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title: "涅般道大手印瑜伽法要釋 · 本文"
description: "涅般道大手印瑜伽法要釋是藏传佛教重要论典，由白莲花造论，光明心尊者注释。该论形成于西藏佛教后弘期，属大手印法门核心教法之一。内容系统阐述实相大手印的见地、修持与证果，强调直观心性、解脱轮回的禅修次第。其在噶举派中具有崇高地位，被视为实修指导的权威释论，对藏传佛教心性哲学与瑜伽实践影响深远。"
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甲一　禮敬

> 南無の礼拝をささげます。

頂禮寶貴白系歷代上師

> 尊き白系歴代上師方に、心より敬礼いたします。

甲二　本文分二乙一　所造文體　乙二　造文因緣今初

為方便凡俗連續之能知，使之面對聖智故，此中闡明修法引導，名曰俱生大手印瑜珈，計分為三，　丙一　入門教言，　丙二　本文要義，　丙三　結述。

既習瑜珈禪定，則凡心已與聖心相應，換言之，凡俗識體，已與超常大宇宙識體，訴合無間。此時人能如實了知本來面目，當下證悟能知所知與一切種智，本為一體，不可分離。悟證之時，大手印頓與俱起，大手印者，密示心靈妙明之境也。大手印譬諸點金石，無明汙垢，可藉之自心滌除。蓋心經瑜珈冶鍊，則凡也轉而為聖矣。

本文名為修法引導者，以能指示行道者趨登圓覺湼般而解脫之道故，非俟凡我與勝我冥合，不能滅除人生之幻妄。且非俟妄塵之滅，不能徹悟所謂能知之連續，宛然無起無盡，與一切種智永合一體。夫如是始可謂為轉凡成聖，而面對聖智也。

丙一　入門教言分二丁一　世間教言　丁二　出世教言今初

世間教言，具如他處所明。

世間教言，即係經論所載，指示在家居士崇高之生活規範。一經發心出家入道，則世間或顯義教言，已無必要。頓即開始接受出世或密義教言，固非未啟明之羣眾所能心領意會也。

丁二　出世教言分六戊一　皈依發心與上師相應　戊二　七支禪坐　戊三七支禪坐之果　戊四　語清淨　戊五　意清淨　戊六　四念處今初

出世教言，以皈依，發心，及與上師相應，為發端。

喬答摩如來，獲得無上勝利，為歷史上至足尊崇之典範，宜乎佛教徒依為歸宿，奉若導師。學佛者踐其往跡以入於道，應具信仰之心，信仰心者，固入道者之第一要需也。若於可期成就之目的，不具信仰，則入道必不可能。是以必須按學佛初規，於入道之始，行相當儀式，以表信仰之誠。藏中僧侶，亦遵此規，并採用五步儀軌如左。

（一）西藏皈依長文。　文之開首最要部份，約等於南方佛教之短三皈文，文為：

深荷上師　居間加持，　謹皈依佛，　謹皈依法，　并復皈依　僧侶之眾。

（二）發心簡文：

某今發心　證得佛果，　藉助眾生　悉登佛位。

> 私は今、心を起こし、仏の悟りを証得し、すべての生きとし生けるものを助けて、皆を仏の位に導きます。

（三）觀想禪定佛金剛薩埵，并誦百字明，以懺惡業。

> （三）金剛薩埵の姿を心に描き、百字明を唱えて、悪業を懺悔します。

（四）供奉曼達，以表整個棄絕人寰，厭惡輪迴之意。

> （四）マンダラを捧げることで、この世のすべてを手放し、輪廻を厭う心を表します。

（五）與上師相應。　觀想歷代上師，一一禪坐，層纍而上，世間上師則懸坐行者之頂，餘則依傳承次第，一一頂接，最上為天上上師金剛持尊。（見中有聞教得度密法附譯遷升靈識瑜珈密法）

> （五）上師との心のつながりを深める。 歴代の上師たちを思い描く。一人ひとりが静かに座り、幾重にも重なるようにして上にいる。現世の上師は修行者の頭上に浮かぶように座り、残りの上師たちは伝承の順に従って、一人ひとりが次の者の頭上に重なる。最も上には、天の上の上師である金剛持尊がおられる。 （『中有聞教得度密法』付訳『遷昇霊識瑜伽密法』より）

戊二　現證毗盧遮那論云：

> 毘盧遮那経の注釈書には、次のように説かれています。

端直其身，　坐金剛座，　專繫一緣，　為大手印。

> 身体をまっすぐにし、金剛座に座り、一つのことに心を集中しなさい。それが大印（マハームドラー）です。

七支禪坐梵名阿洒那，（Asana）其功用在制止人體內某種靈流，使為修習瑜珈之極大裨助。能令體質柔順耐勞，并可消除形體不適狀態，愈諸疾病，即身心亦為之寧靜。現證毗盧遮那論者，藏土關於瑜珈之著作，示人悟證萬法皆幻之道。毗盧遮那為位居中央之禪定佛。法界或根本智，其象徵也。與之相應，可現證人生之真實性。

> 座禅の姿勢はサンスクリット語でアーサナと呼ばれ、体内の特定の霊的な流れを整える働きがあります。これはヨガの修行において非常に役立ち、身体を柔らかく疲れにくくし、不快な状態を取り除いて様々な病気を癒し、心身を穏やかにします。 『毗盧遮那現証論』は、チベットにおけるヨガに関する著作で、すべての現象が幻想であることを悟る道を示しています。毗盧遮那は中央に位置する禅定の仏であり、法界、すなわち根本的な智慧を象徴しています。これと対応することにより、人生の真実の姿を現に証することができるのです。

藏僧所持之金剛杵，猶帝王之圭笏。金剛座者，心身平衡之坐式，以金剛之平衡喻之。

> チベットの僧侶が持つ金剛杵（こんごうしょ）は、ちょうど王が持つ圭笏（けいしゃく）のようなものです。また金剛座（こんごうざ）とは、心と体のバランスを整える座り方であり、金剛のように揺るぎない調和を象徴しています。

準此，雙足應作佛座之式。

> このように、両足を組んで仏の座り方とすることができる。

雙足作金剛式，即通常佛像雙足交叉之式，印度稱為蓮座。

雙手平衡，置於臍下。

> 両手のバランスをとり、おへその下に置きます。

此為禪坐之式，雙手展開，掌心向上，平置臍下，兩中指尖相觸，兩大指緊附二指末節之下。

> これが坐禅の時の手の組み方です。両手を広げて、手のひらを上に向け、おへその下に置きます。両方の中指の先を触れ合わせ、両方の親指は人差し指の第二関節の下にしっかりつけます。

脊柱勁挺，胸部前突。

> 脊柱をまっすぐに伸ばし、胸を前に出す。

胸部前突時，兩肩應向後。

> 胸部を前に突き出すとき、両肩は後ろに引くようにしましょう。

屈頸如鈎狀，下頦緊壓喉結，舌抵上顎。

> 首を曲げて鉤（かぎ）のようにし、あごを喉仏（のどぼとけ）にしっかり押し付け、舌先を上顎（うわあご）につけます。

真喜主大師（梵名司哇米薩底耶難達 Swamia Satyananda 見序文）以此節教言不甚完全，曾來函評正云：舌不宜抵顎，實應捲而向上，使舌尖屈曲若鈎，貼於鼻之內孔入處，并緊壓之，如拴塞孔，如是練習，名為愷察利印，（Khechari Mudra）蓋瑜珈行者坐禪時，非此罕能證入寧靜狀態也。迨至初學瑜珈者得有若干進程時，愷察利印，即不再需要。練習之法，先須調舌，漸使加長，以舌經摩挲後，引而伸之，自能加長也。多數瑜珈行者，復往往須於數月之內，將舌底筋膜，逐漸使離舌根，方能遂其練習愷察利印之願。動物之所以能蟄伏者，正以用舌閉住鼻孔之故。瑜珈行者藉此法，亦力能停止體內氣流。結果，精神壽命均賴以保持，然於心靈進程，則毫無裨助。人體之純物質與心靈功能，惟有以瑜珈法門調伏之，方能為克制劣我之助也。

> 真の主である大師（梵名スワミ・サティヤナンダ。序文参照）は、この節の教えが完全ではないとして、書簡で次のように指摘されました。「舌は上顎に付けるべきではなく、実際には上向きに巻き、舌尖を鉤のように曲げて、鼻の内孔の入り口に密着させ、栓を詰めるように強く押し付けるべきである。このように練習する方法をケチャリ・ムドラー（Khechari Mudra）と呼ぶ。なぜなら、ヨガ行者が坐禅する際、これを用いなければ、静かな状態に至ることは稀だからである。そして、初心者のヨガ行者がある程度の進歩を遂げたならば、ケチャリ・ムドラーはもはや必要なくなる。練習方法としては、まず舌を調整し、徐々に長くしていく。舌を揉んだり撫でたりした後、引き伸ばすことで、自然に長くなる。多くのヨガ行者は、さらに数ヶ月のうちに、舌の裏側の筋膜を徐々に舌の根元から引き離して初めて、ケチャリ・ムドラーの練習をしたいという願いを遂げることができる。動物が冬眠できるのは、まさに舌で鼻孔を塞ぐからである。ヨガ行者はこの方法によって、体内の気の流れを止める力も得る。結果として、精神と寿命は共に保たれるが、心の進歩には全く役立たない。人体の純粋な物質と心の機能は、ただヨガの方法で調伏することによってのみ、低い自己を克服する助けとなるのである。」

心流常隨感覺而起，以感於外物者為甚，是以目勿轉瞬，或勿遷動，惟應注視一處，約當於五英尺有半之距離。

> 心の流れは、常に感覚に従って生じます。特に、外の物に触れた時に強く起こります。ですから、目は瞬きせず、また動かさないで、ただ一箇所をじっと見つめなさい。その距離は、おおよそ五フィート半ほどがよいでしょう。

原文為等於牛軛之距離。牛軛者，印度尺度，依據兩牛間橫軛之寬度而定。兩牛間之距離，約為五英尺有半。

> 牛の首に架けるくびき（牛軛）の長さに等しい距離のことです。インドの尺度で、二頭の牛の間にあるくびきの幅をもとにしています。その距離は約一メートル七〇（五フィート半）ほどです。

上乘七支禪坐，名曰毗盧遮那七法，（亦即了解心物過程之七法）。所謂調整身體以深入禪定之五重法式，即由此成立。

> 上乗の七支禅坐は、毘盧遮那の七法（すなわち心と物質の過程を理解する七つの方法）と呼ばれています。そして、身体を整えて深い禅定に入るための五重の方法も、これに基づいて成立しています。

戊三　雙腿交叉，調節入息。

> 両脚を組み、息を吸うことに意識を向けて調整する。

下行之氣。

> 下の方へ向かう気（エネルギー）があります。

雙手平衡，體內熱流勻布。

> 両手のバランスが整い、体内の熱が全身に均等に行き渡る。

傳溫度於遍體之氣。

> 全身に熱を伝える息。

脊柱勁挺，胸部前突，調節腦液，普及全身。

周徧傳布之氣。

> 周りに広く行き渡る気

屈頸調節出息。

> 首を少し曲げて、息を調えて吐き出します。

上行之氣。

> 上行の気

舌抵上顎，目注一處，靈熱入於中脉。

> 舌は上顎に軽く触れ、視線は一点に向けます。すると、霊的な熱が中脈へと入っていきます。

靈熱者，保持壽命之氣。

> 霊熱とは、寿命を保つ気のことです。

上來五種氣流係指體內機能運行之力，歐西生理學尚無適當術語，梵名為缽若那（Prana 見中有聞教得度密法附錄）

> ここまで述べた五種の気流とは、体内の機能を動かす力のことです。西洋の生理学には、これにふさわしい用語はまだありません。サンスクリット語ではプラーナ（Prana）と呼ばれています（『中有聞教得度密法』付録参照）。

