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title: "觀無量壽經直指疏 · 四教義分齊"
description: "清代续法大师所集《觀無量壽經直指疏》是净土宗重要注疏之一。续法大师为清初高僧，精研华严与净土教义。此疏以天台宗思想为基础，逐层阐释《觀無量壽經》的十六观法要义，系统论述往生净业的修行次第与心性观照法门。其内容深入经藏，融合教观，指引修行者通过观想念佛契入弥陀愿海。该疏在佛教史上具有较高权威性，是研究净土宗教理及实修的重要文献，为历代净业行人所推崇。"
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### △四、教義分齊

> 四、教義の体系

四、教義分齊者，開二：

> 四、教義の体系について、二つに分けて述べる。

先約教詮法通局顯分齊教相，有五：初、小乘教，但說我空不顯法空故；二、大乘始教，但說法空未能盡理故，亦名分教，但說法相有不成佛故；三、終教，明如來藏方盡極說故，亦名實教，悉當成佛稱真實理故；四、頓教，唯辨真性不談法相故；五、圓教，法界性海緣起無盡故。今此經者屬後三教，是心作佛終也，是心是佛頓也，佛法界身入一切眾生心想中圓也。

> まず、教えの内容とその範囲を明らかにし、教えの相（特徴）を分けて示すと、五つに分けられます。 第一は小乗教。これはただ「我（が）が空（くう）である」と説き、「法（ほう）が空である」ことを明らかにしていません。 第二は大乗始教。これは「法が空である」と説きますが、まだ道理を尽くしていません。また「分教」とも呼ばれ、ただ法の相（姿）を説くため、すべての者が仏になるとは説かないからです。 第三は終教。これは如来蔵（にょらいぞう）を明らかにし、ようやく究極の説き方を尽くします。また「実教」とも呼ばれ、すべての者が仏になることを説くので、真実の道理にかなっているからです。 第四は頓教。これはただ真実の本性を弁じ、法の相については論じません。 第五は円教。これは法界（ほっかい）の性海（しょうかい）が縁起（えんぎ）して尽きることがないことを説きます。 さて、この経典は後の三つの教え（終教・頓教・円教）に属します。 「この心が仏を作る」というのは終教であり、 「この心こそが仏である」というのは頓教であり、 「仏の法界身が一切

次、約法生起本末顯分齊。法義亦五：初、唯一心為本源。所言法者，謂眾生心，是心則攝一切世間、出世間法，即華嚴一真法界無障礙心，圓教也。二、依一心開二門：一者、心真如門，所謂心性不生不滅，頓教分齊也。始教中空義，亦是密說此門，以空宗人不知如來遣相處以為顯真性，故非彼分。二者、心生滅門，依如來藏故有生滅心，所謂不生不滅與生滅和合，非一非異，名為阿梨耶識，終教分齊也。分教中識義，亦是密說此門，以相宗人不知佛說如來藏以為阿賴耶，故非彼分。三、依後生滅門明二義：一者、覺義，謂心體離念等虗空界；二者、不覺義，謂不如實知真如法一。故破相宗齊此覺義，以為清淨本然之地。以彼宗未明真空相即真如心性，故說諸法無不是空，縱有一法勝涅槃者，我亦說為如幻如夢，凡所有相皆是虗妄。離念相者即是法身，依此法身說名為覺。故空宗詮法，唯齊覺義。四、依後不覺義生三細：一者、業相，二者、轉相，三者、現相。唯識宗齊此業相，以為諸法生起之本。以彼宗未明此三細等，與真如同以一心為源，故說真如無知無覺，凝然不變。不許隨緣，但說八識生滅。縱轉成四智，亦唯是有為，不得即理。故相宗詮法，唯齊業識。五、依後現相生六麤：一者智相，法執俱生也。二者相續相，法執分別也。三者執取相，我執俱生也。四者計名字相，我執分別也。上四皆惑道。五者起業相，業道也。六者業繫苦相，苦道也。小乘教唯齊第三，但斷我執，未證法空故。人天乘唯齊第五，但知善惡業相，不識二執惑故。下文明法界無盡身佛，圓演三心六念百千陀羅尼法，即一心總相法也。徧滿虗空中大身佛，純說甚深第一義諦，即真如也。無量無邊高出一切世界上身佛，具說大乘實相因果，即生滅也。高六十萬億那由他真實身佛，說大乘般若，發無上道心，即覺不覺義也。高恒河沙由旬具足身佛，說百法明門，住歡喜等十地，即三細義也。丈六身佛，說四諦門，具足戒法，即齊執名義也。八尺身佛，讚歸戒孝養仁慈善法，即齊業苦義也。此經通詮本末，義理深廣明矣。

