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title: "唐護法沙門法琳別傳 · 第三"
description: "唐代沙门彦琮所撰《唐護法沙門法琳別傳》，是一部记载初唐高僧法琳生平事迹的重要佛教传记。法琳活跃于唐高祖至太宗时期，以护持佛法、与道教辩论著称。本传详述其护教经历、著作及思想，尤其聚焦于佛道论争中的立场与贡献。该书不仅反映唐代佛道关系的复杂历史背景，更展现佛教在政治与宗教对话中的适应与坚守，是研究唐代佛教史、护教文献及儒释道三教关系的重要史料，具有极高的宗教与学术价值。"
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## 唐護法沙門法琳別傳卷下

> 唐護法沙門法琳別伝 巻下

京弘福道場釋彥琮撰

> 京弘福道場 釈彦琮 撰

威等又問法師曰。論第六云。飾道昱禍宋之服。曳孫恩敗晉之裳。著南鄭反漢之巾。把公旗誅家之笏者。但大冠小冠之設。爰自漢朝皮巾鹿巾之來興於往古。冠即法於年祀。笏乃侔於搢紳。既而服象雲羅。致有攀霞道士。衣同羽縠。時聞履霧仙人。故知其跡可尋三芝弗遠。其風可仰八桂非遙。所以蕭史邕邕。駕丹鳳於秦室。叔卿弈弈。驂白鹿於漢庭。而云敗國破家。出何圖史。既陳虛唱。法有嚴科。法師對曰。琳聞。聲調響順形直影端。未見鑽火得氷種豆生麥。所以蘇張逢於鬼谷。各處浮詐之先。顏閔遇於孔門。俱標德行之始。故知習二篇之化。徼妙無為。行三張之風。謀為亂首。何者。後漢順帝時。沛人張陵。客遊蜀土。聞諸古老相傳云。昔漢高祖。應二十四氣。祭二十四山。遂王有天下。陵不自度德。遂搆此謀。殺牛祭祀二十四所。置以土壇戴以草屋。搆二十四治館。治館之興始乎此也。二十三所在於蜀地。尹喜一所在於咸陽。於是誑誘愚民招合兇黨。𣫍租稅米謀為亂階。時被蛇吞亹逆不作。又陵孫張魯。行其祖術。於後漢中。自稱師君。禍亂方起。為曹公所滅。又中平元年。鉅鹿人張角。自稱黃天部師。有三十六將。皆著黃巾。遠與張魯相應。眾至十萬。焚燒鄴城。漢帝遣河南尹何進。將兵討滅。又晉武帝咸寧二年。有道士陳端。以左道惑眾。自號天師。徒附數千積有歲月。為益州刺史王𤀹誅滅。又晉文帝大和元年。彭城道士盧悚。自稱大道祭酒。以邪術惑眾。聚合徒黨。向日占辰。攻廣漢門云。迎海西公。時殿中桓祕等。覺知與戰。尋被誅斬。又梁武帝大同五年。道士袁矜。妖言惑眾行禁步綱。官軍收掩尋被誅滅。又隋文帝開皇十年。有綿州昌隆縣道士蒲童。與左童二人。在崩溪館。自稱得聖。誑惑人民。重床至屋。却坐其上云。十五童女方堪受法。令女登床以幕圍遶遂便姦匿。如此經月。後事發覺。因即逃亡。又開皇十八年。益州道士韓朗。綿州道士黃儒林。扇惑蜀王令興惡逆云。欲建大事須藉勝緣。遂教蜀王傾倉竭庫。造千尺道像。設千日大齋。畫先帝形。反縛頭手。呪而壓之。河北公趙仲卿。撿察得實送身京省。被問伏罪在市被刑。近如武德三年綿州昌隆縣人李望。先事黃老恒作妖耶。去大業季年。有道士蒱子真。微閑道術。被送東京。至梁漢身死。因葬在彼。而李望矯云。子真近還。又於彼縣山側。有一石室。巖穴幽闇人莫敢窺。望乃依憑以作妖詐。在明則張喉大語領納通傳。入闇即噎氣小聲詐陳禍福。遂令道士等傳說。達縣聞州。官人初檢。並皆信受。後刺史李大禮云。此事非輕必須申奏。要假親驗方定是非。遂與合州縣官人。并道士等一百餘騎。同至穴所。再拜祈請。望時詐答。聞者傾心。唯巴西縣令樂世質。深達機情知其誑詐。入闇密候。見望噎聲。質時呵之。望即欵伏。收禁州獄。方欲科罪。未經數日。服藥而終。是知所習非正亹逆相仍。左道亂群斯言信矣。竊惟賊飾黃巾興乎鉅鹿。鬼書丹簡發自陽平。而云服象雲羅斯言逕挺。衣同雨縠不近人情。安有駕鶴乘龍身被布褐。驅鸞策鳳頂戴皮巾。所以白石赤松之流。皆非鬼卒。王喬羨門之輩。並匪治頭。又李聃事周之辰。服同儒墨。公旗謀漢之日。始有黃巾。如其祖習伯陽。道士並宜朝拜。若也宗旗取則。斯弊特可湮除。威等又問法師曰。論第七云。建安感夢而疾瘳。文宣降靈而病愈。吳王圍寺舍利浮光。齊主行刑刀尋斷壞。宇文毀僧而瘡潰。拓拔廢寺而膿流。孫皓尿像而陰疼。赫連兇頑而震死者。詳其所引。並是帝王。豈有倏爾歸心。則銷痾盪瘵。暫然廢毀。即國喪身亡。是知帝代遷訛。自關運數脩短。皇王興替。計亦非由信毀。何為妄陳禍福詭述妖祥。據此逗遛非無指斥。法師對曰。易稱。積善餘慶積惡餘殃。書云。善惡之報同乎影響。所以文武成康之際。治道隆平。秦皇二世之時。酷毒天下。此乃履道祚久淫刑嗣短。典籍盛談詎關運數。況佛稱調御三界特尊。僧號福田四生崇重。豈有恭虔敬仰福乃無徵。毀滅剪除禍之無驗。前以略陳報應對彼邪人。使慶朝聞甘乎夕殞。其文宣建安之輩。吳王齊后之流。拓拔宇文赫連孫皓等。善惡之跡記傳具明。廣如宣驗冥祥搜神感應等說。且善惡之分理數皦然。傳之典謨懸諸日月。足使見不賢而內自省。弱喪知歸。矚賢者而思齊。迷途自曉。琳粗述一隅而已。令渠三反者焉。當今。