中脉者人體靈熱經過之主要孔道，逕自脊柱中心伸出，支末靈脉，由此分枝。心物賴以運行之靈熱，即自各靈脉分佈，流入蓮穴。（詳見仝書）

> 中脈とは、人体の霊熱が流れる主要な経路であり、脊柱の中心から真っ直ぐに伸びています。末端の霊脈は、ここから枝分かれしています。心と物質を動かす霊熱は、各霊脈を通じて広がり、蓮の穴へと流れ込みます。（詳しくは同書を参照）

如是五種氣流，既入中脉，專司其他機能之氣流，同時亦入。爾時智起，入於捨念樂住，名為心清淨，或身無動，或身住本性。

> この五種類の気の流れが中脈に入ると、他の機能を司る気の流れも同時に流入します。その時、智慧が生じ、すべての思考や感覚から離れた至福の境地に入ります。これを「心の清らかさ」と呼びます。あるいは「身体の動きが止まる」「身体が本来の性質に留まる」とも表現されます。

消化，分泌，血液循環，心念運行，感覺，等機能之進程，即為其他氣流之作用。

> 消化、分泌、血液循環、心の働きや感覚といった機能の進行は、実は別の気の流れが作用していることによって営まれているのです。

身之本性，如一切法之本性，為滿分清淨之境。

> 身の本質は、あらゆる事柄の本質と同じく、完全に清らかな状態です。

戊四　出息既盡，止息出入，名為語清淨，或語不動，或語住本性。

> 第四に、息を吐き尽くして出入りを止めることを「言葉の清らかさ」「言葉の動かない状態」「言葉が本来の性質に留まること」と呼びます。

勿思過去，　勿思當來。　亦毋作念　正坐禪關。　所觀真空　切毋視若　無物之空。

> 過去を想うな。未来を想うな。また、今まさに坐禅に専念するその瞬間にも、心をとどめてはならない。観ずるべき“真空”を、何もない虚無のように見なしてはならない。

真空，梵名薰牙塔，（Shunyata）非指無物之空，但為如如之境，亦即真如，蓋萬象所自萬有之因也。非依世俗經驗安立之名言所可銓釋。彼心靈未啟迪者，遂視為無物之空耳。

> 空性——梵名シューニャタ（Śūnyatā）——は、何もない空っぽを指すのではありません。それは、あるがままの境地、すなわち真如（しんにょ）であり、あらゆる現象が生じ、あらゆる存在の原因となるものです。この空性は、日常の経験に基づいて作られた言葉や概念で説明できるものではありません。心がまだ目覚めていない人は、これをただ「何もない空虚」と誤って捉えてしまうのです。

爾時，切勿嘗試推究感官所緣之境，為是為非。至少應在少分時間內，保持禪觀，勿任間斷。令身安靜，恰如嬰孩酣睡之狀，同時使心住於本性，（勿任心念流轉也）。

> その時、感覚の対象が正しいか正しくないかを追究してはならない。少なくともしばらくの間は、静かな観想を保ち、中断させてはいけない。身体を赤ん坊がぐっすり眠っているかのように静かにし、同時に心を本来の性質に留めなさい（心がさまよってはいけない）。

謂是謂非，即落兩邊，非菩提道所謂之中道也。

> 「これが正しい、これが間違っている」と決めつけることは、即ち両極端に落ち込むことであり、菩提の道における中道とは言えません。

戊五　古聖遺教云：

> 古の聖者の遺した教えにこうある。

心毋起念，　亦毋造像。　體常󵼣靜，　如嬰酣睡。謙溫虔敬，　遵師教法。　俱生之境，　證取無疑。

> 心に念を起こさず、像を造ることもない。その体は常に静かで、まるで嬰児が深く眠るかのようだ。謙虚で温かく、敬虔な心で師の教えに従う。生まれながらの境涯を、疑いなく証得する。

證取俱生之境，即修習大手印瑜珈之目的。

> 俱生の境地を証得することが、大手印ヨガを修行する目的です。

諦洛巴祖師云：

> ティロパ祖师はこう語っています。

勿作意，　勿思維，　勿推究，　勿觀想，　勿憶念。　心安住　本性境。

> 心を働かせるな。考えるな。詮索するな。想像するな。思い出すな。心を、本来の状態に安らかに置け。

正法大師月光青年云：心不外馳，為一切佛所踐之道。

> 正法の大師・月光青年はこう説かれました。「心を外に向けて散らさないこと――これこそが、すべての仏が歩まれた道である。」

正法大師月光青年，指岡巴波上師，又名達波拉傑，即白教第二代祖師密喇熱巴尊者之傳缽弟子。「古德寶訓」即岡所纂集。

> 正法の大師、月光の青年。岡波巴上師、またの名をダポ・ラジェといい、白教第二代の祖師ミラレパ尊者より法を継いだ弟子です。「古德寶訓」は、岡波巴によって編纂されたものです。

上來所引教言，名為意清淨，或意不動，或意住本性。

> ここまで引用した教えの言葉は、「心の清らかさ」、あるいは「心の動かないこと」、または「心が本来の性質に安住すること」と呼ばれるものです。

心不外馳者，含有身語意三業滿分清淨之意。按諸此中瑜珈行法，身語意三，互相倚托，不可分離。於此，應知藏文「納爾倦」（Rnal-byor）之一字，等於梵文之瑜珈，惟不若瑜珈之以「相應」為義，而解作滿分清淨，即善巧於靜慮也。

> 心が外に散らないということは、身・口・意の三つの業が完全に清らかになることを含んでいます。ここで行うヨガの修行法について考えると、身・口・意の三つは互いに支え合い、切り離せないものです。ここで理解すべきは、チベット語の「ナルジョル」（Rnal-byor）という言葉が、サンスクリット語のヨガに相当しますが、ヨガのように「調和する」という意味ではなく、「完全な清らかさ」と解釈され、つまり瞑想に巧みであることを意味するということです。

戊六　龍樹菩薩白王言，勗哉大王，已知四念處實為諸佛所行惟一之道，宜於一切時，注視念處，保持不懈，以於此沉掉，一切行法無有用處故。

> 龍樹菩薩が王に申し上げた。「大王、よくお聞きください。すでに四念処が、諸仏の歩むただ一つの道であると知られました。ですから、どのようなときにも、この念処に心を留め、たゆまず保ち続けてください。なぜなら、ここにおいては心の沈みや浮つきに対して、他のいかなる行法も役に立たないからです。」

藏僧相傳，龍樹降生於西歷紀元前一世紀，或為在世尊涅般後四百年之時期，住世共六百年。當紀元後二三世紀之時，仍在世間說法。此後據云退隱南天竺，為國王說修法之門。王敬愛供養，奉若國師。本節所引，即菩薩說法原文也。菩薩首闡中道教法，藏土佛學，深荷影響，終演變為北方佛教論藏大智度論之中心義理。

> チベットの僧侶に伝わる話によれば、龍樹は西暦紀元前一世紀、すなわち釈尊が涅槃に入られてから約四百年後に誕生し、世に在ること六百年であったと言われています。紀元後の二～三世紀にも、なお世に在って法を説いていました。その後、南インドに隠棲し、国王のために修行の法門を説かれました。王は敬愛して供養し、国師として尊崇しました。ここに引用するのは、まさに龍樹菩薩が説かれた原文です。菩薩はまず中道の教えを明らかにされ、チベット仏教は深くその影響を受け、やがて北方仏教の論蔵である『大智度論』の中心的な教義へと発展していったのです。

國王名勇日，梵名（Vakramaditya），藏土稱為德卓贊波（Dechod-Zangpo），信崇佛法。菩薩說法時，意在勗勉國王，心注四念處之重要，四念處者，可比之梵語之（Smritis），此翻為念，分別為四。（一）身念處，即觀身性空。（二）受念處，觀五受陰，空無所起。（三）心念處，觀諸法不生不滅。（四）不絕注視前三處行法，是以名為修法之門。

> 勇日という名の王がいました。梵語（サンスクリット語）ではヴァクラマディティヤ（Vikramaditya）、チベットではデチョク・ザンポ（Dechod Zangpo）と呼ばれ、仏法を深く敬い信じていました。菩薩が説法された時、その意図は王を励まし、その心を四念処の重要性に集中させることにありました。この四念処とは、梵語のスムリティ（Smriti）に相当し、これは「念（おもい）」と訳され、四つに分けられます。第一に身念処（身の念処）は、身体を観察してその本性が空であると見ること。第二に受念処（受の念処）は、五受陰（五つの感受の集まり）を観察し、それらが空であって生じる所がないと見ること。第三に心念処（心の念処）は、心を観察して全ての法が生じも滅びもしないと見ること。第四に不絶注視（たえず注視すること）は、これら前三つの行法をしっかりと見つめ続けることであり、ゆえにこれは修行の門と呼ばれるのです。

諸佛者，已證涅般之一切佛也。

> 仏というのは、すでに涅槃を達成されたすべての仏のことです。

念之境相，為心不散馳。對法論釋云念，謂於慣習境，令心明記，不忘為體。

> 心を一つの対象に向けさせ、散り散りにさせないこと、それが「念」の働きです。『対法論』の注釈にはこうあります。「念とは、慣れ親しんだ対象に対して、心にはっきりと記憶させ、忘れないことを本質とする」。

對法論者，有宗之基本論，猶大智度論之於空宗也。

> 対法論は、有宗（説一切有部）の基本的な論書であり、ちょうど大智度論が空宗（中観派）にとって重要であるのと同じです。

入門教言竟。

> 入門の教えはここまでとします。

丙二　本文要義分三己一　通俗修法　己二　非常修法　己三　教言撮要初又分二庚一　修習專繫一緣之瑜珈，證取身語意清淨之境，即禪定之境。庚二　修習無生瑜珈，觀察動不動性，以證超世識體。初又分三辛一　緣於外物　辛二　不緣外物　辛三　最後寂靜之境初又分二壬一　不調息緣物　壬二調息緣物初又分二癸一　緣於尋常物體，如小球形物，或小木段。　癸二　緣於清淨法物，如佛身語意之表徵。

> 第二節　本文の要義（三分あり） 第一　通俗の修法 第二　非常の修法 第三　教言の要約 （初めのさらに二分） 第一　一つの対象に心を集中するヨガを修し、身体・言葉・心の清らかな境地、すなわち禅定の境地を証得すること。 第二　無生のヨガを修し、動と不動の性質を観察して、世を超えた識の本体を証得すること。 （初めのさらに三分） 第一　外部の物に心を寄せること 第二　外部の物に心を寄せないこと 第三　最後の寂静の境地 （初めのさらに二分） 第一　呼吸を整えずに物に心を寄せること 第二　呼吸を整えて物に心を寄せること （初めのさらに二分） 第一　ありふれた物、例えば小さな球状のものや小さな木片に心を寄せること。 第二　清らかな法の対象、例えば仏の身体・言葉・心の象徴に心を寄せること。

通俗修習之鵠的，為獲得塵世或天界之安樂，而非常修習之鵠的，則為超諸天超一切世界，與超生死之涅般。

> 通俗的な修行の目的は、この世や天界での安楽を得ることです。しかし、真の修行の目的は、あらゆる天界や世界を超え、生と死の苦しみを超えた涅槃（ねはん）に至ることです。

