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title: "圓覺經略疏鈔 · 第四"
description: "唐代宗密所著《圓覺經略疏鈔》是對《圓覺經》的權威註疏，為其《圓覺經大疏》的精簡提要本。該書撰於佛教鼎盛的唐代，旨在系統闡釋《圓覺經》的圓頓教理，內容涵蓋覺性本體、修行次第及禪教合一思想。宗密以華嚴宗融合禪宗的角度，深入剖析“圓覺”妙義，強調眾生本具圓滿覺性。此疏鈔被譽為中國佛教義理研究的重要典籍，對後世禪教融合發展影響深遠，是理解漢傳佛教心性論與實踐觀的關鍵著作。"
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## 圓覺經略疏之鈔卷第四

> 『円覚経略疏之鈔』 巻第四

疏：二、對破相中文二：初、辨異二：初、且辨其五別。文中四對，皆上明破相義，下明法性義。唯三性義中，兩宗皆含空、有，而義不同。一中所證理也無性者，破相宗以諸法空，即名真理。如幻華無體，即是大虗；第二月無性，即是本月。故門論云：大分深義，所謂空也。假名及中道，但約空說。如前不分教五義中所辨。憑公雖云存世之所亡，意亦但以空為所亡。本性者，性宗以自性清淨常住真心為所證理。真心者，不待會色歸空，不因斷惑成淨。自心本淨，故云自性；無始時來乃至盡未來際，有佛無佛，常不滅壞，故云常住心也。故寶性論云：清淨有二種：一、自性清淨，謂性淨解脫，以自性清淨心遠離煩惱故；二、離垢清淨，謂障盡解脫。真如者，前但了諸法無性，即名實理；此乃諸法皆空無性，方始顯出自心本性，方為實理。如天上雲散月，如出鏡中垢盡明現。非但無雲，便名月也；晦夜無雲，不名月故。二中能證真智者，謂了一切皆無所有，即此了智亦不可得，即名真智。若存一法，即非真智也。故法句云：一亦不為一。肇云：般若無知。又云：惑智知無，真智無知。百論以無相智為宗者，是此意也。真知者，一心真實，本自能知也。謂起信論明真如自體相云：從本已來，性自滿足一切功德，所謂自體有大智慧光明義故，真實識知義故。荷澤亦云：無住體上，自有本智能知等。言通於理智，乃至引華嚴者，顯真知異前智也。彼品覺首等九菩薩問文殊云：云何佛境界智？彼踈科云：能證之智。此下注釋者，皆是彼疏也。文殊偈答曰：諸佛智自在三世無所礙。權智橫無不知，故云自在；豎遠三際，故無所礙。如是慧境界平等如虗空。實智也，故云慧境平等如空。如空者，無若干也。故淨名云：但以數故，說有三世，非謂菩提有去、來、今。權實無礙，為佛境智。諸菩薩又問：云何佛境界知？彼疏科云：明心體相。文殊偈答云：非識所能識亦非心境界其性本清淨開示諸羣生。彼疏釋云：此下麤書是彼疏，注書是彼鈔。知即心體。彼鈔云：此句標示也。謂前對所證之法，明能證之智；今則直語靈知之心，異乎木石，通於能、所證。又前唯佛果權實智慧，不通於凡，故云佛智自在；此等通凡、聖，故云性淨開示羣生等。然上兩重料簡，即當寶性論二種清淨解脫也。前云佛智自在，即離垢清淨解脫；後云性淨開示羣生，即自性清淨解脫。又云通能、所證，通凡、聖者，即是此疏通理智，徹染、淨之義也。了別則非真知，故非識所識；分別名識，今有了別之識，故非真知，唯無念方見也。瞥起亦非真知。起心亦是妄想，故非真知。真知必忘心遺照，言思斷矣。故勝天王般若經云：遠離思量，過覺觀境。心體離念無念，非有念可離可無，故云性本清淨。眾生等有，惑翳不知，故佛開示，皆令悟入。諸菩薩以即體之用，故問之以知。文殊以即用之體，故答之以性淨。即當五重中第一、第二理智義也。知之一字，眾妙之門。若虗己而會，便契佛境。釋經中佛境之言也。故彼疏云：十信圓觀，便造佛境。肇公云：知有有壞，知無無敗。真知之知，有無不計。三中二諦者，以緣生即空為真諦，不待滅壞即俗諦，如空華之虗相。故影公云：俗諦故有，真諦故無。三諦者，注釋自顯。若本業經，即云有諦、無諦、中道諦。然注中但以鏡明喻第一義諦，即知以明所現影像喻俗諦，影像全空無體喻真諦也。四中三性空有者，空宗有謂等者，但所見有法即非真實，乃至菩提涅槃皆如夢幻。言依計者，依他徧計也。此依計皆虗妄。虗妄之中說此二名者，如空華依他病眼而有，亦如第二月依他揑目及本月而有，故名依他。迷者情計，謂為實有，即是徧計。二義雖別，所目之法不別。此等諸法皆無所有，方名圓成。然此圓成，但約依他徧計空理而說，亦無其體，故說三皆無性。性宗即徧計等者，徧計之法，如繩上見蛇，杌木上見鬼，情中定有，道理定無。相有性無者，如水中月，如金中器，相則似有，體性全無也。情無理有者，為約迷者見有蛇、鬼之時，情中都無繩杌，故曰情無。繩杌是實，故云理有。相無性有者，如摩尼珠在黑色中，雖全現黑相，其性常明，明性是有，黑相是無。五、佛德中空宗云：佛身者，所謂無身。故云雖也。故金剛云：如來所說身相即非身相，乃至即是非相，是名三十二相等。五、求不得者，即中論？觀如來品偈云：非陰不離陰，彼此不相在，如來不有陰，何處有如來？釋曰：由計我、我所，為如來計有五故，即離彼此、相在及有，是為五求。若如來即五陰，五陰既無常，如來亦無常；若五陰即如來，如來既是常，五陰亦應常也。而今五陰既不常，如來非無常，何得相即邪？故云非陰。若離五陰有，如來以何相知？又若如來離五陰，如來即先有，先有即為常；五陰離如來，五陰即本無，本無即為斷。既不斷不常，故云不離陰。若如來中有五陰，如器中有物，如來即大，五陰即小；若言五陰中有如來，如狀上有人，五陰即大，如來即小。必無此理，故云彼此不相在。又若相在，亦皆有別異過。若如來有五陰者，如人有馬，馬與人異，如來與五陰不爾，故云如來不有陰。問：此與離陰何異？答：相離未必相有，相有必知相離，所以為異也。然五句中，初即為一，後四皆異。若總合之，但是一異過耳。故法品破我，但云：若我是五陰我即為生滅若我異五陰則非五陰相。今細推尋，故有五求皆不可得。既知不有，當知不無。謂佛有者，常見為惑；謂佛無者，邪見深厚。非有非無，真如來也。故彼論偈云：邪見深厚者則說無如來如來寂滅相分別有亦非如是性空中思惟亦不可。然計有者過輕，計無者過重，故云邪見深厚。得即虗妄者，如金剛云：凡所有相，皆是虗妄。若以色見聲求，是人行邪道。無得乃真者，般若心經說：無蘊處界緣諦無智亦無得以無所得故乃至得阿耨菩提等。離一切相，名佛功德者，金剛云：若見諸相非相，即見如來；離一切相，即名諸佛；無有高下，是名阿耨菩提。如是等文，諸部般若中百門論首末皆是。今但略引常所聞者，意在易曉，以為類例耳。性宗有者，諸佛皆具常、樂、我、淨稱體之實德也。此四，廣如疏序中所釋。身智等者，謂十身、十智、十通，及常光、身光、智光等，一一無盡，皆稱法界。非如空宗有相即妄，故云真實功德也。性自本有者，論云：性上本有過？河沙數無漏功德等。不待機緣者，揀權教應化佛也。