> 威らはまた法師に問うた。 「論の第六に、『道を飾り、宋を滅ぼした服を着、孫恩が晋を破った裳を引きずり、南鄭が漢に反した巾をかぶり、公旗が家を誅した笏を手にする者』とあります。しかし、大冠小冠の制度は漢朝に始まり、皮巾鹿巾の風習は古くからありました。冠は年祀に法を取り、笏は搢紳に倣ったものです。その服は雲羅のようで、霞を攀じる道士があり、衣は羽縠と同じで、霧を履む仙人が聞かれることもありました。だからこそ、その跡は尋ねることができ、三芝も遠くなく、その風は仰ぎ見ることができ、八桂も遠くないのです。それゆえ、蕭史は邕邕として秦の室に丹鳳を駕し、叔卿は弈弈として漢の庭に白鹿を駆ったのです。それなのに、国を滅ぼし家を破ると言うのは、どの図史によるのでしょうか。すでに虚偽の主張を並べた以上、法には厳しい科条があります」 法師は答えた。 「琳の聞くところでは、声が調えば響きは順い、形が直ければ影は端です。まだ、火を鑽って氷を得たり、豆を種えて麦が生じたりしたことはありません。だからこそ、蘇秦・張儀は鬼谷に逢ってそれぞれ浮詐の先にあり、顔回・閔子騫は孔門に遇ってともに徳行の始めを標したのです。故に、二篇の教化を習えば、微妙にして無為であり、三張の風を行えば、謀りごとが乱の首となることを知るのです。なぜならば、後漢の順帝の時、沛の人張陵が蜀の地に客遊し、古老の伝えるところを聞きました。『昔、漢の高祖は二十四気に応じ、二十四山を祭って、遂に天下を王としました』と。陵は自らの徳を量らず、この謀りごとを構え、牛を殺して二十四所を祭祀し、土壇を置き草屋で覆い、二十四の治館を構えました。治館の興りはここから始まったのです。二十三所は蜀の地にあり、尹喜の一所は咸陽にありました。そこで愚民を誑かし誘い、兇党を招き合い、租税米を掠め取り、乱の階梯を謀りました。その時、蛇に吞まれて逆謀は起こりませんでした。また、陵の孫の張魯は、その祖の術を行い、後漢中で自ら師君と称し、禍乱が起こりかけた時、曹公に滅ぼされました。また、中平元年、鉅鹿の人張角は自ら黄天部師と称し、三十六将があり、皆黄巾を着け、遠く張魯と相応じ、衆は十万に至り、鄴城を焚焼しました。漢帝は河南尹何進を遣わし、兵を将いて討滅させました。また、晋の武帝の咸寧二年、道士の陳端が左道で衆を惑わし、自ら天師と号し、徒附数千人を集め、歳月を積み、益州刺史の王濬に誅滅されました。また、晋の文帝の大和元年、彭城の道士盧悚が自ら大道祭酒と称し、邪術で衆を惑わし、徒党を聚合し、日に向かい辰を占い、広漢門を攻めて『海西公を迎える』と言いました。その時、殿中の桓祕らが覚知して戦い、間もなく誅斬されました。また、梁の武帝の大同五年、道士の袁矜が妖言で衆を惑わし、禁を歩み綱を行い、官軍に収掩され、間もなく誅滅されました。また、隋の文帝の開皇十年、綿州昌隆県の道士蒲童と左童の二人が、崩溪館で自ら聖を得たと称し、人民を誑惑し、重ねた床から屋に至り、却ってその上に坐って『十五の童女方が法を受けるに堪える』と言い、女に床に登らせ幕で囲み、遂に姦匿を行いました。このように一ヶ月経ち、後事が発覚し、即ち逃亡しました。また、開皇十八年、益州の道士韓朗、綿州の道士黄儒林が、蜀王を扇惑して悪逆を興させようとし『大事を建てるには勝れた縁を藉りねばならない』と言い、遂に蜀王に倉を傾け庫を竭きしめ、千尺の道像を造り、千日の大斎を設け、先帝の形を画き、頭手を反縛し、呪って押さえつけさせました。河北公の趙仲卿が撿察して実を得て、身を京省に送り、問われて罪を伏し、市で刑に処せられました。近くは武徳三年、綿州昌隆県の人李望が、先に黄老に事え、常に妖耶を行っていました。大業の末年、道士の蒱子真が微かに道術に通じ、東京に送られ、梁漢に至って身死し、因ってそこに葬られました。ところが李望は偽って『子真が近く還った』と言いました。また、その県の山側に一つの石室があり、巌穴は幽闇で人は敢えて窺わなかったのですが、望はそれに依憑して妖詐を行いました。明るいところでは喉を張って大声で語り、納め伝え、闇に入れば気を噎えさせ小声で禍福を詐り陳べました。遂に道士らに伝説させ、県に達し州に聞こえました。官人の初めの検査は皆信受しました。後、刺史の李大礼が『この事は軽からず、必ず申奏すべきである。親しく験することを要して方に是非を定める』と言い、遂に合州県の官人と道士ら百余騎と共に穴の所に至り、再拝して祈請しました。望はその時詐って答え、聞く者は心を傾けました。ただ巴西県令の楽世質だけが、機情に深く達し、その誑詐を知り、闇に入って密かに候い、望が声を噎えるのを見て、質はその時呵り、望は即ち款伏し、州獄に収禁されました。罪を科そうとしたが、数日を経ずして薬を服して終わりました。これによって習うところが正しからず、逆謀が相次ぐことを知ります。左道が群を乱す、この言葉は信じるに足ります。窃かに思うに、賊が黄巾を飾るのは鉅鹿に興り、鬼が丹簡を書くのは陽平に発します。それなのに『服は雲羅のよう』と言うのは言葉が逕挺であり、『衣は雨縠と同じ』と言うのは人情に近くありません。どうして鶴に駕し龍に乗りながら身に布褐を被り、鸞を駆り鳳を策しながら頂に皮巾を戴くことがありましょうか。だからこそ、白石・赤松の流れは皆鬼卒ではなく、王喬・羨門の輩は並びに治頭ではないのです。また、李聃が周に事えた時は、服は儒墨と同じであり、公旗が漢を謀った日に至って初めて黄巾がありました。もしその祖が伯陽を習うなら、道士は並びに朝拝すべきであり、もし旗に宗り取って則るなら、この弊は特に湮除されるべきです」 威らはまた法師に問うた。 「論の第七に、『建安が夢に感じて疾が瘳え、文宣が霊に降りて病が愈ゆ。呉王が寺を囲めば舎利が浮光し、斉主が刑を行えば刀が尋いで断壊す。宇文が僧を毀てば瘡が潰え、拓拔が寺を廃すれば膿が流る。孫皓が像に尿すれば陰疼し、赫連が兇頑であれば震死す』とあります。詳しくその引くところを見れば、並びに帝王です。どうして忽ちに心を帰すれば痾を銷し瘵を蕩い、暫く然りと廃毀すれば即ち国を喪い身を亡くすことがありましょうか。これによって帝代の遷訛は、自ら運数の脩短に関わり、皇王の興替は、計っても信毀によるのではないことを知ります。どうして妄りに禍福を陳べ、妖祥を詭述するのでしょうか。これに据って逗留するのは、指斥がないわけではありません」 法師は答えた。 「易は『善を積めば余慶あり、悪を積めば余殃あり』と言い、書は『善悪の報いは影響と同じ』と言います。だからこそ、文武成康の際は治道が隆平であり、秦皇二世の時は酷毒が天下に満ちたのです。これは道を履めば祚が久しく、淫刑を行えば嗣が短いからです。典籍が盛んに談ずるのは、どうして運数に関わるでしょうか。況や、仏は調御と称され三界に特尊であり、僧は福田と号され四生に崇重されます。どうして恭虔に敬仰して福が徴なく、毀滅剪除して禍が験ないことがありましょうか。前に略々報応を陳べてあの邪人に対し、慶びに朝聞き甘んじて夕に殞ちさせました。その文宣・建安の輩、呉王・斉后の流れ、拓拔・宇文・赫連・孫皓らは、善悪の跡が記伝に具に明らかです。広くは宣験・冥祥・搜神・感応などの説の通りです。且つ善悪の分は理数が皦然としており、これを典謨に伝え日月に懸けます。足らしめて不賢を見て内に自ら省み、弱喪して知って帰し、賢者を矚みて思って斉し、迷途自ら曉るのです。琳は粗く一隅を述べたに過ぎません。渠に三反せしめるのです。当今、」