一緣者梵名 Ekagrata，心注一處義，即指深切集中意識於一物或一念也。無生者，藏語探達爾，（Todal）離於生之謂，或謂之涅般，別於生死或萬象也。是以無生瑜珈為證入無生之涅般道。不動性者，超世之真心，於動性或無常性之萬象，如為傍難者。動性擬之心念之生滅，下文當明。

> 一縁とは、サンスクリット語でエーカグラタ（Ekagrata）といい、心を一つの点に集中させる、つまり深く一つの物や思いに意識を集中することを意味します。無生とは、チベット語でトーダル（Todal）といい、「生まれないこと」、つまり涅槃（ねはん）のことであり、生死やあらゆる現象を超えた状態を指します。したがって、無生ヨガとは、この生まれない涅槃の境地を体得するための道です。不動性とは、世を超えた真実の心であり、動きや無常の特性を持つあらゆる現象に対して、まるで他人事のように揺るがない性質をいいます。この「動き」とは心の働きの生滅をたとえたもので、後ほど詳しく説明します。

超世識體，即涅般，或超生死之識體。

> 超世の識体、すなわち涅槃、あるいは生死を超えた識体。

癸一　今當宣示繫緣小球形，或小木段法。

> では、ここで、小さな球状のもの、あるいは小さな木片に注意を集中させる方法についてお話ししましょう。

球形物，不論其質，或木、或骨、或金屬、或泥土、或玻璃、或水晶、均可為用。木段亦不限形式。

行者之前，置一小球，或小木一段為所緣。勿任能知，馳離所緣，或試認為合於所緣，惟應一心緊繫所緣。

> 行者（修行者）は、自分の前に小さな玉、あるいは小さな木片を置き、それを「よりどころ（所縁）」とします。意識がそれから離れてさまよったり、「所縁に合っている」と勝手に判断したりせず、ただひたすら一心にその所縁に心を留め続けなさい。

所用木段，通常為竿形，植於山穴，或禪定所在地內。即以削尖之端，插入地中。

> 修行で使う木の棒は、普通は竿のような形をしていて、山の洞窟や坐禅をする場所に立てます。棒の先を尖らせて、地面に突き刺して使うのです。

能知者藏語顯巴（Shepa），心也，即起念或起知時之心，亦即見分也。

> 知識する者（チベット語でシェーパ）とは、心のことです。つまり、念いや知覚が生じる時の心、すなわち「見分」のことです。

觀想上師，如在頂門，與佛無異。以發菩提心文，向之祈求并加禱語如下。

> 師を頭上に観想し、仏と変わらぬ姿を思い浮かべる。そして菩提心の発願文をもって、その師に祈りを捧げ、以下のように加祷する。

深願賜予恩波，俾證大手印之無上利樂。塵世有情在無量數刼生死流轉中，必曾一度為母。是以母數無盡，正如虛空之無邊。發菩提心文所指之母。應作如是觀。其文如下：

> 深く願う、恩寵の波を賜わり、大印（だいいん）の無上の利楽を証（あか）したまえ。 この世の有情（うじょう）は、無量数の劫（こう）を生死流転するうちに、必ず一度は母となったことがある。 故に母の数は尽きることなく、あたかも虚空のごとく限りがない。 菩提心（ぼだいしん）を起こす文が指し示す母も、またこのように観ずべきである。 その文は以下の通り。

某等有情　一度為母，　迄至現在為數無盡，　恰如虛空　亦無窮盡。　皈依上師　如法身佛，　皈依上師　如報身佛，　皈依上師　仁慈化身。　謹皈依佛　至寶之尊。　願諸有情　心向正法。願諸有情　修行成就，　消除業障，　轉成正智。

> 私たち有情は、一度は母となった者たちも、今に至るまで数え切れないほど存在し、あたかも虚空のように限りがありません。 私は、法身仏の如き師に帰依し、報身仏の如き師に帰依し、慈悲の化身である師に帰依します。 慎んで、最も尊い宝である仏に帰依します。 どうか、すべての有情が正しい教えに心を向けられますように。 どうか、すべての有情が修行を成就し、業の障りを除き、正しい智慧に転じられますように。

三身為自凡入聖修行過程之三地。

> 凡夫から聖者へと至る修行の三つの段階。

恩波者，靈力之流。心靈之開展，由之激發。於修證大手印瑜珈無上利樂涅般正覺之行者，裨助極宏。如是恩波，流自住世或一切聖土內之上師，如為電傳。真實之心靈輸入（灌頂），即藉恩波之賜予，而成就也。

> 恩恵とは、霊的な力の流れです。心の開花は、これによって引き起こされます。大印のヨガという最高の安らぎと悟りを求めて修行する者にとって、その助けは計り知れません。この恩恵は、この世に生きる、あるいは浄土にいます師から、電気の伝達のように流れてきます。真の心の注入（灌頂）とは、この恩恵を授かることによって成就するのです。

禱畢，觀想恩波攝入自身。并想自心已與諸上師淨心交融。隨即心住如是相應之境，以能持久為度。

> 祈りが終わったら、恩波が自身に注ぎ込まれるのを観想しなさい。そして、自分の心がすでに諸々の上師の清らかな心と一つになったと観想します。すぐに心をそのような相応の境地に留め、できるだけ長く保てるようにしなさい。

行者必須先與世間上師相應，再由之而上，與歷代上師，一一相應，行法庶能安全而順利。蓋凡心必藉上師聖心滌之使淨，密與真心契合，以獲大成就也。

> 修行者はまず、この世の導師（師僧）と心を通わせなければなりません。そして、その導師を介して、歴代の導師と一人ひとり心を通わせていきます。そうすることで、修行の方法が安全かつ順調に進むのです。 なぜなら、凡夫の心は導師の聖なる心によって洗い清められ、密かに真実の心と一つになることで、大きな悟りを得ることができるからです。

定中所經，剎那剎那，任何境界，應即按時稟白上師，然後繼續住定。

> 禅定中に経験する、一瞬一瞬のあらゆる境地は、その都度すぐに上師に報告し、その後、再び禅定に入りなさい。

迫於疲勞，堅守所緣。禪坐之處，宜於遠矚。心如惛沉，亦依此法舉心使高，使不放佚。悼舉心生，宜坐禪室，降心使平。主要目的，在令身心暫得舒適。

> 疲れを感じたら、対象への集中を保ちなさい。坐禅をする場所は、遠くを見渡せる場所が良い。心が沈んでいたら、同じ方法で心を高く上げ、散漫にならないようにしなさい。落ち着かない気持ちが湧いてきたら、坐禅の部屋に座り、心を平らかに落ち着けなさい。大切な目的は、心と体を一時的にでも心地よくさせることにある。

久於禪坐，身心必勞，易墮惛沉之境。行者為清醒身心掃除障礙計，亟應逕登幽僻山巔，爾時遠瞻景物，視力復堅，心神爽適，可以繼續禪坐矣。

> 長く座禅を続けると、心身ともに疲れが生じ、どうしてもぼんやりとした状態に陥りやすくなります。修行者は心身を目覚めさせ、障りを取り除くために、まず人里離れた山頂に登るべきです。遠くの景色を眺めれば、再び視力が強まり、心もすっきりとして、再び座禅を続けることができるでしょう。

癸二　緣於清淨法物分三子一　佛像　子二　字相　子三　種子今初

> 第二項　清らかな法の対象による因縁（三つに分かれる） 第一　仏像 第二　文字の相 第三　種子（今、第一を説く）

佛像或為金屬體，或為布畫，或僅心觀佛像，煥爛金身，萬行莊嚴，圓滿相好，光輪環首，三衣加身，觀想常在面前。

> 金属でできた仏像、布に描かれた仏画、あるいは心に思い描くだけの仏像であっても、その黄金の姿は輝き、あらゆる修行の功徳によって荘厳され、完全に美しく整った姿をしています。頭の周りには光の輪があり、三つの衣をまとい、常に自分の前にその姿をはっきりと思い描きます。

子二　觀想月輪當前，大如指甲，上有吽字，細如毛髮。

> 子の二、観想において月輪を目前に思い描く。その大きさは爪の先ほどで、その上に「吽（うん）」の字があり、毛髪のように細い。

月輪為無明暗障逐漸消除之象徵，猶月之自昃而盈，黑黯漸失也。吽字通常象徵心之本性，惟此處則表語之本性（原以阿字表之），以僅為觀想之初步練習也。其義為「是」，或為「存在」。文中凡涉及觀想字相，均加註釋。西方學者志在瑜珈教法之實修，如有明哲指示，則藏文字母固可以譯音代之。禪觀要素，在觀得其宜，設能依教修觀，不論用何種字相，自得正確效果。惟如以譯音代藏文，則應如咒文之非先正音不可。

> 月輪は、無明の闇が徐々に消え去る象徴であり、月が欠けから満ちていくにつれて闇が失われるように、暗黒が次第に消滅するさまを表している。本来、心の本性は「ア」字で表されるが、ここで「フーム」の字を用いるのは、観想の初期練習にすぎないからである。この「フーム」は「是（これ）」または「存在」を意味する。文中、観想における字の形に関する部分にはすべて注解を付した。西洋の学者でヨガの教えを実際に修行しようとする者は、もし賢明な指導者を得れば、チベット文字を音訳で代用してもかまわない。禅観の要諦は正しく観ずることにあり、教えに従って修観すれば、どんな字を用いても正しい結果が得られる。ただし、音訳でチベット文字を代用する場合は、呪文と同様に正しい発音が不可欠である。

子三　觀想種子，大如荳形，橢圓如卵，光耀奪目，應即緣之。

> 三つ目。種子（しゅし）を観想します。それは豆（まめ）ほどの大きさで、卵（たまご）のように楕円形（だえんけい）をしており、まばゆいばかりに輝いています。そのままその姿に心を向けなさい。

大瑜珈師於火葬後，其屍架之灰燼中，往往發見石灰質物，形圓如珠，蓋藏型之種子也。羣視為聖力或菩提心自肉體顯現之確證，或為法身在報身應身體上之反映。是以應觀想之，如有淨光加被。

> 瑜伽行の大成者は、火葬の後、その遺体を焼いた灰の中に、しばしば石灰質の丸い珠のようなものを見つけます。これは、隠された種子のようなものです。人々はこれを、聖なる力や菩提心が肉体から現れた確かな証拠と見なしたり、法身が報身や応身に映し出されたものと見なします。ですから、これを清らかな光が加護されているかのように観想すべきです。

壬三分二丑一　金剛誦息　丑二　緣於壺形今初

> 壬三<note>二つに分ける</note> 丑一　金剛の息を唱える 丑二　壺の形に縁を置く<note>ここでは最初の部分</note>

金剛（或秘密）誦息藏語多傑兮台巴（Rdo-rje-hi-bzlas-pa），梵名嚩日囉耶巴（Vajra-japa），無聲數息之謂。下文當明。

> 金剛（または秘密）の読誦とは、チベット語でドルジェ・シーパ（Rdo-rje-hi-bzlas-pa）、サンスクリット語でヴァジュラ・ジャパ（Vajra-japa）といい、声を出さずに繰り返し唱えることを意味します。その詳細については、以下の文で明らかにします。