> 一、破相と法性の比較 （一）五つの相違点 まず、「破相宗」と「法性宗」の間には五つの重要な違いがある。経典の記述は四組の対比からなり、いずれも前半が破相の立場、後半が法性の立場を明らかにしている。特に「三性」の教義においては、両宗ともに「空」と「有」を説くが、その意味するところは異なる。 \*\*第一の相違：「理」について\*\* 破相宗では、あらゆる現象が空であること自体を真理とする。例えば、空華（空中の花）に実体がなければ、それが虚空そのものであるように、第二の月に実体がなければ、それが本来の月であると見なす。『中論』に「大分深義、所謂空也」とあり、仮名や中道も、あくまで空に基づいて説かれる。 一方、法性宗では、自性清浄で常住不変の真心を、証悟すべき真理とする。この真心は、現象を空に帰したり、煩悩を断って清浄になるのを待つものではない。心それ自体が本来清浄であるから「自性」といい、無始の昔から未来永劫にわたり、仏が出現しようとしまいと、常に滅びることなく存在するから「常住心」という。『宝性論』には「清浄に二種あり。一には自性清浄、二には離垢清浄」とある。 また、破相宗では「諸法無性」と了解すること自体を実理とするが、法性宗では、諸法が空で無性であることを通して、初めて自己の心の本性が顕現し、それが真の実理となる。例えば、空に雲が晴れて月が現れるように、鏡の埃を取り除いて鏡面が明らかになるようなものである。単に雲がないだけでは月とは呼べない。曇りのない夜でも月は見えないからである。 \*\*第二の相違：「智」について\*\* 破相宗の真智（真の智慧）とは、一切が無所有であると了知し、その了知する智慧そのものも不可得であると理解することである。もし一法でも存在すると捉えれば、それは真智ではない。『法句経』に「一亦不為一」、僧肇は「般若無知」、また「惑智は無を知り、真智は無知なり」と述べる。『百論』が無相の智慧を宗旨とするのもこの趣旨である。 これに対し、法性宗の真知（真の認識）とは、一心が真実であり、本来それ自体で知る働きを持つことである。『大乗起信論』は真如の自體相について、「根本より已来、性自ら一切の功徳を滿足す。所謂自體に大智慧光明の義あり、真實識知の義あり」と明かす。荷沢神会も「無住の体の上に、自ら本智ありて能知す」などと述べている。 このことは『華厳経』の引用によって、真知が破相宗の真智とは異なることが明らかにされる。同経で覚首ら九菩薩が文殊菩薩に問う、「如何なるか是れ佛境界智？」文殊菩薩は偈で答える、「諸佛の智は自在にして、三世に碍わるること無し。かくの如き慧の境界は、平等にして虚空の如し」。さらに菩薩たちは問う、「如何なるか是れ佛境界知？」文殊は答える、「識の能く識る所に非ず、亦心の境界に非ず。其の性本清浄にして、諸の群生を開示す」。これについての疏の解釈では、「知は即ち心体なり」とし、真知は分別識や一念の心の動きを超えたものであり、心体が念を離れ、本来清浄であることを指すと説く。 つまり、「知」の一字が、あらゆる妙なるものの門なのであり、もし自分を空しくしてこれと会得すれば、そのまま仏の境地にかなうのである。 \*\*第三の相違：「二諦」と「三諦」について\*\* 破相宗では、縁起して生じたものが即座に空であることを「真諦」とし、そのまま滅ぼさなくても存在するように見えることを「俗諦」とする。例えば、空華の虚ろな相のようなものである。 法性宗の三諦については、本文の注釈に明らかである。例えば『瓔珞本業経』では「有諦・無諦・中道第一義諦」を説く。注釈では鏡の喩えを用いて、鏡そのものを第一義諦、鏡に映る影像を俗諦、影像が空で実体がないことを真諦と譬える。 \*\*第四の相違：「三性」と「空有」について\*\* 空宗では、見えるものすべてが実在ではない。菩提や涅槃さえも夢幻のごとしと見なす。依他起性と遍計所執性は共に虚妄であり、その虚妄の上に立てられた名称に過ぎない。例えば空華は依他（病眼に依存）して現れ、第二の月は眼を押すことと本来の月に依存するから依他起性という。迷える者の情計（執着）が実有と思い込むのが遍計所執性である。これらの法はすべて無であり、その空理を円成実性と名付ける。しかしこの円成実性も、依他・遍計の空の理について説かれたものに過ぎず、それ自体に実体はない。したがって三性ともに無性であると説く。 性宗では、遍計所執の法は、縄を見て蛇と誤認するように、または切り株を見て幽鬼と見間違うように、迷いの心には存在するが、道理の上では決して存在しない。相はあっても性は無いというのは、水中の月や金でできた器の喩えで、形は似ているが実体は全くないことである。逆に「情無くして理有り」とは、蛇や幽鬼を見ている迷いの状態では、縄や切り株の認識がないことを「情無」といい、本来の縄や切り株は実在するので「理有」という。また「相無くして性有り」とは、摩尼宝珠が黒い布に包まれて黒く見える時も、その明るさの性質は失われず、明るさの性質は有り、黒い相は無いことである。 \*\*第五の相違：「仏の功徳」について\*\* 空宗では、仏の身とは「無身」のことであると説く。『金剛経』に「如來の説く所の身相は、即ち身相に非ず」乃至「即ち是れ非相なり、是を三十二相と名づく」とある。『中論』の「観如来品」では、五つの方法によって如来を捉えようとしても得られないと説く。すなわち、如来は五蘊と同じ（即）でもなく、別（離）でもなく、如来の中に五蘊があるのでも、五蘊の中に如来があるのでも、如来が五蘊を持つのでもない。もし如来を有ると見るのは常見の迷い、無いと見るのは邪見が深いのであり、非有非無が真の如来である。『金剛経』に「凡そ所有の相は皆是れ虚妄なり」とあり、『般若心経』に「無智亦無得、以無所得故」とあるように、一切の相を離れることが、仏の功徳なのである。 性宗では、諸仏はみな常・楽・我・浄という、その体に本来備わる真実の功徳を持つと説く。十身、十智、十通、常光・身光・智光など、一々が尽きることなく、すべて法界にかなっている。空宗のように相があれば虚妄であるというのではなく、これらは「真実の功徳」である。これらの功徳は、もともと本性に備わっているもので、機縁を待って現れるような権教の応化仏とは異なるのである。

疏略辨下，二、例明所餘。約前性、相十對義目，為例說之。且初破相中，一者、眾生性空，何有五、一之定？二者、教如筏喻應捨，何有一、三之乘？意以非乘而為了義。三者、一切境界唯是妄念，念自本無，何唯境界？四者、迷，則妄想、妄見變易；悟、妄皆空，空則不變。五者、已如上說。六、生、佛皆空，故不增減。七者、亦如上說。八者、時無別體，約法以明。法既本無，時復何有？九者、與下性宗文同意異。如云照體無本者，空宗但無而已。性宗云：無本者，自無本故，但以無住為本。無住體上自有本智能知，此為能斷智之本體。照體無自者，空宗了一切法智當體無自，故經云無智。性宗以清淨心性為自，即性之照，不可將照還能自照，如眼不自見眼等。斯乃體即自照，故照不見有自體也。亦同智都無所得，非無智也。且約以五蘊等法為自，都無此自，名無自體。十者、有為、無為俱空，一、異皆不可得。故掌珍論云：無為無有實不起似空華。後法性十義者，不異前說，但對法相及對破相，意勢小異。思之，可知。

> （第二節を詳しく論じる。三、殘りの例を示す） 先の“性・相”の十對の義理を例として説明する。 まず破相の教えにおいて： 一、衆生の性は空である。なぜ「五蘊」と「一真如」との固定があるのか？ 二、教えは筏の喩えの如く捨てるべきである。なぜ「一乗」と「三乗」との区別があるのか？意味は、非乗を以て了義とする。 三、一切の境界はただ妄念に過ぎない。念は本来無いのに、なぜ境界だけがあるとするのか？ 四、迷えば妄想・妄見が変易する。悟れば妄は皆空であり、空ならば変わることはない。 五、すでに上で述べた通り。 六、衆生と仏は皆空であるから、増減はない。 七、これも上で述べた通り。 八、時には別の実体はなく、法に依って明らかにされる。法が本来無いなら、時に何があろうか？ 九、次の性宗の文と意味は同じだが趣きが異なる。例えば「照体は本無し」とは、空宗はただ無いとするのみ。性宗は「本無し」とは、自ら本無きが故に、ただ無住を以て本とする。無住の体の上に、自ら本智ありて知ることを得、これが能断智の本体である。「照体は自無し」とは、空宗は一切の法を了知する智の当体に自無しとするゆえ、経に「無智」と説く。性宗は清浄心性を以て自と為し、即ち性の照であり、照を以て自らを照らすことはできず、眼が自ら眼を見ない如し。これすなわち体は即ち自照にして、ゆえに照は自体を見ずして有ることなし。また「智は全て得る所無しといえども、無智にあらず」と同じ。 十、有為・無為ともに空であり、一・異ともに得る所無し。ゆえに『掌珍論』に「無為は実有にあらず、起これざるは空華の如し」と説く。 次に法性の十義は前説と異ならず、ただ法相及び破相に対する意図・勢いが少し異なるのみ。思惟すれば、これを知るべし。

疏然得下，二、會通。文中略會兩對，餘三例之。先會初對者，謂空宗所言無性是諸法緣起之無性，今明諸法皆本是真性緣起故。推之，無性便是真心本性，故無性、本性但是一也。次會第二對者，謂真智是始覺，真如是本覺。始、本不異，故智、知一也。疏餘諦性等者，例餘三門，乃至非性一性、非乘一乘、非心真心等也。但約三諦中鏡影之喻，即一切皆通。謂空宗中說影空為真，影相為俗；性宗但加於明，為第一義。今會通者，影即空，空即明，明中無物即為真，不妨現影即為俗。始、末覆躡，即三即一，即一即三，故皆無異。

> それでは、次に「会通」に入ります。本文ではまず二組の対比を簡略に会通し、残りの三組もこれに準じます。 最初の対比を会通すると、空宗が言う「無性」とは、諸法が縁起によって生じるゆえの無性である。ところが今、諸法はすべて本来、真性の縁起であると明らかにする。ゆえに、その根源を追究すれば、無性こそが真心の本性であり、無性と本性はただ一つのものである。 次の第二の対比を会通すると、真智は始覚（はじめて悟る智慧）であり、真如は本覚（本来の悟り）である。始覚と本覚は異なるものではないので、智慧と真如もまた一つのものである。 疏の「餘諦性等」とは、残りの三門を例示したものであり、さらには「非性」と「一性」、「非乗」と「一乗」、「非心」と「真心」なども同様である。 ただ三諦における鏡と影の譬えを用いれば、すべてが通じる。空宗では、影の空なることを真諦とし、影の相を俗諦とする。性宗では、さらに「明（鏡の明るさ）」を加えて第一義諦とする。今、これらを会通すれば、影すなわち空、空すなわち明である。明の中に実体がないことが真諦であり、その上に影が現れることを妨げないのが俗諦である。初めと終わりを重ねて見れば、三つは一つであり、一つは三つである。ゆえに、いずれも異なることはない。