聖上欽明。歸心覺路。揆竹園而興梵宇。陵祇樹以起禪龕。造無著尊度降魔眾。恩覃馬岸道被龍堆。凡是人倫孰不霑賴。琳豈敢妄陳妖𭒯指斥國家。但為對彼仲卿。因興此論。威等又問法師曰。論第八云。出道偽謬良有以焉鹿馬殊形。秦人一其貌麟麕異質。魯俗迷其容。欲示後昆考其虛詐者。但紫氣浮關。尹喜啟二篇之奧。青牛出境。老子述重玄之微。所以洪漢景文。修之匪懈。我皇繼踵。親自依行。今乃謗黷浮華難希禹泣。驗之詭詐故觸湯羅。當今。

> 聖上は深く仏法に帰依され、悟りの道を心に刻まれました。竹林精舎を手本に伽藍を建立し、祇園精舎の地に禅堂を築かれました。無著菩薩を尊び、魔衆を降伏させ、その恩恵は馬鳴菩薩の岸辺にまで及び、教えは龍樹菩薩の地にまで広がりました。この世のすべての人々が、その恩恵に浴さない者などありましょうか。私はどうして、妄りに怪しいことを申し上げて国家を指弾するなどできましょう。ただ、あの仲卿に対抗するために、この論を起こしたのです。 威らがさらに法師に問いました。「論の第八に、『仏道を偽り誤らせる者には、まことに理由がある。鹿と馬は形が異なるのに、秦の人々はその姿を同じと見なした。麒麟と麕は性質が異なるのに、魯の俗人はその容姿を混同した。後世の人々にその虚偽と詐欺を明らかに示そうとするならば、ただ紫気が関所に漂い、尹喜が二篇の奥義を開き、青牛が国境を出て、老子が重玄の微妙を述べた。それゆえに、大漢の景帝や文帝はこれを修め怠らず、我が皇帝もその後を継ぎ、自らこれに従っておられる。今、浮華を誹謗し、禹の涙を望むことは難しい。その詭弁と詐欺を検証すれば、湯の網にかかること必定である。今、

聖上神謀。達四聰於六合。皇衰叡鑒朗二曜於八紘。忽以鹿馬刺昌辰。麟麕譏哲后。斯焉可忍孰不可容。法師對曰。琳聞。白馬東旋。三藏創茲而起。青牛西逝。二篇自此而興。或闡玄玄以化民。或明空空而救物。驗之圖牒指掌可知。所以發唱顯宗終乎此世。釋教翻譯時代炳然。文史備彰黎民不惑。至如道家玄籍斯則不然。唯老子二篇李聃躬闡。自餘經教製雜凡情。何者。前漢時王褒造洞玄經。後漢時張陵造靈寶經及章醮等道書二十四卷。吳時葛孝先造上清經。晉時道士王浮造明威化胡經。又鮑靜造三皇經。後改為三清經。齊時道士陳顯明造六十四卷真步虛經。梁時陶弘景造大清經及章醮儀十卷。後周武帝滅二教時。有華州前道士張賓。詔授本州刺史。長安前道士焦子順。一名道抗。選得開府扶風令。前道士馬翼。雍州別駕李運等四人。以天和五年。於花州故城內守真寺。挑攬佛經。造道家偽經一千餘卷。時萬年縣人索皎裝潢。但是甄鸞笑道處。盡改除之。近如大業末年。有五通觀道士輔慧祥。三年不言。因改涅槃經為長安經。當時被約。不許出城門。家見內著黃衣。執送留守改經事發。為尚書衛文昇所奏。於金光門外被戮。耳目同驗。又甄鸞笑道論云。道家妄注諸子書。三百五十卷為道經。又撿玄都目錄。妄取藝文志書名。矯注八百八十四卷為道經。據此而言。足明虛謬。故知代代穿鑿狂簡寔繁。人人妄造斐然盈貫。琳又案。後魏正光元年。明帝召清通觀道士姜斌。與融覺寺僧曇謨最對論。斌時妄引開天經云。天師張陵所造。帝時勅遣大尉公丹陽王蕭綜。散騎常侍溫子昇等。一百七十人。共議云。老子正著五千文。西隱流沙更無言說。臣等所議。姜斌罪當惑眾。

> 聖なる天子の叡智は、四方八方にまで通じ、日月のように明るく天下を照らしておられます。しかし、鹿や馬が賢明な君主を誹謗し、麒麟や鹿が哲君を嘲笑うようなことがあれば、どうして耐えられましょうか。法師はお答えになりました。「琳が聞くところでは、白馬が経典を運び東へ帰り、三蔵が仏教を興し、青牛が西へ去り、老子が『道徳経』を著わしたと伝えられています。ある者は玄妙な道理を説いて民を導き、ある者は空の教えを明らかにして人々を救ってきました。その事跡は歴史書に明記されており、指を折って数えるように明白です。仏教の経典翻訳は、その時代背景がはっきりしており、文書や歴史に詳しく記され、民衆も疑うことはありません。しかし、道家の経典については、そうではありません。老子の『道徳経』二篇だけが老子自身の教えであり、それ以外の経典は凡人の手によって作られたものです。例えば、前漢の王褒が『洞玄経』を、後漢の張陵が『霊宝経』やその他の道書二十四巻を、呉の葛孝先が『上清経』を、晋の道士王浮が『明威化胡経』を、鮑静が『三皇経』（後に『三清経』と改名）を、斉の道士陳顕明が『真歩虚経』六十四巻を、梁の陶弘景が『大清経』や儀礼書十巻を作りました。後周の武帝が仏教と道教を弾圧した時、華州の元道士張賓らが、仏教経典を参考に偽りの道教経典千巻以上を作りました。また、大業末年には、五通観の道士輔慧祥が『涅槃経』を改竄して『長安経』を作り、発覚して処刑されました。このように、道教経典は時代を追うごとに偽造が繰り返され、人々が勝手に作り上げたものが数多く存在しています。さらに、後魏の正光元年には、道士姜斌が偽経『開天経』を引用して論争を挑みましたが、皇帝の命により百七十人の高官が審議し、老子は『道徳経』五千文のみを著わし、その後は何も語っていないと結論づけ、姜斌は民衆を惑わした罪に問われました。