壺形調息，藏語盆降（Bum-chan），即指藏中所修觀想丹田為壺形之瑜珈法，詳見下文。

> 壺の形（蔵語でブム・チャン、盆降）とは、蔵伝仏教において丹田を壺の形に観想するヨガの修行法を指します。詳細は以下の通りです。

身心保持清淨之時，應排除其他一切想念，惟心觀每一息之出入，自初次默數至二萬一千六百次。如此，可使行者獲得善巧，以知每日出入息之次數。

> 身心を清らかに保つ時は、他のあらゆる思いを手放し、ただ心を一つにして、息の出入り（呼吸）を一息ごとに観察しなさい。初めの息から静かに心で数え始め、二万千六百回に達するまで続けます。このように実践することで、修行者は巧みさを身につけ、一日のうちに出入りする呼吸の数を自然と知ることができるようになるのです。

西藏高原，高出海平面，約自一萬二千英尺至一萬五千英尺，是以藏人肺力，強於尋常歐西人士。以高原空氣所含養氣，較低地為少，故藏人為攝取充分養氣計，吸入空氣之量，自須多於歐西人士，此實天使之適合於環境也。至藏人在指定之若干時間內，其吐納次數是否較我人正常所呼吸者為多為少，則非經試驗，不能决定。但無論如何，藏土上師以為在正常狀態下，每日二十四小時，約共應有二萬一千六百次呼吸，（即以出入息，共為一次），計每小時九百次，每分鐘十五次。數息之意，在使呼吸整齊合拍，以達瑜珈調體之目的。

> チベット高原は海抜が約12,000フィートから15,500フィートあり、高地という特殊な環境にあります。そのため、チベット人の肺の力は、一般的な欧米人よりも強くなっています。これは、高地の空気に含まれる酸素が低地より少ないため、チベット人が十分な酸素を取り込もうとすると、欧米人よりも多くの空気を吸い込む必要があるからです。これはまさに、自然が環境に適応させた結果と言えるでしょう。 では、チベット人が一定時間内に行う呼吸の回数が、私たちの通常の呼吸数より多いのか少ないのかについては、実際に検査してみなければ判断できません。しかし、いずれにせよ、チベットの高僧たちは、通常の状態では、24時間で約21,600回の呼吸（息を吐き出し、吸い込むのを1回と数える）があると考えています。これは1時間あたり900回、1分間あたり15回に相当します。数を数える呼吸法の目的は、呼吸を整え、リズムを合わせることで、ヨガの身体調整の目的を達成することにあります。

復次，觀想入息，起於何時，（出息後，須經若干秒鐘），息入時，是何狀况，并須思量，入息是否及於身體一部份以上。

> 次に、息を吸うときの観想についてです。息を吸うのは（息を吐いた後、何秒か経ってから）どのような状態で始まるのかを観察し、吸う息が体の一部以上の範囲に及んでいるかどうかもよく考えてみてください。

以如是修習故，心自隨息出入，（而得調和，若合符節）。如是，了知出入息之本性。

> このように修行を重ねると、自然と心が息の出入りに沿うようになり、（まるで符節が合うかのように調和がとれる）。こうして、出入息の本来の姿をはっきりと知ることができる。

藏土瑜珈行者，通常於息之如何出入，不甚明了，故教以如是推究之法。

> チベットのヨガ行者は、通常、呼吸の出入りについてあまり明らかではありません。そのため、このように探求する方法を教えます。

復次，心緣息之出入，細觀入息，如何自鼻端（經由鼻孔），達至肺稍。如何進入，并（在出息前）停留若干時間。

> 次に、心を呼吸の出入りに向けます。息を吸うとき、その息が鼻先から鼻孔を通って肺の先端に至るまでの様子を詳細に観察しましょう。息がどのように体内に入り、そして（吐き出す前に）しばらく留まる様子にも注意を向けます。

學人應知按瑜珈教法納入之空氣，其主要養生部份非係藉肺部功能，輸入血內之養氣，而為前文所示，心物賴以運行之氣流。

> 修行者は知るべきである。ヨーガの教えに従って体内に取り入れられる空気の、主要な生命維持の部分とは、肺の働きによって血液中に取り込まれる酸素ではなく、先に示したように、心と物質（心物）が活動するための気の流れなのである。

如是修習，自能如實了知，息之每一出入，是何色彩，須時若干，停留若干時間。

> このように修行を積めば、自然と如実に知ることができる。息の一つ一つの出入りが、どんな色彩を帯び、どれほどの時間を要し、どのくらいの間とどまるのかを。

入息時，納入之氣，淨潔晶明，謂為色淨。出息時，吐氣反是，謂之不淨。

> 息を吸う時、体内に入る空気は清らかで澄んでおり、これを「清らかな色」と言います。息を吐く時、吐き出される気はこれとは逆で、清らかではないとされています。

復次，應就體內五大（即地水火風空等大），分別細觀，勿使相混。觀時，應注意吐納次數之或增或減。

> さらに、身体の中の五つの大きな要素（すなわち、地・水・火・風・空）について、それぞれを細かく観察し、混ざらないようにしなさい。観察するときは、呼吸の数が増えたり減ったりすることに注意を向けなさい。

常泛反觀體內，使知各器管之組合與責司，以及氣流與熱流之表現與集中，莫非五大之作用。其純物質之成份為地大，液體為水大，體溫為火大，氣體部份為風大，較為微細之靈力為空大。如是修習，行者必自覺氣血之循環，各氣管之運行，心念之生滅，猶如目睹。縱以上來宣說之初步修習而論，西方讀者自將了悟瑜珈之為學，不僅須有崇高之心性，且需具有關於形體之高深智識，方能淹通之，以善巧調伏體內各器管之一切部份，及其所司，而用之於正也。

> 常に体内を観察し、各器官の組み合わせと役割、そして気の流れや熱の流れがどのように現れ、集中するのかを理解すれば、これらはすべて五大の働きに他ならないと分かる。その純粋な物質の成分は地大、液体は水大、体温は火大、気体の部分は風大、そしてより微細な霊力は空大である。このように修行を続ければ、行者は自ずと気血の循環、各器官の運行、心の念の生滅を、あたかも目で見るかの如く実感できるだろう。 以上に述べた初歩的な修行だけを取ってみても、西洋の読者は、ヨガ（瑜伽）の学びが崇高な精神性だけでなく、身体についての深い知識を必要とし、その両方を習得して初めて、体内の各器官のあらゆる部位とその働きを巧みに調え、正しく活用できるのだと理解するであろう。

次當觀想每一出息為白色嗡字，每一入息為藍色吽字，息在停留期間則為紅色阿字。如是出入息之每一部份，須若干時間，無待思量，當下便知矣。

> 次に、それぞれの呼気を白い「オーム」の字として、それぞれの吸気を青い「フーム」の字として、息とどまる間は赤い「アー」の字として観想せよ。このように呼吸の各部分がどれほどの時間を要するかは、思い巡らすまでもなく、その場で自然に知られるのである。

以心或肺所司，任運而行故，瑜珈方法，於出入息之時間，亦必使之自動合拍。

> 心や肺の働きに任せて自然に行うため、ヨガの方法では、息を吸ったり吐いたりするリズムも、自動的に調和させるようにします。

上來教言至前兩節止，雖僅涉初步修法，而於入門者之進修教法，全為必要之準備。此中嗡字，為佛尊聖力之表徵。白色則象徵清淨。出息如是轉成嗡字密音，并為所滌淨，即自運行世界，感應所及，無非悲憫仁慈。一般藏土人士并信凡大瑜珈師所吐之氣，一經吸入，則疾病可袪，惡業亦消。吽字者，象徵佛菩薩尊靈力之化體。應觀想之，如為喬答摩如來之靈力。當入息轉成吽字告盡之時，其在停留期間，復變為阿字，以表佛聲之本性，或如震動一切世界之聖音為佛語也。是以不論何人，聽聞瑜珈行者所說，不論何語，必荷靈澤，必獲法力。吽字之藍色，恰如無邊際之青天，象徵常存不變。阿字之紅色，則聖慈也。

> 以上の教えは、最初の二つの節までであり、初歩的な修行法に触れているに過ぎませんが、入門者の修行指導にとってはすべて必要な準備です。 このうち「オーム」の字は、仏や尊い方の聖なる力の象徴です。白色は清らかさを表します。息を吐くことがこのように「オーム」の密なる音に変わり、それによって清められると、自ら世界に働きかけ、その感応が及ぶところは、すべて慈しみと思いやりに満ちています。 一般にチベットの人々は、偉大なヨガ行者が吐く息を、一度吸い込むだけで病気が治り、悪い行いの報いも消えると信じています。 「フーン」の字は、仏や菩薩の尊い霊力が形となったものを象徴します。それを観想するべきであり、例えばシャカ如来の霊力として見るのです。息を吸うことが「フーン」の字に変わり終わる時、そのとどまっている間に、さらに「ア」の字に変わります。これは仏の声の本質、あるいはすべての世界を震動させる聖なる音としての仏の言葉を表します。 ですから、どのような人でも、ヨガ行者の語る言葉を、たとえどのような言葉であれ聞けば、必ず霊的な恵みを受け、必ず法力（はたらき）を得ることができます。 「フーン」の字の青色は、限りない青空のように、永遠に変わらず存在することを象徴しています。「ア」の字の赤色は、聖なる慈しみを示しています。

丑二　復次，緣壺形者，應用力吐出內部濁氣，移使盡絕，分三步行之。（一）自鼻孔，徐徐吸入外氣。（二）氣入後，觀想成為壺形。（三）使氣留住，以能持久為度。

> 次に、壺の形に依る修行について説明します。体内の濁った息を力強く吐き出し、完全に無くすために、三つの段階で行います。 第一に、鼻からゆっくりと外の空気を吸い込みます。 第二に、空気が入ったら、それを壺の形に思い描きます。 第三に、その空気をできるだけ長く体内に留めます。

所謂心者，恆隨息出入，念念轉變，以不能離息專其所司故，甚難控制。今依如是修法，可以調伏，不復倚息起伏。

> 心というものは、常に呼吸とともに出入りし、瞬間ごとに変化している。呼吸から離れてそのはたらきを保つことができないため、非常に制御しにくいものです。このような修行法に従えば、心を調え、呼吸の動きに依存しない状態に導くことができます。

此節藏本原文，意奧難解，今另說明如左。

> この節のチベット語原文は意味が深遠で解釈が難しいため、ここで別途説明を加えます。

通常一念所佔時間，等於一息，息轉變時，念亦隨變。心之調伏，本為難事，以依本節教法不斷修習故，當可成就，爾時，心即不再隨息而轉矣。世人竭盡所能，以保持想念之不變，而息之轉變，通常能造成想念之若干或少分變易，或竟使另起新念以代之。是以緣壺形修法之目的，即在於修心使離息而獨立。縱有想念起落，亦不為所影響。蓋心之造像，純因激蘯而起，激蘯既平，想念自止，心亦臻於本來如如之境。關於心息之互相倚托，印度奧義書言之詳矣。

> 通常、一念が占める時間は一息と同じ長さであり、息が変化するとき、念もまたそれに伴って変化します。心を調伏することは本来難しいことですが、この節の教えに従って絶えず修行を重ねれば、やがて成就することができるでしょう。その時には、心はもはや息について回らなくなります。世の人々は、想念を変わらせないよう全力を尽くしますが、息の変化によって想念にも多少なりとも変動が生じたり、時にはまったく新しい念が取って代わることもあります。それゆえ、壺の形に基づく修行法の目的は、心を息から離して独立させることにあります。たとえ想念が起こったり消えたりしても、それに影響されることはありません。心が描くイメージは、もともと揺れ動きによって生じるものであり、揺れ動きが静まれば想念は自然と止み、心も本来の如如たる境地に達するのです。心と息が互いに依り支え合うことについては、インドの奥義書が詳しく述べています。