疏然此下，三、會通前、後。此門者，終教；前者，始教；後者，頓教。問：頓教未釋，何以先會？答：因會始、終二教所詮歸一，此一即是頓教所詮真性，故乘便會之令易也。但教有殊者，佛化儀也。謂對上根，直顯寂知是真心性，即為頓教。如為聰明孩子說銅明是鏡也。對中、下根，且言修施、戒，斷惑、業，習定、慧，後始證悟真理。相宗。或云：見煩惱本無，即名真理。空宗。也上二皆始教。待彼執情漸破，空慧漸發，方與破三顯一，會權歸實，開示如來知見性、相，見真菩提、涅槃，一切眾生本有常住，佛性皆同常、樂、我、淨。終教。如是說者，統名漸教。如為闇鈍孩子說云：汝且習學時事，會解好、惡。待見此圓銅中總無青、黃、長、短、雜色等物，方見明鏡，方斷癡執。故云始、終、漸、頓之殊也。法非深、淺之異者，即頓中所顯寂知，是漸教終極所顯菩提、涅槃。菩提、涅槃即是寂知，無別新生果法，故云非異。或約頓開，但悟至此，便入圓教。圓教是一道稱性之談，非對機屈曲之說。於中皆具頓、漸等義，如海具百川之味，如下所明。

> さて、この下は、第三に、前後の教えを比較して明らかにする。この「此門」とは終教を指し、「前」とは始教を指し、「後」とは頓教を指す。 <note>問う：頓教はまだ説き明かされていないのに、なぜ先に比較するのか。答える：始教と終教の二つの教えが説く内容が一つに帰することを明らかにするためである。この「一つ」こそ、頓教が説く真の本性であるから、ついでに比較して分かりやすくするのである。</note> ただ教えに違いがあるのは、仏が教化する方法の違いである。上根の者に対しては、直接に「寂知（静かなる智慧）」が真心の本性であることを示す。これが頓教である。 <note>例えば、賢い子どもに「銅が明るいこと自体が鏡である」と教えるようなもの。</note> 中根・下根の者に対しては、まずは布施や戒律を修め、迷いや業を断ち、禅定と智慧を習い、その後ようやく真理を悟ると説く。 <note>相宗（法相宗）の教え。</note> あるいは、「煩悩が本来存在しないと見抜くこと、それを真理と名付ける」と説く。 <note>空宗（三論宗など）の教え。これらの上記二つは共に始教である。</note> 彼らの執着する心が徐々に破られ、空の智慧が徐々に現れるのを待って、初めて「三乗を破って一乗を示し、権教を会して実教に帰し、如来の知見の性と相を開き示し、真の菩提と涅槃を見、一切の衆生が本来持つ常住の仏性は全て常・楽・我・浄である」と説き示す。 <note>終教。</note> このように説くものを、総称して漸教と呼ぶ。 <note>例えば、愚かで鈍い子どもに「まずは世間のことを学び、善悪を判断できるようになりなさい。この丸い銅の中には青・黄・長・短・様々な色などの物が全くないと見極めてから、初めてそれが明鏡だと分かり、愚かな執着を断ち切れるのだ」と教えるようなもの。</note> よって、始教・終教・漸教・頓教という違いがあると言うのである。 法自体に深い浅いの違いがないとは、頓教において示される寂知こそが、漸教の究極において示される菩提・涅槃であるということである。菩提・涅槃はすなわち寂知であり、別に新たに生じる果報の法はない。だから「異なるものではない」と言うのである。 あるいは、頓教に基づいて開かれるならば、ただこの境地に悟りさえすれば、直ちに円教に入る。円教は一つの道（真理）そのものを説くものであり、相手に応じて曲げて説くものではない。その中には頓教や漸教などの意味が全て含まれており、あたかも大海が百の川の味を全て含んでいるようなものである。このことは以下で明らかにされる。

疏四、頓教，文二：一、正立教。不生即佛者，謂心本是佛，妄起，故為眾生；一念妄心不生，何為不得即佛？故達磨󳬴云：心有也，曠劫而滯凡夫；心無也，剎那而登正覺。華嚴經云：法性本空寂無取亦無見性空即是佛不可得思量。疏不依地位下，釋名。先正釋。復注引二經思益，文顯易了；楞伽經語，略而未周。謂彼第四先長行，云：大慧！於第一義無次第相續，說無所有妄想寂滅法。後有偈云：十地則為初初則為八地第九則為七七亦復為八第二為第三第四為第五第三為第六無所有何次。解曰：有何次者，頌上經文於第一義無次第相續等。疏總不下，二、辨所詮。唯辨等者，但諸經中一向辨真性處，即屬頓教。疏一切所有唯是妄想者，心欲緣而慮息，心行處滅也。故論云：心生，則種種法生；心滅，則種種法滅。故又云：一切諸法唯依妄念，而有差別；若離心念，則無一切境界之相。是故一切法從本已來離言說相，離名字相，離心緣相，畢竟平等，無有變異，唯是一心，故名真如。以一切言說假名無實，但隨妄念，不可得故。疏一切法界唯是絕言者，口欲談而辭喪，言語道斷也。拂名言之跡，顯離言真如。故論次前文即云：言真如者，亦無有相，謂言說之極，因言遣言。此真如體無有可遣，以一切法悉皆真故；亦無可立，以一切法皆同如故。當知一切法不可說，不可念，故名真如。故疏云皆是絕言也。言一切法界者，界即性義，以一切法性皆離言故。疏五法至都遣者，即楞伽明五法，謂名、相、妄想、正智、如如。然五皆空寂。何者？為迷如以成名、相，妄想是生；悟名、相之本如，妄便稱智。則無名、相、妄想，唯如如智矣。智因如立，智體亦空；如假智明，無所如矣。故並空也。況八識約事，皆託緣生；緣生性空，亦何定體？又因有我、法，說二無我。我尚不可得，無我寧存？故中論云：諸佛或說我或說於無我諸法實相中無我無非我。故雙遣也。訶教者，謂以心傳心，不立文字。故勸離者，乃有二義：一、令離教，成上訶教之辭；二、令離法，法雖無量，不出色、心。離心，心如；離色，色如。故今皆離，則契心體離念矣。毀相約境，凡所有相，皆是虗妄；泯心約智，了境相空，假稱為智。相既不有，智豈有真？心、境兩亡，即皆泯絕；心無心相，即是安心。故說生心即妄，不生即佛。言生心者，非但生於餘心，縱生菩提、涅槃，觀心見性，亦曰生心，並為妄想。想、念都寂，方曰不生。既一念不生，則前、後際斷，照體獨立，物、我皆如。斯乃寂、照現前，豈非真佛？故華嚴經云：一切法無生一切法無滅若能如是解諸佛常現前。言如是解者，如不生之解，而無解相，非空解於不生耳。疏泯之跡絕，方顯真性者，然初云總不說法相，標泯跡也；唯辨真性，標顯真也；一切所有下，皆釋泯跡也；不生即佛，釋成顯真也。佛謂本覺。故論云：離念相者，等虗空界，即是如來平等法身。依此法身，說名本覺。今此兩句者，上句結泯跡，下句結顯真。謂諸心不生，足跡斯絕；絕跡之處，本性了然，方為真矣。是知上來所泯，意在所顯。佛對一類，離念機故，頓詮言絕之理為頓。教難曰云云：若無此門，逗機不足。達磨宗旨，以心傳心，不立文字，亦順斯意。雖云不立文字，若不指一言以直說，即心是佛，心要何由可傳？故寄無言之言，直詮言絕之理也。

疏：五、圓教，文二：一、正立教。言一位即一切等者，一切諸法，一一稱性，事事無礙故。十信攝五位者，因是即性之因，故該於果；果是即性之果，故徹於因。故華嚴梵行品云初發心時得阿耨菩提等五位，是住、行、向、地及等覺也。成正覺，即妙覺果位。果位是總，五位是別。

疏所說下，二、辨所詮。略如釋序中性起為相、相得性融之文中所說。廣如普眼章法界觀門中說。然五教中第三既會合性、相，相對料簡，便成六句，謂：一、小乘唯相，二、頓教唯性，三、法相宗相多性少，四、終教相少性多，五、空宗中非相非性，六、圓教中全相全性。

▲疏已知下，二、配攝此經二：初、躡前徵起，可知。疏今顯下，二、正明相攝。初門中判圓教全攝此經者，如海含百川，十德不言，可知。判此經分攝彼圓教者，緣此經不明顯備說諸佛身相、國土、自在無礙、塵沙大用及一切諸法法爾互相即、互相入、重重融攝等義，故不得全名圓教。所言分者，但約直顯一真法界之體及觀行門中一、多無礙等義，即同華嚴也。第二門中判此經分攝初二教者，以文中說斷我淨業章也、除愛彌勒章也、修二空觀普眼章也，亦云諸法本如空華文殊章也，又云亦攝漸修一切羣品流通文也，故攝小乘及始教中相宗、空宗之義。然不委明有漏因、果、界、地行相及識變為境、種、現、歧路本、末，又不同般若等一一徧破諸法，備說十八空、十一空等，故云分也。判彼二教不攝此者，此經首、末所說染、淨等法修證行相，皆約圓明覺心假設方便，顯示修習始、終無體，但是覺明。雖說空義，亦但是圓覺中離相義，故非彼等所攝也。第三門中判終、頓二教互相攝者，流通文中佛自判云：是頓教大乘也。如云：知幻即離，不作方便；離幻即覺，亦無漸次。等文首、末，意多如此。攝終教者，五名中第五名如來藏自性差別，又明顯息諸惑障，勤修觀行，階位勝、劣，皆全是起信等宗也。