帝曰。姜斌既有妖言付獄斬決。又案。後漢明帝永平十四年。道士褚善信等六百九十人。聞佛法入洛。請求捔試。總將道家經書。合三十七部。七百四十四卷。就中五百九卷是道經。餘二百三十五卷。是諸子書。又案。晉葛洪神仙傳云。老教所有度世消災之法。凡九百三十卷。符書等七十卷。總一千卷。又案。宋太始七年。道士陸修靜答明帝云。道家經書。并藥方呪符圖等。總一千二百二十八卷云。一千九十卷已行於世。一百三十八卷猶隱在天宮。案今玄都經目錄云。依宋人陸修靜所上目。今乃言有六千三百六十三卷云。二千四十卷見有其本。四千三百二十三卷並未見本。以此詳撿事跡可知。詭妄之由曝之圖史。若據蕭溫等議。止有道德二篇。如取漢帝挍量。便應七百餘卷。約葛洪神仙之說。僅有一千。准修靜所上目中。過前九十。又撿玄都經錄。轉復彌多。既其先後不同。足知虛妄明矣。增加卷軸添足篇章。依傍佛經改頭換尾。或道名山自出。時唱仙洞飛來。何乃黃領獨知英賢不覩。請問當今道士。推勘後出之經。為是老子別陳。為是天尊更說。縱其說也應有時方。為是何代何邦何年何月。如其有據容可流行。若是妄言理須焚剪。當今明朝馭宇承蔽百王。聖上臨軒應期千載。方欲廣敷五教。杜絕妖妄之書。重述九疇。弘揚要道之訓。豈敢以麟麕刺上鹿馬譏朝。但以無識黃巾混其真偽。管見道士不別是非。所以借況秦人譬之魯俗。若乾坤之象龍馬。豈天地則可騰驤。理固不然。如何見責。

> 帝は言われた。「姜斌はすでに妖言を放ったとして獄に下され、斬首に処せられた。また記録によれば、後漢の明帝の永平十四年、道士の褚善信ら六百九十人が、仏法が洛陽に入ったと聞き、対決を求めた。彼らは道家の経典を総計三十七部、七百四十四巻持ち寄った。そのうち五百九巻は道経であり、残りの二百三十五巻は諸子の書であった。また、晋の葛洪の『神仙伝』によれば、老教が持つ世を渡り災いを消す法は、合わせて九百三十巻、符書など七十巻、総計一千巻とある。さらに、宋の太始七年、道士の陸修静が明帝に答えて言うには、道家の経書と薬方、呪符、図などは総計一千二百二十八巻、そのうち一千九十巻はすでに世に行われ、百三十八巻はなお天宮に隠されているという。今の『玄都経目録』によれば、宋の陸修静が上呈した目録に基づくと、今では六千三百六十三巻あると言われ、二千四十巻は現存し、四千三百二十三巻はまだ見られないという。これらの事跡を詳しく調べれば、その虚偽と妄りが明らかになる。もし蕭温らの議論に従えば、ただ『道徳』二篇のみであり、漢帝の比較を取れば、七百余巻となる。葛洪の神仙の説に準じれば、わずか一千巻、陸修静の上呈した目録に照らせば、さらに九十巻を超え、『玄都経録』を調べれば、さらに多く増えている。その前後が一致しないことから、虚偽であることは明らかである。巻数を増やし、篇を付け加え、仏経に依拠して頭を改め尾を変え、あるいは名山から自ら出たと言い、時に仙洞から飛来したと唱える。なぜ黄領だけが知り、英賢は見ないのか。今の道士に問いたい。後に出た経典を推し量れば、それは老子が別に述べたものか、それとも天尊がさらに説いたものか。たとえ説いたとしても、時と場所があるはずだ。どの時代、どの国、何年、何月のことか。もし根拠があれば、流行させてもよいが、もし妄言であれば、理に従って焼き払うべきである。今、明るい朝廷が天下を治め、百王の弊を受け継ぎ、聖上が臨軒され、千年に一度の時を迎えている。五教を広く敷き、妖妄の書を断ち切り、九疇を重ねて述べ、要道の教えを弘めようとしている。どうして麟や麕で上を刺し、鹿や馬で朝廷をあざ笑うことがあろうか。ただ、無知な黄巾が真偽を混ぜ、管見の道士が是非を分けないからこそ、秦人の例を借り、魯の俗に譬えたのである。もし乾坤の象が龍馬ならば、天地はどうして飛翔できようか。理は固よりそうではない。どうして責められようか。」

威等委細推撿。以十一月十五日具狀奏聞。

> 私どもは詳細に調査を重ね、十一月十五日をもって詳細な報告書を朝廷に上奏いたしました。

帝因親降問曰。朕本系老聃。東周隱德。末葉承嗣。起自隴西。闡大道為道元。隨迎不測。談上德為德母。視聽莫知。苞四象以運行。括二儀而亭育。既無得而稱矣。信日用而不知。朕所以尊乎祖風。高出一乘之上。敦乎本化。超踰百氏之先。何為詭刺師資。妄陳先後。無言即死。有說即生。法師對曰。琳聞師經對文侯云。堯舜之君唯恐無言。桀紂之君唯恐有言。又東方朔答武帝云。臣生亦言死亦言。琳今屬堯舜之君。何得無言者哉。琳聞。拓拔達闍唐言李氏。陛下之李。斯即其苗。非柱下隴西之流也。謹案。老聃之李。牧母所生。若據隴西。乃皆僕裔。何者燉煌實錄云。桓王三十九年。幸閑預庭與群臣經夜論古今。王曰。老聃父為何如人也。天水大守槖綏對曰。老聃父姓韓。名虔。字元卑。癃跛下賤。胎即無耳。一目不明。孤單乞貸。年七十二無妻。遂與隣人益壽氏宅上老婢字曰精敷。野合懷胎而生老子。又王儉百家譜云。李姓者。始祖皐繇之後。為舜理官。因遂氏焉。乃稱李姓。李氏之興起於聃也。以李樹下生乃稱李姓。至漢成帝時。有李隱抗烈毀上被誅。徙其族於張掖。在路暴死。其奴隷等將其印綬冐涼得仕。所謂隴西之李自此興焉。又老子云。吾不敢為天下先。故述五千之訓。又言。不與物競。處眾人之所惡。既處物不競。又不為先。恕己推人。守雌保弱。老子西昇經又云。乾竺有古皇先生者。是吾師也。綿綿常存吾今逝矣。又符子云。老氏之師號釋迦文。尹喜內傳云。老子曰。王欲出家。吾師號佛。覺一切人也。今受天帝請食。還當為王及群臣等一時受戒。竊以拓拔元魏。北代神君達闍達系陰山。貴種經云。以金易鍮石。以絹易縷褐。如捨寶女與婢交通。