辛二分三寅一　剎那念起，頓即根斷。　寅二　任念運行，不生分別。　寅三　心住清淨本性，想念來擾，不為所動。今初

> 辛二<note>三つに分かれる</note> 寅一　一瞬の念が起きると、すぐにその根を断つ。 寅二　念をそのまま働かせても、分別を起こさない。 寅三　心が清らかな本性に留まり、想念が訪れても動じない。まず初めに。

簡言之，即（一）立斷想念。（二）任念所之，不加制止。（三）心住圓妙清靜之境。

> 簡単に言えば、 （一）思いを断ち切ること。 （二）思いの赴くままに任せ、それを抑えつけないこと。 （三）心を円やかで清らかな境地に留めること。

依照上來教法，禪坐之際，以心隨激蘯而起念故，行者自覺百念叢生，連續不絕。既知一念之生，尚須抑制，應自作意，勿任雜念生起。是以於一念初起之時，應立即自根斷絕，續住於定。

> 上に示した教えに従って、座禅を行うとき、心は激しく揺れ動いて念が起こるため、修行者はさまざまな思考が次々と湧き続けるのを感じます。一つの念が生じたことを知ったなら、それを抑える必要があるので、注意を払い、雑念を生じさせないようにしなければなりません。そこで、ひとつの念が起き始めたら、すぐにその根元から断ち切り、続けて禅定に留まりなさい。

禪定時，力避起念，為時既久，終覺念起念落，接踵而至，為數無量，是為念之覺知，換言之即仇讐之發見也。如是境界，謂之初住，初住者，所臻最初寂靜之境。於是行者靜觀念起念落，不絕如縷，而漠然無動於中，如人止足河濱，靜觀洪流。

> 坐禅の際に、心に念が生じるのを避けようと努めていると、やがて次々と念が湧き起こり、また消えていく様子が無数に感じられるようになります。これを「念の覚知」といい、言い換えれば、煩悩という敵を発見した状態です。このような境地を「初住」、つまり最初に達する静寂の境地と呼びます。修行者はこのとき、絶え間なく続く念の生じ消えを、まるで川岸に立って激しい流れを静かに見つめるかのように、淡々と観察するのです。

瑜珈行者以心念難馴，視若仇讐。

> ヨガの修行者は、心というものは手なずけがたいものだと知り、それをまるで敵のように見なすのです。

原文初住一節，直譯之，為「是名初住，擬諸河濱，流水所經」。為宏暢真實意義故，唯有不嫌辭費，以意譯出之。易言之，瑜珈行者，如已順利到此境界，則心已離念而自主，可以進修高深教法，而趨於涅般之道矣。

> 初住（しょじゅう）の段階をそのまま訳せば、「これを初住と名づけ、川岸を流れる水の流れにたとえる」となります。しかし、その真の意味をわかりやすく伝えるためには、あえて言葉を尽くして意訳することをいとわないのがよいでしょう。 言い換えれば、ヨーガの修行者が無事にこの境地に達したならば、心はすでに雑念を離れて自らを主人とすることができ、さらに高度な教えを学び進め、涅槃の道へと向かうことができるのです。

一度心臻冥寂，縱為一剎那間，已能了解念之生滅。爾時，便覺想念紛至沓來，愈益增多。實則念來不斷，不增不減，頓時而有。離念而立能止念生起者，實相是也。

> 心が一度、深く静まり返った境地に至れば、ほんの一瞬のうちに、思い（念）が生まれては消えていく様子をはっきりと見極められるようになります。その時、かえって様々な思いが次々と湧き起こり、ますます増えていくように感じられます。しかし実際には、思いは絶え間なく現れているだけで、増えることも減ることもなく、瞬間瞬間に生じているのです。思いを離れ、その発生そのものをとどめること――それが、「実相」なのです。

一剎那間者，印度瑜珈師解云：三百蕉葉，一一叠積，舉刃一揮，葉葉皆截。其第一二兩葉截分時，相隔之期間，即為一剎那間。

> インドのヨガ行者はこう説いています。三百枚の芭蕉の葉を重ね、一振りの刀で一度に切り裂く。そのとき、上から一、二枚目が分かれるほんの一瞬、それが「一刹那（いっせつな）」だと。

實相，藏語丘涅特（Chos-nyid），非人類之心識，但為觀照念念相續之正知，僅至一真之境，方能悟證。如行者在此境界，與實相相應，并與心之本源契合，則念可使斷，如電機之轉換器，電流可以任意啟閉也。

> 実相とは、チベット語で「チョー・ニェー（Chos-nyid）」と呼ばれます。それは人間の心や意識ではありません。しかし、絶え間なく生じては消えていく心の働き（念）を、正しく観察し見守る智慧です。それは、ただ一つの真実の境地に達した時にのみ、悟り、証することができるものです。 修行者がこの境地にある時、実相と相応し、心の本源と一体化するならば、その「念」を断ち切ることも可能です。それはちょうど、電動機の変換器によって、電流を自由にオン・オフできるようなものです。

寅二　任念運行，心勿傾側之法，即置念於度外，任其所之。既不為念所左右，亦不勉使斷絕，務使心如牧人任羊覓食，而續住於定。如是念將不起，心臻清淨，而繫於一緣矣。

> \*\*第二に、心を自由に働かせ、傾かせない方法\*\* つまり、思考を気にせず、ただあるがままに任せることです。 思考に左右されず、無理に断ち切ろうともしません。 まるで羊飼いが羊が餌を探すままに任せるように、心をそのままにして、瞑想を続けます。 そうすれば、やがて思考は起こらず、心は清らかになり、一つの対象に集中できるようになります。

本節教法，與上節所示，似為相違。然於熟習瑜珈初步修法之行者，并不視為矛盾。以初步修法之全旨，在調伏其心，猶拉丁文之於學童，必須修習也。依照上節修法，行者將證悟，念與息同，純出自然。以人生理正常，心意活躍故，念與肉體相關連任何部份之運行，同屬不可制止也。本節修法，則引達實在目的地。爾時，能知現證超識，側立注視念念相續，任運流行，略無沾戀。

> この節で示される教えは、前の節の内容と一見矛盾しているように思えます。しかしながら、ヨガの初歩的な修行法に熟達した行者にとっては、これは矛盾とは見なされません。初歩の修行法の全体的な目的は、心を調えることにあります。それは、ちょうどラテン語を学童に教えるように、まずは基礎を徹底的に学ぶ必要があるからです。 前の節の修行法に従えば、行者は「念（おもい）と息は同一であり、まったく自然に生じるものだ」と悟るでしょう。なぜなら、人間の生理が正常であれば、心は活発に働くものであり、念が肉体のどの部分の動きと結びついていようとも、それを抑え止めることは不可能だからです。 一方、この節の修行法は、真の目的地点へと導くものです。その時、知る者（能知）は、識（こころ）を超えた現証（げんしょう）を体得します。そして、次々と生じては消えていく念の連なり（念念相続）を、わずかな執着もなく、自然の流れに任せてただ観察するのです。

復次，念猶閃動，有若流星。（閃爍天空，而連續不斷）。

> さらに、心のはたらきは流星のようにはためき動く。（空にきらめき、絶え間なく続く）。

念之動也，如為流星閃爍天際。又如發矢貫空。或如縷烟風前蕩漾，藏語以擬聲之「拳拳」（Khyur-khyur）一字表之。

> 心の動きは、まるで流星が空を走るかのようだ。また、矢が虚空を貫くように。あるいは、風に揺れる煙の如く。チベット語では、この様子を「キュル・キュル」という擬音語で表す。

如前禪坐，相續安住寂靜之境，名為寂靜中住，爾時清淨無擾，如水靜流。心任弛縱，心垢澄清。

> 先ほどの坐禅のように、静かな境地に途切れずにとどまり続けることを、「静けさのうちに安住する」といいます。その時、心は清らかで乱れがなく、静かに流れる水のような状態です。心を自然にゆるめておくと、心の汚れが澄みきっていくのです。

心垢者，想念也，詳見下文。

> 心の汚れとは、すなわち想念のことである。詳しくは下文を参照されたい。

正法大師云：心任弛則靜，水無擾則明。

> 正法大師がおっしゃった。「心がゆるむと静かになり、水が乱されなければ澄み渡る。」

文中未舉大師之名，然不為岡波巴大師，必為宗聖。蓋本文源出白系，而兩尊俱為禮敬分所指歷代白系上師之著名傳缽人也。

> 文中に大師の名は挙げられていないが、それはガンポパ大師でなければ、必ずツォンカパ大師である。なぜなら、この文は白系（カギュ派）の系統に由来し、両尊はいずれも礼敬分で示される歴代白系の上師たちの中でも特に有名な法脈継承者だからである。

瑜珈至尊（密喇熱巴尊者）云：心住本來不變之境，正知開朗，此境相續，有如靜流，圓智可證。咄爾行者，心毋造像，亦毋調伏，永持寂靜。

> ヨーガの至尊（ミラレパ尊者）は説かれた。 「心を本来変わらざる境地に住せしめ、正しき気づきは明らかに開かれる。 この境地が絶え間なく続く様は、静かに流れる川のごとく、完全なる智が証され得るであろう。 おお、修行者よ、心に像を造り求めるな。また、心を無理に調伏しようとするな。 常に静寂を保ち続けよ。」

莎喇哈大師於與禪定相關之雙重修法，撮其要旨，如下頌云：

> サラハ大師は、瞑想に関する二重の修行法について、その要点をまとめ、次のような偈（げ）で示されました。

心為束縛，流於十方。如任散馳，堅定不搖。因知心者，頑強如駝。

> 心は束縛のもと、あらゆる方向へ流れていきます。放っておけば勝手に散り散りになるこの心を、揺るがずしっかりと定めてください。心というものは、まるで強情なラクダのように頑固だからです。

寅三分四卯一　如紡梵線　卯二　如斷草索　卯三　如孩凝視　卯四　如象無覺今初

> 寅三<note>四つに分かれる</note>卯一　糸を紡ぐように　卯二　草の縄を断つように　卯三　子どもの凝視のように　卯四　象の無感覚のように<note>今、初めを説く</note>

心應持平，慎持之，如紡梵線。紡線，不宜過於緊密，亦勿過於稀疏，惟應平勻。行者坐禪，亦復如是。心毋太張，太張則念失調伏。亦毋太弛，太弛則懈怠必生。是以禪坐，心應持平。

> 心は、バランスよく保ちなさい。まるで糸を紡ぐように、慎重に。 紡ぐとき、糸はあまり強く張りすぎず、また緩めすぎず、ただ均等に保つべきです。 坐禅をする者も、これと同じです。心をあまり張りつめさせてはいけません。張りつめすぎると、心の落ち着きを失ってしまいます。 また、あまりに弛緩させてもいけません。弛みすぎれば、必ず怠けが生じるからです。 だからこそ、坐禅では心を平らかに保つことが大切なのです。

梵線者，印度梵族所佩，以誌別於他族也。相傳，梵線為童女所紡，紡時最極注意，以線斷則災禍臨。莎喇哈大師身出梵族，故用以為喻也。

> 梵線とは、インドのバラモン族が身につけるもので、他の民族と区別するための印である。伝えられるところによると、この梵線は乙女たちが紡ぐものであり、紡ぐ際には非常に注意を払う。もし糸が切れてしまうと災いが降りかかるとされている。サラハ大師はバラモン族の出身であったため、この比喩を用いたのである。