○第四、分齊門。　文三：初、標舉。言染法本末者，然染淨法，皆有本末。今以淨法是返本還源之意，故唯約染法，顯從本起末，五重輪次之行相也。將此五重，為秤斗度量。諸經宗教分齊，若不約所詮法之本末，無以驗能詮教之淺深。此乃能量却是所詮，所量却是能詮也。五重者，如一樹木，本末五重：最初是根，二是樹身，三枝幹，四華葉，五果實。說得果實，如最淺教故。展轉乃至，辨得樹根，如最深教也。

疏論中下，二、正顯二：初、明能量之法。一心者，論云：所言法者，謂眾生心。是心，則攝一切世間、出世間法。依於此心，顯示摩訶衍義。疏開二門者，論云：依一心法，有二種門。云何為二？一者、心真如門，二者、心生滅門。謂一如來藏心含於二義：一、約體絕相義，即真如門，謂非染，非淨，非生，非滅，不動，不轉，平等一味，性無差別。眾生即涅槃，不待滅也；凡夫、彌勒，同一際也。二、隨緣起滅義，即生滅門，謂隨熏轉動，成於染、淨。染、淨雖成，性恒不動。正由不動能成染、淨，是故不動亦在動門耳。是二種門，皆各總攝一切法。以真如門是染、淨通相，通相之外無別染、淨，故得總攝一切諸法。生滅門者，別顯染、淨。染、淨之法無所不該，故亦總攝一切諸法也。疏一者、心真等者，論云：心真如者，即是一法界大總相法門體，所謂心性不生不滅，一切諸法唯依妄念而有差別。若離心念，則無一切境界之相，乃至唯是一心，故名真如。疏二、心生等者，論云：依如來藏，故有生滅心，所謂不生不滅與生滅和合，非一，非異，名為阿梨耶識。疏三、依此識下，第三、重也。由真如門但是一心不變之體，非生起義，故唯取梨耶識展轉開也。言覺者，於中有本覺、始覺也。論云：所言覺義者，謂心體離念。離念相者，等虗空界，無所不徧。法界一相，即是如來平等法身。依此法身，說名本覺。乃至依本覺故，而有不覺；依不覺故，說有始覺。疏不覺者，論云：所言不覺義者，謂不如實知真如法一，故不覺心起，而有其念。念無自相，不離本覺。猶如迷人，依方，故迷；若離於方，則無有迷。眾生亦爾，依覺，故迷；若離覺性，則無不覺。疏四、依後義者，由覺義是反本合體，亦非起末。今此但論染法，故唯依後義也。論云：復次依不覺故，生三種相，與彼不覺相應不離。云何為三？一者、無明業相，以依不覺，故心動，說名為業。業有二義：一、動作義，即此是也。覺，則不動；反釋。動，則有苦；二、為因義，由此招苦故也。果不離因故。二者、能見相，以依動，故能見；依於一念之動，轉成能見之相。不動，則無見。反釋由動，故能見也。見謂取境。三者、境界相，以依能見，故境界妄現；離見，則無境界。反釋。疏五、依下，論云：以有境界緣故，復生六種相：一、種智相，依於境界，心起分別愛與不愛故；於前所現相上不了自心所現，故創起慧數，分別染淨，執有定性也。二者相續相，依於智故，生其苦樂，覺心起念，相應不斷故謂依前分別愛境，起樂受覺；不愛境，起苦受覺。數數起念，相續現前。此明自相續也。三者執取相，依於相續，緣念境界，住持苦樂上皆是前相續相也，心起著故是此執取相也。謂於前苦樂等境，不了虗無，深起取著。故下文云：即此相續識，依諸凡夫取著轉深，計我我所等也。四者計名字相，依於妄執，分別假名言相故依前顛倒所執相上，更立假名，是分別故。楞伽云：相名常相隨，而生諸妄想。故云依於妄執等也。上來起惑，自下造業受報。五者起業相，依於名字，尋名取著，造種種業故謂執相計名，依此麤惑，發動身口，造一切業，即苦因也。六者業繫苦相，以依業受報，不自在故業因已成，招果必然，循環諸道，生死長縛。當知無明能生一切染法三細六麤，總攝一切染法，皆因根本無明不了真如而起，以一切染法皆是不覺相故問：染法多種，差別不同，如何根本唯一無明？答：染法雖多，皆是無明之業氣，悉是不覺之差別相，故不異不覺也。

疏言諸下，二、明所量之教，即正顯分齊也。始從詮枝末之教，展轉漸深，乃至詮於根源之教也。詮法漸漸近本，教則漸漸幽深，故言分齊。疏唯業報者，六麤最後之二也。人、天之教但說造惡墮三塗，修善生人道、天道，勸修持戒，都不明起業之本，故云齊此。疏小乘唯後四麤者，初二麤是法執。小乘猶迷，故唯齊此；此教猶未破之，故所詮唯齊我執。疏法相極於三細者，此三是賴耶三分。彼宗但以此識為無始根本，是一切法所依，故所詮法唯齊於此。所說無明但在六、七識中，都不明賴耶更有根本，故不到前之三重。若對樹木五重之喻，此唯知華、葉，尚未識枝、幹，何況樹根！問：第二重是真如及梨耶識，豈非彼教所說邪？答：彼真如一向凝然，無知覺隨緣之義，與賴耶全別。彼賴耶又但是生滅遷變，對此與如來藏和合具本覺之梨耶不同，故唯齊此三細。三細即此論生滅因緣中一向起染之識也。

△疏終、頓通詮本、末下，正明此經所詮分齊幽、深。終教法華、涅槃之類，頓教華嚴、勝鬘之類，各數十部經。所詮之義，皆同於此。但文有隱、顯，故標終、頓，而攝此經。疏即此下，配屬經文。言圓覺妙心者，普賢章經云：善男子！種種幻化，皆生如來圓覺妙心。猶如空華，從空而有。幻華雖滅，空性不壞。眾生幻心，還依幻滅。諸幻盡滅，覺心不動。偈頌云：無始幻無明皆從諸如來圓覺心建立。既云眾生無明幻心皆從覺心生起，即知正是論中最初之一心也。疏經標圓覺為宗、本者，正宗經文最初云：無上法王有大陀羅尼門，名為圓覺。疏說染、淨等者，次前文云：流出一切清淨真如、菩提、涅槃及波羅蜜，教授菩薩。即淨法現起。前云：幻化無明從覺心生。即染法現起。現起之言雖通染、淨，若從別義配者，染法云起，淨法云現。

△疏文殊章末即真如門者，文云：知是空華，即無輪轉，亦無身、心受彼生死，非作故無，本性無故。彼知、覺者猶如虗空，乃至虗空性故，常不動故，如來藏中無起、滅故，無知、見故，如法界性究竟圓滿徧十方故。疏如來藏差別者，流通文內，經有五名：第五名如來藏自性差別，差別即生、滅之義。

△疏普眼一章，即始、本覺者，文中分折身、心、根、識、塵、境二空觀，及法界觀成，便得無邊虗空覺所顯發等，即始覺也。後云修習此心得成就者，於此無修，亦無成就，圓覺普照，寂滅無二，乃至諸佛世界空華、生死、涅槃如夢，眾生本來成佛等，即是本覺也。疏徵釋無明，即是不覺者，文云：云何無明？善男子！一切眾生從無始來，種種顛倒，猶如迷人，四方易處，妄認四大。乃至此無明者，非實有體，如夢中人等。若離睡身，即無別夢身。正同論云：若離本覺，即無別不覺。

△疏：淨業一章，三、細者。此章說我、人等相甚深微細，如前教起因緣中辨。前云菩提隱障是也。故文中云：動念、息念，皆歸迷悶。何以故？由有無始本起無明為己主宰。又云：則知我相堅固執持，潛伏藏識，遊戲諸根，曾不間斷。潛藏識者，三細。三細是藏識三分故也。遊戲諸根，即屬六麤中後意識。論云分別六塵故也。疏：二、麤者。然此一章中雖標列我等相，意乃通破二執、二障。故文云：厭流轉者道諦，妄見涅槃滅〔識〕，由此不能入清淨覺無上菩提。乃至動念凡夫、息念二乘，皆歸迷悶第一義愚。又云：本起無明等。釋曰：既證二乘之理，亦是迷妄，即知不唯我執及煩惱障。又云：障清淨覺，尤顯是所知障，障大菩提。文中別說四相了，更有數番每說過患了，皆結云：是故不能入清淨覺。問：既是通破障、執，何得偏標我相？答：漸教中為初對凡夫、外道偏說我執，後待漸漸根熟，復與單說法執。今頓教中對上根、凡夫根性雖利，本來未聞無我之教，由此便通破二執、二障也。就中耽著生死義邊我相，煩惱過重，故偏標名我；成就種智義邊法執，所知障重，故偏結云由此不能入清淨覺等。始終尋究，義意昭然。故知修多羅教誠宜意趣中求也。