> 帝は自ら降りてお尋ねになった。 「朕は本来、老子（老聃）の系譜を継ぐ者である。東周の時代に隠れた徳を保ち、末裔としてその嗣を承け、隴西より興った。大道を明らかにして道の根源となり、その来去は測り知れず、上なる徳を説いて徳の母となったが、その姿や声は知られることがない。四象を包んで運行し、天地を統べて万物を育む。すでに称えるべき言葉もなく、確かに日常に用いられながら知られることはない。朕が祖の風を尊び、一乗の上に高く出で、根本の教化を重んじて、百家の先を超えているのはこのためである。なぜ師を誹謗し、勝手に先後を論じるのか。無言ならば死、有言ならば生というのはどういうことか」 法師は答えた。 「琳が聞くところでは、師経が文侯に答えて言いました。『堯や舜のような君主は、ただ言葉がないことを恐れ、桀や紂のような君主は、ただ言葉があることを恐れる』と。また東方朔が武帝に答えて言いました。『臣は生きても言葉を発し、死んでも言葉を発します』と。琳はいま堯や舜のような君主に仕えているのです。どうして言葉がないことがありましょうか。 琳が聞くところでは、拓跋氏（達闍）は唐の言葉で李氏と言います。陛下の李姓は、その末裔であり、柱下史（老子）や隴西の流れではありません。謹んで調べますに、老聃の李姓は、牧母（牧童の母）が生んだものであり、もし隴西に基づくならば、皆、下僕の末裔です。なぜなら、『燉煌実録』に次のようにあります。桓王三十九年、王は閑預庭に行幸し、群臣と夜を徹して古今を論じた。王が『老聃の父はどのような人か』と尋ねると、天水太守の槖綏が答えて言った。『老聃の父は姓は韓、名は虔、字は元卑。体が不自由で身分は低く、生まれつき耳がなく、片目は見えず、孤独で物乞いをし、七十二歳になっても妻がおらず、隣人の益寿氏の屋敷にいた老婢で精敷という字の者と野合して懐胎し、老子を生んだ』と。 また、王儉の『百家譜』にはこうあります。『李姓の始祖は皐繇の後裔であり、舜の時代に理官（裁判官）を務め、それによって氏とした。そこで李姓と称した。李氏の興りは聃（老子）に始まる。李樹の下で生まれたので、李姓と称した。漢の成帝の時、李隠という者が烈しく上を誹謗して誅殺され、その一族は張掖に移された。道中で急死し、その奴隷たちがその印綬をかたって涼で仕官を得た。いわゆる隴西の李はここから興った』と。 また老子は言っています。『われ敢えて天下の先とならず』。それゆえ五千言の教えを述べたのです。また、『物と競わず、衆人の嫌うところに処する』と。すでに物と競わず、また先とならず、己を恕して人を推し、雌を守り弱を保つのです。 老子の『西昇経』にはさらにこうあります。『乾竺（インド）に古皇先生という者がいる。これわが師なり。綿々として常に存し、われ今逝かんとす』と。また『符子』には、『老氏の師は釈迦文（釈迦牟尼仏）と号す』と。『尹喜内伝』には、老子が言ったとあります。『王が出家を望まれるなら、わが師は仏と号し、一切の人を覚らしめる者である。今、天帝の請いに応じて食を受け、帰って王と群臣らに一時に戒を授けよう』と。 ひそかに考えますに、拓跋氏の元魏は、北代の神君であり、達闍（李氏）の系譜は陰山にあり、貴種であります。経には、『金を以て鍮石と易え、絹を以て縷褐と易えるは、宝の女を捨てて婢と交わるがごとし』とあります。」

陛下即其人也。棄北代而認隴西。陛下即其事也。又老生姬季之末。釋誕隆周之初。世隔一十餘王。年經二百餘祀。此即師資驗矣。先後顯然。勘卷分明。在文指的。伏惟陛下。好生惡殺賴及蟲魚。拯溺救焚化霑荇葦。等三皇之世。教而不誅。同五帝之時。師而不陣。

> 陛下こそまさにその人であり、北代を捨てて隴西を認められた。陛下こそまさにその事を成し遂げられた方です。また、老生は周の末期に生まれ、釈尊は周の隆盛期に誕生されました。世代は十数代の王を隔て、年数は二百余年の歳月を経ています。これこそが師と弟子の関係を証明するものです。先と後の区別は明らかで、経典を調べればはっきりと分かります。文面に明記されている通りです。伏して思うに、陛下は生き物を慈しみ殺すことを嫌い、虫や魚にまでその恩恵が及び、溺れる者を救い焼ける者を助け、その教化は水草にまで及んでおられます。三皇の時代のように、教えを説いて誅殺せず、五帝の時代と同じく、軍を率いても陣を構えずにおられます。

陛下若奮赫斯之怒。則百萬不足悏情。陛下若斂秋霜之威。則一言容有可錄。輕忤御覽營魄飛揚。塵黷威嚴心魂失守。帝時大怒竪目。又問法師曰。朕聞。周之宗盟異姓為後。尊祖重親寔由先古。何為追逐其短禽鼠兩端。廣引形似之言。備陳不遜之喻。擢髮數罪比此猶輕。盡竹書愆方斯未擬。爬毀朕之祖禰。謗黷朕之先人。如此要君理有不恕。法師對曰。琳聞。文王大聖。周公大賢。追遠慎終。昊天靡答。孝悌之至。通於神明。雖有宗周。義不爭長。何者。皇天無親。唯德是輔。古人黨理。而不黨親。不自我先。不自我後。不以疎而不賞。賞彼有功。不以親而不誅。誅其有。過伏惟。

> 陛下がもし怒りを奮い起こされるならば、百万の言葉でもその気持ちを満たすことはできません。陛下がもし威厳を収められるならば、一言でも取り上げられる余地があるかもしれません。軽率に陛下のご覧に触れ、魂が飛び散り、威厳を汚し、心魂が保てません。 帝はその時大いに怒り、目を吊り上げて、また法師にお尋ねになりました。「朕は聞く。周の宗盟では、異姓は後にする。祖先を尊び、親族を重んじるのは、確かに古くからのことである。なぜその短所を追い詰め、鼠と鳥のように両端をうろつくのか。広く形の似た言葉を引き、謙遜でない喩えを並べ立てる。髪を抜いて罪を数えても、これに比べればまだ軽い。竹を尽くして過ちを書き記しても、これには及ばない。朕の祖先を傷つけ、朕の先人を誹謗する。このように君主を脅かすのは、道理として許されない。」 法師は答えて申し上げました。「琳が聞くところでは、文王は大聖人、周公は大賢人であります。遠きを追い、終わりを慎み、天にも応えられないほどでした。孝悌の極みは、神明に通じます。宗周はあっても、道理を争うことはしませんでした。なぜなら、皇天に親疎はなく、ただ徳を助けるからです。古人は道理に味方し、親族に味方しませんでした。自分より先でもなく、自分より後でもなく、疎遠だからといって賞せず、功ある者を賞し、親しいからといって誅さず、過ちある者を誅しました。伏して思うに、」

陛下。道含弘而光大。恩被八埏。德普覆而平均。網開三面。納忠言若弗及。懸五聽以乾乾。從善諫其如流坐。九重而翼翼。

> 陛下。道は広大で輝き、恩恵は世界の隅々まで及びます。徳はあまねく覆い、平等に網は三面に開かれています。忠言を聞き入れることは追いつかぬほどであり、五つの聴き方を懸命に保ち、善き諫言に従うことは流れる水のごとく、九重の宮殿に座して慎み深くあります。

陛下今縱雷霆之怒。琳甘粉骨灰軀。儻垂雨露之恩。庶全骸骨。自後辯對。傳有二百餘條。詢訪莫知。闕而不錄。至二十日又降。

> 陛下、今仮に雷霆のごとき怒りを放たれようとも、私は喜んで骨を砕き身を灰にいたします。もし雨露のごとき慈しみをお垂れくだされば、この身の骨を全うすることができましょう。その後、問答は二百余条に及びましたが、尋ね訪ねても知る由もなく、欠けたまま記録されませんでした。二十日になって、再び勅命が下りました。