想念必須調伏，以心緣之，如為牧人，守其羊羣。

> 心の思いは必ず調え整えなければならない。心でそれ（想念）に注意を向け、まるで羊飼いが羊の群れを守るようにせよ。

禪定之初，行頓斷想念法故，心易緊張。行久則疲勞，應令心放弛，任意運行。

> 禅定の初めは、思考を断ち切る修行方法を用いるため、心が緊張しやすくなります。長く修行を続けると疲れが生じるので、心をゆるめて自由にお任せするようにしましょう。

註見寅二

> 「寅二の注釈を参照」

本宗所傳，張弛交用修法，今已說明。心之張弛，猶紡梵線之疏密，是以名為心應持平如紡梵線之境。

> 本宗が伝える、緊張と弛緩を交互に用いる修行法については、以上で説明しました。心の緊張と弛緩は、あたかも糸を紡ぐ際の疎密のようなものです。それゆえに、心は糸を紡ぐ時のようにバランスを保つべきであるという境地を、「梵線の如く心を平均に保つべき境」と呼びます。

卯二　令心離念，如草索裂斷時，此節離於彼節之狀。此法行者應以堅撓不屈之志，相續作意，心不他馳。以依上來教法，斷念時，新念隨生故。

> 卯二　心を念から離れさせること。 草の縄がちぎれるとき、この節（ふし）があの節から離れるように、修行者は、固くたわみ屈しない意志をもって、絶え間なく心を集中させ、心を他に散らしてはならない。 これまでの教えに従って念を断とうとすると、新たな念が次々と生じてくるからである。

上來修法，或止念之生，或調伏之，或任所之，修時他念不免生起。本節主旨，則在證得較勝冥寂之境。每一節草索象徵一念，而全索則示念念相續，如草索之應使裂斷也。

> 修行の方法として、心に浮かぶ念を止めること、それを調伏すること、または自然に任せること、いずれの方法で修行しても、他の想念が生じるのを避けられない。この節の主題は、より深い静寂の境地を体得することにある。それぞれの草の縄は一つの念を象徴し、縄全体は念が次々と連続する様子を示している。この草の縄を断ち切るように、想念の連続を断ち切るべきなのである。

上來教法止觀雙運，而新念生起，為定之障。

此時行者不待告知，當已自覺，進步究屬有限，與所期目的，相距尚遠。然終將了悟，欲求前進，仍須修習，一如體育家之成長，必須強其筋骨也。

觀與能觀，兩俱遮遣，令心住於隨順寂靜之境。此法名為令心斷離一切想念，捨棄加行，如是離法，以草索之斷裂喻之。

卯三　心如幼童，凝神而視寺廟壁畫。

心應繫於觀與能觀，如象之拴於柱石，如是，則氣流各自儲藏於自有之孔道內。

上文以心頑強難馴，喻如駱駝。此處視若滯重，不易揮動，以象擬之。氣流者，體內靈熱之支流，共為十數，梵名 Vayu 其字根 Va 作呼吸或吹氣解，蓋指靈熱之推動力也。氣流為陰性之靈熱，司人體內部及周身之運行，各有崗位，各有所司。行者最重健康，而健康則恃乎保持氣流之正常，或儲之於其運行之孔道內也。（見中有聞教得度密法附錄）

由修習此法所生果故，將見種種形相，或如烟霧，或輕清如以太，隨得大安樂，如欲暈絕。

靈熱由氣流推送流入之主要孔道，謂之中脉。本節所述之果相，即為氣流進入中脉之功效。除此心物兩質織成一因外，尚有與之平行之聖淨之因，即行者初次瞥見，不隨念轉之真心性境。如是大安樂境界，歐西謂為聖靈之啟發，實則得定之初果也。行者證得時，當下便覺，與真心及心源相應。甚深冥寂境界，由是生起。爾時喜不自勝，蓋已非凡而聖。與一真之境，冥合一體矣。次應愈益修習，俾力能任意出入此境。并於住境之時，逐漸加長期間，終於命盡之後，永住此境。或改行菩薩道，重入輪迴，導示其他有情，亦得解脫。

觀照身心能所俱遣，自覺輕安，如浮空際。在此境界，任何幻象異相之生，勿因愛憎而心起取捨。如是離於取捨。即名令心住於孩童凝視壁畫之境。

孩童於壁畫，毫無取著，逐圖瞻覽，自始至終，凝神而視，并不知次圖所繪何如。行者至此階段，必須習於此類期待而不取著之凝視情境。

卯四　令心住於象觸荊棘之境。

此法在使能知不隨生滅不絕之念之跳動而起。如象觸荊棘，以膚粗厚，漠然無覺也。

心寂生照，識亦隨起，「能止」（即上文以瑜珈方法攝入凝視狀態之識）「所止」（即不絕起落之念），兩相融即，前念後念，不再嬗遞。

既臻冥寂性境，潛在之識，（恐為正知）於焉跳躍，如為心脉之跳蘯，純出自動，隨念生起。念之進展，即為制止，不再轉成他念。

以能止自起，不勞尋求，故名為識流相續，自然起行之境。

此法令心住於如是之境，念起之時，既不止之，亦不為所動。如象觸荊棘，漠然不覺，因以名焉。

勝妙聖心，如如不動，無論身心有何感動，不起相應。本節瑜珈修法，應作如是解。惟此僅為消滅生死幻妄，以證實相之初步修法之一種。此時如有所證，仍不得謂為究竟。惟以妙明覺心觀照，終將悟證生死（生）涅般（無生），畢竟無二無別。換言之，念不念相，俱滯兩邊。迨至大手印瑜珈法純熟之後，方知其為融即也。

辛三　此際稱為最後寂靜之境，大海󵼣靜，水波不興，彷彿似之。

如是寂靜之際，以心臻靜止，雖觀念念生滅，不起相應，故謂之動靜隔離之境。

一切法之二性，僅為一真之境之是非兩相。動靜亦復如是。行者現正準備證取如是境界，具如本文後義所詳。

由此，行者已守一緣。

觀乎動靜，不異不離。彼能觀之慧，於行者體驗無誤之時，即為妙觀察智，或名出世之智。

凡心不離淨心瑜珈之旨，即在令心之凡淨二相相應。惟須俟心離於塵世幻妄而了悟本性之時，方能成就。妙觀察智者，涅般境界之菩提（或超世）識，依是，方知一切法之不一不異也。

詞藻經云：所達之地，因依如是修法，身心得殊勝調伏故，名為反照窮源之地。

詞藻經，藏名多德講（mdo-sde-rgyan），以經文詞并茂，故名。

庚二分四辰一　觀察動不動性　辰二　證入超世識　辰三　無生瑜珈三昧辰四　證入實相今初

寂不起照，（念念生滅，漠然不與相應），妙觀察智之力自生。行者依力觀察，心不動時，不動（或心）之自性為何。心如何住於不動，如何由不動而動。動時，是否保持不動之靜寂，保持不動之境時，是否尚有所動。動是否異於不動。動（或念）之自性為何。最後動如何轉成不動。

如是設問，玄妙莫測，類似禪宗初機所參之話頭。除用作觀心修法外，并可喚醒超越之智。

當下便知動非異於不動，而不動亦非與動相異。

若依是觀察，動與不動之自性，仍未參透，應再觀察，能觀之慧，與動不動性，是一是異。

如是觀察，行者以自證分了知空無所有。能觀所觀，不可分別。以如是不可分別之自性不可知故，所臻之地，名為心行處滅，或謂之言語道斷。

證入真實之境，則悟生死涅般兩相相即，不可分別，遠離世智妄見，不落文字言銓。此義與玄奧之般若頌所攝空（非相無體）不異色，色即是空精義，同其旨趣。依照歐西物理學家所發明，物質分晰之研究，已達物質化電子，電子化電能之時期。是則心法色法為一體兩相之古瑜珈宗義，終將為彼輩證實無疑。生物學方面，亦發見動植物兩類，已不復有界限可分。蓋低類生物，實具兩類共有之特性，植物學家列為草木類，而動物學家以動物視之。又化學之進程，可能使一切混合物體，變成非混合體之母素。是以瑜珈行者於推究心色二法，以求心之自性時，亦將明了自性無彼此之分，亦無色心之別，實係兼而有之。心或心行之一切相，不可謂為各各分別，恰如生命物質雖呈現萬象，而其體惟一也。瑜珈上師每語其徒云：燈焰生光熱，而油以竭。彼燈焰、彼光、彼熱、彼油之竭、四者為相離乎，或可離之事物乎。於是瑜珈行者得以逐漸證悟心與識之無量相，純為真心真智之輻射。然如是造詣，尚未究竟，僅能了解心之細塵耳。非俟如露零晴海然，轉有為心為無為心，證得超識境界，方臻涅般之果也。

勝者主云：

心著正的，縱正亦幻。超心如如，勿謂正的。能見可見，永不相離。上師惠示，方悟真諦。

勝者主，藏語嘉惠旺波（Rgyal-vahi-dvang-po），梵名 Jinendra，藏土大手印瑜珈大師之一。

正的者，藏語達瓦（Ita-va），梵文為 drishti，頂點或意想所及處也。如如之境，非生滅心觀照所及，故非生滅心安立之名言所可銓說。是以生滅心所認為之正的，終不能出生死範圍。縱達此的，亦為幻妄。今所尋求者，為非生滅之涅般。既屬超世，實不能謂之鵠的，蓋為現證已入非生滅涅般之境也。

關於上乘觀法，智者靜天曾開示云：當爾堅住寂靜三昧，縱為剎那，心勿散馳。并復運用妙觀察智，於念起落，分別細審。

靜天，藏語喜瓦喇 Zhi-va-lha，梵名 Shanti deva，印度大手印瑜珈學之闡釋家也。

迦葉所問經，以火與薪為喻云：

薪摩彼薪，火頓出生。以有此火，二薪為焚。動靜相融，勝智亦起。智既出生。動靜泯滅。

迦葉所問經梵名（Kashyspa-Paripriccha Sutra）藏名宛宋紀詩貝都（Hood-srungs-kyis-zhūs-pahi-mdo）。

如是以勝智反觀，名為隱修善觀察三昧。迥異惟智論者之禪觀，以彼觀察，僅為外在之色塵，或為待乎感覺而起。

易言之，隱修之瑜珈行者，不藉文字名言而起觀，純在自心中尋求證悟。惟智論者，則適與相反，以永昧於心之細相故，僅以欲界或外在世界，以作比量耳。是以名為外道禪定，與隱修者之內證禪定，實有分別。於此，密喇熱巴尊者云：老衲向不珍視或致力於文字名言所起之智，以其僅屬巧言眩俗之說，徒擾人心，非為導入確證實相之修法也。

辰二　任何想念暗障之起，毋須捨棄，亦毋為所支配，任其生起，心勿傾側，於其起也，觀之而已。如是久之，以念未捨棄故，其實相（或空相）自然呈現。

行者如此，亦應依前導示，凝視所起之念或情緒，毫不為所左右，雖離於念，如觀劇者離於舞台上之優伶然，其離也，應為漠然無動於心之瑜珈離念修法。

牧人知其羊羣不易調馴，任羊嬉游，守伺在側，心不為移，亦不偏傾。雖任羊放草，嬉戲自如，而羊固在望，牧人心亦未嘗忘之。

依此修法，一切似為啟發心靈之障者，均可善用之以為行道之助，是以此法名為轉障為道。

耶教徒於人之艱苦災難，視為有裨於心性。此節所攝之意義，頗與相似，惟為瑜珈教法故，較為繁複耳。瑜珈上師之闡明此義者，以意度之，或約略其詞曰：游子夜行羊腸小徑，忽爾止步旁躍，狀至驚駭，呼有巨蟒。迨驚心稍定，緊握竹杖，取火視之，則盤旋於途者，草索而非蟒蛇也。乃曰噫，是正余所需以束腰者也。蘧拾之束於腰際，仍復前進，惟自慚其迷惑耳。迷之為蟒，正解起時，悟為無害，反成有用。凡屬有為心之運行，亦復如是，其為無害而有益者，在無明暗障未除（不悟正知）之際，視之適得其反。生滅之念，與其所起之觀感，如以大手印法鍛鍊轉變之，則立與法身之真心相應矣。瑜珈行者，於證悟之時，方知念者如色法故有。實自周徧真心流出，不與相離，最初視之，若仇者悞矣。行者如是窮源反照，於一切色法，藉瑜珈力，漠然無所取著，身心舒泰，住於寂靜無上三昧，於念之起落不絕，任其自然，不加制止，如是行之，念動自然合拍，與真心之翕闢相應。山河大地者，即真心翕闢之果也。是以想念雖似為道之障，而行者善用之足以為助也。其他一切障道之法，亦復如是。蓋依圓覺聖哲之所照見，一切生滅法，或如無形之念，或為有相之體，咸為一心所生也，詳見辰三。

