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title: "比丘尼傳 · 5 建福寺康明感尼傳"
description: "比丘尼传由南朝梁代僧官宝唱撰著于六世纪初。全书共四卷，收录了自西晋至梁代共六十五位比丘尼的传记。它详细记载了这些杰出尼师的修行经历、弘法事迹与神异感应，是研究中国早期佛教史，特别是女性修行者发展的重要第一手文献。作为中国乃至世界现存最早的比丘尼传记总集，该书不仅填补了佛教史传的空白，更彰显了比丘尼僧团在佛教发展中的重要地位与贡献，具有极高的史料与宗教价值。"
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### 建福寺康明感尼傳五

明感，本姓朱，高平人也，世奉《大法經》。為虜賊所獲，欲以為妻，備加苦楚，誓不受辱。謫使牧羊，經歷十載。懷歸轉篤，反途莫由，常念三寶，兼願出家。忽遇一比丘，就請五戒，仍以《觀世音經》授之，因得習誦晝夜不休，願得還家立五層塔。不勝憂念，逃走東行。初不識路，晝夜兼涉。徑入一山，見有斑虎去之數步，初甚恐懅，小却意定心願逾至，遂隨虎而行。積日彌旬，得達青州。將入村落，虎便不見。至州復為明伯連所虜，音問至家，夫兒迎贖。家人拘制其志，未諧苦身，懃精三年，乃遂專篤，禪行戒品無𮘧。脫有小犯，輒累晨懺悔，要見瑞相然後乃休，或見雨花、或聞空聲、或覩佛像、或夜善夢。年及桑榆，操行彌峻，江北子女師奉如歸。晉永和四年春，與慧湛等十人，濟江詣司空公何充。充一見甚敬重。于時京師未有尼寺，充以別宅為之立寺。問感曰：「當何名之？」答曰：「大晉四部，今日始備。檀越所建，皆造福業。可名曰『建福寺』。」公從之矣。後遇疾，少時便卒。

> 明感という尼僧は、もともと朱氏の出身で、高平の人である。代々『大法経』を信仰していた。賊の虜にされた際、妻にしようとされたが、さんざん苦しめられても、誓って辱めを受けようとしなかった。追いやられて羊を放つ身となり、十年もの間そのまま過ごした。故郷を思う気持ちはますます強くなり、帰る道もないまま、常に三宝を念じ、出家を願い続けた。そんな中、ふと一人の比丘に出会い、五戒を請い、さらに『観世音経』を授けられた。それ以来、昼夜休むことなくこれを習誦し、帰郷して五重の塔を建てたいと願った。憂いの念にたえかねて、東へ向かって逃げ出した。初めは道も分からなかったが、昼夜兼行で歩き続け、やがて一つの山に入った。すると、数歩先に虎がいるのを見つけた。最初は大変恐れて後退したが、気持ちを落ち着けると、願いがさらに強くなり、そのまま虎について歩いていった。何日も何十日も過ぎて、ついに青州にたどり着いた。村に入ろうとしたとき、虎は忽然と姿を消した。しかし青州で再び明伯連という者の虜となってしまった。ところがその知らせが実家に届き、夫と息子が迎えに来て身請けした。家族は彼女の志を制しようとしたが、彼女はその身を苦しめつつも、三年間ひたすら精進した。禅行も戒律も少しの欠けもなかった。もし少しでも戒を犯すことがあれば、いつも明け方まで何日も懺悔し、必ず瑞相を見てからようやく止めた。ある時は花が空から降るのを見、ある時は空からの声を聞き、ある時は仏像を拝み、ある時は夜に良い夢を見ることもあった。年を重ねても、その行いはますます厳しくなり、江北の子女たちは彼女を師と仰ぎ、実家に帰るかのように従った。晋の永和四年の春、慧湛ら十人とともに長江を渡り、司空公の何充のもとを訪れた。何充は一目見て非常に敬い重んじた。当時、京師には尼寺がまだなかったため、何充は自分の別邸を提供して尼寺とした。そして明感に尋ねた。「何と名付けるべきか。」彼女は答えた。「大晋の四部（出家・在家の男女）は、今日をもって初めて揃いました。檀越（施主）の建てられるものはすべて福業を生みます。『建福寺』と名付けるのがよいでしょう。」何充はその言葉に従った。後に病にかかり、間もなく亡くなった。