勅云。汝所著辯正論信毀交報篇言。念觀音者臨刀不傷。既有斯靈。朕今赦汝七日之內。爾其念哉。俟及刑科能無斷不。法師既羈縲紲復迫刑期。氷炭交懷控告無所。至第六日夜。盤桓悵怏徙倚沈吟。步朗月以惘然。慨浮生之如寄。不覺潛涕。因言志云。草命如懸露。輕生類轉蓬。所嗟明夜月。難與古人同。法師因揮涕昌言。仰天而歎曰。昔鄒衍拘齊獄。燕丹質秦邦。尚感夏景零霜烏頭變白。豈可獨於琳也。偏無徵應者哉。言訖俄有神人身長丈餘。素服衣冠踰垣戾止。而謂法師曰。既能亡形殉道。再紐頹網。冥衛寔繁。幸無勞慮。語訖而失。法師因乃恭虔五體默念三尊。遂得思逸胸懷釋然無懼。至七日旦。

> 勅命が下った。「そなたが著した『弁正論』の信毀交報篇に、観音を念ずる者は刃に臨んでも傷つかぬとある。その霊験があるならば、朕は今そなたを赦し、七日間を与えよう。その間に念じるがよい。刑期が来ても、刃が折れぬかどうか見届けよう。」 法師はすでに牢獄につながれ、さらに刑期が迫る中で、氷と炭のように相反する思いを抱き、訴えるところもなかった。六日目の夜、うろつき、ため息をつき、沈鬱に物思いにふけり、明るい月を歩きながら茫然とし、浮き世の人生が仮の宿りのように儚いことを慨嘆した。知らず知らず涙がこぼれ、志を述べて言った。 「命は草の露のようにはかなく、軽い一生は風に吹かれる蓬のようだ。嘆かわしいのは、今夜の月が昔の人と共に眺められぬことよ。」 法師は涙をぬぐい、声をあげて天を仰ぎ嘆いた。「昔、鄒衍は斉の獄に繋がれ、燕丹は秦に人質となったが、夏に霜が降り、烏の頭が白くなるような奇跡を感じた。どうして私、琳だけに、何の徴も現れぬことがあろうか。」 言い終わるやいなや、身の丈一丈余りの神人が現れた。白い衣冠をまとい、垣を越えてやって来て、法師に言った。「すでに身を捨てて道に殉じ、崩れかけた法の網を再び繋ごうとしている。冥界の守護は実に多い。どうか心配せぬがよい。」そう言うと消え去った。 法師はそこで五体を地に投げ出して恭しく礼拝し、心の中で三宝を念じた。すると、胸のわだかまりが消え、思いは晴れ、何の恐れもなくなった。七日目の朝を迎えた。

勅遣劉德威等問法師曰。今赦期已滿當屆臨刑。比念觀音有何靈應。法師對曰。自隋季擾攘四海沸騰。疫毒流行干戈競起。興師相。伐各擅兵威。臣佞君荒不為政化。遏絕王路固執一隅。我皇興弔伐之心。統天立極。赦戮刑於都市。斯即觀音。拯橫死於帝庭寧殊勢至。論功比德。上聖道齊。琳於七日已來。唯念。

> 勅命により劉徳威らが法師に問うた。 「今、赦免の期限が満了し、まさに刑の執行に臨もうとしている。 これまで観音菩薩を念じてきたが、何か霊験はあったか」 法師は答えた。 「隋の末より世は乱れ、天下は沸き立ち、 疫病が流行し、戦乱が相次いだ。 軍を起こし互いに討ち合い、それぞれが武力を振るい、 臣は諂い、君は乱れ、政治は行われず、 王の道は絶たれ、一地方に固執していた。 我が皇帝は、民を憐れみ悪を討つ心を起こし、 天を統べ極みを立てられた。 都の市で殺戮と刑罰を赦し、これこそ観音菩薩であり、 帝庭で横死を救うのは、まさに勢至菩薩に異ならない。 功績を論じ、徳を比べれば、至上の道は等しい。 私はこの七日間、ただ一心に念じてきた」

陛下。威等重問法師曰。前奉。

勅旨。令師誦念觀音。因何不念。乃云唯念。

> 勅旨により、観音様を念じるよう命じられたのに、なぜ念じないのか。ただ念じているとだけ答えた。

陛下。法師對曰。琳聞。觀音聖鑒垂形六道。上天下地皆為師範。然我皇文思聰明光宅海內。九夷奉職八表刑清。君聖臣賢不為枉濫。今。

> 陛下。法師はこうお答えになりました。「琳が聞くところでは、観音菩薩はその慈悲の眼で六道の衆生を見守り、天にも地にも姿を現して、すべての生きとし生けるものの手本となられるとのことです。しかし、我が皇帝陛下は、文才に優れ、聡明で、その徳光は四海の内を照らしておられます。遠方の異民族も職務を果たし、八方の国々も刑罰が正しく行われて清らかです。君主は聖であり、臣下は賢く、不正や濫りはありません。今、

陛下子育群品。如經即是觀音。既其靈應相符。所以唯念。

> 陛下は、民を育て慈しむこと、経典に説かれる観音菩薩のごとくです。その霊験がすでに一致しているゆえに、ただひたすら念じるのみです。

陛下。但琳所著辯正。爰與書史符同。一句參差甘從斧鉞。

> 陛下。私、法琳の著した『弁正論』は、歴史書と完全に一致しております。もし一字一句でも食い違いがありましたら、どうぞお手討ちにしてください。

陛下若順忠順正。琳則不損一毛。

> 陛下が忠義に従い正道を歩まれるならば、私は一本の髪の毛すら損なうことはありません。

陛下若刑濫無辜。琳有伏屍之痛。威等錄狀奏。

> 陛下、もし罪なき者を濫りに罰せられれば、琳は屍を伏して痛むことでしょう。威らはその様子を記録して奏上いたします。

帝。帝悅。因召法師而問曰。朕比覽師文。僉隳老教。發言佛理。感歎良哉。而釋劣道優。朕今未曉。佛大道小。非不昧斯。宜悉爾心較言優劣。佇聞嘉唱沃朕煩懷。法師面奏曰。伏承。

> 帝は喜び、法師を召して問うた。「朕は近ごろ師の文章を読み、老教をことごとく破り、仏理を説くのを見て、まことに感嘆した。しかし、釈教が劣り道教が優れているという点については、朕は今なお理解できていない。仏教が大道で道教が小道であるというのも、この理に暗くないわけではない。どうか、お前の心のままに優劣を論じてくれ。朕の煩わしい心を潤すような、すぐれた言葉を待っている」。法師は面と向かって奏上した。「謹んで承ります」。

聖旨宏博名義弘深。戴天不測其高方斯未擬。履地莫知其厚匹此非儔。伏惟。

> 聖なる教えは広大無辺で、その意味は深遠です。 天を戴いてもその高さを測り知ることはできず、地を踏んでもその厚さを知ることはできません。 それらと比べても、この教えには及びません。