△疏彌勒章至四麤者。文云：一切眾生從無始際，由有種種恩愛、貪欲，故有輪迴。乃至由有諸欲助發愛性，是故能令生死相續。欲因愛生，命因欲有。眾生愛命，還依欲本。愛欲為因，愛命為果。通明執取相、計名字相也。前明根本無明，二乘亦不能了，即知不障出世。今此雖偏標恩受貪欲，然非唯潤業，亦是親發業之宿惑。經文通含者，意同上通詮二執之說也。由於欲境起諸違順，境背愛心而生憎嫉，躡上執取等二麤之因也。若取意配者，上是執取相，此是計名字相也。造種種業，第五起業相也。是故復生地獄、餓鬼。第六業繫苦相。次說修善生人、天，修捨，捨即禪定。便現有為增上善果。上二界。皆例此配，故云即後四麤。

疏是知下。三、結成幽、深。言極盡五重者，一一如注所配。諸教分齊，深、淺歷然，淺不至深，深必該淺，故具攝也。然雖攝五，而偏顯第二、第三重也。首、末備明覺、不覺義，而皆拂迹，謂覺於不覺，歸心真如，故正當終、頓二教。

○第五、所被門者，謂此經所詮境界，既說如上，未委何等根機，而能信解修證。法既幽深，應非我分。恐遲疑於此，故辨此門。

文二：初、開章。疏初、謂下，二、正辨二：一、明料簡，二：一、揀非器。言樂著等者，經云：迷於一實隨名相名相執故我塵生今照我塵無自性迴向無住涅槃城。且圓覺非相，故不可思；又非名，故不可議。是故著名、相者，不能入也。故下文云：何況能以有思惟心測度如來圓覺境界！如取螢火燒須彌山，終不能著。疏以文為解者，清凉云：乖實非器，謂如言取文，超情至理，法不入心。故十地論云：隨聲取義，有五過失：一、不正信，二、退勇猛，三、誑他，四、謗佛，五、輕法。疏滯行位者，清涼云：守權非器，謂三乘共教諸菩薩等，隨宗所修，行布行位，不信圓融具德之法。故出現品云：設有菩薩無量億那由他劫行六波羅蜜，不聞此經；或時聞已，不信，不解，不順，不入，不得名為真實菩薩。良以有作之修，多劫終成敗壞；無心體極，一念便契佛家。又云：積行菩薩曝鰓鱗於龍門。疏高推聖境者，清涼云：夫機差教別，聖旨深玄。且以淺為深，有符理之得；以深為淺，有謗法之愆。以遠為近，則有益於行人；以近為遠，則疑法非我分。諸佛設教，貴在俯就物機；後輩學人，苦欲高推聖境。儻失大利，豈不傷哉！況纔生王宮，貴極臣佐，寧同撥亂之主，備歷艱辛者哉！初心契於覺海，豈有邊涯？猶微滴入於天池，齊無終始。故經云：發心畢竟二不別如是二心先心難。

△疏情尚下，肇論不真空品中破三家異論。於中破本無宗云：本無者，情尚於無，多觸言以賓無故。非有有即無非無無即無。釋曰：上皆是先敘所計也。賓，客也。客皆向主。今立本無之人，言皆趣向於無。爾雅云：賓，服也。情中賓服於無也。故說非有之義，亦但云是無；說非無之義，亦云是無。意云：無亦無，名非無。故知觸言賓無也。論次破云：尋夫立文之本旨者，直以非有非真有，非無非真無耳。何必非有無此有，非無無彼無？此直好無之談，豈曰順通事實，即物之情哉？釋曰：不言非有無却此有，非無無却彼無也。今此疏云空者，尚輕於無。輕過尚揀，况於重乎？良由此經宗於淨覺，覺非空有。故情尚空者，非器。上句云：情尚者，心之所尚。下句云：觸言者，語之所尚。心、口皆乖圓覺，故云非器。疏自恃天真等者，天真是自然之義。意云：我自然是佛，何用更求佛？煩惱自然元無，更何所斷？即此經中任病也。文云：我等今者，不斷生死，不求涅槃。涅槃生死，無起滅念。任彼一切，隨諸法性，欲求圓覺。意云：本無生死，元是涅槃，故一切任彼。但逢飯即䬸，遇衣即著。諸好惡事，一切不知。任運而行，信緣而活。睡來即臥，興來即行。東西南北，要處即去。彼圓覺性，非任有故，說名為病。釋曰：佛破此念也。謂設令善惡不拘，但名無記之性。七賢豈是大道？四皓寧為聖人？尚昧欲天，焉冥覺體？慤云：行人至此，溺水沈舟。宜自警懷，勿霑斯病。故起信問云：上說法界一相，佛體無二。何故不唯念真如，復假求學諸善之行？答曰：譬如大摩尼寶，體性明淨，而有鑛穢之垢。若人雖念寶性，不以方便種種磨治，終無得淨。如是眾生真如之法，體性空淨，而有無量煩惱垢染。若人雖念真如，不以方便種種熏修，亦無得淨。今云天真者，即真如也。進習者，即求學諸善行也。彼意云：性天然，是真是佛，何假更修？故非器也。輕者，輕他人進習。厭者，自厭倦進習也。

疏固執先聞者，且四弘誓云：法門無邊，誓願學者，意恐得少為足，欲令求法不懈。善財徧謁，是此意也。況佛教權、實多門，若先聞權，後聞實，便執先權說，不信後實說，失大利也。如人先擔麻，後遇金藏，力不能總擔；又惜前功，不能棄却，便不取金也。是故經云：所未聞法，聞之不疑，是為希有。華嚴？十地品說第三地菩薩行相云：若聞一句未曾聞法，聞之生大歡喜，勝得轉輪聖王位；若得一偈未曾聞法，能淨菩薩行，勝得帝釋、梵王位，住無量百千劫。若有人言：我有一句佛所說法，能淨菩薩行。汝今若能入大火坑，受極大苦，當以相與！菩薩爾時作如是念：我以一句佛所說法，淨菩薩行故。假使三千大千世界大火滿中，尚欲從於梵天之上投身而下，親自受取，況小火坑而之能入！然我今者為求佛法，應受一切地獄，況人中諸小苦惱！菩薩如是發勤精進，求於佛法，如其所聞，觀察，修行。此菩薩得聞法已，攝心安住，於空閑處作是思惟：如說修行，乃得佛法，非但口言而可清淨。疏如上者，總結上五類人也。

疏反上下。二、明是器。謂雖尋文而本性離，覩相而常照心。反於著名相也。因該果海，果徹因源。反於滯行位也。雖空不斷，中道了然。反於情尚空也。頓悟漸修，反於輕厭進習。求法不懈。反於棄金。次第反前，即是堪習此經器矣。

疏後普下，二、明普收二：一、通明，皆益文顯。疏謂宿下，二、益有淺、深。故清涼大師說五所為：一、正為，二、兼為，三、引為，說行布十地，引權教中菩薩也。四、權為，權示現為五百聲聞在座，不見不聞，彰小乘非器，令發大心也。五、遠為。今此但有三種：闕引為、權為，餘三如下配屬。謂悟入者，正為也。悟謂悟解，入謂證入。華嚴中即善財之類，此經即觀行成就之文。信解者，同彼兼為也，揀悟解也。隨言而解，隨解而信，曰信解矣。又信揀邪見，解揀無明也。熏成等者，同彼遠為也。此即新熏五性義中第五無性人也。謂凡夫、外道、闡提，悉有佛性。今雖不信，後必當入。故出現品云：如來智慧大藥王樹唯除二處，不能為作生長利益，所謂：二乘墮無為坑及壞善根，非器眾生溺大邪見、貪愛之水。然亦於彼曾無厭捨。今普收者，即佛無厭捨之意也。疏金剛喻者，華嚴第五十二云：佛子！譬如丈夫食少金剛，終竟不銷，要穿其身，出在於外。何以故？金剛不與肉身雜穢而同止故。於如來所種少善根亦復如是，要穿一切有為諸行煩惱身過，到於無為究竟智處。何以故？此少善根不與有為諸行煩惱而共住故。又云：設有不生信樂，亦種善根，無空過者，乃至究竟入於涅槃。此明謗雖墮惡，由聞歷耳，終醒悟故。又云：如日亦與生盲作利益故。

○第六、能詮體性門。　疏能詮體者，通明諸佛教法，乃至此經以何為體，而能詮得無量事、理等義。文四。一中，疏聲、名、句、文者，聲是教主言音，名、句、文是聲上屈曲詮表。然大、小乘宗各有三說：一、唯以聲為體，二、唯名、句、文，三、通取四法。今用通取也。言音者，謂佛唱辭、評論、語音宮、商等、語路語所行處、語業語用、語表令他生解是也。名者，次第行列也，詮一切法自性如云椀，未詮金椀、銀椀等別也。句者，次第安布也，詮法差別。文者，次第聯合也，與名、句為所依故。疏體、用、假、實相資者，聲音是體，聲上名、句、文屈曲詮表是用。又聲是色法中收，是為實法就世俗言實也；名、句、文是不相應行中收，非色非心，但約色、心分位假立，是為假法。由前第一家說云：唯聲為體，其名、句、文但顯佛教作用，非佛教體。小乘中文。離聲無別名等，攝假、實故。大乘中文。第二家云：聲是所依，非正教體，但展轉因故。謂語起名等，名等方能顯義。小乘中文也。言展轉者，如世上人，父但生子，子方生孫。聲如父，名如子，所顯義如孫。故偏取親依為教體。此三離聲雖無別體，而假、實異，亦不即聲。今以體從用，故取名等。大乘中文也。謂假雖依實，而不即實。即知是假名等能詮，非實聲能詮也。由上二義，互有得、失故。今取第三通收之義，故云相資。相資者，若無其體，約何發用？若無其用，如何詮表是非得、失？若攝假從實，但取聲者，如人汎然發聲，或吟，或叫，不吐辭句，何所表顯？說得何事？若無聲者，名等何依？故云相資也。疏：十地經云：經云：如空中彩畫如空中風相。彼論釋云：風喻言音，畫喻文字。即名、句、文。此中喻意，不單取虗空，以無畫處，空不為喻故；不單取風、畫，以樹上風、壁上畫不將喻故。正取空中風、畫也。今引用者，兼顯實教中聲等無自性，生起下唯識歸性之義也。

