度礼するのは、三障を破り、懇ろさと重みを表すためである。