陛下。巨細不疑示迴天睠。等齊桓禮鄙人之術。同燕昭師郭隗之才。敢不罄。言陳其淑忒。琳聞。妙覺常身本無色像。為眾生故跡有形儀。感等洪鐘隨撞擊之大小。應同明鏡。逐庶物以妍嗤。然由道冠二篇理踰百氏。典謨在目可略言焉。故後漢太傅張衍謂南岳道士褚善信曰。夫西域教者。法王說也。濟於六道普潤含靈。卿可棄妄歸真。勵心遵學。若不奉敬。可謂虛度百年。無功而逝。卿若慢而不敬。亦可專心黃老。黃老者雖無法王之量。亦是前世聖人撰集。雖同諸子言行甚奧。託性無為道德之府也。昔孝景皇帝常修行不惓。道學從此興焉。處百家之長。得擬佛經為次。至於茅成子列子莊子惠子等。並皆悉學自然逍遙塵外。亦是黃老之次。卿可慕焉。又吳尚書令闞澤。對吳主孫權曰。臣審知佛是無上法王。眾聖所歸。教加一切哀含萬類。深同巨海不簡細流。明並日月不嫌星燭。會觸即化遇物斯乘。天上人中自在尊貴。縱使天有普覆之功。地有普載之力。皆是諸佛建立使之然也。臣又竊尋。魯孔丘者。英才挺秀聖德不群。世號素王製作經典。訓獎周末教加季葉。師儒之風澤潤今古。亦有逸民。如許成子廣成子原陽子涓子惠子莊子等。百家子書皆修仙自翫放暢山谷。縱太其心學歸淡泊。事乖人倫長幼之節。亦非安世化人之風。是以古人將為陷滯。蓋此之謂歟。至漢景帝時。考諸百家。以黃子老子義體宏深內外明達。故改子為經。始立道學。

> 陛下。大小の事柄にわたり、疑いなく示されたご配慮は、天のご慈しみのごとく。斉の桓公が卑しい者の術を礼遇したごとく、燕の昭王が郭隗の才を師としたごとく、私は敢えて言葉を尽くさずにおれましょうか。その善悪を申し上げます。 琳は聞きます。妙覚の常なる身は、本来、色や形はありません。しかし、衆生のために、その跡に形と儀礼を現します。響きは大きな鐘のごとく、打つ大きさに応じて響き、応じるは明鏡のごとく、万物の美醜に従って映し出します。しかし、その道は二篇（老子・荘子）を超え、その理は百家を凌ぎます。典謨（経典）は目の前にあり、おおまかに申し上げます。 後漢の太傅、張衍が南岳の道士、褚善信に言いました。「西域の教えは、法王（仏陀）の説かれたものです。六道を救い、すべての生きとし生けるものを潤します。あなたは虚妄を捨て、真実に帰り、心を励まして学びに従うべきです。もし敬わなければ、百年を虚しく過ごし、功なくして逝くことになります。もし軽んじて敬わないなら、黄老の道に専念してもよい。黄老の道は、法王の量には及ばないが、前世の聖人が撰集したものです。諸子百家と同じく、言行は深遠で、無為を性とし、道徳の府です。昔、孝景皇帝は常に修行を怠らず、道学はここから興りました。百家の長として、仏経に次ぐものとされています。茅成子、列子、荘子、恵子などは、皆、自然を学び、塵界を超えて逍遥しました。これもまた黄老に次ぐものです。あなたはこれを慕うべきです。」 また、呉の尚書令、闞沢が呉の主君、孫権に答えました。「臣は確かに知っております。仏は無上の法王であり、すべての聖者が帰依するお方です。その教えは一切を加護し、万物を哀れみます。深さは大海のごとく、細流を選ばず、明るさは日月のごとく、星や燭火を嫌いません。触れれば即座に化し、物に遇えばそれに乗じます。天上・人中において自在に尊貴です。たとえ天に覆う功徳があり、地に載せる力があっても、それらはすべて諸仏が建立し、そうさせているのです。臣はまたひそかに考えます。魯の孔丘（孔子）は、英才に秀で、聖徳は群を抜き、世に素王と称され、経典を制作しました。周末を訓戒し、末世に教えを加えました。師儒の風は古今を潤しました。また、許成子、広成子、原陽子、涓子、恵子、荘子などの逸民もいます。百家の子書は皆、修仙を自ら楽しみ、山谷に放暢し、心を大きくして学びは淡泊に帰しますが、人倫の長幼の節には背き、世を安んじ人を化す風でもありません。それゆえ、古人はこれを停滞と見なしました。おそらくこのことを言うのでしょう。漢の景帝の時、百家を考察し、黄子・老子の義理が宏大深遠で内外に明達しているため、子を経と改め、初めて道学を立てました。」

勅訓朝野令諷誦焉。若將孔老二家比方佛法。遠則遠矣。所以然者。孔老設教。法天制用。不敢違天。諸佛設教。天法奉行。不敢違佛。以此言之。實非比對明矣。吳主善之。因謂闞澤曰。卿博學精通覽無不悉。宜加太子太傅。領侍中尚書令如故。又梁武帝會三教詩曰。小年學周孔。弱冠窮六經。中復觀道書。有名與無名。晚年開釋卷。猶日映眾星。又案。宋光祿大夫顏之推云。佛家三世之事。信而有徵。萬行歸空千門入善。豈徒九經百氏之博哉。明非堯舜周孔老莊所及也。又牟子論曰。堯舜周孔老氏之化。比之於佛。猶白鹿之與麒麟。又後周王褒庭誥曰。道家之義則隳支體黜聰明。棄義絕仁離形去智。此域中之教也。釋氏之教。見苦斷集。證滅修道。明因辯果。革凡成聖。斯為教之極也。又今祕書監虞世南帝王略論亦言。老子之義。谷神不死玄牝長存。久視長生乘龍駕鶴。此區中之教也。夫釋氏之法。空有不滯人我兼忘。超出生死歸於寂滅。此象外之談也。且夫優劣之跡訓誥如然而大小之來在乎。

陛下。何者詔未出前。佛大道小。詔出已後。道大佛小。大小優劣此之謂歟。伏惟。

陛下。至德通神。布雲雨於緇侶。道隣極聖。垂日月於玄門。親降德音問於庸菲。但琳欽承顧問。敢述舊章。塵黷威嚴彌深戰越。帝覽法師對異而釋放焉。時憲司執奏曰。法不可廢國有常刑。諸指斥乘輿者。罪當大辟。

帝曰。法琳雖毀朕宗祖。非無典據。特可赦其極犯。徙在益部為僧。法師見放意不自得。因作悼屈原篇。用申厥志。其詞曰。何天道之幽昧兮。乖張列宿。使忠正之屈原兮。而見放逐。讒佞從旨兮。位顯名彰。直言不諱兮。遂焉逢殃。和璞捐於山澤兮。燕石為珍。西施嬮而不幸兮。嫫母見親。撫心思念屈原兮。博達廣識。君王不察其貞正兮。斥逐去國。納讒諂之詃惑兮。自昏厥德。燕蘇棄於荒野兮。蘩𧂉見殖。鸋󱜃鳴嘯於君林兮。鵷鸞戢翼。豺狼當路而從橫兮。麟麕伏匿。鳳鳥尚知懷德兮。見覆巢而高翔。麒麟猶忻有道兮。矚不仁而騰驤。忠諫之不入兮。箕子佯狂。杜伯之諒直兮。遭尤逢殃。比干正而剖心兮。伍子胥貞而抉眼痛。清白之屈原兮。沈汨羅而不返。時京邑僧侶有流言於法師曰不能靜思澄神。求出要道。而浪製破邪辯正。忤擾天庭。致使主上瞋嫌釋教翻覆。汝若所陳必當寧容徙汝劍南。若於佛法有功。何乃陵遲若是。法師聞之謂三五友人曰。琳聞。主憂臣辱。主辱臣亡。弈謂僧是禿丁佛為胡鬼。斯言可忍孰不可容。于時大德如雲名僧若雨。縱引四含八藏。措筆無由。徒解九部三乘。置言何地。琳遂不量疎薄。誓紐頹綱。因乃捃摭典墳搜揚子集。曉其未喻挫彼邪言。遂使佞傅無辭李劉緘默。信知寸有所大。尺有不長。用珠彈鴞未若泥梗。