唯觀於念，了知能捨（即心）所捨（即念），性不相離，獲得解脫。此法為勝道修習心要，或名窮源三昧。

已得解脫，於一切有情猶未明心見性，頓起無限悲憫。

行者至此境界，已由有涯常我塵心（或識）進展至無量無我真心或識。今應修反觀之法，即自真心，不偏不倚，無我無私之立點，以觀察有情之心，即大比小，照見一切有情，迷於有涯幻起之心而未悟真心，大悲於是乎起矣。

行者終其身，致力修觀，身語意迴向眾生，以依上來修慧教法，已悟色法非實故。如是顯為自利之迴向，於彼不足為害，如服密咒加持之毒物，不為所傷也。

設於迴向，觀想如為因己而起，則一己獨立存在之妄見，隨之而生矣。是故行者於一切眾生無二無別之真諦，應信證不退。反於是之信心，猶為毒物，應即避之。而正信則為密法加持之毒物，或為毒物之對治也。是以迴向者應視若當然應為之事，切勿計及自身。於此，除哲理外，應知健身瑜珈有特殊修法。藉法吞服一切種毒，無害於體。據傳如是毒物，即係經過密法加持者。換言之，毒物以按瑜珈鍛鍊，輸入靈力，毒性為消，轉為無毒也。

為審慎修習此（類似自利迴向）法故，祈禱文式，特有規定。今述其一頌云：

行道所見，余無取捨。

祈禱聖師全文云：

行道所見，余無取捨。惟願上師，准賜恩波。一切色塵，緣起故有。俾得證為，法界之性。

恩波者，具如他處所明，為自佛剎及淨土內諸上師在灌頂時流入塵世門徒體內之靈力，如為電傳，裨助極宏。法界之性者，法身所化之三相也。（詳見中有聞教得度密法編者原敘）今就禱文所攝之觀點，解釋如下。（甲）周編之身，即一切形相（上自超生死佛身之妙相下至最低類生物體相）同一本原之象徵。（乙）周徧之語，即一切音聲（上自佛語下至自然界四大之元音）同一本原之象徵。（丙）周徧之意，即一切識覺（上自證覺者完全開朗之心或識下至極微生物之自然感覺功能）同一本原之象徵。

辰三分三巳一　觀察三時巳二　觀察心色巳三　觀察一多初又分二午一過現未三時　午二　生滅時之非實今初

觀察三時，當如下說，過去之念已滅，未來之念猶未出生，自屬無體。當前之念，亦不能確認其為現在。

當前之念，停住時間，不過剎那，隨起隨滅，實難說為現有。其實與未來之念，性不相離，以未來念起，即成現在故。與過去之念，亦不能分離，以現在消逝，成為過去故。是以現在與過去未來三時不可分別。如是禪觀，意在使行者證悟過現未三時，無二無別，并使了知塵世時間觀念之謬悞，以時間正如其他一切生滅法，純為幻化故。

依是觀察，久之自能了悟一切生滅性，不異三時之性。

心未啟迪，所緣一切僅為如幻不實之相。但已獲成就之行者，照見一切法之本性，則知其為法界不可分離之部份。依照下節所示，一切如幻而有者，唯心造故，妄念差別故。

一切法本無，因心所現故。

此節如再直譯之，可為「一切法離心無生，心生故。」換言之，一切生滅法，離超世真心外，了不可得。山河大地者，真心翕闢所顯之用，印度教謂之大梵之夢，蓋指其為夢之境界耳。大手印教法者，即以促使行者自此生滅夢中醒覺為目的，其他一切真實瑜珈教義，亦復如是。

午二　莎喇哈大師於悟證生滅時三者自性皆空時，有偈云：

生滅時間有譯為生滅住者。於此，應知東方大智哲於相對論學理，早着先鞭。蓋生滅時者，對心立名，心有故有也。

生之於色，如空雙遮。色若遣離，尚何云生。無始來時，性本無生。荷師顯示，妙諦今證。

空者，此處以非此非彼喻之，非為如妄心所對之欲界色塵可以計度差別之相，是以不陷兩邊。色法實有之妄見，既經證覺之瑜珈行者遣離，以其如幻不實，且僅待於心未啟迪者視為實有而有故，則生者待色而起，自亦遣除，或轉成不陷兩端之中道，如為無可差別虛空之性。於是於證取如是境界時，同時了悟一切生滅時見，純為生滅性，或本無自性。

禪觀之法，應依此頌行之。

巳二　觀察心色修法如下，心者為成自色法而有乎，抑非成自色法而無乎。如為色法，成自何色。如為外在境界，是何相狀，是何色彩。如為內慮功能，亦如念之剎那生滅乎。如非色法，如何作種種相，又其如何生成。

如是觀察其心，如屬色法，自可視為實在。但以勝慧觀照，便知所謂心者，了不可得，是以不得謂為成自色法。再以勝慧觀察，非為色法，亦非空無，如是非色亦非非色，不落兩邊，名為中道。

中道者，梵語瑪底牙密嘠瑪嘠（Madyamika marga），藏語烏美藍（Dvumahi-Iam）。佛教中論宗，以中道義得名，不落是非兩端也。巴利經藏雜阿含經之雜集因緣品云：是為一端，非則另一端，如來避於兩端，說中道義。

如是堪證之實相，除需有上師導示外，僅憑演繹與歸納方法，心不能達。譬諸無價之寶，唾手可致，而自未注意。上師之導示，即使之注意也。是以如是導示，亦名大法。

茲倣上師親傳式，概述如下。誰為能觀。能觀者，勝慧亦即超世之識也。所觀者何。所觀者，靜與非靜，不動與動也。勝慧何自而生。勝慧者，生於一切心融即之一心也。何者為心。心者不可見，無自體，心行處滅，言銓不及，無生無作，蓋實相也。縱經諸佛親證，既未眼見，亦非其他五根所能明，輪迴（六道有情所居）涅般（圓覺佛道境界），以是為因，從是分界，故并無實體。非異非一，超絕兩端，須經修習此中所說上師導示後，方能證為中道。

古德云：

上師導示，深印心田。寶藏不遠，藉此可見。

內心者，一切真實財寶之源，人以貪戀塵世，尚未發見。人既不知本來面目，又為無明驅使，不斷流轉生死。以上師導示，始獲解脫之道，猶寶藏之為人忽視也久矣，上師啟示，方顯無價之珍。是以虔誠學人，擺脫塵世，出家修行，則涅般之果可致矣。

巳三　今當宣說一多之觀察。

心者為一為多。如一，現見有種種相，如何是一。若多，則一切法本性無二無別，如何是多。

心者如人所知為一體而有感受，了解、計度、憶念、識覺等種種相。如是等相，世俗謂離於心，而各別存在。然以真諦察知，實為空性，即與真心不可分離之一性。易言之，宇宙大心者，一切法與之相應，不一不異。宇宙小心者，其反映也。

如是觀察，使知心者非多。既離於（一多）兩端，名為不住於完全寂靜（或終滅）之大手印境。

不住於完全寂靜之境者，即不住於涅般安樂之境，藏語喇都米那巴（Rabtu-mi-napa），以大手印為象徵，中觀宗，藏名烏瑪巴（Uma-pa），謂為實相，或空相之無上境界。該宗釋云：空相者，非無非有，亦非非無，亦非非有，文字言語，不能銓說，以文字言語純為感於欲界境相而起之妄見所安立，而實相者，離於欲界之境相也。大手印上師，信受如是中觀義理故，教人勿以涅般為止境。彼證涅般者，住於常樂我靜，純為自利耳。換言之，涅般者，非為自利，應為利他而證，庶一切有情，得同臻此境。是以藏土之企冀聖智，求證所謂涅般之正覺者，咸發願為菩薩，或大導師。願文大意為「具願者非俟一切有情（下自地球及其他一切星球上最低類亞人生物，上至諸天中未證覺之最上神人以及地獄受苦眾生，）盡渡生死海，而登彼岸，不入涅般」。南方佛教徒，於獨覺羅漢證得涅般時，往往視之為止境。而大乘佛教徒則謂，涅般者，心在覺性進化後，所臻之境。惟以進化常在嬗遞，不可謂為止境。如此則涅般亦不能視若最後之地也。

行者如是證得寂靜三昧，勝慧妙觀察智獨自顯現。是以大手印（或謂實相）名為無分別三昧。

辰四　由於上來修法，一切信為實在之迷執，已自心滌除，眼見者盡為幻妄，如燈幻形。

是以經云：

前後觀瞻，徧及十方，目所能擊，如如而已。上師加被，妄執已除，自是而後，於人無求。

巳二　非常修法分二未一　轉不可分離之一切色與心，為一體之瑜珈。　未二　一切法藉俱生無垢心（或大手印）之力，得以轉成法身之無禪瑜珈。初又分三申一　藉睡夢之喻，了悟色即是心。　申二　藉水冰之喻，了悟萬象本體無二無別。　申三　藉水波之喻，轉一切法為融合一性之境。今初

無禪瑜珈藏名貢美吉那爾倦（Sgom-mod-kyi-rnal-bhyor），指較高之瑜珈境地。在此地內，所謂禪定之轉變者，與禪定喚起之勝慧，俱時而起。禪定者，本為證取如是頓覺境界之方法。證入之後，禪定不復需要，猶之行人，乘筏渡河，既達彼岸，則筏無用矣。

夢中所見，不離於心。是以醒覺時一切色法，僅為無明迷夢境界，離心亦無自性，以心幻成故。

世人沉溺生死海中，其智所及，不出感覺即欲界比量而得之知。其實一切塵世之知，均非真實，復因深著我見，真智為遮。是以瑜珈行者名之為無明，（梵語 avidya）惜迷妄之眾，顛倒夢寐，水深火熱，不知妙覺解脫之道耳。

任何念起，或幻想之起，以輕安之心，任運觀照，自悟一切外在色法，與一己之心，及其內在色法，一一不能分離，立即轉成一真實性。

瑜珈之主，密喇熱巴尊者云：

昨夜所夢，色心不異。夢為導師，爾等知否。

古德亦云：

三界轉變，成大悲心。無有少分，不隨轉變。

佛教徒分世界為三界，即欲界色界無色界也。

轉變者，為一種不可思議之變化進程，藉瑜珈方法修成之增上觀想而起，旨在助成行者於心性上，證入所求完全利他之菩薩道。行者修習之時，上師導示，約略如下。三界形成之世間，應觀想為一體之兩相。世界之動相，視若佛父。藏語（yao）此土謂陽，智相則視為佛母，（藏語 yum 此土謂陰），觀想兩者相合，（藏語 yab-yum 陰陽也）不可分離。瑜珈行者之鵠的，即為證入如是聖淨之一體，所謂大手印法者是也。行者達此時期，上師或概示大手印教法如下。「以證入超生死無常與苦之實相，了悟心色萬象本體以及一切對立之兩相，實出一體，不可分離故，頓臻圓覺利樂。如是既臻實相，位躋菩薩，於一切有情之沉沒無明，不勝悲憫，誓願濟拔之，重睹法界光明」。是以行者於已入大乘菩薩道後，大悲心智，自然出生也。