△疏通攝所詮者，瑜伽云：諸契經體，略有二種：一、文，二、義。文是所依，義是能依。如是二種，總名一切所知境界。疏若不詮義，文非教者，釋通攝所以。且如經教中文字與人間書史文字，都無差別。若不以說義、理勝妙，憑何生起真正信解，起行證果？外教亦爾，但雜亂寫出文字，不排列、安布、連合，詮顯事、義、道理，亦何名典教？如玉篇、切韻之徒，豈屬詩、書、禮、樂？故須通攝所詮也。故華嚴云：文隨於義，義隨於文。二中，疏前二者，前隨相門二種也：一、即聲、名、句、文，二、即通攝所詮矣。不離識者，染、淨萬法，皆唯是識所變也。故經教亦然。此義前後頻有解釋。疏本、影異者，有其四句：一、唯本無影，謂即小乘教，不知教法唯識現故。二、亦本亦影，即大乘始教，謂以佛自宣說若文若義，皆是妙觀察智相應淨識之所顯現，名本質教；若聞者識上所現文、義，名影像教。三、唯影無本，即大乘實教，離眾生心、佛果，無別色、聲功德，唯有如如及如如智獨存，但以大悲、大智為增上緣，令彼所化根熟眾生心中現佛色、聲說法。是故佛教但是眾生心中影像。華嚴云：諸佛無有法佛於何有說但隨其自心為說如是法。四、非本非影，即頓教也。非唯心外無佛色、聲，眾生心中影像亦空，以性本離故。忘言絕慮，即無教之教耳。佛言：我從得道來，不說一字，汝亦不聞。

三中，疏歸性者，前則攝所變之萬境歸於能變之八識，今又攝所現之八識歸於能現之一心。一心即是真性，故云歸性。故起信云：是故一切法從本已來離言說相，離心緣相，乃至唯是一心，故名真如。展轉推尋，經教真實之體極至於此。禪門先祖有言心即是經者，良由曉會此展轉之義。今有後輩棄却經教不說，但指於云心是經教，實為帶累禪宗矣。

四中，疏無礙者，謂於前三門，本、末無礙，方是圓了；識於教體，說即前、後，法乃同時。疏心、境、理、事交徹相攝者，正顯無礙之相也。心者，唯識門也；境及事者，隨相門也；理者，歸性門也。交徹者，謂正名、句時，必帶所詮之義；正唯識時，即能詮、所詮。故交徹無礙也。疏以一心二門者，釋交徹所以，即論中所說：依一心法，有真如、生滅二門。廣如前辨。今以一心若無二門，即失前心、境、理、事事及心、境，皆生滅門；理，則真如。二門若非一心，即不交徹。故由一心二門，方得無礙。

○第七、宗趣門，　文二：初、通注。當部所崇者，崇是崇重、尊重、好尚之義。約典教法所言者，即云當部所崇、所尚；就人言之，即云心之所尚；就賓、主談論時言之，即云語之所尚。如前好尚無者，觸言而賓無。今判典教，故云當部。疏趣者，意趣，趣向，即心、意所歸趣之處。謂凡是一切，每偏宗一事，必有意之所趣。故注云宗之所歸。疏因緣為宗者，謂古來諸德，皆判儒宗五常，道宗自然，釋宗因緣。因緣有二：一、內，二、外。外謂糓子、水、土、人、時，而茅得生；泥團、輪、繩、陶、師，而器得成。內謂十二因緣。然外由內變，本、末相收，為一緣起。故佛教從淺至深，說一切法不出因緣二字。然有四重：一、因緣故，生死、成壞。涅槃云：我觀諸行生滅無常，云何知邪？以因緣故。二、因緣故，即空。謂不自、他、共生等，故無生也。三、因緣故，即假。如鏡像、水月之流，緣會不得不現。四、因緣故，即中。若言不從因緣，即是定有，定無斷、常二過。故中論云：因緣所生法我說即是空亦為是假名亦是中道義。四句如次配前四重。涅槃亦說：聲聞等四品菩提，皆由觀之而得。故佛教之宗，因緣收盡。

△注於中有下，謂約佛滅度後，賢聖弟子相承傳習，通大、小乘，宗途有五：一、隨相法執宗，即小乘諸師依阿含等經所立，以造諸部小乘等論。二、真空無相宗，即龍樹、提婆依般若等經所立，以造中觀等論。三、唯識法相宗，即無著、天親依解深密等經所立，以造唯識等論。四、如來藏緣起宗，即馬鳴、堅慧依楞伽等經所立，以造起信等論。五、圓融具德宗，即華嚴經也。天親菩薩造論，立六相圓融義注。今則法性者，配屬此經也。

疏別明下，二、別二：一、總二：一、達理成行。言心、境空寂者，此有二意：一、約唯識釋。境唯心變，心外無境，故空；既不執境，即心無攀緣，故寂。空是空無義。寂者，但是心、識離喧、動過患，不是無也。故唯識頌云：此諸法勝義亦即是真如常如其性故即唯識實性。今注中略而明之。二、約三性釋，即今注也。謂約徧計，即心、境俱空故。如繩上之蛇、杌木之鬼，但倒情妄見。故文云：知是空華，即無輪轉，亦無身、心受彼生死。非作，故無；本性，無故。若約依他，即心、境俱寂，舉體即是圓成。如鏡中影，不從外入，不從內出；見時，不是新生；不見，亦非滅去。故云寂也。故法華云：諸法從本來常自寂滅相。又云：世間相常住。此皆非空、無之義也。故經云：一切空寂法是法寂不空。注引當經，可知。疏覺性圓滿者，正是圓成真實性也。心、境既皆空寂，無喧變，全體便是圓成覺性，故注云由空寂故。疏凡、聖等者，如注引文。文中說：根、識、塵、大世間諸法，力、無畏等出世諸法，皆云清淨不動，徧滿法界，故云平等。平等者，良由覺性圓滿，故云覺圓明故，顯心清淨等。又云覺性清淨，圓無際故，當知六根徧滿法界等。皆注所引中間之文。故注云乃至此乃由心、境空故寂，寂故覺圓，圓故平等也。故以此為宗。疏令修行下，明趣也。謂修行人但悟心、境空寂，自然喪己忘情。情忘即等佛心，等佛為真觀行。所言喪己者，文云亦無身、心受彼生死，又云幻身滅故，幻心亦滅等。言忘情者，由悟空寂平等故也。如注所引八不之文。八不者，具云：覺成就故，當知菩薩不與法縛，不求法脫，不厭生死，不愛涅槃，不敬持戒，不憎毀禁，不重久習，不輕初學。何以故？一切覺故。餘如注釋。

▲疏又以下，二、依行證果，鈎鎖相躡。謂以忘情等佛觀行速成為宗，令惑、業銷滅等為趣也。應先問：修觀行成，意何所趣？答：意令惑、業乃至安樂自在。惑、業銷滅者，文云：身、心客塵從此永滅永絕。輪迴者，知彼如空華，即能免流轉。等起大神用者，初靜一身至一世界，覺亦如是。等安樂者，便能內發寂滅輕安。禪定樂也。又云：三事圓證，故名究竟涅槃。經說涅槃是安樂義。自在者，永得超過礙、無礙境煩惱涅槃，不相留礙。上所引者，皆是觀成功用等文，故指為修觀行意之所趣也。每云等者，引文不盡，故等取已次之文。若能備引，即檢經文。