勅縱遷琳益部。寧成伐罪。於琳佛法今且晏然。此豈謂為翻覆。昔屈原被讒放逐原。豈不為忠。卞氏獻璧加刑。誰言是瑕。此亦時君用與不用也。屈原雖經放逐。離騷盛行。卞氏縱復加刑。連城尚寶。但清水圓米行處豈無所恨。世人莫知我也。言訖泣數行下。因為詩曰。僕秉屈原操。不探漁父篇。問言蓬轉者。答為直如絃時掩泣吞聲哽咽而言曰。琳也不遇今被南遷。幸希諸德。寄目傳書。時訪生死。時道俗送餞。填咽郊畿。敬若明神。步輦徐逝。法師辭訣友人。又為詩曰。非意延非罪。離友復離親。山川萬里隔。方勞七尺身。遊魂長去楚。分念獨留秦。自匪相知者。誰憐死別人。夏六月丁卯行至百牢關菩提寺。因苦痢疾遂致不救。臨終而歎曰。大丈夫泡幻之軀。信為無用。觀斯惡露。深可厭哉。本期殉道以立身。不獲從志。泣麟傷鳳。能無悲心。言訖而卒。即貞觀十四年秋七月二十三日也。春秋六十有九。道俗摧慟如喪所親。因葬於東山之巔。高樹白塔。行侶來往莫不傷嗟。人物周旋知便下淚。但法師藝業優贍墳素必該。世號詞林時稱學海。或復風前月下之詠。春蘭秋菊之篇。體物緣情並多麗落。前祕書監虞世南者。名超振古道邁當今。乃集法師之文。為之敘引云爾。

若夫神妙無方。非籌算能測。至理凝邈。豈繩準可知寔乃常道無言。有涯斯絕安可憑諸天縱窺其杳冥者乎。至如五門六度之源。半字一乘之教。九流百氏之目。三洞七撿之文。曷可以經緯闡其圖。詎可以心力到其境者。英猷茂實代有其人焉。法師少學三論名聞朝野。長該眾典聲振殊俗。威儀肅穆介節淹通。留連清翰發摘微隱。比地方春。藏用顯仁之量。如愚若訥。外闇內明之功。固能智同測海道亞彌天。豈止操類山濤神侔庾亮而已。爾其文情。乃典而不野。麗而有則。猶八音之並奏。等五色以相宣。道行則納正見於三空。拯群生於八苦。既學博而心下。亦守卑而調高。寔釋種之梁棟。善人之羽儀者矣。加以賑乏扶危先人後己。重風光之拂照林牖。愛山水之。負帶烟霞。願力是融晦迹肥遯。以隋開皇之末隱。於青溪山之鬼谷洞焉。逈搆巖崖。則弊虧日月。空飛戶牖。則吐納風雲。其間採五芝而偃仰。遊八禪而寢息。餌松朮於溪㵎披薜茘於山阿。皆合掌歸依。摩頂問道。經行恬靜十有餘年。然而疊嶂危岑長松巨壑野老之所栖盤。古賢之所遊踐。莫不身至目覩。攀穴指歸。仍撰青溪山記一卷。見行於世故此闕書。太史令傅弈。學業庸淺識慮非長。乃穿鑿短篇憑陵正覺。將欲震茲布鼓竊比雷門。中庸之人頗成阻惑。法師愍彼後昆。又撰破邪論一卷。雖知虞衛同奏表異者九成。駑驥並馳見奇者千里。終須朱紫各色清濁分流。訶以凡測聖之亹責以俗挍真之咎。引文證理。非道則儒。曲致深情。指的周密。莫不轍亂旗靡瓦解氷銷。入室有操矛之圖。崩角無容頭之地。於是傳寫不窮流布長世。若披雲而見日。同迷蹤而得道乎。法師著述之性。速而且理。凡厥勒成多所遺失。今散採所得。詩賦碑誌。讚頌箴誡。記傳啟論。及三教系譜。釋老宗源等。合成三十卷。法師與僕。情敦淡水。義等金蘭。雖服制異宜。而風期是篤。輒以藤綆聯彼珪璋。編為次第具如別目。並悉文遒旨婉。桂馥蘭葩。盛傳緇素。流乎視聽矣。釋彥琮贊曰易稱。大極生兩儀。兩儀生四象。老子述無名天地始。有名萬物母。序道序德。談孝談忠。斯亦方內之至言。域中之大訓也。詎聞視聽之外四德常身。形器之先一如凝湛。肇欲施安品物託像迦維。利見閻浮龍飛道樹。於是淨五眼朗三明。具六通圓萬德。耀神光於此界。放毫相於他方。動大地以警迷徒。震雷音而駭群品。始垂雲於鹿野。蔭彼小根。終灑潤於鶴林。霑茲大葉。其間則三邪服道。捐火具於禪河。十異歸心。沐清流於福地。自爾微言既絕佛曰潛輝。大義將乖邪風競扇。則有提婆童受緝彼頹綱。龍樹馬鳴維其絕紐。逮乎金人感夢秦蔡西遊。玉馬東旋騰蘭降趾。則有九仙左道蟻聚於京畿。五岳邪徒鴟張於帝闕。競誇蚊翼各恃螢光。欲方駕大鵬比暉龍燭。騰上靡施於三略。已薦苞茅蘭公未逞於六韜。嚮風銜璧。故得空懸五雲之蓋。庭雰七寶之花。韜映日宮揚輝綺殿。于時捐巾褐者其數若林。遵解脫者如風偃草。此則釋門大敞佛日方興。牧野倒戈詎堪為比。自後名僧間出髦彥挺生代有其人。詳諸史牒。則有道融牟最。提智劍以橫行。始上顯公。擁法䗍而直進。挫姜斌於魏闕。撲陸靜於齊朝。資神武於一時。流榮聞於千載。粵我巨唐之有天下也。跨三皇而越五帝。母堯舜而子成康。光宅八埏君臨萬國。闡玉鼓法䗍之訓。揚佛日金鏡之光。蕩蕩巍巍斯之謂矣。時有傅劉作鯁妄搆邪言。唱和既同互為脣齒。而法師幼懷高量志殄群兇。所以搜括典謨約文申理。並懸諸日月緇素皎然。卷氛祲於四生。舒慧照於三界。遂使朱藍各色邪正區分。盛藻嘉聲傳乎口實。余既側聞餘論思記德音。先乏史才徒知勵朽。至若詩賦啟頌之作。章表碑誄之科。重席劇談花文豔藻者。則詳諸別簡。非此所云。若股肱佛聖之篇。牆塹法王之記。對揚天命光顯大猷者。則載彼見聞存乎實錄。庶使前芳弗墜後進思齊。補僧史之缺遺。記盛德之請問者矣。

## 唐護法沙門法琳別傳卷下