申二　現起萬象，（或萬象所呈相狀）以無自性故，可謂為自本體流出，雖非實相，而宛然有相。如是萬象本體，永久融合，同屬一性，猶水之與冰，一體而兩相也。

換言之，萬象者，出自真空，即本體之陰影或為萬象之本源。全部大乘表徵中，其最為歐西學者所悞解者，莫若佛父母交泰之相。實則如是之相，象徵萬象與本體，本屬一體耳。蓋一切兩相，縱如可想像之生死涅般最高兩相，均為一體之徵也。

依是修法，便知安樂之與真空，明光之與真空，智慧之與真空，三者雖各為兩相，實皆相合之一性，是以名為一切心行融合一體之現證。

每一兩相中，空者，一切心行（縱為細塵）所由起之本體也。樂者，正覺之樂也。明光者，內心妙明也。智者，聖智也。

融合一體，即陰陽之表徵。

經云：

如人了悟，一切如如。如如之外，不見一切。念誦記憶，無非如如。即所觀想，亦為如如。

申三　以波生自水故，一切法之如何由以空為自性之心出生，可以知矣。

莎喇哈大師云：

森羅萬象，唯心造故。以是知心，無異上師。

按諸各宗佛教基本義理，人間上師者，僅如大導師喬答摩如來之為導行者而已。求涅般正覺者，必須以身作則。以踐道者，為其自己而非上師。如人之飲食，純為自身營養也。且如世尊所示，朝聖者於朝參旅途中，實應以自心為光明，以自心為歸依。蓋涅般須行者躬自證之，非上師所可代證也。

此法名為周徧法界之一法，又為一中顯多。行者於成就之後，一切心行，皆證為空，蓋智慧之果相也。

法界者，梵名 Dharma-dhatu，藏語秋吉蔭（Chos-kyi-dvyings），直譯之為法種，

未二　今說一切法藉俱生無垢心或大手印之力，得以轉成法身之無禪瑜珈修法。

應滅無明，既已消散，能滅亦止。所謂修道，已告成就，如旅行之業已完成也。

旅行既終，則終點之外，別無可詣之處。行者於是獲得大手印之殊勝利樂，證入無住涅般之境。

藏語米內拜（mignas-pahi）此云無住，妙孃來台巴（mya-ngan-las-hdas-pa）者，遠離於苦之謂，即梵語涅般之藏文正譯也。涅般既臻，輪迴道絕，涅般之外，別無去處。蓋涅般非實有其地，亦心之境界而已。惟按諸上述大乘佛理，進化遞嬗，永無止境。是以涅般惟應視為心靈在永久進程中所遇休止之所耳。覺者於生死涅般二者，不生分別，住於涅般，亦住生死，二者於彼，復非所住。若以涅般為所住，換言之，若視涅般如賽米族人信仰之天堂，為終止之境，則此外進展，即無可能矣。

上來已述諸佛菩薩不入涅般，願住世間，利樂一切有情。爾許菩提心力，如是加被世間，其迷妄之毒，將於諸刼期內，逐漸消歇。并藉諸佛菩薩廣大周徧之悲心，導使世人逐步進趨，至於至德之行。在無盡之未來，我人不難想見，如是佛菩薩悲力，於世人之求生存苦，終將一旦消除之，化惡為善，并以聖智之光，消散無明。三界如是轉變，則生死涅般，融即一性。於是一切有情，咸證大手印利樂，生死流轉，永久終止，眾生盡入涅般，證取不可思議之勝果。

巳三　教言撮要

大本生死變易法中，那洛巴尊者，援引其享有盛名之上師諦洛巴尊者之語如左：

此法在藏土屬諸論藏，宣說變易遷移身識往生他土之密法。書之全名，為「那洛巴尊者超世勝法，善入大乘妙道，變易遷移身識導示錄」。本文所引之頌，係說明成就大手印瑜珈之行者所經之境。關於尊者遷移識體法之精義，詳見那洛巴六法，（（一）靈𤍠法，（二）幻身法，（三）夢境法，（四）明光法，（五）中有法，（六）遷識法，）及遷識瑜珈。

美哉斯慧，妙悟自性，言銓不及，非心所緣，余於此外，復何宣說。藉爾心印，了悟自性，令心安住，本性之境。慎毋作意，思量觀察，須禪觀，亦毋反省。

心印者，指純以象徵傳授之法。行者於灌頂之時，或已受持於心矣。

如是頌言，為上來一切教法之心要。

本文教言竟。

丙三　結述分三酉一　了悟大手印，并與之相應。　酉二　踐道時，觀察障碍，與三悞四迷。　酉三　體驗與實修所生之知，異於理論或因名顯義之知。今初

了悟大手印并與之相應者，層次有四。（一）達於寂靜之境。（二）修時體驗，應善用之。（三）種種體驗，與煖等四加行，以及道上所踐之各分位，應一一區別之。（四）證得如是造詣之果相智，應保持之。

了悟大手印并與之相應者，換言之，即行者不僅必須了悟其教法，且應超絕世智，親切證入。

達於寂靜之境者，原文直譯之為樹立基礎，意謂行者必須以寂靜之境，為行道之基礎也。

修習瑜珈至某一分位時，行者經歷煖，頂、忍、世第一法，四加行相。煖者，如火燒盡色心之妄執，助使行者證知實相，隨初見道時而起。頂者，實相在完全呈顯前閃發之最高度。實相光現，無明暗障消散。此後因聖智煥發，道心堅定。於是行者以忍加行力，進修至於世第一法，即所謂涅般也。

如是四層次，為成就瑜珈之要素。

酉二　踐道之時，觀察障碍，與迷悞修法如左。

色法為障，心為之擾，了悟心色不二，障碍自消。念起為障，了悟念與法身不二，障碍為消。本體起障，了悟本體色法非二，障碍消除。

心以為障，始謂之障。入道之初，心未啟迪，以執一法為障，銳意除之，身心不安矣。

證入法身，或法界，或實相之際，頓覺念起念落，任運而來，與一切法之節奏，自然合拍，是以與法身無別。法身者，一切法泯滅其中，融為一體，至為玄妙也。

於禪定所生冥寂之相起執著故，致有三悞。防止之法，行者之心靈進展應指向體驗之超世正見境界。

三悞者，（一）於觀察念與念之遷流，起執著。（二）於如是觀察所起反映，起執著。（三）於心之寂靜境，起執著。行者於三悞中，堅著一悞，習以為常，進修即無可能。行者中有執著於心之寂靜之境者，而以修習健身瑜珈行者為尤甚，設無大智上師獲持，不求前進，往往迷惘愈增，悞為得道。以有如是原由，上師之責，不僅在於教義之闡示，且應將修道種種陷失，以及未成就前，中途必將經歷無數感官上之幻象等，深深印入門徒之心也。

超世正見者，實相也。證入之後，幻妄不起，蓋與禪定之際迴不相同也。

行者於修道時，易於迷入歧途者有四。（一）迷於空，應觀空如大悲心，以對治之。（二）迷於固步自封，（即令心不進證實相）。應證知一切法之自性以對治之。（三）迷於能止，（試止念之起）應悟證能止所止，一體非二，以對治之。（四）迷於所行之道，應了悟俱生大手印，并獲得解脫，以對治之。

迷於空者，起自自利之念，如云：余將不再投生人間，此為余住世之最後一次，余將永離生死，余已證果，余已證得涅般等語。非俟一切人法我見根除，轉成無我廣大利固步自封者，藏語健兌（rgyas-hdebs），封閉為義。蓋指自我主義為最極重大之謬悞，或指人於所得所解，自謂完滿無誤之妄念。如是閉塞心路，不再進求實相，則心靈進展，自無可能，以是謂為智哲者之絕途。且歷經證明為各宗教團體之極大弱點，各宗教之衰敗，亦由於此。蓋各教引經據典，無不以經文所示之真理為圓滿，為究竟也。

學人先經導示止念之起，隨悟念者，不僅不應制止，且用力止之，念反增多。故其次修法，即為停止一切制念之力，令心住於能止之境。恰如孩童之應升較高學級，而反留讀於幼稚園也。

俱生大手印，亦可解作法爾淨心常恆之境，證此心時，即得解脫，特塵世之庸眾不悟耳。一旦解脫，則於所行之道，不再迷執。然行者中有於證果之後，仍好重溫修法，或追踐所行之道者。此殆由於彼輩之偏嗜瑜珈法門而起，如能永住解脫之境，其患自失。

酉三　體驗與實修所生之知，異於理論所起之知，修法如左。依於聞思，而明了心真實境者，僅為理論所起之知。了知一法異名即心真實境者，為體驗之知。如實通達真心，直了無生者，方為信證。惟圓智之名，須俟與圓智相應，庶不相違。

一法異名者，指行者修時所證之心境。以小宇宙心返至本來真實之境時，乃一無垢無擾，如如常流，之識體，不生不滅，起自法爾一心，仍還諸法爾一心也。

以己體驗超越境界故，內心證知，目的在未成就前，宛然在望，行者於是完全信證，實有目的在前。如人於旭日未升前，先見晨曦，確信日之必升也。易言之，虔信學人，在未究竟證得無生之涅般前，深信無生可以證取也。

大手印瑜珈法要，本文竟。

乙二　造文因緣

以下為本文之來源，如木刻本第七葉第二面及最後一葉所載，為一饒有興味之故事。

藏喀國王，名鑽芬藏波者，發願將大手印法要，與那洛巴尊者六法，編成標準經文，以價值九千六百盧比之紅花，供奉編者。（即王之上師，名白蓮花祖師。）編者以本文顯有甚多擅改篇段，混充錄自各經論者，經於編時盡行刪除，以大都難以徵信故。滲淡經營，方成此書。以之流傳，溥利未來有情。編時，編者方閉關虔修心要於喀珠南山中，地名圓覺之心。

願斯流出利樂吉祥

本節尚有加註如左

為廣增法益故，確嘉鎖南嘉藏居士捐獻本文本刻版鎸費，每版銀幣一枚。

藏喀者藏語 Zango-dkar 意謂白銅，地當喀什密爾與拉達克兩地之間。鑽芬藏波之名，源出梵文，譯為 yzhan-phan-Bzang-po 漢義善巧助人。王效法世尊，棄國修行。

那洛巴尊者六法，亦為白蓮花祖師所編。

喀珠者藏語 Mkar-chu，西藏南部之山嶺。北望拉薩，東接不丹國，位落洛達滄波縣，江水橫流，以縣名為名。

圓覺之心，藏語為占居寧波（Byang-chub-snying-po），似為隱修所在，或為與村落不通往來之地名。

確嘉鎖南嘉藏（藏語 Chos-rgyal-bsod-nam-rgyal-mtsham）者，此翻為持吉運旗法王，恐為某貴族，兼為虔信居士之尊稱。

本書計有七葉，每葉長英尺一尺九寸有半，寬四寸。前後面分印，共為十四面，刻成十四木版。故某貴族居士共捐獻銀幣一十四枚。