> 次に、法の生起の本末を明らかにし、その範囲を示す。法の意義も五つある。 第一に、ただ一心を本源とする。ここで言う「法」とは、衆生の心を指す。この心は一切の世間法と出世間法を摂するものであり、すなわち『華厳経』の一真法界、無障礙の心であり、円教に相当する。 第二に、一心に依って二つの門を開く。 一、心真如門。これは心の本性が不生不滅であることを指し、頓教の範囲である。始教における空の教義も、密かにこの門を説いたものである。ただし、空宗の人々は、如来が相を遣わして真性を顕わすことを知らず、故に彼らの範囲ではない。 二、心生滅門。如来蔵に依って生滅心がある。すなわち、不生不滅と生滅が和合し、一でも異でもないものを阿梨耶識と名づけ、終教の範囲である。分教における識の教義も、密かにこの門を説いたものである。ただし、相宗の人々は、仏が如来蔵を説いて阿頼耶識としたことを知らず、故に彼らの範囲ではない。 第三に、後の生滅門に依って二つの意義を明らかにする。 一、覚義。心の本体が念を離れ、虚空界のごとくなることを指す。 二、不覚義。真如の法が一であることを如実に知らないことを指す。 破相宗はこの覚義までを清浄本然の境地と見なす。彼らの宗は、真空が真如の心性と相即することを明らかにしていないため、諸法はすべて空であると説く。たとえ涅槃に勝る一法があっても、我はそれを幻や夢のごとしと説き、凡ての相は虚妄であるとする。念を離れた相こそが法身であり、この法身に依って覚と名づける。故に空宗が法を説く範囲は、覚義までである。 第四に、後の不覚義に依って三細が生じる。 一、業相 二、転相 三、現相 唯識宗はこの業相までを諸法生起の根本と見なす。彼らの宗は、この三細などが真如と同じく一心を源とすることを明らかにしていないため、真如は無知無覚で凝然不変であると説く。随縁を許さず、ただ八識の生滅を説く。たとえ四智に転じても、それは有為のものであり、理に即することはできない。故に相宗が法を説く範囲は、業識までである。 第五に、後の現相に依って六麁が生じる。 一、智相（法執が倶生する） 二、相続相（法執が分別する） 三、執取相（我執が倶生する） 四、計名字相（我執が分別する） 上の四つはすべて惑道である。 五、起業相（業道である） 六、業繫苦相（苦道である） 小乗教は第三までで、ただ我執を断じ、法空を証していない。人天乗は第五までで、ただ善悪の業相を知り、二つの執着の惑を知らない。 下文に明かす法界無尽身仏は、円満に三心六念百千陀羅尼の法を演じ、すなわち一心の総相法である。虚空に遍満する大身仏は、純粋に甚深第一義諦を説き、すなわち真如である。無量無辺で一切の世界より高い上身仏は、大乗の実相因果を具足に説き、すなわち生滅である。高さ六十万億那由他の真実身仏は、大乗般若を説き、無上道心を発し、すなわち覚と不覚の意義である。高さ恒河沙由旬の具足身仏は、百法明門を説き、歓喜などの十地に住し、すなわち三細の意義である。丈六身仏は、四諦門を説き、具足戒法を備え、すなわち執名義までである。八尺身仏は、帰戒孝養仁慈善法を讃え、すなわち業苦義までである。 この経は本末を通じて説き、その義理が深く広く明らかであることが分かる。