疏別者下，二、別。由五雙之法各有相對不同之義，對前總意，故標云別。若據展轉鈎鎖，乃至起大神用，但是竪窮一段始終之意，亦不異前也。則是展前，令法、義廣。疏教義者，問：若宗此經一部，令他勞苦學之，有何意趣？答：本圖曉會經中所說覺心染、淨、迷、悟、本、末、同、異、義、理意旨，不為文字、事業，是其趣也。論中亦云：畢竟不可說相而有言說者，當知如來善巧方便，假以言說引導眾生。其旨趣者，皆為離念，歸於真如。疏事、理者，捨前言教，但約所詮之義論之，所詮復有事、理也。問：修心息妄，不在事緣。經中所說義、理，何必苦分張門戶，說本說末，云妄云真，有悟有修，五性、四位、三觀、諸輪、四相、四病等邪？答：雖約種種，意在顯理。謂所說錯謬過患者，意令知而離之。離過，則合理中、下根性，猶難頓知頓離。故本、末相對，迷、悟相翻，遂成種種。論其旨趣，但為顯理也。疏境行者，境即所觀真理，對能觀之智，故云境也。謂於前對中又捨事不論，但論觀理，自有能觀、所觀也。問：真理一味，無增無減，無益無損，何必宗之？答：夫心無定相，對境隨緣。若觀差別之境，即成分別之心；若觀一味真理，即成無分別智。無分別智，方名觀行。故今觀於理者，意在觀行成就，不在所觀之理也。疏行寂者，問：勝天王般若云：一行三昧者，遠離思量，過覺觀境。淨名云：不觀是菩提，離諸緣故。且生心動念，即乖法體，何必起行？況真理即是自心，何乃將心更觀真理？故此答云宗觀行者，意在絕觀。何者？且多為染習，觸境生心。若不修觀行，則情計紛然，愛憎交起，如何遠離思量？如何離諸緣等？縱令強抑妄心，直得念想不起，亦是增長無明，豈得定、慧平等？故須觀一切法如夢如幻，本來空寂，方悟能觀亦空，自然能、所兩亡，心、境俱泯，泯然無寄，行起解絕。疏寂用對者，問：既能觀亦泯，即一切皆絕，利益有何勝矣？豈不以虗設功夫都無所獲邪？答：起大神用，是勝益也。問：何以都泯功能，却得神用自在？答：如塵盡鏡明，鏡無心而無像不現；離幻即覺，覺無心而無所不應。理例昭然，法爾如是。疏此五下，相由之意易知，可詳而說之。

○第八、修證門。　文二：一、正明本義，四：一、躡前標後。初二句躡前七門。七門皆論佛之言教，教詮於義。約教解義，但是聞慧之境。設依義觀察思惟，亦唯思慧之境。皆未是忘緣寂照。若上上根智，即言忘言，即相忘相，此不復論。今為中下之流，須開忘機寂志之方便，發慧契證之玄門。故自古西域東夏，承上已來，有斯宗也。下二句標後。言忘詮等者，意如上釋，詮量揀擇之謂也。詮即能詮之教。忘者，即周易略例中，將言顯象，得象忘言。以象顯意，得意忘象。如以筌蹄取魚兔等。序中已釋。復有其門者，不必事須攀緣經論，自有默傳心印之門也。

疏故以下，二、正敘修證三：一、敘宗師。以心傳心者，是達磨大師之言也。因可和尚諮問：此法有何文字教典習學？大師答云：我法以心傳心，不立文字。謂雖因師說，而不以文句為道。須忘詮得意，得意即是傳心。歷代不絕者，乃至今日也。此上二句由且是以法標舉。疏自佛囑下，從此始是正敘也。付法藏經中說：佛化緣將畢，垂當滅度，告大弟子摩訶迦葉：汝今當知：我於無量阿僧祇劫為眾生故，勤修苦行，一心專求無上勝法。如我昔願，今已滿足。今者將般涅槃，以此深法用囑累汝。汝當於後敬順我意，廣宣流布，無令斷絕！迦葉白言：善哉，受教！我當如是奉持正法，使未來世等蒙饒益。惟願世尊不以為慮！是故如來滅度之後，摩訶迦葉次宣正教，結集法藏，化諸眾生，其所度脫，永不退轉云云。即迦葉當第一，故云佛囑迦葉也。然禪經序又云：此是阿難曲承音詔，遇非其人，則幽關莫闢，罕窺其庭；若能得意忘言，則途中授與。據此，則佛囑阿難。又智論說：阿泥樓豆語阿難言：世尊首付汝法，汝今愁悶，失所付事。又佛般涅槃時，迦葉不在，亦合是阿難。今此經及傳記述法眼相付，皆以迦葉為初祖者，應是先受佛密付囑。然往山中後，佛臨涅槃，再囑阿難，令遇迦葉當佛法主，及令阿難同結集法藏。故或云迦葉，或云阿難矣。疏展傳于今者，從迦葉已下，西域二十八祖，此方七祖，相承傳法不絕。謂迦葉臨欲入雞足山，以最勝法付囑阿難，為第二。阿難臨滅，付商那和修，為第三。優波毱多第四度人無量，石室籌蒲，時號無相好佛。自此已前，所傳之法，皆具禪、教、律三藏。自此已後，律、教別行，橫分五部。傳法之者，唯傳禪門及經、論，乃至二十三代師子尊者。提多迦第五。彌遮迦第六多聞博達，有大辯才。佛陀難提第七。伏陀蜜多第八德力甚深，智慧廣大。國王信邪，躬持赤幡，請諸論主論義。論主皆屈，王自論亦屈，遂改邪心。脇尊者第九胎中六十年，生即髮白。厭世出家，勤苦修道，未曾以脇至席而臥。善說法化生。富那耶奢第十智慧深邃，多聞博達。化度無量，說諸法空。馬鳴慢心，誓斷舌以難耶奢。耶奢立二諦義，鳴即歸投。馬鳴菩薩第十一作妙伎樂，降諸伎人。於樂音中演說諸法苦、空、無我、貴、賤。出家時，遇外國兵圍，索九億金錢。王以馬鳴與之，方退。化度無量，造甘蔗論十萬偈。又造起信等論，善能開誘。毗羅尊者第十二造無我論，足一百偈。此論至處，無不摧魔。龍樹菩薩第十三豪貴家生，通四圍陀天地圖讖。因與三友作妖術，敗出家。誦盡閻浮經論，自謂為一切智人。大龍愍之，接入海宮。悟已還出，化國王、婆羅門、外道無數，造論數十部。入室閉戶經日，弟子破戶看之已，禪蛻而去也。迦那提婆第十四智摧異學，博識辯才。壇名天下，出左眼與神誓，求發言得人信受。化邪見王及邪黨，皆令出家，以免斬頭之誓。外道弟子由恨，後破其腹而終。羅睺羅第十五。僧伽難提第十六付法訖，至一樹下，手攀樹枝而滅。諸羅漢欲移屍不得，以諸象力挽之不動。遂就樹下焚之，身盡樹更蓊鬱。僧伽耶舍第十七。鳩摩羅駄第十八。闍夜多第十九。婆修盤陀第二十通達一切修多羅義，分別宣說，廣化眾生。今疑此是天親，未敢為定。摩拏羅第二十一。鶴勒那夜遮第二十二。師子尊者第二十三遊化至罽賓國，國王邪見，壞寺殺僧。尊者付法已，告眾令散。後王問空義，斬頭無血，香乳流出。自此已後，傳法者唯傳心地，應緣惡王之難矣。舍那婆斯多第二十四。優波掘第二十五。婆須蜜第二十六。僧伽羅叉第二十七。菩提達磨第二十八是南天國王第三子。少小出家，依師下悟如來禪，三乘三藏無不曉達。然志在妙理，冥心虛寂，於南天大作佛事。觀此土有大乘種，又作是念：東震旦國佛記後五百歲，般若智燈運光於彼。遂囑弟子〔般〕若蜜多羅住天竺，傳法不絕，自身遂來漢國也。達磨至此，方當第一。初至梁朝，機緣未合。過至魏朝，遇慧可斷臂授法，并一領袈裟以充印信，定其宗旨。語可曰：漢地得入聖位者，與金剛、楞伽相應。又曰：我法至六代後，命如懸絲。大師門下又傍出道育及尼總持。慧可第二。博學經史，高節至道。鄴都化導三十餘年，遭難非命，年一百七。僧璨第三。付法了，佯狂託疾，後於〔峴〕山齊場樹下立而終焉。道信第四。長坐，脇不著席，敕追不入。傍出牛頭一宗，乃至徑山。弘忍第五。少小事師，後居馮墓山，廣開教法，學徒千萬，時號東山法門。於中久在左右，見解明利者，即荊州神秀、潞州法如、襄州通、資州智詵、越州義方、華州慧藏、蘄州顯、揚州覺、嵩山老安等十人。大師記云：各堪為一方師。後有嶺南盧行者，年二十二，來大師門下，令為眾舂米八箇月。因呈偈了性，遂付衣鉢，令歸嶺南傳法。自此便有南北二宗也。慧能第六。歸嶺南十七年後，方始出家。印宗法師請開禪法，神龍元年敕請不入。神會第七。頂異凡相，骨氣殊眾，聦辯難測。先事北宗秀三年，因秀奉敕追入，遂往曹溪門下，答無住為本，見即是性。杖試諸難，夜喚審問。兩心既契，師資道合。後又北遊，廣其聞見，上都受戒。景龍年中，却歸曹溪。曹溪知其純熟，遂密授語。緣達磨懸記，六代後命如懸絲，遂不令法衣出山。和尚行門增上，苦行供養，密添眾瓶，斫氷濟眾，負薪擔水，神轉巨石，然燈殿光，誦經神衛，律窮五部，禪感紫雲。因洛陽詰北宗傳衣之由，乃滑臺演兩宗真偽，便有難起，開法不得。然能大師滅後二十年中，曹溪頓旨，沈廢於荊吳；嵩嶽漸門，熾盛於秦洛。普寂禪師謬稱七祖二京法主、三帝門師，朝臣歸崇，敕使監衛。雄雄若是，誰敢當衝？嶺南宗途，甘從毀滅。法信衣服，數被潛謀；傳受󳬴文，兩遭磨換。荷澤親承付囑，詎敢因循？直入東都，面抗北祖，龍麟虎尾，殉命亡軀。俠客縣官，三度幾死；商旅縗服，百種艱難。達磨懸絲之記，驗於此矣。因淮上祈瑞，感炭上生芝草，士庶咸覩，遂令建立，無退屈心。又因南陽答王、趙二公，三車義名，漸聞於名賢。天寶四載，兵部侍郎宋鼎請入東都。然正道易申，謬理難固。於是曹溪了義，大播於洛陽；荷澤頓門，派流於天下。然北宗門下，勢力連天。天寶十二載，被譖聚眾，敕黜弋陽，又移武當郡。至十三載，恩命量移襄州。至七日，又移荊州開元寺。皆北宗所致也。然彼宗主，必無此心。蓋是門下凡愚，競於彼我也。至乾元元年四月後，頻告門人，令數問法再三，深歎無為一法。五月十三日中夜示滅，年七十有五。二年，遷厝於東京龍門置塔。寶應二年，敕於塔所置寶應寺。大曆五年，敕賜祖堂額，號真宗般若傳法之堂。七年，敕賜塔額，號般若大師之塔。貞元十二年，敕皇太子集諸禪德，楷定禪門宗旨，遂立神會禪師為第七祖。內神龍寺敕賜󳬴記現在。又御製七祖讚文，現行於世。緣第七代是中興之主，故具敘之。從第七代後，不局一人。法宗既立，普令霑洽。初且局者，順世規矩。世諦之法，多止於七，經教亦然。如此方七代先亡，或令持念一七、二七，乃至多七。請僧之數，亡人齋數，每事皆七。乃至祖有七佛，國有七廟之類也。儀式既成，故各令流布。疏燈。燈者，維摩詰言：我法名無盡燈。譬如一燈，然百千燈，瞑者皆明，明終不盡。且如第七祖門下，傳法二十二人，且敘一枝者。礠洲法觀寺智如和尚，俗姓王。礠洲門下成都府聖壽寺唯忠和尚，俗姓張，亦号南印。聖壽門下遂洲大雲寺道圓和尚，俗姓程。長慶二年，成都道俗迎歸聖壽寺，紹繼先師，大昌法化，如今現在。當代法主，兩歸心

