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title: "比丘尼傳 · 1 晉竹林寺淨撿尼傳"
description: "比丘尼传由南朝梁代僧官宝唱撰著于六世纪初。全书共四卷，收录了自西晋至梁代共六十五位比丘尼的传记。它详细记载了这些杰出尼师的修行经历、弘法事迹与神异感应，是研究中国早期佛教史，特别是女性修行者发展的重要第一手文献。作为中国乃至世界现存最早的比丘尼传记总集，该书不仅填补了佛教史传的空白，更彰显了比丘尼僧团在佛教发展中的重要地位与贡献，具有极高的史料与宗教价值。"
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### 晉竹林寺淨撿尼傳一

> 晋竹林寺净捡尼传 一

淨撿，本姓仲，名令儀，彭城人也。父誕，武威太守。撿少好學，早寡家貧。常為貴遊子女教授琴書。聞法信樂，莫由諮稟。後遇沙門法始，經道通達。晉建興中於宮城西門立寺，撿乃造之，始為說法。撿因大悟，念及強壯，以求法利，從始借經，遂達旨趣。他日謂始曰：「經中云：『比丘、比丘尼』，願見濟度。」始曰：「西域有男女二眾，此土其法未具。」撿曰：「既云比丘、比丘尼，寧有異法？」始曰：「外國人云：尼有五百戒，便應是異。當為問和上。」和尚云：「尼戒大同細異，不得其法，必不得授。尼有十戒，得從大僧受。但無和上尼，無所依止耳。」撿即剃落，從和上受十戒，同其志者二十四人，於宮城西門共立竹林寺。未有尼師，共諮淨撿，過於成德和上者，西域沙門智山也。住罽賓國，寬和有智思雅習禪誦。晉永嘉末來達中夏，分衛自資，語必弘道。時信淺薄，莫知祈稟。建武元年還反罽賓，後竺佛圖澄還述其德業，皆追恨焉。撿蓄徒養眾清雅有節，說法教化如風靡草。晉咸康中沙門僧建，於月支國得僧祇尼羯磨及戒本。升平元年二月八日，洛陽請外國沙門曇摩羯多為立戒壇，晉沙門釋道場以《戒因緣經》為難云：「其法不成。」因浮舟于泗，撿等四人同壇上從大僧以受具戒。晉土有比丘尼，亦撿為始也。當其羯磨之日，殊香芬馥，闔眾同聞，莫不欣歎加其敬仰。善修戒行，志學不休，信施雖多，隨得隨散，常自後己，每先於人。到升平末，忽復聞前香，并見赤氣，有一女人手把五色花自空而下。撿見欣然，因語眾曰：「好持後事，我今行矣。」執手辭別，騰空而上。所行之路有似虹蜺，直屬于天。時年七十矣。

> 淨撿は、俗姓が仲（ちゅう）、名は令儀（れいぎ）といい、彭城（ほうじょう）の人である。父の誕（たん）は、武威太守であった。撿は幼い頃から学問を好み、早くに夫と死別して家は貧しかった。しばしば身分の高い家の子女に琴や書を教えていた。仏法を聞いて喜び信じたが、教えを受ける機会がなかった。その後、沙門の法始（ほっし）という僧に出会い、経典や教えに通じていた。西晋の建興年間に宮城の西門に寺を建てると、撿はそこを訪れ、法始が説法を行った。撿はこれを聞いて大いに悟りを得、まだ元気なうちに仏法の利益を求めようと考え、法始から経典を借りて、その深い趣旨を悟るに至った。 ある日、撿は法始に言った、「経典には『比丘（びく）、比丘尼（びくに）』とあります。どうか私を出家させてください。」法始は言った、「西域には男性の僧侶と女性の尼僧の二つの集いがありますが、この国ではその教えはまだ整っていません。」撿が言った、「『比丘、比丘尼』とある以上、どうして異なる教えがあるのでしょうか？」法始は言った、「外国の人は、尼僧には五百の戒律があると言います。それならば違いがあるはずです。和尚（おしょう）に尋ねてみましょう。」和尚は言った、「尼僧の戒律は比丘のものと大体は同じですが細部が異なります。その法を得なければ、必ず授けることはできません。尼僧には十戒があり、大僧から受けることができます。しかし、尼僧の師がいなければ、よりどころとなるものがありません。」 撿はすぐに髪を剃り、和尚から十戒を受けた。同じ志を持つ者二十四人とともに、宮城の西門に竹林寺（ちくりんじ）を建てた。まだ尼僧の師がいなかったので、みな撿を師として仰ぎ、徳の高い和尚に勝ると尊敬した。西域の沙門である智山（ちざん）は、罽賓国（けいひんこく）に住み、寛容で温和、智慧に優れ、坐禅と読経をよく行った。西晋の永嘉の末に中国に来て、托鉢で生計を立て、説法しては必ず仏道を広めた。当時は信心が浅く、誰もその教えを求めなかった。東晋の建武元年に罽賓国へ帰った。後に竺仏図澄（じくぶっとちょう）がその徳の功績を伝え聞き、みなこれを惜しんだ。 撿は弟子を養い、人々を清らかに教え導き、節度があった。説法して教化することは、風が草をなびかせるかのようであった。東晋の咸康年間に、沙門の僧建（そうけん）が月支国で僧祇尼羯磨（そうぎにこんま）と戒本を得た。升平元年二月八日、洛陽で外国の沙門の曇摩羯多（どんまかた）を招いて戒壇を建立した。晋の沙門の釈道場（しゃくどうじょう）が『戒因縁経（かいいんねんきょう）』を挙げて異を唱えた、「その方法は成立しない。」そこで舟を泗水に浮かべ、撿ら四人は同じ壇上で大僧から具足戒を受けた。中国に比丘尼が現れたのは、撿が最初である。 その受戒の法要の日、特別な香りが馥郁（ふくいく）と漂い、集まった人々がみなこれを嗅ぎ、喜び嘆賞し、敬いの心をますます深くした。撿は戒律をよく保ち、学問に励んでやまなかった。信仰の施しは多く受けたが、得たらすぐに分け与え、いつも自分を後回しにし、人を先にした。升平の末になり、突然前と同じ香りを感じ、赤い気を見た。一人の女性が五色の花を手に持って、空から降りてきた。撿はこれを見て喜び、人々に言った、「よく後事を執り行いなさい。私は今、行きます。」手を取って別れを告げ、空に昇っていった。その通った道は虹のようで、まっすぐ天に通じていた。その時、七十歳であった。