疏然所下，二、敘法要。謂已列能傳之人，今正敘所傳之法也。文二：初、總標，如文。疏無定下，二、別釋二：初、釋定、慧一對。然定、慧正是所悟、修之道，頓、漸是修之儀式。所修之道有正，有助。定、慧是正道，餘萬行皆是助道、助定、慧故。故華嚴云：譬如有力王率土咸戴仰定慧亦如是菩薩所依賴。諸教非一，悟、修是解行，頓、漸通於悟、修。無定已下，明互闕之失。謂無定之慧，慧是狂慧，如風中燈，如搖動水；無慧之定，定是愚定，如悶絕無心，如枯杌無識。又偏修定，增長無明；偏修慧，增長邪見。故涅槃云：聲聞定力多故不見佛性菩薩慧力多故見不了了。此二雙運下，等學之益，亦如涅槃說也。兩足尊者，福、智圓滿。定是福體，慧為智本故也。止觀者，天台有大止觀十卷，小止觀二卷。二卷者，序云：止乃伏結之初門，觀是斷惑之正要，止是長養心識之善資，觀是照察神解之妙術，止是禪定之勝因由止萬緣，故心定也，觀是智慧之由籍由觀察諸法，故慧力成就。

▲疏其頓下，二、釋餘兩對。初一句標。然悟與修，皆通頓、漸。又悟有解悟、證悟，修有隨相、離相。謂初因解悟，依悟修行，行滿功圓，即得證悟，此為真正。若各隨根悟及諸師友方便施設，先後無定。疏有八對下，當配之。

疏頓悟漸修為解悟者，初對也。如慧日頓出，霜露之惑漸銷。又如孩子初生，六根、四肢、百節頓具喻性上恒沙功德也，乳哺、飲食、養育漸漸成長，出身入仕喻萬行資莊，報化圓滿也。此悟在初，故屬解悟。悟後之修，即具隨相、離相，理、事雙修若未悟而修，即著相。故功行圓滿，必有證悟，即屬後對。疏漸修頓悟下，後三對證悟也。初言漸修頓悟者，此有二意：一者、即前悟解之漸修，修極故證；二、則從初便漸修。如諸聲聞等，因四十年前漸修三乘教行，故靈山會中聞法華經，疑網頓斷，心安如海，授記成佛。如人伐木，千斧、萬斧漸斫倒，即一樹頓倒。又如從邊遠之境入於京都，數月，步步漸行；入大城門之日，一時頓到。故天台大師數年修鍊，百日加功用行，忽然證得法華三昧旋陀羅尼門，於一切法，悉皆通達，即其事也。北宗漸教，意見如此。然多入二乘之境，難得圓證故。疏頓修漸悟者，雖聞圓教，信證圓法，根性遲鈍，不得頓悟。雖不頓悟，而樂欲情殷，深崇頓理，頓發大心，頓絕諸緣，頓伏煩惱。由此加行，漸漸得悟。悟即是證，不唯會解。如人磨鏡，一時徧磨一面，終不從一分一寸致功。然塵埃，則漸漸而去漸淨；明相，則漸漸而顯漸照。又如學射，初把弓矢，便注意在的喻發無上菩提心也，不故作親疎、遠近節級不先發十信，次十住等也。然不免經千百日，射億萬箭，方漸漸親近，乃至百發百中。疏漸修漸悟者，謂信本性圓滿，而猶計有業惑障覆，故勤拂磨鏡塵，漸悟心性。如注所引喻也。足履喻修行，所鑒喻證悟也。若對下，頓斷煩惱斬絲之喻。此如斬竹，節節不同也。疏並為證悟者，總結上三對也。疏若頓悟頓修下，三對悟、修皆頓。但以或互先、後，或同時，故成解、證之異。初標頓悟頓修。以斬染綟絲為喻者，斬如頓悟，煩惱本無，即名為斷；如一綟之絲，不勝一劒，而頓斷故此是荷澤所舉之喻。染如頓修，頓稱性上恒沙功德，念念無間而修；如染一綟之絲，千條、萬條，一時成色。故清涼大師心要云：心心作佛，無一心而非佛心；處處道成，無一塵而非佛國。又行願疏云：行即頓修，位分因、果。皆是頓修之義。疏謂先悟後修等者，初對也。如注所釋，謂由頓了身、心、塵、境皆空，故不著諸相，不證心性，心性本不動故；又由頓了恒沙功德皆備，故念念與之相應，名為合道。由悟於先，故當解也。疏先修後悟等者，次對也。謂由頓絕諸緣等云云，如上所引，故得心地豁開。以根欲勝，故不同前頓修漸悟也。注以修如服藥者，一服頓喫良藥也；悟如病除者，忽然得汗，四肢、百節一時輕涼也。不取漸漸平復之意，以悟在後，故當於證。然此證、解亦無二相。疏修、悟一時通解、證者，後對也。謂以無相為修，分明為悟。悟即慧也，用也；修即定也，體也。荷澤云即體而用自知等，注中取意，引心要也。具云：無心於忘照，則萬累都捐；任運以寂知，則眾行爰起。今但各取上句，故一悟一修。心要又云：一念不生，前、後際斷。即頓修也。照體獨立，物、我皆如。即頓悟也。荷澤云：一切善、惡都不思量，言下自絕念、想。修也。正無念、想，心已自知。悟也。疏即通解、證者，此有二意：一者、如上釋云：證、解亦無二相，故二皆通。謂即證，即解，即解，即證。二者、或是證，或是解。謂頓了、頓息，即為解、悟；頓盡、頓覺，即為證、悟。如大夢覺，覺名頓覺，夢必頓盡故。如佛地論說，下當具釋也。疏若本具下，第八、一對也。結云：通解、證也。亦含二意，如次上說。初義可知，後義應釋。約解釋者，但取無漏本覺為悟，不加覺了之心；但取性上功德為行，不待息心為行。注中飲字、得字，皆喻與之相應。約證釋者，即始覺合本之時，無別始、覺之異。故華嚴宗說：新成舊佛，舊佛新成。成時但是本本之真，不見新新之相。悟、修皆爾。故華嚴說：成佛時，必與一切眾生同體俱成。又云：成與不成無差別者，正由不取新成之虗相也。

疏此圓下，三、會此經也。文有標、釋。釋中但檢教起因緣門中及下銷文處取相應之義敘之，今亦不能重述。然此中言證，但取觀行相應之時現量所見，即名為證，不必聖果。

疏此等下。三、通妨難。謂有難云：前權、實對辨，已廣明頓、漸等教，何得今又重說？故為此通也。

疏苟得下，四、結勸修。言皆成定、慧者，謂定、慧有有作、無作、自性三種不同，故頓與漸皆相當也。故荷澤說三種三學：有作三者，約諸惡不作等云云；無作三者，妄心不起是戒，無貪、瞋、惱、嫉等也，本無妄心是定無思、覺等，知心無念是慧不落無記空也；自性三者，謂空、寂、照如次配之，空是離四相、絕百非之義，故配戒也。餘二可知。言妄想者，無定之慧也；言無記者，無慧之定也。此但是冥冥無所揀擇而為無記，不唯揀於善、惡說無記也。言審而修之者，此門意在於行，不圖知解而已，故勸云修之，不云學之。此第八門多依清涼大師奉勅所製華嚴疏，懸談十門中修證淺、深門及諸宗禪門、諸經禪要而敘之。

## 圓覺經略疏之鈔卷第四